亀山早苗著
恋愛感情とセックスに惑う 男たちの証言
今現在、恋している男たちは、何を考えているのだろう。何を悩み、何に戸惑い、この先、どうしようと思っているのだろうか。
そこで、恋をしている男たちの声を、本人の語り口で再現してみたいと思う。
★三十歳年下の独身女性にのめり込んで
まずは五十九歳、結婚して三十年たつ森浩太郎さんの声だ。かれは三年前から東京に単身赴任している。そして一年前から、三十歳年下の同じ会社の女性・美那子さんと付き合っているのだが――。
この年で恥ずかしいんですが、美那子には本気で惚れました。自分が自分の気持ちをコントロールできません。
私は山陰地方の生まれです。大阪の大学を出て、そのまま大阪で就職しました。二十九歳で二歳年下の女性と社内結婚。それから何度か転勤しました。常に家族は一緒に来てくれましたね。
もう転勤はないと思って、十年前に大阪にマンションを購入したんです。今、二十八歳になる長男は九州で働いています。二十五歳の長女は大阪で就職、妻とマンションで暮らしです。
私が東京に来たのは三年前。三十代のころ、家族ともに東京で数年暮らしたことがあります。今回、最初は妻も来るようなことを言っていたんですが、
「東京暮らしは疲れるから、おとうさん、ひとりで行ってもらえる?」
と言われて。仕事ですから、私は断るわけにもいきませんしね。この年で単身で暮らすのも大変だと思ったけど、家事は苦にならないので。人生最後の自由を謳歌しようというつもりもありました。
仕事は楽しいし、仕事仲間ともうまくいっていて、何ら不満はありませんでした。当初は月に一度、大阪に帰っていたし、妻や娘とも確執はありませんでした。
まあ、うちもご多分に漏れず、ここ十年くらいセックスレスです。妻が更年期を理由に、「もういいわ」と言い出して。無理してするものでもないし、なければないで慣れますから。
★社内でひと目惚れ
今から一年前のことです。人事異動で隣の部署に来た美那子を見かけたのは。廊下ですれ違って、彼女が軽く会釈しただけなんですが、今までにない感じを抱きました。古い言い方ですが、電流が走るような。いわゆる、びびびっときた感じ。
その後、私のいる部署とも仕事での連携などがあって、一緒に仕事をするようになりました。可愛顔をして、けっこう辛辣な意見を述べるので、ますます気になりましたね。ギャップに弱いんですよね。男って。あ、女性も同じかもしれませんが。
あるとき、私のいる部署がメインでやっているプロジェクトに彼女が割り込んで来たことがあった。それは困る、いや、こちらもそのプロジェクトの乗らせてくれ、と言うやり取りがあって、彼女がまた強引なんですよ。結局、彼女の上司も出てきて、今回は引き取ってもらったんですが、その強引さも私は嫌ではありませんでした。若いうちは強引だったり強情だったりしいい。それが仕事の糧になる。
その後、彼女が「話があるので時間を取ってもらえませんか」と言ってきた。私はてっきり彼女が謝ってくれるのかと思って、ときどき行く小料理屋の個室をとってもらったんです。上司も一緒だと思っていました。そうしたらひとりで乗り込んできて、「今回は諦めますが、本来ならうちの部署もあの企画を一緒に進めていいはず」と言うんですよね。ちょっと笑っちゃいました。もう決まったことなのに、彼女はあきらめきれなかったんでしょう。
その晩は、彼女と、しこたま酒を飲んでぐでんぐでんに酔ってました。
「私はちゃんと仕事がしたいんだよう」
店を出てから、そう叫んでいたのを覚えています。自宅近くまでタクシーで送りましたよ。私の住んでいるアパートと、車で十分と離れていなかった。
翌日の朝、彼女は私の机のところに来て、
「昨日はご迷惑をおかけしました」
と丁寧に頭を下げていきました。
彼女の上司と話をして、ああいう人にはどんどん仕事をさせた方がいいと一致したんです。男だから女だからではなく、彼女は今どき珍しいくらい、猪突猛進型なんですね。若いうちに好きなようにやらせると、後から面白い企画を生み出すようになるはずだと思って。
それから私と彼女の距離もぐんと縮まりました。私は単身赴任だし、彼女も独身。食事したり飲みに行ったり。恋愛感情なんて意識しませんでしたから、後ろめたさもないし、気楽でしたね。
半年くらい経った頃かな、やりたいように仕事をしていた彼女が大ミスをしましてね、私の中では想定内だったんだけど、本人がものすごく落ち込んでしまった。そういうミスを経て大きくなればそれでいい。でも本人はそう思えませんよね。珍しく会社を休んだんですよ。
さすがに私も心配になって、仕事を終えてから、彼女の部屋に行ってみました。チャイムを鳴らすと、彼女がドアを開けて対応してくれた。
「大丈夫か。きみらしくないな」
そう言うと、ドアが開きました。部屋はきれいに片付いていて彼女らしかった。
持っていったケーキの箱を開けると、彼女の顔に笑顔が戻りました。
お礼を言いながら、ぱくぱくケーキを食べる彼女がとても愛おしかった。そのときでしょうか、私の心の中に妙な変化が生じたのは。いや、あるいはその前から何かが芽生えていたのかもしれません。
私は自分の気持ちに戸惑いを覚えて、急に立ち上がりました。
「帰るから、明日は会社に来るんだぞ」
そう言って玄関に向かおうとしたら、彼女が急に後ろから抱きついてきたんです。
「帰らないで」
彼女の声が泣いていました。ここで振り向いていけない。そう思ったのを覚えています。だけど私は振り向いてしまった。そして、男女の関係になったんです。
その後は順調でした。家も近いせいもあって、週末にはどちらかの部屋で過ごすこともありました。妻は東京には全く来なかったし、ごくまれに娘が友だちと東京見物といって来ましたけど。食事を奢らせられるだけで、娘たちはホテルをとっていましたから。オヤジの狭いワンルームには興味がなさそうでした。
★セックスに溺れて
私は本当に美那子が好きでした。娘と近い年齢でしたが、美那子に子どもっぽさを感じたことはありません。正直言って、彼女はまだセックスに慣れていなかった。少しづつ、だけど着実に女として熟していくのがよくわかって、私は彼女とのセックスに溺れました。気持ちよくなってほしい、ただそれだけでセックスしたのは、後にも先にも彼女だけです。
浮気したことがないわけではありません。だけと、それまではお互いに気持ちよくなろうという意識が強かった。でも美那子には、何かしてほしいと思ったことがない。私が気持ちよくさせる。それが私の楽しみであり、歓びでもありました。
週に二、三回は抱き合いました。私自身、そんな頻度でしたことはありません。だけど美那子を前にすると、いつでも勃ってしまうんですよ。若返ったような気さえしました。
半年ほど経つうちに、彼女の体はどこまでも柔らかく、どこまでも濡れるようになりました。色っぽい大人に変化していくのを、私は嬉しい気持ちで見ていた。だけど怖さもありましたね。彼女の性感が増すにつれ、私はどこまでついていけるのだろうと。
つきあって一年ほど経った頃でしょうか、彼女から突然、別れ話が出たのは。私の部屋で、ふたりでいるときでした。私の作ったパスタを美味しそうに食べながら、彼女はこういったんです。
「私ね、好きな人ができたの」
さりげなく、「今日は雨が降るのかしら」とでもいうような口調だった。あやうく聞き逃すところでした。
「なに、どういうこと?」
「だからね、好きな人ができて、つきあうことになったの。あなたとは別れたほうがいいと思う」
そんな口調で言わないでくれよ。と内心思いました。
実は彼女、社内に数年前から片思いをしている男性がいたのだそうです。告白したこともあるものの、彼は、「オレ遊び人だから、ひとりとつきあう気はない」と断られた。それでも、ときどき食事程度はしていたようです。ところがどういう風の吹き回しか、彼が突然、「つきあおう」と言い出した。彼女よりふたつ年上の男です。私も知っているけど、仕事もできるいい男ですよ。
あいつか、と内心、炎が燃えました。でも俺は独身、彼女も独身。お似合いのカップルです。どう頑張っても、私が勝てるわけがない。
「わかった。もう会うのはやめよう」
私は平静を装ってそう言いました。物分かりのいいおっさんを演じるしかないんですよ。いつかはこういうときが来ると分かっているはずだったんだから。いや、正直言うと、彼女との別れは想定していなかったんだけど。
「いいの?」
彼女が私の顔を覗き込んできたとき、不覚にも私の目から涙がぽろりとこぼれました。自分でも意外だった。親が死んだときも、悲しかったけど泣きはしなかった。なにより人前で男が涙を流すなんて、と思うようなちょっと旧いタイプなんです。
さすがに彼女もびっくりしたみたい。食べるのをやめて、私の顔をじっと見ていました。私は顔を背けて、わざと明るい声でつくって言ったんです。
「美那子はまだ若い。人生これからだ。オレがきみの人生の邪魔をしてはいけない。ずっとそう思っていた。ただ、ちょっと急だったから驚いただけで」
彼女は何も言いませんでした。私の側に来て、全身を預けてきた。私は彼女の髪をやさしく撫でました。彼女の髪の匂い、滑らかな肌。もう私のものではない。そう思うと、胃の奥の方から何とも言えない嫉妬の魂がめらめらと燃えてくる。
私は彼女をその場で押し倒しました。彼女は「やめて、いや」と言ったけど、その声は誘っているようにしか聞こえない。珍しく、少し乱暴なセックスでした。愛撫もそこそこに挿入した。でも彼女は濡れまくっていました。私が嫉妬しているのが伝わるのか、「やめて、やめて」と言いながら足を高く上げて開いている。
この体がオレを惑わせたんだ、脚の間のここが、オレを誘うからいけないんだ。そんな思いから、挿入すると彼女の腰を両手でつかんで、力任せに突き続けた。
「ああ、すごい。いい」
彼女は絶叫して喘ぎまくりました。あの男がここまで彼女を歓ばせることはできないはずだ、オレのほうが彼女を感じさせられるんだ。自分で自分を鼓舞していました。
そのうち、彼女は金切り声を上げた後、急に静かになった。はっと見ると失神していました。しばらく彼女の顔を見つめていた。本当にいい女だと思いました。でも、やはり彼女の人生を邪魔してはいけない。
冷静になったところで、彼女の頬を軽く叩きました。
「大丈夫か?」
彼女は目を開けてきょとんとしています。水を持ってきて飲ませると、ようやく人心地がついたようす。
「あんまり気持ちよくて、訳が分からなくなっちゃった。私、どうしたの?」
「失神したみたいだよ」
彼女は少しの間、ぼんやりとしていましたね。起きようとしたものの、体に力が入らないのか起き上がれずにヘラヘラ笑っていた。それを見て、私も少し笑いました。
「今までありがとう。美那子に会えてよかった。心からそう思うよ」
すると今度は彼女が号泣し始めた。つられて私も泣いてしまい、ふたりで抱き合って泣きました。
結局、彼女は泊っていきました。化粧品やら洋服やらが私の所にあったので、それは後で送ることにしました。翌朝、またも泣きながら別れました。
それからの私は抜け殻です。彼女からは、「友だちとしてメールくらい送ってもいいでしょ」と言われていました。彼女、私が生きる気力をなくすんじゃないかと心配していたのかもしれません。私は彼女のメールに返信はしたけど、仕事に対する意欲も半減。周りからは、「疲れてるんじゃない?」と気遣われる始末です。
しばらくぶりで一週間休みを取り、大阪の自宅に戻りました。家は相変わらず。妻は元気でしたが、急に帰って来た私に戸惑っているみたいでした。結局、のんびりすることもできず、一泊で東京に戻りました。あとは家で本を読んでは眠って。久々に映画館にもいきました。若い頃観た映画のリバイバルを観たけど、ああいうのは心が和みますね。
休んで四日くらいたったときかな、映画館から帰ってきたら、美那子が部屋の前に立っていた。
「休んでいるっていうから心配で。大阪にいると思っていたら、帰って来たってメールがくるし。大丈夫?」
その日は美那子とふたりで食事をして、そのまま駅へ送って別れました。こういうつきあうのも悪くない。そう思ったけど、彼女の後ろ姿をみたら。抱きつきたくなる気持ちを抑えるのが大変でした。彼女への肉体的欲求は消えなかった。それが消えれば友だちとになれるのに。
二か月くらいたったときかな、美那子が夜中に、ふいに部屋に来ました。つきあっているときだってそんなことはしたことがなかったのに。いつだってちゃんと連絡してからでしたから、
私は驚きました。
部屋に入ってくると、いきなり私にしがみついてきました。
「抱いて、お願い」
何があったのかわからない。ここでそんなことをしたら、せっかく少し穏やかになってきた私の気持ちはどうなるんだ。ただ、彼女の潤んだ眼を見たら、やはり抱かずにはいられなかった。
どうやら、彼とは性的な相性はあまりよくなかったようです。それで私の所に来たんでしょう。
★二股をかけられても別れられない
その後も、彼女に二股をかけられたままです。ときどき、気になって彼とうまくいっているのかと尋ねると、彼女は答えるのです。
「この間、USJに泊まりに行ってきたの。すごく楽しかったよ」
と。そのたびに私は胸が焦げるように苦しくなります。
彼女の部屋に盗聴器を仕掛けてやりたい、彼と一緒にいるところに乗り込んでみたい。そんな欲求が渦巻くこともあります。そもそも、彼に美那子を満たしてやることができるはずがない、と感じたり。
だけどいつも思うんです。私は既婚者で、しかも彼女より三十歳も年上。私ができることは、彼女の人生を邪魔しないこと、そして彼女が来たときに精一杯がんばって満たしてあげること。それしかないのだと。
私は本気で彼女が好きなんです。好きだからこそ、独占欲を出してはいけない。それでもときどき苦しくて、彼女の前で泣いてしまうことがあります。いい年しておっさんがボロボロ涙をこぼすの見て、彼女は「ごめんなさい、ごめんなさい」と背中を撫でてくれるんです。
でもあまりに鬱陶しいと、きっと彼女は離れていく。だから毎日、なんとか元気でいようと自分で??咤激励しています。
今は週に一回くらい、彼女が部屋にやってきます。近所に食事に行ってゆっくり泊まっていくこともあれば、時間がないからセックスだけして帰っていくこともあります。どちらでもいい、彼女と会うことができれば。そんな心境になりつつあります。
ただ、単身赴任も三年を超えてきましたから、ひょっとしたら来年あたり大阪に戻ることになるかもしれません。私としては、正直なところ、まだ東京にいたい。自分の身体がもつうちは、美那子を歓ばせてやりたい。そう思うんです。でもこればかりは会社が決めることですから、どうなるかわからない。
美那子と別れるくらいなら、死んだほうがましです。今は本当にそう思っている。家庭に対して? うーん、それを言われると辛いですね。彼女と恋う関係になってから、自宅には二、三ヶ月に一回くらいしか帰っていない。家族も私が居ないのが普通になっているから、なんとなく居づらい感じがします。私の心の中に後ろめたさがあるのかもしれないけど。
妻に疑われたことはありません。私みたいなオヤジが、今さら恋愛するなんて思ってもいないでしょう。私自身、青天の霹靂ですからね。
この先、どうなるか、私にもわかりません。ただ、一にも長く美那子の側にいたい。あの肌に触れていたい。先日、美那子は言ったんです。
「私の体をこんなに愛してくれるのは、あなただけね」
と。心も誰よりも愛していると言ったら、そうねと言って涙ぐんでいました。彼と喧嘩でもしたんでしょうか。いつか彼と別れることもあるかもしれない。もちろん、それを願っているわけではありません。彼女が幸せならそれでいい。そうやって自分を納得させるしかないんです。年齢差がありすぎる。それを乗り越える術は、私にはない。そこがいちばん辛くて悲しい。
五十九歳という年齢に見えず、若々しい浩太郎さん。小学生のころから合気道をやってして、今もときどき道場に行くとか。質実剛健、誠実であることを自分に言い聞かせて生きて来ただけに、今回のことは、今までの人生を覆すほどの重大事だったようだ。
たかがひとりの女性で、これほど感情が揺さぶられることが自分でも信じられなかったと、訥々(とつとつ)と語ってくれた。そもそも、自分の中の幅広く、よくも悪くも豊かな感情の襞(ひだ)を実感したのは生まれて初めてなのだそう。
彼の揺れ動く感情に私にとっても新鮮だった。彼女が幸せなら今の状態でいいと言いながら、自分のほうが彼女を幸せにできるはずと言ったり。矛盾した感情に、浩太郎さん自身が振り回されている。恋とは、そういうものなのだろう。
一方で、家庭に関しては淡々としていた。子どもたちが成人になっているせいもあるのだろうが、家族と彼女に対するする思いは、彼の中では完全に別物のようだ。
彼に何度か話を聞きながら感じたのは、恋のエネルギーの強さだ。それは年齢に関係ないのだろう。誰かを全身全霊で愛すること。それはもしかしたら、彼の年齢になったからこそできるものかもしれない。若いときなら、もっと利己的な言動をとっていたはずだから。そうだとしたら、恋というものは、なんと不条理なものだろう。
★SNSで中学の同級生と再会して
次は、SNSで中学時代の同級生と再会した、五十三歳の小林弘康さん。彼にとっては初恋の人だという。離婚再婚とめまぐるしい人生を送ってきた弘康さんが、「ひと回りしてたどりついた女性」なのだそう。
中学生のときの同級生である里美ちゃんに再会したのは、今から二年前です。
実は僕にとって、彼女は初恋の人。当時、テニス部でエースだった彼女は、学校中の憧れの的だった。僕もたまたまテニス部だったから話す機会はあったけど、話しただけで、「おまえ、里美ちゃんと何を話したんだよ」と周りの男友だちから怒なられるくらいだった。彼女は勉強もできたし、性格もよかったから、女の子たちから嫌われることもありませんでした。
彼女なら、きっといちばんいい県立高校に行くだろうから、僕も頑張ろうと思っていた中学三年の春、彼女は突然、引っ越していきました。誰にも何も告げずに。あとから聞いた噂では、どうやら両親が離婚したらしい。彼女はどちらにも引き取られず、母方の祖父母の元へ行ったとか。今思い返しても、このときの胸の痛みが甦ってきます。両親どちらにも引き取られなかった彼女の気持ちを考えると、何とも辛くて。
僕は西日本の、とある県庁所在地の出身です。高校は地元で、大学は東京へ。やはり日本でいちばん大きな都市で暮らしてみたかった。馴染めなくて地元へ帰るヤツもいますが、僕は東京が暮らしやすかった。だって何をしても、誰も何も言わないから。自由だなあとつくづく思いましたよ。
就職も東京でしました。二十八歳のとき、短大を出て入社してきた五歳年下の女性と結婚、きれいな人でね、これまたやっかまれましたよ。社内中の男に。彼女は当時流行っていた寿退社。ところが結婚してみたら、どうもうまくいかない。家に帰ると、しょっちゅう彼女の母親がいるんですよ。母と娘が仲がいいのはいいことだけど、週のうち半分以上いるんですから、なんだか落ち着かなくて。新婚なのに、いつも義母が一緒って、ねえ。
泊っていくこともあるんですが、義母が泊っているときに限って、妻は私を誘ってくるんです。2LDKのマンションですから、声が聞こえちゃう。とてもじゃないけど、僕は応じられなかった。ふだんは僕が誘っても背を向けるんですよ、なのに母親がいるときは誘ってくる、あれは何だったんだろう。女として母親に見せつける気持ちがあったんでしょうか。
とにかくそんなこんなで、結婚生活は三年ももちませんでした。「女はわからない」と当時、ひたすら言っていたような気がしますね。あとから社内で彼女とよく一緒にいた社員に聞いたけど、もともとちょっと変わった人だったらしい。
「どうして小林さんが彼女と結婚するのだろう、と不思議でした」
なんて言われて。僕は、可も不可も見当たらないような、ものすごく普通の人間ですから、彼女みたいに変わった人が魅力的に見えたんじゃないかとみんなで言っていたそうです。いや、僕は鈍くて、ただ彼女のことがわからなかっただけなんですが。
★再婚して幸せだったのに
その後は結婚なんてしなくていいやと思っていたんですが、お節介な友だちが紹介してくれましてね。三十五歳のとき、三歳年下でやはりバツイチの女性と結婚しました。すぐに子どもができて。年子で娘と息子。これはもう、宝物です。妻は決して美人じゃないけれど、とっても愛嬌があって、なにより素直。私は妻と一緒に暮らしてみて、素直であることがどれほど大事かわかりました。
素直というのは、他人に対して従順ということではありません。自分自身に対して素直で、偽らない。人に何か言われても、それが正しいと思えばすぐに受け入れる。逆に言うと、ものすごく器が大きくないと素直にはなれないんです。
子どもが小さいときも、彼女は決してイライラしなかった。子どもがぐずると、
「どうしてぐずっているのかな」
と言いながら、ずっと見ているんです。
「放っておけばそのうち寝ちゃうよ」
「この子が何を考えているのか想像しているとおもしろいのよ」
「その時間がもったいない」
「子どもに接している時間がもったいないなんてことはあり得ない」
子どもが小さいときは、家の中がけっこう荒れ放題だったから、僕は当てこすりのつもりで言ったんだけど、言葉の裏を読まないんです、妻は。
そのくせ僕が掃除すると、目を輝かせながら抱きついてくる。
「ありがとう。私、子どもだけで手一杯だから助かるわ」
妻の作戦なのかもしれないけど、結局、僕はひと通り家事をやる、いい夫になっていました。
とはいえ、妻は議論も大好き。新聞や本が大好きだから、やたらと議論をふっかけてくる。刺激的で穏やかで、おもしろい人です。一緒に生活していて、飽きることはありません。子どもたちも中学に入ってからは、妻もパートで働き始めました。いつか正社員になると張り切っています。
家庭も仕事も充実しているんですよ。四年前までは。五十歳を目の前にして、自分専用のノートパソコンを買いました。真っ先にやったのが、中学時代の例の彼女を検索すること。でも、名前だけではわかりませんでした。
その後、東日本大震災があったでしょう。うちの会社は東北とつながりが深いので、半年ほどはほとんど休みもとれず、仕事三昧でしたね、その後、ちょっと精神的に不安定になりました。懇意にしていた会社の方が亡くなられたり、会社そのものがなくなったりして、自分がいかに無力であるかも思い知らされた。会社の近くのクリニックにも通った。心身ともに疲れていたんでしょうね。
妻にもよく愚痴を言いました。聞いてはいたけど、しょせん、妻とはいえども他人。オレの気持ちはわかってもらえないよなと思うことが多かった。それは妻のせいではないんだけど。
なんとなく癒されたかったんでしょうか。ネットで震災のことを語り合うコミュニティに参加するようになりました。被災者じゃないけれど、やはり僕も傷ついてた。それからあちこちのSNSに登録しました。フェイスブックでも彼女の名前を入れてみましたが、やはりわからなかった。
ところが二年前、メッセージが入ってきたんです。田所里美、と。彼女の旧姓は渡辺だったけど、ああ、あの里美ちゃんだとすぐわかりました。今は結婚して東京にいるという。懐かしくてね、すぐに会いたいと返信しました。ああいう形で引っ越したから、彼女も中学時代の友だちに会いたかったらしい。すぐに日程が決まりました。
会って見ると、面影がありましたね。あの当時の恋心が少し蘇ってきた。照れはしたけど、お互い大人ですから、すぐに打ち解けました。
彼女はなかなか壮絶な人生を送っていましたよ。中学から祖母に預けられ、高校は昼間働きながら定時制に通ったそうです。大学にも行きたかったけど、高校卒業まで半年というところで祖母が急死。頼る人がいなくなった彼女は、とりあえずひとりで暮らしながら高校を卒業し、大阪に出たそうです。
大阪では水商売に入った。数年間、がんばって稼いで大学へ行き、昼間の職業をと思っていたらしい。本当は税理士になりたかったと言っていました。ところが、水商売はやはり大変。そんなときに優しくしてくれた男性といい仲になったものの、結局は貯金を取られて逃げられたとか。
「二十代はじめにそんなことがあって、九州に渡ってクラブに勤めたの。ここではまじめに働いたわ」
客あしらいも必死で研究。その店でナンバーワンになり、他店に引き抜かれた。
「でもね、三十歳の誕生日を店で祝ってもらったとき、私は、いつまでこの仕事をやるんだろうって思ったの」
もう少しがんばって店を持つことも考えた。だが、果たしてそれでいいのか。それが自分の幸せなのか。
一年後、彼女は客として来ていた二歳年上のサラリーマンと結婚したそうです。
「客として来ていたとはいっても、彼は下っ端だったから部長のおともだったけど。出しゃばらず、店の女の子にも気を遣ってくれるから人気があったの。私が結婚したときは、けっこうやっかまれたわ」
ところが結婚して三年足らずで彼は突然、会社で倒れて亡くなった。搬送された病院へ駆けつけたときは、夫はすでに息絶えていたそうです。その話をしたときは、さすがに里美ちゃんも涙ぐんでいましたね。
立ち直るのに、相当時間がかかったみたいです。尼になろうかとさえ思ったらしい。かつてためたお金を元手に、小さな小料理屋を開いた。だけど三十代後半に大病をして、病が癒えたあと、お客さんの紹介で、四十歳を前にして。子どものいる家に後妻として入ったんです。夫は一回り上、十歳と八歳の子どもを育てたそうです。私と再会する半年ほど前に、いじめられた姑を見送った、と。ほとんど家政婦みたいなものと寂しそうに笑っていました。
なんだか女の一代記みたいでしょう。こんな人生あるのかと思いましたよ。聞いているうちに、僕がせつなくなって、何度涙ぐんだことか。彼女は、
「小林くんって、そんなに情にもろかったっけ」
と自分も涙ぐみながら笑っていましたが。あちらのお子さんは、もうふたりとも成人している。今は少しだけ離婚を視野に入れていると言っていましたね。週に数回、お友だちのやっている喫茶店を手伝っているんだそうです。さすがに飲み屋は夫が嫌な顔をするからと。
でも長く水商売にいたせいでしょうか、おしゃべりは楽しいし、人を逸らせない何かがありますね。女としてのオーラみたいなものが。彼女ははっと気づいたように、
「ごめんなさい、私ばかり喋ってた」
と言いました。でもそのあと、大きなため息をつきながら、続けたんです。
「私、今まで誰にも自分の人生なんて話したことがないのよ。小林くん、四十年ぶりに会ったわりには話しやすくて」
正確には三十八年くらいでしょうか。でもこれほどの年月がたっても。同級生だったという事実は変わらないものなんですね。
実は彼女の家と僕の職場が、それほど遠くなかったんです。それ以来、ときどき一緒に食事をするようになりました。カラオケスナックなんかにも行ったなあ。
★自分の恋心に気づいたとき
半年くらいそんなつき合いを続けたけど、あるとき、彼女の都合で会えなくなったことがあるんです。そこで気づきました。僕はあの頃と変わらず、彼女に恋をしているんだと。
特に躊躇はなかったような気がします。これは恋なんだと気づいたときは、ちょっとびっくりしたけど、もう人生も半世紀生きてきた。ここで彼女に出会ったのも、何かの縁なんだろうから、縁は大事にしなければと思いました。だからといって、性的な関係になろうと決めていたわけじゃないんだけど。
それでも次に会ったときは口説きましたよ。
「僕は今でも里美ちゃんが大好きなんだ」
でも彼女は笑ってばかり。
「ふたりきりになれる場所に行きたい」
思い切ってそう言ってみました。でも彼女は乗り気ではなかった。
「私はもう若くはない。こんな体をみられたくない」
「オレだって同い年だよ。もうできないかもしれない。だけど里美ちゃんと同じベッドで抱き合いたい」
「そういうつきあいはできない。私は結婚しているもの」
「オレだって結婚しているよ。だけどこれは恋愛なんだよ。好きなんだ。どうしても全部が欲しい、里美ちゃんのすべてがほしい」
必死の口説きが通じたんでしょうか。里美ちゃんが小さく頷きました。気が変わらないうちにと近くのラブホテルに彼女を押し込むようにしたのを覚えています。
こういうことをいっててのかどうかわからないけど、彼女のあそこがとても固くて、ほとんど濡れなくて。
でも僕は、彼女のすべてが愛おしかった。だから舌と指で体中を愛撫しましたよ。愛撫だけで帰ってもいいと思った。彼女は途中でもうやめて言い出しました。
「気持ちよくない?」
「ううん、あなたに悪いから」
悪くなんかないんです、好きでやっているんですから。体の力を抜いてリラックスしてもらって、全身マッサージをしました。あちこち凝ってる感じがしましてね。
そのうち、彼女がふうっと大きなため息をついた。下半身が濡れてきました。そのあとはかなり乱れましたね。おそらく、彼女は何かを封じ込めていたんだと思う。一気に開放されたのではないでしょうか。
それからは定期的に会うようになりました。食事してホテルへというパターンが多かったけど、ときには昼間のラブホテルを堪能してから食事に行ったり、あるいは僕が車を出してドライブしたり。お互いに家庭があるから、ばれたらいけないと思いつつ、彼女となら何でもできるような気がして、わりと周りの目は気にしていませんでした。
彼女もだんだん積極的になってきて、自分から美味しそうな店を探したり、一緒に映画に行こうと誘ってくれたり。
彼女の夫のことはよくわかりません。あまり話したがらないから、聞かないようにしている。ただ、一度、
「里美ちゃんが一回り年上の旦那さんに抱かれていると思うと、たまらない気分になる」
と言ったことがあるんです。そのとき、彼女はふっと冷たく笑いました。
「うちの人なんて、もうずっとできないから。でも私のことはオモチャだと思ってる」
どういう意味かと尋ねたけど、彼女は答えませんでした。夫はセックスはできないけど、彼女の体を弄んでいるということなんでしょうか。そうだとしたら許せない。だけど僕にはどうすることもできないんですよね。
彼女は今ではすっかり感じる体に変わりました。細かった体にも、少し肉がついてきた。太れなかったのに、最近、太ってきたと喜んでいました。女として魅力が増したと思います。
何かが違ったんでしょうか。一度だけ、妻に疑われたことがあります。
「最近、何かいいことがあったの?」
突然、そう聞かれたんです。
「べつに」
「女の匂いがする」
その言葉にはどきっとしました。答えずにいると、そのまま向こうへいってしまいましたけど。
それ以来、妻が疑っているのがわかるので、気を付けています。メールもいちいち削除するようにしているし、彼女と会っているときはホテルの石鹸は使わないようにもしている。それでも怪しいと思われるかなあとつぶやいたら、彼女は、「あなたは愛されているのね」と。
そういう問題じゃないんだけどね。彼女の嫉妬が意外ときついので、そこだけは閉口しています。
僕も旦那さんとのことは気になるけど、お互い結婚していて、今の状況を壊す気はないわけだから、だったら嫉妬なんてするのは時間と労力の無駄じゃないですか、ふたりでできる楽しいことを考えた方がいいんだと思うんだけど。
「私はひがみと卑下ばかりしてきた人間だから」
彼女はときどきそう言います。確かに彼女の人生を考えると、大変だったんだろうなとは思うけど、あまりにも卑下しすぎると、かえって尊大に思えてくるのですよね。
彼女とは、死ぬまで会い続けたいと本気で思っています。だからこそ。もっと前向きになってほしい。今から何かを学んだっていいし、離婚するなら自由になればいい。仲はよくなかったかもしれないけど、夫と添い遂げるつもりなら、なるべく楽しい時間を増やした方がいい。少なくとも恨み辛みを抱えて毎日を生きるのは楽しくないから。
この話を聞いてから二か月ほどたったころ、彼に連絡してみると、彼女とは別れたという。あれほど熱く里美さんへの情熱を語っていたのに、なぜ、彼の妻に知られたのだろうか。私は早速、彼に会いに行った。別れは彼女から唐突に言われたのだという。
「あるとき突然、連絡がとれなって、心配していたら、メールが来たんです。もう会えない、と。どういうことか尋ねたら、なんと彼女、水商売時代の知り合いに再会して駆け落ちしちゃった。結局、自分のために何もかも捨ててくれる男がよかったんでしょうね」
彼は一度は憤りを覚えたが。もし彼女がその男とうまくいかなかったときに、自分が救いの手を差し伸べたいと考えを変えた。彼女を追い詰めてはいけないと感じたそうだ。その旨をメールすると、ありがとうと返事が来た。
「あれから一ヶ月くらいたつけど、たまにメールが来ます。今のところは大丈夫そう。ただ、相手の男の家もぐちゃぐちゃになってしまったらしいから。捜索願いとか出ているんじゃないかと思いますけどね」
彼自身が大丈夫なのかと聞くと、少しやつれた表情で薄く笑ってみせた。
「なんとか。お互いに家庭を大事にしながら付き合っていきたかったんだけど、それは無理な話なんでしょうか」
無理ではないと思う。私が知っている婚外恋愛カップルは、多くが家庭と恋愛は別だと男女ともに思っているのだから。
「今思えば、彼女は特別、愛に飢えていたんでしょうね。自分だけを見てくれる、自分のために何もかも捨ててすべてを捨ててくれることを望んでいたんだと思う。僕にそういう要求はしなかったけど、心の底ではそれを望んでいたのか、とわかりました」
里美さんが彼にそれを求めなかったのは、もしかしたら本当に好きだったかもしれない。好きだから、彼に無理なことはしてほしくなかったのではないだろうか。
「僕としては。本当にそう望んでいるなら、せめて言ってほしかった。でもできるかどうかは別としても、何かなだめようがあったと思う。でも彼女は何も言わないままだった。それは僕を信じてなかったからじゃないかな」
少し遠い目をしながら、弘泰さんはそう言った。
それでもし、彼女が戻ってきたら、弘泰さんは彼女を受け入れるのだろうか。
「ええ。僕が煮え切らなかったからいけないと思うから、今度は離婚を考えようと思っています」
彼は決然とした表情でそう言った。そこまで彼女のことを思っているなら、なぜもっと早く決断しなかったのかと、里美さんの立場になれば感じる。
「家庭を捨てるのは、とんでもなく大変なことだから」
弘泰さんはため息をついた。
★プラトニックを貫き通して
恋すれば、「身も心も」欲しくなるのが人間の性。「どこからが浮気になるのか」と問われる、やはり性的な関係だとする人が多い。ではプラトニックな関係だと、浮気にはならないのか。恋愛とは言えないのだろうか。
素敵だと思った相手が、妻の会社の後輩だった。そこから、山中進さん(五十六歳)の苦悩が始まった。
二十六歳のとき、大学時代の後輩と再会してつきあうようになり、二年後に結婚しました。私が二十八歳、彼女が二十六歳でした。二年後に長男、その三年後に長女を授かりました。私も妻もそれぞれ会社員で、ふたりで協力しながら子どもを育ててきた。平凡だけど幸せでしたよ。私は家庭をもって子どもがいて、という平凡な人生がいちばん幸せだと思っていましたから。
三年前、妻は三十年近く働いてきた会社の役員になりました。すごいことだと思います。頑張ってきてよかったねと、ふたりで乾杯しました。
そのあとかな、「家でパーティーをしてもいい?」と妻が訊いてきたんです。私たちはパーティーをする習慣なんてなかったけど、妻は社内の親しい女性たちを集めたいと。それなら協力するよと申し出ました。私、料理がけっこう好きなんです。
たいして広い家じゃないから、リビングを片付けて、ソファに六人、あとは床に座ってもらったりして結局、十人ほど集まりました。
土曜の夜のパーティーだったので、前日から徹夜で準備。それはそれは賑やかでした。妻には全員を紹介してもらって、それぞれ名刺交換はしたけど、顔をさえ覚えていません。こちらは当日、サービス専門でしたから。
でもそんな会合の中で、妻が案外、同性に好かれているんだなとわかって、私もうれしかった。妻とはずっと同志として協力しあってきたから、妻の喜びは私の喜びなんです。
週明けに、そこに来ていた四十代半ばの関根麗子さんから会社にメールが届きました。当日のお礼と、「私は結婚後も旧姓で仕事をしています。実は弟が山中さんと同じ会社に
勤めています」と。確かに隣の部署に、同じ関根姓の男性がいました。彼に言ったら、「世間は狭いですね」という話から、じゃあ、今度三人で飲もうと盛り上がって。
ただ、その話を、私はなぜかすぐに妻には言わなかった。実現するかどうかはわからなかったからかなあ。結局、何となく言いそびれたんです。
一週間後、麗子さんと弟さんと私とで、小料理屋で鍋を囲んでいました。弟さんは四十代前半でバツイチの独身。誰か社内で好きな人はいないのか、などと軽口を叩いたら、麗子さんが、「結婚なんて一度でじゅうぶんよ。独身でいた方がいいわ」と。彼女は結婚生活に満足していないのかなと思った記憶があります。
その日は麗子さんにご馳走してもらったんです。さすがに仕事ができる女性はすごいですね。知らないうちに支払いが済んでいました。ただ、私としては年上だし、このまま奢られっぱなしだと、なんとも居心地がよろしくない。そこで今度は麗子さんにメールをしました。
「よかったら飲みに行きませんか」
と。ふたりでと書いたわけじゃないけど、彼女はひとりで待ち合わせ場所の店にやってきました。そうやってふたりで会うようになったんです。
もちろん私は彼女のことが気になっていたけど、それは恋愛ではないと思っていました、当初はね。私はけっこう堅物で通っているし、浮気したことがない。子どもふたりをフルタイムで働きふたりで育てていくのは、けっこう大変だったんです。外に目が行く余裕はなかった。仕事関係としか飲む機会もなかった。
ただ、麗子さんにはまた会いたいと思った。話をしたかった。彼女の仕事の話、趣味でやっているフラメンコのこと、最近読んだ本のこと。なんでも面白いんです。こういう考え方もあるのかと、たびたび目から鱗が落ちる思いでした。家庭の話は全くしませんでしたね、お互いに。
★彼女に心が傾いた瞬間
何度か会っているうちに、麗子さんが身を寄せるようにして聞いてきたことがありました。
「私たちが会っていることを、山中さんは知っているのでしょうか」
「いやそれがね。なぜか弟さんと一緒に会っているときのことを話しそびれて、それきり話す機会もなくて」
「私も弟にはいっさい言っていないんです。進さんと私の秘密にしておいてくださいね」
進さん、と名前で言われたときはどきっとしました。もう誰もそんなふうに呼んでくれる人はいなかったから。妻は私を、「あなた」とか「お父さん」と呼ぶ。私もほとんど「お母さん」かな。どうしても子ども目線で呼ぶようになりますもんね、夫婦は。
だから「進さん」のひと言は強烈でした。意識が彼女にぐぐっと傾いた。というか、彼女に傾いている意識に気づかされたのかもしれません。
彼女は私より八歳年下。当時すでに四十代半ばだったけど、どこかコケティッシュでかわいいんですよ。本人は無意識なんでしょうが、男を引き付ける魅力がある。一方で、仕事ぶりなどを聞くと、けっこうシビアだったりもして。
ふと思ったけど、配偶者って、家庭にいるときしか相手を見ることができないんですよね。同じ会社の同じ部署にいるとか、ひとつの商店をふたりで切り盛りしているとか、そういう夫婦は別だけど。そして、たぶん、人は圧倒的に外にいるときの方が輝いている。だから夫は妻を「若いときはきれいだったのに」と思い、妻は夫を「昔はもっとかっこよかったのに」と思うでしょう。
今だって他人として見れば、きっと魅力的に映るはずなのに、他人として見ることはすでにできなくなっている。皮肉なものだなあと思います。
うちは夫婦お互いに尊重しあっていると思ってやって来たけど、じゃあ、男女として輝いている面を見てきたかと言われたら、見てきていません。家では必然的に親であり、夫でしかない。男として妻にときめくか。これは難しい問題だと思います。妻側から言っても同じでしょう。
私にとって、麗子さんはどんどん大きな存在になっていきました。会社では、女性社員から「最近、いいことがあったんですか」とからかわれる。実際、毎日が楽しかったです。知らないうちに恋していたんでしょうね。
麗子さんとは、ほぼ週に一回くらい会っていました。食事したりお酒を飲んだり。ときには深夜映画に行ったこともあります。昔の懐かしい映画をやっていたもんですから。映画館みたいなところで肩を並べて座っていると、妙な気分になったのを覚えています。そのとき、彼女が何かを落としたので、体を曲げ、手を伸ばして私の足元から拾ったんです。一瞬、彼女の手が私の足に当たり、髪が私の膝のあたりに乗ったのを見て、正直な話、長い間ピクリともしなかった下半身に力が入りました。
彼女はいつも薄い色のマニキュアをつけていて、それを見るのも好きでした。指がきれいなんですよ。食事をするときは、しなやかに動く彼女の指先をいつも見ていた。そうすると、下半身がキュッとしてくる。若いときの爆発的な性欲じゃなくて、体の奥からじわじわと色気を感じてキュンとくる感じなんです。
一年ほど経ったとき、そろそろ限界なのかなと思うようになりました。それまでも別れ際に握手をすることはあったけど、もっと触れたいと強く望むようになった。あるとき、握手した手をグイっと引いて抱きしめたことがあるんです。彼女も黙って私の背中に両手をまわしてきました。しばらくそうしたまま、私たちは自然と静かに離れて「またね」と言いました。
でも、もう無理だと思った。好きだからすべてがほしい。一方で、彼女は妻の部下でもある。そんなことをしていいはずがないともわかっていた。
ある週末、家でのんびりしながら、「今日は友だちが経営しているイタリアンにでも行ってみようか」と言う話を妻としたんです。すると妻が、
「そういえば、前にうちに来た麗子さん、覚えている?」
と。突然だったので、そのことに驚いて「え?」と返すと、「あのとき、あなたは忙しかったから覚えてないわよね」と妻。
「パーティーのとき来てくれた、ほら、大きなケーキを抱えた人」
「ああ、そういえば」
私はどぎまぎしていました。
「彼女、恋をしているらしいのよ」
「は?」
素っ頓狂な声を上げてしまいました。
「失礼よ、あなた。麗子さんはとってもチャーミングなんだから」
「いや、こ、恋って」
「もちろん結婚しているわよ。だけどあの冷静に仕事を進める麗子さんが、最近、ため息をついたりぼんやりしていたりするんですって。そんなこと初めてだから、みんなで麗子さんが恋してるのかもって陰で囁いてるらしいわ」
妻は明るい声で笑いながら言いました。私も笑ったつもりだけど、顔がひきつってしまった。
「ああ、そうね。麗子さんのことをちゃんと覚えてないとわからないわよね。とっても素敵な人なのよ。だけどあの人は仕事の鬼だから、恋という言葉は縁遠いの。結婚も晩婚で見合いだったからね。子どももいないし。本当は仕事と結婚していて、夫はダミーじゃないかってみんなひどいことを言っているわ。それだけ麗子さんに一目置いているし、みんな彼女のことが好きなんだけどね」
私は複雑な思いを抱えたまま、妻と一緒に、大学時代の仲間がやっているレストランに赴きました。
飲食業界にいる妻としては、店の視察もしたかったようです。仕事に結びつくかもしれないから。店主である友人は、いい席を取っておいてくれました。
★意外な場所で彼女に会って
奥の席に座るなり、妻が「あら! 噂をすれば」とつぶやいたんです。振り向くと、少し離れたテーブルに麗子さんがいました。弟さんと一緒です。これはまずいと思った。弟さんが「いつぞやは」と言い出したら、一緒に食事をしたことが妻にばれてしまう。ばれてもいいけど、どうして言わなかったのと、妻は一気に疑心暗鬼になるでしょう。
「一緒にいる人が恋している人かしら」
妻が興味津々という顔をしているので、
「あんまりプライベートなことに口を出さない方がいいよ」
と釘を刺しておき、私はトイレへと走りました。そして麗子さんにメールをしたんです。妻と来ているから、弟さんと前に一緒に食事をした件、対処よろしく、と。
麗子さんからすぐに「了解」とメールが来ました。席に戻ると、妻と麗子さんが店の奥で立ち話をしています。弟さんが振り向いて会釈しました。妻は気づかなかったと思います。
「お久しぶりです」
麗子さんは明るい声で言いました。
「ほら、こちらが麗子さんよ」
妻が言い添えます。
「あ、パーティーのときは大きなケーキをありがとうございました」
とってつけたように言ったと思います。麗子さんは、ぱっと弟さんを振り返りました。
「そういえば、うちの弟、山中さんと同じ会社なんですよ」
弟さんが立ち上がります。
「おお、関根くん」
私の演技はわざとらしかった、たぶん。
「え、姉と知り合い何ですか、山中さん」
「うちの妻がきみのお姉さんと同じ会社なんだよ」
弟さんも下手な演技で返してくれました。そんなやり取りがあって、麗子さんがにこやかに促しました。
「山中さんたち、お食事これからでしょう。私たちはもう出ますので、ご夫婦でごゆっくり」
妻と私は自分の席に戻りました。そのとき、麗子さんが席を立つのが見えた。同時に私の携帯が鳴りました。
「仕事?」
「うん、そうみたいだ」
実際、仕事の電話でした。
「ちょっと、ごめん」
立ち上がって出入り口のほうに向かいました。店主と話をしていた麗子さんが目に入ります。私は彼女の後ろを通りながら。ちらっと妻へ目をやりました。妻はメニューに夢中。私は彼女の腰に少しだけ触れて外へ。
電話はすぐ終わり、店内に戻ってみると、店主と彼女がまだしゃべっている。
「知り合いだっただって?」
店主がレジカウンターを挟んで言いました。
「うん。妻と同じ会社なんだ」
「奇遇だね。別のルートで、うちは麗子さんとついつい最近、親しくなったんだよ」
「世間は狭いよね」
立って話していると、麗子さんが私の手をぎゅっと握りました。彼女の手がどこにあるかは誰にも見えません。こんな大胆なことをしてくるとは。私は全身がしびれるようでした。
麗子さんと弟さんは帰っていきましたが、私はもう、その日は何を食べたか、妻や店主とどんな会話をしたか全く覚えていません。
次にふたりで会ったときは、照れながらもその話で盛り上がっちゃって。どうやって弟さんを黙らせたのかと尋ねたら、「あの子は私の言うことなら何でも聞くの」と笑っていました。
今なら言えると思ったから、私は口火を切りました。
「麗子さんのすべてがほしい」
と。
彼女はにっこり笑って、「だめよ」と。
「あのね、家庭を持っている男と女が関係を持ったら、次は別れしかないのよ。私はあなたとの関係を変えたくないの」
「ずっとつき合っていくことだってできるだろう」
「無理よ。私たちは今はただの友だち。たとえ配偶者にしられても、浮気なんてしていないと言い切れる。だけど寝てしまったら? 配偶者たちは怒り狂って、私たちも言い訳できなくなって、もう会えなくなるのよ」
「でも、オレは麗子さんが好きなんだよ。女としてこんなに魅力的な人はいないと思っている」
「ありがとう」
玲子さんは落ち着いていました。ぐだぐだ口説く私を、さらりと躱していきます。
「私もあなたが好きよ。本気で好き。だから寝てはいけないの」
彼女の目がきらきら輝いていて、私はそれだけでくらくらしました。
結局、そのままプラトニックで私たちの恋は進行していきます。お互い好き、恋しているという認識はある。だけど肉体関係はもっていない。
八〇年代にヒットした作品で、『恋におちて』というアメリカ映画があったんです。ロバート・で・ニーロ扮する男と、メリル・ストリープ扮する女が婚外恋愛に落ちる。ただ、ふたりは肉体関係をもたない。男の妻が気づいて怒りながら、「寝たの?」と聞くと、男は「いや」と答える。妻はいきなり男の頬を張るんです。「その方がもっと悪いわ」って。
この映画のことを麗子さんに言ったら、知っている、と。
「でもね、もし寝ていたら、妻は許したと思う? 私は、もっとショックを受けたんじゃないかと思うわ」
そうか、と思いました。気持ちがありすぎてセックスができなかった。そのことを妻は指摘して怒ったとおもうんです。でも、いざ「寝たよ」と言われたら。確かに平手打ちでは済まなかったかもしれない。そう考えると、どっちが罪深いのかわからなくなってきます。
麗子さんの意見はこうです、
「恋しているかどうかは、寝たかどうかじゃないと思う。どのくらい深く相手を必要とし、必要とされているかよ」
「だったら寝てみたら、もつと必要としあえるかもしれない」
「関係じたい、単なる不倫に堕ちる恐れもあるわね」
「きみは結局、怖いんじゃないか」
半分冗談めかしに言ったんですが、彼女は初めて目に涙をためました。しばらく黙り込んで、ようやく顔を上げると、
「怖いわよ。私はあなたを失いたくない。だから怖くて寝られないのよ。先が見えてしまうのが怖いのよ」
小さく叫ぶように言いました。
そのとき、ああ、私たちの関係はこれでいいのかもしれないと思ったんです。
もちろん、私としては自分の体が大丈夫なうちに彼女を抱きたい。彼女も、本音では私と寝たいと思ってくれている。もう、それでじゅうぶんじゃないか、気持ちが通い合っていて、この気持ちのいい会話が続くなら。そう思いました。
この先、ふたりの関係がどうなるかわかりません。ひょっとしたらいつか関係を持つかもしれないし、持たないかもしれない。何もないまま、ある日、急に別れてしまうかもしれない。でも、なんだかこのまま続いていきそうな気もするんです。
プラトニックな恋なんて恋じゃない、大人じゃないと思われるなら、それでいいんです。私たちのことを分かっているのは、私たち以外、誰もいないのですから。
進さんの会話は非常に楽しかった。麗子さんがどういう人かも生き生きと語ってくれたからだ。
正直言って、私はプラトニックは、大人の恋ではないと思っていた。だが、彼の話を聞いて認識が変わりつつある。自分の年齢も関係しているのかもしれない。
麗子さんが言うように、セックスしたからといって恋だと断言できるわけではない。しないからといって、ただの友だちだというわけでもない。セックスがなくても、「男女の恋」はあり得るのだと思う。現に、こんな素敵な関係を結んでいるふたりがいるのだから。
つづく
第四 ★家庭での居場所がなくなって