煌きを失った夫婦はセックスレスになる人が少なくない、特許取得ソフトノーブル&ノーブルウッシングは避妊法としても優れタブー視されがちな性生活を改善し新鮮な刺激・心地よさを付与しセックスレス化を防いでくれます

トップ画像

第7章お一人様用布団の謎

本表紙  
 パメラ・ドラッカーマン著 佐竹史子訳

日本はシングルベッドの国だ

 わたしは東京の巨大デパートの寝具売り場に向かった。場所は東京の中心地、渋谷。これまたひどく巨大な渋谷駅の上にそのデパートはある。ニューヨークのグランドセントラル駅の上に、ブルーミングデールが増設されているような感じ、といえばわかっていただけるだろうか。

 この売り場でまず目についたことを、わたしは販売員――ちなみに、彼の名前はトオルというそうだ――にぶつけてみた。一人用の布団しか置いていないんですね。西洋式のベッドも在庫にありますが、それもすべてシングルサイズです、とのこたえが返ってきた(シングルサイズとは、アメリカ人がいうところのツインサイズを指す。アメリカでは主に子供が使うベッドである)。

 でも、ダブルベッドは手に入らないの? この国では、抱き合って眠るひとはいないの? 
 トオルは眉根を寄せて、うつむき加減になった。これは日本人がよくする仕草で、「申し訳ありませんが、わたしがいまから口にすることに、お気を悪くするかもしれません」という意味をふくんでいる。ダブルベッドは特注のみ承っている、とのこと。トオルの知る限りでは、日本人がダブルベッドを注文したことは一度もないらしい。客はみな、わたしのような外国人だった。「大使館などで働いているかたばかりです」トオルはいくぶんためらいながらも、教えてくれた。

 日本はシングルベッドの国だ。カップルは抱きあうとき、布団をくっつけるのかもしれない。あるいは、わたしの祖父母がしていたように、どっちかのベッドを使って仲良くするのか。いずれにしても、一枚のマットレスにふたりで横になることはないらしい。

 これはなにか重要なことを意味しているのだろうか? 外国人はしばしば日本の性習慣を盲目的に賛美するが、それはあまりにも安易だという気がする。日本語を勉強していた三年間と、大阪の大学に留学した半年間に、私はそう思うようになった。留学当時は、日本人の恋人さえいた。ユウジという名の男の子は、いつもカウボーイハットをかぶり、「カメラ」とおなじ響きがあっていいねとわたしの名前がパメラをほめてくれた。残念ながら、ユウジは未婚だったから、彼とつきあった経験は調査の役には立たない。さらに、日本では全国規模で行われたセックス調査もないようだ。

 わたしはとんでもない過密スケージュールで、日本でのインタビューを行うことにした。たくさんの一般人から話を聞き、政府の専門家、第一線で活躍している社会学者や研究者と面会する手はずを整えた。離婚専門の弁護士や心理学者と会う約束を取り付け、不倫にかんする統計結果と記事を集めるアシスタントを数名やとった。

 お一人様用布団の謎を解明しなければ。たとえそのために、日本人の寝室にいきなり飛び込まなくてはいけないことになっても。日本のカップルは定期的にセックスをしているのだろうか? 禁欲主義者なのだろうか? それとも、わたし個人としてはこれがほんとうのところだと思うが、パートナー以外のだれかとセックスしているのか?

駆け出し通訳者マイコを雇って、さっそく行動を開始する。マイコはセックスの話になるといつでもくすくす笑う癖に、時給二〇ドルという法外な通訳料をちゃっかり請求した。最初にアポを取っていたのは、結婚アドバイザー。オフィスは東京の閑静な住宅地で、家々の垣根越しに木々が茂っていた。ここ一帯に住む子どもたちは、ブリーフケースをもった父親が「ただいま」と家に帰ってくると、玄関まで走っていって迎えるのだろう。

 約束の時間にオフィスに着くと、マイコとわたしはスリッパを履いて、清潔ですっきりした部屋に通された。わたしたちを待っていた結婚アドバイザーは、池内ひろ美。小柄で快活な彼女は、年齢は四〇代半ば。わざと無造作にしたボブヘアがよく似合う、赤い口紅が鮮やかな女性だ。インタビューがはじまって間もなく、池内は離婚経験があるといった。事実、それが彼女の売りだった。「離婚はいいですよ! 離婚してよかった!」と、彼女。池内の専門は、実は結婚ではなく離婚なのだ。渡されたパンフレッドには、東京家族ラボラ心理研究所とオフィスの正式名称が書かれていた。なるほど。だから、このオフィスにはどこか病院を思わせる雰囲気が漂っているのだ。

 池内は日本の家庭の在り方を説明するために、ホワイトボードに「妻」と「夫」と書き、そのあいだに赤い線を引いて両者をわけた。ファミリーつまり「家」の長は夫。女性は結婚すると夫の付属物となり、「妻」という立場を得る。池内はさらに赤い線を書いて、夫婦のあいだの子どもは夫の「家」に生まれた子として扱われ、母である妻は依然として赤い線の外にあることを説明した。

 「家」をテーマにしたラブソングはない。家は愛というよりは、財産や責任を担うものだからだ。アメリカの結婚は、一組のカップルが話し合いながら「関係」を築き上げていくものだが、「家」を中心とした結婚は、その対極にある。池内の説明によると、年配の日本人の中には妻の名前すら口にせず「おまえ」とぞんざいに呼びかける人もいるという。若い夫婦ですら、子どもが誕生すると妻を「お母さん」、夫を「お父さん」と呼ぶようになる(ごく少数の現代的なカップルは、ママ、パパ、と呼び合う)。

 で、ベッドは別々だ。一般的に「お母さんは」は布団を赤ちゃんの部屋に移して、五、六歳になるまで子供と一緒に眠る(夫は妻がいなくなった寝室に、大きなステレオコンポとフラットスクリーンのテレビを置くのが慣わしになっている)。「家」制度を古くさいと思っている若いカップルでさえ、その呪縛から完全には自由になっていない。横になって抱き合うのを恥ずかしいことと思っている。

 夫婦なのに寒々しい感じがしますね、とわたしはいった。池内はうなずいた。だから、セックスレス・カップルが存在するんです、と彼女。

 セックスをしない結婚? それって矛盾しているのでは?

 日本では矛盾していない、と池内は説明する。セックス・カップル、通称「セックスレス」とは、第一子誕生後にセックスをほとんど、あるいはまったくしなくなった夫婦のこと。セックスレス・シンドロームは数年、あるいは一生つづき、二〇代、三〇代の若いカップルを悩ませているが、その「問題」について夫婦が話し合うことはないのが普通だ。日本人夫婦のどのくらいがセックスレスなのか池内もよくわからないようだが、日本固有の現象ではないかと思う、とのこと。そして、家で長である夫に問題があると指摘した。性のにおいがしない結婚生活を送っていることに妙な誇りをもってる男性が、日本にはいるのだ。「セックスと仕事は家庭に持ち込まないことを信条としている男性たちがいるのです」と、池内は語る。

 これで最初の謎は解けた。日本の家庭では、あまりセックスが行われない。だったら、どこかよその場所で行われているのか? それとも、日本の性文化にはセックスが存在しないのか?

 家庭に存在しない失われたセックスを調査するためにわたしが向かったのは、東京にある中堅の建設会社の会議室だった。社員の男性にインタビューをさせてくれと、その会社に依頼したのである。その会議室でわたしはいきなり、手に余るほどの収穫に恵まれた。集まった三〇代と四〇代の五人の男性が、いっせいに自分の結婚生活を話し出したのである。

 池内と同じで、男性たちは結婚よりも離婚の話をしたがった。話を聞くと五人全員が離婚経験者で、結婚を解消したがったのは、例外なく妻のほうだった(日本では、離婚を切り出すのはほとんどが妻なのだ)。

 わたしが詳しい話を聞かせてくださいというと、男性たちは淀みのない口調で語ってくれた。同居している両親と折り合いが悪かった。妻の関心が子どもにばかり向くようになった。などなど。わたしは彼らが何かを隠している気がした。

 しばらくしてやっと、品質管理部につとめるマモルという四〇歳の男性が、苦しかった経験を語ってくれた。結婚してから二年後、幸せな生活をおくっているとばかり思っていたのに、妻が離婚届を渡してきたのだという。

 「妻はいいました。『ここにあなたの名前をサインしてちょうだい』」紺色の背広に白いシャツ、ストライプの青いネクタイといった、サラリーマンのお決まりの格好をしたマモルは当時をふりかえる。それから一年、サインができないまま離婚届を持っていたが、なぜ離婚したのか妻には聞かなかった。実際、妻とは口も利かず、家庭内別居の状態だった。

 話し合いもせずに別れるなんて、わたしにはセックスレス以上に想像がつかない。しかしマモルは、妻と夫婦の関係について話し合うのは、別れることよりつらいと感じたんです、という。
「理由をきくのが恐ろしかった。人格を否定されるんじゃないかという気がして」と、マモル。

 マモルのようなサラリーマンは、どれほどの苦悩を抱えていようとも、デリケートだとか魅力的だと思われないのが普通だ。ビールくさい息を吐き、若いうちから太鼓腹になり、通気性の悪いポリエステルのスーツを着ている、というのがサラリーマンの一般的なイメージだ。三菱や野村といった大企業の社員は、いい仕事に就いているからもてはやされる。しかし、ステレオタイプのイメージからすると、サラリーマンのほとんどは会社人間で、仕事以外に趣味をもったり、女性を惹きつける方法を学んだりする時間がない。

 わたしが東京で会ったサラリーマンたちは、ほかのどの土地の男性よりも浮気をする機会に恵まれていた。仕事が終わると、仲間同士で酒を飲む習慣があるからである。上智大学の社会学者ジェームズ・ファラーは、「アメリカでは、パーティに妻と一緒に行かないと『どうして奥さんは来ないのですか?』ときかれます。奥さんを家に残して出かけるのは妻への侮辱、結婚への侮辱となる。でも、ここ日本では、公の場に妻を頻?に連れて行くのは、ひどくおかしい、不適切なこととみなされるのです」と語っている。

 親密な愛情表現や素直な会話はアメリカ人の夫婦にとってはなくてならないものだが、日本人の夫婦のほとんどはそういうものを必要としていない。仕事の上でどんなに深刻な問題をかかえていても、妻に打ち明けることはないと自慢する日本人男性は少なくない。「ぼくは完璧な夫なんですよ。妻に愛情は注ぐけど、自分の悩みは打ち明けません。妻にとって強い男、完璧な夫なんです」と東京のある男性が自慢した。国の資金で結婚の実態調査を行っている。結婚相談所所長の坂本洋子は、夫と妻がすれ違いの生活を送るうちにセックスは恥ずかしいものになることがよくある、という。「セックスが薄汚いものに思えてくるんです。体を触れ合うのは動物的で、ぐちょぐちょしている。男女ともに、そう思っているんですね」坂本は説明している。

 でも、そういう夫や妻だって、だれかとの親密な関係を求めているはず。でも、いったいだれと? 離婚経験のある五人のサラリーマンは、そくざに「ホステスのいるバー」を挙げた。ビジネスマンが時間制でお金を払い、若い女性とおしゃべりをする店だ。東京のような大都市には、そのようなバーがあちこちにある。小さな町であっても、鉄道の駅周辺に一軒はあるのが普通だ。会社の重役が取引先を高級バーに招待した場合は、支払いはすべて会社持ちとなる。

 「女房相手に話すより、ホステスとのおしゃべりのほうが楽しいんだ」

と語るのは、四二歳のプロジェクト・マネジャーだ。一〇年間の結婚生活のすえ、離婚したという。「日本人の夫婦のあいだには、あまり会話がないんですよ。冗談を言い合うこともない。その点、ホステスの女の子たちはおもしろい冗談をいうし、会話を進めるのが上手なんだな」

 モテる男の気分を味わうのは、高くつく。時間単位の基本料金にくわえて、客は指名料(以前訪れたときと同じホステスを呼びたい場合)、カラオケ料、テーブルチャージ、ボトル料、スナック料なども払わされる場合がある。(ちなみに、外国人男性の入店を断っているバーがあるのは、以上のような別料金を請求されたとき彼らは文句を言うからである)。おしゃべりもそう長くはつづかない、するとホステスは携帯を出して、自分のペットの写真をお客に見せる。客が帰ったあと、ホステスの女性たちは次回に来店したときに思い出させるように、客の誕生日や特徴を記録する。

 ホステスはコールガールとセラピストを兼ねているようだ。この娘(こ)はぼくのことをわかってくれる、と男性に思わせるのが彼女たちの狙いだ。日本には心理分析がそれほど盛んな国ではないが、ホステスのいるバーでは男性たちは妻や家族のことをあけすけに話す。彼らが決まって口にする不満は、家庭でのセックス不足だ。その愚痴はまた、そういったクラブで一番盛り上がる話題の呼び水となる。その話題とは下ネタである。夜更け、ボトル料がどんどん加算されるにつれ、最初はセックスをほのめかすていどだった会話が、露骨な猥談へと変わっていく。客は嬉々として、セックスの体位を意味するあたらしい俗語をホステスに教えるのである。

 とはいえ、家庭に存在しない失われたセックスは、以上のようなパーでは見つからない。そこではセックスは行われないのだ。照明を暗くしてホステスの胸は自由触らせる、”お触りタイム”なる時間を設けている店も中にはある。しかし、一般的には、セックスは売り上げの妨げになるとされている。収益を上げるにはリピーターの客を確保しなければならないが、肉体関係をもった客はあまり店に来なくなることをホステスは知っている、とジョアン。シンクレアが語っている。ジヨアンは、日本の風俗産業をテーマにしたすばらしい写真集『ピンクボックス』を出版した写真家である。

 性交そのものがしたくなったら、男性たち(風俗店を利用するときに仲間と連れ立っていく場合が多い)は、さらにディーブな風俗店に行く。そういう店は限りなくたくさんある。東京の歌舞伎町には、いろいろな種類の性風俗店がレゴロックでつくったようなビルのなかにひしめきあい、きらきらした照明を投げかけながら見渡す限りつづいている。その合間のラーメン屋がある。人々は性風俗店を出た後、そこでエネルギー補給をするのだろう。その近くには、かの有名なラブホテルが並んでいる地域がある。カップルがフロント係と顔を合わせないで入室できるホテルだ。ホテルの料金は三時間の”休憩”と”宿泊”にわかれていて、ビデオゲーム、カラオケ、アダルト専用チャンネルなどのサービスを売りにしている。

 ホステスのいるバーと同様に、日本の性風俗店はさまざまな種類のサービスを提供する。その豊かさといったら、アメリカのトップレスバーで提供される、ラップダンスや個室ストリップなどの比ではない。ファッションヘルスはマッサージを行なう店で、最終的にはオーラルセックスをする。ソープランドは性交が許される。特別料金を払えば、精液を飲んでもらったり、射精を数回したり(基本料に含まれているのは、一回の射精のみ)、即尺(そくしゃく)をしてもらったりが可能となる。即尺とは男性器を洗わずにフェラチオをすることで、最高のサービスとなる。どういうサービスを提供する店なのかわからない場合は、タキシード姿の用心棒に、抜きありかどうか尋ねればいい。これは「この店は射精できますか?」という意味だが、外国人客はたいてい断られる。

 抜きありの性風俗店のなかには、通勤電車でのセクシャルな行為にあこがれるサラリーマンを相手にする場所もある、地下鉄の満員電車から降りた男性が性風俗店に向かうと、本物そっくりの満員電車が用意されている、というわけだ。ただし、その電車の中では可愛い女の子を触りまくることができる。男性客一〇名と女性従業員一〇名がその”痴漢電車”にはいる仕組みになっているが、これが現実の地下鉄だったら、触られた女性は「痴漢!」と大声を出すのが普通だ。本物そっくりの公園、学校の教室、レストランなどもあり、客はそこで現実では果たせなかったデートや、実行に移せなかった行為を楽しむ。本物そっくりの映画館で気持ちを盛り上がると、客とその”デート相手”は個室に行き、そこの壁に利用できるサービスのメニューが貼ってある、というわけだ。シンシアが写真集で取り上げた中には、エロチックなお茶会が開かれている店、太った女の子ばかりいるマンモス・クラブという店、女性従業員が男性客の妻を演じる店などがあった。

 セックスレスの夫たちのどのくらいの割合が、セックス産業に慰めを見出しているかはわからない

ある経済学者は、日本のセックス産業はDVDや雑誌やインターネットのアダルトサイトをのぞいても、年間およそ二〇〇億ドルの収益を上げていると見積もっている。業界内に労働組合があるほどに、セックス産業は増大している。はっきりしているのは、あけすけに性風俗店での体験を語るのは日本人くらいである。ということだ。制服姿の娼婦とセックスしたと語るアメリカ人は、おそらくあまりいないはずだ。日本では、妻と充実した性生活を送っているふりをする必要はあまりない。かなり過激な性風俗店に通う男性であっても、変態だとか倒錯者だとかいわれずにすむのである。彼らは楽しみを求めて羽目をはずしている、やんちゃ坊主にすぎない。

性風俗店に行くのはほとんどが酔っているときだから、酒の勢いでそうなったといえば言い訳も立つ。東京芸大学の社会科の教授、山田昌弘は男性たちの行動を「ゲームなんです」と説明する。

 ゲームは夫たちに、家をリードしながら職場でも責任を背負っている強い男をやめる一ときをあたえている。「日本人は守らなければならない対象があることを、とても重く受け止めます」と語ったのは、京都大学のある教授だ。「日本において、婚外セックスは責任をともなわない関係なんです。それが婚外セックスの魅力となっているんですよ」

 現代の日本人男性たちは、古くからの習慣をそのまま受け継いでいる。一七世紀、日本の将軍は娼婦たちを特別な区域に隔離していた。そのほうが上納金を取り立てるのに便利だったせいもあるのだろう。一九世紀後半に文明開化とともに発足した明治政府は、娼婦たちが隔離されていた地域を、娼婦が自由意思で商売を行なう地域に変えた。それからほぼ五〇年近く、性風俗店通いは基本的に政府に許可されていた。

 一九四七年、日本政府は客引きや売春斡旋などの行為を違法とした

それでも、男女が売春宿で合意の上でセックスを行うことは許可されていた。この抜け穴はいまでも広く利用されている。さらに、売春として見なされるのはヴァギナへの挿入だけなので、正式なライセンスをもって風俗店はオーラルセックスやアナルセックスなどは、ヴァギナへの挿入以外のサービスを売りにすることができる。女性従業員を客の自宅に派遣するデリバリーヘルスは、女性が男性と顔を合わせてから両者の同意で性交に至った、という建前をかかげている。

 風俗店の女性と関係することが浮気になるのかどうかは、ひとによって意見が分かれる。夫がソープ嬢と関係をもったから結婚を解消したという話は、一切耳にはしなかった。ある離婚専門の弁護士の話によると、法律上、お金で買ったセックスは不倫に当たらないとのことだ。風俗店に通う男性たちも、不倫をしているという意識を持っていない、「金で買ったセックスは、浮気にならない」という決まり文句を、教えてくれた人も何人かいた。

 きょう半裸の”看護婦”にフェラチオをしてもらっただとか、今夜はホステスと彼女のおっぱいについての話題で盛り上がったとかは、もちろん妻には話さない方がいい。しかし、妻はどこに行っていたか尋ねない、と男性たちは言う。妻たちがよく口にする決まり文句は、「亭主元気で留守がいい」である。

 東京に住む大学院生の婚外セックスについて研究をしている女性の話によると、妻たちは「すごく誠実で信頼できる、この上なく素晴らしい夫でも、隙あらばよその女性と関係する」と考えているそうである。妻にしても、それでいいと思っているわけではない。夫たちの浮気に主婦たちは苦しんでいますが、男とはそういうものと考えが定着しているから、文句はいえないと思ってしまうんですね、と大学院生は説明する。

「きかない、いわない」のポリシーは、中流階級の都会人のあいだではなくなりかけている。建設会社の会議室に集まった離婚経験のある男性たちの中で、三九歳の頭が薄くなりかけたサトシは以下のような体験を語ってくれた。仙台出張から帰ってきたときのこと、結婚一〇年目になる妻が彼の鞄を整理してコールガールのちらしを見つけた、きみは誤解しているよ、とサトシは妻にいった。コールガールは特別な女性でも何でもないし、そういう女の子と遊んだことはこれまでもたくさんあったんだから! それが単なる遊びだということを、妻は理解しなかった。「金で買った女性たちに恋愛感情は持ちませんよ。ドライな関係――淡々としたものです」と、サトシ。

 妻はサトシがコールガールを買ったことに心を悩ませたというよりは、彼の自由を羨んだようだ。チラシを見つけた後、彼女はスポーツクラブで知り合った仲間とスキューバダイビングをはじめた。それからほどなくして、サトシもまた離婚届を渡された。「女性が自分の人生を模索してなにかはじめると、一緒に暮らすのが難しくなってきますね」サトシ

 サトシはいま再婚しているが、仕事よりも家庭を優先させるようになっている。じゃもう、コールガールとは縁を切ったんですね?

「もちろんですよ」声を大にしてこたえた。でも、次の瞬間、同僚たちの視線に気づいて天井をあおいだ。「でも、明日は北海道に行って‥‥遊びます」

 では、日本の女性たちどうなのだろう? やはり、家庭の外でセックスしているんだろうか? 透けるような白い肌とファラ・フォーセットばりの髪型が魅力的な四〇歳のミドリは、離婚予備軍のひとりのようだ。二七歳のときから、夫とセックスしていない。会話もあまりない(「飲んだらすぐに寝てしまうタイプなのよ」と、彼女)。夫は長男なので、夫の両親と同居している。営業職の夫は、それほど腕力も才覚もない(「夫とふたりでなにもない無人島に流されていたら、魚の採りにいくのはわたしでしょうね」)。夫と一緒にいると、たいてい母親になった気分になる。同じようなことを言った日本人女性は少なからずいた。

 それでもミドリは、結婚生活に満足しているという。インタビューは東京駅の近くで行われた。設備の整ったカフェの一角に座ったミドリは、だって恋人がいるんですものと理由を語った。「いろいろな種類の愛情を、同時に抱くのは可能なのよ。夫には家族的な愛。恋人には別のタイプの愛」

 夫から男女のロマンティックな愛情をもらおうとは思っていない

「母親と息子はセックスしないでしょ」

 ミドリの夫は、妻はセックスしない主義になったと思い込んでいる。でもほんとのところ、月に一回、彼女は恋人とラブホテルに行っている。情事のメインはセックスではない。ふたりは会話を楽しむのだ。恋人は、第二の職である人形づくりについて語ってくれる。彼のそういうところに惹かれた、とミドリは言う。彼は自分のやりたいことをするために思いきって会社を辞めた、彼女の数少ない知人の一人だった。「無人島に彼と一緒に流れ着いたら、魚を採りに行ってくれるでしょうね‥‥逆境に強い人だもの。その点、うちの主人は甘やかされたお金持ちのボンボンで」

 ミドリは爪にマニュキアを塗り、人形作家の収入ではとても手が届かない仕立てのいい黒いジャケットを着ている。二三歳で結婚したとき、離婚している自分の母の面倒をいつか見てくれる男性を見つけた、とミドリは思った。「『大丈夫、ぼくを頼ってくれ』って、夫がいったの。結婚したら母の面倒も見てくれるっていう保証を、わたしはずっと求めていた」

 恋人が自分の気持ちを語ってくれたおかげで、ミドリは夫の心の内がなんとなくわかるようになってきた。「変な話なんだけど、不倫をするようになってから、夫を尊敬するようになったのよ」

 日本人はユダヤ教やキリスト教的な罪の意識に苦しむことはない、と以前わたしは聞いていた(日本のクリスチャンは人口の一パーセント以下。人々が生活のなかで実践する宗教は、ほとんどの場合神道と仏教が混じり合っている)。わたしはその説をずっと信じていなかったが、ミドリと話しているうちに、自分が間違っていたことに気づいた。家庭の外でセックスすることに罪の意識を感じませんかと、質問した時のことだ。ミドリの戸惑った顔を見て、質問の意味が分からなかったのだとわたしは思った。質問を繰り返したが、まだ戸惑っている。ミドリは不倫と罪の意識を結び付けたことがないのだ。

 だが、このような罪の意識の希薄さも、女性が家庭を捨てたよその 男性の元に走るときには変わる。わたしがインタビューをしたある男性は、家庭を捨てた女性と結婚していた。妻であるその女性はひどい負い目を感じ、自分への罰として家に残してきた娘には二度と会わないと決意をしているという。男性がこの話をしてくれたのは、自分自身の浮気をしているときだった。

 家庭を捨てる気はみじんもないミドリは、ものすごくマイナーにこだわる女性だ。彼女は不倫を隠し通し、主婦としての義務をきちんと果たすことによって、夫への忠誠をつくしている。しかし夫はそれほど慎重ではない。八年前、夫と車に乗っているとき、ミドリは誰かからのプレゼントを思しき男物の財布を発見した。夫は、愛人からの贈り物だと白状した。ミドリは腹を立てた。夫の裏切られたことではなかった。夫が不倫を見破られるような真似をしたことが許せなかった。「夫はルールを破ったのです。不倫はばれないようにやらなきゃだめなのに、なにが起ころうと、誰にも嗅ぎつけられないようにしなきゃダメなんですよ」ミドリは語った。

 わたしがミドリの言い分をより理解したのは、日本滞在中に『冬のソナタ』という韓国ドラマを観てからだった。当時、そのドラマは日本での高い視聴率を得ていた。ドラマの主人公が来日したとき、髪をぶざままでに明るいオレンジ色を染めた三一歳のその俳優は、成田国際空港で熱狂的なファンの群れに出迎えられた。そのほとんどは中年の女性だった。その後、俳優が泊まっているホテルの外に女性たちが押し掛け、九人がけがをした。

 二〇代後半のヒロインが、死んだと思っていた高校時代の恋人に再会する、というのが『冬のソナタ』の筋書きだ。ドラマにはさまざまな障害がある。そのかつての恋人(演じる俳優は日本で「ヨン様」と呼ばれている)が記憶をなくしていること、元恋人とヒロインが腹違いのきょうだいかもしれないこと、ヒロインが元恋人の親友と婚約していること、ことなどである。しかしこのドラマの軸となっているのは、恋人が死んだことになっていた一〇年間ふたりの愛は損なわれることなく残っていたが、再会した今、愛が成就することはおそらくない、という設定だ。その悲劇的な展開を暗示しているのか、出演している俳優たちの顔がクローズアップされるとき、みな決まって便秘で苦しんでいるような表情をしている。ラブソングの陳腐なプロモーションビデオと似たり寄ったりのベタなドラマだ。

 『冬のソナタ』に夢中になったのは

敗戦してから数十年の貧しい時代に、のちに日本の経済復興の担い手となったサラリーマンと結婚した女性たちだ。彼女たちは夫の家に嫁ぎ、一一時に疲れ切って帰宅し翌朝の七時に出勤する夫たちに、なにもいわずにつかえてきた。彼女たちは高校時代につきあっていた男性がいても、その恋を封印して手堅い見合い結婚や、そこそこの相手との結婚を選んだ。

 そのころは楽しむためのセックスなどは、夫婦間で望むべくもなかったので、セックスレス・カップルという言葉すら知らなかった。大体において、結婚はロマンティックなものではなかった。『冬のソナタ』は、ロマンス(とセックス)にまだ憧れを持っている女性たちの心に響いた。しかしロマンスの相手は夫ではないようだ。夫たちは退職後、ときとして粗大ゴミと呼ばれるのだから。ヨン様に代表される理想の相手き、一日中ごろごろしてお茶を持ってこいと怒鳴ったりしないし、そもそも家にいることすらない男性である。それでいいのである。そういう女性たちは、理想の恋人と付き合いたがっているわけではなく、そういう男性に恋い焦がれることに楽しみを見出しているのだから。

 「あのふたりが結ばれるかどうかは、わからないわね」と、タマコは『冬のソナタ』について語る。彼女は東京在住の五八歳。離婚経験がある。ずんぐりした体型で、髪はショートヘア。彼女が笑うとこちらも思わず笑みを浮かべてしまうような、魅力的な笑顔の持ち主だ。大卒のタマコはその年齢の女性にしては珍しく、専門職についている。日本の農家にアドバイスをする仕事だ。

 タマコはヨン様人気をいくぶんばかげたものと見なし、息子とおなじ年齢の俳優にのぼせるなんてどうかしていると言い切った。そして、自分は忙しいから、『冬のソナタ』で高校時代の主人公ふたりがデートをした島へ行くツアーに参加する暇はない、とつづけた(ウェブサイトの情報によると、「主人公ふたりが自転車に乗るシーンはとても人気があるので、同じ道をサイクリングしたいと望む観光客には、『冬のソナタ』ファンのために自転車レンタルが用意されている」とのことだ)。

 しかし日曜日の午後の東京でコーヒーを飲みながら話しているうち、タマコはじつは昨晩の『冬のソナタ』を録画して、ここに来る前に観たと告白した。わたしもホテルで観ていたから、ヨン様の表情がいつもおなじで妙だったし、話の展開もとっぴすぎた(ヨン様の母親は息子にあたらしい記憶を植え付ける。だから彼は、高校時代の恋人を全く覚えていない。これもまた、主人公の前に立ちはだかる障害の一つだ)と、思わず文句をいってしまった。

 そういうことはべつに気にならない、とタマコはいう。「あのドラマの魅力は、全体の雰囲気なのよ。筋そのものじゃないの」と彼女。「七〇代、八〇代の女性たちはあのドラマを観て、若かったころの恋を懐かしんでるのね」タマコ自身は、『冬のソナタ』を地でいく恋愛をしている。ただし彼女のあこがれの君は、おなじ年齢の既婚者だ。普通のおじさんよ、とタマコはいう。会社の同僚で、はじめて会ったのは二〇年前だが、五年前に恋愛は始まった。

 タマコの恋人はとりたててハンサムでもないし、おそらくいつかは家庭の粗大ゴミになってしまう男性だ。タマコにとって彼が特別な存在になっているのは、めったに会えないという点にある。ふたりは実際にデートするよりも、会いたい会いたいと恋しがっていることのほうが多いカップルなのだ。彼は東京から一時間ほどかかる郊外に住んでいて頻繁に出張もするから、会えるのは年にわずか二回。でも、Eメールやケイタイメールでしょっちゅう愛の言葉を交わしている(タマコはメールの返信を三日してから送ることにしているが、彼はその日のうちに返信してくれる、と彼女はのろけて見せた)たまにホテルで密会することよりも、メールのやりとりのほうがときめくらしい。

 彼はほかの女性とも付き合っているようだが、タマコは気にしていない「この前のクッキーありがとうね、って言われたことがあったの。わたしはプレゼントしていないのに」。一〇年前に別れた夫と比べれば、どうということない、とのこと。「恋をしている、っていう状態が好きなのよ」と、タマコ。「女の友人で独身のひとは多いわ。とくに大学時代の友人がね。でもみんな、恋人がいるの。どういうおつきあいなのか、詳しくは知らないけど。みんな『付き合っている男性がいるわ』ってさらっというだけ。だからわたしもそういっているわ」

 けっして一緒になれないひとに恋い焦がれる『冬のソナタ』式の恋愛は、日本の性文化に深く根を下ろしている。イギリス系オランダ人の作家イアン・ブレマは、「悲しみ」と「おたがい好きだったのにかなわなかった恋」は日本古典文学と現代の流行歌に非常に多く登場するテーマだといっている。若者向けの日本の大衆小説にもよく見られる、とイアン・ブルマは語っている。

「かなわなかった恋に涙するというシーンは、西欧の文学作品にはそれほど出てこない。西欧の文学に情感がないというわけではないが、それを仰々しく書き立てることは滅多にないのである。言い方を変えれば、英語で表現するとひどく大げさに思えるものが、日本語で表現すると完璧なまでにしっくりくるのだ」

 記憶のなかに冷凍されている恋愛よりもさらに”完璧”なのは、はじまる前に悲劇的な形でおわる愛である。(『冬のソナタ』はこの両方を備えている)。こういったタイプの愛の究極バージョンに、心中がある。現在の日本には、昔と比べて離婚が格段に一般的になった。しかし、男女の心中はいまだにあらゆる芸術家のテーマになっている。現代も受け継がれている江戸時代の芝居は、心中のテーマを好んで取り上げた。ブルマが述べているように、その時代は「悲劇的な結末を遂げた恋愛が多かった。それは当時の日本社会に、恋情を受け入れる場所がなかったからである。結婚と恋愛は別のものとして考えられていた」のだある。

 どんな文化であれ、心中のような究極の愛を結婚生活のなかで実現させることは難しい。江戸時代を舞台にした芝居の登場人物は、婚外セックスをとるか家族への責任をとるか選択をせまられ、愛する人と死ぬことを選ぶ。ふたりの心中シーンが一番の見せ場となる。江戸時代に生まれた文楽のなかでもっと有名な『曾根崎心中』では、主人公の遊女が恋人と森で心中をする前に、「きれいに死にたい」から着物の帯でふたりの体を縛って離れないようにしましょうと提案する。

 この筋書きは現代の作家にもインスピレーションをあたえている。一九九七年にベストセラーとなった『失楽園』は不倫小説だが、主人公の男女は一緒になることがかなわず、たとえ一緒になれたとしても恋の情熱はやがて変わるだろうと絶望している。ふたりは悩んだ末すえ、セックスで体がひとつになったときに心中する(要するに、ふたりの愛が”絶頂”に達したのと同時に一緒に死ぬ)。ふたりの計画どおり、警察が遺体を発見したとき、すでに死後硬直が始まっていた。主人公の男女を離すのは、文字どおり不可能となっていたのである。

 日本では、時代が変わりつつある。数年前、マスコミがこぞって取り上げた現象に”成田離婚”というのがある

ハネムーンのあいだに妻が夫に愛想をつかして、空港に着くなり離婚を言い渡すことである。

 いまの若い女性は、ロマンティックな恋愛にあこがれだけでは満足しない。理想の男性に実際に出逢って、結婚することを望んでいる。ここでボーイフレンドと一緒に暮らしている、二六歳のちゃっかりした女性、アヤコを紹介しよう。わたしが彼女に「金で買ったセックスは、浮気にならない」という文句をどう思うかときくと、以下のようなメールが返ってきた――「だれがそんなこといったんですか? 女心がわからないオヤジなんでしょうね。きっと!」。

 アヤコの世代の女性たちにとって、フィーリングはとても大切だ。二〇代の女性にカレシに求めることをいくつか挙げてもらうと、そのリストには必ずといっていいほど「頼りになるひと」が含まれている。頼りになる男性とは、三菱に勤めているようなひとかもしれない。いい給料をもらい、家族を養ってくれるひと。でも、ただのサラリーマンではなく、ハートのあるサラリーマン。寛容で率直な男性でなければならない。女性たちは昔と同様に、結婚したカップルは親子のような関係になると思っているが、若い女性たちは夫ではなく妻の自分が子どもになれると考えている。頼りになる夫が、妻の悩みにじっと耳を傾けて適切なアドバイスをしてくれる家庭を思い描いているのだ。
「経済面だけじゃなく、落ち込んでいるときとか、訳が分からなくなったときとか、問題を抱えているときとかに、どうしたらいいか教えてくれる男性じゃないとね」とアヤコは説明する。「そういう男性は、なかなかいないけど」

 問題は、日本人女性は結婚相手にあれこれ注文をつけるようになっているのに、その注文に応えられるまでに進化している男性がほとんどいないということだ。フランスのファッションメーカーの東京支社でエグゼクティブ・アシスタントをしている三〇歳のアヤは、家事をやるという男性を信用しない。「結婚する前はそうなんですよ。でも、いったん結婚すると、妻になんでもしてもらいたがるんですね」と、アヤ。「夫の愚痴を漏らす友人が、すでに何人かいるんです」愛のある結婚は理想だが、ある日本の雑誌が二〇代、三〇代の離婚経験のある男女を対象に結婚した理由を調査したところ、三分の一は「なんとなく」と答えていた。

 日本人女性の多くは腰を落ち着けようとはせずに、結婚を先延ばしにすることを望んでいる。三〇歳から三五歳までの日本人女性のなかで結婚していない割合は一九七五年には七パーセントだったのが、二〇〇〇年には二五パーセントになっている。このデータを教えてくれたのは、国立社会保障・人口問題研究所で所長をつとめる阿藤誠だが、自分の三〇歳の娘がつきあっていた男性と別れたと苦い顔をしていた。現代の若い女性は戦後数十年のあいだに成人を迎えた女性たちに比べて、経済的に格段に自立している。さらに彼女たちは、西欧の影響を受けている。
イギリスに留学して学位を得て、『セックス・アンド・ザ・シティ』の全シリーズのDVDをもっている。そういう彼女たちは、結婚相手を探している日本人男性と一緒に暮らす気はないのである。

 その一方で、結婚生活に活を入れようとする女性もいる。岡野あつこは、東京でサラリーマンとその妻を対象とするセミナーを主催する起業家だ。アメリカ以外の国でアメリカ風の不倫の教祖として活躍している人物、といったらまず彼女が挙げられるだろう。『夫という名の他人』をはじめとする自己啓発本を出している岡野は、この業界にはいって一三年でおよそ四〇〇〇人の相談に乗ったという。結婚問題で相談をしてくるクライアントの半分はセックスレスの悩みを抱えていて、そのほぼ全員が浮気性のパートナーとよりをもどしたがっている、と岡野はいう。

 離婚経験がある四九歳の岡野は現在三人の恋人と同時並行で付き合っていると、自分から打ち明けた。京都に住んでいる心優しい独身男性は、彼女が求めれば長々とマッサージをしてくれる。一二歳年下のプレーボーイタイプの恋人は、かつて離婚相談に訪れたクライアントだった。五三歳の恋人は「ハンサムでたくましい人なの。おまけに知性的でお金持ち。でも、残念なことに奥さんがいてね」と、岡野は切なそうな顔をした。

 夫でも妻でも不倫をするのは、親密な関係、リラックスした楽しいいっとき、精神的な支え、セックスを必要としているからだ 

というのが岡野の説明である。そういうものを夫婦間で得られるように指導するのが、彼女の仕事だ。そのさい、夫と妻が夫婦の関係についてふたりで話しあったり、セラピストが登場することはない。岡野はべつのタイプの専門家を呼ぶ。それは、日本のセックス産業で働いている女性たちだ。男性たちを喜ばせる術を心得ていて、妻が夫になにを望んでいるか男性に教えられる人材にしてまさにうってつけ、というわけだ。

 岡野に雇われたソープ嬢たちは相談所を訪れた男性たちに、性風俗の店でするような短いセックスを妻たちは実は楽しんでいないと教える。そして、ムード照明やキャンドルで雰囲気を盛り上げたり、妻への褒め言葉を囁いたりするように指導する。「女性はムードと前戯を大切にするのが普通です。慌ただしいセックスは好みません。男性はそれがわかっていない」と、岡野は説明する。

 妻たちはすてきな奥さんに変身するべく、『マイ・フェア・レディ』さながらのレッスンを受ける。まず、ぶかぶかのTシャツとおばさんくさい下着を身に着けてはならない、と指示される。ソープ嬢たちが性のテクニックを披露して、性風俗店で行われていることを教える。さらには、夫の前で脚を組んだりセクシーにふるまったりする方法を指導する。たとえば、こんな感じだ――これからは、ご主人が帰宅したらキッチンからお帰りとただ声をかけるのではなく、玄関まで出ていって抱きつきましょう(そうしたらご主人がお尻をまさぐるでしょう、と岡野はいう)。

 「プロの女性たちが教えてくれるのはセックスのテクニックではなく、セックスまでのプロセスなんです」岡野が行っているプログラムは、通常三カ月(料金はドルにして二五〇〇ドル)。とくに「色気のない」奥さんのために、六カ月のコースも用意されている(料金は約四二〇〇ドル)。

 岡野は週に一回の電話によるカウンセリングもしている。夫に愛人がいると相談者が取り乱して電話をかけてくると、岡野は「落ち着いて」とアドバイスする。「仕返しは後になってもできる。いまはにこにこしているのが一番。頭ごなしに怒鳴ってはだめ。ご主人の心がますます離れていくだけだから」岡野のやり方で行くと、夫婦が情事について話し合うことはない。

あたらしいランジェリーを買っても、夫がよその女性に心を移す場合もある。そういう場合は、ライバルとなった愛人を排除しなければならない、と岡野は語る。そうするために岡野が勧めるのは、恥も外聞もないやり方だ。岡野は相談者の女性に、「仕事の件で話がある」との口実をつけて夫の上司にひそかに会い、上司を味方につけるようアドバイスする。上司会うときは、高価なお土産を持っていくことが肝心だ(「日本人はお貢物に弱いのよ」と岡野)。夫に愛人がいることを打ち明けるさいは、不倫をするなんて不潔だとは言わずに、夫が家族への義務をおこたっていると訴えるようにする。上司が同情したり、これ以上面倒なことになるのは避けたいと思ったりすればしめたもので、愛人と別れるように夫に圧力をかけてくれるだろう、というわけ。

 それでもだめだったら、岡野はさらにもっと恥も外聞もない過激な手段に出る。夫の愛人の両親に匿名の手紙を出し、お嬢さんが既婚男性と関係していると報せるのである。両親が手紙の内容を十分に理解したころを見計らって、岡野は奇襲攻撃をしかける。岡野本人、相談者である妻、アシスタント数名が両親の家に張り込み、帰宅する彼らを待ち伏せにするのである。待ち伏せが数時間に及ぶこともしばしばだ。やがて愛人の親が帰ってくると、岡野たちは家の入口に近づき、目的を告げてから、上がらせてくれと頼む。それから家のリビングで話し合いが行われるのが普通で、妻は自分にとって結婚や子どもがどんなに大切か涙ながらに訴える。すると愛人の親はたいてい、ご主人と別れるように娘を説得しますと請けあってくれる。

 セックスレス・カップルの謎を解明するためにわたしが最後に訪れたのは、ある意味で、男女交際のスタート地点となる場所だった。お見合いパーティである。あれほど気詰まりなパーティに出席したのは、初めてだった。男女同じ数の八〇名のひとたちが、だだっ広い会場で右往左往している。ほとんどの女性は夏物のワンピース姿。男性たちは、体に合っていない背広を着てネクタイを締めている。上に掲げてある垂れ幕には、夏の特別企画との文字。料金はドルに換算して六三ドル。ついさっき始まったばかりだというのに、だれもが参加していることを後悔しているように見える。やけに明るい司会者が、積極的におしゃべりをしてくださいと呼びかけるが、みなビールを置いてあるテーブルに直行している。

 ここに集まっている男女がカップルになって、セックスまでこぎつけるようにはとても思えない。お互い顔をまともに見ることすらしないのだ。パーティの主催者はゴールインするカップルが一組ぐらいは誕生するだろうと予想していたが、やがて無理かもしれないと見積もりを訂正した。

 わたしは何人かのひとに声を掛けた。インタビューをしたいからであり、彼らが見るからに暗い顔をしていたからである。三八歳のフミコは痩せ型で、髪が黒く歯並びの悪い女性だった。病院で秘書として働いているがはやく結婚して退職したい、とのこと。結婚相手の男性になにを求めますか、ときいてみる。「ユーモアのセンス」とか「読売ジャイアンツのシリーズチケット」といった答えが返ってくるだろうと思いきや、「頼りになる男性です」とフミコはいった。
「アメリカ人は一目で恋に落ちるっていうけど、ほんとうですか」と、フミコ。それから顔を寄せてきて囁いた。「インターネットで恋人を探したこと、ありますか」

 つぎにわたしが近づいたのは、三六歳のサトウだ。甘い顔立ちで、ネクタイを締めていない数少ない男性だったからでもある。一日の大半を勤めている電化ショップで過ごすから、女性と知り合う機会がないんです、とサトウ。妻となる女性に求める条件はいたってシンプルだ。神経質じゃないひとがいいんですよ。この会場に集まった女性たちはそれを求めるのは、とても無理そうだ。

 サトウのために一肌脱ごうと。そう思ったわたしがつぎに声を掛けた女性は、ジュンコと名乗った。年齢は三三、図書館に勤務する女性で花柄のワンピースを着ている。ちょうどサトウとわたしの近くにいたジュンコは、人だかりから離れていた。話を聞くと、今しがたビールを運んでくれた男性を袖にしたのだという。弱弱しい男性だった、というのが理由だ。「日本の男性って覇気がないんですよ」と、ジユンコ。彼女もまた、男性との出会いがないという。図書館には男性職員がふたりしかいない。おまけにふたりとも彼女の父親と同じくらいの年齢だ。ここには候補者が何十人も集まっているのに、ジュンコは浮かない顔で会場を見渡す。
「いい人がいるかなあと思って来てみたけど、見当たらないわね。みんな悪くはないんだけど、物足りない」わたしはジュンコに元気を出して、といいたくなった。とりあえず、誰かを選んで結婚すればいいじゃないの。いいひとは意外にすぐ近くにいるものなのよ、と。

 “セックスレス・カップル”の増加によって失われたセックスを見つけ出すことは、ほとんどできなかった。ひょっとしたら日本は、本書では取り上げている国の中でもっともセックスをしない国なのかもしれない。日本人の夫婦はあまりセックスをしないし、性風俗とてそうしょっちゅう行けるものでもない。不倫の関係ですら多くの場合、仮想現実のゲームとなっているようだ。セックスというよりも、会えない切なさを楽しむことがイメージとなっているのだから。

 日本人男性だって、セックスをしたがっているはずだ 

おそらく日本人女性も。夫婦は互いに忠誠を守らなければならないという考えに、彼女たちはこだわっていない。それでも、ほかの国の女性たちと同様に、性的に充足しているロマンティックな結婚を望んでいる。女性たちのそういう気持ちを男性が理解しないため、独身のままいることを選ぶ女性は増える一方だ。

 とはいえ、不幸な日本のサラリーマンたちを責めることはできない。プロの女性とはまるっきり現実離れした気晴らしのセックスを楽しんでしまうと、現実の女性――朝は口臭がするし、あれこれ要求してくる――では満足できなるのが普通だ。若い女性の体に盛り付けた鮨を会社の同僚と一緒に食べて帰宅すると、奥さんが鶏肉料理を温め直してくれる、という場面を想像してほしい。どう考えても、鮨のほうがいいに決まっている。とかし今日の日本では、食事を温め直すのは今夜が最後と決意して、離婚する奥さんもいるようだ。

 日本とは似ても似つかないが、やはり男性が息抜きと気晴らしのために妻以外の女性と日常的に肉体関係を結ぶ国として南アフリカが挙げられる。しかし南アフリカでは、浮気は日本で一番高い性風俗店よりも高くつく。エイズの流行で、浮気はしばしば死という代償を要求するのである。

つづく  第8章 少なくともひとりは愛人がいる