山田詠美 著
私はドアの前にしゃがみ込んで外の音も聞き洩らさないように耳を尖らせた
車のドアを閉める音。スブーンが車から降りて来たかもしれない。酔っぱらいがゴミ箱をけ飛ばす音。スブーンはよくそうして道路を台無しにした。きっと彼に違いない。隣の学生が帰宅して鞄の中の鍵を探す音がする。まさか扉一枚隔てた一メートル以内の所で一人の女がグラスを握りしめて座り込んでいるとは想像もつかないだろう。
惨めな気持ちがアルカセルツァの泡のように胃の底から噴き上げてくる。彼の顔を見たらどんな風に蔑んでやろうかて、私は思案にくれる。どんなに汚い言葉(カスワード)をぶつけてもあの育ちの悪い大馬鹿にはこたえないだろう。それが彼の日常語なのだから。
疲れ果てて感覚もなくなったわたしの耳に入って来たのは、毎日私を脅かしていたあの鍵の音だった。開いたドアの隙間から、あの黒い下卑た顔が覗いた時、私は立つ気力すらなく座り込んだままスブーンを見上げた。スプーンは私を抱き起こし外の冷たい空気を運び込みながら私に接吻した。
「こんなになっちまってよお」
小さな赤ん坊がするように彼は私の頬をつねったり、唇を指の先でクリップのようにつまんだりして顔を滅茶苦茶にした。私は今の気持ちを伝えようとしたが言葉にならなかった。
「何だよ。英語を忘れちまったのかい、はん」
私はジャンヌ・モローのようにふてぶてしい笑いを浮かべようとしたが小娘すぎて不可能だった。
「愛している?」
スプーンの返事はない。いつも、当たり前(オブコースイエス)だよであっけなく受け流される、私たちの間の一番軽くて意味を持たない言葉。それが口に安易に出せない濃度の濃いものに変化していくのが解る。私は下を向き耳朶のピアスを外して、手に握りしめていたジンのグラスに落とした。怪訝そうに差し出されたグラスを見詰めるスプーン。私はそれを彼の白い鍵盤のような歯に当てた。チン、という澄んだ音。
「乾杯(チアーズ)」
私はスプーンの歯をこじ開けて透明の強い液体を注ぎ込んだ。ジンは彼の喉を焼きながら胃の中に滑り込んだ。
「そのダイヤモンドが永久にあんたの体に棲みつきますように」
私のピアスは一生、私の左耳だけを飾ることになったのだ。
「お前は、オレにとってライナスの毛布だって事、解ったぜ」
アメリカの漫画、ピナッツシリーズの登場人物、ライナス。彼はスヌーピーの友人でマザーコンプレックスのキッズ。いつも古いこなれた毛布を抱え、時には、それを口にくわえ、それがないと眠ることができない。
スブーンは謝らなかった。お前を必要としていることに気づいたんだ、なんてオレはグレイトなんだ。ベイビー、お前は幸せ者だぜ。きっと、これが彼の持論なのだろう。私はこの幸せな馬鹿を否定する気はない。彼の持論はきっと、事実に違いないから。
私の肌の下にスプーンがいる。私たちは会話をした。私たちは何百回と繰り返したファクの中で生まれて初めて体だけでなく言葉を使って対話した。私はスプーンの不在の時どんなに彼を欲したかを説明した。
私はトイレットをこじ開けて彼の排泄物にさえ再会しかねなかった。トラッシュ缶を逆さにして彼の飲んだミクロブの空き瓶をテーブルに並べたりもした。あんたのペニスを、あんたの持っているスブーンでバナナのようにくり貫(ぬ)いて食べてしまいたいと切望したのよ。スブーン。私は話し続けた。私の感情は完全に発情していた。
スプーンは私の顔を見上げ、いまいましそうに舌打ちする。ちぇつ、オレの全部がお前のために作られている気分がするぜ。この肌は何だよ。オレの指の押したようにへこむ。オレの指が離れるのと同じ速さで元に戻る。
彼はぶつ代りにキスで、それ以上の衝撃を与える事が出来るのを知る。?みつく痛みの感情によって甘美な汚点に変えさせる事を覚える。
「ねえ、スプーン。あたし、今、トーストの上のバターよ」
スプーンは小さな頃、どうしても猫が欲しかった。けれど家族全員が猫嫌いで彼の提案を受け入れなかった。彼は学校にいる時も猫のことを考えた。ねえ、ママ、猫ってとってもふわふわして柔らかいんだよ、かわいいんだ、母親は、それだったら女も同じだよ、あと四、五年してからガールフレンドの面倒でも見るんだね、と言った。
ある日、友達の家に行った帰りに、彼はびっこの捨て猫を見つけた。彼は狂喜して自分の自転車に括り付けて家に連れ帰った。兄弟たちは猫アレルギーを起こし、くしゃみが止まらず、怒り出した。結局、彼は自分のベッドの上でこっそり、その猫を飼い始めたのだが、その猫の目からいつも目やにが出て、泣いているように濡れ、悪い病気にかかっているようだった。スプーンの家には猫のエサを余分に買う余裕などなかったので。彼は自分の食事の残りを食べさせた。
皆に嫌われ、肩身の狭い孤独な顔をした猫だったが、彼とはうまくやっていた。ところがある日、起きてみると、猫はスプーンの下敷きになって、黄色い液体を吐いて死んでいた。何も言わずに勝手に死んだ猫を、スプーンは憎んだ。ビーニール袋にくるんで、ハーレムの路地裏にその猫を捨てながら、彼は母親の言ったことを思った。猫も女も、同じようなもんだよ。そんなものだろうかと幼心に彼は納得した。
私の体は果汁を搾り出す。シュガーをたくさん溶かし込んで、スプーン。もしも、あんたのディックが氷でできたらなら体の中で私の体温で水に変えてみせる。
「私を押しつぶして、その猫のように!」
私は押しつぶされた不遇の猫としてスプーンの心に生き残り、一生復習するのだ。あんたのママは正しかったわ。女ってそういうものなのよ。
こうしているとくせのある牡蛎の味をふと思い出す。スプーンの肌が熱いタールになって私の体を包み込む。灯りのまったくない真暗闇の部屋。音楽もない。匂いしか。私の感覚はポリスの犬になる。どんなに遠くにいても私はこの男の匂いを嗅ぎつける。きっと。
スプーンは肘を付いて私を監禁し、ゆっくりと目を開けて獲物を見おろした。歯ぎしりをしている。実はそうしたいのは私だった。
「あたし、悔しい」
「何故?」
あたしがこんなふうになっているのに、あんたは、ちゃんと私の上に存在している」
「こんなふう?」
「もうじき意識がなくなって死んじゃうんだよ。あたし」
「目を開けて」
スプーンは私の顎をわしづかみにして私の意識を失わせまいとする。お願い、スブーン。失神したら、きっと楽になれる。
「最後まで見届けろ。オレがお前の上に在るって事を」
泣き出されずにはいられない。私は悟る。痛みと快感は酷似していると。スブーンを愛することは私の心を傷つける。その傷が快感に変わる時を待てばよいのだろうか。それとも、その傷自体を甘い悲しみとして諦めを持って受け止めることが出来る時が来るのだろうか。
「見るんだ」
私は、見た。逃れられない。彼の瞳は私のすべてをものにする。明日の事などどうでもいい。私の関心は、ただこのベッドの上のシーツの隙間。
彼はたぶん知っている。たとえば地球最後の日を宣告されたとしても、私たちはみみずのようにベッドの中に潜り込み、ぬけぬけと大胆にこう言うことを。I don’t care. Who cares?
暗闇の中で灰皿が見つけられなかったので、ベッドの下にほおり込んだままになっていたシャンペングラスに灰を落とした。その時、私はまだスブーンと一度もシャンペンで乾杯したことがなかった事を思い出す。私たちは華やかなシャンペングラスを灰で犯してやる方が相応しいような気がする。もっと怠惰な私たちに、高価なシャンペンを買うほどのお金もなかった。
煙草の煙を味わいながら、彼の体を知り尽くした主治医のようにカルテを刻んでいると思った。
「あんたを見る度にあたしの心はジェリイのように揺れる。それをあんたに悟られてしまうのがすごく怖い」
「オレはスロットマシーンでスリースターを出した気分だよ。いつも体の中であのベルの音が鳴り続けるんだ」
弾き出された二十五セントはすくおうとしても、すぐに手から溢れ出る。あせりと驚き、そしてまとまったドル紙幣として手に戻って来る時の嬉しさといったら。私たちの関係をスロットマシーンのゲームに例えるなんて気が利いている。私は急に陽気になった。
生まれて初めて幸運な勝者の気持ちになって自分は儲けたのだ、と思った。私には何でも出来る、そう楽観的な希望さえ湧いてきた。嵐の月曜日にさえ登校拒否しないで、浮き立った気分で学校に通えるキッズになれなれそうだ。ギャンブルで儲けた金が手元に落ち着くことなどありえないという鉄則をその時の私には思い出す術もなかった。
9 西日の強く当たる部屋の片隅で私はゆで卵の殻を剥く
塩と挽いたばかりの黒コショウをひとつまみ振りかけ、私は幸福に浸る。スブーンは寝そべってオズボーンと一緒に読みかけの雑誌を枕にしてうたた寝をしている。私は彼の無精ひげを手の甲で撫でた。彼は眉をしかめただけで一向に目を覚まそうとしない。黒い巨大な猫が無防備に眠っている様子は、あまりにしみじみとしていて、私に、お願いファックして、と言わせる程だった。けれども、私はその言葉を呑み込んでスブーンの顔を見詰め続けた。私の心の中には悲しい安心感が横たわる。私は彼をこの数ヶ月間、気が狂う程愛した。けれど、私はこのラバーボーイの事は何ひとつ具体的には知っていなかった。目の前に存在するスブーン以外は私には愛せなかったから、彼の生い立ちや過去などはどうでもよかったが、気になり続けている事が一つだけあった。
スブーンがいつも後生大事に抱えている書類の束。いつか、私が腹を立ててぶちまけたとき、設計図のような紙切れが部屋中に散乱した。私はスブーンにぶたれながら、悔しさでどうしようもなく、いつか色鉛筆で塗り絵にして仕返しをしてやると考えた。なんてちっぽけな私。スブーンの関心が自分以外の所に行っているのに我慢がならなかったのだ。もし、スブーンが何らかの理由で私のもとを去った時、私はどうするのだろう。スブーンが私と同じ場所にいないという事。彼が元気で私から離れた場所に存在している事と彼が死んでしまってこの世に存在していないという事は同義語だった。元気でいてくればいいなどと心の広い(振りをする)一般的な女たちと私は異なっている。私の傍にいて、私と一緒に微笑んだり怒ったり、メイクラブを常にできる範囲にいる。それがなければ彼が死のうと生きようと同じ事だった。私は自分の目の前にあるものだけを愛するだろう。目に見えるものしか見たくない。去って行ったものは存在しないものなのだ。
私は否定しようとしながらも、ある予感が心を掠(かす)めるのを感じ取る。私は、こう考える事で予防線を張っているのだろうか。「お願いだから」言葉が口をついて出る。私は今まで誰かを本気でお願いをした事があっただろうか。あったとしても、すでに忘れている。その程度のものだった。
紅茶を入れて煙草に火をつける。お茶の香りでスブーンは目を覚ます。湯気のせいで、きっと私の顔も曇って彼の目に映る。
「あんたがいなくなったら、私、どうするだろう」
「どうして、いなくなると思うんだ」
「あたし、きっと泣くわ」
彼は私の髪を撫でた。
「かわいそうに」
「あんたは泣かないの?」
「泣いた事、ないんだ」
泣き方を教えなくちゃいけないのかしら。どこまでも世話のやける男だ、と思った。
「電話しなくちゃ」
「どこに?」
スブーンは答えない。ダイヤルを回し続ける。不安になるの。愛しているのよ。けれど私は無関心を装う。とりあえず、スブーンはわたしの前にいる。後ろから手を伸ばし彼のジーンズのジッパーを引き下ろし、彼を欲情させる事のできる距離にいるのだ。私は冷静になれた。もし、目も見えず、耳も聞こえず、私に発達した臭覚だけが残されているなら、彼を愛する事はずっと楽になるだろう。
脱走兵の事を軍隊用語でU・Aという
GIの集まるディスコで、あいつU・Aなんだよ、という言葉は、そこに集まる女たちにとって身の安全のために近寄らないほうがいいよ、もしくは、金を貢いで思いのままにその男を飼ってみようか、という事を意味している。
私のように理解していながら恋をした、などという場合は少ないのだった。もしも、彼らが捕まったとき、膨大な罰金を科せられ、職がなくて軍隊に入った者など、そのような大金を支払う能力があるはずもなく、大抵は軍の刑務所に行き、軽い罪の場合でも身分証明書のIDを取り上げられ、基地の外には出られなくなる。つまりは籠の鳥。そして軍隊を追い出されストリートのチンピラに逆戻りするのだ。
私は恐れていた。スブーンの売りさばいていたたくさんのドラッグス。某大使館への数々のテレフォンコール。そして、あの書類袋。そのような彼の犯した罪ではなく、その罪によってスブーンが私の視界から遠ざかってしまう事。私に対して、もし彼が罪を犯したとしたら、それは私の心に記憶を作ってしまった事。私はそれまで記憶するという事を知らなかったし、その事自体を憎んでいたはずであるのに。もう自信がなかった。彼が私の目の前から去ると同時に、私の彼に関する記憶をから消し去る事の。何故、今、そう思うのだろう。スブーンが、どうしようもなくろくでなしとして私の傍にただいたとき、私は心配などしなかった。必然として受け止めていたのに。
ある日の午後、奇妙な電話が入った。
「あの、失礼ですけど、そちらは何かの会社か事務所ですか?」
「あなた、だあれ?」
「こちら警視庁の‥‥」
「嘘言わないでよ! そういう悪戯電話多いのよ。いったい、どういうつもり?」
それは本当だった。私の部屋には、時々、その手の電話があり私を苛々させるのだった。一度など、スプーンの悪友達(バッドカンパニー)からのからかい電話で「こちらネイピーポリース‥‥」と受話器から流れ来た時、私は震え上がり、そして、それがジョークだと知り、かんかんになって悪気のないウィリーという男を怒鳴り散らしたのだった。
「じゃあ、そっちの電話番号を言ってみなさいよ。言えるもんならね。後でかけ直すわ。本当に警察かどうか解るじゃない」
そして、彼は言い、私は電話した。そのナンバーは本当に警視庁のものだった。さきほどと同じ男が簡単に私の名前、職業などを聞いて、彼は電話を切った。
私には何が何だか解らなかった。しかし、それが日本の警察だった事で、私はスプーンに関する心配をしないですんだ。それより、私は自分の歌っているクラブで、たまにホステスに売春をさせていたので、そちらの方を探っているのではないかと心配した。台湾人や東南アジアの留学生の彼女たちの勤労意欲は、もの凄いものだったから。
私は苛々して部屋をうろついた後、コップにウィスキーを半分注いで飲んだ。あの店がクローズされたらどうしよう。私のような歌の下手な歌手を雇ってくれる店はあるのかしら。スプーンと一緒にドラッグでも売ろうか。私は気が弱いから、やはり無理だ。寝椅子(カウチ)に座り込んで私はぶつぶつと呟いていた。
ラジオからティナ・ターナーが流れて来る。あの大きな口は魅力的だったと思いつき、私は化粧台の前に立ち、赤い口紅を取り出した。ブラシに紅をたっぷりと含ませて、自分の唇より、明らかに一回り大きい輪郭を取り、丁寧に塗り潰す。何度もティシュペーパーにキスマークをつけ、落ちないように重ね塗りをする。出来上がりはチェリーというより、真っ赤に熟したネクタリンの感じだったが、私は満足して煙草をくわえた。
鏡の中の私を見て、このTシャツとリーバイスのジーンズはあまりにもそぐわないと判断して、私は黒い絹のナイトガウンをベッドの下から引きずり出し、裸になってそれを羽織った。オズボーンのひっかき傷が所々に付いていたが、私は自分が劇的な人生の主人公になった気がして煙草を持つ手を気取らせた。
その時、スブーンが戻って来て扉を開けた。
「ハイ、ハニー」
スブーンは複雑な表情で一呼吸置き、それから吹き出た。
「似合わねえ! 一体、今日はハロウィンだったけ? まるで缶詰のトマトじゃねぇか」
私は少し機嫌が悪くなった。そのうちおかしくなった。やはり食べ物を連想させるのだ、唇は。
「食べていいよ」
スブーンは私に口づけた。彼の唇に私の口紅が移動して赤く染まった。彼は屈みこんで私を上目づかいで食い入るように見詰めながら、私の大股に口をつけた。彼の唇の上の私の口紅は今度はそこに移動した。ルージュのべたつきを足に感じ、縮れた髪を撫でながら、私は涙ぐみそうになった。
「スプーン」
その時、スブーンは何か言おうとして口を開きかけた。それが何だったのか今でも私には解らない。
そして、いよいよ、あの悪魔の電話が掛かってきた。警察からではなかった。どこかの大使館(混乱した私の頭はそれを聞き流してしまったが、あまり聞いたことのない国だったと思う)の人間がジョゼフ・ジョンソンはいるかと、聞いた時、私はスプーンが、そんなキリスト教徒のような名前を持っていた事を知り驚嘆した。私は彼の本名すら知らなかったのだ。
スブーンはその電話に飛びついた。エブリシングオールライト。その言葉と共に受話器を置くと彼は本当に幸福そうに笑った。ベイビー、オレたちは本当についてるぜ。けれども私は、嫌な予感に包まれて一緒に笑う事など出来なかった。私は瞬きもせずにスプーンの幸福な横顔をオブジェのように見詰めた。
その時、ドアのチャイムが鳴り私の心臓は飛び上がった。私はスプーンに指図を求めておどおどした。彼は目で、開けろと合図する。私は、こんな娼婦のような格好でドアを開けるのに抵抗を感じ、泣きそうになった。そして、ガウンの前でしっかり合わせて、嫌々ながらドアを開けた。
ドアの外には五人の私服の男女が立っていた
一人は女で浅黒い肌の外国人だった。二人は日本人の年輩の男だ、あとの二人は若いアメリカ人だった。
日本人の男が口を開いた。
「君は、この男を知っているね」
彼はおもむろにスプーンの写真を見せた。その写真は写りが悪くスブーンはみつともなし(アグリー)に見えたので、私は返事をしなかった。
「知っているかと聞いているんだ。もう確認はしてある。彼はここにいるんだろう」
彼の口調は静かだったが、私に有無を言わせない迫力があった。
「あんたたち、何の用」
彼は私に黒い手帳を開いて見せた。それはヒモで上着とつながっている。手帳を出すときに見えた拳銃が私を震え上がらせた。彼らは恐怖で言葉に出ない私を突き飛ばすと土足で部屋にあがってきた。
スブーンは、その時、異様な雰囲気を察して奥の部屋に息をひそめていたが、彼らは容赦なく、そのドアを開けた。
奥の部屋でもみ合う音が聞こえ、スプーンの怒鳴り声が響いた。
「あいつには関係ねえんだ! ドアを閉めてくれ!!」
私は、ただ呆然と入り口に立ち竦んでいた。我に返って鏡を見ると、顔は真っ白で血の気を失い、分厚く塗った真っ赤なルージュだけが、私を裏切って笑っていた。
しばらくして五人は奥の部屋から出て来た。日本人の男が私に言った。
「彼があなたと話をしたいそうだ。十五分だけ我々は待つから…‥中に入って構わんよ」
私は彼の親切に感謝した。私の足は緊張のあまり震えていた。
「スプーン…」
彼はベッドに腰を掛けていて静かだった。私たちの全てだったそのベッド。私はそこで泣かされる事も微笑む事も、もうないのだろうか。
すでに夜となっている。私は今晩、スプーンの為にリブを料理しようと冷蔵庫の下段で肉を溶かしておいたのに。トマトや赤唐辛子に漬け込んだスパイシーな肉を小さなオーブンに並べて焼く。月桂樹の葉も何枚か忘れずに入れなくては。黒胡椒は粗く挽く。ガーリックを潰す道具をスプーンは最後まで買ってくれなかった。包丁でたたき潰すしかない。ショウガも入れる。パプリカ、ナツメグ、ありったけの香辛料を入れる。
ベトベトした臭い肉が次第に香ばしい香りをさせて焦げていく。骨が赤黒い色に変わり始めたらオープンの火を止めて乾かしておく。テーブルの上に赤いワインの瓶を出し大量の紙ナプキンを用意してスプーンを呼ぶ。オープンの受け皿にはスペアリブから滲み出た脂が溜まって私の食欲をそそる。トーストしたパンにそれを塗り籠の中に放り込む。
スブーンは尖った歯で、あばら骨から肉をこそぎ取る。唇から脂の汁が垂れ、赤いワインの上に玉となって浮かぶ。いくつかの玉はお互いに引き合って一つの大きな玉になる。そのワインはアメリカ製で発泡酒の安物なので、グラスの中は脂の玉と細かい泡で、動いているように見える。食べる最中にナプキンなどは使わないのでリブをつかんだ彼の指の爪は、皮のついたままの栗の実のようにつやつやになる。私が一本目を食べ終わる頃にはスブーンは残り全部を平らげてしまうので、私は少しも満足できない。まだ、とってもお腹がすいているの。しゃぶらせて。私はソースの付いた彼の指を一本一本。口に入れながら彼の顔を見る。スブーンは、きっとその時、私とやりたいと思っている。そういう顔をしている。それからどうするの、スプーン。
そんな端(はし)たないディナーが私たちの最高の贅沢だったのに。
「あのお肉、どうするの?」
私は目に涙をためてそう言った。
「捨てなきゃいけないの? あのかわいそうなお肉」
私は床に座り込んで泣いた。しくしくと音がする泣き方で泣いた。
「私はお肉を食べたかったんだよお」
私は泣きながらスプーンと食べた物の事を次々と思い出していた。あのソウルフードと呼ばれる毒々しくて人なつこい食べ物たち。白い豆とスモークされた豚の足を煮込んだハムホークス。肉がすっかり崩れ落ちた足の骨を吸うと、中ならゼラチンのような美味しい塊が引き摺り出されて来る。オクラのガンボと呼ばれる辛いシチュー。スブーンはタバスコソースが好きだった。タバコスコをたっぷり振りかけたダークミートのフライドチキン。そして豚の臓物を煮込んだ、極めつけのチットリンズ。日本人には食べられない、そういった料理を私は彼と一緒に食べた。それらの食べ物がスブーンの体の一部になるのだと思うと、私は彼の体を食べてる気がして嬉しかった。
こういう時に食べ物の事を思い出すなんて不謹慎なのだろうと私は言った。スブーンは何も言わずに私を見ていた。彼は悲しい目をしていたが口元は微笑んでいた。
「今日は、まだ言っていないね、スブーン」
「‥‥・何が?」
「四文字言葉」
「ふん、そうだったかなあ」
「あんたらしくない」
「‥‥‥」
「言って」
「FACK 」
「して」
スブーンは私の頬を手のひらで触った。私はその手首や指たちを撫でた。広げると私の顔が、すっぽりと入ってしまうくらい大きな手。手のひらには、くっきりと三本のラインしかない、単純で、そう見せかけて実は私の体の隅々まで知っている繊細な裏切りの手。
「もう出来ないの? 私たち愛し合えないの」
私は瞬きをして目の前の邪魔な涙を払い落した。涙はスプーンの手に伝わってどこかに行った。
「オレたちが愛してきたことって、いつも欲望だけだったね」
私は思わずスプーンの顔を見つめた。私は欲望という知的な言葉が彼の口から出たことにひどく驚いていた。私はあせった。私、この男の事を知りたい。切実にそう思う事が私の心の中で始まっていた。
「時間がない! 時間がないわ!」
私は大声になっていた。
「落ち着きなよ。ベイビー」
スプーンは私のうなじから髪にかけて、ゆっくりと逆に撫でながら私の気を鎮めようとした。彼の指は自動ピアノのように私の首筋をたたいた。そうすると私の目は猫のそれらのように細くなるのを知っていた。私は、どうしてこんな居心地の良い場所を私たちから取り上げる人がいるのだろう、と漠然とした何かを憎悪した。
「あんたがここにいなきゃ、あたしを愛せない」
いつも、あんたをシャワーのように浴びていたいのよ、スプーン。私は呟いた。
「えっ?」
「その口紅、すごくゴージャスだよ。レディに見えるぜ」
生まれて初めて聞いたスプーンのお世辞があまり下手なので私は拗ねた。
「さっきはハロウィンなんて言ったくせに。こんなの娼婦(フッカー)みたいだよ」
「オレのレディはいつだってオレのフッカーだよ」
そう言って私の唇に口づけた。初めてスプーンの言葉が温かいと思った。
スプーンは一度キスしたことで耐え切れなくなったというふうに顔中にキスをした。洪水で堤防が切れてしまった時のようにキスの仕方だった。私は息が出来ずに、スプーンの為すがままに任せていた。このまま押し倒されて滅茶苦茶に愛され、そのまま失神してしまえれば良いのに。けれど彼はそうしなかった。私をきつく抱きしめたまま目を閉じていた。彼の腕には絡んだ糸のように外れなかった。こんな時でも彼の体からは私を悩ませた香水の良い匂いがした。その匂いは「ブルート」というのだった。まさしく彼は私の体内に棲みついた野獣だった。
そして、今、彼は出て行こうとしている。なんという、あっという間の出来事だろう。私には信じられなかった。誰かがスクリュードライバーで私の心にグリグリと穴を開け、貼りついているねじを無理矢理、外そうとしている。
「DON’T」
「DON’T、何?」
私の心には、もう公式が出来ている。
2sweet+2 be=4 gotten (Too sweet be forgotten.)
「スプーン、忘れ去られるには甘すぎるのよ」
「計算は苦手なんだぜ」
そんな事は知っていた。けれどスブーンは私という、ちっぽけな黒板に数式を書いた。それは悪戯好きの子どもの落書きだったというのだろう。
私は大きな嘆息をついた。そして、それが合図になったかのように、彼は私の体から腕を外して。その瞬間、私はすべてを諦めなくてはいけないと悟った。私はスプーンの彼らしい、下唇を持ち上げ駄々っ子のような、いつもの表情を目を反らさずに見つめた。彼は表情を少しも変えずに泣いていた。私と視線があった時、彼は、それがどうした、と言いたげだった。私は母親の気持ちになって、「かわいい子」と呟き、スプーンの濡れた頬に触れた。
「うまく泣けているよ」
私はその時、とても自然に笑えたと思う。スプーンは無言で、ばつの悪そうな微笑を浮かべて下を向き、再び顔を上げて大きく笑った。お前の事は何でも知っているんだぜ。そう、その目は言っていた。
彼は決心したように立ち上がり、その時、何かをベッドの壁の間に落とした。そして、私の方を振り返り、しばらく私を見つめた後、片目をゆっくり、つぶって見せた。私は初めてスプーンと出会った晩を思い出した。慌ただしく愛し合った感動を擬固したまま体に残り、その後のあのウィンクと同時にカプセルが溶けて行くように私の心に効き始めたのだった。方頬の歪む味わい深い仕草。あれが私の熱病の始まりだった。
そして、今、スプーンの瞼の閉じるのと同時に幕が降りたのだった。私は感情が噴き出しそうになるのを堪えて言った。
「あんたって、こんな時にまでメイクラブの最中みたいな目付きする。いったい何だっていうのよ」
彼は人差し指で最初に自分自身を指し、そして、ゆっくりと私を指差し、二度目頷いた。スプーン、私もなの。私もなのよ。けれど声にならなかった。
そのまま、スプーンは部屋を出ていき、刑事たちに両腕をつかまれながら私の許を去った。結局、私は何ひとつ具体的なことを知ることが出来ずに、ひとり部屋に残された。ジンをグラスに注ぎながら鏡を覗くと私の顔は口紅だらけだった。
10 その夜中に、昼間来た刑事のうちの一人が私の部屋に来てスプーンが何か置いていかなかったかと尋ねた
彼は連行される前に自分のIDカードをベッドの横に落として行ったのだった。私は最初、知らないと言った。その身分証明の写真だけが唯一私の手にしたスプーンの写真だったから。刑事は、家宅捜査されたくないだろうから、今のうちに出した方が良いと言って私を脅した。私は諦めて、ジェットという雑誌にIDを挟み新聞と一緒に、これで全部だと言って出した。刑事は捜していた物を見つけ満足して帰っていった。
本当はIDカードと一緒に彼は自分のお守りであるスプーンも置いて行ったのだが、私は言わなかった。一本のスブーンを私が盗んだからといって、アメリカのガバメントが私を逮捕することもないだろう。
翌日のFENのニュースで彼が軍の機密書類を売ろうとして捕まった事を知った。きっと軍の星条旗新聞には大きく乗せられているに違いない。そんな重要な書類を扱う仕事をしていたなんて、スブーンはあれで案外、頭はよかったのかもしれない。全てが私にはどうでもよかった。
私は数日間、阿保のように部屋に座り込んでいた。あの晩の口紅を顔中に付けたまま鏡と向き合って自分の顔を見ていた。
そして、何日かたち、人間の感情が戻ってきたとき、私は冷蔵庫の中の肉が嫌な臭いをさせて腐りかかっているのに気付いた。それを捨てようとトラッシュ缶の蓋を開けた途端、気分が悪くなって吐いた。止まらない吐気に苛々して、私は洗面所で目についたブルートの瓶を壁に向かって投げつけた。安香水の瓶はガラスではなかったので、割れずに蓋が壊れ、甘い匂いが部屋中に飛び散った。それを嗅いだと同時に私はまるで獣のように泣き始めた。
私はやっと思い出した。私もスブーンを失ったのだ。私はもうじき死ぬ病人のように呻き声を出して泣いた。スプーン、どこに行ったの? 私は狂ったように部屋中をひっくり返してスプーンの残していった形跡を捜し始めた。
シーツに彼が残していった精液の染み。最初の頃、退治しても退治しても私たちに執着していたフィリピンの毛虱。どんなものでも構わなかった。私は彼の被っていたパナマ帽を裏返して、あの懐かしいぜんまいを押し潰したような形の髪の毛を一本見つけようとした。歯ブラシ、アスピリン。バセリンの缶を開けるとスプーンの指の跡が付いていた。スプーンはあの武骨な指でバセリンをえぐり、私を恥ずかしくさせたのだった。煙草のパッケージを彼は底から開けた。セロハンを噛み切りながら。頭のぜんまいを行儀よくさせる為に被った、半分に切って先を結んだストッキング。食べかけのチョコレートチップクッキー。らっぱ飲みしたバカルディのホワイトラムの空き瓶。それらのジャンクに対面して私は疲れ果てた。
私は横たわり奥歯を?みしめる。終わったのだ。でも、何が?
私の視界から消えたもの、それは始めから存在しなかったものだと、そう思えるはずではなかったのだろうか。
私はスプーンをコトコトとたたきノイズを立てる。閉じた瞼からさらさらと涙が流れる。それと同時にスプーンに関する記憶を体内から流れてしまう事を私は恐れた。私は思い出をいとおしんでいる! 思い出という言葉を! 私にはまったく関係なかった意味のない言葉。私は記憶喪失の天才であったはずなのに。初めて私自身に所有物が出来てしまったのだ。私の中にまだ彼の体液が残っているだろうか。私は望んでいる。それらが私の細胞のひとつひとつに染み込んで、あの良い匂いを放つことを。
私は抵抗を諦めて流れに身を任せる。次第に記憶は沈殿して私の中で上澄みになる。まるで何事も起こらなかったただの水に見える。人々は知らない。私は誰にも気づかれないように時折、そっと、下に溜まったクリームを指ですくって舐める。その時、初めて私は優越感を感じ、声を出す。「美味しい」と。
たとえば沢山の手がある。どれも同じ形をしているのに私はあの恥知らずの黒い手を選び取ることが出来る。
沢山の尻がある。どれも同じようにたった一本のスリットを持っている。けれど、私は自分の手を挟み込んで離さないスリットがどれだか知っている。そしてフィリピンの娼婦たちを選び取る儀式のように、その尻にシャンペンをかけて私の許に呼び寄せる。
スプーンは私に染み込み始めた。
甘く疲れた体をベッドに運び、私はブラケットをめくる。そこに鋭いあの目たちが潜んでいる錯覚から抜け出すことは、もう、出来ない。
昭和六〇年度文藝賞受賞作
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