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第一章 女五十代、人生の花道へ

本表紙 沖藤典子著

1元気を出して、シニアスタート 本の読み直しが元気をくれた

 五十代になった頃、こんな言葉を教えられました。
「二十代は十代が支える、三十代は二十代が支える、四十代は三十代が、五十代は四十代が、六十代は五十代が…‥」
 つまりは、過去どう生きてきたか、それが未来を支えてくれるということですね。
 私としては、ちくり、胸が痛い言葉でもありました。なんといってもこの頃は、「はじめに」でも書いたように、過去のあれこれを思い出しては後悔し、憂鬱のマントにくるまれていた頃だったからです。

 この言葉に励まされた私、ふと思いついたのが、若い頃読んだ本を読み直し、あるいは、読もうと思っていて読みそびれてしまった本を読むことでした。

 それらの本はたくさんあるのですが、読み返した本を三冊だけご紹介しましょう。
『あの山超えて』佐藤紅緑(ポプラ社・一九六四年)。この本を初めて読んだのは十歳の頃、少女小説です。いつの間にか紛失してしまい、週刊新潮の「掲示板」にお願いして譲ってもらったのですが、一九六四年四版です。子どもの頃には何度も読み返して泣き、今この年齢になっても涙が出ます。

 ストーリーを簡単に書くと、田舎の娘が上京して結婚したものの、姑にいじめられて家出します。生まれたばかりの子どもを置いて。その後勉学に励み、幼稚園の先生になって我が子を遠くから見守る。その間に夫は再婚し、やがて、その後妻が亡くなり彼女と復縁する…‥というもので、家族の絆、子どもへの愛、志を立てて生きていくことの大切さを教えてくれたものです。少女小説にしては内容が大人向けなのですが、当時は総ルビのおかげで読み通せました。無知を嘆いて、「学問しましょう」と決意するあたり、後に私自身の「女が大学に行くなんて」という、社会通念をはね返す原動力になりました。人生の後半にいたるまで、数十年に渡って読み返す本のあることの幸せを思います。

 次いで『わたしだけの部屋―女性と文学』ヴァージニア・ウルフ(西川正身・安藤一郎訳、新潮文庫・一九五二年)。初めて読んだのは、二十八歳の時、母が亡くなった年でした。母のことについては次章で書きますが、母への尽きせぬ思いが、自分の生き方探しの原点になりました。

「婦人はもし小説を書くとすれば、お金と自分一人の部屋を持たなければならない」
 強烈なメッセージでした。「小説」という言葉を「生きること」に置き換えてみたとき、経済力と自己省察できる空間が大切と読めるんです。女性の自立論議もさまざまですが、生き方へのメッセージを与えられました。この本もまた、精神形成の書でした。長女が読み、次女が読み、孫娘二人にも読ませようと楽しみにしています。

 三冊目が、『テレーズ・デスケイルゥ』モーリヤック(杉捷夫訳・新潮文庫・一九七五年)。若くて未熟なテレーズは、安定を求めて結婚する、しかしそれは魂の新たな彷徨の始まりだった。魂の自由を得ようと葛藤し、孤独に苦しみ、自立を希求するテレーズ。離婚も許されず、自由を求めながら、早婚の罪と罰を背負って生きる女。その息苦しさと足かせの重さ。ルサンチマン(内的な恨み)の深さ。この本を初めて読んだのは、四十代半ばでした。あれこれ私に重なってきて、読むたびに心を揺さぶられ、大きく励まされたものでした。

 他にもたくさんあるのですが、このように若い頃からの読書に支えられて、私の五十代は過ぎていったのです。心を整理し、反省し、ある部分は諦め、私はシニアをスタートさせたのでした。

?更年期は葛藤を経て光年期へ

 五十の憂鬱は、更年期とも関係していました。
 しかし、「生理がなくなったら女でなくなる」なんて、露ほどにも思っていませんでした。生理があってもなくても、女という性を背負って生きているという事実に、変わりはないのです。
「女でなくなったら、何になるの?」
 でも、なんという心身の不調。心臓の動悸の激しさで入院しましたが、これは当時処方された薬の副作用で、心臓不調を起こしていたようです。セカンド・オピニオンの先生の指摘通り、その薬を止めて元気になったのですが、そこに至るまでの数年、心身ともに土砂降り状態でした。
不眠や異常な汗かき、底知れない焦燥感。加えて下の娘も姉に続いて海外に留学し、まさに「空の巣」になった家。身震いするほどの孤独感の中に、取り残されました。そこに夫の無理解な言葉の数々。更年期には夫の言辞も関係するようです。これは後々まで妻の心に影響を与えますね。

 夫婦に関する小話に、こういうのがあります。これは私が若い頃に聞いたので、現代では十年くらい後に考えた方がいいかもしれません。
「二十代愛情、三十代葛藤、四十代怒り、五十あきらめ、六十代感謝」
 七十代、八十代はどうなるんでしょう。当時の思考にはなかったのでしょうが、現代ならば「助け合い」といきたいところですね。

 ともかくその頃は、怒りながら諦めきれずに心の置き所を求めて、まさにさ迷う日々でした。
 ちょうどその頃、アメリカの女性作家、コレット・ダウリングの更年期に関する講演を聞きました。世界的ベストセラー『シンデレラ・コンプレックス』『レッド・ホット・ママ』などの著者です。

 まず驚いたのは、その背筋の伸びた身体の美しさ。その時五十八歳でしたが、白いブラウスに、黒のパンツスーツ、じつにシックで個性的、戦闘的ですらありました。

 その彼女にしても、五十歳前後の数年、更年期の諸症状に悩まされたそうです。とくに貧血がひどかった。しかし周囲は無理解。医師ですら「あ、更年期ですね」と、相手にしてくれなかったとのこと。日米とも女性の状況は似ていました。

 その後、離婚、親の介護と続き、今、更年期から抜け出して元気になったということです。離婚というのが彼女の葛藤の深さを思わせますが、人は必ず沼のような日々から抜け出すものなのですね。
 
 彼女の時代も私の時代も、ホルモン療法などありませんでした。ひたすら我慢するもの、あげくに夫のように「気のせいだ」「根性が足らない」などと、精神論で片づける人が多かったです。

 更年期は個人差が激しいと聞きますが、それは根性のせいでも、生活がだらしないからでもありません。ホルモンのアンバランスだと聞きます。今の時代は、薬も多々あるようで、適切な服用で乗り越える人が多いようです。お医師さんを選ぶことは、もちろん大切ですね。

 この頃から、ウォーキングを始めました。朝か夜、小一時間程度の速歩です。
 もう一つ始めたのが、社交ダンス。「はじめ」でも触れたことです。
「タンゴの女王と呼ばれたい」
 なぞという厚かましい野望を抱いてのレッスンでしたが、結果は、ま、ご町内の「舞姫」か「迷姫」かというところ。でもおかげさまで姿勢が非常によくなりました。肩の力を抜くことの大切さも教わり、いかにカタヒジ張って生きてきたか思い知らされたものです。

 後になって振り返ってみれば、辛いの、苦しいのといいながら、私の五十代は結構仕事をし、本を読み、スポーツもし、旅行も楽しんでいたのです。

 そしてまあ、更年期を過ぎてみれば、そこはまさしく光年期、自由な時代の到来、さらに幸年期の入り口だったのです。
 私はしみじみ思いました。
「人生は五十代からが、おもしろい」
 幸福人生、大晩年への一歩です。
 もちろん人生、先のことはわかりません。だから、
「心の用意はしておく、でも取り越し苦労はしない」
この精神が、大事なではないでしょうか。
 あれこれ悲観的なことを、ぐずぐずと他人には喋らない。これは意識の力。楽観主義は、意志の力によって獲得するもの、と聞いたことがあります。私はこれも「楽天力」といっています。

?歳を重ねることの美しさと幸せ

「高齢者もまた時代の子、社会の子。その時代の風を受けて生きている」
 現代の長寿化は、栄養改善や公衆衛生の発達、医療、平和などによって獲得したものです。だからこそ、その先輩たちの努力に敬意を表わして、素直に老いを楽しむことが礼儀であり、老後を暗いとか、考えたくないとか嘆くのは、まことに失礼なことだと思います。

 中年からの時期は、日本人にはじめてもたらされたものであり、それもまた、人生の役割や責任からの解放期、獲得した自由の時代です。第二の思春期かもしれません。

 ヘルマン・ヘッセというドイツの作家がいます。私が学生の頃は『車輪の下』を読んで、親や社会の権力という車輪の下敷きになる子どもの辛さに共感し、感動したものです。ナチスに抵抗してスイスに亡命し、母国では出版禁止にあいながらたくさんのユダヤ人を助けた人です。八十五歳で亡くなりましたが、前日まで普通に暮らし、大好きなモーツァルトを聴いて床につき、翌朝亡くなっていたといわれています。まさに大往生ですね。

 その作家が若い頃から書いていた手紙や詩などをまとめた、『老年の価値』(岡田朝雄訳、朝日出版社・二〇〇八年)が出版されました。
 そこにはこんな言葉がありました。
「興奮と闘いの時代であった青春時代が美しいと同じように、老いること、成熟することも、その美しさと幸せを持っているのだ」
 七十八歳の時、息子さんにあてた手紙の一部です。

「老いること、成熟することも、その美しさと幸せを持っている」
 なんと優しさに満ちた言葉、大きな励ましを含んだ言葉でしょう。つまりは生きて年齢を重ねるということ、老いることとは「成熟」とセットなんですね。
別の頁には、「成熟するにつれて人はますます若くなる」という言葉もあります。
「老人とは何か」という時に、「二十歳の老人もいれば、九十歳の若者のいる」といいますが、ここでいう「九十歳の若者」というのは、年齢を重ねてまさに成熟を獲得した人の若さなんですね。

日本でも最近、九十九歳で初詩集『くじけないで』(飛鳥新社・二〇一〇年)を出した柴田トヨさんがいます。まさに、白寿の青春ですね。
こういう方が登場する現代のありがたさ。しなやかに優しく、スマートに長寿を、まさに長生きを寿ぎたいですね。

「生きていればきっといいことがあるよ」
 若い頃に励まされた言葉ですが、今しみじみと実感を持って思い出されます。

?五十代は「貯金」と「貯筋」

 ウォーキングと社交ダンスを始めた私ですが、ダンスは五年ほど休止状態です。忙しくて‥…というのが理由ですが、休みが重なっていくうちに、敷居が高くなってしまったのです。

 その後はしばらくして始めたのが、女性だけの筋トレ体操教室通いです。その教室は全国に千ヶ所以上のチェーン店舗があるそうですが、驚いたことに、参加者の最高年齢は九十四歳。最大多数派は六十代、次いで五十代、七十代の順です。費用は月に約六千円。その金額を支払う経済的余裕があり、健康を貯蓄だと考えることのできる人々の集まりです。

 健康は自分の努力で獲得するもの、と考えている人が多くなりました。筋トレに限らず、山歩きやダンス、ウォーキングなどなど、たくさんのプログラムに汗を流している人が多いですね。ありがたい時代です。もちろん、健康には運・不運がつきまといますが。

 筋トレ体操教室に通うようになって、疲労を感じなくなりました。風邪もひかなくなったかと思います。

 しみじみ思うことは、経済生活も健康次第で大きく変わってくるということです。五十代からいささかの健康投資をすることも、現代の生き方の一つといえるかもしれません。お金をかけない健康対策、たとえばウォーキングなんかがベストですね。私もウォーキングは大好きです。老後の大きな財産は「筋力」です。

 財産といえば、当然経済力も大事ですから、これからの老後の必需品は、「金と筋」といえますね。「貯金」と「貯筋」が、大事なんです!

 精神的においても変わってきます。最近では企業の管理職を経験したとか、女性でも校長職であったとか、さまざまなキャリアをもとに高齢期を迎えている人が多くなりました。その方々がいうのです。

「ただのオジサン、オバサンとはいわれたくない」
「これからは、ただならぬオジサン、オバサンといわれよう」
 その心意気の中には、過去の努力を無視されたくないという強い意志があります。
よく「年を取ったら過去の経歴を忘れて」といわれますが、しかし、これは簡単にはいかないものです。生涯をかけて獲得したものを忘れることはできません。要は、それを鼻にかけたり、自慢しないこと。地域活動にすら○○部長などの地位を求めるような、そういうことから決別する精神です。過去に得たものを活用して、平たいところに溶け込んでいく、その精神性こそが光ります。

 私がやっている地元の活動グループに、校長先生だった女性が会員でいます。最初は知らなかったんですが、だんだんわかってきて、
「さすがだなあ。何か違うと思っていたけど」
 と、その”ただならぬ”性を発見していきました。そして昔の諺を思い出したのです。
「玉はおのずから光る」
 五十代というのは、若くないことを認識しながら、老いてもいない、老いにいささかの不安はある、けれども希望もたくさんある。そういう年代ですね。

 ですから、「もう五十だ」と思わずに「まだ五十だ」と思いつつ「年齢の成熟」をいかに獲得するか、「健康」と「経済力」そして「ただならぬ光」「おのずから光る玉」になること、これから求める年代だと思います。

?「参加」と社会的つながり

 世界保健機構では、六十五歳以上を”高齢者”と定義しています。高齢者というと、つい”介護”をイメージしがちですが、介護保険の要介護認定を受けているのは、十六%程度。八十四%は、元気な人達です。利用者となると、さらに少なくなります。これは非常に重要なことで、高齢者が多くなる社会を「暗くて、大変な社会」とイメージすることは、リンゴの一部しかみていないようなものです。

 しかしながら、高齢期の難しいところは、格差が広がるということです。主に三つの格差があるといわれています。
「経済格差」
「健康格差」
「情報格差」
 経済面や健康面で悩みを抱えて、世の中の情報からも取り残され、家族や友人との関係に苦労するなど、苦しい状況に追い込まれる方も少なくないのです。とくに「経済格差」が問題で、それが「健康格差」につながり、「情報格差」につながっていくといわれています。その逆の場合もあるでしょう。高齢者をひとまとめにして、「高齢者は金持ちだ」、あるいは「高齢者は貧しい」といってしまうのは間違いですが、今高齢者貧富の差は広がりつつあり、改めて人生設計の重要性を感じます。

 ひところは”ピンピンココロリ(PPK)とか、”ぽっくり”とか、いわゆる直角死願望が多く語られ、ぽっくり寺は今も?盛のようです。巣鴨のおばあちゃんの原宿”とげぬき地蔵”さい、大阪法善寺の”水掛不動尊”さんも行列ですね。

 生きる日々の中で、不慮の災難や、思わぬ病などにも見舞われます。そういうことも意識して生きるのが中年期以降です。だから一日一日が感謝となりますね。
 最近では、GNPというそうです。

「元気(G)で長生き(N)、ピンピンココロリ(P)」
 高齢者をいかに元気に明るく生きるか、二〇〇八年に、カナダ・モントリオールで「高齢者化に関する世界会議」が開かれました。私は”参加”の文科会に出席し、こんな言葉に大いに感動、共感して帰って来たのです。

「”参加”は人の社会的健康と心理的幸せをもたらす。”社会的つながり”は、役割、主体性、居場所を持つことを促進する」

 いろんな場に参加しよう、その努力によって健康と幸せを得よう。地域の人々とのつながりも、役割・主体性・居場所を持つことにつながる。結果として、介護予防になる。これは、万国共通なんですね。五十以降は”人見知り”よりも”社交性”のある方がお得ということでしょうか。”友”をゲットする能力でしょうか。

「私は性格的にそういうことはできない」とか、「(この根性の悪さも)持って生まれた性格だから治らない」、なぞという人もいますけれど、それは恥さらしな言い分であるようです。学者によれば、「気質は変えられないけど、性格は変えられる」といいます。性格は自己努力の産物だと。「職業は第二の性格をつくる」という言葉もあります。自分のあるべき性格とか、人格に対する意識の持ち方次第であるようです。

「金持ちもいいけれど、もっと大切なものは人持ち」
 中年期からは、意識的に自分を振り返ってみることが大切です。
「金と筋、そして友」
 これぞまさしく筋金入りの、シニアスタートですね。悩ましいのは、ここに”運”も入るかもしれないかもしれないことなのですが。

 この会議は二年おきに開かれ、その時は九回目。印象として全体で千人くらい、ずいぶんたくさんの国の人が参加していました。アジア系かと思われる参加者も多く、アジアでの高齢化問題への関心の高さも伺われました。アフリカから来た人もいました。

 どこの国の人も、リタイヤ後の子育て終了後の人生が長くなり、まさに人生二毛作時代。五十代以降何をするか、関心が集まるのも当然です。

?江戸時代だってシニアスタート

 日本の高齢者は欧米諸国に比して、男女ともに勤労意欲が高いことで有名です。これを社会保障の貧困と見るか、自己実現欲求と見るかは意見の割れるところですが、元気であれば老いて働くことは恥でもなく、生き方の問題、個人の意志、健康の証明ではないでしょうか。最近では、「六十五歳まで雇用を」という政策も広がっています。

 江戸初期の儒学者貝原益軒(一六三〇〜一七一四)は、彼自身もほぼ八十四歳まで生きた人ですが、有名な『養正訓』(岩波文庫貝原益軒・石川謙改訂)の中でこう述べています。

「養生の術は、安閑無事なるを尊しとせず、心を静かにし、身をうごかすをよしとする。身を安閑にするは、かへって元気とどこほりふさがりて病を生ず」「常にみを労動するば血気めぐり。食気とどほらず、是養生の要術也。身をつねにやすめおこたるべからず。我に相応せる事をつとめて、手足はたらかすべし」
 
 自分にできることを見つけて、手足を動かすことが大事という教えは、日本人の心に脈々と流れています。まるで二十一世紀の高齢化社会を見通したような思想ですね。
「常に身を労動すれば気血めぐり、食気とどこほらず、是養生の要術也」とは、まさに日本人が伝統としてきた、労働と健康が見事に語られていて、時代を超えたシニアスタートのありようだと思います。

 少子高齢化の時代にあって、国を支えるのは女性と高齢者です。日本人は、”健康感”が国際的に見て高く、それは仕事と医療の関係だろうといわれています。

 一方で、生活費は五万円不足の時代ともいわれています。”収入と健康”は、これからの生き方の課題だと思います。何よりも最近では、高齢者を社会の荷厄介とはいわせない、社会を担う納税者だと頑張る人が増えてきて、現代人の気骨を感じさせてくれます。

「老いてなお誇り高く」
 貝原益軒からはほぼ半世紀後、与謝野蕪村はこんな俳句を詠みました。
「麦蒔きや百まで生きる兒(かお)ばかり」
 種(麦)蒔き。食べ物の収穫をめざす種蒔きのみならず、この星にやってくる未来の人々のために、私たちも愛と微笑みの種を蒔きつつ、面構えもたくましく、生きていきたいものですね。
「元気な高齢者は社会の財産」
 元気な高齢者の社会参加をさらにすすめていくこと、そのためにも、五十代からの生き方が大切だと改めて思います。

2願いの貯蓄 欲求する力

 明治・大正期に活躍した女性といえば、なんといても平塚らいてうです。有名な『青鞜』発刊の辞は、こういう言葉で始まっています。

「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった」
 この冒頭の一節は大変有名ですから、読者の皆様も記憶にあることでしょう。全文が、格調高く女性への励ましに満ちています。
 では最後は、どう締めくくられているでしょうか。
 最後の一行です。
「烈しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である」
 何かをやりたいと烈しく思うこと、その思ったことをやることによって、結果がついてくる、そういう意味でしょうかね。時代の閉塞性にあえいでいた女性たちへ、強い精神力を訴えたものでした。

「時代によって変わる者もの」「変わらないもの」があります。変わってはいけないものもありますし、その反面変えなければならないものもあります。
 中年期以降の人々の身体的構造や心身の健康は、前にも書いた通り、この半世紀大きく変わりました。
 これは、「時代によって変わるもの」ですね。女性の老後の生き甲斐ね。「縁側でひなたぼっこしながら、孫の世話をするすること」から、「友だちと旅行しよう。おしゃれしよう。さまざまな社会活動に参加しよう」へと大きく変わり、多様な生き方が現われて、人生の後半期は非常に個性的になりました。

 その多様性を太い棒のように貫くのは、まさに若い頃からの「烈しく欲求する心」だと思います。「願い続ける」と言い換えてもいいかもしれません。この精神性は、「変えてはならない」ものです。もちろん、家族への愛情なども「変えてはならない」ものですね。

 一方変えていきたいものは、「女性というものの固定観念」であり、「社会的地位」なのですが、これはなかなか変わりません。平塚らいてうさんも、地下で歯軋りしているのではないかと思いますね。

 五十代、子育てが終わって、働いている人は定年が近くなって、若くはないけれどまだ体力があるこの時期、まさに人生のリセットの時ですね。女性への固定観念やマイナス評価を断ち切り、思い切った挑戦をする。これもこの時期の大切な仕事かもしれません。

?願いを実行する

 定年後の人生をリセットして、まったく新しいことを始めた男性がいます。
 大手の企業を定年退職したMさんです。学校に通って農業の基礎知識を学び、各地の農家に手伝いに行きます。春は田植え、秋は稲刈りなどですが、稲に限らず、りんごや野菜なども手がけているようです。
「経理の腕があるんだから、これまでの知識や経験を生かして…‥」
 つい余計な口を利いてしまったのですが、氏の言葉に反省しましたね。
「在職中からずっと農業をやりたかったんだよ。四十年も狭いビルの中で働いたのだから、これからは広々としたところで太陽や風を浴びて、大地を踏みしめて晩年を生きたい。これは『願いの貯蓄』を、いま精算しているようなものだよ」

 ずっと願ってきた、らいてう流にいえば、烈しく欲求してきたということでしょうか。
 また、こうもいったことがありました。
「余生、余った生だなんて、とんでもない。健康である限り、自分のやりたいと思うことをやって生きる。それが老いる楽しみでもあるよね」

 彼は季節ごとに何軒かの農家と契約しています。定年プラスいくばかの収入もあります。定年後新しい人間関係の中に入って行くには、勇気もいったことでしょうが、それを乗り越える意志もまた強かったのだと思います。
 人生二毛作とは、よくいったものです。

 若い頃は家族や子育てなどの現実の生活に追われます。でもその後に、長い間温めていた願いや夢に、人生経験という利息を加えて、さあ実現とようと立ち上がる季節が来るということです。その息の長い精神性、意志の力もまた、現代の長命化によって
人間が獲得したものではないでしょうか。CMによく出てくる「夢を形に」というフレーズは、中年期にこそよく似合いますね。まさに夢の実現期です。

 とにかく老いていくことには、前述のように辛くて悲しいことが強調されます。しかしながら、「老いる幸せ「「老いる楽しみ」もまたたくさんあるんですね。若い頃からどのような烈しい欲求を持って生きるか、その生き方にこそ、老いの姿は光を放って立ち上がるのだと思います。
「人生後半は、少年・少女期の夢の実現期」
 と言った人もいます。
 願いの貯蓄は、一生を支える北極星の光のようなものですね。
 九十九歳の詩人、柴田トヨさんの『くじけないで』の一部です。
 貯金
「私ね、人からやさしさを貰ったら
 心に貯金しておくの
 さびしくなった時は
 それを引き出して
 元気になる(以下省略)
 人様から受けた優しさを心に貯金しておく、この心の貯金もまたすばらしい財産ですね。願いも優しさも心に蓄えた人には、明るい晩年があるに違いありません。

3発光する頭脳 生活の重みから発想

 五十過ぎてから、発明に熱中する人がいます。
「夜布団に入っても、あれこれアイディアが湧いてきて、眠れなくなってしまうんです。
 こう語るKさんは、取材当時七十三歳でした。五十代の頃、ふとしたきっかけで婦人発明家協会に入りました。試作品をつくってみたところ、それがなんと商品化されて。以来二十年間、すっかり”発明”にとりつかれてしまったのだと言うのです。

「若い頃から、あれこれ工夫してみるのが好きだったんです。だから発明を商品化していただいて以来夢中してしまって」
 思いがけない老後の展開でした。彼女の発明は日常の細々した生活用品が主、商品化された作品は帽子です。

 ツバのところをビニールで透明にし、雨の日に農作業などするとき、顔や頭を濡らさずに視界が開けるようにしました。

 世の中にはコロンブスの卵式に、「そういわれてみれば、そうだなあ」と思うことが多いのですが、これも「そう言われれば便利だ」という類のものです。発明などと聞くと、
「これって”若い頭脳”のなせるものだよね」
 と思う人も多いのかもしれません。しかし、彼女にお会いして、それは違う、発明に年齢はないと思うようになりました。生活の重みから発想した工夫、そこに試作品づくりへの根気、失敗を重ねながら完成品を高めていく集中力や持続力。発明は、いくつになってもできるのですね。もちろん、性別も問いません。何か工夫してみようと思い心、不足しているものに気づく能力。
「気づき」
「集中力」
「持続力」
 こそが、発明の原動力なのでしょうね。誰でも頭から光が遮る瞬間、発光する頭脳があるのでしょうが、それをキャッチできるかどうかが、分かれ道なのかもしれません。私には憧れの世界です…‥。

?加齢によって脳も進化?

 老いて後に、重大な発明や発見をしたり、偉大な芸術作品を遺すことは、一般によく知られていることです。
 前に述べた作家ベティ・フリーダン(著書『女性らしい神話』で日本でも有名)は、晩年の大作『老いの泉・下』(山本博子・寺澤恵美子訳、西村書店。一九九五年)のなかで、あの有名なアインシュタインの事例を紹介しています。

「晩年、かれは相対性原理、重力、磁気その他さまざまな物理反応の集大成をし、独立した理論に統合する仕事を続けていた。しかし当時の物理学者はそれを老化現象からくる気まぐれな空想だとして取り合わなかった。私の息子は理論物理学者だが、アインシュタインの老後の愚行と打ち捨てられた”超ひも論理”を四十年後の現在研究している」

 ここにも発光する頭脳がありました。著者はまた、ゲーテ、レンブラント、ロダン、ティツィアーノ、セザンヌ、モネの晩年の作品を研究したハーバード大学芸術心理学名誉教授、ルドルフ・アーンハイムの研究を紹介しています。昔は、老衰だとか老もう、間が抜けた空想などといわれていたものが、じつは加齢によって脳が新たな進化した結果であり、「目に見えるものを超越し、隠された本質を探り当てる世界観」へ進化するということです。

 なるほどと唸った私。
 認知症の人が「ここに確かに置いてあった一万円がない」というのは、そこに一万円札があったと見ているのだから、「なかったものが、あったと見える新しい能力の獲得」ではないかしら。大変な発見ではないかと、お医者さんにいったのですが、ガハガハと大笑いされて、それで終わりました‥‥。

 それにしても人間の可能性というのは、計り知れないものだと思いますね。
 これまで述べたように、高齢者は社会の荷厄介でも、税食い虫でもありません。
 もちろんこれも個人差のあることだと思いますが、多くの人は自分の可能性を求めて日々活動しています。遠からぬ未来に「死」があり、人生の残り時間は多くはありません。

 それを思えば思うほど「この世に遺していくこと」に対して、真剣になります。老いることの欠点ばかり探し、愚痴っぽい話を周囲に振りまいているヒマはありません。

 人生最後まで、自分の可能性を追う存在でありたいと思いませんか?その自己努力はなんと輝かしいものでしょう。
「夕日がなぜ美しいか知っているかい?」
「それは、お日様がこの世からさようならするからだよ」
 発光する頭脳もまた、夕日のように美しくこの世からさようならするための、人間が通過する巨大な能力かもしれません。

4「尊厳生」を求めて プライドを支えて

 しかし悩ましいのは健康を害して、自分の可能性を放棄せざるを得ない場合もあることです。
 生涯現役とよくいいますが、それはまことに僥倖(ぎょうこう)を得た人の話であり、現実には、すべてを断念せざるを得ない苦しみに、打ちひしかれる場合だってあるのです。そのこともまた、頭の隅に入れておくことが大切です。晩年には、本人の努力や知恵などを超えて、思わぬ不運に見舞われることも少なくない。運命として受け入れるにはあまりにも理不尽であり、その苦悩は想像するに余りあるものであるにせよ…‥。

 二十年ほど前です。私淑していた国文学の先生が脳卒中で倒れました。日々非常に忙しく、その時も雑誌社から頼まれた懸賞小説の原稿を読んでいて、異変が起こったそうです。真夜中のことでした。奥様はいつもの夜更かしだと思っていて、書斎の出来事に気が付かなかったそうです。朝になって倒れている先生を発見し、その遅れが悔やまれると、涙ながらに話してくれました。

 一命はとりとめましたが、左半身に麻痺が残りました。左麻痺であったことは、”不幸中の幸い”という言い方もありますが、先生の思いはまったく違いました。まだ七十歳前後であった先生には、すべてが”不幸”であり、絶対に”幸い”など、あり得ませんでした。

 一夜にして変わってしまった肉体。日々の生活。途中になったままの研究、そして仕事。先生の気性からすれば、とうてい受け入れる者ではありませんでした。
 先生からいただいた、葉書の一部です。
「人格のすべてを投げ捨てねばならない日々です。ただ、生きているだけのこの身体…‥」
 …‥人格のすべてを投げ捨てねばならない日々…‥。
 絶望の言葉でした。怒りの言葉でした。そこには、どんな嘆きが、辛さが、悔しさが込められていたでしょうか。

 先生にはすべてが許しがたく、納得いかなかったのです。いかなる慰めも励ましも、心に届くものではありませんでした。ましてや「左麻痺は、不幸中の幸い」なんていう人の顔なんて、見たくもありませんでした。
 よくいわれる言葉があります。
「病を受け入れて、病とともに生きる…‥」
 いうは簡単ですが、それがどんなに辛くて険しいことか、歯軋りする思いでしょう。

 病気で半身麻痺になった時、「半年でプライドを捨てるように」と、医療関係者からいわれた男性もいます。病人には、プライドは要らないと。そんなものは余計だ、あなたのためにならないと。

 なんと浅い人間理解でしょうか。人はどんなにささやかなものであっても、プライドを支えて生きています。

 この男性は、介護をしてくれている妻へ酷い暴力を振るいました。それも剥ぎとられたプライドの痛みが、させていのかもしれません。
 かの先生の入院は長引きました。やがていかなる方のお見舞いも、拒否するようになりました。私も断られました。
「お客様がお帰りになった後、非常に荒れるんです。主人はもう、誰にも会いたくないといっています」
 
愛弟子であった方のお見舞いすら受け入れないと、奥様は新しい涙の中で語ってくれました。
 倒れてから数年ほどした頃でしょうか、先生の訃報が届きました。折に触れては思い出します。

?「尊厳生」の思想

 数年前、脳卒中や事故などの患者さんの回復期リハビリテーション病棟を、見学させていただく機会がありました。

 ヨーロッパの街並みを思わせる広々とした廊下、高い吹き抜けの天井、おしゃれな売店やレストラン、市民が写真展を開くなど、地域密着型の病院です。
 庭には何通りもの”道路”がつくられていて、車椅子の人がゆっくりと訓練を受けています。

 理事長の齋藤正身先生によれば、リハビリの最終目標とは、
「自宅に戻り、自分の生活をすること」
 ということです。
 肉体的な訓練はもちろんのこと、生活上の訓練も行われています。スタッフはその人の自宅に行って、台所やトイレ、浴室などの位地状況を調べ、それに合わせた訓練をします。

 明るくおしゃれで、軽やかな風の吹き渡る生活空間、厳しくも親身なスタッフたち、考え抜かれたリハビリ計画、これらのものが患者に回復への希望を与え、努力の土壌となると思います。

 こうした支えがあればこそ、新たな闘志も湧いてくるんです。
 医療は確かに病気を治してくれます。しかしながら、大正期の作家・素木(しらき)しづが、小説『松葉杖をつく女』(一九一二年・新小説発表)の中で書いているように。”肉体的に健康な障がい者”の心と行動を支えるための医学は、長い間ありませんでした。ごく最近になって始まったまのです。
「人格のすべてを投げ捨てて‥‥」
 国文学の先生が入院した病院は、当時では最高水準のものだったと思います。でも、患者の「生の尊厳」には、遠いものだったのではないでしょうか。
 本人の意志や努力ももちろん大事ですが、闘病を支える”環境”は、さらに大事だと思います。それが結局は、患者の人格や人生を尊重する、ということになるのではないでしょうか。

 もし先生が現代に生きていて、このリハビリテーション病院にきていれば、きっとものすごい努力を発揮して、回復の道を歩んだのではないかと思われてなりません。

 最近では、「尊厳死」に対応して、「尊厳生」といわれるようになりました。「尊厳ある死」の前に、「尊厳ある生」が絶対に必要なのです!

?社会への遺言

  尊厳ある生のために、心も体も丸ごと受け入れて、復帰に向けて支援する、そういう制度やスタッフたちは、どれほど患者を助けるでしょう。
 リハビリには、回復リハビリとともに、維持期(生活期)、慢性期患者へのリハビリとがあります。

 ところが、二〇〇六年四月から脳卒中患者のリハビリは一八十日までに制限され、後者の維持期、慢性期の患者の機能が、急激に悪化する事態が起こりました。リハビリ難民の発生です。理由は「効果のはっきりしないリハビリが漫然と行われている」と、厚生労働省が結論づけたからでした。

 この非情さ、理不尽さを鋭く指摘したのは、当事者であった多田富雄先生です(『落葉隻語 ことばのかたみ』青士社・二〇一〇年)。先生は、医学者であり、能楽作家でした。

「突然、担当の医師から『診療報酬の改訂で、発症後一八〇日を上限として実施できなくなった』と宣告されました。リハビリの制限は、障害者にとって、『回復するな』ということと同じです。目の前が真っ暗になりました」
 その後先生は、「介護保険施設を利用するように」といわれたのですが、そこでのリハビリは納得のいかないものだったようです。
 必要としている人に、必要な医療サービスが届けられていない!
 いまだに、かの国文学の先生のように、「人格のすべて投げ捨てよ」という医療しか受けられないのか、老いて尊厳を全うすることはなんと厳しいことなのか、私たちはそんな国に生き、老いを迎えようとしているのか、暗澹たる思いにかられました。
「変えなければならない」

 多田先生の署名活動をはじめとする、さまざまな警告は、日本という社会への遺言でした。そしてこれは変わったのでした。
 どんな身体的状況であれ、人は大晩年を生きて、さらに生きて、生きて、人生を全うしたいと思うものです。「尊厳生」の思想と実践は、現代の大きな課題です。

5人生への再挑戦 高校生になりたい!

 私が中学を卒業したのは、昭和二十年代の終わり、まだまだ第二次世界大戦後の混乱と貧しさが、収まっていない頃でした。
 この時の高校進学率はほぼ五割、女の子だけみれば三割もなかったのではないでしょうか。地域差もあることでしょうが、私の故郷の田舎町では、優秀な子が、兄か弟の高校進学のために、こういわれたものです。
「女の子なんだから、進学はあきらめなさい」
 K子さんは、私よりいくばくか若い人ですが、やはり兄の進学のために、洋裁店の縫い子として家を出されました。父親を戦争で亡くした人です。母親は、戦後の貧しさの中で、子ども二人を育てていました。

「でも諦めきれなくてね、親に内緒で受験して、合格発表に自分の名前を見て、諦めがついたのよ」
 今の五十代、六十代にはこういう人が少なくありません。まだまだ、女の子に学歴なんていらない、といわれていた時代です。生意気になるだけだと…‥。経済的にも、男の子が優先が当たり前でした。

 その後彼女は、洋裁店の息子さんと結婚し、子どもを二人生まれて、まずまずの生活でしたが、子どもから手が離れた時、介護職の仕事をしたいと思ったのです。

 運よく特養ホーム(特別養護老人ホーム)に就職して、数年で主任となったのは、彼女の人並み以上の働きぶり、熱心さ、人柄の良さが見込まれたからでした。
 しかし、彼女の前に立ちふさがったのは、学歴でした。
「ある試験を受けようと思ったら、高卒以上となっていたのよ。中卒はダメだった」
 その時彼女は思いました。
「通信教育の高校に入ろう」
 それから血のにじむような努力。主任の仕事と高校生とは両立し難く、途中なんども頓挫しながら、何年もかけて、ついに高卒の免状を手にしたのでした。

「英語なんて、三つ覚えて二つ忘れて。一番つらかったのは、体育だった。五十って年は、もう若い人と同じ運動はできないのね」
 それからの彼女は、介護福祉士の試験に合格し、居宅介護支援専門員(ケアマネジャー)の資格を得、地域で働く仲間のリーダーともなり、定年まで働き続けました。今では、介護福祉士養成校の教師です。努力が報われました。

 彼女もまた「願いの貯蓄」をしていた人でした。高校生になりたい、その一念が支えたんですね。
 晩年、お母さんは涙ながらにいったそうです。
「母さんの一生の後悔は、お前を高校に入れてやらなかったことだよ。あんなに行きたがっていたのに‥‥」
 最期まで介護をし、看取ったのは彼女でした。兄ではなかったのです。
「母のその言葉を聴いて、恨み思っていたものが全部溶けてしまった。わかってくれていたんだなって」
 彼女もまた涙ながらに、語ってくれたのでした。

?学び始め、学び直しの時

 時々大学の講義に頼まれて出かけるんですが、最近では必ずといっていいほど、社会人入学の学生がいます。私も入ろうかなと思うほどです。

 三十代の終わり頃、大学の聴講生として二年ほど通いましたが、中年になってから学ぶというのは、じつに身に染みるというか、血肉になるというか、充実感のあるものでした。

 社会人として十五年働いた後のことなので、講義には一層身が入りましたし、何よりも自分のお金で学ぶのですから、真剣そのものでした。この後、仕事が突然多忙になったことや転居などで、中断したままですが…‥。

 私の場合、欲しいのは学歴ではなく、新しい知識でした。もう一度大学に行きたいというのは、長い「願いの蓄積」なのですが、どうやら最近では「もう、いいか」なんぞと、情けない怠け心が出ています。

 五十代というのは、学び始め、学び直しの年齢のようです。今年もまたたくさんの年賀状が届きましたが、その中に介護福祉士や社会福祉士の資格をとったとか、介護関係の新たな仕事を始めたとかというのが数枚ありました。

 先に書いたように、五十代は若くないけど老いてもいない、人生の中間点に立っています。
「人生五十年」の時代ではないのです。この後がまだ長い。新たな人生の開拓に向上心には、いつも胸を打たれます。さきのK子さんは、日本中にいるんです。

 老いて人の尊厳を守る仕事、それが介護の本質だと思います。一般的には介護施設で働く人が注目されますが、それ以上に大きな仕事をしているのが、訪問看護要員といわれるホームヘルパーさんたちです。

 暑い日、大雨の日、いつも地域の家を回っているホームヘルパーさんたちの姿を思い浮かべます。車で移動する人ばかりではなく、自転車の人、徒歩の人、バスの人、さまざまです。

 焦げつくような暑さの中には、ハンカチを握りしめて歩いているでしょうし、大雨の日などは、ぐしょ濡れになって、「早く行かなくちゃ」と急いでいることでしょう。来るのを待っているお年寄りたちも、「こんな日に来てくれるかしら」と、不安な思いでいるに違いありません。

 ホームヘルプという仕事は、「地域を回って訪問し、時間通りに働く」という点において、他のどんな仕事にもない大変さを抱えており、他に類を見ない職種です。阪神大震災、それに続く二度の中越地震の時も、東日本大震災でも、自分の家の整理は放っておいて、まずお年寄りの家に駆けつけました。東日本の災害では、お年寄りの家に助けに走って、津波にさらわれた人もたくさんいます。地域の人々から感謝の声が上がったのは、記憶に新しいことです。

 ホームヘルパーさんの多くは、時間に遅れると走っている夢や、歩いても、歩いても家にたどり着かない夢を見るそうです。
 ホームヘルパーの平均年齢は、五十三歳といわれています。訪問介護事業所によっては、六十歳というところもあります。中年女性たちの仕事場、学びの場ともなっています。お年寄りたちも、生活歴のある中年以上の人を望むようです。

「働くことは、学ぶこと。働くことはことで力が湧く」
 介護の仕事は、「冷たい頭と、熱い胸」が必要といれていますが、それが一番得られるのは、中年期の働きと学びかもしれません。

 介護に限らず、働く五十代はいろんな職種に渡っています。NOなどの組織、ボンティアなども多種多様です。まさに、二十代、三十代に支えられ、六十代、七十代、それ以上の人生を支えるために頑張っている人が多い。
「出歩く女が世の中を変える」

 なでしこジャパンの活躍を思えば、まさにこの言葉の正しさを実感しますね。
 生きていくということは、若き頃抱いたさまざまなコンプレックスや悩みが解消されていく、ということでもあると思います。老いていく人生途中での努力は、過去の未熟さからも解放してくれるということでもあります。当然、努力の賜物として。

?幸福と不幸を捩(ねじ)り合わせて

 人生とは何か、若い頃の大きな悩みです。ある学生が教授にたずねました。
「先生、人生ってなんですか?」
「それはね、君、生きてみないとわからないよ」
 生きてみないとわからない、まさに名言です。
 若い頃はいろいろな劣等感に苦しみます。しかしながら、生きていくといことは、そう言うことから解放されていくんですね。

 韓国の人が、国にはこういう諺(ことわざ)があると教えてくれました。
「四十歳になったら、美人も不美人も同じ」
「五十歳になったら、学歴があってもなくても同じ」
「六十歳になったら、夫がいてもいなくても同じ」
「七十歳になったら、金があってもなくても同じ」
 みんな共感して大笑い。でもこれは、努力を放棄していいよ、ということではありません。

 女性が抱く、若い頃からのさまざまな劣等感から、解放されようということです。結局、人はみんな同じなのだということです。表面にまとっているものを脱ぎ捨てて、裸の自分に立ち戻ろうということかもあるかもしれません。

 そして、もう一度自分の人生を生き続けて、終わってみないことにはわからない、ということです。五十代、自分の時間を得て大学にいったり、通信教育を受けたり、新たな資格に挑戦したりする人が非常に多いのは、人生の点検時期だからこそです。

 しかしながら人生には、これまで書いてきたように「運」もあります。決して幸福な人生で終わるとは限りません。

 私の祖父は、明治維新の時十八歳でした。二十代で北海道に渡り、明治の初等教育の一端を担った人です。自由民権運動で公立の校長職を追われ、札幌に私立の小学校を建立したのですが、五十三歳の時、改築したばかりの校舎が全焼しました。一夜にして、財産の全てを失ったのです。

 その後彼は、道内各地の小学校の校長を転々とするのですが、網走では仲間とともに寄付を募って、図書館を建立しました。北海道で初めての図書館、百周年を数年前に迎えました。祖父は一度丸裸になり、その失意の中で後世に思いを残したのでした。

 人生は生きてみないと分からないと、実感します。それも、百年経たないと、分からないものかもしれません。

 祖父は男ですから、美人か不美人か悩むことはなかったと思いますが、人生の途中でたくさんの悩みがあったことでしょう。能力があるかないか、この仕事を続けていていいのかどうか、火事の後ではお金や仕事をどうするかなど、たくさんの悩みを抱えて晩年を生きたと思います。その後十年ほどで亡くなったのですが、祖父の人生は幸福だったのか不幸だったのか、時々考えます。

 多くの人は、幸福と不幸を捩じり合わせ、いつもゼロからの出発を繰り返していくようにおもいます。努力が報われないのも人生というものです。だからこそ、生きてみる価値があるのかもしれません。

それを実感するのも、五十代というもののように思います。

 さて、次章からは、人生の先を歩いている六十代、七十代の”ちょい先”(ちょっと先輩)たちの、夫婦や家族の絆について、述べてみましょう。「未来は思うほど悪くない」と再び思うことでしょうから。

つづく 第二章 絆の発見、感謝の時