沖藤典子著
1母を偲び、運命を思う 愛情は遺伝する
私が生まれ育った家族として背負った家族、それは私の胸に深く焼き付いていて、今も涙が涸れません。
前に書きましたが、私の母は、私が二十八歳の時に亡くなりました。父が亡くなったのは、私が三十七歳の時、まだ若くて、貧しくて、子どもも幼く、何もかもが未熟で、十分な親孝行もできなかった…‥。その深い慙愧(ざんき)の念は、私を苦しめるものです。私の更年期が辛かったのには、この親への思いもあったのです。
「どうしてこの時まで生きてくれなかった…‥。今ならばいろんなことをしてあげられるのに‥‥」
まさに、「親孝行がしたい時には親はなし」でした。昨今では「親孝行したくないのに親がいるから」という人もいますが、私の場合は、「親孝行できる時には親はなし」なのです。この思いが頭を駆け巡りだすと、苦しくて胸をかきむしられる思いです。
母親は私にとって、光であり、熱源でした。小学校から帰ってきて母親が家にいないと、いないと探し回り、いつも母親にくっついて歩き、「腰巾着」といわれたものです。母親に守られている、その安心感が私を大きくしてくれたように思います。
「典子は可愛い」「典子は賢い」「典子が大事」、今でも私を呼ぶ声が聞こえてきます。おかげで、骨折の恐れありとスポーツはさせてもらえず、厚着の寒がりに育てられましたけれど‥‥‥。
物心ついてくると、当然ながら母親に鬱陶しさを感じたものですが、しかし母親への説明のつかない感情は、今も胸に渦巻いています。母親の思いは色とりどり、母からの愛の大きさ、深さは、胸深く宿る湖のようなものです。敗戦後の生活の貧しさ、そこに襲ってきた父の結核による長い闘病生活、病と貧困の悪循環、働きに働き、そして五十代半ばで半身麻痺となった母への、愛惜の思いは尽きることがありません。
過剰なまでの母子密着の育てられ方は、相当に私の人格形成に悪影響を与えたことでしょう。夫はこういうのです。
「異常だ、あんたをそんなふうに育てた、あんたの親はひどいと思うよ」
多分その通りなのでしょう。可愛がられ方が、過剰。一人勝手、自己中心的。思い込みが激しく、他罰的。甘ったれ。どうしようもない私。私の考えの根っこには、自分の願いはすべて叶うべきであるという、”わがまま”者の根性があるのかもしれません。
そういうさまざまな悪評をすべて引き受けて、それでも母親への愛情は揺るぎません。正直いって夫より親が大切でした。母も父も、私の胸の中の第一順位です。そこに夫の怒りがあったと思います。私なりの理由があるのですが…‥。
でも、私はいつも思っています。
「母親にはたっぷり可愛がられ、その親を無条件で愛した。子どももきっちりと愛した。これが私の取り柄だ」
私には「愛情は遺伝する」というじつに非科学的な思いがあるのですが、こう思えることは幸せなことだと思います。
?母を愛する理由
なぜ母は過保護であったか、その理由を知ったのは二十五歳の時でした。母には驚く過去があったのでした。
前章で述べた祖父とは、母の父のことです。学校が火事になった時、母は五歳でした。その後母が十三歳の時、貧苦の中で祖父は人生を終えました。ついに立ち直ることができないままの、無念の他界でした。
歴史に「もし」はないと知りつつも、つい思ってしまいます。
「もし、あの小学校の火事がなければ、祖父は母を教員にするか、附属幼稚園の保育士にしたのではないか。そうしたら母の人生はまったく違うものになっていた。やせ細った果てに、六十八歳で、老衰で亡くなることはなかっただろうに」
祖父亡き後、母は、まだ十代のうちに米屋の長男に嫁にいかされた。「いやいやながら行かされた」のか、「自分から望んで行った」のか、母の言い分と周囲の人の言い分は違うのですが。
働き者で口達者でもあった母は、商売上手でもあったようです。夫はそういう母に嫉妬し、次第に暴力を振るうようになったと聞いています。命にかかわるような、殴る蹴るのひどい暴力だったそうです。
ついには母家出したのですが、その時八人の子供が居ました。全員おいて逃げたということです。
その後、私の父と知り合い母は離婚が成立しないまま同棲し、私を産みました。父も別居生活でしたので、私は父の先妻の子として届け出されました。両親が正式に結婚したのは、私が高校生の時です。
父には先妻の子がいましたので、母は自分の子は育てずに、生さぬ仲の子を育てたことになります。その子が二重の大変さを抱えていた子であったことも、母を苦しめたと思います。
私への異常な可愛がり方は、残してきた子どもへの思いや、現実の子育ての大変さが、混沌として絡まり合った結果かもしれません。自分の子は育てられずに、生さぬ仲の子を育てる…‥、しかも非常に手のかかる子を…‥、自分の運命への怒りのすべてを私への愛情に変え、私を過剰に愛することで、人生の帳尻合わせようとしたのかもしれません。
こういう母の過去を知った三年後、母はなくなりました。その時初めて八人の異父兄姉に会いました。同時に、今の言葉でいえばDVのことも知ったのです。
ここでもう一つ「もし」が出てきます。
「もし、そんなひどい暴力がなければ、母は家出なんかしなかっただろう。そうしたら、父とも出会わず、私もこの世には…‥」
母が私を産んだのは四十歳の時。四十代、五十代をどのような思いで生きていたのでしょう。戦争中でした。
母にとっては九人目の子どもの私は、生きる支えでしたね。私は、そんな母を批判することはできません。
明治の女の桎梏をそのまま背負って、過酷な運命を生きた母。女の命なんて、虫けらのように扱われ、女にも人権があるなんて夢程にも思わなかった時代を生きた母。それに抗議した母。叛旗を翻した母。しかしながら、残された子どもたちの母への思いは違います。批判は、厳しいものです。彼らはけっして、父親の批判はしません。悪いのはすべて母なのです。
「母としてではなく、女として生きた」
「私らの恨みがこびりついた顔。汚いばあさん」
私が母を愛する理由はここにあります。時代の風を撥ねつけ、自分の誇りを守った母。苦悩の過去を二十五年間も私に隠し、一人で苦しみに耐えた母。私に語って、激しく泣き崩れた母。
その母は晩年、先夫の子どもたちから、「汚いばあさん」とののしられたのでした。
私は母の人生を、丸ごと受け入れました。このことを語った時。
「母さんを軽蔑するかい?」
母はこういって号泣しました。とんでもありません。母の理不尽を拒否する力、行動力、それが私をこの世に生み出してくれたのです。深い愛情で育ててくれたのです。感謝こそあれ、母を批判するなんて、ましてや軽蔑するなんて、あり得ないことです。もっと早くに語ってくれていたら…‥とさえ思いました。
世の中には、母親に愛されなかった、愛情を感じたことがないという娘もたくさんいます。じつは、母が婚家に残してきた姉たちがそうなのです。母の愛情を知りません。兄たちもそうです。激しい母恋しの日々が、愛と憎の入り混じった感情を作り上げています。
それを思えば、母に愛された私は、なんと幸せ者でしょう。今私は、突然現れた兄姉と親しくしております。私にとっては新しい絆であり、そのことにとても感謝しております。異父とはえ姉や兄に、母のことをもっと知ってほしいと願わずにはおられません。
母の愛は過剰で、うとましく思ったこともあったと書きました。それでも親離れできなかった私です。この母子密着は、人格形成の点では問題だったかもしれませんが、幸福な子ども時代でありました。
だからこそ、自分の不甲斐なさが情けなくてなりません。
「せめて一回でもいいから、温泉に連れていって、美味しいものを食べさせてやりたかった」
母が背負った桎梏の人生、そんな母の過去を丸ごと引き受けた父、二人の間のひとり娘である私、それなのに両親の愛情に応えられなかった‥‥、せめて一回でも‥‥、こう思う時、今でも私は涙があふれます。母がこの世を去った年齢を、もう超えてしまった私ですが‥‥。
そんな私を慰めてくれるのは、こんな言葉です。
「運命は、
従うものを船に乗せ、
逆らう者を曳いていく」
この言葉を呟いて、私は自分の愚かさをなだめてきたのでした。運命としての家族が、じつはその後の結婚、自分でつくった”意志”として”家族”に、大きな影響を与えたのですが、それはいずれかの機会に書くことにしましょう。
運命の船は、結局は私を曳いていった、そう思うしかないのです。この運命のもと、努力して生きていこうと。
?母親像も時代の変化を受けて
私の友人たちには、母親が長生きしてくれている人がたくさんいます。羨ましい限りですが、中には若かしりし頃の母親のイメージが抜けなくて、現在の老いた母親を容認できないという話も聞きます。
私の世代の母親の多くは、明治か大正生まれです。戦前、戦後を苦労して生きた世代です。病や貧しさに苦しめられて生きてきました。そこに、多産と重労働。手にはあかぎれ、目にはいつも涙が…‥、悲しみの壺を抱く母親…‥そんな母親に誰もが深い感情を抱きます。
でも、目の前の老いた母の現実は、そういう感情を吹っ飛ばしてしまうといいます。
母親像というものも時代に合わせて変わっていきます。現代のように、親も子も長命化する時代にあっては、昔の母親のように「哀れな母。もっと親孝行してやりたかった」というような追憶だけでは、母子の関係は終わらなくなりました。
子どもたちは成人し、社会生活をたっぷり経験します。それによって、親を見る目も厳しくなり、トキにはアレこれ評価し、批判します。これは父親に対しても同じです。
現代は、親は親として愛され、尊敬される時代ではありません。子どもから、どんな人間だったのか、評価される時代です。その結果、精神的な親殺し、親棄ても起こるかもしれません。親はその痛みも、覚悟する必要があるかもしれません。
でも、絶対に変わらないものもあります。人生の途中にあれこれあったとしても、最後の最後、子どもの心は母親の元に戻ってくるということです。だからこそ、中年期以降、母親は心して子供と向き合っていく必要があるのですね。
二〇一〇年は、一九四五年敗戦の年に生まれた赤ちゃんが、六十五歳になった年でした。敗戦の年に二十歳だった人は、八十五歳になりました。さまざまな形で介護保険のお世話になる年齢です。
この年齢以上の人々には”靖国の花嫁”といわれる人がたくさんいます。恋人や若者が戦地で亡くなり、英霊となって靖国神社に帰ってきました。結果として独身を生きざるを得なかった人々です。先のK子さんの母親のように、戦地で夫を亡くした”戦争未亡人”もいるし、戦後息子がいつ帰るかと岸壁に立ち尽くした”岸壁の母”もいます。数々の歌にある通り、運命に翻弄されました。
さまざまな形での戦争の被害を背負った女たちが、介護保険の利用者なのです。介護保険は、拙著『介護保険は老いを守るか』(岩波書店・二〇一〇年)にあるように、しっかりと高齢者の生活を守って欲しいものです。
?敗戦の年に生まれた赤ちゃんが、六十五歳に!
これまでは「戦争を知らない子どもたち」といわれていましたが、これからは「戦争を知らない高齢者」が増えていく時代になりました。中年期以降は、戦争はもちろん環境破壊や大災害についての、先人の歴史を学ぶ必要があると思います。そして次世代に語り継ぐ。大切な役割です。
さて本題に戻って、次に紹介する友人の母親は、途中あれこれ母娘の葛藤もありましたが、最後は深く娘から愛され、娘もまた母の晩年に関わったことで、人生を発見した人でした。
2母親は最後まで人生の師 困った時は助けてもらった
彼女の母親もまた戦争未亡人でした。教師をして四人の娘を育てた、まこと明治の女、気丈な人でした。
昭和も三十年代の初めの頃、四人の娘にそろって大学教育を受けさせました。「女の子に学問なんかいらない。生意気になるだけだと」という風潮が、社会を支配していた時代でした。娘たちも優秀であったのでしょうが、彼女は毅然として社会の風に立ち向かいました。
「これからの女性は、しっかりした教育が必要です」
時代の先を見る目がありました。学費の工面には苦労したようですが、何よりも信念の人でした。そのおかげで、四姉妹は当時の女性としては、最高の教育を受けることができました。私の友人は末っ子です。
子どもたちはそれぞれに結婚して家を出ていきましたが、友人は、離婚して母親のもとに戻っていました。帰って来た娘と孫を丸ごと受け入れてくれまして、彼女はどれだけ助けられたかもしれません。職業と子育てを両立できたのは、母親の力があったればこそ、でした。
当時の保育行政にあっては、助けてくれる親がいなければ仕事が続けられない、そういう人が非常に多い時代でした。
これは今でも大きく変わってはいないと思います。こういわれていますね。
「キャリアウーマンの背後に、親がおり」
キャリアを積んでいくには、子育てを引き受けてくれる人、つまり祖母がいるということです。五十代で祖母になる人も多い現代、親の介護を背負いながら孫育てにも期待される世代です。やっと自分の人生を生きる時間を手にしたのにと…‥、自分の人生と家族の愛情で、再び葛藤を引きずる人がいます。
中には、悲願のようにして、娘の子育てを助ける人もいます。
「私は子育てと仕事を両立できずに辞めました。だから娘にはぜひ仕事を続けて欲しいのです。孫は私が引き受けますから」
さて、その友人母娘、歳月は流れました。
母親は八十歳を過ぎ、彼女も五十代となり、職場の中堅となってまさに要の存在です。子どもは手を離れました。
それと同じくして、母親の衰弱が始まりました。そのことが今度は、彼女の職業継続を脅かすことになったのです。
「あの時代に教育をしてもらい、困った時には助けてもらって、本当に感謝している。それなのに、その母親が弱ってくると、困ったなあと思っている私がいて。私って非情な娘なのかなあ」
彼女は悩みました。自分の老いを考えれば、職場を辞めるわけにはいきません。子育てが終わっても、教育費のかかる時です。
でも、母親を家にひとりに置いては出られません。このあたりは、多くの働く女性が突き当たる壁ですね。育児の壁を乗り越えたら、介護の壁が現れる…‥。最初の壁を乗り越える時助けてくれた親が、今度は壁になる…‥。
?「親風吹かすのよ」
彼女の母親は強い個性と信念をもつ人です。長いこと一人で頑張って生きてきたのですから当然でしょうが、それが悩みの種となりました。強き母は、娘のいうことを聞かない。素直ではありません。
鍋の空焚きするようになり、買い物を袋ごと忘れてくる‥‥という事態が重なりました。
「お母さん、私の留守中が心配だわ。日中来てくれるお手伝いさんを頼もうか」
断固、拒否。なんでも自分でやろうとします。失敗の自覚がありません。これが老いの証拠なのですが…‥。
「それがまあ、驚いたわよ。うちの母親ときたら、すっごく職員さんに人気があるんだよね」
そのはっきりした態度がお世話しやすい、と職員はいったそうです。認知症もかなり進んできていたのですが、しかし、それはいや、これがいいと指示し、それが叶えられればとてもおとなしくて、介護がやりやすいということです。
「プロってたいしたものなのね。実の娘だとうんざりすることでも、職員さんにして見ればやりやすいって言うんだから」
気丈さと自立心は相変わらず旺盛で、自分でできることは自分でやろうとします。
入所者の中には、金払っているんだから使わなきゃ損とばかりに、ナースコールを押し続ける人もいます。その点彼女のお母さんは、まさに『這ってでもずってでも』自分のことは自分でする、という気迫だったそうです。
「気の強い母だったから心配していたのに、そのおかげでみんなに大事にされたのよ。たとえ認知症が出ていたとしても、自分でやろうとするその心構えに、みんなが共感してくたらしいわ」
娘であるが故に見えなかったけれど、お母さんは人間としての質のよさもあったと思います。あの時代に、社会通念を撥ね退けて、娘四人を大学にやったのですものね。本物の自立心ですね。
最近その母が亡くなりました。
「たくさんの人たちに親切にしてもらってね、人ってこんなにアッタカイものだと思わなかった。ありがたかったわ。いいお母さんね、大往生ね、といってもらえたのよ。母親に介護をさせてもらって、人間観や人生観が変わった」
介護はともすると苦労話、悲惨な話で語られます。それももちろんありますが、介護によって教えられたという人は多いですね。ただ、介護の辛さは「終わって何年」という、終わりの見えなさにもあるのですが…‥。
今までは自宅と職場しか知らなかった彼女でしたが、地域の中にたくさんの知り合いができました。母親がつくってくれたいい人間関係は、彼女の人生の財産になりました。『地域もまた家族』という言葉がありますが、改めて共感しましたね。
「親って、ありがたいものなのねえ。うちの母親、最後には人の優しさ、人の温かさを教えて逝ってくれたのよ」
最後まで教師だったわ、人生の師だったわと、しみじみした口調で彼女はいいました。いい母娘の関係を、思い出を残してくれたんですね。親として尊敬され評価されたお母さん、それに感謝する娘、親子の絆も、幼少時代、青壮年時代、中年期と、さまざまな絆の発露があるのです。絆のありがたさ、感謝の思い、運命の微笑みを感じますね。
3家族が崩壊しないために 優しかった義母の他界
介護保険以来、介護者が「嫁」というのは、激減しました。その代わり多くなったのが、「実の子」による介護です。その中には娘と息子がいます。さらに男性の介護も増えました。「息子と夫」でみれば、三割になっています。
「男性介護者三割、百万人の時代」
「カイゴゴメンの時代」
といわれるゆえんです。
男性の介護には、中年期の男性であれば、職業継続や収入の問題もあり、夫による介護であれば、妻よりも高齢化している場合が多いのです。より高齢化していて介護能力は大丈夫かという懸念もあります。介護問題は「女性問題」として出発しましたが、今や「男性問題」ともなっています。
それでも、介護問題には、家制度の残滓を引きずる「嫁」の存在が、必ず話題になります。家族といえば、イコール「嫁」の構造は、決して消えていないのです。
介護は、長い過去の人間関係を映し出す、鏡のようなものです。人間関係がよくないと、我慢できるものもできなくなってしまいます。
その葛藤はとくに家族が閉鎖的で、強大な父親支配のもと暮らしてきた家族に多いような気がします。
G子さんは結婚以来、夫の両親と暮らしてきました。
嫁・姑の同居期間は三十年を超えました。でも幸い義母は優しい人で、お定まりのトラブルもなかったのですが、残念なことに還暦が過ぎた頃、がんで亡くなりました。人間関係がよかったので、じつに平穏、手を握り合ってお別れすることができました。介護には、気持ち以上に体力が必要なのです。さらに経済力も。
「若くて、気力があって、体力があって、金がある」
これが家族介護の条件ですが、昨今では介護者も高齢化していますから、この条件を満たす人はなかなかおりません。彼女は数少ない一人です。
問題は残された義父でした、彼は会社でも相当な地位にあったようですが、家庭にあってはこういう感じだったそうです。
「外では立派な人といわれ、それなりの人徳も鍛えたのでしょうが、家族の中にあっては暴君でしたね。夫なんかも、びくびくしながら大きくなったそうです。義母が生きていた頃はいろいろ間には入ってくれたり、たしなめてくれたりして、まだよかったのですが…‥」
義父は、妻の他界直後こそはしょんぼりした感じでおとなしくしていました。
「あんなにしょんぼりして、かえって淋しいね」
なんて言っていたんですが、七十五歳を過ぎたあたりから、困ったことになってきました。
暴君ぶりが復活し、孫を標的にし出したんです。
成績に口出しする、口汚くののしる、時には暴力も振るう。孫は男の子で中学生、高校受験を控えていました。
孫自信が落ち着かない精神状態にいるというのに、祖父から言いがかりをつけられ、叩かれたりしたのでは、孫も黙ってはいられません。ある日ついにかっとなって、祖父の胸倉を掴んで蹴飛ばしてしまいました。中学生くらいになると、腕力は祖父をしのぎますものね。
何回かそういう状況が発生し、その度にG子さんが間に飛び込み、息子をなだめて義父を助け出します。それなのに、その義父から殴られることもしばしば。
夫に話しても、事態を理解しません。だいたいが夜遅く帰り、土日は付き合いとかで留守ばかり。父親がどういう人だったか知っているはずなのに、妻の心の中まで入ってきて、話をよく聞こうとする態度がありません。
実の父にまるで無関心、妻が何とかすればいいと思っています。
「静かな時もあるんだし。機嫌を損なわないようにしていればいいんじゃないか」
?認知症がすすんで
確かに、日常のほとんどは静かです。でもG子さんにしてみれば、いつ突発的に悶着が始まるか気が気ではありません。こんなことがきっかけで息子が家庭内暴力や引きこもり、家出なんかしたらと思うと、息の詰まる毎日。息子にも義父にも気を遣い、彼女自身がストレスで倒れそうです。更年期で、あれこれの不調も抱えています。
これはやっぱり介護保険を使おう、市役所に行って状況を話し、認定を受けました。要介護「3」でした。
ケアマネジャーの話では、家に毎日いることも本人のストレスになっているとのこと。いろいろな人とのお付き合いが大事だと、デイサービスに週に二回、月に数日ショートステイの利用を始めました。
「ばあさんばっかりだ。歌なんか歌ってたっても、おもしろくもなんともない」
当初は文句をいっていましたが、そのうち数少ない男性の先輩に、碁をやる人がいるとわかりました。格好の碁敵です。それが結構楽しいらしくて、G子さんもほっとししました。デイサービスから帰ってくると、バタンキューです。ありがたいことに、孫にも口出ししたり、手出ししたりする気力も体力もありません。
その孫も無事高校生になって、家族全体が落ち着いた雰囲気になりました。
ところが、その平穏も長くは続きませんでした。
五年ほどしたある日、その先輩がデイサービスに来なくなりました。突然に亡くなったとのことです。
「このあたりから、義父の認知症はすすんだんです」
とC子さんはいいます。
それにつれて彼女の”うっとうしさ”感も強まりました。痰を吐く音、食事の時の咳、むせて口から溢れ出す食べ物、食べこぼし、戸を開けっ放しのおしっこの音、臭い、孫との喧嘩、いろいろな嫌悪感が彼女の生理的感覚を刺激します。
「誰にも言えないことですが、ショートステイから帰ってきた時なんて、首を絞めてやろうかと…‥、思うこともあるんです」
最近では各地で、介護者のためのカウンセリングなどが行われるようになりました。そういう気持ちになってた時は駆け込んでください。
?夫はキーパーソン
家族というものは得てして密室であり、強固な要塞となります。外部の目に触れないところで、夫が人間性のある者としてどうか関わっているか、これによって家族は大きく変わっていきます。
他人にはいい顔をし、家族には仏頂面を向ける夫のなんと多いことでしょう。社会向けの顔と家族向けの顔と、中年期以上の夫の多くは、二面性のある人が多いようです。昔の人は、
「内弁慶の外牛若丸」
ともいいました。
子の家族もまた、父親も息子も、夫としての器量に欠けていました。とくに父親は病によって、その欠落が増幅しています。
家族はまさに百様ですが、こういうやりきれない話はもう終わりにしたいものですね。
家族の温もり、家族なればこそのいたわり合い、そのキーパーソンは夫です。家族ら逃亡しないで、向き合う夫でいてほしいですね。そこにあるのはいわば、夫としての「夫性」ではないでしょうか。
家族を混乱させた舅さんも、やがて認知症高齢者のためのグループホームに入りました。ここも圧倒的に女性が多いのですが、みんなに優しさくされてイライラも収まり、周囲の人になじんで数年を過ごしました。やがて入院し、そこで亡くなりました。
G子さんはしみじみいいます。
「いかに夫が家族の関係を調節するか、そこのところでみんなの気持ちが違ってくるわね。問題が起こった時に逃げようとする人だとは、結婚の時、わからなかった。これから先、もし私が病気したらどうなるのかしら。また見て見ぬふりするんじゃないかと思うと、今から腹が立つ。何か対策を講じておかなくちゃね」
五十代も後半になって、夫があてにならいと知ってしまった。やっぱり、「五十代はあきらめ」の季節なのでしょうか。六十代になって「感謝の時」を迎えるよう、願うばかりです。
4感謝が生む家族の絆 父親と夫、二人の優しさ
西に困った父さんあれば、東に困った母さんあり。中年世代の女たちの日々はいろいろさまざまです。
ここで登場するE子さん。一人娘でしたので、結婚した時から自分の親と同居してきました。
「夫は私の両親によくしてくれましたね、とても感謝しているんですが、でも、その優しさがかえって辛くて…‥。申し訳ないんですよね」
彼女によれば、父親は物分かりのいい穏やかな人だったのですが、母親は若い頃から気が強く、自分が中心でなければ不機嫌になる人でした。激情すると、子どもにまで暴言を吐く。加齢とともにますます酷くなって、最近では誰彼構わず、暴力を振るうようになりました。
孫は二人いますが、幼い頃からそんな祖母を見ていて、おばあちゃんは嫌いだ、恐いと側に寄りつこうととません。自宅から通学できないような遠い大学に入って、さっさと家を出ていきました。
「普通は、おばあちゃんって、孫になつかれるものじゃないですか。でも、うちは違うんです。おじいちゃんにはなついても、おばあちゃんにはなつかない。嫌われていました」
このE子さん一家が、数々の波乱を抱えながら崩壊せずに、何とかやってこられたのは、すべては父親と夫、二人の男性たちの優しさのお蔭でした。
とくに父親は、汚い言葉を使う妻をたしなめ、娘夫婦や孫たちを守ってくれる大切な人でした。
「母さん、そんなに口汚く言うもんじゃないよ」
「そんな命令口調でいうのは、パパ(E子さんの夫)に失礼じゃないか」
こんな時、彼女はいつも母親と夫の間に入って、胸がキリキリする思いを味わって来ました。
ところが、その温厚で優しい父親が、思わぬ心臓病で急逝しました。家族をまとめるキーパーソンだった人の他界G子さんもE子さんも同じパターンです。家族関係の調整もまた、死を早めたストレスの一因になったのではないでしょうか。キーパーソンがしっかりしていないと、家庭内の介護は崩壊するのですが‥‥‥。
E子さんの夫は大企業の管理職で、海外出張中でしたが即座に帰ってきて、いやな顔ひとつせずに葬儀万端を取り仕切ってくれました。仕事が気になるでしょうに、おくびにも出さずに。
彼女の感謝の思いは筆舌に尽くせません。
?夫と母親の板挟み
父親の他界後、諌めてくれる人がいなくなった母親の態度、物言いは、ますます野放図になりました。周囲に嫌な雰囲気をまき散らして、まるでそれを生き甲斐にしているかのよう。八十代前半ですが、認知症もなく、身体も頑健でとてもその年齢には見えない元気さです。最近ではひときわ命令口調や暴言がひどくなりました。
ある時たまりかねて、E子さんはいいました。
「お母さんね、そんな物の言い方や態度はないと思うの。パパだってどんなにいやな思いをしているか知れないのよ。私だって結婚して三十年、お母さんのおかげで肩身の狭い思いをしてきたわ。もう我慢できない。こんなことが続くようだったら、有料老人ホームにでも入ってくれるとありがたいわ。今はいいのがたくさんあるから」
「なんだいそれは。母さんを捨てようというんだね。お父さんが亡くなったからって、そうはさせない。お前の勝手にはさせない。絶対出て行かないよ」
「じゃあ、私たちが出ていっていいかしら。お母さん一人で暮らして、お願いだから。私も疲れた」
「親不幸者! 育ててもらった恩を忘れたのかい。親の世話をしっかりするのが子の勤めじゃないか。絶対に出て行かない。お前たちが出ていくのも許さないからね」
こういうのを一般的に「支配しながら依存する」といいます。あれこれ命令し、相手を服従させることで安心し、自立しようとしません。夫婦の関係においても珍しくありません。「支配・依存の夫」「依存・支配の妻」ですね。
夫はこう慰めてくれました。
「お母さんの性格はもう直らないよ。僕たちが我慢しようじゃないか。お母さんを一人にはできないよ」
そんな夫に感謝しつつ、やっぱり疲れたなあと思うE子さんです。
友人にもいわれました。
「本当にいい旦那さんね。世の中には妻の親に無関心な夫が多いのよ。私なんて母が亡くなって香典を申し出た時、もすごく嫌な顔をされたわ。それを思えばあなたなんか幸福者よ。旦那さんを大事にしてね」
夫を大事にしたいとなれば、母親と別れたい。でも、夫はこのままでいいという。その気持ちに甘えていていいものだろうか。こうなれば、母親には、早めにあの世へ‥‥。そんな思いを激しく振り払いながら、夫に気を遣う板挟み生活が続いています。彼女は出口のない思いです。
?今日もまた三つの背中が
やがて夫も定年を迎えました。それとともに母親も急激に認知症が出てきて、老衰がすすみました。
今や、静かに横たわり、すべてのことに全面介護が必要です。夫婦二人、この母親の介護に明け暮れています。
「彼だって定年後の夢はいろいろあったと思う。でも口にしない。私と一緒に介護の勉強をしながら、母を中心とした生活をしてくれているの」
定年後にやってくる親の介護。このことに不満を漏らす人は少なくありません。その一方で、自分の定年まで頑張ってくれてありがたい、静かな気持ちで介護できたと語る人もいます。
まず、不満の弁。
「私が働いていた時は、何一つ助けてくれなかった。その姑が、長男の嫁だから介護は当然だといい、周囲も介護役割を押しつけてくる。やっと定年になって、さあ海外旅行でもしょうと思っていた矢先で、これだものね」
「子育てに困った時、押し付けないでと実母、きっぱり手助けを断ってきて。その母が老いて今全面的に頼ってくる、納得いかないのよね」
「私が定年になるまで待ってくれて。私ってこんなに優しかったのかと、びっくりよ。いろいろなこと語り合って、静かな日々もあったのよ」
介護には、これまで書いてきたように、長い人間関係が反映します。中年期、「孫育てを押しつけないで」といってしまったことが、冷たい親子関係を作ってしまった、それが介護に影響してくる…‥。
親に対して感謝の思いを抱いている人は、今こそが恩返しだと威張れるでしょうが、親から拒絶されてきた人は、今さら頼ってこられても‥‥と思うでしょうね。その気持ち、わかりますね。親には親の言い分もあるでしょうが、これもまた難しい家族の感情です。親もまた老いていく日々の中で、「親は親というだけでは愛されない。どういう親であったか評価されている」という時代になっているということを、頭の隅に入れておくことですね。
重要なことは、元気な間は自立して生きることです。
ある介護職員が話していました。
「自立して生きてきた親に、子どもは優しい」
五十代、六十代のうちから、「姑風」「親風」を吹かせていたのでは、先が思いやられます。
E子さん夫婦、今は老いたる母を真ん中にして、初老の二人が静かに日々を過ごしています。介護保険を使っての在宅介護です。
時々は時間を融通し合って地域活動の団体に顔を出したり、映画に行ったり、バランスのいい生活です。おばあちゃんにはひ孫が生まれて、彼女も若き祖母、ヤングオバサンになりました。
「でも基本的にはおばあちゃん中心の生活。孫も生まれて、こうやって人の命がつながっていくのかと思うと、とても厳粛な気持ちにもなるのよね」
まるで、夕日が沈むのを見ているようだとも、彼女は言います。その夕日の光芒の中に、激しく攻撃する母の姿、密かに涙した日々、夫に救われたと思った数々のことなどが、不思議な彩りをもって浮かび上がります。今となれば、その時の怒りや涙も愛おしく思えてきます。
もうじきこの世から去ろうとしている命、この星にやってきた新しい命、この二つの命を見つめる日々です。
今日ゆったりとした時間のなかで、三つの背中が並んでいるのでした。
5仕事を守り、親を守る 世代をつなぐ流れの中で
人は、自分が生まれ育った「運命」の家族と、結婚などよってつくった「意志」による家族と、この二つを背負って生きています。五十代は、家族の重みが双方ともにぐんと増してくる時のように思います。
さらに五十代は、子育てそのものは一段落したとはいえ、子どもの恋愛とか結婚、いろいろなことが起こってきます。
その上に、見えてくるのが親の老い。子どもへの愛情を抱えながら、老いていく親への深い愛惜の思いもまた抱く、そんな時期です。
そのことは、上の世代と下の世代、世代をつなぐ流れのなかにあって、「絆」というものの大切さ、ありがたさに気づく時期ともいえるかもしれません。老いつつある親の命を守り、場合によっては介護も始まる。独身の人ならば、自分の未来設計と親の老いの板挟みに、苦しむ人もいるでしょう。
介護は自分がこれから向かう老いの世界への、大きな学びともいわれています。でも、子育てと違って終わりが見えませんから、「いったいいつまで続くのか」とつい思ってしまう。そう思う自分に腹を立てながら、解放もして欲しい…‥、この両方の感情に苦しみます。人間観を磨くといえば磨くのでしょうが、やはり閉塞感も否めません…‥。
介護を語るときには、三つの側面があります。
第一に介護感情。これは過去の人間関係(嫁・姑や夫への感情も)からくるものです。
第二に介護サービスの問題。
第三に介護政策。
この中で最も深く心に関わってくるのが、人間関係、介護感情です。
介護保険が始まって以来、前述のように「嫁」の介護が半減しました。これはいいことです。家制度意識は今も根深いものですが、介護や親孝行を義理の関係に強制していいのか、その疑問がこの三十年余多くの女性によって語られてきましたから。
でも多くの五十、六十代は、こうも言っています。
「親の介護を背負った最後の世代。子どもには期待できない最初の世代。介護サービスで老いを生きる最初の世代」
さらには、こういう覚悟もあります。
「子どもが居てもいなくても、最後、女は一人。仲良くしようね」
介護政策が充実し、介護サービスの質が上がるように、願わざるを得ません。家族の介護には期待できない世代の出現です。
介護保険の他にも、家族を守るものに介護休業制度があります。
「義理の関係」に介護を依存する、ここから救ってくれたのがこれらの制度です。このことが、「姑」と「嫁」の人間関係をよくしてくれました。女性同士のフレンドシップも、明るくなりましたね。ここでは、「嫁・姑の介護感情が非常によかったから、頑張れた」、「介護休業制度に助けられた」、そんな事例をご紹介いたします。
?姑は恩人
彼女は地方のある工場で、生産ラインの責任者として働いています。結婚以来、三人の子供を産み育てながら働いていましたので、仕事にも愛着があり、周囲のみんなにも信頼されてきました。長男の嫁として姑との同居は当たり前、でもこの姑には助けられたと、彼女はいつも感謝してきました。
「保育園の送り迎えをしてくれたり、夕飯の支度をしてくれたり、私が仕事を続けられたのは、九十九パーセントおばあちゃんのおかげなんです」
世代を超えた女の友情です。嫁・姑の確執なんていうものを、過去の遺物にしようという、女同士の知恵です。
やがて子どもも大きくなって家を出、中年夫婦とおばあちゃんの、三人暮らしとなりました。六人家族であったころの喧騒が、夢のように思える静かな日々が続きました。
そんなある朝、隣室からドスンという大きな音が響きました。何かしらと襖を開けてみると、なんとお婆ちゃんが倒れているではありませんか。すぐに救急車を呼んで病院へ。
転んだのが原因の脊椎損傷でした。激しい痛みで手足が動かせなくて、尿もカテーテルでとる状態です。
「おばあちゃんも八十九歳だから、いつかこんな日が来るだろうと思っていたけど、こういう形でくるとは…‥」
動転している彼女の頭をよぎったのは、職場のことでした。
「仕事はどうする?」
とりあえずは有給休暇で対応しよう。管理職であれば、身の縮む思いです。夫もまた定年前、最後の頑張り時、あなたの親なんだからとは言い出せませんでした。
「困った時に助けてくれたんだもの、姑は恩人です。今度は私が恩返しをしようと思ったんです」
入院してから、胃がんと大腸がんのあることが分かりましたが、これは高齢でもあるしこのままにしておこうということで、三ヶ月後には退院となりました。
?休職の決意
最初の頃は恩返しだと思って、職場と病院と家を駆けずり回っていましたが、だんだん疲労が積もってきました。
「あんなに覚悟していたのに、日が経つにつれて、自分の身体が辛くなってきたのよね。更年期も続いていたし、五十も半ば過ぎると体力もなくなるのよね。姑の病よりも、自分の身体が大事‥‥、疲労が積もってくると、看病が苦痛になって。なんてエゴイスティックなんだと、自分を責めてしまった」
姑は急激に弱まり、自力歩行ができなくなりました。ほぼ寝たきりの状態です。こんな状態で退院するとなると、悩みはもっと深くなります。仕事を辞めようか‥‥。何度も去来する思いです。
じつは入院中、近所の誰かから職場に、こんな電話がかかってきていました。
「九十近いおばあちゃんに、どうして一日中付き添ってやらないんだ。会社なんか辞めるのが嫁の義理だろうさ」
こういうご近所様こそが、厄介者。古い人間関係の地域のご近所様には、いい人もいる反面、固定観念で余計なお節介をする無神経な人もいますね。
日々の苦労に加えて、こういうストレス、彼女の葛藤は深まるばかりです。でも他人様にどう見ようが、仕事は大事です。長年やってきて今責任ある立場で働く日々は、彼女にはかけがえのないものです。
そんな彼女の仕事への思い、胸の葛藤を無視して、夫の兄からも、余計なことをいわれました。
「嫁なんだから、仕事なんか辞めて当然ではないの?」
彼女にしてみれば、長男であるあなたはいったい何をしてくれたの? と怒り心頭です。他人である私に押し付けて。彼女の気持ちには、姑に助けられたという思いと、夫は次男なのになぜ責任があるのかとする。相反する二つの感情がありました。介護問題には、こういう生まれ順序や、性別役割意識などが、影を落とします。さらには、他の親戚やご近所様の目と口も、介護者を傷つけます。これが介護感情を悪くし、介護を困難なものにします。
そんな彼女を慰めてくれたのは、当のおばあちゃんでした。
「辞めちゃいけないよ。私のことなら、遠慮しないで。私はね、あんたを犠牲にしたくないんだよ」
仕事と介護をどう両立させるか、考えた末に、介護休業制度(当時・国基準三ヶ月、現在九十三日)を利用しようと決心しました。職場も温かく了承してくれて、姑の退院と同時に休職に入りました。彼女が勤める企業は、国基準に上乗せして一年間認めています。
「おばあちゃんがよくなったら、きっと復職してね」
こんな仲間の言葉に、涙があふれました。誠実に仕事していたのですね。
介護保険制度の利用だって、雇用保険で働いていれば、あの長男も、長男の嫁も、彼女の夫も利用できるのです。現在は九十三日ですから、順次この四人が連続して利用すれば、一年以上誰かが側に入ることができます。でも休業補償が四割なので、給料の安い者が休む、そして、これまでの性別役割分業などにより一人しか休まない。そういう現実が使いにくい制度になっています。
?「立派なお骨です」
退院後は、作業療法士さんが自宅に来てくれて。リハビリの指導をしてくれました。
一般にリハビリは辛いものだと思われますが、姑の自立意識は非常に強く、スプーンを自分の手で持てるようになり、ベットの角度を変える操作ができるようになりました。我が家に帰って来たということが、気持ちのはずみになったのかもしれません。
医師の往診と在宅リハビリ、月に二回の訪問入浴、保健師さんの巡回など、外部サービスの利用で教えられたこともたくさんありました。とくにリハビリの先生の、生活の中でのちょっとした工夫の指導は、参考になりました。
「昼間寝かせてはいけませんよ。童謡を歌ったり、テレビを観てお喋りしたり、趣味の押し花をしたり、工夫してみいください」
趣味をリハビリに取り入れるとは、よく聞くことですが、本当に一芸は人を救うんですね。
介護休業の制度と地域の介護サービスの利用とで、納得のいく介護だったと彼女はいいました。
一年後に彼女は復職しました。
その後は家政婦さんや定年退職した夫の手と、いろいろな人に介護されて、最初の入院から三年経ったところで、姑は他界しました。
火葬場でお骨を拾っている時、何気なく係りの人に話しかけられました。
「三年も寝たきりだったんですよ」
「三年も?」
彼は驚いて、お骨を持ちあげました。
「立派なお骨です。いい介護しましたね」
近所の人、親戚の人、会社の人、みんなに顔が立った一瞬でした。おばあちゃんが後押ししてくれたと、感謝の思いは尽きません。
介護休業制度や介護サービスを上手に利用して、介護と仕事を両立させました。誰も犠牲にはなりませんでした。
悔いのない介護ができたのも、制度のお蔭でした。まさに、制度があればこその、感謝の時でした。
中年期、上の世代を見送り、下の世代に心を砕く、そんな女性たちの姿が見えたでしょうか。苦労の多い時期です。でも後になって思えば、多忙な時期があったからこそ、命を結ぶ絆を感じることができた、生きていてこの世にいることを感謝できたと、五十代を振り返る人が多いのも確かです。
つづく
第三章 夫婦もまた新しい季節