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第四章 優しさという宝を抱いて

本表紙 沖藤典子著

1ヤンババは純情満開 初孫ちゃんがやってきた!

 光陰矢の如し、娘二人も就職しそれぞれの伴侶を得て、我が家にも平穏の時がやってきました。
 ありがたいことに二女が赤ん坊を産んでくれました。今の時代、孫を抱かせてもらえるというのは、大変恵まれていることです。そのおかげで、私は、”ママの座”から蹴落とされて、めでたくも”オババの座”に格上げとなったのです。ただし、ヤングババ、ヤンパパであります。
 孫娘が生まれた頃、多くの友人からいわれました。
「お孫ちゃん、可愛でしょう?」
 そのたびに私は、ウーンと考え込んで、こう答えたものです。
「まあーねえ。生き物としては可愛いわねえ‥‥」
 孫の可愛さというものを実感できないでいました。ある友人はいいました。
「自分の子どもの時は、無我夢中で可愛なんて思っている暇がなかった。その点、孫は余裕があるから、しみじみ可愛いわよ」
 そうかなあ。

 自分の子供の方が、可愛かったなあ。
 赤ん坊というものに驚き、慌てふためき、そのいじらしさに埋没して…‥。一人目の娘には未熟な親としての不憫な思い、二人目の娘には余裕しゃくしゃく、「可愛い」の連発。

 このたび赤ん坊を産んだのは、その可愛い連発の二人目の方です。
 その赤ん坊が、今や母親となって、偉そうに憎たらしい口を叩くのですから、人生とはなんて理不尽なんでしょう。
 オババが赤ん坊を抱こうとすると、
「手、洗ったかい? うがいもしてきてよ」
 ほっぺにチューをしようと思ったら、
「汚いわね」
 娘ですから、遠慮というものがありません。”ママの座”から蹴落とされるとはこういうこと、”オババの座”とはかくも淋しいものなんだ、ひとり口惜しく、孤独感を?み締めたのでありました。
「いやはや、オババの道って楽じゃないわい」
 かくして、新米のママは、敬意を込めてママゴンと呼ばれることになりました。

?「孫可愛い陣営」に陥落

 娘夫婦は私の家の近くに住んでいて、共働きです。私も若い頃は会社員でしたので、母娘二代の共働きママになりました。

 このオババ、作家として売れていないわりには忙しくて、孫に会えるのは月に一、二回程度。
 人見知りが始まったころから、オババは”知らない人”として嫌われることになりました。

 いつ会ってもそっぽを向くし、抱けば泣く。あげくにお腹を蹴飛ばす。孫への思いも、空振りばかり、
 ところが一歳半の頃、劇的な瞬間を迎えました。
 公園に遊びに行こうとした時、ちょっと遅れて門を出たオババに、彼女がママゴンの手を振りほどいて、駆け戻ってきたのです。
 両手を挙げて、よちよちと、回らぬ舌で、
「お・ばーあーちゃん」
 数少ない彼女の語彙(ごい)に中に、「おばあちゃん」が入っていたのか。
 振りほどいて駆け戻ってくるその小さな身体、おぼつかない足取り。なんといういじらしさ、賢さ、健気さ、愛らしさ。知らない人は嫌いでありながら、このオババをオババとして認めてくれいたのか。
この瞬間、”孫可愛い陣営”に陥落しました。

 純情オババは、もう胸が張り裂けそう。
 今では、胸を張っていっています。
「孫って、可愛いわねえ。いじらしいわねえ」
 年賀状にも、こう書くことは忘れませんでした。
「着々と大物に育っております」

?三十年前と変わっていないのか

 娘は共働きを続けながら、彼女に弟か妹をと願っています。しかし、十一時間保育と月八万円の保育料、これでは二人目はあきらめざるを得ないか…‥という状況です(何とその後二人目が!)。
 仕事も忙しく、仕事かキャリアか、まさに綱渡りの毎日です。子育ての大変さは、私の時の三十数年前とあまり変わっていないのではないでしょうか。
 ただ、「夫婦の助け合い」、これは時代のせいか、夫の性格・個人差なのか、私の時から見て大前進です。

 何よりも考えさせられたのは、娘が育児休業をとらずに、産休だけで職場復帰したことでした。
 育児休業は、私たち世代の者にとって、まさに悲願のようなものでした。それがようやく実現したというのに‥‥。
 理由は二つあったようです。
 まず、育児休業をとることの職場への遠慮。ドイツ企業の日本支社に勤めていて競争が激しい。あげくに気が小さいときているので、産休だけでも、遠慮で、遠慮で、早く復帰したいと思ったようです。

「それじゃあ、パパちゃんが利用したらどう?」
 つい余計な口を利いてしまったのですが、IT関連のベンチャー・ビジネスをやっている人。雇用保険の適用外の人なんですね。毎朝会社に出かけていくのですから、つい勘違いしてしまいました。
「そうか、そうなんだ」
 私はこのとき初めて、親の職業によって、子どもの受ける利益が違うんだということに気づいたのでした。

 理由の二つ目は、保育料が八万円を払っても、出勤した方が家計を助けるという現実。
娘の収入は重要なのです。育児休業の補償が北欧並みになるよう、願わざるを得ません。
「制度はあっても、利用の風土がない」。このことに気づいた最初の出来事でした。

?純情オババ、研究会を立ち上げた!

 私はこうしたことを、周囲のオジジやオババに語りました。彼ら、彼女らも、この厳しい雇用環境の中で苦労している娘や息子の世代のために、何かしたいと思っていました。

「シニアが子育て世代のために、何ができるか、孫の未来に何ができるかみんなで考えよう」
 こいう純情オジジ、オババたちと一緒に立ち上げたのが、「シニア社会学会・次世代育成研究会」です。この学会は、シニアの生き方や社会のありようについて研究しようという民間団体です。研究者や市民で構成されていて、いくつかの研究会に分かれています。

 研究会では、二〇〇四年には、当時の内閣官房長官福田康夫氏、厚生労働大臣坂口力氏、男女共同参画局長などにあてに「次世代育成支援に関する要望書と提言を」を出しました。

 さらに、二〇〇七年には「生活と仕事の調和基本法制定」の提案書を内閣官房長官町村信孝氏、厚生労働大臣舛添要一氏、男女雇用参画局長などに提出したのです。

 二〇〇七年版では、「国家の取り組み」として、こう書きました。
第二次世界大戦後、物質的に豊かさを手にした反面、子どもや弱い命を愛し、自分自身と他の人々を大切にする心性が、国民の間に欠けてきたように思います。未来に安心でき、喜びを持って働き、社会役割を果たすためには、国民全体を巻き込んだ合意形成が必要です。国は、政財界へのリーダーシップをとりつつ、「家庭。子ども省」(仮)を創設し、「次世代育成支援」と「老若男女共同参画社会づくり」に取り組むことを要望します。

?実現するか、この提言

 それから約五年が経った、二〇一一年十二月二十六日、読売新聞にこんな記事ができました。
「子ども家庭省、実現明記」
 将来的には、省庁再編時に「子ども家庭省」を創設するというものです。
 おそらくたくさんの要望があったうえでのことでしょうが、私たち、純情オハバ、オジジの活動もまた、小さな釘の一本になったのではないでしょうか。感無量です。これも、初孫ちゃんがやってきてくれたおかげです。ぜひとも長生きして、どう実現されるかこの目で確かめたいのです。

2オババの道も楽じゃない 正しき? オババの知恵

 孫娘が二歳になった頃のことです。二歳ともなれば、赤ん坊から幼児へと大出世を遂げたとの感があります。

 お誕生会は、ママゴンが横浜中華街に畳個室のあるレストランを見つけてきて、ささやかながらの乾杯の義でありました。
 しかしまあ、二歳児というのはこれほどに行儀の悪いものでしょうか。身体をタテにし、ヨコにし、箸をぶっ飛ばし、皿をひっくり返し、口から吐き出し、悪態の限りを尽くします。

 自分の子育てはすっかり忘れてしまったオババ、口では「元気で何より」なんぞといいながら、内心では目が三角になっていきます。

「だいたいが甘やかしているから」
「しつけがなっておらん」
 老いたる親は目が厳しいのです。私の友人は、若き日、姑さんからこう言われたことがあったそうです。
「あなたって、子ども躾一つ、満足にできないのね。私なんかこんなに騒がせなかったし、行儀よく育てたものよ」
 激怒した友人、電話口で叫びました。
「ああ悔しい。自分だってたいした子育てしていないくせに、人のアラ探して」
 彼女曰く。
「あんたのその結構な子育てのおかげで、あのぐず亭主、飲んべえ男が出来上がたってわけね、服だって脱いでら脱ぎっぱなしの怠け者が。悔しい! なんであの時、言い返せなかったのだろう!」

私今、その姑さんの目でわが娘の子育てを見ているのかも。おお、用心、用心。物言えば唇寒し秋の風。お口チャック。

 はっきりいっていることは、姑も実母も、自分の子育てのことは、全部忘れているということ。すべからく自分のやって来たことはリッパ。苦労をケナゲに乗り越えた英雄。その反省があればこそこの私、こう、のたもうたのであります。

「子どもってみんなこうなのよ。あんたってもっとひどかったんだから」
 そこはとなく苦労を匂わせ、恩を売り、自慢にならぬように自慢して、これぞ正しきオハバの知恵というものでございましょう。

?世間の常識と闘う

 ところがわが娘、涼しい顔でいうではありませんか。
「あんないい加減な子育てをしておいてさあ、よくもまあこんなリッパに育ったもんさ」
 うぬー、悔しや。
 さて、その日の帰りのタクシー。ここでも大騒ぎ。
「おんも! あるくう!」
 だんだん眠くなってきました。泣くは叫ぶわ、渾身の力を振り絞って最高音域まで声を張り上げ、暴れて蹴っ飛ばして、これを号泣といわずして、何を号泣といいましょうか。

 私の故郷では、こうやってぐずることを、「ごんぼほり」といいます。タクシーの運転手さんも、さぞ辟易したことでしょう。
 横浜から町田近くの彼女の家まで、ほぼ一時間暴れ続け。よってもって、この十六号線と保土ヶ谷バイパスは、あの「ごんぼほり」に敬意を込めて、『号泣街道』と呼ばれることになりました。

 あまりの号泣に、ついオハバも若き日の号泣の夜を思い出してしまいました。
 当時にしては本当に珍しい共働きママであった私、他人に保育をお願いすることの偏見にどれほど泣いたことでしょう。
「犬ころだって自分で生んだ子は自分で育てるのよ」
「お子さんに復讐されますよ」
 トイレに駆け込んで、いえ間に合わなくて机の前で泣いたこと、何度もありますことか大した仕事もしていないくせに、子育てしたくないから働きに出ているんだろう、権利ばかり主張してと、まあ皆様言いたい放題。
「なんで他人に預けてまで働くの?」

私が働く理由ははっきりしていたのですが…‥。病気の両親を引き取りたかった、そのための家が欲しい、資金がいる…‥。
「それじゃ、親のために子どもを犠牲にしていいの?」
 言われるたびに涙です。親を愛し、子どもを愛して生きていたい、その願いのために泣き続けたのでした。
 この頃私は、世の常識とは刃ともなるものであり、大切なものを守るためには、闘わなければならないこともあると知ったように思います。
 こんな言葉があります。
「世間の常識に従順であった者の不幸」
 今となれば、世間の常識に従わなくてよかったと思っています。

?みんなニコニコ

 ところで、我が初孫ちゃんも目出たく七五三、三歳のお祝いを迎えました。家族一同張り切ってお宮参りをしたのは、いうまでもありません。

 この子がおとなしく着物なんて着るかしら、怪しんでいたオババの予感はさすがに年の功。ぴったり的中。興奮して走り回っては、草履をぶっ飛ばす。ずり落ちた襦袢を踏んづけてひっくり返る、せっかく結い上げた髪はバランバラン。記念撮影を撮る段では、シャッターを切ったまさにその瞬間に、大口を開けてピースをしてくれました。
「かんざし」
 なんていう言葉を知っていて、これまた一同びっくり。
 興奮したのはママゴンも御同様。なんと、付け下げなんぞをお召しになって。親の七五三か。
「だって私、三歳の時は着せてもらっていないし、七歳の時も成人式の時も、着物はお姉ちゃんのお下がりだった。一度、自分で選んだ着物を着てみたかったのよ」
 ありゃあ、それはまことにすまんことでございました。ま、毎日あんなに働いているんだし、自分の稼ぎで晴れ着を着るというのもメデタイことだと、ついオババも目尻が下がった次第です。
「まあ、可愛い」
 みんな目を細めてニコニコ。お爺ちゃんもお婆ちゃんも、お兄ちゃんもお姉さんも、みんなニコニコ。お日様もニコニコ。中には携帯電話のカメラで写させてくださいなんていう方もおられて、ママゴンはもう「嬉しい、嬉しい「を大連発。
「やったあ。やっぱり着物着せてよかった。達成感あるね。あんな赤ん坊がここまで育って」

 日本は子ども嫌い社会かと思うことがあります。鳴けばうるさいと怒鳴り、四方八方三角の目に満ち、若いママはストレス漬けです。しかし、こういう風景を見ていて、まだまだこの世の中捨てたもんじゃないと楽観的になりましたね。このニコニコ見守りたいものですね、しみじみとした思いです。

3あのオシジジが泣いた 妻の仕事を嫌って

 ある時、共働き時代にお世話になった保育ママさんの家を訪れました。娘が赤ん坊を産んだという報告です。お連れ合い様が亡くなられたとも聞いておりまして、一度お参りをと思っていましたし。

 家についてお仏壇の前に座りました。写真を見ると、初めて会ったような見知らぬ感じです。

 朝に夕に八年間も彼女の家に通ったというのに、何回顔をあわせたことか。身体の大きそうないかつい表情、彼女の火なら、この夫は鉄。これまた夫婦の組み合わせの妙というものかと、感じ入ってしまいました。
「あの人ね、変わったんだよ」
 写真を見ている私に、彼女が言いました。しみじみした口調です。
「若い頃はね、私の保育の仕事を嫌ってね、なんで人の子まで預かるんだって、仕事するのにも肩身が狭かったのよ」

 保育ママといっても当時のことですから、自宅での共同保育です。行政の支援など一切ありませんでした。
 あげくに保育園不足。公団住宅(団地)の四階にあった2DKの家はいつも赤ん坊や幼児で溢れ、家に帰ってもゆっくりできなかったことでしょう。残業で夜中に迎えに行く、私のようなママもいましたし。
 そんな不満のせいか、一人娘のTちゃんが夜泣きしたりすると、こう怒鳴ったそうです。
「泣かせるな。明日の仕事に差し障る!」
 私にも聞き覚えのある台詞です。
 いやいやこの二人だけでなく、多くの昔の母親が経験した悔しさ、辛さなのではないでしょうか。ぐずって泣く子。くたびれ切っている妻。思いやりの言葉もなく、怒声を浴びせる夫。仕事を大義名分にして、妻の苦労を無視する夫。夫への愛情が吹っ飛ぶ夜。
「だから私、この人が寝ついたら、三回は蹴っ飛ばしてやろうって、ずっと思ってきたわよ」

 彼女だけではありません。多くの妻の悲劇? ですって。
 やがて歳月が過ぎ、私も彼女もこの団地を去り、子どもたちも大きくなりました。彼女は新しい家で保育ママを続け、彼女の膝にはいつも赤ん坊がのっていました。いったい、何百人の赤ん坊を乗ったことでしょう。

 やがて夫も定年となり、毎日家に入るようになりましたが、妻の仕事を手伝うてもなく、日々は過ぎていったということです。

?オジジの涙

 夫の変化は娘のTちゃんが結婚し、初孫のKちゃんが生まれたあたりから始まったそうです。
 ある時、Tちゃんが赤ん坊を連れて実家に来ようとした時、途中から雨が降り出しました。ぐっしょり濡れて玄関に飛び込んできた二人を見たとたん、オジジはなんと涙をこぼしたというのです。

「可哀想って泣いたのよ、あなた。あの人が涙、そんなもの見たこともなかった。泣いたんだから。ホント、たまげた。それからどんどん変わって、優しくなったのよ。いいオジジになったの」
 鉄のオジジから熱いオジジへ。この変化を遂げるには、何か劇的な一瞬が必要なのでしょうか。

 この時の涙が、彼の全ての行動様式を変えたといいます。
 Tちゃんは母親の志を継いで保育士になり。保育園の主任さんとして活躍の時でした。それからというものオジジは、孫のKちゃんの保育園送迎を手伝い始めました。小学校に入ると、下校の時間はいつも門の側で待っていたそうです。

 それまでは見て見ぬ振りをしていた保育の仕事も手伝い始め、”保育オジジ”として、若いママとも会話するようになったそうです。
 イクメン元祖、イクジイ(育爺)元祖です。

?「うちの人、変わったのよ」

「私の仕事にも、協力してくれるようになったの。ママは本当に大切な仕事をしてきたんだねって言ってくれた。子どもをいつも膝に乗せていたのよ、あなた、想像できる? うちの人、変わったのよ」
 あの一瞬だけで変わったものでしょうか。
「さあ、どうしてかなあ。でもね、四十年以上も毎日赤ん坊をみていたでしょ。そりゃあ最初は私の仕事に反対だったから内心は面白くなかっただろうけど、だんだんね、人間の命ってこうして連綿と続くって、わかってきたんじゃないかしら」
「そうかもしれないね」
「こんなに赤ん坊や幼な児って可愛いんだ、愛情を注げば注ぐほど、愛情が返ってくるんだって、わかってきたみたい」
「定年になって、自分の人生に一区切りつけたっていう安心感のようなものも、次の世代への愛情になっていったかもね」

 友人にも、孫が首に腕を巻き付けきて「お爺ちゃん大好き」と囁いた瞬間、胸が痺れてしまったという人がいます。そのオジジもまた、話をしながら目に涙が。
 彼女は力説します。
「もうこのトシになれば女にもモテない。だいたい一生の間で好きなんていわれたことあったのかしらね。私もいってない。これって。モテなかった男の最後の拠り所かなあ」
「そうそう、そうだ、そうだ。そうに、決まっている」
 二人は、大口を開けて笑い転げました。

?孫は大泣きした

 やがてオジジは深刻な病気になりました。もう助からないと悟った時、こういったそうです。
「ママの仕事は土日でないと休めないよね。平日だと働くママたちに迷惑をかける。だからおじいちゃん、土曜日にあの世に行くよ」

 本当に彼は、土曜日に旅立ちました。
「Kちゃんがね、泣いて、泣いて。パバの方のオジジが、オレが死んだ時も、こんなに泣いてくれるかなあって、いったくらいよ」
 その頃Kちゃんは進学を控えていましたが、何のためらいもなく介護福祉士の養成校を選びました。今では、特養ホームで働いています。

「年寄りが好きなんだって。黙って横に座っているだけでも心が和んで、いい仕事を選んだなあって思うんだって。これもヤジジのおかげなのよね。主任さんからも、あんたって本当に優しいのねっていわれるそうよ」

 それほどの影響を孫に残していってくれたんだ、頑固そうな、四角いお顔の写真を拝見しながら、そんなにお孫さんから慕われて、本当にいい人生だったのね、と改めて思いました。

「私、この人の介護なんて絶対に嫌だと思ってきた。でもそれなのに、終わりの頃は、自分の身体なんてどうなってもいいと思った。TちゃんやKちゃんをこんなに可愛がってくれて、ありがとう、ありがとう、精一杯のことをするからねって思ったわょ」

 自分が愛している者を愛してくれることへの感謝。この熱きオババの心。
 オジジは、最後の介護のために優しくなったのでしょうか?

「そんな下心なんて、ある人じゃないわょ。ただね、男らしさとか、そんなくだらないものに左右されていて、自分の気持ちが出せなかったのね。ところが、突然泣いてしまった。あの涙、あれが心の壁を打ち砕いたのょ」

「偉大な力を持っている涙だったんだ。家族に愛情を注ぐなんて男らしいくないと自分でも思い、周囲からも思わせられたいたものが一挙に砕け散ったのね」
 ところで、心配になるのは、我が家のオジジです。
「あんたんちのダンナも。厄介そうな人だもんねえ」
 とは、彼女の弁。八年間お世話になった日々の中で、いったい彼は何回送り迎えをしてくれたでしょうか。
 すべては仕事優先。子どものことからは完全に逃げていた人。
 彼女のお宅からの帰りの電車の中で、ふと私は思いました。
「男性の平均寿命が女性より短いのは、こうやって優しく変化する姿を、女房や孫の胸に残してくれるためではないかしら。ちょうど雨の後、虹が優しく輝くように」

 馬鹿な考えかもしれませんが、やはり偉大な涙の力を信じたいと思っている心があるのでした。泣く男って、魅力的じゃありませんか。

4このオジジが笑った 怒りの四十代と五十代

 初孫ちゃんがやってきた頃、我が夫といえば、嬉しいのか嬉しくないのか、病院へ面会に行くのすら面倒がっていました。行きたくないのに連れて行ったものですから、仏頂面も仏頂面、険悪な空気が車の中を支配し、道を一本間違えただけで大喧嘩というありさまです。

 何事にも熱く過剰に喜びたい私と、家族のことはすべてが面倒くさくていやな夫。こちらも、熱と鉄の夫婦です。どれほどの葛藤を繰り広げてきたでしょう。

 こんな人だと知っていたら絶対に結婚しなかった、騙された、口車に乗せられた、その不満と怒りたるや天を衝く如し。運動会、誕生会、クリスマス、海水浴、こういう家族の行事には必ず夫婦喧嘩が始まる、書けばキリがありません。

「この人は家族の喜び、楽しみを嫌う。私が愛する者を愛さない。この人にとっては、親も子も妻も邪魔なんだ。自分のことだけ。この人って家族って何なのだろう、なんのために夫婦なんだろう。世間体のため?」

 淋しさと悔しさのあまりに、わんわん泣き転がったこともありましたね。
 再び怒りが頭を駆け巡ります。車の運転免許証すら、「家族のための運転手になりたくない」という理由で、取らなかった。定年になって、ゴルフのお迎えがなくなってからの運転免許証。

 さらにさらに、私が風邪でも引こうものなら、根性が足らないからだ、昼寝が原因だ、だらしない、説教と訓示。原因を究明し、私の自己責任を証明し、自分はどこかに食事へ。

 この夫より先に倒れてはならない。
「降り積もりし恨みを見よ」
 こういえる一瞬があるまで、頑張り抜いて生きる、私はこう決意を固めて生きて来たのでした。

 前に、夫婦関係も年代によって変わると書きました。
「二十代愛情、三十代葛藤、四十代怒り、五十代あきらめ、六十代感謝」
 五十代になってもあきらめがつかず、六十代になっても怒りが消えていない、こんな私は、感謝の六十代を迎えられるのでしょうか。

?奇跡が起こった!

 その後もオジジは、相変わらず。初孫のおひな祭りも誕生日のお祝いも「ブツブツ」、娘夫婦や孫に会うたびに冷や冷やし、それはかつて、我が子に優しくしてもらいたくておどおどしていた若き日を思い出させ、過去の怒りまでが全部津波になって押し寄せてきて、”怒りの四十代”から決別できません。

 ところが、思いがけないところから、私にも転機がやって来たのです。孫娘が二歳になったある日、子育てについては絶対に愚痴をこぼさない娘が、ポロリといいました。
「二歳児が大変だっていうのは聞いていたけど、本当ね。自分で歩くって蛾を張るし、いうことを聞いていたら保育園に何時たどりつけるか分からないし。夕方家に帰るのにも、一時間以上かかるのよ」
 それを聞いたこのオババ、考えました。
 親を頼りにしないで子育てするというのは健気だけれど、保育園の送迎だけでも助けてやりたいじゃないの。もっと頼りにしてくれてもいいよ。我が家から車で五分ほどのマンションに住んでいるんだし。

 オジジは定年後、小さな会社のコンサルタントをしているだけで、基本的に暇人。朝早くからブラブラオジイ。あの悔しい運転免許証を役立てなくてどうする。ダメ元、またいやな思いをするかもしれないけど、言うだけでもいってみようか。
  カクカクシカジカ。
「だからね、朝だけでも車で保育園に送ってやって欲しいの。私も手伝うから。それに、夕方のお迎えは私がやる」

 甘やかしだ、なんでそこまでする、いやな思いでひと言でした。
 しかしながらまあ、世の中とはかくなる奇跡が起きるものなのでしょうか。夫はあっさりといったのです。
「いいよ。行ってやるよ。パパは朝早くから起きているんだし、ママは朝寝坊なんだから寝ていなさい。大丈夫だって。まかせなさい」
 へっ! 肩の力が抜けるとはこのことです。気が付いてみたら九十度のお辞儀をしてしまいました。あげくに、
「ありがとうごさいます」
 なんて、「ございます」までくっつけて。
 それから一年余り、この間のオジジの変化たるや、まるでライオンが猫になったようです。約束通り夕方は、私がお迎え当番です。
 ある夕方、なんとなくソワソワしてにじり寄ってきたオジジ、
「ワシも行こうかなあ」
「どうして」
「今朝、握手してくれなくてさ。このままじゃ眠れそうもないよ」
 絶滅したかと思っていたワシモ族。ワシもワシもと女房の後を追いかけるオジジ、こんなところにいましたか。いやいや結構、ワシモ族。
 この一年半、老夫婦の関係は大きく変わりました。
 朝の会話。
「どうだった? 今朝は」
「生意気だよ、あいつは。挨拶しないんだから」
「誰の遺伝子かしらね。遺伝、恐るべし」
 夕方の会話。
「じゃあ、気を付けて行っておいで」
「うん。ありがとうね」
 六十代、なんと、深々と感謝している私がいたのでした。冷え切っていた夫婦が、孫の送迎をきっかけに会話が戻ってきました。
 限りなく優しくなっていく私がいました。そして思いました。
 人間は感謝したい存在なのだ。多くは望まない。望んではいけない。たった一つでもいい、感謝できるものがあれば、それでよしとしょう。

?オジジも笑っている!

 孫が三歳半になったとき、子ども向けのミュージカル”オズの魔法使い”を見に行こうか、ということになりました。娘が、
「オジジどうする?」
「これまであなたたちとだって、映画に行ったこと一度あるかないか、ましてや子ども向けのミュージカルなんてね、行くかしら」

 オジジに話しました。やはり一緒に連れて行きたくて、いかに面白いか、あれこれ。
「あなたも行く?」
「うん」
 なんとまあ、あっさりと。
 その日は、娘夫婦と祖父母夫婦が孫を間にしての観劇となりました。オジジは居眠りもせずに真剣に見ていて、こうのたもうたのです。
「やあ、なかなか面白いものだね」
 このオジジが笑っている!
 魔法にかけられたのは、まるでこのオジジであるかのようでした。その夜は娘の誕生日であったので、座敷を予約してありました。朝のうちは、例によって仏頂面。いかにも面倒くさそうに、何度も念を押していました。
「オレ、一杯だけ飲んだら帰るからな」
 それがまあよほど楽しかったのか、飲むは喋るわ。そんな中でこんなことも言いました。
「若いうちは忙しくて。ママには苦労かけたよね。二人の娘をよく育ててくれて、感謝しているよ」
 感謝! 今夫は「感謝」といった。
 私に感謝しているの?
「見よ、この降り積もりし恨み」
 なんか、あっという間に吹っ飛んでいきました。なんと単純で、おめでたい。「アホか」と笑ってしまった私です。

?人生の落とし物を拾う

 その時、保育ママさんの涙を含んだ声を思い出しました。
「このひとも最後には、人間の心っていう素晴らしさというか、本当にいいところを見せてくれてね。ありがたかったよ。そんな風にお別れ出来て、私もこの人と結婚してよかったんだと思えてね」

 それにしてもMさんの夫と私の夫、日本が高度経済成長期に入った頃に結婚し、大量のサラリーマン出現の時期に壮年期を迎えていました。
 社会の価値観は戦前の「男の立身出世・女の良妻賢母」の根っこを引きずったまま、
「男は外に。女は家に」と大量の性別役割分業家族を生み出した時期です。

 しかし妻はそういう社会通念には従順ではなく、型破りに生きていこうとしていました。だから彼らは頭では賛成できても、男のメンツや沽券というものからすればどうにも面白くなく、しかもこういう新しい時代の父親のモデルもなく、結局は家庭逃亡型で生きてきたように思います。

 だからといって連中も、それでいいと思っていたわけでもないのですね。心の中ではやはり小さな命とかかわる時間を願っていたのでしょう。その思いは定年になって、会社の人間関係から離れたとき、多分「人生の落とし物を拾って歩こう」とでもいうような気持ちに、つながっていったのでしょうか。命のつながりを確認しようとしているとでもいうような‥‥。

 泣いたオジジも笑ったオジジも、人生の終わりには豊かな時間が流れていますね。これこそが人間の幸せだとしみじみ思いました。

 欲をいえば、もっと早くに子育てのうちから、家族に優しくあってくれればいいのにね。嬉しいことに人々の意識も大きく変わり、娘の夫世代になると家族観は格段によくなっています。個人差なのか、時代の違いなのか、多分その両方でしょうが、夫婦で子育てするそのいい関係に、心からの歓びを感じています。ちなみにママゴンの夫は、イクメン、スーパー・イクメン。今は二人目も生まれて、よくやるなあとこのオババは目を細めています。真のイケメンです。

?一人の人生を救えば

 最近は「子育ての社会化」という言葉が少しずつ定着してきていると思います。「社会化」というのは、反発つもという言葉です。ある有名な評論家はいいました。

「子育ての社会化なんて、育児放棄につながります。長生きのリスクをみんなで担う”介護社会化”と違って、親には育児の義務があります」

 多分お説の通りでしょう。でもあなたは、子どもを抱いて途方に暮れたことがありますか。”親”とは、女親だけのこと、男親は戦後少なくても三〜四十年は、育児放棄をしてきたではありませんか。女親は苦しんで生きてきました。今だって、苦しんでいる人もたくさんいます。胸を痛めつつ、たくさんの涙を流しながら共働きママをやってきたこの身からすれば、「子育ての社会化」こそが、女性の人生を救うものであり、未来の社会を創るものであると思います。子どもも、思いやりの深い人間に育ちます。断じて、育児放棄ではありません。むしろこういう支援がないから、母親が育児放棄をしてしまうのではないでしょうか。

 わが娘たち、ご本人がいうほど立派に育ったかどうかはわかりませんが、ともかくも人並みに育ち、親と同じ担税能力のある者として生きている二人の娘を、私は今「育児放棄だ」なんていった連中に見せてやりたいと思っています。

「どうだ。見事に育ったでしょ! あなたの老後の年金を支える一人ですよ」
 ひとりの女の人生を救えば、それに続く女の人生を救われます。オババは、そのことを孫娘にも伝えていきたいと思います。

 子どもを育てている頃、人生二度目を生きていると思ったものですが、お孫ちゃんのお蔭で、三度目の人生を生きているような感慨を抱いています。

 三度目の人生では、オジジも優しくなり、オババも優しくなり、小さな命を囲んで親夫婦娘夫婦が笑い合うようになりました。この平凡さ。これこそが人生の醍醐味というものだと、しみじみ思えてなりません。

 さて、今や十歳になった彼女、オババにオセロやカード遊びを挑戦してきます。ママゴンにはいつも負けるので、勝つ可能性のある相手はこのオババとなったのでした。バックギャモンはオババの完敗。オセロは一対一。わざと負けたりはしません。真剣勝負です。孫を相手に「う―ぬー、悔しいや」と張り切っているのも、老いの楽しさ、幸せというものでしょう。オジジもゲームくらい遊んでやればいいのに‥‥とは、ちょっと欲張りでした。

5愛情は遺伝する? おばあさん伝説

 おばあさん伝説をご存知ですか。
 なぜ、人間は地球上のあまねく分布し、亀などの一部を除いた他の動物にない長寿を手にし、高い知能を有するようになったのか。この問いに答える仮説です。あくまでも仮説です。
「おばあさんが、子育てに協力したから」

 祖母が子育てに関わる動物って、人間のほかにあるのでしょうか。これはまさに”人間”の証明です。最近ではチンパンジーでも孫守が見られるそうですが…‥。

 祖母の知恵、幼い者への深い情愛、たくましさ、これはまことに言いにくいことながら。どの純情オジジもかないません。そんな祖母が気配りよく、孫育てを手伝い、母親たちを応援するのですから、人間がかくも移動能力を備え、長寿と知能を手にしたというのも、仮説を超えて真実であるに違いありません。

 私は、「愛情は遺伝する」という非科学的見解の新奉者です。
 母に可愛がれて育った私は、その愛をお返しするごとくに娘たちを愛しました。
「もしかしたら乱暴ではあったかもしれないけれど、私なりの方法で、子どもたちを愛した。自分の人生を守りながら、心底子供を愛した。母からの愛情は私を通して、娘たちにつながっている」

 私は確信を持って、愛情遺伝子を唱えています。
 娘二人も仲のいい姉妹に育ちました。それが私のささやかな自慢です。アメリカにいる家の娘は子どもがいないのですが、姪を可愛がってくれて、孫からすれば、「伯母ちゃん」なのに。まるで永久尊称のように、「アメリカのお姉ちゃん」といっています。
 女たちの熱い胸、深い愛情は、代々伝わっていくのです。

 その功績者は祖母です。昔は、「尊厳」を発見しました。
 その功績者は祖母です。昔は、「年寄りっ子は三文安」という諺がありましたが、それでいいじゃありませんか。つまりは「人類みな三文安」ということで、まことに結構なことであります。

 最近、オジジが驚くべきことをいいました。
「亡くなったおじいちゃんが孫を可愛がる姿を見て、ぼくもおじいちゃんになったら、あのようになろうと思っていたんだ」

 亡くなったお爺ちゃんというのは私の父で、子どもが幼い頃、五年ほど同居しました。その時の優しさを見ていたのですね。愛情は血縁を超えて遺伝するということをここも証明しているではありませんか。これからはお爺ちゃん仮説というのも、でてくるかもしれません。最近、幼な子の悲惨な虐待事件が頻発するにつけ、オジジやオババはまだ五十代か六十代だろうに、孫がどう育ってするのか、なぜ注意しないのか、不審に思います。関係者の話によると、祖父母の腰の引けている、子どもらとのいい関係を保ちたいと見て見ぬ振りをするということです。もしそれが本当にだとしたら、あまりにも情けない話ではありませんか。

 息子や娘の育て方針に従う、余計な口を出さない、これは祖父母として持つべき節度です。しかし、意見をいうべき時にはしっかりいい、孫が健やかに育つことを見守る、それこそが、お婆ちゃん仮説の本義、人間としての存在価値のようなものだと思います。

 昨今では、孫のいない人も多くなりましたが、電車の中で、スーパーの中で、優しいまなざしを送り、「いい子ね」と、ちょっと励ましの言葉を贈る、そういうところにも生きていく喜びあると思うのです。人の胸から胸に愛情を遺伝させていく力、それを磨くことが、老いを生きていく上での、心意気というものではないでしょうか。

 ?すばらしきは女の友情

 高齢の女性が、聡明さと能力を発揮する例はたくさんあります。八十歳過ぎた女性のりりしさ、気骨ある自立心、是は言いにくいことですが、同じ年齢の男性を凌ぐものがあるように思います。同窓会でも言われていますよ。

「男は土砂崩れ、女はお花畑」
 男性陣がんばれ。
 さてかつての祖母、大家族制度の中でしか生きられなかった時代が、長く続きました。その結果こういわれるようになりました。
「男は福ジイさんにはなるけど、女は鬼ババになる」
 ここで反論すれば、百年以上の昔、女には囲炉裏端だけの世界しかありませんでした。重労働と多産、それが女の一生でした。その結果、友もつくれなかったのです。

 さらにその世間の狭さ、心の鬱屈が、女をして鬼ババにしたのではないでしょうか。
 しかし、きょう日は違います。活動の場が格段に広がって、行動力がつきました。仲間を大切にし、若い人に優しくなっています。

「女の友情ほどありがたいものはないわね」
 まさに「八人の仲間あり」です。女には友情はないなんていうのは、囲炉裏端しかなかった時代の話です。

 今や鬼ババは絶滅種ですが、中には執念深く生き残り作戦をかけている連中も、いるにはいます。ダニのように、あの三従の教え、「幼にしては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従え」もまた、ダニのようなもの、さっさと追い払いましょう。人生は長くなったとはいえ、こんなものに振り回されているほど長くはないのです。

?老いて自立する愛の深さ

 八十代を過ぎてからも自立して生きようとする人には、家族への深い愛情を感じます。「老いては子に従わず」もまた、愛情です。
 精神と生活の自立を求めて、一人で生きる道を選んだ先輩がいます。
 彼女は八十四歳です。軍医だった夫を戦争で失い、三人の娘を育てきました。彼女らが所帯を持った後、六十代後半になって心臓病の手術をしました。そのことが彼女に与えた衝撃は大きかったようです。退院した後考えました。

「娘たちには迷惑をかけられない…‥」
 考え考えて、軽費老人ホームでしたが、彼女には満足のいかないものでした。
「老人ホームに入ってからというもの、することがないのです。退屈で、退屈で。あげくに昔話と職員の悪口、あの人この人の噂話。もううんざり、似たりよったりの話ばかり。十年辛抱して八十三歳の時に、そのホームを出たんですよ」

 娘に迷惑をかけられないと選んだ軽費老人ホームでしたが、安心はあったけれど希望はありませんでした。次のようなこともありました。
「生活はあった、しかし人生はなかった」
 人は何歳であれ、パンのみにて生くるにあらず。”早めの住み替え”は、”早すぎた決断”でありました。

「人生これでいいのかと思いましたよ。他人の中にいても孤独ですから、それはそれで辛いものですよ。退屈と孤独、これは人生を破壊しますね。人間をダメにしますよ」

?老後の大敵は、退屈と孤独

 大衆の中の孤独。しみじみ、一人で暮らしたいと思ったということです。
 かくして彼女は、同居しようという娘の反対を押し切って賃貸アパートに引っ越しました。娘には迷惑はかけられないという母親の愛情です。そこで再び思いました。

「どうせ一人暮らしするんなら、福祉の進んでいる町で暮らそう」
 その時選んだのが、秋田県の鷹栖町(現・北秋田市)でした。
「あなた、八十四歳のバアサンが、一人で引っ越してきたんですよ」
 茨城県よりも北に行ったことのないという人です。見るも聞くもの面白く、こんな生き方もあったんだと知りました。

 町営住宅に収まって、まず始めたのが老人福祉センターでのボランティアでした。気候の違い、言葉の違いに悩みながら、でもたくさんの友人をつくりました。町議会の傍聴も欠かしません。

?老いたればこそ冒険

「世の中はこんなに広いんだと知ったわね。人生最後の大冒険だったけど、今が一番幸せです。そんなトシになって、という人もいるけど、このトシになったからこそ、冒険しなくてどうするの」

 人生の残り時間が見えてきた頃、「やりたい」と思っていたことをしよう。
“やりたいこと”の貯金箱。これは老後の宝箱ですね。まさに、願いの貯蓄です。ちょっと小太りの小柄な身体、どこでいそうな”ただのオバアサン”です。しかし、彼女の正体は、
「ただならぬオバアサン」です。
 毎日の家事はもちろん、雪かきも自分でやる、自分で判断して行動する。誰にも遠慮はいらない。
「天井がすっぽり抜けるとはこのことですよ。目の前に青空が広がりましたよ。健康に恵まれて、自由で、楽しみがいっぱいあるんですもの。あなたね、トシをとったればこそ冒険しなくてはいけませんて。つまりはね、生き方の覚悟が必要だってことですよ」

 トシをとったればこその冒険。人生の残り時間をどう生きるかという哲学、つまりは「生き方の覚悟」を持つべきだと、八十四歳の人は語るのです。
「一人でどう生き抜くかってことですよ」
 一人をどう生き抜くか、どんなに元気であっても、やがて来るべき時は来ます。それをどう受け止めるか、考え抜いた心構えがあるに違いありません。きりっと結んだ口元。やっぱりただならぬ人です。

 彼女の声が蘇ります。
「トシをとったら、同じ年頃同士の助け合いです。仲間に支えられ仲間を支えて生きる。これはオババの生き方ですよ。それにはやっぱり思案する力ですよ。女は、最後は一人で。甘え許されませんよ。一人で生き切る思索と知恵、女に必要なのは哲学ですよ」

 女は結婚していてもしていなくても、最後は一人、仲良くしましょうね。韓国の小話にもあるというではありませんか。六十過ぎたら、夫はいてもいなくても同じ」

 お会いしてから六年、体調を崩して娘さんに引き取られたということです。私は思いました。
「彼女にとってこれは不本意であったかもしれない。でも、子どもにいささかの迷惑をかけるのも、子どもへの愛情ではないかしら。自立、自立と意地を張るのも、人生の終え方として美しくないよね」

 最後の最後は、「子に従え」であったかもしれないけれど、それは子どもへの愛情でもあったのでしょう。
 自分の意志と愛情、その双方を抱いて生きる道を選んだ人でした。

6優しさという宝を抱いて 忍耐力の持続を

 ある年齢を越えたら優しい人といわれることは、とても大切なことだと思います。
実際に電車などで席を譲られた時、にっこりと挨拶して座る老婦人を見かけると、あの方はきっと周囲の人にも優しいんだろうなあと温かい思いになります。

 しかし友人の説によると、優しさというものも一筋縄ではいかないようです。
「トシをとったら優しくなるっていうけど、それは、自信がなくなったっていうことだと思うのよ」
 こう語るのは、七十代半ば、今なお仕事の第一線で活動を続けるSさんです。彼女によれば、これまでは自信満々、言い方も断定的で、若い人の仕事の評価も厳しかった。

 しかし最近では、体力・気力が衰えた、記憶力も落ちた、恥ずかしい言動をしているのではないか。「優しくなったね」といわれることが多いけれど、本当に優しくなったのか、単に自信がなくなったからだけではないのか等々、自問自答するということでした。

 加齢によって心の持ちようが変化する、これは私も感じているものです。私の場合は、忍耐力の喪失です。
「もうこの年になったら無理なんかしたくない。嫌なものは嫌とはっきり言おう。自分の気持ちのままに生きよう」
「忍耐なんて、もういいじゃない」
 なんて思っている私がいます。

 若い頃は、忍耐や辛抱は生きる知恵でした。これは一種の利得意識のようなもので、
「ここで我慢すれば将来に役立つ」
 とか、
「やがていい結果になる」
 などと思え、にこやかにしている自分を演出していました。
 その忍耐ができなくなったというか、アホらしく思うようになったのです。
 結果として摩耗が起こったり、長年の人間関係を壊してしまったり、いいことはありません。
 旧来の老いのイメージに甘んじて、あるいはそれを利用して、努力を放棄する気持ちも芽生えていると思います。これこそが、「老いの罠」、あるいは「老害」という物かもしれませんね。
「あの人も年を取って我儘になったね。ま、しょうがないか」
 などと若い人に忍耐を強要しているようにも思えて、大反省です。
 生きていくということは「生涯忍耐」、これを失うことは若さを失うこと、忍耐力は老化を測る物差しなのかもしれません。

?「老いの神話」に負けない

 ある時、二十年前にホームヘルパー向けに書かれているテキストを見て、某学者が高齢化について驚くべきことを書いているのに気づきました。

 個人差や、生活歴によって異なるとしながらも、老人の一般的性格傾向は、〈自己中心性〉〈猜疑心(こころ)〉〈保守性〉〈心気性〉〈愚痴〉。老人の性格類型は〈円熟型〉〈依存型〉〈自己防衛型〉〈外罰型〉〈自責あるいは内罰型〉。

〈円熟型〉を除けば、否定的な言葉がずらりと並んでいました、昔読んだときは気にもならなかったのですが、老いた今になって読むと、
「これはあんまりだあ」
 驚いたり、あきれたり。これらの言説が高齢者のイメージを創り、社会通念となり、多くの人は我知らず「老いの罠」に落ちて来たのではないでしょうか。

 でも世の中の人すべてが、否定的に高齢者を見ているわけではないようです。ある北陸の県の中学生たちに、祖父母についてインタビューをしたことがありました。私の仮説としては、頑固、しつこい、うるさい、などが出てくると思っていましたが、圧倒的に多かったのは「優しい」でした。

「親に叱られた時とか‥‥、おばあちゃんが『大丈夫だよ』といってくれて。優しい」
「よく褒めてくれて、優しい」
「お年玉も、親より多いし。なんか、あったかいし…‥、優しいし」
 お年玉が出てくるあたりは現代っ子ですが、「大丈夫だよ」と励ましてくれ、よく褒めて優しい、あったかいなど、まだ若い祖母、ヤンババへの評価は高いものでした。「おばあさん仮説」が証明されたような気がします。

 Sさん流にいえば、自信がなくなったから優しくなったのかもしれません。でも忍耐して生きてきて、その結果優しくなったとすれば、これも人生の成果ではないでしょうか。いずれにしても、老いて優しくなるということは、すばらしいことですね。優しく、そして謙虚に生きる姿、これは老いによって獲得する「宝」ともいうべきものではないでしょうか。重要なことは、「老いの悪宣伝に惑わされない」「老いというもののイメージに振り回されない」「老いの神話に負けない」ということです。

 現代は、新しい「老いの姿」を創造する時代です。これまで何度も書いてきたように、明るくて、元気で、聡明な老い。優しさの壺を抱くようなにこやかさ。
 そんな人になりたいものですね。

?晩節を守って

 昔から日本人は「晩節」というものを重んじてきました。
 〈円熟型〉とはいえないまでも、みっともない自分をさらけ出さないように、感情の赴くままの言動を慎むべし、厳しく自分を律して晩年を生きるべしと。

 とくに昨今の高齢者は、旧来のイメージ、つまりは「老人ってこんなもんさ」という「老いの神話」抵抗して生きています。高齢者も十人十色ですから、非行老人など様々な人がいますけれど、穏やかに、にこやかに、孫や子どもに、「優しさという宝」を伝えて生きている姿は、ひときわ尊いと思えてなりません。

 高齢者には、若者を批判する人がたくさんいます。
「今どきの若いもんは」
 というのは、エジプトのピラミッド時代からあるそうですが、自分の若い頃の未熟さはすっかり忘れて、若者を批判する。これだけは、絶対に慎みたいと思います。若い人に優しく、太陽のような光を包み込んで、次の時代を託していきましょう。
 やがてくる終わりの日。その日まで、晩節を探りつつ守りつつニコニコと感謝の日々を生きていく。優しさという宝を抱いて。そんな人生が待っているような、そんな予感を胸に、新たなスタートラインに立ちたいと思います。

 祖父のこと、母のこと、父のこと、夫婦のこと、孫のこと、私の生きてきた道、その過程の中で会ったたくさんの人々、そのエピソードを書いた物語もこれで終わりとします。「五十代からが人生の本番!」未来に掲げる灯が、大きくともることを願ってやみません。最後に佼成出版社の皆様、編集担当の横山弘美さんにお礼を申し上げます。
 2012年5月30日発行 著者 沖藤 典子

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