
湯山玲子・上野千鶴子
ザ・幻想カルチャーは日本人の十八番?
湯山 日本人って、実はリア充感覚に乏しい人たちなんじゃないでしょうか。「鴨長明(かものちょうめい)の呪い」と私は呼んでいるんですけど。
上野 突然何が出てくるかと思えば、鴨長明?(笑)。
湯山 いやね、スタジオジブリもそうだと思うんですが、「現状がリア充じゃない人の妄想の世界」って、日本は得意じゃないですか。鴨長明はすごくシンプルに、寝て、起きての生活で、自分の人生なんて三畳あれば事足りると思っているけど、ファンタジーだけは枯野を駆け巡っちゃう(笑)。リアルに豪邸を暮らすよりも、四畳半に住んで豪邸を想像するみたいな感じですね。女の子も、腐れ女子がけっこういますし、韓流に向かってるし、その様子を見ていると、日本人は実際に付き合って実コミュニケーションを取るよりも、非リア充、ファンタジーのほうが断然好きなんじゃないかと思います。
上野 湯山説で言うところの「非逃避型カルチャー」ね。サブカルチャーの「サブ」には「副次」という意味のほかに、「下位」もある。サブマリン、サブウェイのサブと同じで、地下に潜ってるわけね。だから、逃避型で、その逃避によって文化が生まれている。あなたは、リア充と非リア充は両立すると言ったけれど。
湯山 もちろん両立するんだけど、大部分の人は、リアルなコミュニケーション、例えば恋愛のような現実を避けて、どうしても非リアなファンタジーの世界に入っているような気がします。
上野 そうすると、日本が今、世界に誇るべき文化は「現実逃避型」のカルチャーなのね。
湯山 そうですね。非リア充のほうです。
上野 もし構造的にそうなっているとしたら、「思考停止」と「現実逃避」は日本の宿命みたいなもの?
湯山 非リア充傾向は本当に強力だと思います。驚くべきはこのモードが世界の若者たちにユーチューブなどのイメージを通じて、ガンガン広まっていること。きゃりーぱみゅという、アイドルが世界的に人気なのも、その一例ですよ。ポニーテールやツインテールのお人形みたいなメイクとコスチュームの女の子なんですが、パフュームの楽譜も手掛ける中田ヤスタカ氏のプロデュースで、ボイスレコーダーのような歌声に、バービーっぱいプラスチックな踊りで、人気になっている。特にユーチューブで大ヒットになり、世界各地できゃりーぱみゅが流行っています。フランスの2012年のiTunes storeエレクトロニクチャートで1位ですから。
上野 日本発なんですね。
湯山 そう。本来ならばR&Bやヒップホップにいくべきアメリカのティーンエイジャーがツインテールにして、きゃりーぱみゅを踊っていたりする。「非リア充カルチャー、世界を席巻する」の図です。フランスのジャパンエキスポの来場者は、99年には3200人だったのに、今年は20万人ですよー オタクというモードをはるかに超えている。
上野 そのきゃりーぱみゅの振りで、誰もが九条ダンスとか反核ダンスなんかを出してきたら、世界を席巻するかもしれない?
湯山 あっ、それはない。現実的なことからの逃避なわけだから、そういう政治的なリアルなものを持ち込みたくないんじゃないかな。反核ダンスになった瞬間、それは現実とのコミュニケーションということだから。ファンは、一種のサンクチュアリ感を味わってるわけですよ。ノンスタルジーやSFオタクとは親和性があるけれど、社会的なメッセージとは結びつかないんじゃないかと思います。
上野 逃避型は、決してリアルには行かないんだね。
湯山 完全にその世界だけで生きていますね。実際の生活はどうでもいいというぐらいに。『エヴァンゲリオン』のときからそうだけど、「エヴァの世界に俺がいれば、そこが俺のリアル」という感覚は、今やオタクだけじゃなく。あまねくこの社会に偏在している気がします。女は韓流に席巻されているし、AKB48の盛り上がりもすごいですし。
上野 もうオタクと呼べないくらいね。
湯山 呼べない、呼べない。オタクがメジャーになって一般化している。
上野 日本文化そのものが、全体としてサブカルチャーになって、そのサブカルチャーが輸出品になった。それでも、そういう人たちが逃避している間に、リア充の世界では富と権力が動いているのよ。
湯山 で、いいようにやられっぱなし。その主因はメディアにありますよね。単一言語で、行動と空気読みの達人である日本人にテレビという共有コンテンツを与えたら、完全にその世界の住人になるしかないですよ。最近では、お笑いの世界に生きている人も多いですね。テレビやライブでお笑いを見たり、そこに関わることが、自分の全てみたいな人たち。たしかに日本語の空気読みを含めた言語世界のお笑いは、非常に高度で、ナンセンス、不条理のような領域をメジャーの芸人がガンガン表現していますよ。
上野 お笑いタレントがニュースレポーターにもなる時代だから。ニュースもバラエティ化したし、そうなったら、ニュースであっても劇場的な要素を含んだものが面白いという傾向になってしまう危惧(きぐ)がある。猟奇的なものほど取り上げられたり。
湯山 逃避型の妄想カルチャーが膨張すると、リアルな世界のリスクが高まりますね。
男と女、恋愛における妄想カルチャー
湯山 妄想カルチャーがリアルな世界を圧迫するのは、恋愛にもありますよね。例えば、「私はあなたのマネージャーになって尽くしたい」という女性が依然として存在する一方で、男側では「マネージャーなんか欲しくない」という人たちも多く出てきている。男と女の意識だと、女の方が古いし、いまだファンタジーを信じている。男たち、特にアラフォーより下の世代を見ていると、「女は黙ってついてこい」という意識はほとんど見られない。中にはちょっとマッチョを気取る子もいるんだけど、話してみると、簡単に転向する(笑)。フェミストを標榜しながら、マッチョだった私たち世代の男とは大違いです。
上野 それに、女の人生を背負うのもイヤだって言う。だけど、女の方は「私を受け止めて」みたいなミスマッチが起きる。でも、それはしょうがないわね。ロマンチックラブ・イデオロギーの妄想がマジに信じたのは、女の方だから。
湯山 それがこんなに根強く残るとは思わなかったですね。だって、何度も失恋すりゃ、いい加減、妄想だとわかると思うんだけど。
上野 一つテストをしましょうか。「結婚とは死にまでいたる恋愛の完成である」。これを聞いてどう思う?
湯山 わははは。梶原一騎のマンガのアナクロなセリフかなんかですか?
上野 この文言に、「素敵!」とグッと来るか、「ありえない!」とゲッと来るか、女たちの間でも反応が分かれるんです。あなたはゲッと来る方ね。ちゃんと脱洗脳されている(笑)。このセリフの発言の主はね、高群逸枝(たかむれいつえ)。
湯山 高群逸枝って、元祖フェミニストの?
上野 そう、戦前のフェミで、平塚らいてうに「おネエさま、私こそ、あなたの魂の娘です」と強烈なラブレターを送った女性。それで平塚が”愛(う)い奴じゃ”とばかりにお墨付きを与えたという人です。
湯山 その人が発したといことは‥‥、彼女はその発言にイエスだった、とな?
上野 詩人、アナーキスト、歴史家という顔を持っていて、恋愛論を書いたんだけど、どうも誇大妄想の気があった。夫に生涯尽くしてもらい、森の家で苦節10年、門外不出で女性史研究に従事したという伝説の主でもある。
湯山 スケールでかいですね。こういう人がアルカトラズからトンネル掘って脱出するんだな(笑)。
上野 高群さんって社会主義には冷淡で、「社会主義革命が仮に成功しても、決して人は平等にはならない。特に女は平等にはならない。なぜならば、女には美醜の差があるから」というようなことも言ってる(笑)。
湯山 ソコかよ!? とツッコみたくなりますが、そりゃリアルだわ(笑)。でも、それだけのリアルズム持ちつつも、この恋愛結婚妄想とは‥‥。本人の中ではどう折り合いをつけたんでしょうねぇ。
上野 彼女のこのセリフは、女としてのリトマス試験紙みたいなもの。グッとくる人たちもいるわけね、偕老同穴(かいろうどうけつ)が理想であると。
湯山 正気の沙汰とは思えませんが、たしかにウチの母ちゃんあたりも、いけしゃしゃあとこういうことを言いそう。
上野 それって、「死ぬまで私を愛すると誓うか」「誓う!」みたいな「ベルばら」のオスカルとアンドレの契りか、「何があっても君のことを見守っているよ」という「冬ソナ」のヨンさまか、というほどの非リアルさですよ(笑)。
湯山 あー、でも、『ベルサイユのばら』を読んだ少女期には、たしかにグッと来たことは否めん(笑)。
上野 絶対にぶれない不動の愛。なぜなら、それは宿命の絆だから。
湯山 そう聞くと、けっこう、ドキドキするかもね(笑)。
上野 “宿命の”といった瞬間に、もう問答無用なわけ。根拠なき信念になるのね。前世から決まっている絆だと。そういう絆を生む必要もメンテナンスの必要もなくて、目と目を見たときに「わかったわ。この人よ。私の運命の人は」と、何の努力もなく思い込む。つまりは妄想なんだけど、なんてこの妄想がこんなに延命したんでしょ。これだけ現実に裏切られ続けながら、なぜ延命が可能だったのか。もはや日本の男に期待できないからと、今は韓流に行ってしまうなんて。
湯山 これはもうはっきりしすぎているんだけど、日常のオフ時間を満たすテレビの連ドラや、バラエティ、マンガや小説などのエンターテインメントのバリエーションがこれまた全部、高群系ロマン妄想だからです。洗脳ですよ。
上野 しかし、そのベタな揺るがぬ愛の讃歌は、もはや日本のシニシズムの文化の下では作れなくなりました。だから、韓流ドラマが流行り始めた。ストーリーにしろ、演出にしろ、日本のドラマは屈折なしに作れない。
湯山 女だけでなく、マッチョなオヤジの中にも高群系がいる。渡辺淳一先生の恋愛小説はベストセラーですもん。
上野 でも、あの方は実際にはロマンチックラブ妄想どころじゃなく、リアル世界で相手を取っ替え引っ替えしているんじゃないの(笑)。
湯山 いやぁ、私、『ドレサージュ』を読んだときにひっくり返って、腰の骨を折るかと思いましたよ(笑)。SMだし、私の敬愛する団鬼六先生の双璧になるような男のSM妄想が描かれていると思いきゃ、「え? これをもって官能と言う?」と拍子抜けするほどヤワい。自分の妻をドレサージュ(調教)だとSMの業者に出した夫が、違う男にヨガってる自分の妻を見て、「ぎゃー、こんなはずじゃない」と騒いでいる。いやいや、現実は、こんなはずだっちゆーの(笑)。それに読者はグッと来たというんですから、もう情けない(笑)。
上野 それは谷崎潤一郎から連綿と続いている男のファンタジーでしょう。
湯山 そうなんだけど、中学生がコミケの同人誌で書きそうなネタで。いい大人の男がこれにハマるのかと。
上野 『愛の流刑地』が『日経新聞』に連載されていたときは、「新聞を反対側から開かせた」というほど、ハマって読む読者がいたとか。連載されていたのが、新聞の最後のページだったから。
湯山 日経の読者って、谷崎を知らないってことですかね。
上野 谷崎の時代から男の妄想が変わっていないっていうことよ。
結婚の制度疲労と、フェミニストたちの結婚
湯山 「あれだけ急進的なことをやっていたのに、フェミニズムの女たちが一斉に結婚した」と以前に上野さんはおっしゃっていましたが、その結婚の理由が、婚外子に対する不平等な制度ゆえだったとか。結局、結婚とは「制度」の話なんですね。
上野 まさにそうよ。結婚とはすなわち制度です。
湯山 今の世の中って、結婚も含め、制度疲労を起こしているものが多々あるのに、それを見ない振りして、「昔はよかった」と壊れかけた制度を延命し、温存してる。中でも、女性に関する法律や制度問題はデカいと思います。
上野 そこにはジレンマがある。制度疲労しているにもかかわらず、女の結婚願望はなくならず、婚活は相変わらずで、結婚のイメージは昔と変わらない。なのに、結婚市場のパイは小さくなっている。つまり、結婚できる女の指定席が減って、椅子取りゲームは以前より激烈化してる。
湯山 一生ものとも限りませんからね、もはや。
上野 それなのに、何でしょうね、この結婚願望は。不安な時代に安全保障を求める気持ち? 私自身は、自分の人生に保険を掛けないと思ってきたから、「男は好きでも、契約は結ばない」というポリシーでやって来た。やっぱりよくわからないところがあるのよ。リブやフェミの女たちが雪崩(なだれ)を打って、結婚していったのか。
湯山 それは婚外子の相続の不平等のせいでしょ?
上野 リブは「一夫一妻制は諸悪の根源だ」とはっきり言った思想だったのに、そう言った女たちが一斉に結婚した。そう言えば、たいがい「できちゃった結婚」ね。「私はいいけど子どもが可哀想」って。なかには「非婚の母」になる田中美津さんのような確信犯もいたけど、レアケースね。そして、いつの間にか一夫一妻制を批判する人たちが居なくなった。それはたまたま小倉千加子さんが、「嫌いなもの、結婚しているフェミニスト」と言ったとたんにバッシングを受けた(笑)。
湯山 一夫一妻制の結婚は理論的にはダメだけど、現実的には、捨てたもんじゃない、という考え方もありますね。なぜなら、相手のここが嫌い、と心底思っていても、それを容認して、良いところを見つけようとする、寛容の精神が養われる。結婚制度は、「嫌い→別れる」という行動を事実上面倒くさくして、阻止させる。結果、お互い人間的に成長し合ったいぶし銀のような老夫婦ができる。というストーリーです。
上野 逃れないように強制して忍耐を養ってからって、奴隷の寛容よ。よいとは思えない。私は結果として”おひとりさま”を張ってきたから、おひとりさまを商売の種にできているけど(笑)、結婚してたらそうはできない。それに、日本のフェミズムの中でセクシャリティ研究が十分に開花しなかったのは、フェミたちがみんな結婚していったからだと思うのよ。結婚したら、タテマエ上は、自分のセックスを封印しないといけないでしょ。既婚者が公然と自由なセックスライフを過ごせるなんて、極めて特異なケースだから。
湯山 あんなにセックスを連発したアメリカの人気ドラマ「セックス・アンド・ザ。シティ」でも、ヤリマンのサマンサでさえ、結婚か自由なセックスライフかの二択で悩んで後者を選びましたからね。
上野 そうなると、セクシャリティを開けっぴろげに語ることができるのは、北原みのりさんや上野千鶴子など、おひとりさまばっかりになっちゃう。結婚している湯谷玲子はレアケースですよ(笑)。
子ども部屋から出たがらない若者が増えている
湯山 疲労していると言えば、親と子の関係ですよね。その影響なのか、日本では特に若い男たちが保守化、右傾化しているのが気になります。「女がこんな力を持っているのに、俺たちは持てないのかよ」という不満を持っている男たちのフツフツとした暴力性が。
上野 「日本の女がオレたちを相手にしない」と主張している男たちね。社会の最下位にいて、自分たちより下にいるはずの女たちが、自分たちの思うようにならない、許せない、という暴力性。これは日本だけじゃなくて、外国にもある現象ね。
湯山 でも、とりわけ日本が悪く思えるんです。今どきの若い男たちを何十人と街頭で突然インタビューするというコンセプトの、銀杏BOYS『ボーイズ・オン・ザ・ラン』のPV。さこでは「あなたの夢は何に?」とカメラが男たちに畳みかける。すると、答えは「世界征服」やら「みんなを見返す」やら「グラドルとラブラブ」みたいなことばかり。もちろん、おちゃらける、というトーン&マナーなんだろうけど、PVの演出意図を割り引いたとしても、かなり本気も混ざっている。もちろん、小説家なんていうのもあったけど、共通しているのは、誇大な抽象イメージか、自分のことばかり。
上野 たしかに、無邪気過ぎるというか、社会性がないわね。自分の言うことを他人がどう受け止めるかを考えずに、非リアルな夢を語る。心理学用語で言うと「去勢されていない」という状況。去勢を受けるというのは、社会における自分の位置取りを学習し、分(ぶ)を思い知らされるということなんだけど、それがない。中学生が言うなら許そうと思うけど、30歳、40歳になっても同じ。女の子も同じ状況ね。自我が肥大して、過大な自己評価がある。それも中学生までならいいんだけど、大人になる前に去勢を受けないのは、やはり学校教育と家庭の問題でしょう。私としては、日本の教育と家庭の成果はこれなのか、と考えてしまう。
湯山 家庭環境を考えると、全共闘世代の子どもか、もしくは少し下ですね。大学生ぐらいだとすれば、私の世代の子どもたちですね。
上野 その親たちが、去勢されないままの子どもたちを育ててきた。むしろ、子どもの自立を阻んでる。古市憲寿くんは団塊ジュニアよりちょっと若いくらい。私と彼、親世代の年齢差で対談本を作っちゃったのよ。『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』というタイトル通り、順番だから親は「勝手に」死ぬものだけど、それじゃ「困る」って言うのね。団塊親がどういう子どもを育てて来たか。子ども部屋の空気を、社会に出てもまんま持ち出してる子どもたちなんだよね。
湯山 子ども部屋から出ないから、「ポケモン・マスターが夢」と公然と言ってのける。女の子もそういうところありますね。ちょっと前までは、世間の空気として恥とされていたから、個々の人も恥ずかしいと思っていたが、その感覚もなくなっています。
上野 「いい年歳(とし)をして」というのもない。「世間」とは目に見える社会のことなんだけど、その世間が解体して、子どもたちはあっという間にバーチャルな世界に行ってしまった。ガンダムと世界平和。あとはセックス?
湯山 それも、生身の女は苦手みたい。万能感が損なわれるから。でも、オナニーは大好き。
上野 たしかに。セックスはバーチャルでなくリアルだからね。リアルセックスよりバーチャルセックスのほうが好き、というのも去勢されていないからね。私が教育現場で実感してきたことと符合する。1990年代から2000年代にかけての10年間、手に取るような変化があった。一言でいうと「学生の幼児化」。偏差値は高くても、とっても幼い。
湯山 私は非常勤で日大芸術学部で教えているんですが、この数年の間だけでも幼児化は進んだと思います。そこにはやはり性差はなく、男も女も幼児化してる。
上野 困った意味でジェンダー差が縮小してるね。
湯山 それを表現として私が最初に受け取ったのは、ゼロ年代の後半。快快(フアイフアイ)という劇団の芝居だったんですけど、男女の登場人物たちが軽い狂騒の中、ダラダラ遊び続けているというその子ども返りの関係性が、非常に示唆的でした。セックスを拒否するのではないんだけど、じゃれ合っていたら、入っちゃったァ系というか。大人の男と女のそれとは次元が違う感じでしょうね。その世代の中には、彼氏と別れた後に妊娠が発覚した女友だちをヘルプするために、その子と入籍してあげた男というのもいますよ。話を聞いてみると、まあ、軽い軽い。そんなに軽くていいのは、いろいろあっても子どもの自分と周囲が変わらないからでしょうね。皮膚感覚としては、5年前の大学生は私の高校生くらいの感じだと思ったんだけど、今は小学3年生にしか見えない‥‥。
上野 年齢に七掛けしたぐらい? そうなると、20歳で14歳に相当するから。もっと幼いかしら。それを親も許容してる。親を見たら、子どもを自立させたくないんじゃないかと思うもの。これは男親ばかりの問題じゃなく、女親のエゴイズムも働いている。
湯山 母親のエゴイズム。親になってもても子どもから降りたくない人たちが子供を産んじゃった、という話は先の章でも出ましたが、それが子どもの幼児化を助長した。上野さん流に言うと。子どもが犠牲になっている。
上野 日本という国のサバイバルを語るときに、「次世代にツケを回すな」と言う話は避けられないけど、あなたと私の最大のハンデは、子どもがいないことなのよ(笑)。「子どもを持たない女が二人して、何を批判するのか」と必ず反感があると思う。でもね、子を産んでも産まなくても、次世代に対する責任はあることは変わらない。その責任は我々も背負っているのよ。
湯山 子どもがいないからこそ見えるものありますからねぇ。
上野 そう― 子どもを持っていれば決して言えない発言が、私たちにはできる。「子育てに成功はない」とは、文芸評論家の柄谷行人(からたにこうじん)さんの名言だけど、子どものことを話すのは、どんなインテリの親にとっても最大のアキレス腱。内心に忸怩たる思いがある人はまともで、もし子ども自慢をしようものなら、アホなだけだと見なされる。ネガティブでもボジティブでも、親の立場で子どものことを話すのは、リスクが大きい。特にフェミ系の女にとってはそう。フェミ系の親子関係はいろいろ大変だから。その意味で、私たちのキャリアは傷ついてませんから(笑)。同世代の育てた子どもたちについて、忌憚(きたん)のないことが言える。それはこの二人の裏返しの特権だと思う。
継承すべき文化を失った「成り上がり」の悲しさよ
上野 坂東眞理子さんに「親は子どもを釣った魚を上げるんじゃなくて、子どもに魚を釣る術を教えなきゃいけない」という名言があるのね。彼女は子育てに厳しい人なんだけど、私たち世代の親は全般的に、魚の釣り方を教えないで、魚を与える子育てをしてしまったみたいね。その背景にあるものは日本の家族の歪みであり、その中で生き延びて来た女の支配とエゴイズムだと思う。
湯山 魚の釣り方を教えなくても安泰で、このままハッピーだろうという空気が日本の社会にずっとあったからですよね。多少のことは目をつぶっても、大人の態度として流れに乗ってちゃえー、という。景気もなんとか保たれるだろう、日本人は優秀だし‥‥といわゆるポジティブな空気が。キケンなのは「釣り方を教えないとヤバい」の方向が、お受験一本やりなこと。それも頂点が東大という世界のローカル方向ですよ。釣り方でいうと、和竿一本。延縄(はえなわ)やトロールで魚を持っていくハーバードやオックスフォードは眼中にない(笑)。逆の例では、ユダヤ人たちは子どもの小さい頃から才能を見つけて、”釣り方”を教えますね。私はバート・バカラック敬愛しているんですが、彼の母親は、子どもが生涯食べていけるようにと、遊びに出かけようとする彼を引っ張ってピアノの前に座らせ、弾かせていたんだとか。
上野 それを「文化資本」と言うのよ。文化資本とは、すべてのおカネや財産を失っても、どんなところに行っても、どんな状況になっても、決してその人から奪えない振る舞やスキル。その中に音楽のスキルも含まれる。ユダヤ人はそういう教育を子どもに一生懸命やるんだね。歴史的に身一つで移動することが多かったから。日本人には、その構えがどうしてないのかしら。そのことを坂東さんに水を向けたら、出て来たのが、「成り上がりだかでしょう」という答え。つまり、もともと家庭に継承すべきものがなかった。これも彼女の名誉ね。戦争で多くを失った戦後の日本人は、国民全体が成り上がりだったわけだから、豊かであるとはどういうものかを知らなかったのよ。
湯山 よくわかります。エリートたちのホームパーティに呼ばれて行くと、その家ときたらとてもダサい。私がそれだけのおカネを稼いでいれば、調度品から何からすべて私の好きなように揃えるけど、まったく家人のセンスが生きていないんです。というか、どこの家もみんな同じ。ヘンな食器棚に、ウェッジウッドやらのティカップのコレックションがバーッとある。あれ、見せびらかし用なの? 奥さんは専業主婦で、ボランティアでも何でも社会的な活動をすればいいのにと思うんだけど、エネルギーを注ぐのは、まぁ、子どものお受験オンリーですね。オペラとかクラッシックのコンサートによく行くらしいけど、感想は、「やっぱり本物は違うのよ―」しか言わない。もっとお金で買える快楽を陶酔すればいいのに貧乏くさいですよ。
上野 成り上がりの悲しさは、わかりやすい富しか解せないところなんですよね。だから、ブランド品に走る。それも、自分が評価した結果でならいいだけど、他人の評価で動いている。なんか私たち、ご意見番みたいになってきたね。「お前らの言うことなんて、聞きたくねえよ」と言われそうだ(笑)。
湯山 それでも言い続けますよ。だって、これ悪口だから(笑)。
地雷の上で、「絶対の安心」「絶対の信頼」を求める不幸
上野 子どもたちのことは深刻だけど、例えば、子どもの自傷系の問題に出てくると、発達心理学学者や教育者は「子どもに対して、絶対の安心や絶対の信頼を与えない親が悪い」と言いがちなのよ。「私を丸ごと受け止めて」という、女のロマンチック妄想の問題としても指摘したけど、「絶対の安心」「絶対の信頼」を別の人格に求めるのは、いかがなものかと思う。たとえそれが親であっても。そこそこ信頼、そこそこの安心でいいんじゃないかな。なんで、”絶対”でなきゃいけないんだろうか。
湯山 まったく同感です。逆に、親子関係に狂いが生じている人たちって、愛情が強すぎるんじゃないですか。しかも強烈な愛情の裏に、「こうじゃないと、お母さん、嫌いよ」という限定条件がついたり。それが例えば、「きれいにバレエが踊れないと、あんたは嫌いよ」程度のことだったりするんですが、そう言ってのける冷たさがある。別なケースで、「私があなたを絶対に守る」という過剰愛もあります。
上野 「愛」じゃなくて、もっとわかりやすく言うと「支配」なのよね。「私の思い通りになりなさい」という。
湯山 ああ、支配ですね。今、ものすごく多いと思う。親の支配以外のことを子どもがやることが、もう許せない。親は子供の全てを知っておかなきゃダメ。というけど、モラル以前に子どもにとって不快、不都合なものが、発見されたら、その芽はつぶそうとするでしょうね。
上野 絶対の支配、絶対のコントロールね。でも、人間は長い間、絶体の信頼や絶対の安心の中で生きて来たわけじゃない。そこそこの安心、そこそこの信頼、そこそこの不安を持ち、やりくりしながら何百年も生きてきた。そう楽勘的に考えればさ、今だってね(笑)。これまでもそこそこの安心で生きてきたんだから、これからもそこそこの安心で、地雷の上に座りながら生きられる。
湯山 その図太さが大人の見識でもあるワケです。
上野 地雷を見て見ない振りして、そこそこで生きていくんじゃないのと言う楽観論には、繋げられないのだろうか。でも、原発はタダの地雷じゃない。
湯山 そのとおり。3.11以降の今は”そこそこ”じゃいられないですからね。
上野 そうね。そこがこれまでの何万年とは違うわけだ。
湯山 オヤジが威張るぐらいだったらいいんですよ。原発の問題がなければ、「まあ、いいや」と私も思いますが、いくらなんでも、とてつもない地震国のそれも活断層の上に原発はヤバい。
上野 原発の問題を”そこそこの不安”だと思いたがっている人は、たくさんいます。
湯山 そうですね。これが山火事であったり、痛みや被害者が目に見えることだったら違うと思うんですが、放射能って体験できないですからね。べクレスだ、セシウムだと言われても。髪の毛がごっそり抜けたと聞いても、その真偽もわからないんですよね。ガンも痛みがないと、気がついたときには、手遅れですからね。
上野 見えないから、「ない」ことにしている人たちもいる。見えない、感じないということも、やり過ごせる一つの要因ね。
ネオテニーなニッポン人が、大人になるとき
湯山 そもそもいい年をした大人も幼いんですよ。私の周囲の同世代にも、子どもっぽい人は多いですよ。サブカリを支えている層でもあるんですが、肉体的には成熟しているのに、幼児のような幼さを残した「ネオテニー」っ、ぽい状態なんですよ。そもそも、大人という概念にしても、日本の場合は、我慢という面だけが肥大しちゃって、自分の欲望と他人の欲望を擦り合わせていいところで着地させる交渉や、顔で笑って、心で泣いて、に象徴されるプライドの保ち方は二の次。
上野 ネオテニーって、すごく面白いキーワードね、ネオテニーのまんま、子どものまんまでも生きていける社会を作ってしまったのが、戦後の日本なのよ。それはある意味、文部省の教育政策の勝利、そういう思考停止の社会を作っちゃった結果が、この原発事故。と考えると、今後もそうあり続けるんだろうか。ネオテニーの状態で、40歳、50歳になった人たちに、「大人になれ」と言ってなれるんだろうか。どう思う?
湯山 と、ふと、我に返ったんですが、私をしても大人になれていない気が…‥。
上野 50歳過ぎても、それでいいわけ?
湯山 肯定するとしたらね、40〜50歳になって初めて、小学校5年のときの、”一番元気がよかったお転婆の時代”が戻ってきた感覚があるんですよ。若い男の子と釣りやクラブでいつも遊んでるわけ。いろいろこなして、リスクも抱えて、到達できたのは、子どもの時分の状態だったという。
上野 それを、「子ども」というのは違うじゃないの?
湯山 たしかに、子どもっぽさは、自分の意思で動けない、依存しコントロールされる側であることを含みますから、好奇心を持った子どもは意味が違う。でも、ネオテニーな人たちに今さら大人になれと言ってもなぁ。
上野 例えば、80年代に浅田彰が書いた‥‥。
湯山 『逃走論』ですね。
上野 うん。日本の戦後社会というのある時期まで、非常に調和的に出来ていて、ネオテニーのまま生きていける高度な成熟社会が作られていたと、彼は言った。
湯山 その時代には、自衛隊に研修に行かされたりもして、滅私奉公しておのれの感情を殺して生きていく大人の男のサラリーマンがいたからですよね。そんな生活を送るよりも、「ボクたちは、力なくても、そういう面倒くさいものから逃げまくって、コドモでもいいモン」ということでしょう。
上野 あのときは、社会全体がユーフォリア(多幸症)状態だった。
湯山 80年代は、糸井重里のコピー「不思議、大好き。」に代表されるように、子どもの心で遊ぶ大人を良しとする西武カルチャーもあった。大人は、「不思議」なんて考えている暇はありませんからね。私も、それらにすごく恩恵を受けた20代を過ごしました。それが3.11以降、全部、裏返っちゃったわけですよ。ネオテニーってバカにしてますけど、私自身の中にも、基本的にあるな。
上野 でも、あなたには政治の季節が来たって言ったじゃない(笑)。
湯山 そりや、考えていますよ。ちなみに池田理代子さんの『ベルサイユのばら』を紐解く連載を女性誌で書いてるんですが、フランス革命ってやっぱりおもしろい。そこで言うと、今ちょっとミラボー伯爵の気分なんですよ。『逃走論』の時代にマスコミの業界にいたのって、泡沫的な貴族みたいなもんだったと思うんですが、今や第三市民として革命参加か? という心持ちで日々勉強ですよ(笑)。臭いモノと調和して生きていけると思っていたけど、やっぱりモトから断たなきゃダメ感はある。しかし今までの遊び呆けたヴェルサイユの生活があるから、よりいっそう。
上野 フランス革命と言えば、断頭台の露と消えていった人についてのすごくおもしろい本を読んだのよ。遊び呆けていた人たちも、断頭台に立つと、貴族の矜持を見せて、最後は運命と受け入れて刑に服したんだけど、その中に成り上がりの女性がいて、処刑されるときに、叫びに叫んで、観衆に慈悲を請いまくったんだって。最後の最後の断末魔になるまで。処刑は見世物だったから、それほど大騒ぎしたら、おそらく観衆は反応しただろうと、著者は考えた。「考えてみれば、貴族たちは彼女のように大騒ぎをしないで、毅然として殺されていった。もし彼らがみっともなく騒いでいたら、断頭台という処刑方法はもっと早く終わっていたのかもしれない」と書いてた。
湯山 なるほど、貴族は最後は覚悟を決めたんだ。「今まで遊んでて、すいません」と責任を取って。ノブレス・オブリージュということでしょう。
上野 そう。ちゃんと大人になって死んでいった。命乞いもしなかった。やっぱり命乞いされると、誰でも後味が悪いのよ。観衆はみんな、ケツの穴の小っちゃい庶民だから、自分が残酷なことをしているとは思いたくない。日本の死刑制度もそうだけどさ。
湯山 ふんぞり返って死んでいく貴族なら、「あいつは悪者だ。ふてぶてしいから殺せ」ってなるけど、わぁわぁ泣かれたら、ヤバいと思いますね。
上野 そうなの。だから、この本の著者はおもしろいことをよく考えたと思う。そんなときに毅然とした人たちがいるんだなぁともね。日本の切腹だって、あんな恐ろしいことよくやりましたよね。だって即死できないのよ。
湯山 できないですよ。でも、遊び呆けてても、大人になるときはなる、ってことか。
上野 ネオテニーといえども、どこかで大人になるタイミングがあるのかもしれないわね。死の直前に大人になったって、遅いんだけど。
つづく
第6章 快楽とセクシャリティ