渡辺淳一 著
初めに
愛について、こうしたら愛されるとか、こうすると彼や彼女の気持ちを惹きつけられるといった、具体的な方法論があるわけじゃない。
いうまでもなく、愛は多彩で千差万別で、人それぞれによって好みも愛し方も違う。それに、たとえひとつの方法が見出されたとしても、それをみんなが一斉に使いだしたら、すべてが同じやり方になり、その方法自体、意味がなくなってしまう。
要するに、愛に決め手はないのだが、といって初めから投げ出し、諦めることもない。
たしかに、愛に絶対という方法はないが、代わりに愛について考え、想像し、学ぶことも大切である。表面のきれいごとだけでなく、男や女や愛について、その本質と実態を知れば、彼や彼女に対してもう少し素直に接し、それなりに理解し合えるのではないか。
そういう観点から、本書は、私のこれまでの著作の中から、とくに参考となり、理解の助けとなると思われる部分だけ抜き出し、まとめてみた。
大きく五つの章に分かれているが、いずれも独立した文章なので、どこら読まれてもかまわない。また各節の最後には、より分かり易くするために、総括的な”まとめ”をつけておいた。
これだけですべての問題に対応できるわけではないが、愛や異性について考えるきっかけというか、ヒントを提供するという意味で、広義の恋愛レシピ(処方箋)といった感じで読んでいただければ、幸いである。
第一章 恋して愛して
この章では、
男女の出会いから恋にはじまり、
互いに愛し合い、
ある場合は結婚まですすみ、
ある場合は不倫の関係に陥り、
さまざまな喜びと哀しみを経て、
ときには別れに至る。
その一連の流れのなかで生じる、
さまざまな問題について考察、描写された文章が集められている。
1 言葉の力
(1) 口説く
とやかくいっても、女性は懸命に一途にかき口説く男に弱い。いや、それは男も同様、口説かれて悪い気はしない。
―源氏に愛された女たち
(2) 小マメな情熱
恋愛というものは自らエネルギッシュに声をかけ、恥を忍んで訴える。そういう小マメさがないとできない。
よく「アイツは小マメだから」という人がいるけど、小マメというのは立派な才能ですからね。自ら傷つくとことを恐れたり、いい格好しいの他力本願の男にはできないでしょう。
―「失楽園」の性に語る
(3) 耳の感触
「好きだ…‥」
聖子はその声を、地を這う風の音のようにきいた。低いが忍びやかに、その声は聖子の体のなかを通りすぎていく。
熱く優しい耳の感触に身をゆだねながら、聖子はいまは、ほとんど抵抗する気力を失っていた。
―夜の出航
(4) プライドを捨てる
たった一言、かたくなな心を解いて素直にいえばよかったのに、それをいえなかったばかりに、人生で大きな損失や悲劇を被ることは多い。
とくに男と女のあいだでは、ときに立場やプライドを捨てて、思いきり女を前面に出して泣きわめくか、とりすがることも必要である。
―源氏に愛された女たち
(5) 表現力
やはり表現力のある人が勝っちゃうんですね。誠実なんていうより、とにかく、女性には、好きなら好きとはっきり言わなければいけない。インテリの男はそれが言えないから、往々にしていい女を取り逃がしてしまう(笑)。
―華麗なる年輪(森茉莉さんとの対談より)
すべての恋は、まず自分の気持を正直に告げることからはじまる。なにもいわずに、相手がわかってくれるはずだと思うのは、自己中心的な怠け者にすぎない。
2 タイミング
なにごとにもタイミングというものがあるように、恋にもタイミングがある。それを失い、時期を失すると、せっかくの熱い思いも醒めて、気がつくとおだやかな友情のようなものに変質してしまう。
―マイセンチメンタルジャーニイ
(7) 後悔
「いまを捨てて、明日にとか、来年には、などと言っているうちに、なにもできなくなるかもしれない。そんなことで後悔するのは、いやだわ」
―失楽園
(8) 一気呵成
男は一度、口説くと決めたら、あとは一気呵成(いっきかせい)にすすまなければならない。途中で休んだり逡巡(しゅんじゅん)しては、それまでの台詞がしらけて、気の抜けたビールのようになってしまう。
―源氏に愛された女たち
(9) その瞬間
「いまだ‥‥‥」
小さな声が伊織のなかで囁く。愛は深さもさることながら、タイミングもまた重要である。「あのとき、こういってくれたら」「こうしてくれたら」という悔いは、男女の間に無数にある。そのときなら受け入れられたものが、いまは受け入れられない。逆に、いまなら受け入れられるものが、そのときは受け入れられない。ほんのわずかなタイミングの違いで、消えていった愛は限りなくある。
―ひとひらの雪
(10)注射の時期
男女のあいだもタイミングが重要である。
相手が昇り坂のときは効果がなくても、少し元気がなくしょげているときには、些細な一言が抜群の効果を表すこともある。
大変な美人があんな男と意外な結ばれ方をするのも、風邪の治りどきにタイミングよく注射をしたのと同じ理屈である。
逆に注射どきを間違えると、釣りかかった魚を逃がしてしまう。
―風のように・嘘さまざま
(11)二度と誘わない
断り方にもよるが、誘って応じてもらえなかった場合、男はどうするか。
情けないことに最近の若い男たちは再び求めることなく、それだけで諦めたことが多いようです。もちろん彼女に強い未練があり、なんとしても手に入れたいという強い執着がある場合は、再び挑むこともあるでしょう。
しかし多くの場合、男たちはそれまでの精神的かけひきで疲れているうえ、拒否されたことでプライドを傷つけられ、それ以上深く自分を傷つけたくないために、あきらめようとします。いささか残念なことですが、多少、男を弁護すると、いったん拒否された女性を再度誘うのは、男が真面目なら真面目なほど、かなり勇気とエネルギーのいることなのです。
―男というもの
(12)ボタンのかけ違い
数ある愛のなかには、ボタンのかけ違いのまま終わる愛もある。
相手がひたすら愛してくれているときは、その愛に気づかず、その人が去るときに、初めてその愛の大きさに気が付く。もう少し早く気がつけばよかったのに、時期を失してからでは、すべてが手遅れになる。
―シネマティク恋愛論
男と女はタイミングである。行くと決めたら行くべきで、それに失敗しても、行かずに悔いるより傷は浅い。
3 恋の効用
(13)恋をすると
恋愛をすると女性はきれいになると言うが、たしかにこれは事実である。恋している女性の肌はみずみずしく艶がある。性を堪能している女の表情は和み、肌は濡れているように見える。
―解剖学的女性論
(14)内側からの化粧品
女性の多くは、美しくなるために化粧品をつかうが、恋愛は体の内側から塗る化粧水だと思っていい。この作用機序は、まず愛されているという自信が精神的な高ぶりとなり、それが刺戟となって血の巡りがよくなる。さらに満たされた肉体関係によって女性ホルモンが活発に分泌するようになり、それによって全身が女らしく艶めいてくる。それに反して愛されていないか、愛に満たされていない人は、外見がいくらきれいでも、どこかギスギスして乾いた感じとなる。この辺りが恋愛のさらなる効用で、高い何万円の化粧品を買うより、はるかに効用がある。
―反常識講座
(15)緊張することが
遠野との恋は緊張の連続であった。妻子ある人と世間的には許されぬ、いわゆる不倫の恋をしている。その思いが、常に他人に後ろ指をさされまいという気構えになり、必要以上に突っ張ることになる。
もっとも、その緊張感は悪いほうに働くとは限らず、むしろそのおかげで強く、美しくなれた部分も無数にある。
修子が年齢より若く、美しい容姿を保っていられるのも、仕事をてきぱきとこなせるのも、緊張があってのことである。家庭という安住の場に入ったら、これほどの勁(つよ)さは保てなかったかもしれない。緊張こそ、女を美しくさせる原点である。
―メトレス 愛人
(16)生き甲斐
「あなたを苦しめる気はないのだが…‥」
「うち、苦しんでなんていいしまへん」
「しかし、昨夜も、辛かったといった」
「そりゃつろうおす、けど、それがうちの生き甲斐どす」
―化粧
(17)死と生
「あなたを好きになって、恋して愛したから、とっても美しく綺麗になれたし、毎日毎日、生きている意味がわかったし、むろん、いっぱい苦しいことあったけど、その何十倍も嬉しいことがあって、死ぬほど愛したおかげで、全身が敏感になって、何を見ても感動できたし、いろいろなものに、みんな命があるのもわかったし…‥」
「でも、われわれは死ぬ……」
「そう、こんなにいっぱい、全身に入れきれないほど、素晴らしい思い出が詰まったから、もういいわ。もう思い残すことはなにもない。そうでしょう」
まさしく凛子のいうとおり。久木も精一杯恋して愛して、いま、思い残すことはなにもない。
「生きていてよかった」
―失楽園
(18)自分でもわかる
恋をすれば、今までにない自分を発見し、生み出せるとともに、自分がどういう者であるかということも知ることができる。俺は思っていた以上に身勝手で、自己中心的だったんだとか、優柔不断だとか、かなりの好色だとか、それまで気づかなかったことがわかってくる。同時に、自分は意外に優しいとか、献身的だとか、我慢強いとか、好ましいところにも気がついてくる。このように自分を知るとともに相手への理解も深まり、その結果人間への関心も高まり、人間というものが好きになる。
―反常識講座
恋すると、女は美しく、男は生き生きとしてくる。まさしく、恋はその人を内側から輝かせ、引き立たせる最良の化粧品である。
4燃えあがる愛
(19)愛は非論理
愛しあっている二人にとっては、朝歯を磨くとき、歯ブラシ一本で足りる。
大好きな彼がつかった歯ブラシだし思えば、たとえいま、彼が使ったばかりの歯ブラシでも、そのままつかってなんの違和感もない。それどころか、同じ歯ブラシを使っていることに、むしろ幸せを感じる。
だがこれがもし、大嫌いな男が使った歯ブラシだったとしたら。見ただけで不潔なバイキンの巣窟のように見える。
これこそまさしく、理屈で説明できない、非論理そのものではないか。
―紳士淑女諸君
(20)紳士と野獣
これまで男たちは、近づくまでが獣で、一度関係ができると途端に紳士というか、怠けだすことが多かった。しかしそれより、親しくなるまではひたすら紳士的に振る舞い、思いを溜め込んで、一旦親しくなったらたちまち獣になり、いつまでも愛する女を求め続ける。これが恋愛が深まるときの理想的なパターンである。
―反常識講座
(21)快楽と花園
あらゆる後悔や反省を振り切っても、なおいま目の前に迫っている愛に燃えたい。
当然のことながら、ここから先は論理ではない、理屈でも知性でもなく。?(からだ)の奥底に潜む本能そのものが目覚めて暴れ出す。
ここまで火のついた女性に、倫理や常識などを説いても無駄である。
すべてを承知で、なお墜ちていく女性には、理屈を説く人には感じることのできない、圧倒的な快楽の花園が見えている。あの人達にはわからない、めくるめくほどの悦論をわたしは知っている。そう思ったときから、その女は一種の開き直りとともに、新たに選ばれた、性のエリートとしてのプライドさえもちはじめる。
―失楽園
(22)豊穣
女性も四十半ばになると、これほどの奔放さと、豊穣(ほうじょう)さを身につけるものか。
果てたあとの頭で滝野は漠然と考えながら、横にいる梓を見ると、髪の毛を乱したまま、静かに目を閉じている。
その姿は、情事に疲れ果てて眠りの世界にさ迷うというより、いまは全身に沁み込んだ快楽を、なおゆっくり反芻(はんすう)しているようである。
滝野はその、いまは動きを止めた女体に近づき、そっと囁いてみる。
「凄かった‥‥」
―かりそめ
(23)恋という大事業
いま、凛子との恋は、まさしく久木にとって、最大にして唯一の生き甲斐である。女ごときに熱情を傾けて、という人もいるかもしれないが、仕事も恋も、人間の一生にとってはともに大きく、生涯をかけるに価いする。そしていま、自分はひとりの女性を恋して独占するという大事業に、全精力を傾けて生きている。そう思うと、自然に身内から熱い思いが湧いてきて、自ずと凛子の待つ部屋に心が駆けて行く。
―失楽園
(24)凄まじい愛
愛することに「凄まじ」という形容詞は不自然かもしれないが、この数年、二人は凄まじく愛してきたような気がする。
はたでは俗に、浮気とか不倫という、手垢のついた言葉で一緒くたにされそうだが、二人のあいだにはそれを越えて、凄まじいとでもいうよりない、厳しさがあった。
それは周囲の人々には、到底わかりようがない。愛し合ってきた当事者だけが身に沁みてわかる。凄まじさでもある。
―かりそめ
(25)見果てぬ夢
結局、絶対愛というのは一瞬の幻影のようなものであって、歳月に抗して存在することはきわめて難しいものです。
しかしそうと知りつつ、人々はときに絶対愛に憧れ、見果てぬ夢を抱くものです。
実際にともに死ねる死ねないは別として、この人のためなら死んでもいいとまで思えるほど人を好きになることは、それはそれで素晴らしいことです。命が燃え尽きるほど人を愛する充実感は、他のことでは代えることのできない悦(よろこ)びであり、ある意味ではこれほど強烈な体験は人生のなかでそうそうあるものではありません。
たとえ時とともに移ろうものであっても、ある瞬間、命を燃やすことができた人と、できなかった人では、どちらが人間として幸せで、どちらの人生が彩り豊かであるか、これは改めて問い返すまでもなく明白なことでしょう。
―男というもの
ともに燃え上がったとき、二人は愛の絶対を信じ、このままともに果ててもいいと思う。こんな熱い二人に、ありきたりな常識や道徳を説くのは、獣に道を説くのに似て無意味である。
5愛とエゴ
(26)嫌悪と愛着
知っています、
あなたが私を憎んでいることを、
わかっています、
あなたが私を嫌っていることを、
でも、憎しみの中には優しさが、
嫌悪のなかには愛着が隠れている、
あなたなら気がつくはずです、
嫌悪や憎しみは、ないよりはあるほうがはるかに素敵だ ということを、 純子
―影絵
(27)起爆力
しかし、恋というのはすべて純粋で美しいものばかりではない。ある種の嫉妬や憎しみが、エネルギーとなってかえって燃え上がり、それが意外な結果を引き出すこともある。美しいものより、生ま生ましくどろどろしたもののほうが、恋の起爆力になりうるらしい。
―ひとひらの雪
(28)円満な愛
愛は常に、一方で加害者をつくりあげ、一方で被害者を生み出す。両方に円満になどということは、そうそうあるものではない。
―ふたりの余白
(29)我儘
「そう、我儘(わがまま)です。それは充分承知しています。しかし、人を好きになったり、嫌いになるということは、もともと我儘な行為でしょう」
―ひとひらの雪
(30)喧嘩するほど
「違うわ、喧嘩をするほどあなた方は愛し合っているのよ。本当に愛していないのなら喧嘩なかしないし、口もきかないでしょう」
―冬の花火
(31)好きだから
「わたしは、あなたを憎んでいるのよ」
「でも、前に好きだといってくれた」
「そう、好きだから、憎んでいるのよ」
―失楽園
(32)装う心
いかに妬(ねた)み、憎んでも、胸のなかにはなお熱い恋の思いが息づいている。それが現実の悲しみを生み出す原因と知りつつも、なお捨てきれない、心の底ではどんなに恐ろしい復讐の思いを抱いていても、もしかしてそろそろあの人が帰ってくるかもしれないと思うと、自然に美しく装うとする女心が動き出す。それが口惜しいと思いながら、できることなら、度重なる嫉妬で顔もやつれ、いくらかほっそりと美しくなった私に、優しい言葉の一つでもかけて欲しいと願う。
―君も雛罌栗(コクリコ)われも雛罌栗
(33)資格
さまざまな世間のしがらみを捨て、二人だけの未来に突き進むためには、いま以上に恋に一途になり、家族や良識を切り捨てる冷酷さが必要になる。
中年の恋を結実させるためには、常にこうした非情さと圧倒的なエネルギーが必要で、それを欠く人は、もともと恋に求める資格はないというべきかもしれない。
―シネマティク恋愛論
(34)エゴイスト
「愛して愛して、愛していくと、その先は破壊しかないのね」
凛子はいま初めて、愛という心地よい言葉が、その実、きわめてエゴイスティックで、破壊や破滅といった。強烈な毒を秘めていることを知ったようである。
―失楽園
愛が深まるにつれて、エゴ(自我)も深まっていく。圧倒的な愛を成し遂げるためには、エゴイストという名の才能が必要である。
6 移ろう愛
(35)忍び込む病い
「男と女は、一緒になったときから、怠惰(たいだ)という病いが忍び込む」
―失楽園
(36)惰性
これまでは月に数回逢うだけで、それ故に彼の我儘を感じても一時のことだと思い、その時が過ぎれば忘れられるが、いつも側にいるとなると、そうはいかなくなるかもしれない。
たまにしか逢えぬから成り立っていた優しさや愛おしさも、日常という惰性のなかに入るといつか色褪せ、汚れていくかもしれない。
―メトレス 愛人
(37)美徳の裏
真面目で誠実で、人が良すぎるところが、別れの理由にならないとは限らない。
たしかに外から見た場合、それらは美徳のように見える。
だが現実に身近にいる者には、真面目さの裏の退屈さに、誠実さの裏の融通のなさに、人の好さの裏の迫力のなさに苛立ち、それらが重なり合って嫌悪に変わらないとは言い切れない。
離れて見るときと、身近で見るときとで、評価が変わるのは、よくあることである。
―ふたりの余白
(38)去っていく恋
去るものは日々に疎(うと)し、という言葉通り、身近にいないものは確実に薄れ、消えていく。
口惜しいけれど、それはすべての恋にあてはまる事実かもしれない。
−マイセンチンメンタルジャーニイ
(39)匕首
「わたしも、いずれ、あなたに飽きられるかもしれない」
「そんなことはない、絶対にないよ」
「あるわ、たとえ、あなたがわたしに飽きなくても、私があなたに飽きるかもしれないし‥‥」
一瞬、久木は喉元に匕首(あいくち)を突き付けられたような気持ちになる。
―失楽園
(40)頂の向こう
頂上に上りつめるは、ある程度エネルギーさえあれば出来るが、そのまま、そこで止まっているのは、エネルギーだけでは保てない。
そこから先は、登るエネルギーに勝る、忍耐や優しさが必要になる。
―ふたりの余白
(41)とけていく愛
氷柱(つらら)が少しずつ溶けていく。そこだけを見続けているとわからないが、しばらく忘れてまた見直すと、小さくなっているのが分かる。一つの愛も、そのように一日一日ではわからないが、長い目で見れば萎えていっているのかもしれない。
―野わけ
(42)不可侵領域
たとえ愛していても、二人のあいだに、侵すべからざるものを一つくらいおいておきたい。男女のあいだにはほどよい障壁があったほうが、新鮮で爽やかな関係を持続することができる。
―メトレス 愛人
強いと思われた愛も離れすぎると薄れるように、二人が近づきすぎても、愛は徐々に萎えていく。
7 結婚の実態
(43)終身保険
いってみると、結婚はまさかのときのための保険みたいなものだから、性格の弱い人や体の弱い人は、なるたけ入ったおいたほうが無難である。もっとも気持ちが萎えたとき一人で生きていけるし、そのほうが気楽だという人は、無理に保険に入るまでもない。
結婚という保険は契約料は高いし、解約も難しいものだから。
―風のように・母のたより
(44)祝辞
「あなたたちは今日、晴れて結婚したのだから、これから先、もはや燃えたぎる愛が生まれることはありません。その意味で本日は、燃えたぎる愛への決別の記念日でもあります」
こんなことを言ったら、新婚のカップルは目を剥き出し、その親戚縁者は怒りに顔を紅潮させるかもしれない。
しかしこれが事実であることは、披露宴に出席している人々のほとんどは、実感として知っている。
―風のように・別れた理由
(45)恐ろしい契約
愛するのは夫か妻、すなわち配偶者だけという結婚の取り決めは、一見すばらしい契約のように見えて、その実、極めて恐ろしい契約でもある。なぜなら、結婚したときから永遠に自らの夫か妻しか愛してはいけないし、セックスも結婚相手としかしてはいけない。
万一それを破ったら、社会的に厳しい糾弾を浴びるという内容だから、真面目に考えたらこんな契約は恐ろしくて、容易に結べるものではない。
―反常識講座
(46)心変わり
「たしかに、二十代でいいと思った音楽や映画や小説が、三十代、四十代になるとつまらなくなったり、嫌いになるということはある。まして二十代でいいと思って結婚した相手が、年齢とともに愛せなくなり嫌いになるということは充分ありうる」
「音楽や小説なら、若いときにいったものをつまらなくなったといっても、誰からも文句は言われない。むしろ進歩した、なんていわれるのに、人を嫌いになったときだけは、どうして世間から厳しく裁かれるの」
―失楽園
(47)ハッピーエンド
もし本当に結婚がハッピーエンドというなら、現実に無数にいる既婚者たちは幸せなはずで、もっとももっと明るい顔をしていなければならない。
だが既婚者のなかには結構暗い表情の人もいるし、いささか疲れ気味の人もいる。それらを見れば、結婚が単なるハッピーエンドでなく。むしろ結婚してから大変なのだと気づくはずである。
―マイセンチメンタルジャーニイ
(48)老夫婦
よく、老夫婦がしみじみと縁側で日向ぼっこしながら、「ほんとにオマエと一緒でよかった」といっている姿を、「素晴らしい」なんていう人がいるけれど、僕は嫌だね。それはお互いにモテなくなって、気がついたら、老いた自分と老妻しかいなかった、というだけでしょう。
―12の素顔(岸恵子さんとの対談より)
(49)善良の証し
結婚して窶(やつ)れた夫も、世帯疲れした妻も、すべて善良なる人間の証である。
―風のように・忘れてばかり
(50)存在証明
子供を産んでこの世に残す。これが平凡な一組の男女の最も確かな存在証明といってもいいでしょう。
したがって結婚とは、この存在証明を受け取るための最も安全なシステムというわけです。
―講演録より
(51)穏やかな関係
結婚という形態に、生活の安定、子供を挟んで和やかな生活、そしてめくるめく性愛といった具合に、すべてを求めるのは、かなり無理な要求かもしれません。(中略)
しかし激しい性愛は無理だとしても、夫婦のあいだには、勃起を求めない関係もあっていいのではないかと思います。寄り添って休むとか、手を握るなど、必ずしもセックスしなくても、そうしたスキンシップを重ねることで夫婦の関係を円満にし、妻たちの心を和やかにすることができるのではないか。
―男というもの
(52)些細な幸せ
高伸はいまになって、幸せというものがごく普通の、些細なことだと気づいた。
それはたとえば、同じ部屋にいて妻の寝息を聞くとか、ふと腕に触れたとき、妻の温もりを感じると言った程度のことである。健康で仕事に熱中しているときは、いずれもとるに足らぬ、つまらないことだと思って忘れていたこともある。
だが今こうして二人でいると、その些細なことが積み重なって、幸せがあることがわかる。
「そうかな‥‥」
深夜、高伸はひとりで頷く。
いままで喜びと悲しみを踏み越えて生きてきたのは、この些細な幸せを確認するためであったかもしれない。
―麻酔
(53)柩の中
柩(ひつぎ)のなかに、子供たちは生前、夫が愛用していた筆や硯箱、さらには煙草などを入れてやっている。それを見ながら、昌子はひそかに思う。
入れたところで、この私を柩に納めない限り、あの人が満足すわけがないでしょう。
―君も雛罌栗(コクリコ)われも雛罌栗
結婚することがハッピーエンドなのではない。結婚して夫婦ともに過ごすうちに。二人は確実に老い、やがて死にいたる。
その最後のとき、私は幸せだと思えたら、その結婚は初めてハッピーエンドであったと胸を張っていうことができる
8 不倫の内側
(54)強い禁忌
一般に、恋愛感情は周囲の条件が悪いほど燃え上がる。不倫はもとより。親が反対するとか、周りが非難するとか、禁忌(タブー)が強いほど、互いに惹かれ合う。
―源氏に愛された女たち
(55)社内不倫
同じ部署にいる上司とOLは、同じ部屋にいる独身の男女より、親しみやすいといってもいいかもしれません。なぜなら独身男女の場合、付き合うことがすぐ結婚という問題につながりがちで、男も女もつい慎重にならざるを得ないからです。
しかし男が妻帯者である場合は、そこまで責任を取れないことはあらかじめわかっているわけで、だからこそ気軽に近づけるという利点もあるわけです。
―男というもの
(56)紹介されない女
「やっぱり、奥さんでなければ駄目ね」
「そんなことはないよ。たとえ妻になっても、愛されていなければ無意味だろう」
「いくら愛されていても、貴方のお友達に紹介もされない女のほうが。もっと惨めよ」
―愛のごとく
(57)不倫の行方
一部の男を除いて、一般の妻子ある男たちはどこかで、独身女性との関係はいつかあきらめざるを得ない、という予感を抱いているものです。
それは妻と離婚するだけの勇気とスタミナに欠けていることを自覚するとともに、不倫を重ねることへの精神的肉体的な疲れなどが重なり合って生じるものです。むろん女性からの不満や非難がくわわれば、この別れはいっそ早く訪れます。いいかえると、それほど婚外の、いわゆる不倫の恋は日本の社会では負担が大きく、疲れることでもあるのです。
―男というもの
(58)傍観者
妻と彼女と、二人の間に立っている風野には、両方の気持ちがわかる。冷静に考えてみると、両者のいうことはそれなりに、もっともなところもある。
だがときどき、風野は三角関係の頂点にいながら、自分だけ外側へ、ふわりと浮き出ているような錯覚にとらわれることがある。二人の女のすさまじい対立に驚き、呆れ、気がつくとぼんやり傍観者になっている。
―愛のごとく
(59)愛の抹殺
現代の日本では、離婚はバツイチといわれ、悪とまではいかなくても、かなりのマイナスイメージでとらえられている。そのうえで、不倫はさらに厳しく糾弾され、発覚すると地位から職業まで失うこともある。
離婚はよくない、まして不倫は絶対許せないというのは、既婚者たちはどうすればいいのか。一度結婚したら、もはや永遠に心変わりは許さないと言うのでは、個人の愛の自由の抹殺になりかねません。
これを防ぐには、せめてアメリカのように離婚を罪悪視せず、もっとオープンに、前向きに認めていくような環境づくりが必要でしょう。
―講演録より
(60)永遠の心理
ぼくも「失楽園」を書いたときには、不倫とかを超えて、圧倒的に好きな人を追うのがなぜ悪い? という自分なりのモラルがあった。もう愛が冷めているのに、なお夫婦関係を続けていくより、不倫でも、より愛している人を追うことがどうしていけないのか。好きな人を追うのは永遠の真実なのに、それを不倫というのは、二十世紀にたまたま幅を利かせている倫理に逆らっているだけで、二十一、二十二世紀になったら消えている倫理かもしれない。それに較べたら、好きな人を追い、圧倒的に愛し合うことは永遠の真理といえなくもない。
―渡辺淳一の世界(高樹のぶ子さんとの対談より)
恋の焔はまわりの条件が悪ければ悪いほど燃え上がる。
まさしく不倫はこの条件に適った煌めく焔だが、それを保つには圧倒的なエネルギーと、もっとも愛する人を愛して何が悪いという、反社会的な開き直りが必要である。
9 別れと再生
(61)過去のベール
本当に愛し合った末の別れなら、どんなに傷つけ、罵り合ってもいい。とことん傷つき、そこからもう一度這い上がればいい。
別れるとき、美しいか醜いか、スタイルなど考える必要はない。
いま無理して別れを繕わなくても、やがて歳月が過去のベールをとおして、美しく甘い別れに変えてくれる。
―ふたりの余白
(62)阿修羅
愛を育むのも大変だが、それ以上に別れは大変である。
愛が順調であったころは、女神のようであった女が、別れ話が生じたとたん、髪を振り乱し阿修羅(あしゅら)となり、狂女となって襲いかかってくる。当の女性自身も、自分がそんな怖い女になっていることも知らず、ついつい悪役を演じてしまう。
一人の人間の中には、理屈通りには操れない。怪しい部分が無数に潜んでいて、それが愛憎の場面ではとくに顕著に表れ、錯綜(さくそう)して、話はますますこじれていく。
ここにいたればもはや、優しさや思いやりなどという生易しいもので、人間を卸すことはできない。
―風のように(「週刊現代」)
(63)争いのたね
猫を飼えばその猫がまた争いの種となるむかなしきわが家 啄木
いまの風野と衿子の関係はそれに近い。タオル一つ、茶碗一つが、それぞれ争いのたねになる。他人がきくと他愛のない、些細なものが、二人のあいだでは、憎しみ、罵り合うきっかけとなる。しかも、なにがいつ争いの原因になるか、当の二人にさえ予測がつかないのだ。
―愛のごとく
(64)残る愛
男女の関係は、結果論だけでは言い尽くせないものがある。たとえば恋して、その人とうまく結ばれたか否かだけが問題ではない。女性の多くは、結婚に至らない愛は無駄と考えがちだが、果たしてそうだろうか。
別れても深く記憶に残り、あるいはわかれたが故に一層蘇る愛もある。
―告白的女性論(「全集月報」)
(65)ひとひらの愛
手を出せば、掌(てのひら)にとどまるほどの大きな雪であっが、握った瞬間、たちどころに消え失せる。
霞との愛も、笙子との愛も、妻との愛も、振り返ればひとひらの雪ほどのたしかさもなかった。
だが、伊織はあきらめはしない。いまは少しへこたれているが、また気持ちを取り直したら、ひとひらの雪と知りながら、また新しい愛を求めていくに違いない。
―ひとひらの雪
(66)英知
傷ついても立ち直る英知があれば、傷はむしろ人生の宝になります。そして時が経てば、別れは必ずその人の人生の彩りとなり、芳醇(ほうじゅん)な香りを生み出すはずです。
逢うが別れの始まりだとしたら、別れは新しい自分と出会うスタートとして、より積極的に、明るく前向きにとらえていきたいものです。
―男というもの
愛はいつか終りが訪れるが、といって悲しむことはない。たとえいっときでも愛したいという事実は、その人をより豊かにするし、そこから立ち直る勇気もわいてくる。
つづく 第U章 女という性