不倫や浮気は楽しいものだしロマンスがあるからだ。浮気性の恋人や夫をどうあやせばいいのか、恋人の浮気疑惑が浮上したときはどうしたらいいか、恐るべき夫の言い訳の”ただのお友だち”をどう撃退するか?
トップ画像心とピンクバラ快楽と身体のすれ違の「セックスレス」を、どうやって埋めていくのか。たかがセックス、されどセックス、といつも思う。そして、寿命が延び、いつまでも女、いつまでも男と願っても叶えられない現実は不倫、浮気しかないのか? 

第9章寝室の神様

本表紙 
パメラ・ドラッカーマン著 佐竹史子訳

セックスに関する規律を守っている敬虔な人々は、超正統派のユダヤ教徒だけではない

 シェロモーが未来の花嫁と顔を合わせたとき、両家の家族は外で待機していた。たがいのバックグランドはすでに調査ずみだ。このさき共に暮す誓いをするかどうかは、部屋にいる若いふたりが決めることになっていた。

「わたしたちは部屋に残されました、交わした会話といえば、『兄弟は何人? 姉妹は?』といったことだけでした。五分後に彼女のお父さんが入ってきて、『で(スー)?』と聞いた‥‥・で、わたしの父も来たので、五分待ってくれ、頼みました。暫くして、わたしは言いました。『いいでしょう』と」

 シェロモーは当時一八歳と六ヶ月。家族はべつとして、女の子と二人きりになったのはそれが初めてだった。「ユダヤ教の学校で教えられていましたから。女の子のことは考えてはならないって。それは罪深いことであるとね」

 数ヶ月後、結婚式の披露宴がおわると、両家の両親が若いカップルと一緒に新居に向かった。花嫁の母は娘をキッチンに連れて行ってオシベとメシベの役割について教え、シェロモーは家族ぐるみで付き合っている男性からリビングで同様の知識を授けられた、シェロモーの話によると、その男性は以下のように切り出したという――「きみにどのていどの知識があるか知らないが‥‥男は股にペニスをもっている。女性の股にあるのは、これだ」男性はシェロモーに数枚の紙を渡した。そこには、事がどのように行われるか正確に記されていた。そののち、シェロモーと花嫁(キッチンで聞かされた話に、動揺しているようだった)は一緒にすわって、掟を学ぶ。掟とは、たとえばこんなものである。

一、 夫婦は全裸にならければならない。
二、 シェロモーが初めて花嫁の体に挿入すると、処女膜が破れて出血する。それによって彼女は穢(けが)れる。だから、いったんペニスを抜いたら。もういちど挿入することはできない。
三、 初夜で交わしたあとの花嫁は穢れているので、五日から七日は夫婦の接触を断つこと。

 新郎新婦は数時間かけて、それらの教えをおさらいした。ふたりがベッドに向かう頃には、朝日が昇っていた。花嫁はすっかり怯えて、汗をかいていた。彼女の体に挿入したシェロモーは、恥ずかしさのあまりほんの数秒でペニスを抜いてしまう。もっと奥まで入れるべきだったのかもしれない。自分たちがちゃんとやったのかどうかわからなかったから、シェロモーはその日のうちに「偉大なるラビ」のもとを訪れた。シェロモーの話を聞いたラビは、指で輪をつくりもう片方の手の二本指をそこに入れて、どこまで挿入したか、そのときのペニスが「指のように固くなっていた」かどうか確認した。シェロモーはある程度は入れましたし、固かったですと答えた。

「だったら問題はない、とラビはおっしゃった」とシェロモーは当時を振り返る。見るからにほっとしている様子だ。「根元までいかなくとも、入ったことになるんですね」

 セックスに関する規律を守っている敬虔な人々は、超正統派のユダヤ教徒だけではない。イスラム法のなかで結婚と女性のたしなみについて書かれた項目は八〇パーセントにのぼる、という計算結果もある。一七世紀にイスラム教がスンニ派とシーア派に分裂したのは、預言者マホメットの最年少の妻アイーシャが魅力的な若者と浮気をしたか、それともラクダに相乗りしただけなのかをめぐって対決したからだ、との説もある。

 イスラム教、ユダヤ教、キリスト教はみな、不倫をもっとも罪深いこととして禁じている。モーセの十戒は不倫を禁じ、隣人の妻を欲してはならないとしている。イエスは婚外セックスを想像することすら罪であるとした。女性を「欲望を抱いて」眺めるだけで、「すでに不倫をしたことになる」というわけだ。

 しかし、以上のような宗教のなかで、不倫禁止の掟は簡単に守ることができる、としているものはひとつもない。キリスト教の教理問答集は、以下のように記している――「自制心は、長く厳しい鍛錬によって身につくものだ。いちどで得られるものと思ってはならない。一生を通じて、たゆまざる努力が必要となる」。キリストの使徒である聖パウロは、不倫を魂にたいする肉体の反乱と呼んでいる。イスラム教徒とユダヤ教徒はともに、誘惑を遠ざけるために女性は肉体を衣類で隠し、男女がなるべく行動を共にしないようにしている。とはいえ、

婚外セックスを厳しく禁じられているから

敬虔な人々はほんとうに浮気をしないのだろか? 掟や障害をもうけることで、人間の性欲を結婚生活へ健全に導くことに成功しているのだろうか? 神の怒りを買うことへの恐れがあるから、敬虔な信者は一人のパートナーにたいして誠実なのだろうか、というか、少なくとも無神論者より誠実なのだろうか?

統計結果は、以上のような疑問にきっちり答えてくれない。だからわたしは、敬虔な信徒が集まるさまざまなコミュニティーに行って、戒律と信者仲間の行動との矛盾に苦しんでいる人人を取材することにした。以下のレポートは宗教にたいする決定的な見解ではけっしてないが、宗教生活をするうえでの重圧や苦労を物語っている。

 最初に向かったのはニューヨークのブルックリンだった。ブルックリンは、ハシディームという超正統派のユダヤ教徒にとって聖地ともいえる街だ。ハシディームのさまざまな宗派が街のあちこちに散らばっている。見る人が見れば、人々の被っている帽子のタイプや耳の前の髪(パヨスと呼ばれている)の長さから、どの宗派のユダヤ教徒か一発でわかる。ハシディームの大半は、数世代前の祖先がアメリカに移住する前に住んでいたポーランドやハンガリーの村で話されているイディッシュ語を話す。ごく普通の超正統派のユダヤ教徒とは違って、ハシディームは「レッペ」から指導を受ける。レッペのなかには、一、二世紀前から代々レッペをしている家系の者もいる。

サトマールはハシディームのなかで、もっとも浮世離れした宗派だ。サトマール派の数千の人々が住んでいるのはタイムズスクエアから地下鉄でほんのすこし行った場所だが、彼らはまるで異星人のように見える。サトマール派の男性のなかには白いハイソックスをはき、その昔ハンガリーの貴族のあいだで流行った丸い毛皮の帽子を被っている者もいる。既婚女性は慎み深くあれという戒律を律儀に守って髪の毛をすべて剃り、カツラやスカーフを被っている。サトマール派信者の多くはごく初歩の英語の読み書きしかできず、科学、数学、歴史にかんする知識も小学六年生並みだ。大学に進学する者はほんのわずか。ハシディームの母親たちは息子に医者ではなく、宗教学者になってほしいと望む。女性が二一歳になっても独身のままでいると、年をとりすぎたために結婚はまず無理だろうと見なされる。

ハシディームの男女が結婚すると、ほかの超正統派のユダヤ教徒と同じように、妻が生理のときは触れ合ったり、物を手渡したり、愛の言葉を囁き合ったりしないし、生理がおわってからの一週間もそうしている。そのあいだに夫婦が接触すると欲望に火が付き、生理の血で穢(けが)れている妻とセックスしかねないからだ。親しみのこもった言葉はこのほか注意を払っていっさい口にせず、たがいのファーストネームすら呼ばないようにしている夫婦もいる。ある青年から聞いたところによると、彼の父親は妻のことを「ヘル・ノル」(イディシッシュ語で「ちょっと聞け」の意味)と呼んでいたという。そういえば、日本人男性を「おい」と呼んでいた。

ハシディームは見た目ほど性に厳格ではないという噂を、わたしは耳にしていた

つまり、シェロモーの結婚初夜のエピソードがほのめかすほど、ハシディームは性に厳格でないらしい。よく娼婦を買うハシディームの男性もいるし、戒律の抜け穴を利用して買春を正当化しているとも聞いた。それは部外者の作り話なのか? この閉ざされた世界にはいって、真相を見極めるにはどうすればいいのか?

方々のつてを頼って、わたしはなんとかハシディームのクラブハウスのような場所に行けることになった。そこに集まる男性はサトマール派が多いが、ほかの宗派の人々も来るとのことだった。ユダヤ教正統派の人々が最も多く暮らしているボローパークの外れ、通りに面した建物の二階にそのクラブハウスはある。そこはハシディームの世界に居心地の悪さを感じた人々の避難場所だ。彼らはハシディームの文化にどっぷり浸かっているから、それを捨てることはできないものの、自分が属する文化を安心して避難できる場所を求めている。集まってくる男性の多くはパヨスを長く伸ばし、安息日の土曜日には電灯をつけてはならないというユダヤ教の教えを守っている。とはいえ、彼らは神の存在を疑っているかもしれないし、テレビドラマ『24』を欠かさず観ているかもしれない。シェロモーのように、妻がおこなっている厳格な信仰生活からしばし解放されたいと願うひともいる。念入りに掃除する必要があるクラブハウスだが、(別れ際、わたしはオーナーに機能性の高いランプをプレゼントした)、店内は活気に満ちて、みな和気あいあいとしている。ユダヤ料理風にアレンジしたプレッツェルが各自に回されて、黒いコート姿の如才のない男性たちがジョークを口にしている。ジョークのオチは、すべてイディッシュ語だ。

こういった男性たちが敬虔なユダヤ教徒を代表しているわけではないし、ハシディームを代表しているわけでもない。それでも、この店に集まっている男性たちの大半はハシディームの独自の文化のなかで育っているのだから、許されることと、許されないことをしっかり心得ているはずだ。ある若い男性は、以前はよく公共の図書館にこっそり行って小説を読んでいたと語る。彼はまた、家の評判を落とすと父に警告されたにもかかわらず離婚したことがあり、そのさいのストレスで母のガンが悪化した、とのことだ(離婚した男性でも再婚はできるが、子連れの女性のように”条件の悪い”相手しか見つからない場合が多い)。つやつやした黒いパヨスをたくわえた、二二歳のものすごいイケメンは、踊るのがすごく好きとのこと。彼はプリトニー・スピアーズの何本かのビデオのふりつけをすべて覚えていた。しかし父親に結婚しろといわれて、そろそろ追い詰められている。信徒のあいだであまりにも浮いてしまうと――たとえば、みんなと違った服装をするとか――両親や一三人のきょうだいが口をきいてくれなくなるのでは、と彼は恐れている。

わたしが会ったハシディームの人々は現代文明からほとんど隔絶されていたが、セックスについては学んでいた。かれらは思春期の大半を男女別学のユダヤ教の神学校イェシバに通い、タルムードを多いときには一日一二時間学ぶ。

タルムードとは一万二〇〇〇ページ以上にわたるユダヤ教の主張や物語や教えを記した書物で、セックスに関する記述もふんだんにある。最初から最後までソターという女性を取り上げている巻もある。ソターとは夫ではない男性と「密室」に入るところを目撃され、夫に不倫の疑いをかけられている女性のことである(不倫が発覚した場合については、べつのセクションで取り上げられている)。タルムードのなかでラビたちは、その男女がどのくらい密室にこもっていたら、性交渉をしたと見なされるかについて議論している。彼らの討論は、古代においては短時間のセックスが望ましいとされていたことを暗示している。ナツメヤシの木を一周するていどの時間だろうというラビもいれば、女が歯から木っ端を取り除くのにかかる時間だろうというラビもいる(そのあとで、だったらその木っ端はどのくらい深く歯に挟まっていたのか、という話題になる)。ここで話し合いをしている学者たちは少なくとも、性交は卵を焼くくらいの時間があればできるとした二世紀の賢人ベン・アザイの見解を退けるくらいの常識はある。ベン・アザイ自身は生涯独身でとおしたから、そのような事柄について疎かった(というか・疎かったはずだ)と、学者たちは指摘する。

タルムードのべつの箇所には、妻が夫のスープを焦がしたら夫は妻と離縁することができる、という記述もある。なぜなら、妻がスープを焦がしたていどのことで離縁をしたいと夫が思うということは、その夫婦がもっと深刻な問題を抱えているに違いないからだある。

クラブハウスに来ていた、イディッシュ語訛りが強い、恰幅のいい男性が話をしてくれたところによると、ユダヤ人以外の男性とセックスした女性は、たとえ夫が許可をしても家に二度と帰れないそうだ。それは解釈のしようによっては、妻がユダヤ人以外の男性とセックスを大いに楽しんでいるから、対照的に夫の影が薄くなって発言権がなくなってしまった、という意味にもとれる。わたしたちにその話をする恰幅のいい男性は、ひどく興奮しているようだ。じきに口角泡を飛ばして、レズビアンがするであろうあの手この手の性交渉をふくめて、不倫と見なされるさまざまな行為について事細かに語り始めた。後日、その男性とまた顔を合わせたとき、ハシディームの既婚男性がよく通うらしいストリップクラブがあるから、取材に同行してあげてもいいと申し出てきた。わたしは断って、プレッツェルを探しにいった。

 クラブハウスで知り合った男性が、インターネット上で話題になっている話をメールで送ってきてくれた。タルムード学院でユダヤ教を学んでいる「アリ」という既婚男性が、同級生の妻「チャニ」に以前からの恋心を抱いている、という話だ。同級生が結婚式に出席するためにトロントに行っているあいだ、チャニが電話をかけてきて、寝室のドアーが壊れたから修理してくれないかと頼んでくる。アリはついに行動を起こす。かすれ声で告白すると、チャニの長いスカートがはらりと落ちて、アリのパヨスがふわりと宙を舞う。チャニのとてつもなく大きい胸が露になる。神の啓示のような瞬間。
「アリはふうっと息をもらした。ああ! こういう女性を妻にして、いつでも好きなときにこんなにきれいな胸を見られる男がいるなんて!‥‥同級生はよく学校に遅刻しないで来られるな、とアリは思った」アリが「チャニの乳量をうやうやしく愛撫している」あいだ、チャニは代用教員として働いて学校に電話して、きょうは休みますと伝える。その場面にさしかかるころには、わたしはこの話に完全にはまっていた。

 驚くまでもないが、話はチャニがアリにフェラチオをする場面でクライマックスを迎える。フェラチオはハシディームの男性がひそかに憧れる、究極の性行為だ。社会学者へラ・ウィンに聞いた。「男性たちが憧れる究極の行為はフェラチオだったという気がするのは、どうしてなんでしょうね」と、わたし。「ええ。そのとおり。フェラチオなのよ!」ハシディームの反逆者についての本『選ばれない人々』の著書でもあるウィンストンはこたえた。フェラチオは生殖に一切関係ない、純粋な快楽の領域にはいるものだから、ハシディームの男性たちは妻にフェラチオを求めることができない。”種をムダにする”禁じられた行為だが、不倫とは見なされないので、性交ほど淫らなものとは思われていないようだ。

 大多数の男性にとって、それは憧れでしかない。ハシディームの男女には、浮気をする機会がどうやってもあまりないからだ。コミュニティーには監視の目が光っているし、その外では彼らは異様に目立ってしまう。ハシディームの世界にあって、浮気を禁止することもっとも効果的な方法は、天罰が下ると警告することではなく、浮気をする機会を奪うことである。実際、女性と未婚男性には運転免許をあたえない宗派もある。自由に車を運転するようになると、誘惑される機会が多くなるからだ。

 とはいえ、極端までに清く正しい環境は、手が届かないセックスにかえって気持ちを向けてしまう。婚外交渉をするつかの間のチャンスが訪れるのは、夏休みである。その期間、妻と子どもは州北部の別荘に行き、男性は仕事のために街に残り、週末だけ家族のもとへ行く。聞いた話によると、あるラビが週の半ばにバンガローへ向かうバスを手配してくれないかと信徒に持ち掛けたという。火曜日の夜に、仕事を終えた男たちを別荘まで運び、翌朝、都会まで彼らを送っていくバスだ。それは「じつのところ、妻とセックスするためのバスでした。そのバスの話になると、みなニヤニヤしてましたよ」と、サトマール派の信者は語る。「でも週の半ばにバスを手配する本当の理由は、男たちが都会でいくぶん羽を伸ばしているからなんです。バーに行ったり、けしからんことに浮気したりして、羽を伸ばすからなんです」

 ハシディーム同士の男女が浮気をしているという話は、耳にしなかった

ある男性が語ってくれたところによると、同じ職場で働いていた敬虔なユダヤ教徒の独身女性に恋したことがあったが、じきに彼女は結婚して退職したという。しばらくして彼女を街で見かけたが、「すでにお腹が大きくなっていて、カツラを被っていたんです」とのことで、かつての魅力がなくなっていた。ダブルの黒いスーツ、白いハイソックス、シュトライメルという高価な毛皮の帽子で身をかため、三〇センチのパヨスをたくわえた人々が、信徒が集まるコミュニティーに以外の場所で出会いを探すのは、そう簡単なことではない。わたしがブルックリンであちこち取材していたとき、メールで「パパラッチ」写真が送られてきた。ごく普通のディスコと思しき場所に、ハシディームの中年男性が二名いるところを撮った写真だ。ともかくぎょっとさせられたのは、その男性たちが異様に浮いていることだった。ふたりとも、ほかの客よりも少なくとも、一〇歳は年上だ。ほっそりした二〇代の若者のなかで、彼らのぽっこり突き出たお腹が、高カロリーのクーゲルを常食してきた歳月をはっきりと物語っている。

 写真に写っている男性たちは、婚外セックスを求めているわけではない。いきなり弾けた元気のいい若者、もしくは、夜遊びに繰り出した日本のサラリーマンのように楽しんでいるだけだ。結婚して子どもをもうけた二〇代の一〇年間を、短時間で取り戻そうとしているようにも見える。俗世間はいつもこんな感じなのだ、と思っているのかもしれない。黒いチョッキを着て黒い豊かなひげを生やしている男性は、両手をわきにおろしてこぶしを固め、ダンスのようなものを踊っている。ほぼおなじ風体のもうひとりの男性は、ホルターネック・ドレスを着たブロンド女性のむき出しの腰をつかんでいる。この女性がふりかえって、男性の頬をひっぱたいたかどうかは定かではない。

 遊び上手とはいえないハシディームの男性たちがどうしてもフェラチオをしてもらいたかったら、お金を払うしかない。ユダヤ教のコミュニティーのなかには、オンラインの恋人募集公告に顔写真を載せない限りは、信徒の男性がどういう行動をとろうと黙認する所もあるようだ。ユダヤ教の戒律には、男性が羽目を外すことを正当化する、都合のいい口実が用意されている。ユダヤ教の戒律では、不倫は本質的に、既婚女性が夫以外の男性とセックスすることを指す。つまり、浮気をする男性は不倫をしたことにはならず、その罪はより軽いものとなっているのだ。さらにユダヤ教の戒律は男性が愛人をもつことを、その愛人が未婚で、一カ月のうち二週間はセックスをしない、ミクヴェと呼ばれる沐浴をする、などの清浄儀礼を守っている女性であるならば、実際に許しているのである。

 このような戒律の抜け穴が、バーやディスコや性風俗の店に行くときに煙幕をつくってくれる。「つねに禁止されているけど同時に大目に見られてもいる、ってわけ」と、ヘラ・ウィンストンがわたしに語った。「『是非ともに行って、やってきなさい』という感じではない。でも、勘弁していいってことね」ヘラをはじめとした専門家たちの指摘によると、やましい気持ちを軽くするためにあえて黒人の娼婦を買うハシディームの男性もいるとのこと。彼女たちは穢(けが)れているだろうが、少なくともユダヤ人女性でないからだ。「女性たちはみな、学者を夫にしたいと望むの。『学者さんだったら、妻を裏切ることはないからですから』ってね」と、ウィンストンは語る。

 ハシディームを研究している社会学者のウィリアム・ヘルムライは、ウィンストンは、敬虔なユダヤ人は人間がひとりで行なう戒律を重要視する傾向がある、と述べている。要するに、一個人と神との関係をあきらにするような戒律である。不倫はふたりの人間のあいだで起こる出来事だから、ユダヤ教がとくに力をいれているものではない。「不倫が豚肉を口にすることよりは大目に見られているのは、おもにそのような理由からだと思っています」と、ヘルムライヒは語る。

 婚外セックスが戒律に照らし合わせて問題ないとされても

愛人をつくることを公然と支持するラピはほとんどいない。敬虔なユダヤ教徒でも戒律をそのまま厳密に守っているわけではないし、タルムードのすべての主張には、それぞれに反論意見が存在する。クラブハウスでの行事を主催しているアブラハムは、わたしを隅に連れていってあるエピソードを語ってくれた。

「ふたりの男の話なんだけどね。ひとりは浮気心を起こして、ある未婚女性と知り合った。で、彼女が穢れていないことを確かめて――っていうのもミクヴェで身を清めている女性だったんですよ――関係をもった。もうひとりは、やはり浮気心を起こして、脈のありそうだなと見定めた最初の女性とベッドを共にした」このふたりの男は、どういう裁きをうけたか? 「ラビは最初の男を破門にしたんですよ。周到に計画して不倫をしたからね。計画的だったってことが、けしからんってわけです。二番目の男は、人間だから仕方ないと許された。どうですよ、これ?」 モラルというのは、と彼はつづけた――「戒律のなかではっきりと禁止されていないことだからといって、やってもいいということにはならないんですよ」。

 どのくらいのハシディームの男性が、実際に娼婦を買っているのかわからない。彼らはすごく目立つから、黒い帽子をかぶった数人の男がマッサージパーラ―に寄っただけでも、実際より大げさにとらえられてしまう。しかし、彼らの心の奥底には、婚外セックス願望がたしかに渦巻いているようだ。一九九六年、「ヨシ」と名乗るブルックリンの敬虔なユダヤ人住む界隈に、秘密厳守のお見合いサービスの広告を配った。それは正統派のユダヤ教徒の男性に、ユダヤ教の戒律を守るきちんとした愛人を斡旋するサービスだった。広告で謳っていたとおりに、ヨシがハシディームの男性のもとに送りこむべく、セックスに飢えた玄人女性をほんとうに集めていたかは、はなはだ疑問だ。しかし《ワシントン・ポスト》の記者は、そのサービスに興味を持った数百人の男性がヨシに問い合わせの電話を掛けたことが確認した。

 男性たちか好奇心をそそられたのも不思議じゃない。結婚式の日にユダヤ教の典型的な性教育を受けたシェロモーは、その後七人の子どもを作ったにもかかわらず、妻とのセックスに燃えたことは一度もないと語る。現在四〇代のシェロモーは白いものが混じった茶色いぼさぼさのひげと青い瞳が特徴的な、覇気のない?せた男性だ。脚を組んでタバコをだらんとくわえている様子は、創作にとりかかろうとしているビート詩人のようだ。対照的に、彼の妻はがっしりした体格だそうだ。初夜以降、彼女は全裸になるのを拒否した。新婚当時、シェロモーが若い夫婦のための宗教指南書を家に持って帰ると、妻はとりつかれたようにその本を読み、すべての教えをきっちり実践しようとしたという。

「いいじゃないか!」シェロモーは妻にそう言ったのを覚えている。「きみはハシディームだけど、女性であることを忘れちゃダメだ」妻をリラックスさせるために、シェロモーは何度かオーガズムに達する前にいったふりをした。でも、それが功を奏したのも、わずか数回だった。

シェロモーがそれまで受けてきた宗教教育は、性的なエネルギーを結婚生活に向けるのには役立たなかった。彼はマッサージパーラ―に通いはじめ、じきに物足りなくなって娼婦を買うようになった。普通の人間に見えるようにジーンズを買い、パヨスが見えないようにした。ついには、ひそかにアパートメントを借りた。セックスが目的だけじゃないんです、とシェロモー。宗教世界の絶え間ない監視の目から逃れる場所でもある、というわけだ。「女の子と並んで座って、映画を観るだけでじゅうぶん満足なんです」

敬虔なユダヤ教徒でなかったとしても、シェロモーは妻の目を盗んで浮気をしていたかもしれない。しかし、性のにおいがしない無味乾燥な結婚生活に行き詰まっている以上、どうしようもなかった。シェロモーは信仰者として道に外れているが、まるっきりの異端者でもない。社交的な人間で、地元にすんなりと溶け込んでいる。友人が僕のしていることを知っていたし、一緒に遊ぶこともあった。とシェロモー。しかしじきに、事がいくぶん目立つようになってきた。秘密のアパートメントの近くにあるイェシバの学生たちが、半袖のシャツにミニスカートの女性と一緒にシェロモーが歩いているのを目撃したのだ。メールで送られてきた、ディスコで踊っている男性たちの写真がそうだったように、ゴシップが広がるのは避けられなかった。「連中はラビのところへ行って、訴えたんですよ。『ハシディームの男がシクサと付き合っている』とね」とシェロモー。シクサとはユダヤ人ではない、よそ者の女性のことだ。「ラビがわたしの家に電話をして、『気を付けるように』とかなんと忠告した」妻の父親と兄がシェロモーのところにやってきたが、罪を犯した者は天罰を受けるというような話はしなかった。彼らただ、このままだと離婚してもらうしかないと脅しただけだった。離婚は子どもに会えなくなることと、家族から縁を切られることを意味した。

 イスラム教徒は信者が不倫をしないようにするために、べつの手段を講じる。それは一夫多妻制である。ひとりの妻に忠誠を誓えないとしても、四人だったら誓えるだろう、というわけだ。

わたしは一夫多妻制の実態を知るために、インドネシアに行くことにした

そこは世界最大のイスラム教徒人口を抱える国だ。ジャワ島のソロに到着して二四時間も経たないうちに、わたしはインドネシアの自称一夫多妻王、プスポ・ワルドポの前にすわっていた。きっといけ好かない男だろう、とわたしは覚悟していた。国民からプスポと呼ばれているこの男性は、毎年開かれる一夫多妻婚コンテストの主催者であり、四人の妻と幸せに暮らす方法を書いた本を出している(妻たちの年齢は二五歳から四〇歳)。テレビのトーク・ショーにも出演している。プスポはそこで、一夫多妻婚は男たちを娼婦から遠ざけるし、結婚相手の候補となる男たちの数を増やすことにもなるのだから、じつは女性の役に立っているのだ、と彼に反感をもつフェミニストたちに説明している。

インドネシアでは一夫多妻制が合法となっているが、実践者は減っている。四〇歳以下の人々は、祖父、ときには父も妻を何人かもっていたが、自分たちと同じ世代でそうしている男性はあまり知らない、といっている。この変化は、一九六七年から一九九八年までインドネシアの大統領だったスハルト将軍の政策によるものだ。スハルト政権は公務員と軍人に一夫多妻制を禁じた。今日、中産階級の家庭のほとんどは、息子が二番目の妻をもらうと、それを恥ずべきこととして秘密にする。さらに、教育を受けた女性は二番目の妻になることを嫌がる。とはいえ、条件さえそろえば、二番目の妻になる女性も少なくはない。

一夫多妻制を実践しているのはごく少数だが、それが合法となっているために、浮気を正当化しやすくなっている。インドネシア人のおよそ九五パーセントが宗教は自分たちにとって「とても大切である」といっていることかわかるように、インドネシアはアジアでもっとも敬虔なイスラム教徒の国であり、世界的にもイスラム教の信仰が篤い国の一つとなっている。現代的な超高層ビルのなかにある会社には、従業員が祈りをささげるためのコーナーがあるが、移動しやすいように食堂の隣に設置している場合も少なくない。わたしが訪れた若者向けのラジオ局には西欧の人気歌手のポスターが貼られていたが、ラジオ局が一年間いちばんよく働いた従業員にあたえる褒美は、費用はすべて会社持ちのメッカへの巡礼の旅だ。

熱い信仰心は、社会的ステイタスをえる手段のひとつだ。世論調査によると、インドネシアは現在の世俗的な法律制度をシャリーアと呼ばれるイスラム聖法に変えるべきだとする意見に、国民の半数以上がおおむね賛成とこたえている。しかし、窃盗犯の両手を切断する、不倫を犯した者を投石の刑に処す、などのイスラム聖法の刑罰に賛成するかどうかという問いには、シヤリーア賛美は影をひそめる。不倫は違法行為だが、その裁判は世俗裁判所で扱われる。刑が確定したさいの処置は、比較的軽い。最高で七年間の服役ですむ。

プスポが一夫多妻制をふたたび広めるべく説教を行う場所は、なんとファストフードレストランである。プスポはインドネシア各地におよそ四〇店舗のレストランを所有している。一夫多妻制の激励運動がチキンの売上を伸ばす手段になるのか、あるいはチキンの売上を伸ばせば一夫多妻制が広まるのか、すぐにはわからなかった。いずれにせよ、最善のマーケティング戦略とは思えない。通訳のために同行してくれた友人の話では、ジャカルタに住む彼女の女友だちはプスポのレストランでは食事は絶対にとりたくないといっているらしい。

レッスンその一 一夫多妻制はおいしい。インタビュー会場となったプスポのレストランで、彼はわたしたちに熱々のフライドチキンとぴりっと辛いピーナツバターッツソースがかかった豆腐をごちそうしてくれた。それと、一夫多妻制(ポリガミ)という名のスペシャルジュースも。ジュースの名前は、四つのフルーツの果汁をミックスしていることからきている(イスラム教の男性は最高四人まで妻を娶ることができる)。

レッスンその二 一夫多妻制を実践している男性は魅力的でもある。プスポが魅力的だったことにどうして驚いたのか、自分でもわからない。多くの女性を惹きつける男性だからこそ一夫多妻婚を実践できるのだ、ということは初めからわかっていたはずなのに。でもわたしは、四七歳のこのプスポなる人物は、おぞましい男だろうと想像していた。実際は、浅黒い肌の魅力的な顔立ちで、にこにこ笑いながら相手の目をまっすぐ覗き込む男性だ。裕福でなければ財を増やせない国にあって、貧しい身から富をなした感動的な身の上話をプスポは語った。両親が営んでいた鶏肉料理の小さな屋台を、現在のウォン・ソロチェーンに成長させたとのこと(プスポ自身も、「ウォン・ソロ」と呼ばれている)。ビジネスはイスラムの原則にしたがって展開しているし、収益の一部を慈善事業に寄付している、と彼は語る。

プスポはそういわなかったが、一夫多妻制をイスラムが認めているそもそもの理由は、夫を戦争で失った女性の救済だった。預言者マホメットは一三人もの女性と結婚していたが、そのほとんどは未亡人だった(唯一の例外はアーイシャで、正式に結婚したとき彼女はおよそ一〇歳だった)。プスポは未亡人の救済どころか、できればセルライトだらけの体は避けたいと思っているタイプのようだ。四番目の妻を決めるコンテストを以前開いたとき、プスポは出場資格を二五歳以下、体重五四キロ以下とした(痩せた女性はヴァギナが狭いから、セックスのときある種の体位をとらせるのに楽なんだよ、とプスポ)。インドネシアのような貧しい国では力のある男が特別な魅力を放つというプスポの意見は、たしかにそのとおりだ。なんといっても、三五〇人の女性がコンテストの予選に集まったのだから。

インドネシアには貧しくて美しい若い女性が大勢いる

その事実の前では、アラビア語でいうところのジナー、つまり婚外セックスをイスラム教が禁じていることなど、どうでもよくなるようだ。「成功して財をなした男たちは、ほとんど浮気している」プスポはいう。「わたしの友人も、ほとんどは浮気している。ほんの遊びで、娼婦と浮気しているよ」妻たちは夫に辞めろということができない、と彼。「妻が怒ったら、男はますます浮気をするからね」夫の不倫が原因で離婚した女性が再婚したら、その再婚相手もまたおなじことをするだろう、とプスポは説明する。

でも、四人の奥さんで満足できるだろうか? 奥さんたちだって、いつまでもほっそりした若い美女というわけにはいかないのだから。プスポは妻を四人もつために、もっとたくさんの妻が欲しくなっている。預言者マホメットにはもっとたくさんいたのだから、四人という制限はじつのところはない、というのが彼の言い分だ。ちなみに、とプスポが聞いてくる。わたしの条件にあうアメリカ人女性、知らないかい? (がっかり。体重がネックとなって、わたしは候補から除外されたようだ)

わたしが考えておきましょうとこたえると、プスポは読唇術を心得た女たらし風の顔をして、ほっそりした通訳の女性に注意を向けた。「きみがどういうタイプを好きか、わかるよ」通訳をじっと見つめる。「きみは懐の深い男に夢中になるタイプだ、たとえその男に妻が二、三人いてもね。きみを口説くのは、大変な努力が必要だろうけど」通訳は真っ赤になっている。落ち着きを取り戻して、プスポのセリフを英語に通訳するのに、まる一分はかかった。のけ者にされてむっとしたわたしは、だったらわたしはどういうタイプの男性が好きだと思いますか、と話をむりやり自分の方向に向けた。プスポはじろじろわたしを見た。「あなたは男らしい、強い男が好きだろう。わたしのような男がね」

中央ジャカルタにある宗教裁判所のメインホールは人影がなく、事務用品の類もほとんどなかった。あるのは、木の机と手動のタイプライターと壁にかかった年間図だけ。その年間図には今年あつかった裁判が記されている。どこにも椅子が見当たらないので机にもたれかかると、すかさず助手が駆け寄ってきた。そこに座らないで、とわたしに注意する。

 複数の妻を持つことができない男は浮気をするという考えは、宣伝活動に余念がない一起業家の個人的な意見ではない。ここに来て知ったことだが、その考えはほぼ公式な見解、そこまでいかずとも、社会通念となっている。

インドネシアの宗教裁判所は、誕生、死亡、結婚などの家族関係の問題をあつかう。

二番目、三番目、四番目の妻を娶りたい男性は、この裁判所で結婚の登録を行うことになっている

 妻たちを平等にあつかう、現在の妻の許可を得てからあたらしい女性を迎えられる、という一夫多妻制をとるにあたってイスラム教が定めている一般的な条件を加えて、インドネシアの法律は現在の妻が不妊症、重い病気にかかっている、夫の性的な要求にこたえることができない、などの条件が必要であるとしている。

法律の条文にはそう書かれている。しかし、金メッキをほどこした法廷をめぐって裁判を見学しているときに助手が話してくれたところによると、夫が妻である自分の許可を得ないであたらしい妻を迎えたと訴える女性がたまにいるという。裁判所はまず夫の経済状況を調べ、訴えを起こした奥さんが性的に夫を満足させているかどうか調査します、と助手。どういう判決が下されるかは一概には何とも言えないが、妻の年齢がだいぶいっている場合は、それだけで不利だという。「閉経を迎えた女性には性欲がありません。でも、おなじ年頃の男性はまだ性欲が強いですから。一夫多妻制が採用されているのも、このためです」と助手は語る。

なんだか、よくわからない。妻の許可を得なくても、男性はあたらしい妻を娶ることができるのか? べつの裁判所職員の話によると、実際のところ一夫多妻婚の登録をしにくるカップルは年に一組かニ組で、壁の年間図によれば今年にはいって登録をしたカップルはいまのところゼロだった。わたしのインタビューにこたえてくれたそのふたり目の職員は、以下のように説明した。「一夫多妻婚には二種類あるんです。裁判所にきて許可を求める健全なカップル。それに不健全なカップル――つまり、登録をしない人たち。不健全なカップルはたくさんいます」昨年は一組が登録に来たが、手続きが完了しないうちにマレーシア人の夫は雲隠れしてしまった。恐らく、登録したら無用な面倒を背負いこむことになる、と誰かに指摘されたのだろう。

基本的に、二番目、三番目、四番目の妻を娶りたい男性は、わざわざ結婚の登録などしない。その女性の住む家を建てて、子づくりに励むだけの話しである。ほかの妻(ひとりの場合もあれば、複数の場合もある)が最後にそれを知る、ということも珍しくはない。そういう妻たちが訴えを起こす場所はこの宗教裁判所だが、勝てる見込みはあまりなさそうだ。

 わたしのインタビューに答えてくれた二番目の裁判所職員の話によると、第一夫人が子どもを産める健康体で、夫の性的な欲求にちゃんと応えていることを証明しても、裁判官は夫に有利な判決を下すだろうとのこと。「夫に許可を与えないと、欲望を満たさせるために引き続き浮気をするでしょうから」と職員は語った。

インドネシアをはじめとしてイスラム教国の大半では、残念なことに性に関する信頼できる統計データがない。複数の国で世論調査を行う研究者も、イスラム世界ではセックスに関する質問をはぶく傾向がある。イランは不倫をした者を投石の刑に処して死に至らしめるが、そのような国における不倫率をさぐるのは、不可能なのだ。人口のほぼ半分がイスラム教徒であるカザフスタンでは、一九九九年の調査で、結婚もしくは同棲している男性の一・六パーセント、女性の〇・九パーセントが、この一年間に複数のセックスパートナーがいたと答えていた。やはり国民の半分がイスラム教徒であるナイジェリアで二〇〇三年に行われた調査では、男性の一五・二パーセント、女性の〇・六パーセントがこの一年間に複数のセックスパートナーがいたと答えていた。

たしかなデータはないものの、インドネシアのある種の社会では浮気が頻繁に行われていて、公然の秘密となっているらしいという情報がじきにわたしの耳にはいってきていた。インドネシアでインタビューをした中流階級の男女はみな口をそろえて、コーランが禁じているから不倫は悪いことだといった。でも、つぎの瞬間には、「ほんとうはごく当たり前のことで、浮気をしている友人もいっぱいいます」と多くが語った。

「イスラム教は寛大ではありません」と、インドネシア大学社会学部の学部長、パウルス・ウィルトモは語る。「しかし、形式を重んじる宗教でもある」宗教は不倫防止に役立っていないように思えるものの、宗教が性文化を決定づけていることは間違いない。イスラム教を面と向かって侮辱するような行為はしたくないから浮気は慎重にするようにしている、とわたしに語った人も少なくない。

一夫多妻制は、男はひとりの女性だけでは満足できないという考えを正当化しており、事実上、既婚男性がよその女性とつきあうことを許可している。たとえその夫が妻にする気はないとしても、だ。「一夫多妻制は不倫を誘発します。二番目の妻と結婚する前の交際期間は、不倫をしているのと同じですからね」ウィルトモは語る。高い教育を受けた女性でさえも、わたしが一夫多妻制の話を持ち出すと、恥ずかしそうにくすくす笑う。彼女たちは、自分の夫が第二夫人を迎えたいと言い出したらどうしようかと、常に心配しているのだ。

インドネシアの人々は、表向きのルールと現状の大きなギャップを当たり前のものとして受け入れている。世界各国の汚職や腐敗のていどを測定している団体トランススペアレンシー・インタナショナルは、インドネシアを腐敗が進んだ国の一つにランキングしている。調査対象となった一五八カ国のうち、インドネシアより腐敗している国はわずか二一カ国だ。

しがらみのない浮気を意味する

おもしろい響きの言葉すらある。ボボック・ボボック・シアン、もしくはその頭文字をとってBBSというのがその言葉で、もともとは「昼寝」を意味する赤ちゃん言葉である。短い情事を意味するスリンクは、翻訳すると「すばらしい中休み」になる。以上のように不倫においては、男女ともに浮気が自分の結婚生活に影響を与えることはないと思っている。

女性もまた浮気を楽しんでいる。そのひとりであるレアは、ジャカルタに住む二四歳、白いシルクのベールで褐色の肌を隠している。三歳になるひとり息子と豊かな生活をさせてくれる夫がいるが、週に一回セックスをして一日に少なくとも一〇回メールを送ってくれる愛人もいる。
「見て頂戴! わたしはイスラム教徒で、ベールを被っているわ。でも、別の顔を持っているのよ」リアはそういって、手で頭を押さえた。それから両手をわたしの前に突き出して、ふたつの指輪を見せてくれた。ひとつは夫からもらったダイヤモンド。もうひとつは愛人からもらった金のリング(夫はそれを知らないが)。リアの両親は敬虔なイスラム教徒で、毎日娘に電話をかけてくる。リアの浮気を知ったら、父と母は激怒するだろう。でもリアにとって、近所に住んでいる未婚の愛人はかけがえのない存在だ。夫には決して望めない濃(こま)やかな愛情を与えてくれるのだから。夫との結婚生活は名目上のものだ。また学校に通いだしたリアに授業料を渡してくれるのは愛人だ。「夫のことはまだ愛しているけど、わたしを生き生きとさせてくれる男性も必要なのよ」と、リアはいう。

 リアの話によると、彼女の友人のなかにも立派な夫を持ちながら、夫より若い愛人とつきあっている女性もたくさんいる、とのこと。未婚の愛人も少なくないらしい。ひとり紹介してあげるというリアのアレンジで、わたしは翌朝、人気のないモールでディアンに会った。ディアンは二九歳。愛人をつくったのは、夫が昔ガールフレンドと浮気をしているのを知った直後だという。その関係が発覚したとき、夫は”遊び”で付き合っているだけだし、たわいもない関係だと言い張った。

 ディアンは法律の学位をもっているが、外で働くことを夫に禁じられている。帰宅したとき、妻が家にいないのは嫌なのだそうだ。ディアンは毎朝、夫のブリーフケースに必要なものを詰める。何か入れ忘れると、会社にいる夫から電話してきて彼女を怒鳴りつける。「いけないことだと思っています。こんな関係はよくないって。でも、夫以外の人は必要としている現実は変えようがありません。わたしは気遣ってくれる。お昼はもう食べたのかって、聞いてくれるんです。夫がそんな気遣いをしてくれることは、一度もないけど」

 不満をかかえた妻たちは、外国人男性にとって簡単に口説き落とせる相手だ。外国人男性は女性たちの社会的なネットワークとは別の世界で生きていて、異国人ゆえの魅力がある。ここでマイクというアメリカ人を紹介しよう。マイクはジャカルタで学術調査をしている、二〇代後半の男性だ。もっぱら現地の奥さんたちを相手にセックスを楽しんでいる。以前は未婚女性を追いかけていたが、一晩限りのつもりだった女性からあなたの赤ちゃんが欲しいとのメールが翌日送られてきて、それ以降は路線を変えた。

「アメリカでは、ぼくもごく普通の男だった。いろんな女の子と寝ていたけど、それほど数は多くなかった」と、マイク。

「ここでは、すごく簡単に事が運ぶんだよ。駆け引きは一切ないんだ

『マウ ケナル』って声をかけるだけ。これって、『あなたを知りたい』って意味なんだけどね。なんというか、これだけで口説けちゃうんだ」マイクの最大の不満は、人妻ですら何回か密会しなければ関係を終わらせてくれないことだ。マイクは人妻と譲歩しあって、ほぼ五回”顔合わせ”をすることを決めている。セックスの新鮮味が薄れてくると、女性たちは「いかせてくれて、ありがとうね」といって姿を消す、とのこと。マイクの友人で、インドネシアに数年いるニュージーランド人が語ったところによると、人妻との遊びが真剣な恋愛に発展することはまずないらしい。「インドネシアでは、秩序を乱すのはよくないことだからです」と、そのニュージーランド人は説明する。

 ほんとにそんなに簡単にいくの? わたしが疑うと、お気に入りのナンパ・スポットで女性を引っかけるところを見せてあげる、とマイクがいう。そのスポットとは、ブロックMプラザの入口付近の化粧品売り場だった。ブロックMプラザは、お金持ちの女性たちが、運転手が迎えにきたかどうかガラス越しによく確認している高級ショッピングセンターだ。売り場に着いたわたしは、よさそうな女性が何人かいるじゃないの、とマイクにいった。しかし、マイクは即ざにだめだねと判断した。若すぎるよ、くわえ込んだら離さないタイプかもしれない、とのこと。ほんの数分で、マイクは誘いに乗りそうな女性を見つけた。腰までの長い黒いロングヘアの痩せた女性。タイトジーンズにブラジルのサッカーチームのTシャツ、といった格好をしている。年齢はおそらく二五歳以下で、やたらに大きい婚約指輪をはめている。わたしは物陰にかくれて、マイクが彼女に近づく様子をカメラにおさめた。マイクが女性に声をかけて数分しか経っていないのに、ふたりはケイタイを出してたがいの電話番号を登録している。

 何もわかっていないな、とでもいうようにマイクが苦笑いを浮かべた。「僕みたいな男がああいう女の子に声をかけて電話番号をきいた場合、目的は一つしかないよ」

 いつの間にか深みにはまってしまう外国人男性もいる。わたしはソロで、三三歳のイタリア人男性ロマンに会った。ロマンは四人の妻がいて、子どもは一二人いる。そのうちふたりはこの二週間のあいだに生まれたという。子犬のような瞳といい、癖のある茶色の豊かな髪といい、プスポと同様に女心をくすぐるタイプの男性だ。でもプスポとちがって、宣伝活動はしていないし、妻がみな仲良くやっているとも言わない、「妻たちはいがみ合っている。ぼくの人生は地獄です」ロマンはウイスキーを飲みながら語る。インタビューを行っているのはロマンの家の近くのバー。ちなみに、彼は家を四軒もっている。「どうしても四人一緒に暮らしてくれないのか、理解できないですよ」

 ロマンの妻たちは最年少が二〇歳で、最年長が三二歳。ふたりは大学を卒業していて、あとのふたりは高卒だ。「三番目の妻と結婚した後、もう結婚はこりごりと思いました」と、彼。
「この国では、結婚は本人同士でするものではない。女性とつきあうことをその家族とも結婚するんです。金銭的な面倒を見やらなきゃいけない」ロマンは何もかもきっちりするために、昨年イスラム教に改宗した。あたらしい妻を迎えるたび古株の妻たちが自殺すると騒ぎ立てる。木工家具を製造して輸出する仕事で、一カ月の家計およそ六〇〇ドルをそれぞれの家庭に何とか渡している。普段はひとりで暮らしているが、朝方の四時に妻が電話をかけてきて、いまどこにいるのか、だれといるかと聞いてくるという、少なくともぼくの両親は息子をほこりに思ってくれています、とロマン。

 混乱をきわめている暮らしの中で、ロマンは数人のガールフレンドとつきあうことに慰めを見出している。インタビューをしているあいだも、ガールフレンドのひとりからケイタイにメールが届いた。「あのね、あなたのことすごく恋しがっているひとがいるわよ」との文面。メールは英語で書かれている。ロマンはインドネシア語を話せないのだ。
「ぼくはそれほど強くない。すごく弱い人間なんです。誘惑に逆らえない」ロマンはいう。そう泣き言をいう姿も素敵で、つい同情してしまいそうになるわたしだった。

 シナイ山でモーセが神から十戒を授かったときのジョークがある。山から降りてきたモーセは、イスラエル人にこういった――「よい報せと悪い報せがある、よい報せとは、神に戒律を一〇個制限してもらったこと。悪い報せとは、その中に姦淫(かんいん)に関する項目が含まれることだ」

 一神教はすべて、成立当初から不倫を禁じた

しかし、信仰心が浮気を遠ざけるという証拠はわたしか見る限りなかった。二〇〇一年にアメリカで行われた調査によると、自分の結婚生活を「といも幸せ」としている人々、もしくは「それほど幸せではない」としている人々の間では、週に二回以上礼拝に行くことでさえ、浮気の経験の有無にほとんど影響を与えていなかった。教会で過ごす時間はそれほど大切にしていなくても、「非常に幸せ」な結婚生活を送っている人々がいた。

 二〇〇〇年に発表された別の実験では、定期的に教会に通っている男性たちは、通っていない男性たちに比べて、浮気の率が低かった。しかし女性では、教会通いと浮気の間に相関関係は見られなかった。牧師は職業上、不倫をする格好のチャンスに恵まれている。信徒の相談に一対一で乗ることもしばしばあるからだ。ディビ・カーダーはカリフォルニア州のフラートンで活動している福音派の牧師だが、同僚の二名の牧師が信徒の女性と駆け落ちしたのを契機に不倫に関する自己啓発本を書いた。わたし自身訪れたことがあるメンフィスの支援団体は、伴侶の浮気に悩む人々を助けるグループだったが、そこの四人の牧師は結婚していた。

 信仰心があるひとが不倫をすると、強い罪悪感をもつことはありうる。不倫は信仰心を問われる問題なのだ。アメリカのクリスチャンのなかには、不倫の過ちを都合よく説明する方法を編み出した人たちがいる。自分はセックス中毒にかかっているのだ、という説明である。フロリダ州レイク・マリーを拠点として宣教団体LIFEミニストリーズは、セックス中毒患者とその伴侶のための支援グループで、アメリカ全国に一〇〇以上の支部があるという。名前のLIFE(毎日を自由に生きる)」の頭文字をとっている。その支援グループの説によると、セックス中毒は「害がないように思われる」マスターベーションから始まって、じきにインターネットのアダルトサイトにはまり、スリップショーに通ったり、売春婦を買ったりするところまでエスカレートするのだという。グループの会合では、メンバーたちは祈りを捧げ、LIFEミニストリーズの手引書のなかで何度も繰り返されるメッセージは「わたしの肉体は妻のものであって、ほかの誰のものでもない」だそうである。

 聖書に明らかにしていない問題については、メンバーは以下の質問を自分に問うようにしているという。「イエス様だったら、このような行いをしただろうか ? 神はみずから性的に興奮しただろうか? 多分そんなはずはないはずだ」

 世界のどこに目を向けても、信仰心の深さと不倫の相関関係は見出すことは難しい。フランス人とイギリス人はアメリカ人にくらべて格段に信仰心が薄いが、この三国の不倫率はほぼ同じである。サハラ以南のアフリカ人は非常に信仰心に篤く、その地域の国々の多くは、国民の八〇パーセント以上が宗教は自分たちにとって「とても大切である」と答えている。しかし、アフリカはおそらく、パートナーを裏切る男性の割合がもっとも高い大陸である。ラテン系アメリカの人々もまた信仰心が篤いが、同時にしょっちゅう浮気をする。

 イスラム教とユダヤ教には、アメリカの税法が簡単に思えてしまうくらいに複雑な戒律があるが、ともに婚外セックスを正当化する抜け穴もある。インドネシアでは一夫多妻制ができるために、何のお咎めも受けずに妻以外の女性たちと付き合っている男性がいる。信心深いユダヤ人のなかには、愛人を持つことを許している不可解な戒律を見つけて実行している男性もいる。皮肉なことに、大まかな道徳的な規範がひとつあるよりも、細かい戒律がたくさんあるほうが不倫をしやすいし、罪の意識に悩まされることもない。

 結局のところ、人間の行動を決定づけるのは宗教というより土地柄だ。アメリカの敬虔なキリスト教徒の行動様式は、他の国のキリスト教徒というよりも、無宗教のアメリカ人のそれに近い。同様にインドネシアの性文化は、信仰心が篤い国であるという事実と同じくらいに、貧しい国であるとい事実によって形成されている。ブラジル人が浮気をするかしないかは、彼らの信仰心の度合いに左右されるだろうが、それと同じくらいに比較的裕福で不倫率が低い南部に住んでいるか、性的に放縦な北部の貧しい地域に住んでいるかによって違ってくる。

 ブックリンに住むハシディームの人々は、アメリカ社会規範に自分たちが飲み込まれてしまうのではと本能的な危機感を抱いている。テレビを禁じている宗派があるのはそのためだ。しかし、自分たちの住んでいるせまいコミュニティーを、退廃という大海に囲まれた純潔の孤島にしてしまうのは、危険である。外の世界への好奇心をかえってあおってしまう。さらに、世俗の世界に足を踏み入れるときには人目を忍ぶ必要があるから、その行き先は限りなくいかがわしい場所にならざるをえない。

どこの国でも、浮気の天罰を恐れていると語ったひとは男女のべつなくひとりもいなかった

罪悪感がまったくないようなひともいた。しかし、罪悪感にさいなまれているひとたちはみな、自分が恐れているのは夫や両親や牧師の非難だと語った。南アフリカにおいて、感染症は現実感の乏しい実態のない幽霊と見なされているが、神もまた同じような存在なのだ。ある人物が浮気をするタイプかどうか見極めたかったら、信仰している宗教を聞かなくてもいい。パスポートを見せてもらって、その人物の友人に会えば答えは出る。

 わたしが次に向かう、この取材旅行の最後の目的地となる国は、中国だ。中国の好景気が性革命をもたらしたという話は、たびたび耳にしていた。それが不倫の急増を意味しているのか、探ってみたいと思う。

 つづく 第10章 性革命