
パメラ・ドラッカーマン著 佐竹史子訳
サイモンへ。すべてあなたのおかげです。
アメリカほど「不倫・浮気」が罪悪視されている国は、アイルランドとフィリピンの二国をのぞいていない
不倫の惑星へ
これは不倫についての本だ。ここで本を閉じてしまうアメリカ人がいても、無理もないという気がする。アメリカほど不倫が罪悪視されている国は、アイルランドとフィリピンの二国をのぞいていないのだから。アメリカ人に不倫の話を切り出すと、彼らはたいていしばらくのあいだ目を丸くして、自分はやましいことをしたのだろうかとわが身を振り返ったり、わたしが自分を誘惑しているのではないかといぶかしんだりする。パートナーに忠誠を誓うことがいかに大切か説教を始める人も少なくない。不貞の話題が出ただけで、打ち明け話をする人もいる。
私が不倫について真剣に考え始めたのは、《ウォールストリート・ジャーナル》のラテンアメリカ支局に配属されたのがきっかけだった。そこで生まれて初めて、既婚男性から頻?に関係を迫られるようになったのだ。私がきゅうに悩殺的な美女に変身したからではない。女友だちの多くが、やはり男性に口説かれるようになったといっていたのだから。そういった”求愛者たち”が魅力的な男性であっても、彼らの口説きはうんざりした。このひとたちは奥さんへの義務をどう考えているのか? 結婚しているのに誘惑してくるのは、私を小ばかにしている証拠だとも思った。いわゆる二号さんの立場に甘んじてでも、ともかく恋人が欲しいと焦っている女に見えるのか? 当時わたしは30歳になったばかりの独身で、結婚相手を探していた。
ある日、例によって男性に口説かれていたとき、清く正しい道徳観で頭がいっぱいになっていた私は、この女たらしを追い払わずに意見を戦わせようと決意した。問題のその男性はアルゼンチンの牛肉会社の重役で、ただのお食事だけでは済まないディナーに私をしつこく誘っていた。お気軽な情事の誘いに腹を立てている理由を私が説明したとき、その男性は目を白黒させた。僕の妻がどうして出てくるのか分からない、これは僕ときみだけの問題だろう、と彼はいった。そして、きみをばかにしているわけではない、「すばらしい喜びを味わせてあげようと思っているんだ」と説明した。
男性の誘いは断ったが、そのときの会話について何度も考えるようになった。それまでは自分のことを世慣れした女と見なしていたが、ラテンアメリカで出会った男性たちは、わたしが知らなかった道徳観を信条としていた。そういった道徳観はどこからきているのか? わたしはアメリカで育ったというだけでピューリタン的な重荷を背負い込み、すばらしい悦びを知らないままでいるのだろうか?
当時のわたしは不倫についてほとんど知らなかったが、文化背景がさまざまに異なる人々がどのようにどのように浮気をするか――或いは浮気をしないか――ということからその人々の多くがわかる、と思っていた。私自身について、エリート層の腹黒い連中は罪の意識がなかった。そこそこの収入を得ている政治家たちは、都会の中心地に豪華な家を構えていた。雑誌では、前大統領の娘がマイアミで派手にショッピングをしている写真がさかんに取り上げられていた。わたしがアルゼンチンに住んでいる間、政府関係者の汚職が通貨の暴落を招いた。アルゼンチン人たちは腐敗政治に文句をいっていたが、一方でそれに理解を示しているような人も多く、チャンスがあったら自分だって不正を働くとさえ思っていたようだ。妻への裏切りはその延長線上にあることらしい。伴侶への忠誠を守るのはいいことだが、横取りできるものを横取りしないのは、愚か者だけなのだ。
興味をもったわたしは、世界各国の不倫のルールについてもっと知りたくなった。しかし、いざ取材を始めると、アメリカでもほかの土地でもそう簡単に真相を突き止められないことが分かった。フランス人にとって浮気は日常茶飯事だといった決まり文句(ほんとはちがうのに)や、遠隔地の部族を研究した文化人類学の報告(そういった部族はひも状の下着を身につけているだけ! 男女関係が大らかになるのは当然だ)は別として、この分野に関しての研究は極めて少なかった。世界各国の中流階級の情事について書かれたものとなると、さらに少なかった。アメリカ人は不倫を極端に嫌悪しているから性にたいして大らかな他の国の人々不倫をしない、ということになるのかどうかも明らかでなかった。
世界各国の不倫事情を知るには、実際にその土地に行ってインタビューするしかなかった。で、わたしはそうした。10カ国の12の都市を訪れたのだ。その合間に、さまざまな言語で書かれた新聞や雑誌の相談コーナー、恋人募集広告、不倫についての記事に目を通し、第一線で活躍している歴史学者、心理学者、性科学者にインタビューした・不倫に関する学術調査が行われている地域では、徹底的にそれを調べた。
もちろん、不倫をしている人とその相手にも数多く会ってインタビューをした。驚いたことに、ボイスレコーダーを手に現われて名前は仮名にしますからと請け合う赤の他人のわたしにたいして、どこの国の人々も性の秘め事を語ってくれた(ちなみに、実際に仮名にしてあるし、その人を特定できるような情報は伏せた)。その街を去るころには、私はインタビューを受け答えしてくれた人々の顔をまともに見られなくなっているのが常だった。彼らのほとんどは、インタビューを受けることで何かを得られると期待していた。売上向上のためにしのぎを削って暴露記事を書き立てるタブロイド新聞に慣れているイギリス人は、料金を請求してきた(私は払わなかった)。モスクワの心理学者は、話が尽きた後も食べ放題のウズベク料理を何度もお代わりしたがって、ランチをしながらのインタビューは三時間近くに及んだ。レストランを出る前に、彼はポケットからくしゃくしゃの袋をふたつ出してクッキーを詰め込んでいた。
友人を相手にするように話してくれた人も多かった。話を聞いてくれる女友だちを求めている女性たちもいたし、インタビューがデートになることを明らかに期待していた中国人男性もいた。銀行に勤めるロンドンの既婚男性はインターネットで知り合った複数の女性と交際しており、女性をモノにした話を自慢したがっていたが、親友でさえ理解してくれないだろうとこぼしていた。フランス人男性の何人かは、浮気の経験を誰かに話したことは一度もないとのことだったが、純粋に英会話の練習をしたいと思っただけなんです、と語った。
アメリカは違った。インタビューに答えたほぼ全員が、だれかの役に立つことを願っているからこそ経験談を語るのですといったのだ。職業も政治的信条も異なるすべてのアメリカ人が――ニュージャージーのテレビプロデューサーからテキサス州プレーノーのコンピュータセールスマンまで――口をそろえてそう言った。アトランタの主婦は、本書が自己啓発本でもフィクションでもないことを理解できなかった。ほかにどういった本があるのかといぶかしみ、少なくとも実際に役立つ電話番号やウェイブサイトのリストを加えるのよねといった。アメリカ以外の国で、そういったことを口にしたひとは皆無だった。自分の情事について話すことが世間に役立つだろうという考えは、まったく持っていなかったのだ。
わたしはまた、多くの質問を投げかけられた。「不倫が最も盛んなのはどの国か?」と「どうしてこのテーマを選んだのか?」という質問とりわけ多かった。最初の質問については、第二章で言及している。二番目は、まあ、個人的な興味だ。私は海外生活のあいだに垣間見えた不倫のルールに興味をもち、不倫に対する自国アメリカの複雑でしばしば矛盾している見解を理解したいと思った。さらには、《ウォールストリート・ジャーナル》の記事として六年近く働いたせいもあって、お金に関係ないことを書いてみたいと切望もしていた(金銭に関係ないトピックとして不倫を選んだのは間違いだったことが、後になってわかったが)。
ひとたび不倫に注目するようになると、それがありとあらゆる映画や小説のテーマになっているような気が急にしてきた。婚外セックスを扱っている作品を排除したら、西洋文学の膨大なリストは事実上空っぽになってしまうだろう。不倫に心を悩ますのは、アメリカ人だけではない。取材で出会った人々はみな、どこの国の人であろうと、不倫に並々ならぬ関心を寄せていた。どこへ行っても、私を人目のつかない場所に引っ張って行って、浮気をしている上司や友だちや両親の話を語ってくれる人が必ずいた(そのうちのいくつかは、本書で紹介させてもらった)。夫婦とも忠誠を守るみた目は穏やかな日常生活の下で、浮気があちこちで繰り広げられている別の世界がふつふつと煮えたぎっているような感じを不意に覚えたものだ。不倫という言葉に興奮しなかった唯一の人間は、保守的なサウスカロライナ州で育った90歳になる私の祖母だけだった。祖母の友人がお孫さんは何を書いているのと聞いたとき、祖母は「恋愛についての本」と答えただけだった。
不倫をどのように表現するかに国によってさまざまだが、それによってお国柄の違いが見て取れる。アメリカには、”よそにだれかいる”という俗語があるが、場所を使った言い回しは他の国にもよくある。スウェーデン人とロシア人はともに、”こっそり左側に行く”という言い方をし、イスラエル人は”端っこで食べる”(これはとても露骨な言い方だそうだ)、日本人は”倫(みち)に外れる”と表現する。アイスランド人はスポーツ用語の”オフサイド・プレー”で、イギリス人は、”プレー・アウェイ”。オランダ人は浮気を旅になぞらえ、浮気をした人間を指して”変調をきたす”旅に出た、とか、もっとも面白い表現で、”こっそり猫を盗む”旅に出たとかいう。フランスでは場所の方向性がさらに曖昧となって、”aller voir ailleurs”―直訳すると”どこかよそを探しに行く”という言い方をする。
浮気の深刻さをオブラートでつつんだ表現もある。インドネシアでは、結婚している男女双方にとって脅威にはならない不倫を”すばらしい中休み”というが、そこには悲壮感は漂っていない。日本の”セックス・フレンド”という言葉には、マンガの登場人物みたいな響きがある。とはいえ、不倫を遠回しに示す表現がすべてほのぼのとしているわけではない。中国語では、文化革命の嵐が吹き荒れた一九七〇年代、”ライフスタイルに問題”を抱えていると非難され、仕事を奪われたうえに公衆の面前で辱めを受けることもあった。
より直接的な表現もある。南アフリカでは、浮気性の男性は”ランナー”と呼ばれるが、これは秘め事をするだけの体力があり、さらには、妻に追いかけられるという両方を意味している(妻に捕まった場合は、よその女性が「ちょっと通り過ぎた」だけだと弁解するのかもしれない)。中国では妻と愛人の両方を満足させようとする男性のことを、”二艘のボートに二股かけている”というが、その男性が台湾人だったら、”芯が色鮮やかな、大きな白いカップ”だから仕方ないと大目に見てもらえるだろう。テルアビブでは、誰かの妻が不貞を働くと、人々は肩をすくめて「”柵につながれた雌馬も、餌を食べるからね”」という。
不倫の惑星へ
これは不倫についての本だ。ここで本を閉じてしまうアメリカ人がいても、無理もないという気がする。アメリカほど不倫が罪悪視されている国は、アイルランドとフィリピンの二国をのぞいていないのだから。アメリカ人に不倫の話を切り出すと、彼らはたいていしばらくのあいだ目を丸くして、自分はやましいことをしたのだろうかとわが身を振り返ったり、わたしが自分を誘惑しているのではないかといぶかしんだりする。パートナーに忠誠を誓うことがいかに大切か説教を始める人も少なくない。不貞の話題が出ただけで、打ち明け話をする人もいる。
私が不倫について真剣に考え始めたのは、《ウォールストリート・ジャーナル》のラテンアメリカ支局に配属されたのがきっかけだった。そこで生まれて初めて、既婚男性から頻?に関係を迫られるようになったのだ。私がきゅうに悩殺的な美女に変身したからではない。女友だちの多くが、やはり男性に口説かれるようになったといっていたのだから。そういった”求愛者たち”が魅力的な男性であっても、彼らの口説きはうんざりした。このひとたちは奥さんへの義務をどう考えているのか? 結婚しているのに誘惑してくるのは、私を小ばかにしている証拠だとも思った。いわゆる二号さんの立場に甘んじてでも、ともかく恋人が欲しいと焦っている女に見えるのか? 当時わたしは30歳になったばかりの独身で、結婚相手を探していた。
ある日、例によって男性に口説かれていたとき、清く正しい道徳観で頭がいっぱいになっていた私は、この女たらしを追い払わずに意見を戦わせようと決意した。問題のその男性はアルゼンチンの牛肉会社の重役で、ただのお食事だけでは済まないディナーに私をしつこく誘っていた。お気軽な情事の誘いに腹を立てている理由を私が説明したとき、その男性は目を白黒させた。僕の妻がどうして出てくるのか分からない、これは僕ときみだけの問題だろう、と彼はいった。そして、きみをばかにしているわけではない、「すばらしい喜びを味わせてあげようと思っているんだ」と説明した。
男性の誘いは断ったが、そのときの会話について何度も考えるようになった。それまでは自分のことを世慣れした女と見なしていたが、ラテンアメリカで出会った男性たちは、わたしが知らなかった道徳観を信条としていた。そういった道徳観はどこからきているのか? わたしはアメリカで育ったというだけでピューリタン的な重荷を背負い込み、すばらしい悦びを知らないままでいるのだろうか?
当時のわたしは不倫についてほとんど知らなかったが、文化背景がさまざまに異なる人々がどのようにどのように浮気をするか――或いは浮気をしないか――ということからその人々の多くがわかる、と思っていた。私自身について、エリート層の腹黒い連中は罪の意識がなかった。そこそこの収入を得ている政治家たちは、都会の中心地に豪華な家を構えていた。雑誌では、前大統領の娘がマイアミで派手にショッピングをしている写真がさかんに取り上げられていた。わたしがアルゼンチンに住んでいる間、政府関係者の汚職が通貨の暴落を招いた。アルゼンチン人たちは腐敗政治に文句をいっていたが、一方でそれに理解を示しているような人も多く、チャンスがあったら自分だって不正を働くとさえ思っていたようだ。妻への裏切りはその延長線上にあることらしい。伴侶への忠誠を守るのはいいことだが、横取りできるものを横取りしないのは、愚か者だけなのだ。
興味をもったわたしは、世界各国の不倫のルールについてもっと知りたくなった。しかし、いざ取材を始めると、アメリカでもほかの土地でもそう簡単に真相を突き止められないことが分かった。フランス人にとって浮気は日常茶飯事だといった決まり文句(ほんとはちがうのに)や、遠隔地の部族を研究した文化人類学の報告(そういった部族はひも状の下着を身につけているだけ! 男女関係が大らかになるのは当然だ)は別として、この分野に関しての研究は極めて少なかった。世界各国の中流階級の情事について書かれたものとなると、さらに少なかった。アメリカ人は不倫を極端に嫌悪しているから性にたいして大らかな他の国の人々不倫をしない、ということになるのかどうかも明らかでなかった。
世界各国の不倫事情を知るには、実際にその土地に行ってインタビューするしかなかった。で、わたしはそうした。10カ国の12の都市を訪れたのだ。その合間に、さまざまな言語で書かれた新聞や雑誌の相談コーナー、恋人募集広告、不倫についての記事に目を通し、第一線で活躍している歴史学者、心理学者、性科学者にインタビューした・不倫に関する学術調査が行われている地域では、徹底的にそれを調べた。
もちろん、不倫をしている人とその相手にも数多く会ってインタビューをした。驚いたことに、ボイスレコーダーを手に現われて名前は仮名にしますからと請け合う赤の他人のわたしにたいして、どこの国の人々も性の秘め事を語ってくれた(ちなみに、実際に仮名にしてあるし、その人を特定できるような情報は伏せた)。その街を去るころには、私はインタビューを受け答えしてくれた人々の顔をまともに見られなくなっているのが常だった。彼らのほとんどは、インタビューを受けることで何かを得られると期待していた。売上向上のためにしのぎを削って暴露記事を書き立てるタブロイド新聞に慣れているイギリス人は、料金を請求してきた(私は払わなかった)。モスクワの心理学者は、話が尽きた後も食べ放題のウズベク料理を何度もお代わりしたがって、ランチをしながらのインタビューは三時間近くに及んだ。レストランを出る前に、彼はポケットからくしゃくしゃの袋をふたつ出してクッキーを詰め込んでいた。
友人を相手にするように話してくれた人も多かった。話を聞いてくれる女友だちを求めている女性たちもいたし、インタビューがデートになることを明らかに期待していた中国人男性もいた。銀行に勤めるロンドンの既婚男性はインターネットで知り合った複数の女性と交際しており、女性をモノにした話を自慢したがっていたが、親友でさえ理解してくれないだろうとこぼしていた。フランス人男性の何人かは、浮気の経験を誰かに話したことは一度もないとのことだったが、純粋に英会話の練習をしたいと思っただけなんです、と語った。
アメリカは違った。インタビューに答えたほぼ全員が、だれかの役に立つことを願っているからこそ経験談を語るのですといったのだ。職業も政治的信条も異なるすべてのアメリカ人が――ニュージャージーのテレビプロデューサーからテキサス州プレーノーのコンピュータセールスマンまで――口をそろえてそう言った。アトランタの主婦は、本書が自己啓発本でもフィクションでもないことを理解できなかった。ほかにどういった本があるのかといぶかしみ、少なくとも実際に役立つ電話番号やウェイブサイトのリストを加えるのよねといった。アメリカ以外の国で、そういったことを口にしたひとは皆無だった。自分の情事について話すことが世間に役立つだろうという考えは、まったく持っていなかったのだ。
わたしはまた、多くの質問を投げかけられた。「不倫が最も盛んなのはどの国か?」と「どうしてこのテーマを選んだのか?」という質問とりわけ多かった。最初の質問については、第二章で言及している。二番目は、まあ、個人的な興味だ。私は海外生活のあいだに垣間見えた不倫のルールに興味をもち、不倫に対する自国アメリカの複雑でしばしば矛盾している見解を理解したいと思った。さらには、《ウォールストリート・ジャーナル》の記事として六年近く働いたせいもあって、お金に関係ないことを書いてみたいと切望もしていた(金銭に関係ないトピックとして不倫を選んだのは間違いだったことが、後になってわかったが)。
ひとたび不倫に注目するようになると、それがありとあらゆる映画や小説のテーマになっているような気が急にしてきた。婚外セックスを扱っている作品を排除したら、西洋文学の膨大なリストは事実上空っぽになってしまうだろう。不倫に心を悩ますのは、アメリカ人だけではない。取材で出会った人々はみな、どこの国の人であろうと、不倫に並々ならぬ関心を寄せていた。どこへ行っても、私を人目のつかない場所に引っ張って行って、浮気をしている上司や友だちや両親の話を語ってくれる人が必ずいた(そのうちのいくつかは、本書で紹介させてもらった)。夫婦とも忠誠を守るみた目は穏やかな日常生活の下で、浮気があちこちで繰り広げられている別の世界がふつふつと煮えたぎっているような感じを不意に覚えたものだ。不倫という言葉に興奮しなかった唯一の人間は、保守的なサウスカロライナ州で育った90歳になる私の祖母だけだった。祖母の友人がお孫さんは何を書いているのと聞いたとき、祖母は「恋愛についての本」と答えただけだった。
不倫をどのように表現するかに国によってさまざまだが、それによってお国柄の違いが見て取れる。アメリカには、”よそにだれかいる”という俗語があるが、場所を使った言い回しは他の国にもよくある。スウェーデン人とロシア人はともに、”こっそり左側に行く”という言い方をし、イスラエル人は”端っこで食べる”(これはとても露骨な言い方だそうだ)、日本人は”倫(みち)に外れる”と表現する。アイスランド人はスポーツ用語の”オフサイド・プレー”で、イギリス人は、”プレー・アウェイ”。オランダ人は浮気を旅になぞらえ、浮気をした人間を指して”変調をきたす”旅に出た、とか、もっとも面白い表現で、”こっそり猫を盗む”旅に出たとかいう。フランスでは場所の方向性がさらに曖昧となって、”aller voir ailleurs”―直訳すると”どこかよそを探しに行く”という言い方をする。
浮気の深刻さをオブラートでつつんだ表現もある。インドネシアでは、結婚している男女双方にとって脅威にはならない不倫を”すばらしい中休み”というが、そこには悲壮感は漂っていない。日本の”セックス・フレンド”という言葉には、マンガの登場人物みたいな響きがある。とはいえ、不倫を遠回しに示す表現がすべてほのぼのとしているわけではない。中国語では、文化革命の嵐が吹き荒れた一九七〇年代、”ライフスタイルに問題”を抱えていると非難され、仕事を奪われたうえに公衆の面前で辱めを受けることもあった。
より直接的な表現もある。南アフリカでは、浮気性の男性は”ランナー”と呼ばれるが、これは秘め事をするだけの体力があり、さらには、妻に追いかけられるという両方を意味している(妻に捕まった場合は、よその女性が「ちょっと通り過ぎた」だけだと弁解するのかもしれない)。中国では妻と愛人の両方を満足させようとする男性のことを、”二艘のボートに二股かけている”というが、その男性が台湾人だったら、”芯が色鮮やかな、大きな白いカップ”だから仕方ないと大目に見てもらえるだろう。テルアビブでは、誰かの妻が不貞を働くと、人々は肩をすくめて「”柵につながれた雌馬も、餌を食べるからね”」という。
伴侶の浮気に手を焼いている人物を指す言葉
実にたくさんあって興味深い。ポーランドでは、伴侶のいないところで”風船を膨らませる”といい、中国では、妻に裏切られたた男性は”緑色の帽子をかぶる”という。英語をはじめいくつかの言語では、ほかの鳥の巣に卵を産みつけるカッコウになぞらえて、裏切られた夫を”カッコウ男”と呼ぶ。ルーマニア語やアラビア語を含む少なくとも八つの言語では、妻に裏切られた男性を、”角をはやす”と表現する(フランスでは、人差し指を頭の両側でふる仕草をする)。これは雄鶏を去勢したときの古い習慣からきている。去勢された鶏は、もはや生殖能力がないことがわかるようにするためだろう、脚の後ろにある蹴爪を頭に植えつけられたが、それがじきに角のようになったのである。まったく奇妙な言い回しだ。”角”を使った表現はアメリカ人にとってもなじみがあるが、最近では”裏切られた配偶者”という道徳的な表現が好まれている。犯罪行為の被害者の存在をはっきりとさせる言い回しだ。
世界は広い。取材のために訪れた国は、友人がいる、言葉がわかる、面白い話が聞けそうだと思った、などの理由から選んだ。省いてしまった貴重な国もある。インドとブラジルのみなさん、すいません。こんどはぜひうかがいます。専門家の話を聞いたり取材結果を統計データと比べたりはしたものの、私は科学的な方法で不倫のサンプルを選んだわけではない。サンプル探しは私個人の独断によるもので、ときとして行き当たりばったりだった。香港で約束していたインタビューが何件かお流れになったとき、焦った私はスターバックスにいた男性に声をかけた。その男性は歳がずいぶん離れた魅力的な若い女性と一緒だったのだ。ふたりは不倫関係でなかったが、わたしのプロジェクトに興味を示して友人を紹介してくれた。そのさい聞いた話は第10章で紹介する。
本書は私たち人間が生まれつき浮気をするようにプログラミングされているのかどうか、もしくは、浮気が種の進化に有益かどうかについて論じた本ではない。人間はどこに住んでいようと、おおむね似たような本能的欲求を持っているはずだ。わたしが明らかにしたいのは、文化の違いによって、その欲求を人間がどのように満たすかなのだ。
わたしの定義では、不倫というのは一夫一妻制を守らければならないのに、ほかのだれかと秘密の性交渉を持つことを指す。秘密の性交渉には、フェラチオも含まれる。というか、パートナーには知られたくないこと――淡々としたセックスから、濃厚な情事にいたるまで――はすべて論ずるに値する。結婚していなくても不倫はありうる。とくにヨーロッパではそうで、結婚制度はすたれてきているものの、人々はやはりパートナーと一緒になって子どもをつくり、互いに忠誠を誓う。しかしアメリカでは、同棲しているカップルは結婚しているカップルよりも不倫をしやすく社会的地位も低いので、正式に籍を入れた男女を調査の対象にした。夫婦交換をする人々はパートナー以外とセックスをしているが、それは秘密ではないのだから。
わたしは浮気と不倫とか言った言葉にこだわっているわけではない。一冊まるごと婚外交渉を扱った本を書くとなると、その行為を表現する言い回しはそれこそ無数にある。本書を読み進めていくうちに、私が二重婚といったり、同時並行の関係というフィンランド語の慎ましやかな言い回しを使わないことを、読者は喜ばしく思うはずだ。
医学研究者の病気と呼ばれる心気症がある。研究者がある病気について研究しているうちに、自分もその病気にかかっていると思い込んでしまうことがある。「盲腸の場所を知ってしまうと、そのあたりがちょっとずきずきするだけで、深刻な病の兆候だと思ってしまう」と、ある科学者がいっている。
不倫の調査をしていると、いくぶん似たようなことが起こる。一日中浮気についての本を読んでみればいい。夫の帰りがサッカーの練習で一時間遅れたり、出張している夫のケイタイが繋がらなかったりすると、疑いが生じるだろう。かわいそうな夫。盲腸を取り除くほうが、よっぽど簡単だ。
わたしの夫は私のことを心配していた。それもやむを得ないことだろう。不倫をしている人たちと頻?に会うのは、喫煙者と頻?に会うようなものだ。じきに、無性にタバコが吸いたくなる。実際にわたしも誘惑されたことがある。けれど、本書でこのさき何度も取り上げる、アメリカ人特有のいまいましい罪の意識が邪魔して。結局最後まで誘惑には乗らずじまいだった。
つづく
第1章 アメリカにようこそ