
亀山早苗著
★家庭での居場所がなくなって
男にとって「家庭」とは何だろう。多くの男たちが結婚して十年もたてば、家庭に関心がないような顔をしたが。そのほとんどは照れだと思う。実際に子どもついて、彼らは真剣に向き合っているし、考えてもいる。だが、妻とはきちんと関係を育んでいるかどうかは定かではない。その報いが、中年にやってくるかもしれない。
井田則章さん(四十九歳)は、ここ数年、家庭に居場所がないと感じていた。妻に暴力を振るわれたこともある。何が妻を苛立たせているかはっきりわからない。そんな中で、彼が知り合ったのは近所の人妻である久美さんだった。
苦しいです、とっても。どうして久美と知り合ってしまったのか、どうして愛し合ってしまったのか。お互い家庭を飛び出せばいいのかもしれない。でも、ふたりはそれはできない。
結婚して二十年になります。妻とは、飲み会で知り合いました。同僚が飲み会に連れてきて、そこで何となくいいなと思って付き合うようになった。二年ほどたって、きちんとした人だから、奥さんになってもらいたいと感じ、そのまま何の問題もなく結婚して。何も考えていなかったのかもしれません。
最初は会社が借り上げているアパートに住んでいました。子どもは二人。今、高校生と中学生、ふたりとも女の子です。子どもたちは宝物ですね。このふたりを責任を持って社会に送り出さなければと思います。まあ、最近はオヤジがけむたいのか、上の子はあまり話してくれないんですが。
妻との仲がおかしくなったのは、十年ほど前からかな。妻の実家を改築して、むこうの両親と二世帯住宅に住むようになったんです。私としては迷うこともあったけど、妻はひとり娘ですしね。かなりの額を出してもらったので、やむにやまれず。
完全に二世帯別です。真ん中に共用スペースがあって、中でつながってはいますが、食事や生活は別。だから気楽かと思っていた。ところが新生活が始まってみると、妻や子どもたちはほとんど両親と一緒に食事をとっている。私の分だけ、ぽつんとテーブル置いてあるんです。食事の時間に間に合えば、たまに共用スペースで一緒に取ることもあるけど、それもまた気が疲れてね。
家では何も考えず、のんびりしたいじゃないですか。妻の父親は、某一流企業の役員まで努めた人ですから、けっこうプライドが高い。私は中小企業勤めなので、あとから聞いたところによると、父親は結婚に反対だったらしい。
最初は私も妻に言いましたよ。
「うちはうちで生活していくという約束だったはずだ。このままでいいのか」
と。妻は「何も問題もない」と言い張る。子どもたちだって祖父母と一緒に居ることで、何か支障があるわけじゃない、むしろ教育にもいいはずだ、と。
祖父母と一緒に居ることを反対するのも、なんだか器の小さい男だと見られそうで、結局、私は説得しきれなかった。それで、だんだん自分の居場所がなくなったんです。
二年くらい前かなあ、義父の誕生日を祝うから早く帰ってきてくれと言われていた日に、仕事でトラブルがありましてね、後始末に追われて会社に泊まる羽目になったんです。妻にはちゃんと連絡したのに、翌日昼過ぎにぼろぼろになって帰宅すると、第一声が、お父さんに謝ってきて」でした。さすがにそれには腹が立った。
「オレがどれほど大変だったかわからないだろう」
「私がどんなに肩身が狭かったかわからないでしょう」
そんなやりとりがしばし続いて、
「いい加減にしてくれよ。オレは疲れているんだよ。寝かせてくれよ」
「とにかく謝ってきて。寝るのはそれからよ」
だけど私は疲れていて、リビングのソファでうとうとしちゃったんですよ。そうしたら、いきなり妻にビンタされた。はっと目を覚ますと、妻が般若みたいな顔で立っている。驚きましたね。何が起こったのかわからなかった。ショックでした。
「起きなさいよ、早く行ってきて」
妻の金切り声に負けて、義父母のところへ行きました。事情を説明して申し訳なかったと一応頭を下げたんです。
「男は仕事が第一だ。則章くんも大変だな」
義父はそうやって理解を示してくれたものの、私が辞そうとすると、
「たかが○○みたいな会社に、それほど自分を捧げる価値があるかね」
と痛烈な嫌味をひと言。思わずむっとしました。義母もにやにや笑っています。この人たちはそんなふうに自分を見ていたのかと、改めて馬鹿にされていることがよくわかりました。妻は、両親と一緒に住むことで、どんどん感化されていったんでしょう。以前はそんなことがなかったのに、二世帯住宅に住むようになってから、私を軽んじるようになりましたから。
とにかく義父に謝って戻ってくると、
「ちゃんと謝ったの?」
と妻。それにしても殴ることはないだろうと抗議しましたよ。
「寝てたから起こしただけよ」
しれっとそう言う。妻がとても怖くなりました。
それから、妻との関係は前にも増してしっくりいかなくなった。表面上はうまくいっていますが、子どものこと以外での会話はほとんどありません。娘たちとは話しますが、上の子は最近、あまり自分のことを話さなくなりました。テレビを見ながらしゃべったりはするんですけどね。そういう年齢なんでしょうか。
下の娘は、中学でバレーボールをやっているんです。この子は本当に明るくて、学校であったことや部活のこと、今、好きな男の子がいることまで喋る。長女が呆れるくらいです。下の娘がいるから、なんとか家庭はもっているのかもしれません。ただ、この子と妻とは今ひとつうまくいっていない。難しいものですね。家族が一致団結しているのは、子どもが小さいときだけかもしれない。
妻のことで、心がくさくさするものだから、このところ仕事一筋でした、幸い、大きくない会社とはいえ、業績は悪くなく、私もそれなりに評価してもらっています。妻にそういう話はしていません。どうせ義父と比べられるだけですから。
★彼女との出会い
一年前だったかな、帰りの電車の中で、私の隣に立っていた女性が、急にふらふらっと倒れ込んできたんです。三十代半ばくらいでしょうか。色の白い人だなと思ったけど、顔色が悪いだけだったかもしれない。ちょうど駅に着いたところだったので、彼女を抱きかかえるようにして途中下車、駅員の通報で救急車を呼んでもらいました。一応、私の名前と携帯番号だけ伝えておいた。
数日後、電話がかかってきました。当の女性からでした。どうしてもお礼を言いたいというので、会社の場所を伝え、よかったらランチでもと言うと喜んでくれました。
翌日、遅めのランチに出て彼女と待ち合わせ。やはり色白の女性でした。和食のお店に案内しました。
彼女は広告関係の仕事をしているということで、あの日は連日の睡眠不足で貧血を起こしたそう。大きな病気でなくてよかった、と心から思いました。
「本当にありがとうございました」
彼女は丁寧にそう言って、菓子折りを出しました。その手の動きがきれいでね、ちょっと見とれてしまった。
初対面なのに話が弾みました。彼女は私の最寄り駅のひとつ先に住んでいるそう。結婚して五年たつものの、まだ子宝に恵まれなくてと言っていました。私より一回り下なんですが、その年齢で「子宝」という人も珍しい。
「私、両親が働いていて祖父母に育てられたので、言葉遣いが古臭いんです。会社でもよく笑われます」
かわいい人だなと思いました。ご主人は学生時代からの友人で、くっついたり別れたりしながら、結局、結婚したとか。
「お互いに仕事が忙しいので、週末くらいしか一緒にいられない。だからいまだに夫婦という感じがしなくて。友だち感覚が強いですね」
こういう生き方もあるんだなあと思いました。私なんか、ある程度の年齢だし、家庭を作って一人前だと思っていたから結婚して、ごく自然に子どもができたけど、そうでない人生もあるんだろうな、と。
本当に楽しいランチでした。はっと気づくと二時間ほど経っていた。
「私は今日、代休を取ったからいいんですけど、井田さんは大丈夫ですか」
彼女は私のそんなふうに気を遣ってくれました。このままどこかへ一緒に行きたいような気分でしたけど、仕事が残っていたので私は会社へ。
「よかったら、また食事でもしませんか」
そう言ったら彼女、ぱっと顔を輝かせて、「うれしい」と。
その日の夕方には、メールが来て、私用メールのアドレスが書いてありました。彼女は私に好意をもったかどうかはわからないけど、話ししていて楽しいオジサンだとは思ってくれたんじゃないかな。そんな気がしました。
一週間ほどたったころ、メールしてみました。
「今週あたり、もしお時間があったら。お昼でも夜でもいいですよ」
「じゃあ、金曜日の夜はいかがですか」
すぐに話が決まりました。話がとんとん拍子に進み過ぎてちょっとびっくりしたけど、食事くらいどうことないと自分に言い聞かせていました。考えたら、社外の女性と仕事でもなく一緒に食事をとる、しかも夜、なんてこと、まずないんですよね。
でも、これはたまたま神様がくれたプレゼントだと思っておこうと決めました。実際は私、すでに彼女に惹かれていたんだと思います。それを認めてはいけないこともわかっていた。
その金曜日がやってきました。朝からそわそわしちゃってね。
「なんかあるの? 今日は」
妻に不審な目で見られてしまった。
「ちょっと大事な取引があるんだ。夕飯はいらないから」
そう言うと、妻はじっと私を見ていました。がんばってね、とひと言くらい言ってくれてもいいのになあと思った記憶があります。妻とはどうも心が寄り添わない。
その日は仕事にも気合いが入りましたね。
そして七時に、予約したイタリアンへ。静かすぎずにぎやかすぎという店を選びました。
私が着くとすぐに彼女もやってきました。ふたりであれやこれや一品料理を頼んだんですが、食の好みがとても似ていた。そういうのってなんだかうれしいですよね、
「好きな食べ物が似てますね」
彼女もそう言ってました。私は関東の生まれ、彼女は北陸生まれ。育った環境も世代も違うのに、なぜか似たところがあった。食べ物だけじゃないんです。好きな映画、好きな本、好きな歌。わかるわかる、と言うことが多くて。
文科系なのかと思ったら、彼女は大学で微生物の研究をしていたそうです。ひとしきり微生物について熱く語ってくれました。面白かった。私は商学部だから、面白くもなんともないけど、ずっとサッカーをやっていたんですよ。そうしたら彼女、実は私もサッカー大好きと言って。観に行くこともあるのかと尋ねたら、「誰も一緒に行ってくれないから」と。じゃあ、今度、Jリーグを観に行こうと盛り上がりました。子どもが小さいときは、よく行ったんですよ、サッカー。娘たちにやってくれればなあと思ったけど、どっちも興味を示してくれなかった。
「旦那さんはサッカー見ないの?」
「うちの夫はスポーツに興味がないんです」
彼女のご主人は、ずっと微生物の研究を続けていて、ある企業の研究室にいるそうです。研究以外に、何か好きなことがほとんどないらしい。年に一度、ふたりで旅に出かけるのが夫の唯一の趣味なのだとか。
「私は映画や芝居も好きなんだけど、夫が行かないから、女友だちと。でも約束して出かけるのが面倒だから、最近はひとりで行っちゃう」
じゃあ、今度はあれに行こうこれに行こう。いろいろ予定も立てました。
★あちこちに?をつくように
そしてとりあえず、翌日の土曜日に映画に行くことになったんです。不思議でしたよ、これほどスムーズにいろいろ進むなんて。
妻には会社に行くと言って、土曜日の昼ごろ家を出ました。本当はポロシャツでも着ていきたいところでしたが、休日出勤と言っているのだからスーツで行くしかなかった。逆に、彼女には「午前中、仕事だったからスーツなんだ」と言い訳して。
何か秘めごとがあると、あちこちで嘘をつかなくてはいけないんだなあと思いました。
でも、その日は楽しかった。休みだから、彼女はきれいなパステルカラーのワンピースを着ていました。化粧もいつもより明るめで。
「いつもきれいだけど、今日は特別にきれい」
思わずそう言ってしまいました。
映画の後、彼女が時々行くという中華料理屋さんに行き、ふたりで紹興酒でけっこう酔ってカラオケへ。
「遅くなって大丈夫なの?」
「夫は今日は研究室に泊まるから」
どう解釈したらいいんだろうと思いながら、カラオケを歌いまくりましたね。彼女が歌った石川さゆりの『能登半島』がよかったですねえ。北陸で生まれだけあって、実感がこもっていた。
カラオケボックスから出るとき、あまりに彼女のことがかわいくなってキスしてしまったんです。最初は軽く唇を合わせただけなんだけど、彼女の方から舌を入れてきて。もうそうなったら止まりません。彼女のワンピースの上から胸に触れました。それでも彼女は身を引かない。胸元から手を入れると、ふっとため息が漏れました。
「ふたりきりになれるところへ行こう」
彼女は頷いたようにみえたので、素早くカラオケボックスを出てタクシーを拾ってラブホテル街へ。
彼女は何も言いませんでした。ホテルの部屋に入っても何も言わない。抱きしめると、急に泣き出しました。
「私、こんなこと初めてで。いけないですね」
途切れ途切れにそう言うんです。なのにキスを求めてきた。
優しく優しくしましたよ。彼女、ほっそりしているにすごく感度がよくて、私は自分を保たせるのに必死でした。
「私、今とっても幸せな気持ち」
終わってから、彼女は私に寄り添って、低い声で呟きました。こんな私にそんなことを言ってくれた女性は、彼女だけです。こみ上げてくるものがあって、なんだか泣きたくなったほど。
もう電車が亡くなっている時間だったので、タクシーで彼女を送り、私は一駅分歩いて帰りました。歩きたかったんです、なんとなく。
歩きながら、いろいろなことを考えました。幸せだったけど複雑な気分でもあった。次はあるのか、この関係は続くのか、彼女は私をどう思っているのか。とりとめもなく、不安と喜びが交錯する。その日から、私の苦しみが始まったんだと思います。
週が明けて月曜日、朝から彼女にメールしました。
「昨日はずっとあなたのことを考えていました」
と。彼女も「私も同じです」と返してくれました。そして彼女から、「また会えますか」と言ってくれた。うれしかった。
家族に疑われないようにしなくてはいけない。彼女も夫に疑われないように、彼女の予定を優先させる。自分の中であれこれ決めごとを考えたんですが、これは彼女と話し合った方がいいなと。いや、彼女の本音を聞いていないのに、自分だけこれが恋愛だと決めつけてはいけない、彼女は単に息抜きだと思っているかも、いや、彼女はそんな女性じゃない。何だかもう、訳が分かりませんでした。恋って、人を愚かにするものかもしれません。
二回目に会うのは勇気がいりました。もう言い訳が利かない。自分に対しても彼女に対しても。二回目は「本気だ」という証だと思いました。それでも私は一週間後には連絡をしてしまった。
「会いたい」
と。
「私も。いいんですか」
いいんですか、のひと言に私の覚悟を問われていると感じました。
「あなたが好きです」
迷った挙句、そう返信しました。
「私もです」
短い返事の中に、彼女の覚悟が見えた。こときが、本当に恋に落ちた瞬間かもしれませんね。
彼女に会いたい。毎日、そう思いながら過ごしていました。
「では来週の金曜日では?」
「もっと早く会いたい」
「ちょっと仕事がつまっているんです」
「仕事なんか放って、僕に時間をください」
彼女は笑いのマークを送ってきました。女性は余裕がありますよね。もしかしたら、彼女は今までも浮気していたんじゃないか、そんな気がしました。
だから次に会ったとき、聞いてみたんです。
「するわけないでしょう。あなたこそさんざん女を泣かせてきたんじゃないの?」
年下のくせに、そんな軽口をたたく彼女が、ますます好きになりました。体を重ねた者しかわからない、なんともいえない親密感が、ふたりの間にすでにできているのがうれしかった。
二度目はお互いに体を堪能しました。初回はやっぱりふたりとも緊張していたようです。彼女は気持ちがいいのに、声を出せずに耐えている。眉間にしわを寄せたその表情が、なんともいえずに色っぽくて、たまりませんでした。
「我慢しなくていいんだよ。声を出して」
それでも生来の律儀さなのか。唇を噛んでいる。まだ自分を解放しきれていない。それは私にとって歓びでしたね。これからが楽しみですから。だけどねえ、こんなことを言っていいのかどうかわかりませんが、彼女、フェラチオがものすごくうまいんですよ。本気でやられたら、私なんか三分も保たない。
「うますぎるよ。どこで習ってきたんだ」
そう囁くと、彼女はびくりと体を震わせました。
三度四度と会いました。相変わらず彼女のフェラチオはとんでもなくうまい。
五回くらい会ったときでしょうか。ピロートークをしていたら、彼女がいきなりベッドの上に正座したんです。
「聞いてほしいことがあるの」
私は彼女にシーツをかけました。薄々、予感していたような気もします。
「私、風俗で働いていたこともあるの。このことは誰も知らない。夫もね。でもあなたには見抜かれているような気がして。自分の口から言いたかった」
「言わなくてよかったんだよ」
私はそう言いました。実際、彼女がそんな告白しても、私の気持ちは変わらなかったから。
ただね、私がもっと若くて独身で、結婚を考えている相手にそう言われたら、相当にショックを受けたかもしれないね。いい年になっていて、なおかつ結婚する可能性は低いから、それほどショックを受けなかったのかもしれない。正直言うと、そんな思いもありました。男は身勝手な生き物です。
彼女はほっとしたようでした。
「嫌にならない?」
「なるわけないよ。過去、何があろうと、それが今の久美をつくったんだから」
これは本音です。詳しく聞く気はなかったのですが、彼女によれば、大学を卒業してすぐ、お父さんが病気になった。さらに高額の医療費がかかったようで、風俗で働いて助けたのだという。まあ、そんな話、嘘でも本当でもいいんです。でも女性は「わかってもらいたい」でしょう。
実はこういうのって、けっこう危ない告白だと思います。私は気にしないタイプだからいいけど、ひょっとしたら、彼女の心の重荷を一緒に背負わせられるような気がして、急に冷めてしまう男もいるかもしれない。誰にも言わなかったことを、婚外恋愛の相手だけに打ち明けるのは、男の性格にもよるけど、かなりリスキーです。彼女は若いから、自分だけでは持ちこたえられなかったのかもしれませんが。
結局、そんなこんなでそろそろ一年がたとうとしています。私は、家庭での居場所のなさ、居心地の悪さが気にならなくなってきました。あまりに淡々としているせいか、妻のほうがたまに探りを入れてきますよ。
「最近仕事の方どう?」
妻が私の仕事のことなど気にしているわけがないんですが、声をかけてくれるのはありがたいことです。
「うーん、順調だよ」
いつもそう答えます。
義父母もまだまだ元気。たまに顔を合わせると、義父は相変わらず嫌味三昧ですが、まったく聞かずに引き上げることにしています。以前だったら、そんなことをすると、妻が激怒したものですが、もうあきらめているのか、妻も何も言いません。
私の心の支えは久美だけです。久美がいるから生きていける。今の私はそう思っています。それだけに、彼女がご主人と仲良しているかもしれなと想像すると、身が引き裂かれるような気分になる。彼女は、「うちは友だちだってば」と言うんですが。
夜中に急に彼女を思って苦しくなることがあります。一年だって、ようやく少し落ち着いては着ましたけど。夢のまた夢かもしれないけれど、いつか久美と一緒になれたらと思っています。結婚という形でなくてもいい。でも、最期はやっぱり久美に看取ってほしいから、結婚した方がいいんでしょうね。
久美にそう言ったら、
「あなたさえ望めば」
と口を濁したこともあります。私が離婚すれば、彼女も離婚してくれるのかと迫りましたが、はっきりしたことは言わなかった。今はそれでもいい。私も今すぐ離婚はできない。十年後、そんなことになっていたらいいのになあと思います。
ひと回りほど年下の女性に惚れこんだ則章さん。久美さんと付き合うことで、「妻への恐怖心がかなり和らいだ」そう。卑屈になればなるほど、妻は攻撃的になるが、淡々としているとかえって何も言わなくなるのだとか。
人には「居場所」必要なのだろう、特に男性にとっては。
それにしても、「いつか一緒になりたい」と言ったときの則章さんの表情は、実に決然としていた。それが彼の生きる目的になっているようだった。責任を果たして子どもたちが独立したあと、この人はひょっとしたら身ひとつで家を出るのかもしれないと感じた。私がそうつぶやくと、「それも選択のひとつですね」と彼は頷いた。
★別れようと思っても別れられない
もちろん、うまくいっている婚外恋愛カップルばかりではない。お互いの配偶者に知られてしまい、何度も別れの約束をしながら、結局、別れられず苦しんでいるふたりもいる。いっそ離婚すればいいと思うが、そう簡単にいかないらしい。
近藤裕太さん(五十歳)が、同じ職場の中田亜希子さん(四十七歳)とつきあい始めたのは三年前。だが、亜希子さんの夫の浩一さん(四十二歳)も同じ職場なので、浩一さんが、まず妻の異変に気づいたのだそうだ。
そして、実は裕太さんの妻の智子さん(四十八歳)もかつては同じ職場だったという。
うち、流通関係のわりと大きな会社なんです。亜希子は私の部下で、亜希子の夫の浩一くんは部署はまったく違います。ただね、ふたりが結婚するとき、私はスピーチもしているんですよ。ふたりの先輩ということで。それだけに、亜希子との関係は、ずっといけない、いけないと思っていた。
私が結婚したのは三十歳のとき。妻は同じ部署の後輩でした。三年くらいつきあって、そろそろ結婚した方がいいかなあと思って。近くにいたから親しみもわいた。妻は穏やかな性格で、この人ならいい家庭をつくれそうだと思ったんです。結婚と同時に妻は退職、子ども二人に恵まれて、いい家庭でした。妻はまったく悪くない。
亜希子と親しくなったのは、浩一くんとの関係で相談されたから、亜希子は年上女房だから、浩一くんに対して、ついつい上から目線になってしまう。それで浩一くんが浮気した。最初はそんな話でした。
亜希子は気が強いから、相手の女性を割り出して、乗り込んでてって夫を取り戻したんです。だけど当時に、夫の弱さに呆れたとも言っていました。
「彼が近藤部長みたいな人だったら、私も安心して頼れるのに」
なんて言ってくれて。そんなこんなでいつの間にか、私と亜希子が関係をもってしまった。それが三年前ですね。
亜希子はそういう女性だから、性に対しても非常にアグレッシブ。うちの妻は、どちらかというとセックスは好きでない。だから私もあまり積極的には誘わなかった。でも亜希子としてみて、セックスって楽しいんだなあと心から思いました。
最初にしたときから、彼女は上に乗ってがんがん腰を振っててね。それを見たら私も火がついたようになって、後ろから思いっきり責め立てました。それがまた彼女が喜んでくれて。最初は体だけの関係でいいと思うくらい、ふたりでセックスにのめり込んだ。ただ、性的な相性がそこまでいいのは、結局、すんなりと心を許し合える間柄だったということですよね。ふたりとも、すぐにそれに気づきました。
うちには当時、十八歳と十五歳の息子たちが、亜希子のところには十歳になるひとり娘がいました。それでも、お互い離婚を考えたんですよ。いっそ子どもを全部引き取ってもいいんじゃないか、と。
ただ、亜希子の娘はパパが大好き。日曜日にはいつも家族三人で出かけるそうなんです。亜希子だって、別に夫に恨みがあるわけじゃない。気が弱いけどいい人なのだといつも言っていました。私もそれはよく知っている。うちだって仲は悪くない。息子たちも思春期なのに、わりと親と出かけるのは平気でしたね。上は野球、下はサッカーに夢中で、毎日部活三昧だったけど、日曜日の夜なんかはよく家族で外食をしましたよ。
それに、とにかく離婚は面倒。家はどうするのか、家財道具はどうやって分けるのか。考えただけでうんざり。しかも、職場が同じだから、二組の夫婦が離婚するとなったら、当然、すべてばれてしまいすよね。そこで、亜希子と私は思いとどまったんです。
「ひっそりとこの関係を続けていこう」
ふたりで約束しました。
二年ほどは、誰にもばれずにうまくやっていたんです。亜希子は自分の母親と同居しているから、以前から子どもの面倒はみてもらっていた。だからときどき遅くなっても大丈夫なんです。
★彼女の夫によってすべてが露見
私たちはよく朝からホテルに落ち合っていました。夜遅いのが続くと、どうしても家族に疑わられる。だから、彼女は午前中、代休をとる。私は朝いったん会社に出て、外回りと称して彼女がいるホテルに行く。そして午前中は抱き合って、午後、彼女は出社、私も適当な時間に戻る。これ、意外とわからないものなんです。
一年くらい前も、そんなふうに会ってた。彼女はいつも、私と会うときは携帯電話の電源を切っているんです。その日も昼くらいに彼女が先にホテルを出たんだけど、すぐに連絡が来て、
「午後も休ませてください」と。
どうしたのかと思ったら、お母さんが倒れたと。近所の人が見つけてくれたそうです。何度も彼女の携帯に電話したのに、連絡がつかなかった。それで浩一くんが疑った。
「午前中、代休じゃなかったの? どこに行っていたの?」
と。彼女は買い物に行ってた。携帯はうっかり電源を切ったまま入れるのを忘れていたということにしていたらしい。だけど、浩一くんは怪しいと思ったんでしょうね。
彼女のお母さんは心筋梗塞だった。ただ、気づくのが早かったので、手術して一ヶ月後には退院できました。でもその間、さすがに私たちも会うわけにはいかず、辛かったんですね。会社で顔を合わせるから、思いが募る。だけど時間が取れない。
彼女も、仕事と家事と子どものこと、母親の看病などでボロボロになっていました。浩一くんとうまく協力して、なんとか乗り切ったようだけど。私の無力感を嘆きました。何もしてやれない。「秘密の関係」とは、そういうものなんだと実感しました。毎日メールで励ますくらいしかできなかった。彼女は、のちに「あのメールには元気づけられたわ」と言ってくれたけど。
お母さんが退院してから、彼女はあまり夜遅く離れないと言い出しました。だから会うのは昼間か、あるいは土曜出社。ふたりして、土曜出社だと言ってどこかで落ち合うんです。実際、会社で仕事をして、帰りにホテルへということもありました。
ただ、浩一くんは疑惑を捨てていなかったんですね。土曜出社と彼女が言ったとき、彼もあとから会社に来て、われわれの様子を密かに見ていたようです。だから、出社すると言いながらしていないことも知っていた。彼はそれを全部メモにつけていたんです。そしてある日、彼女につきつけた。彼女は知らぬ存ぜぬを貫き通したようです。
「でも、もうだめだわ、無理して会うのは止めたほうがいいかもしれない」
「会わずにはいられないよ」
「私だってそうよ」
私たちふたりして頭を突き合わせて考えました。やはり夜の方が言い訳が利く。月に二回くらいなら何とかなると思う。彼女がそう言ったので、お母さんの様子を見ながら、夜、会いました。食事はホテル持ち込みです。それでも彼女に会うと、心からほっとするんです。
ただ、やはり浩一くんはしぶとかった。彼は自ら妻である亜希子を尾行、私と亜希子がホテルに入る写真を撮っていたんです。手をつないでホテルに入る写真に対しては、さすがに言い訳ができない。彼は、私の妻にもその写真を送りつけてきました。
妻は私を疑っていませんでしたから、浩一くんからの詳細な報告を読んで、ただただ泣くだけ。以前、浩一くんがうちに遊びに来たこともあって。妻も彼のことは知っている。彼と亜希子が結婚したのもわかっている。それどころか、亜希子が新入社員で入ってきたとき、妻はまだ勤めていたから、彼女の顔も知っている。ショックだったと思います。
「あなた、何しているの。あなたはそういう人だったの」
泣き崩れる妻に、私は何も言えなかった。妻の性格からして、子供たちに言うとは思わなかったけど、私への信頼はまったくなくなったと思いました。
その後、浩一くんの提案で、夫婦二組が話し合うことになったんです。話し合いに応じなければ会社にばらす、と彼は脅してきた。とりあえず、会うしかない。妻には土下座しました。
「あなたは私と別れたいの?」
妻にじっと見つめられました。
「家庭を壊す気はない。智子はまったく悪くない。オレはきみに不満はないんだ」
「私に不満がないのに、どうして亜希子さんとつきあったの?」
「なりゆきというかなんというか」
「亜希子さんのことが好きなんでしょう?」
こういう質問って本当に困るんですよね。もちろん妻は自分の疑問をぶつけているだけなんだけど、人間、嫌いな人とはつきあわない。ということは、私は亜希子のことが好きなわけで。でもそこで言質をとられるのはどうもね、こう詰められてくると、私としては曖昧に濁すしかないんですよ。だけど妻は、曖昧さを許さない。
たまたま息子たちがそれぞれ合宿に行くことになっていたので、亜希子夫婦には私の家に来てもらおうと思ったんですが、それは妻が大反対。家を見られたくないと。私はそのあたりが鈍いんですね。妻の気持ちを考えてやれなかった。
一緒に食事をするのも変だし。結局、カラオケボックスに行くことにしました。夫婦二組の深刻な話し合いに、カラオケボックスというのはどうなんだろうと思ったけど、人に邪魔されずに話せる場所って、貸会議室かカラオケボックスくらいしかないんですね。なんとなく周りが賑やかなほうが目立たない気がして、カラオケボックスにしました。
土曜日の午後、夫婦二組が集まりました。浩一くんが仕切っていましたね。まあ、いくら年上でも私が仕切るわけにもいきませんよね、加害者ですから。
「単刀直入に言います。近藤さん、どうするおつもりですか」
私は亜希子の顔を見ました。亜希子も私の顔を見つめた。亜希子の目は潤んでいました。まるで私と抱き合った直後のように。こんなときなのに、私たちは目でセックスしている。そんな気がしました。隣で智子の手がわなわな震えているのがわかって、私は亜希子から視線を外した。
「別れるわ。家庭に戻ります。智子さん、申し訳ありませんでした」
亜希子がいきなりそう言いました。私も続けて頭を下げました。
「浩一くん、本当に申し訳ない」
「亜希子、信用していいんだな」
浩一くんは居丈高になります。
「はい」
亜希子は神妙でした。女は神妙なときが怪しい。浩一くんはもちろんわかってませんでしたが。
私にはわかりました。亜希子がこの場は謝り倒してしまおうとしているのが。でも彼女は私と別れる気はないはずです。
「智子さんも何か言いたいことはありませんか」
「亜希子さん、一筆書いてもらえませんか。もう二度とうちの主人とプライベートな関係はもたないと」
これは意外でした。亜希子もちょっと驚いた表情になった。智子があんなに決然とした態度をとるとは思わなかったんです。
智子は便箋をもってきていました。
「私の言うとおり書いてください。私、中田亜希子は、今後、近藤裕太さんと二度と個人的に会いません。この誓いを破ったときは、近藤裕太さんの妻・智子さんにどういう請求をされてもかまいません」
智子は一気にそう言いました。メモもなかったので、考えてきた文章なんでしょう。年月日と名前を書かせ、拇印を押させました。朱肉まで持ってきていたのには驚きましたが。
「じゃ近藤さんも書いてください」
浩一くんが言い出した。私も同じ文章を書かされました。浩一くん宛てにね。
「頭を冷やしたいから、私、先に帰るわ」
亜希子が立ち上がって出ていきました。そのあとを浩一くんがあわてて追っていきます。話し合いは三十分とかかりませんでした。
「私も出るけど、あなた、どうする?」
一応、二時間で入ってしまったので、なんだか三十分で帰るのはかっこ悪いような気がしてね。
「あと少しいるよ」
「じゃあ、お先に」
妻は出ていきました。
まいったなあ、ひとりで歌うのかなと深刻な状況とは関係ないことを考えていました。人間、本当に深刻になると、思考が逃げに入るんでしょうか。
リモコンをなんとなく操作していると、大きな足音がして、亜希子が飛び込んできました。いきなり私に抱きつきます。
「どうしたんだ」
「夫を巻いてきたのよ。あなたは多分いると思った」
なんて危険なことをするのでしょう。妻がまだいるかもしれないのに。
「そのときはそのときだと思ったわ」
亜希子は大胆です。でも私は、そんな大胆な彼女が大好きだった。ひたすら彼女の唇を求めました。それ以上はできなかったけど、時間が来るのまでふたりでキスし続けた。
その後も、私たちは別れられなかった。いや、別れなかった。どうしても、彼女に会わないなんて考えられない。ほんの少しの時間でもいい、会って抱き合いたかった。
結局、その三か月後には、またばれて元の木阿弥。四人で会って、亜希子は妻に三百万円払えと言われ、私は浩一くんに払えと言われ。意味ないですよね。第三者から見たら、何やってんだって感じだと思います。
浩一くんは会社に言うと言い出しました。それだけは勘弁してほしい。
「じゃあ、近藤さん。移動届け出を出してください。いっそ北海道あたりに行ってください」彼は号泣していました。それを見るのはつらかった。
★いくら話し合っても決着がつかない
「いつまでもこんなことをしていてもしょうがないでしょう。離婚するならしようよ」
ある日、妻に言われました。
「離婚する気はない。オレは家族が大事なんだ」
「だったら亜希子さんと別れてよ。もういい加減にして!」
妻は絶叫し、絶望的で悲痛な泣き方をしました。人間って、あんな悲痛な声が出るんですね。聞いていると、妻がどれだけ傷ついているかよくわかった。わかっているのに亜希子と別れられない。人として最低です。自分でそう思っているのに…‥。行動することができない。
異動願いは出しましたが、今の部署の状況を考えると、私が遠方に行くのは無理だと思います。こんないい加減な私だけど、仕事は多少必要とされているはず。
亜希子に聞いたんですが、浩一くんが異動願いを出したそうです。しかも、本当に北海道だとか。自分が異動になったら、家族を連れて行くつもりなのでしょう。亜希子は、「私は行かない。本社に残るわ。夫が私をクビにすることはできないもの」と。
ときどき、亜希子とはただの仕事仲間に戻ればいいんだと思うことがあります。だけど亜希子の顔を見るともそんな決意が無駄だとわかる。彼女は私にとって、性的に魅力的すぎるんです。浩一くんには、そうでなかったかもしれないけど。
今のところ、亜希子に会えるのはせいぜい月に一回。それでも会えないよりましです。お互いに必死になって隙間の時間を絞り出して、ばれないように気を配っています。
知人を通じて話を聞いたときは、さぞ疲労困憊しているだろうと思ったが、実際に会った裕太さんは、元気そうだった。表情も決して暗くない。亜希子さんはもっとパワフルなのだそう。
浩一さんの妻の智子さんは、お互いの配偶者のエネルギッシュさについていけないのではないだろうか。元々の組み合わせが間違っていたのかもしれない。
それにしても、配偶者からは、異性として魅力的だと思われていないのに、他の異性からは性的な魅力があると思われる。不思議なものだ。だから婚外恋愛は成立してしまう。配偶者となったとたんに魅力が薄れるわけではないだろに。人間は、立場が決まると自分自身も、また相手から見ても「役割」でしかなくなるのだろうか。
何度も「別れられない」と彼が言うので、「別れられないのではなく、別れたくないということですよね」と念を押すと、「そうなんですよね」と裕太さんはうなだれた。仕事はキレ者らしいが、根はとても正直でストレートな人なのだと思う。彼女が好き、という気持ちだけが突っ走っているのだから。
「愚かだと思っています、自分でも」
それでも彼がやつれないのは、やはり亜希子さんが好きだという情熱があるからだろう。その情熱が彼女を支えているのだ。
こういう恋は、当事者の配偶者をどん底に陥れる。だが、当事者はエネルギッシュに動き回っている。いったいどうしたらいいのか、と裕太さんに聞かれたけど、私もなんら考えを述べることができなかった。
つづく
第五 四章 女たちから見た「最後の恋」と「婚外恋愛」