敬虔なイスラム教徒やキリスト教徒やユダヤ教徒のなかには、神の怒りに触れる危険をおかしてでも伴侶以外と肉体関係を持ちたいと願う者がたくさんいる。要するに、死の恐怖も神への畏れも、性文化を変えなということだ トップ画像 夜の夫婦生活での性の不一致・不満は話し合ってもなかなか解決することができずにセックスレス・セックスレス夫婦というふうに常態化する。愛しているかけがえのない家族・子どもがいても別れてしまう場合が多い。

第10章 性革命

本表紙 パメラ・ドラッカーマン著 佐竹史子訳

 南アフリカ人は一夫一妻制よりも死を選ぶ

敬虔なイスラム教徒やキリスト教徒やユダヤ教徒のなかには、神の怒りに触れる危険をおかしてでも伴侶以外と肉体関係を持ちたいと願う者がたくさんいる。要するに、死の恐怖も神への畏れも、性文化を変えなということだ。

 では金銭はどうだろう? わたしたちが一生のうちで性活動を行う時期はそう長くない。その短い期間に自分たちの国が貧しい僻地から、目覚ましい発展を遂げる市場経済の国へと変わったとしたら、いったいなにが起こるのか? 人間の性行動は変化するのだろうか? かりに変化するとしたら、ひとはどうやって自分の行動を正当化するのだろうか? さらに、そういった時代の流れに取り残された人々はどうなるのか?

 そんなことをつらつら思っていたのは、水曜日の夜八時。わたしは香港と中国本土の国境、羅湖(ロオコ)にいた。周囲には、国境の向こう側の国際都市、深?(しんせん)に入ろうとしている大勢の男性たちが列をなしている。深?で働いている香港人はたくさんいるが、わたしの周囲にいるのはほとんどが旅行客だ。みな仕事着から短パンとサンダルといった格好に着替えていて、友人連れが多い。五分間隔で運行している通勤電車がまた一本、満員の乗客を乗せてこの国境の駅に滑り込んできた。

 ここに集まっている事務員、配管工、バスの運転手たちは、イミグレーションの暑さや長蛇の列をものともしない。ついでにいうなら妻の怒りや法の罰則も恐れていない。国境をひとたび越えれば、そこは若い女性が住む魅惑の土地、深?なのだから。列に並んでいる男性たちを深?の女性たちは待ち受けていい、彼らが望むことをすべてしてくれる。男性たちが想像もできないような行為すら、してくれることもある。

 深?は不倫のユートピアだ。一夜のお楽しみを味わいたければ、相手となる娼婦は選り取りだ。しかしこの都市にはまた

地元のメディアから”第二夫人村”と呼ばれる地域が点在している。その一帯には、香港のパパに囲われている女性たちがいる。彼女たちはおそらく、日がな一日をマージャンをしたり、子犬を散歩させたり、本物のルイ・ヴィトンのバッグ(深?にはまた、戯ブランド製品で有名)をもって出歩いたりしているのだろう。かつて愛人をしていたある香港の女性は、深?の第二夫人たち――中国語でイーライと呼ばれている――はみな、砂時計のような体をしている、とねたましそうに語った。香港の男性と深?の女性とのあいだに生まれた非摘出児は、少なくとも五〇万人いるといわれている。

 男性たちの良心に訴えようと、中国のある議員が国境線の香港側に「あなたのお子さんが家で待っていますよ」とのメッセージを書いたボードを掲げる提案した。とはいえ、見たところ、香港の男性たちが心を入れ替えた様子はない。「深?の女たちは香港の女と比べて、安くて美人だし、若いんだよね」と、香港で雑用係をしているマーティンは語る(香港の中国人の多くがそうであるように、マーティンもまた英語名と中国名をもっている)。香港に妻がいるが、週に四。五回はイーライのところで夜を過ごしている。「でも、一番のポイントはやっぱり安いことだよ」

 深?が第二夫人の中心地となったのは、けっして偶然ではない。一九八〇年代初頭、深?は海外の投資を誘致する、中国で最初の都市に指定された。その当時は、人口三〇万人の漁村だった。しかし外国の企業が工場をつぎつぎと開設しはじめると、職を求める人々が中国の貧しい内陸部から殺到して人口がふくれあがった。二〇〇五年には常住人口が四五〇万となったが、その大部分はよそから来た人々だった。この土地に来た人々、とくに美しい容姿をもった人々は、コンピュータの組立工事よりもマッサージパーラ―やカラオケバーで働いた方が稼げることをじきに理解した。そう気づく前にすでに、香港や中国本土の男たちがアパートメントを彼女たちにあてがい、生活費を出していたのである。

 この新しい男女の形がいかに驚くべきものであるかを理解するために、中国の歴史をざっと振り返ってみよう。二〇世紀初頭までつづいた中国最後の王朝において、男性はひとりの女性しか妻にできなかったが、妻に対して性的な忠誠を守る必要は全くなかった。気の向くまま愛人をつくったり娼館に行ったりすることができたのだ。しかし妻にとってのセックスパートナーは生涯にわたって、夫ひとりだけだった。歴史学者のリサ・トランによると、妻が浮気をしたら、夫は妻を家から追い出したり、殺したりすらできたという。

 一九〇〇年初頭に状況は変わった。中国が代議政治制に切り替わり、男女は対等であると明言したのである。ちょうどおなじころ、夫も妻への忠誠を守るべきという方向へ世論が変わり始めた。その問題をめぐる国会議員と国民の意見の対立は、数十年つづいた。法律をめぐる論争はさておき(愛人はほんとうに妻とはいえないのか?)、男性たちは特権を手放したくなかったのである。

 一九四九年に政権を握った共産党の毛沢東は、愛人を囲うことは重婚にあたるとし、法律で禁じた(一九九七年までイギリス領だった香港では、愛人を持つことは禁じられなかった)。売春もまた禁じられた。毛沢東は性の乱れを、自己中心的な快楽らふける金持ちを連想させる”ブルジョワ的”行為と激しく非難した。すべての人民を対等にすることで、国を一新させようとしたのだ。

 性的な忠誠にたいする毛沢東のこだわりは、実質的であると同時に感情的なものでもあった。毛沢東が確立したような独裁政治は、セックスのようなごくプライベートな領域まで国家が介入すれば、人民を完全に支配できると見なすのである。秘め事の中の秘め事ともいえる不倫を取り締まることは、偽政者にとって究極の目標ちとなる。ソ連では、恋外交渉は現実からの数少ない逃げ場のひとつだった。ジョージ・オーウェルの小説『一九八四年』は、全体主義に統治された架空都市ロンドンを舞台にした近未来小説だが、主人公たちは婚外セックスをすることで、党から逃げようとする(しかしのちに、婚外セックスの様子を政府に一部始終監視されていたことを知る)。

 毛沢東政権下の中国では、不倫は公式には違法とはされなかったが 

 軽率な行いとされていた。地域の委員会――目の鋭い年配の女性が指揮を執っていることで知られていた――は、地元アパートメントの見張りを怠らず、ライフスタイルに問題があると思われる人物を党の幹部に報せた。作業グループのリーダーたちは、不倫の疑いのある作業員を降格したり、解雇したりすらした。もしくは、その被疑者に屈辱的な自己批判をさせたこともあった。不倫をした女性は”壊れた靴”と呼ばれ、槍玉に挙げられた。不倫はとてもリスクをともなう行為だったので、遠隔地へ労働にかりだされて毎年一カ月しか帰省できない人々は、しばしば「失業しても、パートナーと常時セックスできる」ほうを選んだ。

 ソ連と同様に、浮気をする場所を見つけることじたい、非常にむずかしかった。時代が下がって一九八八年社会学者の査波は以下のように発表している――独裁者が鍵穴から密室を覗くかなくなっているのにもかかわらず、「密接した住宅事情は、依然として不倫をしにくくしいする。このため、伴侶や友人、同僚や近隣の人々に気づかれずに婚外セックスをするのは難しい」。彼らが都会の居住者を対象に行った調査によると、浮気をした男性の八〇パーセント、浮気をした女性の八七パーセントが伴侶に浮気を気づかれた、とのことだ。

 自由恋愛もまた、中国共産主義の犠牲となった。一九六六年から毛沢東が死亡した一九七六年までつづいた文化大革命のあいだ、都会に住む若者は家から離され。数年間にもわたって農家での労働を強いられた。地方のもっとも熱狂的な強制労働所では、喫煙や恋愛がはっきりと禁じられた。都会に戻ると許可をもらうためにだけに結婚した男女もいたが、当時は愛というより政治、経済、家の繁栄のために結婚するのが普通だった。と社会学者の査波は説明している。結婚はしばしば、党の幹部の許可を必要とした。

「恋愛やセックスといった私生活について語ることは、ブルジョワ的だと見なされた。つまりタブーだったのである」と、エミリー・ホニッグは論文「社会主義のセックス」のなかで書いている。彼女はさらに青年時代に農村に強制的に送られた、いわゆる”下放された”人々の以下のような回想を紹介している――「愛をテーマにした書籍はすべてポルノであり、愛をテーマにした音楽はすべて低級であると考えられていました。愛し合っている男女は危険人物とのレッテルを貼られました」。卑猥な冗談を禁じる指令もあった。人々は手書きで書いた恋愛小説をこっそり回し読みした。そういった小説の著者は捉えられて、”ブルジョワ的な愛”を広めた罪で投獄されたこともあった、とホニッグは記している。

 その時期に上演を許可された芝居ですら、性的なニュアンスがある場面はことごとく取り除かれた。男役と女役が舞台の上で、「労働と革命と階級闘争しか語らなかった。さらにたがいを”同志”と呼び合っていた」と、ホニッグ。毛沢東とともに文化革命をエスカレートさせた江青が彼の妻であることすら、大多数の国民は知らなかった。

 毛沢東は以上のような制約を自分には課さなかった。毛沢東の長年の主治医が一九九四年に発表した暴露本のなかで、著者の李は、毛沢東の側近たちは主席の性欲を満足させるべく、「若くて魅力的な政治思想に信頼できる」女性たちをつねに集めいた、と記している。李によると、毛沢東は処女が好きで、何千もの愛人を囲っていた中国の皇帝を気取っていたという。郊外の別荘で夕食がおわったあと、最新の愛人とその妹と三日間、密室にこもったこともあった。そのあいだ毛沢東が部屋から出てきたのは、上海市長との会合に出席したときだけだった。

 禁欲は文化大革命のスローガンだったが

 中国共産党がかかげる理念が禁欲的で道徳的なものになればなるほど、主席本人は快楽に溺れていった」と主治医は書いている。「複数の若い女性たちにあれこれサービスさせるのを習慣にしていて、文化大革命のピーク時には、一時に三人から四人、多いときで五人の女性を寝台にはべらせていた」女性たちの間では、毛沢東から性病をうつされることがステータスとなっていたという。

 毛沢東は一九七六年に亡くなったが、中央集権化された経済はそのままだった。政権を継いだのは共産党の改革派だったが、中国の経済を開放するためには、国民が私生活を見張るためのこれまでの仕組みを廃止せざるをえなかった。その仕組みの中には自然消滅したものもある。財をなした人々は高層マンションに移り住むようになると、目の鋭い年配の女性は出番を失った。政府の作業グループもあらたな富裕層にたいしては発言権をもたなくなった。

 プライバシーと富が増えるにつれ、男女の密会が可能となるとこじんまりとした場所もたくさんできた。イーライは数ある選択肢のなかのひとつにすぎない。中間管理職や専門職などに就いた中国のあらたな階層は、教育を受けていない農民と付き合う気は全くなく、上海のような大都市のダンスホールや会社で恋愛の機会を得た。”よそ見”をする自由な時間とプライバシーを得た人々にとって、レストランやホテルなど密会に欠かせない場所が、きゅうに手の届くものになった。内気なあまり出会いのきっかけをつくれなかったり、仕事に追われている人々には、インターネットが恵みもたらした。

 不倫をしている中国人は、この国では昔から不倫が盛んだったと自分の行動を正当化することがときおりある。しかし、中国の不倫のなかには疑問の余地なく現代的なものがたくさんある。第一に、不倫を表わす新語が生まれた。”一夜の恋”は、西欧風のバーやディスコで知り合ったホワイトカラーの男女の行きずりの関係を指す。”ネットの恋”と、”インターネットの恋人”は、仮想世界のなかだけでおつきあいがおわる場合がある。”四番目の情”とは、友情、愛情、性欲の三つがない交ぜになっている心の状態を指し、同じ職場で働いている男女のあいだに生じる感情のことである。愛人の家庭を壊そうと目論んでいる男性を指す用語ですらある。

 中国を駆け巡るニューマネーは、情事を可能にしただけでない。不倫をビジネスにした産業をも生み出した。とはいえそれはアメリカの不倫ビジネスとはちがい、浮気をしばしば促進するものでもある。お見合い斡旋所が、中国を訪れたビジネスマンに地元の女性をあてがう。性科学者ははじめとする新手の専門家たちが、テレビのトーク番組で婚外セックスの倫理性について意見を述べる。人気のメロドラマに不倫が登場して、あたらしい男女の在り方を国民に伝える。大上海インベスタィゲーションのような探偵事務所のおもな仕事は浮気調査だ(“愛人つぶし”との異名をもつ有名な探偵もいる)。大?盛して、支店を出す探偵事務所も少なくない。

 中国は不倫の関係を輸出さえする

大金持ちは愛人に飽きると、彼女たちをオーストリアの大学院に留学させるのだ。台湾の新聞は婚外セックスが異常発生していると報じている。仕事で訪れる中国本土の都市で愛人をつくるビジネスマンがあまりに多いことが、その一因である。旅行中の夫に浮気をさせない秘訣を書いた本『わたしの夫は、中国本土で仕事をしている台湾人』はベストセラーとなった(もっとも、著者の夫は、妻を捨てて若い恋人と一緒になったとのこと)。台湾の医師たちは、パイプカットをする男性が急増したのは、夫の火遊びによるダメージを最小限にとどめたいとい願う奥さんたちから頼まれたからだろう、と報告している。

 中国において、富は浮気をするあらたなチャンスをつくりだした。しかし人々がそのチャンスを利用している事実は、金銭だけでは説明しきれない。人々がそのような行動に出るには、いつ、だれとなら浮気を許されるというあらたな共通認識が、中国社会になければならないのである。人々はその共通認識を盾に、正当な理由があって不倫をしていることを同僚や友人や自分自身に納得させる。

 不倫が正当化される理由のひとつに愛がある――より正確に言えば、愛のある不倫は悪いことではない。西欧人にとってなじみのある言い訳だ。もちろん、中国人とて古くから恋愛はしてきた。しかし、社会学者のジェームズ・ファラーが指摘するように、恋愛感情に基づいて行動することが正しいと見なされるようになったのは、二〇世紀後半になってからだ。一九八〇年代の初頭には、愛人と一緒になるために離婚するのと愛のない結婚生活に甘んじるのとではどちらがいいかというテーマを、人気のある雑誌でこぞって取り上げるようになった。その数年前だったら、とても考えられなかった話題である。

 都市部の学のある人々は、男女のあいだに愛がなければならないとするあたらしい論理をことのほか信じ込んでいた。社会学者が一九九〇年に行った調査によると、男性の八四パーセントと女性の九二パーセントが、夫婦はたがいに性的に忠誠を守るべきだと答えた。しかし、”愛を追求する”不倫は許されるかと問うと、大卒男性の四〇パーセント、女性の二八パーセントが許されると答えた(学歴が大卒より低い人々はで許されるとした人の割合は、以上に挙げた数字より少なかった)。

 中国で不倫が増えつつあるという確固とした証拠はない。毛沢東が政権を握っているあいだ、有意義なセックス調査は行われなかったので、比較になるデータがないのだ。しかし二〇〇〇年に全国規模で行われた調査、中国健康家族生活調査では、中国の最富裕層である都会の男性は、全人口にくらべて浮気っぽいとの結果が出た。この一年間に浮気をしたと答えたのは都会の男性で約一八・三パーセント、女性で三・二パーセントだったが、そう答えた中国全域の男性の場合は一〇・五パーセントだった(中国全域の女性のデータはない)。上海では、離婚を望んでいる人々のおよそ四〇パーセントが、別れたい理由は不倫だと答えている。かつてはひどく難儀だった離婚手続きも、いまは一〇分程度ですむし、その費用はフラペチーノ一杯より安い。

 中国の経済成長は、おとなり香港の人々の欲望に火をつけた。香港は一九九七年に中国返還されるまでイギリスの植民地だったため、香港人は共産党の圧制がもっとも激しかった時代を経験しいてない。しかし中国に洪水のように流入したニューマネーによってイーライが香港国境にまで押し寄せ、香港の男性にも恋愛を求める気持ちをもたらしたのである。香港で雑用係をする四一歳のマーティンは、イーライをいかに安く囲うことができるか熱っぽく語りながらも、自分と彼女(出会ったときは一八歳だった)は強い絆で結ばれていると言い張った。彼女が以前勤めていた深?のマッサージパーラ―に通いつめていた時期は、恋愛期間だったとマーティンはいう。「彼女もそれを望んでいるんだって、わかっているからね」アパートメントに一緒に住むのを決めたときのことを、彼は語る。

 なにもかも金にまみれているように見える土地だからこそ、純粋な愛をはぐくむことがいっそ貴重になるのかもしれない。イーライは本妻とはちがって金を要求したことがいちどもない、とマーティンは何度となくいう。ぼく自身ごく貧しい家の出だから、イーライとおなじ”土壌”の人間なのだ、とのこと。「彼女は夕食を用意してくれて、ぼくを王様のように扱ってくれるんだ。目覚めたらお茶を入れてくれる。服をきちんと並べて出してくれる。香港の妻とは比較にならない。あいつはそんなことをしてくれないんだよ」

 マーティンはイーライを愛人のようなものと見なしている 

 イギリスが香港を植民地にしたのは一八四二年だが、愛人を持つのを禁じたのはだいぶあとの一九七一年だった。清王朝の時代からそれまで、愛人制度は合法だったのだ。とはいえ、かつて愛人は金持ちの特権だった。現在ではマーティンのような労働階級の男性でも、別宅をもつことが可能となっている。

 しかしマーティンのイーライは、自分を正妻だと思いたがっている。マーティンによると、イーライという言葉を使うのは、マスコミと香港の女性だけだという。マーティンのイーライは女友だちに彼は独身だと語り、たがいに「だんなさん」「奥さん」と呼び合うようにしましょう、と彼にいっている。とはいえ、マーティンが本妻に電話をかけているとき、イーライは物音を立てずにじっとしている(マーティンは本妻に、きょうは夜勤なのだと?をつく)。「イーライと呼んだら、彼女は傷つくでしょうね。香港に妻がいることを彼女は受け入れている。でも中国では、あくまでも彼女が妻なんだす」

 マーティンが深?に来ると、イーライはほかの女性が近づかないように彼を見張る(妻がひとりしかいない男性たちと同様に、マーティンもイーライに伝えた時間よりも数時間早く友人と一緒に深?に行って、”遊ぶ”ことがしばしばある)。ぼくは彼女に本名を教えているんです、とマーティンは胸を張る。失業したり、もっと若い愛人を見つけたりしたときに姿をくらませられるように、本名を告げない香港の男性がいるそうだ。付き合いだして四年半になるが、マーティンとイーライはふたりの関係のロマンティックな結末すら想定しているという。じきに彼女はほかの男性と結婚するが、マーティンが忘れられずに彼のもとを訪れるようになる、というシナリオだ。

 彼女がイーライになってくれたのは純粋にぼくを愛しているからだという発言は、うちのメイドは家族の一員ですという主張にちょっと似ている。支払いをやめたら、彼女はとっとと出ていくだろう。ジェームズ・ファラーと彼の共同研究社の中国人は上海在住者に浮気についてのインタビューを行ない。人々が道徳心の欠如を指摘されたくないあまりに、相手をほんとうに想っているかどうかに関係なく「恋愛」を浮気の言い訳にしていることは明らかにした。このロマンティックな魔法が打ち砕かれると、とたんに金銭問題が浮上してくる。三〇歳の独身女性ミミは、付き合っている台湾の男性に妻と別れる気がないことを知るや、金銭を要求しはじめた。彼女はまた攻撃的にもなった。ミミと台湾の男性が働いている職場に、彼の妻が電話をかけてきて、「台湾の李の妻です」といったとき、「あたしは李の上海の妻です」と答えたのだ。

 シナリオは状況によって違ってくる。恋愛をしているだけだと訴えている男性が、妻を相手にする場面になると、とたんに旧態依然としたシナリオをもちだす、ということはありうる。つまり、家族を食わしてやっている男は浮気をしてもかまわない、という論法である。「愛人がいる男性はみな、自分は夫として父としての責任は果たしているといいます。『金を家に入れている』とね」と、香港の中国大学の人類学者、驃は語る。「お金はよき夫であることの重要なパロメーターなんです。メンタルな部分がバロメーターになったのはつい最近でね‥‥責任を果たしていることを示す一番簡単な方法が、家に金を入れて、両親にお金を渡すことなんですよ」

 中国の性革命はとても伝染しやすい。中国で数カ月働いたのち一夫一妻制は自分に向いていないと思うにいたった西欧の既婚男性たちの話を、わたしはちょくちょく耳にする。性文化は仲間の働きかけによって形成される。浮気はごく普通のことだ、きみは好きなだけ道楽をしていいし、それで害になることは何もない、と周囲の人間全員からかわれれたら、たしかにそうだという気になってくのが普通だ。マーティンがイーライを囲うことにしたのは、経済的な余裕があったからだけではない。友人もまた囲っていたからだ。深?にいるとき、彼はイーライを連れたほかの香港人たちと、ちょくちょくグループデートをするという。

 恋愛と金銭的な利得を兼ね備えた情事は

 現代中国において英雄的な行為と見なされる。その道の先駆者である女性。ケ文迪は数々のチャンスをものにして成りあがり、最終的に大物中の大物を手に入れた。オーストリア人の億万長者ルパート・マードックである。結婚へ至るその道のりは、野心に燃える中国の若い女性の手引書としてそのまま使えそうだ。《ウォールストリート・ジャーナル》によると、工場長の娘として生まれた文迪は広州医学院の学生だった一六歳のとき、カリフォルニア出身の女性ジョイス・チリーに出会い英語を習う。チェリーの夫ジェイクは、工場に冷凍室を設置する技術を中国人に教えていた。夫婦は文迪をとても好ましく思っていたので、彼女がアメリカで勉強したいといったとき学生ビザが取得できるように保証人となり、夫婦の自宅近くの大学に志願書出すのを手伝ってやった。ひとりで暮らしていけるようになるまで、しばらく自宅に住まわせさえもした(チェリー夫妻もすでにそのころには、アメリカに帰っていた)。

 ほどなくして、ミセス・チェリーは夫が写したなまめかしい写真を発見する、中国のホテルの一室にいる文迪を撮ったスナップだ。二年後、チェリー夫妻は離婚。シェイクは文迪と結婚した。《ウォールストリート・ジャーナル》の記事によると、結婚は文迪がアメリカ居住権を得てからすぐに破綻したという。文迪は大学卒業後、イェール大学のビジネススクールで学んだ。その後、テレビ局のインターンを経て、ルパート・マードックが所有するアジア向け衛星テレビサービス、スターTVでの職を香港で得る。マードックの中国語の通訳として文迪がはじめて公の場に姿を現してからわずか九カ月後、マードックは会社の重役に「我々の関係は真剣なものだ」と語った、と《ウォールストリート・ジャーナル》は報道している。一年後、マードックは離婚。文迪と結婚した。

 このようなサクセス・ストーリーは、特定の階級に属する中国人女性の指針となっている。中国大学の譚少薇は以下のように語っている――「大学の女子学生に『人生の目標は?』と聞くと、『それはやっぱり、お金持ちの男性と結婚することよ』と答えているんです」

 だれもが中国のあらたな性文化に巻き込まれたわけではない。政府の役人の多くは、性風俗の時計の針を一九七〇年あたりにできれば戻したいと思っている。無数の国民がふしだらな行為に耽っているというイメージに、北京政府は頭を抱えている。情事が中流階級の中国国民にとって、彼らが獲得した自由と自己表現のシンボルであるとするならば、政府にとっての情事は政府の支配力が失われることの表われとなる。

 北京政府の不安は、定期的に表に噴出している。不倫が伝統的な家族中心主義を破壊し、殺人率を上昇させつつあると役人がかつて発表したのも、そのひとつだ。情事はなにか問題が起きたときに罪を着せることができる格好のスケープゴートであり、地方と都市との収入格差といったより深刻な問題から国民の目をそらせることができる話題である。

 不倫がもたらしたであろうもうひとつの副産物は

 政府内部の腐敗である。専門家グループの調べによると、汚職で有罪判決を受けた当局関係者の九五パーセントが愛人を囲っており、中国南部(深?もふくめる)では一〇〇パーセントが愛人を囲っていた、とのことである。この腐敗を解決するには不倫を一掃するしかない、と専門家たちは結論を下している。

いささか入り組んだ論法だが、当局関係者が不正を働くのは豪華なバカンス、ブランド物の靴などをねだる愛人にこたえようとするからであり、愛人を持たなければ、横領をしなくてもすむだろう、というわけだ。

 政府機関が不倫阻止に乗り出すこともたまにある。南京市は市の役人全員に、自らの愛人関係についての報告書を提出するように命じた。深?をふくむ広東省では、同棲をしたカップルに罰として二年間の強制労働収容所暮らしを科す法案が通過した。その法令は、既婚男性と中国本土の愛人を告発する立場にいる妻は香港に住んでいて、そこでは中国本土の法律は通用しないからである。

 不倫問題について、国を挙げての討論がなされたときもあった――これは、中国が民主的な開かれた国家になったひとつの表れともいえる。討論された問題は、政府は不倫を犯罪と見なすべきかどうか、どういう男女関係を不倫と見なすのか、不倫相手は起訴されるべきかどうか、などである。結婚している夫婦の別居を違法にするかどうかまで、話し合われた。しかし、多くの警官がモーテルの張り込みに駆り出される光景を想像して、共産党の統治者たちも冷静さを取りもどしたようだ。最終的に定められた婚姻法では、配偶者が第三者と同居したことが原因となって離婚する場合は損害賠償を請求する権利がある、とするにとどまった。

 中国のあたらしい性文化は政権を閉口させているが、浮気っぽい配偶者をもつ人々にも恵みをもたらしていない。配偶者の浮気に悩むひとは、結婚を保護してくれた昔の制度を懐かしんでいる。

 ここで、香港で仕立て屋を営んでいる、五〇代の女性ウィニーを紹介しよう。彼女は本土に生まれ、二〇歳のときに香港にやってきた。彼女に会ったわたしは、いまの中国は中年女性にとってもっとも生きづらい場所なのかもしれない、と思った。結婚生活がおかしくなっていることにウィニーが最初に気づいたのは、夫がほかの女性を引き合いに出して彼女をののしるようになったからだった。「夫はいいました。『おまえより醜い女とおれが付き合っていたら、どう思う? 元ミス香港のミッシェル・リーみたいな美人とつきあったら、どう思う?』って」ウィニーは嘆く。彼女の腕は太く、顔立ちは平坦だ。ミッシェル・リーとは似ても似つかない。

 夫は香港から二時間の本土の街に行くことがとても多かった。ウィニーと夫はふたりとも、その街の出身だ。夫は友人の結婚相手探しを手伝っていたらしい。その街には、夫の気持ちを惹きつけてやまないものがほかにもあったようだった。そのうち、土曜日ですらウィニーや娘と過ごしたがらなくなった。夫の気持ちは、よそに向いていた。

 ウィニーと夫が本土の街に里帰りしたときのこと。レストランで食事をしていると、ふたりの若い女性がやってきた。女性たちは近くのテ―ブルにすわったが、ふたりとも会話もせずに黙っていた。そのうちのひとりは、ミッシェル・リーにそっくりだった。試されているのだ、というか、こっちがどういう反応をするか観察されているのだ、とウィニーは感じた。翌日、レストランでのことを夫に話すと、覚えていないとの答えが返ってきた。

 実際、夫は自分が何をしているかほとんど話さなかった。すこしでも話して妻に詮索されたら、きっとボロが出るとおもっていたかもしれない。しかし、ウィニーが夫の会社に電話をしたとき、電話に出た会社の同僚がウィニーを別の女性だと思い込んだために真相が明らかになった。「そのひと、こういったんです。『あれっ、香港に来ているんですか』って。会社のひとたちはみんな、主人の女を知っていたのね。知らなかったのはわたしだけ」夫はそれでも、女性がいることをはっきり認めなかった。ただ「よそに女がいたって問題ないんだよ。男はみなやっていることだ」とはよくいっていた。

 ウィニーはやりきれなかった。ちょくちょく耳にしたことのある話に救いを求めた。「主人にいったんです。『妻をふたりもつのはいいけど、だったら妻としてわたしのほうが格上よね‥‥格下の妻はわたしにお茶を入れなきゃいけないのよ』って」でもお茶は入れてもらえなかった。夫は別の話を信じていて、友人や同僚もそのとおりだといっている、とのことだった。それは、本妻に特別なステータスをあたえない、というものだった。「妻と愛人をもつことで、夫はいい気になっていたのだと思います」と、ウィニー。

 わたしは国境を越えて、深?に向かっていた。ウィニーの話がいまだに心から離れず、しんみりした気分になる。彼女を不安におとしいれたものの正体を、わたしはこの目で確かめるつもりだった。

 タクシーに乗って二〇分間で、連れの男性(私的なツァーガイドと通訳を買って出てくれた、香港の男性)とわたしは

第二夫人村に着いた

  タクシーに乗って二〇分間で、連れの男性(私的なツァーガイドと通訳を買って出てくれた、香港の男性)とわたしは第二夫人村に着いた。都会の真ん中にあるにもかかわらずなぜここが村と呼ばれるのか、なるほどよくわかった。建物はすべて低い。人々はみな道の真ん中を歩いている。どこを見ても、どこを向いても、若い女性だらけ。まだティーンエージャーと思しき女の子もいる。事情をよく知らなかったら、夏休み中の学生街に来たと錯覚しそうだ。女性たちは店のなかにすわって外を眺めたり、小屋みたいなレストランの店先で折りたたみ式の椅子にすわっていたりする。服装はいたってカジュアルだ。半数以上の女性たちがおなじ表情を浮かべていることに、わたしは間もなく気づいた。退屈そうな表情。村には細い通りがたくさんあって、路地はさらにたくさんある。どこを通りがかっても、退屈した女性が折りたたみ式椅子にすわっている光景がえんえんとつづいている。ガイドの男性が、ここにいる女性たちは売り出し中か、もう買い手がついているかのどちらかだ、と呆気にとられているわたしに告げる。

 しばらくそうやって歩いていただろうか、わたしはじきに、ガイドがあらかじめどこかに行くか決めていたことに気づいた。地元のマッサージパーラ―に向かっているらしい。やがて着いたのは、彼のなじみの店のようだった。クリップボードを手にした、サロンのロングドレス姿の女性たちが入口に並んでいる。わたしは店にいるのをためらった。ここでは、さまざまな体液が交換されている。サンダルじゃなくて、ちゃんとした靴を履いてくるんだった。

 しぶしぶ店にはいる。驚いたことに、物凄く清潔だ。女の子たち(とても若いから、そう呼ばざるをえない)がサテンでできたピンクの乗馬ズボン風パンツにポニーテールといった格好で、きびきびと立ち働いている。ガイドが接客係と話をつけると、彼女は広い部屋にわたしたちを案内してくれる。フラットスクリーンの大きなテレビがあり、クッションがきいた椅子が並んでいる。椅子の下にはそれぞれ、フットバスが置いてある。ディスコとペディキュア・サロンを足して二で割ったような感じ。ここには取材目的で来たのだ、まさにこういう場所がウィニーを苦しめた原因なのだ、とわたしは自分にいいきかせた。

 じきに、これからわたしたちが受けるフットマッサージの値段を聞かされる。八〇分三ドル五〇セント。お茶とよく冷えたスイカがついて、その値段だ。わたしはふかふかした椅子に腰をおろした。ピンクのパンツをはいた女の子が来て、わたしのこめかみをマッサージしはじめる(「脚」のマッサージなのに、頭から始めるそうだ)。ウィニーの顔と肝炎ウィルスの恐怖が、やがて消えていく。このあとで、べつのマッサージを受けるだけお金はあっただろうか、と思う。チャンスがあったらまた、深?にくるのもいいかもしれない。

 つづく ホーム・スイート・ホーム