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第一章 3.11以前のリア充女のサバイバル○1

本表紙 湯山玲子・上野千鶴子

非リア充の時間が育んだ、サバイバル意識

上野 震災時の初動が非難であったり、政治に関わることへのロックが掛かっていたり、そういう湯山さんがどうやって現在の怒れる湯山さんになったのか、聞かせてもらいましょうか。
湯山 思えば、小さい頃から惨事に遭ったとき、例えば戦争や革命が起きたときには「とにかく逃げろ」という物語に、ものすごく親しんでいましたよね。
上野 破局ものを読んでたんですね。例えばどんなもの?
湯山 60年代は子ども向けに、戦争の悲惨さを描いたものが非常に多かったですよ。革命も一つの戦争ととらえると池田理代子先生の『ベルサイユのばら』だったり、一条ゆかり先生のスペイン内乱を描いた『クリスチーナの青い空』であったり、すごくいい物語が私の少女期にばっちりあった。
上野 動乱ものですね。動乱をテーマにした文学作品というのは通常、動乱から逃げる人でなくて、動乱に立ち向かうヒーローやヒロインを描いているんじゃないんですか?
湯山 いや、私の気持ちとしては、国外逃亡に失敗するアントワネットにがっくり来ていた(笑)。うちの親は昭和一桁生まれで、わりと戦争体験を聞かせる家庭だったんですけど、彼らが語るストーリーの中でも、満州の引き揚げに関しては、「もう逃げ足が大事だ」と幼心に思っていましたね。季香蘭の半生をまとめた本も家にあって、小さい頃から読んでいたし。
上野 逃げ惑う民衆の話。それで、動乱に対して心の備えができていたと。
湯山 さんざん読んでいた『少年マガジン』の巻頭グラビアは、カタストロフ(人類滅亡モノ)ばっかりでしたよ。ノストラダムスの大予言然り、何かがあったときにどうサバイバルするか、ということが流行ってた、1970年頃は。
上野 60年生まれということは、湯山さん、新人類の最初で、オーム世代ね。この世代の人たちは終末論がものすごく色濃くある気がするの。小説やアートというのはある種の予期的学習で、何が起こったときに、「ああ、コレが私が読んで知っていたアレなんだ」となるわけ。予期的学習をしていたアポカリプス(終末)が遂に来たと。それで湯山さんは、3.11の初動が「避難」だったのね。95年の地下鉄サリン事件は、終末論をマジにベタに信じていた人たちが、日本にお粗末な終末を起こそうとしたわけだけど、同世代感覚はある?
湯山 もう、これはありますね。私、「リア充の権化」のように言われてますが、実はものすごい非リア充性質がある。仲のいい人たちはみんな知っています。オタクの最初の世代ですね。変わっていたのは、クラスでヒエラルキーの上にいながら、非リア充人脈もあった、という。
上野 クラスで浮いてたわけじゃなく、リア充的にリーダーの地位は占めていたんだ。私の知るかぎり、非リア充になる人たちは現実逃避型が多い。現実がつらくて、苦しいから、非リアルな世界に充実に求める。
湯山 でも、私の場合は現実が楽しくて楽しくてたまらない。遊び人体質がいつでも頭をもたげてくる。
上野 レアケースだわ(笑)。
湯山 まあ、実は両方とも遊戯的でおもしろいことに変わりはないんですけどね。ただし、中学生の頃に、リアルと非リアルの間で動けなくなったことがある。思春期になって、「いろんな遊びのアイデアを出す元気な玲子ちゃん」に、”女”のバイアスが掛かってきたんです。モテる女子が出て来て、逆にこっちが男子に嫌われたりとか、男や女であることが影響し始めるタイミングってあるじゃないですか。
上野 あなたの知っているリアルが、思春期とともに勝手に変容したわけだ。
湯山 そう。それで、楽しく両立してたのに、リア充方面が鬱陶しくなって、非リア充の世界にものすごく振れた一瞬があった。その後、復活してリア充のテクニックを身につけるんですが、当時は逃避して、ちょっと目立たなくなっていた。
上野 復活の話はあとで聞くとして、やっぱり、ジェンダーが関わるのね。でも、思春期以前は子ども時代だから、リア充も非リア充も、そんなに違いはないでしょう? 特に非リア充の妄想系は、思春期以降文化的な知識をいっぱい仕込んでから、その世界が広がるわけわけだから。
湯山 いやいや、私たちの世代って、今の小学生よりずっと暇だったんですよ。塾も趣味みたいな英語教室しか行ってなかったし。莫大な放課後の時間があったんです。そこで、家にあったいろんな物語を読みつくした。親や友だちと一緒に、映画を観まくった。その意味では、文化的なストックは豊穣だし、多様性に富んでいたと思いますよ。現実世界も同様で、親や学校の管理が手薄だったので、いろんな寄り道ができた。よく街をウロウロしてたなぁ。

 民主主義と戦闘性の源は「小学生共闘」

上野 政治に対するロックは、いつ掛かったの?
湯山 いや―、これが非常にレアな体験をしていまして、失われた時代証言なのでご披露したいんですが、私、『週刊新潮』で「アカ二」と叩かれたほど左翼教育だった、杉並区立高井戸第二小学校に通ってたんです。
上野 左翼って、小学校から?
湯山 これって誰も知らない近現代史ですから。小学校高学年のときの先生たちが最も過激で、一年間、全カリキュラムがオリジナルになっちゃった。
上野 それって何年? ベトナム反戦の頃?
湯山 私が9〜12歳だったから、69〜72年。
上野 じゃあ、学生闘争の真っ最中だ。私とあなた、ちょうど一回り違うのね。その頃、私、石を投げていた(笑)。
湯山 上野さんのご同輩が、私の小学校教員としてガッツリ入ってたわけです(笑)。それで何かって言うと「ティーチン」ですよ! 話し合いがすごく多かった。
上野 子どもの間で、何を話すの?
湯山 一人、依怙贔屓(えこひいき)はするわ、授業もトンチンカンだわっていう先生がいたの。それで生徒がその先生の悪口を言っていたら、「君たち、それにはいい方法がある。リコールという方法だ。みんなで話し合って、先生に要求を叩き付けなさい」と、私が敬愛していた素晴らしい先生がアドバイスを(笑)。
上野 先生が子どもに、直接民主主義を教え込んだ。「小学生共闘」だね、高校生共闘は聞いたことはあるけど、小学生は初めて(笑)。これは歴史に残すべきね。
湯山 全校生徒の集会の中で、なぜその教師がリコールされるべきなのか、クラス委員の中の代表格の生徒がアジ演説を打っちゃって、彼が泣いているというのを私は見たんですよ。あ、教室の本棚には白土三平の『カムイ外伝』が全部ありました。
上野 あの当時の推物史観と階級闘争の教科書でしたね。そういう教師のもとで小学生のときに刷り込まれたら、鮮烈ね。それがあなたの原体験。おお、それでこの戦闘性か(笑)。
湯山 当時の同級生に、もう亡くなってしまった女優の深浦加奈子さんがいるんです。彼女とはホントに仲が良くて、二人の話題は安保闘争のテレビ中継だった(笑)。うちの父親は学生運動嫌いだったので、小学生ですでに父と激論を戦わせていて、鉄球で責められている学生側に私が立って、親とも大喧嘩にもなったぐらいです。
上野 連合赤軍の浅間山荘事件のテレビ中継も見ていたわけね。
湯山 もちろん。小学生のその頃は楽しかったし、自由にやった感じがあった。しかしながら、中学で大挫折。それで転向かたがたリア充になるわけです。小学校が小学校だったので、高校や大学のときに、政治系にハマる友人たちはちゃんちゃらおかしく見えました。

自由を得るために、体制側の論理を学ぶ

上野 中学校に入ってロックが掛かったのは、何があってのこと?
湯山 入った中学がうって変わって、お受験・エリート公立学校で、先生に目をつけられ、頭をガツンとやられまして、私、小学校の先生たちが大好きだったんです。魅力的な人が多かった。話し合ったり、いろんな本を読んだり、そういった空気の中だと、地頭の良さ、本当の頭の良さを試されるじゃないですか。その自由さが学問だとも思っていたな―。
上野 そのとおりです― 小学生のときに学問に目覚めたのか。やっぱり早熟ね。
湯山 ソフォクレスやカフカも読んでいましたよ。それが中学で急にダメになった。イヤな体質の受験校で、先生に目をつけられちゃって。いじめられる、というより”無視”これがキッかった。くすぶりながらも、私は「こっち側の論理や権力を持たないこと、この世界で自由に生きていけない」と思いました。体制側の論理を体現しないとメインは張れない、と。「『いちご白書』をもう一度」みたいなもので、長い髪を切って、会社に入る全共闘男と同じことを、リベンジの高校、大学でやったんです。
上野 早熟だと「転向」も早いのね。
湯山 実は転向には、”女”も絡むんですよ。転向した途端にモテが手に入る、女としての技で。世の中、わかりやすいな―、と。
上野 じゃあ、「ブル転」と「女装」は重なっているわけね。この「ブル転」という用語が注釈なしに通じちゃうのもすごいけど。
湯山 たしかに、「ブルジョワ転向」(笑)。そういえば、小学校で友人の深浦加奈子に「ブルジョワ」って言われたな。彼女は自分の親のことを「心情的左翼」って言っていたし。
上野 信じられないガキだね(笑)。でも、わかる。資本主義社会の中で、女の指定席をゲットしていくのは、ブルジョワになるというか、女装して生きることだから。
湯山 そのとおり―
上野 女が女装を学習するのが、だいたい思春期。うまく学習する人もいるけど、学習し損ねる人と、学習しようとするが拘束衣みたいにフィットとしないと思ってもがく人もいる。私は後者でしたね。
湯山 私はそれを拘束衣だとは思わなかったのは、当時のファッションとカルチャーに女装のカッコいいモデルがいたからでしょうね。そこで私は楽しめたんです。
上野 「ファッション」と「カルチャー」に、もう一つ、「容貌」が絡むのよ。女装しやすい資源を持っているかどうかという。
湯山 手持ちの文化資源は当時から多かった。洋楽が大好きだったんで、音楽の情報をいっぱい持ってましたから。当時、洋楽のアーティストを語られるというのは、学校における文化的ヒエラルキーにおいても男女問わず相当カッコよかったんですよ。言わば「カルチャーエリート」。
上野 あと、体形とか容貌もあるんじゃない。ルックスという女性性資源。
湯山 ?せました。女装貫徹後の当時の写真を見ると、スポーツで日焼けした、セクシーな南沙織ですよ。シンシアってなもんで。
上野 私はクラスで一番ぐらいのチビだったから、本当にガキ扱いだったのよ(笑)。女装以前。それはさておき、あなたは中学生でブル転して、ロックが掛かって、非政治化したのね。
湯山 非政治化していましたね。でも、進学した高校の校風が割と自由だったんで、もう一回、あの感覚は戻ってきた。その高校も学生運動の最後の拠点みたいなところで、やっぱり左翼先生がいて(笑)。「ああ、やっぱり私はこれだ」とすごく伸び伸びしました。だけど、ブル転で得られる、若い女の感覚がもはや麻薬のごとくなっていく。それで、女子大生ブームの先兵として入った大学が学習院。女子大生という当時の宮廷に、「ベルばら」のポリニャックの伯爵夫人のように入り込んでいくわけです。

旧男類を黙らせる、技術としての「女装」パワー

上野 ブル転すると、どういういいことがあったの? チヤホヤされた?
湯山 されたね―(笑)。ブル転みたいなこと、つまり「カネ」と「女」という記号を身に着けることはね、より自由になって、私の上にウザイ男を立たせないための武器として、すごく機能したんですよ。私より年上の、文科系全員が左翼かぶれ。そして、そういう男たちって魅力はあるんだけど、付き合うと大変そうだった。頭が良くて元気のいいコがそういう年上文化系と付き合ったとたん、貧乏くさくて地味になるのを見て、あーあ、と。
上野 ああ、とてもよくわかる。私はね、自分と同世代の男たちは、同世代の女とはまったく人種が違うと思っている。「団塊世代」と一括りにするなと。「団塊男は旧男類だが、団塊女は新女類だ」と。あの頃、同世代の女たちは他の選択肢がなかったのと、「それが女の幸せ」と思い込まされたせいで、いそいそと結婚生活に入ったんだけど、その後悶々としたの。アタマの中が家父長制そのものの男たちが、女をかしずかせたわけよ。そこに女風を吹かす一回り年下のギャルが来れば、男側からすれば、不倫相手に最高じゃん(笑)。その頃には彼らも就職して、カネ回りが良くなってるし、そこそこのポストには就いていたしね。
湯山 不倫相手になった女たちは、私よりもうちょっと下の世代かな。私が新卒でぴあに入社したあとに、団塊世代の男たちが権力を持ち始めたから、私の世代って1年ごとに違うんだけどね2.3歳上ぐらいまでだと、男は口では左翼的な男女平等を言いながら、相手の女には、自分に脅威がないオヨメさんか天然ちゃんタイプを選んでいた。今でも文科系の男子によくいるタイプ。
上野 はいはい、要するに旧タイプの女、「女の指定席」に納まる女を選ぶんでしょ。男のふるまいを見てたらわかるのよね、女を同志と思っていないどころか道具にしていることが。あの当時の典型は、弾ける女を愛人にし、家でじっと待っている女を妻にするという二重基準を使う男たち。散々っぱらいろんなことをやったあげくに、「ゴールインしました」と私たちの前に妻を連れて現れるケースに何度も遇って、「女房っつうのは、男のアキレス腱だな」とつくづく思った。こんな恥ずかしいもの、世間に見せるな、と。
湯山 わはははは。思いっきり言ってください(笑)。
上野 いや、ほんとに、風采の上がらない地味な妻が、夫の後ろで顔色を窺(うかが)うような目で彼らを見上げるのを見ていたら、「こうやって仰ぎ見られてねぇと、おまえの柔なプライドは保たれたのか」と思わされる。そんな恥ずかしいもん、人前に出しちゃいかんという気がするのよ。でも、旧男類はそういう妻選びをした。そして、愛人にした女は絶対に妻にしない。日常生活が平穏なほうを選ぶからね、彼らは。
湯山 本当にそうですよね。私、高校時代からジャズ喫茶や、ロック喫茶や、アングラ演劇に行っていたんだけど、そこに来るような左翼かぶれ男が「やっぱりさ、男は船で、女は港」とか言うわけですよ。そういう男たちに、彼らはないブルジョワ的な、例えばブランドバッグを持って、資本主義万歳な女風をバァツ吹かせてやると、見事に黙ってくれる。奴らが最も苦手な「カネ」と「女」の記号を使って、斬りまくってましたね。
上野 なるほどね。文化的に優位に立ったんだ。70年代から80年代にかけてのことですね。
湯山 そう。文化的にも経済的にも、後年のマハラジャお立ち台で踊る女の「見せるけどやらせてあげないよ」みたいな、残酷な気持ちも含まれてた感じですね。
上野 あの消費社会状況の中では、期間限定とはいえ、たしかに女が一つの権力になりましたね。自分が消費財であることを自覚したうえで、男の鼻面をとってひきずり回すという。それをやったわけね。
湯山 権力になるには、「若くて」という条件が付きますけどね。私の場合はやっぱり、いちいち難癖をつけてくるウザったい男たち、私を攻撃してくるものを取り外したかったので使いました。車やブランド物を、当時の「いろいろ暴れてやろう」という元気な女の子たちは、そんな女装をして男を黙らせた。例の深浦加奈子さんもそういうタイプで、明治大学のアングラ劇団「第三エロチカ」の看板女優なのに、ソアラを運転して、ニュートラルで稽古場に通っていたもの。今となっては、何だかよくわかりませんが、当時の私たちはそういうことで燃えたんですよ。
上野 消費財だけど、手の出ない消費財。たしかにそういうニッチ戦略はあったかも、それなりのコスプレ用ファッションもあったし、文化資本もあった。それに伴うわかりやすい経済資本も。「私はカネが掛かっている女よ」というパフォーマンスもあったしね。
湯山 ブル転で女装しながらも、上野さんの本を読んで語る友だちはけっこういましたよ。『セクシー・ギャルの大研究』、私の周りの女はみんな読んでたもの。
上野 あれは、私の処女喪失作です。当時、私は、短大の教師だったんだけど、そこで内容をレクチャーしたら、学生が言ったのよ。「先生、こうやったら男に受けるんだけど、そこで内容をレクチャーした」って(笑)。そう、女装は学習できる。「実践してもいいけど、自覚してやんなさいよね」と返事しておきました。どうとも使えるから。
湯山 なるほど。私は、とにかく、私を遮る障害をどかせかったんですね。男の女に対する強制力や「こうしなさい」というイヤな空気をとにかく。中尊寺ゆつこの漫画でオヤジギャルが出てくる前夜ですからね。今と違って、居酒屋に女同士が行って飲むことなんぞ、けっこう勇気がいることだった。オヤジから嫌味を言われたりしてね。そこで、バリバリの女装をしていくと、彼らは黙ってくれるし、店員も訳がわからないから、丁寧に扱う、という(笑)。
上野 女性性を資源に使った治外法権戦略ね。サバイバルの術としてそれはある。「あんたたち、この世界に入ってこられないでしょ」というね。
湯山 治外法権女装戦術は、私はもう血肉化しているかも。若者のクラブでも、パリの三ツ星レストランでもこのモードを突破していますね。

武器としての文化資本

上野 文化資本もツールとして使えるわけだけど、あなたには文化資本もあったのよね。ある種の文化リート。その中でも初期投資の大きい資本と小さい資本がある。音楽もピンからキリだけど、クラシック音楽は初期投資がすごく高くつきますよね。
湯山 そうですね。名をなすには、親のカネと時間を大きく投入しなければならない。
上野 あなたが子供のときにも、音楽の英才教育を受けたんじゃないの?
湯山 ピアノぐらいは一応。でも、ウチの父は、自分以外のピアノの音が家で鳴っているのがダメで、練習すると怒るんですよ。逆にそこを突破するガッツがあれば、親も考えただろうけど、私は、サボることばかり考えていた。
上野 そうか、それであなたはサブカルチャーシーンで優位に立つことを選んだのね。
湯山 サブカルもアングラも大好きだった。小学生で読んだ白土三平然り、漫画の存在は大きかったですね。また当時は雑誌が面白かったんで、ハマっていました。
上野 宮台真司さんと同世代なら、いわゆるオタク、サブカルを論じることが政治を論じることと同じになる、という世代の走りね。私たちとは、やっぱり世代的教育のパッケージが違う。例えば、私は自分の人生に大きくなるのは、藤本由香里さんから下の世代。彼女は三度の飯より漫画が好きで、浴びるように読み続け、漫画が自分の人格を形成したって。
湯山 ほとんど私も同じです。
上野 そうなのね。私たちの世代はまだ古い教養主義があるから、漫画は本の中に入っていなかった。漫画が文化資本として大きな価値を持つようになったのは、萩尾望都(もと)さんたちの24年組から。私が昭和23年生まれだから、同世代の女たちが表現者になって描いた作品を人格形成期に読んだ人たちは、一回り世代が下になる。彼女たちと同じ世代に属している私は、共感はするけど、「これで人格形成しました」とはならない。でも、あとで読んで漫画というものにこれだけのことができるのかという驚きはありましたよ。
湯山 上野さん、24年組について論文を書かれてますよね。
上野 その裏話をするとね、私は漫画が生活習慣の中にはなく、肉体化していない。浴びるように読むということがないから、「読みます」って構えて漫画を読むわけ(笑)。そのハードルを下げてくれたのが、藤本由香里さんだったの。彼女は毎月漫画雑誌を300冊読むんだというけど、玉石混淆(こんこう)なわけね。彼女のところでスクリーンし抜いたものを、うちに宅配便でドカンと送ってくるの。「読め!」って(笑)。そういうありがたい人がいて、24年組をずいぶん読まされた。それで論文を書いたんだけど、つくづく思ったのは、女にとって言語と学問の世界ってハードルが高かったんだなということ。大学にずっといたかったから自分で思うけど、理論と教養の基礎体力は訓練して身につけないと、発言してはならない世界なのよ。
湯山 その空気は、文科系、アート系にもありますよ。そこの体力をなんで測るかというと、これまた東大神話が出てくる。
上野 「フーコーが」「ドゥルーズが」って、わかりもしないくせに言わないと、人は耳を傾けないことになっている。そうすると、表現者としては初期投資のいらない敷居の低い表現の方が入りよい。しかも「売れれば官軍」で、成功と失敗がマーケットの原理ですごくはっきり出て、人為的な操作があまり入らないというわかりやすさもあるでしょ。24年組が出て来たとき、同世代で同じ時代を生きて、なぜこの道をと考えたら、「そうか。この人たちはこういう世界に自己表現の手段を見出して生き抜いてきたんだな」と思ったの。
湯山 表現者でとある到達点があって、そこに向かういくつかの方法論があった場合、こっちのほうが絶対にカネは儲かるし、人に届くとすれば、やっぱりそちらを選ぶのが人情ですよ。
上野 サブカルチャーにも、文化エリートと非エリートがいますよね。坂本龍一さんのように初期投資があって、それで花開いた才能と、初期投資がないところから成りあがってきた才能と。
湯山 矢沢永吉さんとかですね。
上野 忌野清志郎さんも。あなたはどちらに入る? 中間くらい?
湯山 圧倒的に初期投資があった方でしょうね。クラシックはもう血肉だし、バレエや映画や歌舞伎も日常にあったし、また死んじゃった友だちの深浦加奈子さんのことなんだけど、彼女と小学校のときふざけて歌ったのが、「ロマンローラン、ジッドリルッケ、カフカプルースト、ジョイス」というオリジナル戯歌。
上野 やっぱり暮らしの中に文化資本があったからね。特権的なポジションにいたんだと思いますよ。私は湯山玲子さんを『女ひとり寿司』で知ったけど、ご両親も特別なルートで知って、あとで作曲家の湯山昭さんと親子だとわかったとき、「この親にして」とジクソーパズルのピースが合った。やっぱり、文化資本が家庭の中にある環境で育っている優位さはあるでしょう?
湯山 そう言われると否定できないけど、上野さんがよく「人並」って言葉を使うでしょ。人並みじゃいけないという同調圧力って、日本の社会ですごく大きいじゃないですか。女たちなんて、その人並みプレッシャーで何もできなくなっちゃっていますから。
上野 帰国女子と同じよね。山のような資本を持っているけど、他人に見せちゃいけない。
湯山 まったくそのとおりで、山のような資本はあっても、作曲家なんてもともと人並みじゃない類ですよ。だかに、幼稚園の頃から「ウチは違う」と自分な言い含めていました。これが人様にバレたらマズいことになる、と(笑)。外人みたいなもんですね、日本においての。
上野 ムラの外人、ね。
湯山 だから、3.11直後に避難したときも、”世間の人並み”が読めずにびっくりしたし。女子が「愛されたい」と内向的に悩んでいても、「何、言っているの」としか思えない。私の本は、実はその「共感の薄さ」をモチーフにしている。私の育った環境を思うと、世間に居場所がない、とガタガタ悩むこと自体がもうお子ちゃますぎますよ! 家庭内は異様な”表現者”がいるんで、まったく油断できなかったし(笑)。もう。孤独がデフォルト。

 家父長制と女/湯山玲子の場合

上野 おたくの親は家父長制じゃなかった?
湯山 家父長制でしたけど、母ちゃんというのが凄い女で、まったくそれに凹まずに、いけしゃあしゃあと己の欲望を通す。一種の天才ですね。
上野 権力のない家父長制は家父長制と呼ばないのよね。
湯山 ならば、うちは大暴れしてガルガル言う父という動物を、母と祖母というパワフルで太い女が相手をしていた。男たる者の不在ですね。
上野 そのおバアちゃんは父の母で、妻にとっては姑?
湯山 そう。女二人はすごく仲が悪かった。家庭で仲がいいところを見たことがないんですよ。うちの父親だけがギャーギャーと特権的に暴れていて、その”子ども”を女たちが宥(なだ)めすかして、この二人も仲が悪い。でも、良かったのは、この家族が皆、ネアカで、言葉で自己主張ができた人たちだった。
上野 そこに生まれたあなたという子は、パパにとって三人目のママになる可能性があるけど、あなたはどうなった? パパと同じ二人目の子どもになったのかな。
湯山 いや、それが結婚した今、ちょっとタイプが違う二代目の父親になっているかもしれませんね。その暴れる感じがひどいですよね(笑)。
上野 パパっ子?
湯山 父は私のことが大好きですよ。祖母もそうでした。母親と私は、お互いリスペクトはしてるんだけど、感性と言語が全然違う。彼女は文化的というよりもめちゃ現実派で人情家。
上野 とってもリアルな女性じゃない。その人が一家を支えてきたんでしょ。パパの極道を許し、娘の放埓を許し。アタマ、上がらないんじゃん。
湯山 そうなんです。うちがそういう感じなので、家族の形は何でもアリというのは、私には自明のことで…‥。だから、90年代から現在にかけての「理想的な家の在り方」への強制力が、こんなに強いのは何だろうと。子どもが「ウチの親はワタシを理解してくれない」って泣くけど、そんなもんは、当たり前だろう、と。父ちゃんのラブアフェアーも当たり前だったんで、なんでやっちゃいけないのと思ってますね。
上野 湯山家では親の不倫を子どもも知っていたの?
湯山 父親が誕生日に家にすし屋を呼んで客に振る舞ったことがあったんだけど、そこにどうも好きな彼女を連れて来たらしい(笑)。
上野 まあ、ブルジョワの家庭ね。愛人がいて当たり前というのは。
湯山 そういう家なので、愛がなくなったら離婚するというのもよくわからないし。まあ、私としては、周りの同調圧力には自ら生きるために入門して、なんとなくやりくりしていますけどね。
上野 入門しても、適応のパフォーマンスはうまくできていなかったと思う。周囲はきっと同調しているなんて思ってもいないでしょう(笑)。あなたはやっぱりブラックシープ(黒い羊。集団内の逸脱者)ね。
湯山 わははは。自分で言っちゃうけど、性格の良さで許されるんじゃないですかねえ―(笑)。
上野 それはあるかも。育ちの良さというか、他人に対してケチ臭いところがないわね。寛大さって人柄の良さ。世の中にはせこい人もいるから、そういう人を見ると、せこくないと生き延びられない環境にいなくてすんだ、自分の幸運を喜んだ方がいいと思う。あなたにはそういうせこさがないわね。

家父長制と女/上野千鶴子の場合

湯山 うちの父親はわがままだったんで、形としては家父長制なんですが、父(ふ)が立ってはいなかったし、会社員じゃなくずっと家にいて、ピアノを弾いて作曲していた。だから私、男の集団社会たるものを知らなかったんです。
上野 その点はうちと似ている。父は開業医だったから、社会性がなくてね。組織というと医師会だけで、それもほとんど行かなかった。周りに来るのは彼に頭を下げる人たちばかりだから、すごく我儘だったの。母は、我儘な暴君の夫の顔色を見てた。あなたのとこのママは、夫に少しも服従していなかったわね。
湯山 聞いているふりして、まったく聞いていない戦法は得意でしたよ。あとは、よく歌っていたな、二人とも。ミュージカルかってなもんで(笑)。やっぱり音楽が生活の中心にあるから、ちょっと変っていますよね。
上野 母親が完全に自立していたのを見ているから、家父長制を感じないですんだのね。うちは、わがままで理不尽な父がトップに立って、彼がたった一人、頭が上がらなかったのは、自分の母親だった。だから典型的なマザコンの家父長。あなたのところは、理不尽な父がいても、権力を持っているか持っていないか、の違いね(笑)。
湯山 「誰のおかげで食わせてやっているんだ」と、子どもに権力を振りかざしていましたけどね。
上野 あなたの人生を統制しようとした? 進路とか。
湯山 校舎がステキなカトリックの私立女子中学を受けたいと言ったときには、「うちにそんな余裕があるわけないだろう、バカ!」と言われました(笑)。その一方で自分は、ジャガールの版画を買ったり、スキー三昧(ざんまい)したりしてるのにですよ。自分で使うから、子どもにあんまりカネかけたくなかったんですよ。だから、進路については放任でした。弟がいるんですが、彼にもそう、子どもに興味がなかったんですね、二人とも。
上野 放任とはよかったですね。私の父は男兄弟二人を徹底的に統制しましたよ。父が進路を決めて、二人とも医学系に進学しました。私は女だから治外法権。女だから、何してもいいわけ。社会学みたいな訳の分からん無駄なガクモンしても。
湯山 でも、上野さんがさ、今の時代に生きていたら、統制されたでしょうね。昔と違って、女の子が”資源”になるわけじゃないですか。
上野 私が兄弟三人の中で一番成績が良かったから、バアさんと母親は「この子が医者になればいい」と言っていた。で、私は高3の最後まで理系進学クラスにいたの。それで地元の金沢大学には医学部があって、そこを受けようかと受験半年前まで思っていたんだけど、受けたが最後、何が待っているか…‥自宅通学の6年間が待っている。
湯山 それ系の家だとキツそうですもんね。
上野 そう。どんなことがあっても、この家を出ねばと(笑)。経済的に苦労したことのない育ち方をしたせいだと言われるけど、医者になるレールを前に敷かれて、「一生、食いっぱぐれのない人生っつうのは、つまらんもんやなぁ」と思ってね。
湯山 18歳のときだったら、もう学生運動とかの影響もあったんでしょうね。
上野 それはない。大学へ入ったのが羽田闘争の年だったから、まだ学園闘争は起きていなかった。それに、地方の高校の鬱屈(うっくつ)した優等生に、そんな弾けるほどおもしろいことはなかったわよ。ただね、先の見通しが立ってしまうような人生はつまらんなぁと。父親は、兄弟たちには先の見通しの立たない人生は許さなかったけど、女だからどうでもよかったのね。
湯山 今だとラッキー、と思うけど、その男兄弟との差別感はやっぱりイヤな感じだな。
上野 なんで私にだけ期待がないわけって、一応、思ったわね。でもおかげさまで、結果的に自由を謳歌できた。あとになって、同じ職業を持った女たちと、「私たち、どうしてこういうことができたんだろうね」と話をしたのよ。女向きのライフコースを送った他の女たちとの違いは、逆説的に女だから統制を受けなかったことと、もう一つ、娘だから甘やかされて天井知らずにわがままだった(笑)。多くの女の子たちは、家庭で自分を抑えること、譲ることを学ぶのよ。でも私は、ガマンするという教育を受けなかったわけ。そこはあなたと同じでしょ。
湯山 同じです。と同時に両方ともオヤジが半端な家父長制だったからですよね(笑)。大会社を仕切る重役の父ならば、もっと確信的に、愛情ゆえに娘の生き方を巧妙に縛りそう。
上野 うん。他の女の子たちはもうちょっと、躾(しつ)けがよかった。自分を抑制するとか、三歩下がるとかを知っていた。私はガマンすることを学ばなかったせいで、あとでどんなに頭をぶつけたか。大変でしたよ。授業料、いっぱい払いました(笑)。それで結果的に角(つの)を矯(た)めるわけにはいかなかったのよね。
湯山 そりや、カカトの角質みたいなものですよ。歩くほど硬くなる(笑)。
上野 でもさ、家を出てみたら、そこで出会う男たちがやっぱりミニオヤジだったわけじゃん。同志だと思った男たちが、左翼家父長制の旧男類だったからさ。「ブルータス、おまえもか」って、どいつも、こいつも。

「女の子の居場所は助手席」のウソ

湯山 私は、甲子園とかで野球部の女性マネージャーが「○○クーン」ってハチミツレモン作って持っていく心理が、いまだによくわからないんですよ。サポート的な立場のマネージャーで輝こうとする女の子って、まだいますよね。あれ、私キライなんだよね。
上野 男尽くして、愛されようというオプションが、あなたにはなかったのね。
湯山 プレイヤーになったほうが絶対おもしろいはずだもん。だけど、そういうふうに思わない女性は多いですね。
上野 それで思い出したんだけど、車の免許が出始めた頃、うちの父親は兄貴には学生時代に取らせたの。で、次は私だと待っていたら、「女の子の居場所は助手席です」と言われた。
湯山 お父さん? 女の子には免許はいらないと? それはわかりやすいね。
上野 でしょ。それで助手席に座ってたら、隣では親父が冷や汗かきそうな感じで必死に運転していた(笑)。「運転って、大変な仕事なんだなぁ。助手席のほうがラクかな」とマジに思ったのよ。自分でも不思議でしょうがないんだけど。
湯山 あつ、でもその心持ちは、女の人生のいろんな局面で出てくるかもしれない。
上野 33歳で初めてアメリカに出て、免許がないと生きていけないから、取ったわけ、苦労して、苦労して、生まれて初めて運転して、アメリカって最初から路上教習なのよ、もうガチガチになって、「なんでこんなにつらい思いをさせられなきゃいけないんだ。あのとき、なんで運転免許を取らせてくれなかったんだ」と親を恨んだ。でも、とってしまったら、あれ? こんなに簡単なものだったのかと(笑)。なんて運転席に座っている男が、昔はあんなに偉そうに見えたんだろうと思ってね。
湯山 その手のことって、世の中にいっぱいありますよ。やってみたら大したことないのに。会社の仕事だってそう。女のひとり寿司だって、どうってことなかったですよ。なんてことないものを、幻想で守って、ずっと男女の差をつけていた。もうバレバレだよ、そんなもの。
上野 そう、やってみたらどうってことないじゃん。やらせてみろよと(笑)。あなたの場合は、ブル転と女装が重なった時に、ジェンダーの仮装を自分でうまく利用できたと言いましたね。女装と自分との間に、折り合いの悪さはなかったの?
湯山 いや、そこがまったくない。ないどころか多くの快楽がある。
上野 そこが不思議。
湯山 文化の力だと思います。女性文化はもともと大好きなんですよ。バレエやリボンやフリルの世界が好きだったり、ファッションにしても、着飾らずにはいられない、という。
上野 だから私、あなたが女子校育ちだと最初の頃思ったのかな。
湯山 それに加えて、ブル転して、女装技術を学習しましたから。
上野 寄るな、触るなって女装なわけね。それでも寄ってくる男はいるでしょ。
湯山 いや、そうでもない(笑)。コレと思った男をオトすための積極的な手口女装ですよ。
上野 サブカルの世界って、男優位じゃない? ロックにしろ、音楽は特にそうでしょ。
湯山 まあね。ただね、私はサブカルもマネージャー役ではなく、プレイヤーで入ったんです。ドラムをやっていまして、けっこう、真面目にバンド活動していました。
上野 ボーカルとか、女の指定席じゃなかったんだ。
湯山 女の子のバンドだったんだけど、そのとき空いてポジションがドラムしかなくて。それに、最初から案外うまく叩けたんです。大学に入ってからも続けてて、学習院には当時プロっぽい女の子たちがけっこういたので、その子たちと組んで、ヤマハのコンテスとかの常連だった。ちなみに、高校のスタート時は、ランナウェイズのコピーバンド。下着姿で、「ちぇりーぼむ」って叫んでいた。バンドの文脈から出て来たんだけど、実は商業主義の今のマドンナに一部通じるような格好で、女性性丸出しですよ。ロックの文脈的には、ニューヨークパンクの女王。パティ・スミスとかがいたんだけど、彼女たちの女性性否定が私には例のウザイ年上左翼文科系男と結託しているようにしか見えなくて。ブル転戦略には、商業主義のランナウェイズ上等ですよ。
上野 コルセット着けて、ミニスカ穿(は)いて?
湯山 もちろん。ただ、すぐ飽きちゃって、バンドはわりとすぐに音楽的な方向へ行きましたけど。
上野 女の子のバンド、つまり女子校カルチャーだったのよね。男の子と一緒に組んでいたら、女の子の指定席を与えられるんじゃないの?
湯山 私の場合は既に上手かったんで、セッションでいろんな男バンドに入っていましたよ。
上野 そうか、そのパワーがあったんだ。
湯山 うん、技術はあったかな。それで話を戻すと、ファッションという存在はすごく大きかった。ファッションって、自分のイメージを創りあげ、自分の魅力を自ら発掘して輝かせるものじゃないですか。だから、とても楽しんだし、今もそれが続いてますね。ブル転女装の意識は、最初だけで、あとはどんどん自分と服との関係に趣味的にハマっていく。
上野 当時は、どんな格好していたの?
湯山 バンドのとき以外は、完全にメジャーできれいな女子大生でしたよ。ハマトラ、ニュートラとサーファー。
上野 コンサバタイプだったのね。戦略的に?
湯山 そう、コンサバのほうがモテるし、コンサバにしていた私が、これまたセクシーでキレイなんですわ(笑)。
上野 コンサバで、バンドやっていたの。
湯山 そこが複雑なところで。前にも言ったように、私、リア充と非リア充の間をブリッジしてたわけなんですが、その”ブリッジ人生”がまたこの時期マックスに発揮されていくんです。学習院大学って、本当にかわいい、女子アナみたいな子がいっぱいいて、それがメジャーだった。私、メジャーのパワーが好きだったから。メジャーに加担しつつも、サブカリもやってたわけです。
上野 二重生活をやっているという自覚はあった?
湯山 もちろん! カジュアル一本でどこでも出入りできる今と違って、当時はカルチャージャンルにドレスコードが厳然とありましたから、いつでも紙袋持参ですよ。サーファーディスコから一人抜けて、渋谷のニューウェーブカフェ「ナイロン100%」に行くときは、トイレで全身黒のギャルソン系に着替えて、段カットをターバンで抑え込んでた。着替え上等の二重生活。
上野 まるで東電OLね(笑)。
湯山 そうそう、健康的な東電OL。おもしろかったなぁ。
上野 じゃあ、双方の人脈は重ならないわけね。でも、こっちがあるから、あっちで生きられて、あっちがあるから、こちらで生きられて…‥。両方に言えることね。
湯山 私は、まさにその生き方が今後の女のサバイバルに必要だと思うんです。多面性、多重人格を持っていた方がいいと。私の場合は、育った家が変わっていたから、まともな外部の世界で生きるためのバイリンガル能力が、もともと訓練されていたのかもしれないですが。
上野 マルチ生活ですね。田舎の高校生にはその選択肢はなかったな。
湯山 私、「夜遊び推進派」とも言われているんですが(笑)。昼と夜は別の顔という東電OL的な生活を、上手にやったほうがいい。例えば、土日の夜だけ違う人格で遊ぶと言っても、それだってれっきとした自分にすればいいんですよ。
上野 それは80年代に女子学生をやっていた人たちの特権じゃないかな。香山リカさんが同じことを言っていた。六本木に出入りしていたり、80年代サブカルシーンでの裏の生活を持っていたから、やっと生き延びられた、みたいなことをね。
湯山 そう、他人に秘密を持つんですよ。それが大人になる第一歩。でも、そんな楽しい秘密でも耐えられない若い子も多いかもね。なぜって、ウソはいけない、ってテレビや親に言われているから。「表裏のないシンプルな生き方をしたい」って。そりゃ、そうだけど、それは晩年ぐらいになってからでいいんじゃないの、と思います。

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