
パメラ・ドラッカーマン著 佐竹史子訳
世界各地の不倫事情
を知るためにあちこち旅して、わたしはようやくパリの書斎に帰ってきた。世界の不倫率ランキングが、おまじないの札まようにデスクの横の壁に貼ってある。このランキングを見ていると、漠然として捉えにくい、ひょっとしたら真相はつかめないかもしれない不倫の実態を解明できるのでは、という気になるから不思議だ。
今回の旅を通じて知ったことだが、アメリカ人が外国人にたいしてもっているステレオタイプのイメージの中には、ひどく時代遅れのものがあった。イタリア人男性は世界で一、二を争う女好きだという話を、わたしはしょっちゅう耳にしていたでも実際は、イタリア人はアメリカ人男性よりも不倫をしない――要するに、そんなに頻繁には浮気はしない。イタリア人にたいするステレオタイプのイメージは、一八八〇年から一九二〇年の間では、ある程度の真実をふくんでいた。それはちょうど、大勢のイタリア人がアメリカ居住して、あるていど生活をアメリカ人に伝えていた時代である。でも現代のイタリアには、そのステレオタイプはあてはまらない.
時代は変わったのに改められないまま残ってしまったステレオタイプのイメージは、ほかにもたくさんある。子どものころ、ロンドンは霧の街だとよく聞かされた。でもほんとうのとのところそれはスモッグだったし、一九五六年にイギリスが発令したクリーンエア法によってスモッグの問題は解決している。第二次世界大戦後ヨーロッパから戻ってきたアメリカ人兵士は、フランス人女性の腋毛を剃らないし、香水を大量にふりかけて体臭を消しているとの話を広めた。フランス人はフリーセックスをするようだとの噂は、何世紀にもわたって囁かれてきた。実際は、現在のパリは世界でもっとも清潔で、ムダ毛処理を徹底している女性がいる場所だ。さらに、現代のフランス人はアメリカ人とおなじていどしか不倫をしない。
わたしたちアメリカ人は、自分たちについてさえ誤った見解をかたくなに持っている。アメリカで一九四〇年代から一九五〇年代に発表された信憑性のない統計データは、不倫がごく一般的に行われていることをほのめかしていたが、わたしたちはいまだにそのデータを信じているのである。いまの人妻はセールス販売プレゼンテーションと保護者会のあいだを縫って浮気をしているという話に、こっそり喜んでいるアメリカ人すらいる。男と同様に浮気願望がある女性が増えているらしい、というわけである。
わたしが調べた限り、アメリカ人はそれほど浮気していない。二〇〇四年に発表された統計によると、これまで伴侶を裏切ったことがあると答えたひとはわずか一六パーセントで、この一年間に浮気をしたと答えたひとはたった三・五パーセントだった。社会に出て働いている女性が増えたのは事実だが、浮気をしている女性が増えたという確固とした証拠はない。セックス調査のデータが人々の実際の行動をそのまま反映しているとはならずしもいえないが、この一六年間に実施された一一の全国規模の調査を見るに、アメリカ人の不倫率がずっと横ばいだったことは確かである。
わたしたちアメリカ人は、浮気はありふれたことだと思っている。その一方で、結婚に対して過剰に期待するようになっているため、自分の伴侶だけは浮気をしないと思い込む。伴侶が火遊びしていたことを知ると、世界が砕け散ったような衝撃を受けて、茫然自失の状態になる。この反応自体、矛盾をはらんでいる。というのも、アメリカ人は情事がつくりだすドラマにときとしてある種の満足感を得るように思えるからだ。裏切られ妻(もしくは夫)という役割を、自分の拠り所とするのである。ひとによっては、その役割を天職にすら思う。
アメリカ人は不倫にたいしてひどく潔癖だが
昔からそうだったわけじゃない。わたしの祖母の世代の女性たちが、いまの結婚生活で自分は満たされているのだろうかと思い悩むことは普通なかった。しかし、一九六〇年代に離婚が昔に比べて格段に簡単になってくると、アメリカ人女性は結婚――および、暮らし――をとてつもなく高い水準に保つようになった。わたしたちは完璧な健康体を得ようと躍起になり、精神的に満たされた結婚と自分だけを見てくれる夫を求めている。
アメリカでは、生きてい上で避けては通れない苦悩すら、結婚が解決してくれると思われている。結婚している女性は、自分は孤独で誰からも理解されないと思いわずらわずにすむ。
なぜなら、結婚しているのだから。身構えることもなく、何でも打ち明けられるひとが、この世に少なくともひとりはいるのだから。敬虔なアメリカ人は聖書を引用して、わたしたち夫婦は”ひとつの肉体”なのだという。前の世代の人々は一夫一妻制を貫くことにおそらくもっと楽天的だったのだろうが、現代ではほんのちょっとのあやまちが、少なくとも理論的には離婚の原因となる。不倫のせいで、ハッピーエンドが台無しになる。現実はそう甘くないことを示す証拠があるにもかかわらず、自分にはハッピーエンドがもたされるはずだ、とわたしたちは信じているのである。
夫婦は忠誠を守るべきとするこの過度なこだわりが、功を奏しているようにはとても思えない。わたしたちアメリカ人の不倫率は、浮気にたいして比較的寛容な外国人のそれとほぼ同じである。個人的な幸せを追い求めるあまり、不倫に走ることすらあるのではという気がする。みたされるために不倫が必要だったら、不倫をして何が悪い、というわけだ。
アメリカ人が実際に不倫をすると、ひどく面倒なことになる。アメリカには巨大な結婚産業複合体があるにもかかわらず、不倫による夫婦の危機はわたしが訪れたどこの国よりも長引くし、経済的な負担も大きく、精神的な苦痛が大きいように思われる。伴侶の裏切りを知ったときの苦しみは相当なもので、不倫問題を扱うウェィブサイトは裏切りを知った日を表現するのに、Dデイという戦争用語を使う。世論調査によると、浮気をしたことがあるアメリカ人は、浮気をしたことがないアメリカ人に比べて、自分は「とても幸せ」だと回答する確率が低いとのことである(幸せじゃないから浮気をしたのか、浮気をしたから幸せじゃないのかは、この調査だけでははっきりしないが)。
アメリカ人は器用に不倫ができないから、相手とセックスしている最中でさえもやましい気分になりやすい。愛人とふたりで裸になって厳密な意味での性交をしない国民は、わたしが知るかぎりアメリカ人だけだ。そうすれば、最後の一線は超えていませんと自分たち自身にも伴侶にもある程度言い訳が立つからである。不倫をしている人々が、わたしは不倫をするような人間ではないと判で押したように口にする国も、アメリカ以外にない。楽しいことよりも罪の意識に苦しむことが多いのに、どうして秘密の恋をするのだろう? おまけに、不倫がばれても結婚を続ける場合、その後何年も伴侶の恨みつらみに付き合わなければならず、その間、愛人といつどこで不安に満ちた愛情行為をしたか表をつくれと要求されることもあるのだ。それだけ責められたら、離婚が救いの道に見えてくるかもしれない。
アメリカでは、不倫が真剣なものに発展しやすい
双方ともに、深みにはまることをそれほど望んでいない場合であってもだ。婚外セックスは激しい非難を受けるので、不倫カップルは自分たちの関係を社会的に容認される関係に置き換えたがる。つまり、結婚を前提に付き合っている、ということにするのである。とすると、独身の”愛人”は、”妻”の座を求めなければならなくなる。ふしだらな人間という烙印を押されないばかりに、伴侶と別れて愛人と一緒になったひともいるようだ。
同僚と不倫している四〇代前半のある男性は、自分の行動を直視したくないあまりに、そんなつもりはなかったのにいつの間にか深い関係になったと語る。「正直なところ、彼女とは話をしているだけでほんとによかったんです。こんな関係はそれほど望んでいなかった」その男性の話によると、相手の女性との週に一回のランチが、彼が苦々しく言うところの”性的なもの”になろうとは想像もしていなかったそうである。いずれにしても、ふたりの関係は発展していった。妻には内緒で、バスケットボールの試合を観にいき、街のあちこちでデートを重ねるようになった。
男性はそれからさきの顛末を断片的に、煮え切らない口調で話した。「彼女が言ったんです。『ねえ、部屋を借りましょうよ』って、ぼくはとっさに『げっ、まずいことになったな』と思いました。だから『だめだよ』って答えた。それ以降も何度かせっつかされたんだけど、まあ、何とか断りました。で、じきに彼女のことが鬱陶しくなってきた。ぼくは最初からそれほど乗り気ではなかったわけで、それはつまり、なんというか‥‥まあ、どうでもいいんですけどね」ぼくは不倫をするような人間ではないとの定番のセリフを口にしたとき、わたしは彼をぶんなぐってやりたくなった。
不倫の魅力認めようとさえしないアメリカ人もいる。そういう人々は「浮気したければ、離婚してからしろ」という。情事が刺激的なのは伴侶の目を盗んでやるからこそだろうが、その点を見逃しているのだ。わたしたちはときとして、束縛されると同時に自由でもいたいと願う。情事はふたりの関係がどう終わるか思い煩うことなく、情熱的な恋愛のおいしい部分を提供してくれる。いや、関係はすでにおわっているともいえる。伴侶との関係が。
人生はアメリカ人の多くが望むような素晴らしいものではない。アイザック・バシェヴィス・シンガーの小説家『敵。ある愛の物語』で、アメリカに亡命したポーランド系ユダヤ人の主人公は、三人の女性とのっぴきならい関係になる。アメリカは主人公を受け入れてくれた国だが、女性関係に関してはいっさい同情してくれない。「アメリカの弁護士は、どんなことでも一言で解決する。お前が愛しているのは誰なのか? いまの妻と別れなさい。不倫はやめなさい。仕事を探しなさい。精神科医にかかりなさい、という感じだ」
三股の関係に主人公は疲れ切るが、どの女性も手放せない
「わたしは三人とも必要なんだ。恥ずべき話だが、それが真実なのだ」と彼は認めた。「タマラは昔より美しくなったし、気性も穏やかになって、話をしていても楽しい女性になった。マーシャ以上に酷い地獄を見てきたはずなのに。タマラと別れるのは、あいつをほかの男にくれてやるようなものだ。「愛」ねえ。弁護士たちは、愛って言葉に明確な定義があるみたいにその言葉を使っていたが、愛のほんとうの意味は誰も知らないんだよ」
現在では、一夫一妻制はほぼ全世界的に理想とされている。さらには、経済的にも豊かな西欧諸国の人々は、あまり火遊びをしないのが普通だ。しかしアメリカ人以外は、既婚者がよその人間に淡いときめきや恋心を感じて、一線を越えてしまうことがあってもいいとする傾向がある。実際に一線を越えても、夫婦それまで、アメリカ人がいうところの”数年にわる偽りの生活”をしたことにはならない。不倫はどこの国においても、苦悩をもたらす。しかしその場の状況と人々の期待によって、その苦悩の度合いは変わるのである。
わたしたちはフランスをお手本にすべきかもしれない。一般的にいって、フランス人は不倫をすると、その関係を楽しむことを自分に許す。おいしい料理を食べ、ロマンティックなデートをして、不倫関係を楽しんでいる自分を責めない。さらには、情事を真剣な関係に発展させる気がないならば、発展させない。パリ在住のある男性は、不倫の法則に従わないと愛人に責められる、とわたしに語った。その法則とは、彼女にプレゼントを贈り、平日は無理でも週末はかならずデートする、というものである。それさえ守れば、彼女は不倫関係を母親や女友だちに気軽に話す。不倫であるがゆえのフラストレーションはあるかもしれないが。周囲の非難の目や、このさき結婚するかもしれないという誤った期待によって、問題が大きくなることはない。
取材中に驚いたのだが、
フランス人や日本人のなかには浮気が発覚したとき伴侶と対決しない人々がいた
パリ在住のある夫婦を紹介しよう。浮気をしていた方は妻のほうだったが、その不倫関係がついにおわったとき、夫は気まぐれな妻の心が結婚生活に戻ってきたのを感じたそうだ。ふたりは現在、まあまあ満足して暮らしているようだ。妻の不倫によって大変な苦労はしたが、神経をすり減らすような危機が長期にわたることはなかった。わたしがこの夫と同じ立場になったら、こんなに落ち着いて浮気に対処できないだろう。でも、対処できたらいいだろうな、と思う。
ほかにも外国をお手本にすべきことがある。夫婦はたがいに胸のうちを洗いざらい打ち明けるべきだとするアメリカ式の考えは、ほかの国にはない。思っていることを全て打ち明けたら、結婚生活に不可欠な謎の領域が奪われてしまうだろう。あるていどの謎があったほうが、少なくとも、謎があるようなふるまうほうが、結婚はうまくいくはずだ。
アメリカ人も最近はようやく、不倫問題にかんして現実的になってきているのかもしれない。専門家が最近よく既婚者に口にするアドバイスは、夫婦ともいつかほかのひとに心を奪われるかもしれない――ショック――可能性は明らかにあるのだから、その問題についてあらかじめ話し合っておきましょう、というものだ。夫婦いざそうなったときのために、対処法を考えておかなければならない。魅力的な同僚からランチを誘われてうれしく思っていることを、伴侶に話せるような雰囲気が家庭にあれば不倫は回避できるだろう、と専門家たちはいう。野放しにしておくとどんどん増えていく秘密をその場その場でなくしていけば、不倫に心惹かれることもなくなるだろう、という論法だ。
以上のような、アメリカの結婚産業複合体が編み出した浮気阻止のノウハウが、不倫の全国レベルを下げるのに役立つかどうかは疑問だ。いまのアメリカの不倫率を大幅に引き下げるということは、人間的見地からいっても不可能のように思われる。アメリカの不倫率は世界的に見て、すでにかなり低いのだから。経済がある限り一定の構造的失業があるのと同じに、どの国にも構造的不倫がごくわずかなレベルでも存在するようだ(一年間に浮気をしたことのある男性は、つねに三パーセント近くいる)。そのレベルを大幅に割り込んでいる国は、唯一バングラデシュとカザフスタンであるが、これらの国はべつの問題を抱えている。
アメリカ人は夫婦が忠誠を守ることと結婚に関して、外国人ならば夢にも思わないような高い基準を設けているが、それはとても贅沢なことだ。ダイアン・ジョンソンの小説『ル・ヴォースーパリに恋して』では、既婚のフランス人男性が若いアメリカ人の愛人にこう語っている――「きみの国の創設者たちは未来への希望を表明し。最上の結果が可能となる状況をつくるために尽力するといった。でも、途中でどういうわけか、希望が具体的な信念に変わってしまった。きみはそれを、ポジティブキングの力っていうだろうけどね。もちろんフランス人は物事を最終的にうまくいくなんていう錯覚はしない」。たぶんわたしたちアメリカ人は、きっとうまくいくとずっと信じつづけるのだろう。
謝辞
本書を書くにあたって、初対面の人々の厚意に助けられた(ちなみに、彼らの多くはいまでも友人関係を築いている)。以下の方々がいなかったら、日本の真相に迫られなかっただろう。ヨウコ・イチモト、アッコ・イマイ、マキコ・ワカイ。エッコ・ヤマグチ、トモコ・グリーア、ヘンリー・アトモア、メリル・ディヴィス、靴擦れと疲労を押して頑張ってくれた通訳のマイコ・サワダのみなさんである。
ロシアでの取材活動を手伝ってくれた、ウラジミール・ソルダトキン,ジョン・バロリ、カーラ・ダヴィドィッチ、シムチャ・フィッシュベイン、リン・ヴィッソン、以下省略
本の執筆は出産に似ている、とのセリフを耳にすることがたまにある。わたしはほぼ同時にそのふたつを体験したが、本を生み出すことのほうが出産よりはるかに苦しかった。娘のレイラには感謝している。彼女はほったらかしにしてコンピュータ画面をみているあいだ。ずっと機嫌よくしてくれていたのだから。
不倫の本を書いている女にプロポーズする男性は滅多にいない。サイモン・クーパーはこんなわたしと結婚してくれたばかりか、原稿にすべて目を通してくれた。あなたの知性に裏付けされた果敢さ、愛、忍耐は、一生忘れません。ほんとうにありがとう。
訳者あとがき
世界各地の不倫事情が本書のテーマだ。著者がいう不倫とは、性的に忠誠を誓わなければならないカップルが、ほかの人間と秘密の性関係を結ぶことを指す。ゆえに、結婚していない恋人同士の不倫も取り上げている。不倫という禁断の恋を軸に、さまざまな文化における恋愛や結婚の在り方を扱っているといってよい。
このテーマを取り上げるきっかけは、新聞記者として南米に赴任していたさい、現地の既婚男性に頻繁に口説かれるようになった経験だった。著者は不倫を罪悪と見なしていない男性たちに嫌悪しつつも、文化の違いを痛烈に感じたという。アメリカ人の不倫に対する潔癖さがちがう文化を持つ国では通用しないことに興味をもち、アメリカ、フランス、ロシア、日本、アフリカ、インドネシ、中国で不倫に関する取材を行った。
著者は取材で訪れた国で学者、結婚カウンセラー、実際に不倫をしている男女にインタビューをし、独自の切り口でその国の不倫事情を考察していく。フランスは不倫大国であるという通念をくつがえし、精神科医が「不倫は義務だ」と豪語する仰天の国ロシアを紹介し、死という代償をはらってでも不倫が行われている南アフリカの複雑な事情を明るみにしている。さらには、宗教が不倫を禁じることができるか、短期間の経済発展が不倫ひいては男女関係にどのような影響をあたえるかも論じている。
恋愛のきわめてプライベートな領域にふみこんで真相をつかむのは、むずかしい。不可能といってもいいかもしれない。それを承知で、その危険な謎の領域に果敢に切り込んでいく展開は、スリリングで読み応えがある。
しかし、なんといっても興味深かったのは日本の不倫事情だ。章のタイトルは、ずばり「お一人様用布団の謎」。日本人は結婚して子どもをつくると夫婦間のセックスはほとんどなくなるし、男女ともに非日常的な恋愛ファンタジーに浸るばかりで、男と女が正面から向かい合わないそうである。不倫をしている日本人もいるにはいるが、男性の多くは玄人女性との気晴らしのセックスがほとんどで、女性は情事そのものを求めているというよりは、不倫関係がゆえになかなか会えない切なさに酔っていることが多い、とのこと。翻訳作業をしながら、うーん、そうかなと首をかしげつつ、当たってなくもないという気がして苦笑したのを覚えている。
著者の意見がすべて正しいとは限らないし、たとえ的を射たところがあったとしても、恥じることはないと思う。お一人様用布団の国でなければ生み出されない文化を、日本は世界に発信して認められているのだろうだから。ただ、結婚を望みながらも結婚できない男女が多くなっている現在、日本人は恋愛対象となる生身の人間のありのままの姿にもっと目を向けたほうがいいと思うし、結婚してからも(いや結婚したからこそ)男女の関係を持続させる努力は必要だと痛感した。
さて、著者がもっとも力を入れて取り上げているのは、自国アメリカの不倫事情である。アメリカはカップルの間に秘密や嘘があってはならないと思い込んでいる、と著者はいう。だからこそ不倫は犯罪と見なされて、不倫問題を扱うカウンセラー産業が大?盛している。パートナーの偽りをけっして許さず、不倫が発覚したら徹底的に話し合うことで問題を解決しようとするアメリカ人は、常軌を逸しているのではないか、というのが著者の意見である。そういった批判精神をもって書かれているせいか、不倫問題に悩むアメリカ人夫婦のカウンセリングの専門家たちはみな、いくぶん戯画的に描かれている。家父長制が厳然と残っている家庭で育ったわたしは、夫婦はもっと会話すべきだ。男女関係の点ではアメリカ人を見習うべきだと思っていたので、著者の痛烈な指摘は新鮮な驚きだった。と、同時に、自国民の欺瞞や矛盾をことごとく暴こうとする著者の姿勢にこそ、偽りを許さないアメリカ人ならではの潔癖さを感じた。でも、これはちょっと意地悪な見方かもしれない。著者はおそらく、幸福を追求するあまりにかえって不幸になっている自国民の姿に心を痛めて、アメリカ人のカップルはもっと肩の力を抜いたほうがいい関係を築けますよ、といいたいのだろうから。
著者のパメラ・ドラッカーマンは《ウォールストリート・ジャーナル》の元記者。いまではフリーとなって夫と子どもとともにパリに在住している。子どもを出産したのは本書の執筆中だったとのこと。セックス、不倫、はてはフェラチオなどいった、おいそれと口にできない用語が頻出する本を、子を宿しながら書いたとは‥‥いやはや豪胆な女性だ。今後の活躍が期待される。
最後に、原稿を丁寧に読んでいただいた、早川書房編集部の佐藤博美さんこの場を借りておれい申しあげる。
二〇〇七年一二月 訳者 佐竹史子
恋愛サーキュレーション図書室