亀山早苗 著
はじめに――恋をしたい大人の男たちが増えている
ここ数年、四十代半ばから五十代、団塊世代の下の年齢くらいまでの男性たちから、「最後の恋をしたい」「最後の恋が終わった」という話を、やたらと聞くようになった。
彼らの置かれた状況は、半世紀も生きてきて、社会的にもプライベートにおいても、どことなく先が見えているところ。今さら一攫千金(いっかくせんきん)を狙うわけにもいかない。細々と、いろいろなものを守りながら生きていくしかない。若いときと違って、未来に明るい展望など抱けないのだ。会社でも、もはや出世も望めない。家庭にも居場所がない。
だからといって、心身ともに、まだ完全に老いたわけでもない。老い支度を急務とする必要もない。まだまだ、自分だって社会の役にも立てるし、楽しみだってある。そう思いつつ、ふと彼らは思うのだ。
「何をし残したのだろう」
そこで出てくる答えが「恋」なのである。
確かに五十歳を超えると、先はそう長くないと実感する。たとえ八十歳まで生きたとしても、自分の足で動いてどこまでいけるのだろうか。頭しっかりしているのだろうか。友人たちも元気でいてくれるのだろうか。いろいろ考えると、今までとは違う三十年が待っていると、はっきりとわかる。
人はそういうとき、ふっと過去を振り返ってしまうものだろう。そして、残り少ない「元気な間」に、何をしたいのかと自分に問うのだ。
男性の場合、そこで「恋」という言葉が出てくる。
これは本当にごく最近のことだと思う。そもそも長い間、男が「恋」という言葉を口にすることさえ、憚(はばか)れてきたはずだ。ためらいもなく、男たちが「恋」と言うのを聞いたとき、時代は変わりつつあると確信した。
それにしても、なぜ男たちは」し残したのは恋」と断言するのだろう。そして、もし恋をしたら、彼らは何を得るのだろう。あるいは、逆に何を失うのだろう。
人生が晩秋に入った時期、男たちの心をとらえる「恋」は、どんな実態をもって彼らを行動へと立てるのか。そして、男たちはどんな喜怒哀楽を味わうのだろう。
第一章「最後の恋」に落ちる男たち
「恋をしたい」ことと、「恋をしてしまった」こととは大違いだ。アラフィフ男たちが、恋に落ちるきっかけは何だろう。そして誰にも恋をするのだろうか。
★きっかけ
「恋したい」という潜在的な願望をもっていると、人は恋に落ちやすい。なぜなら、無意識のうちに、恋をする準備がなされているからだ。そんな人は、きっかけさえあれば背中を押されたも同然。
そのきっかけとなるのは何だろう。
「ある日ふと、仕事でよく話をする女性に、”女”を感じたんですよ」
伊藤彰夫さん(五十二歳・仮名〈以下同〉)は、低めのある声で言った。それは取引先の女性だった。もう何年にもわたって顔を見、言葉を交わし、仕事をしてきた。それなのに、二年前のある日、急に女を感じたのだという。
「当時、二歳年上の妻が更年期の真っただ中だった。あちこち病院に行ってもよくならない。そもそも、いわゆる不定愁訴(ふていしゅうそ)で、どこかどう悪いというわけでもなかったようで。話を聞かされても、こちらはわかないのですよ。
『大変だね』『少しゆっくりしたほうがいいよ』と毎日言っていたけど、妻にしてみれば、そうやって距離を置いたような言い方に腹が立つみたい。だからといって、わかるといって、わかるよとも言えないし。妻との関係に疲れていた時期だったんです」
取引先の彼女は四十歳。彰夫さんから見たら、明るくて若かった。光に見えた。たとえは悪いが、人は蛾のように明るい光に吸い寄せられていくものだ。特に自分が弱っているときには。
「それで仕事の話が一段落したときに、『今日、時間ある? たまにはメシでも食おうか』と言ったんです。みんなで食事したことはあるけど、ふたりきりでは一度もなかった。彼女はおそらく何人かで一緒だと思ったんでしょう。快く承諾してくれました」
いったん会社に戻るという彼女を見送り、彼は慎重に店を選んだ。大人の女性が喜びそうな店を自分が知らないことに気付く。パソコンで検索した。ようやく店を決め、場所などを彼女にメールで送る。この一連の作業が楽しかったと彼は言う。
「彼女は店を気に入ってくれるかなあ、とわくわくしながら調べたりしてね。独身時代をふっと思い出しました」
この世代が若いころは、”マニュアル”が流行りだした時期だ。高度成長を終えて、バブル始まるころ。八〇年代始めだ。デートをするならこんな店がいい。迎えに行くならこんな車で、と男性向けの雑誌がこぞって「デートマニュアル」を載せていた。
彰夫さんにとっては、そのころ読んでいた雑誌がパソコンに代わったような感覚だったそうだ。雑誌のマニュアルよりネットの情報のほうが取捨選択の余地が大きい。それもまた、わくわく感に拍車をかけた。
その日、店に行くと彼女は時間とおりにやってきた。彰夫さんがひとりでいるのを見て、あら? という顔をしたが、疑問を投げかけることはなかった。
選んだのは、彰夫さんの故郷である北海道の料理を出す店。
「私が北海道出身だとご存知でしたっけ、彼女か言ったんです。ええー、そうだったのと話は一気に弾みました」
出だしがスムーズの上に、こんな「奇遇」があったら、小さな恋心は一気に大きくなる。
恋のきっかけは、些細なものかもしれない。特に男性にとっては。
男女ともに「異性に好感をもつ」のは、よくあることだ。それが恋に変わるのは、ふとしたきっかけがあるかないか、なのかもしれない。
「きっかけねえ。好きなタイプに出会えるかどうかじゃないかなあ。若いころはそんなふうに思っていなかったけど」
友人の加藤隆一さん(五十二歳)は、少しだけ遠い目をしてそう言った。彼のことは二十代のころから知っている。恋多き男で、彼に好きなタイプがあるとは思いもよらなかったほどだ。そう言うと彼は苦笑した。
「若いころは、どんな女性にも興味があったんだよ、たぶん、だけどこの年になると、ああ、こういうタイプが本当は好きだったんだなあと分かる。実はここ二年くらい、とある人妻とつきあっているんだけど、この人が本当に素敵な女性なんだ」
結婚してからも、比較的、自分の恋愛を隠さない彼だが、その彼女のことは誰にも話していない。本気度が高そうだ。
「五十歳の誕生日が、ちょぅど結婚二十年でさ、息子は大学生、娘は高校生。とりあえず家も買った。それほど出世したわけじゃないけど、このままいけば今の会社で定年を迎えられる。節目のその日に家族が祝ってくれて、オレも妻にプレゼントなんかあげちゃって。絵に描いたように幸せだったわけよ」
ふむふむ。のろけているかと聞いていると、彼の沈んだ声が聞こえてきた。
「なんだかなあって思った、そのとき。オレの人生はこれなのか、と。いや、幸せなんだよ。別に大望を抱いていたわけじゃない。だけど、このまま死んでいって、後悔しないのかと自問自答した。答えはノーだった。もう一度、自分の体の奥底から燃えるような気持ちを味わいたいと思った」
起業したいと彼は十年ほど前に思った。だが、いろいろシミュレーションしてみると、必ずしも成功するとは思えない。一か八かの勝負をするには、守るものが多すぎると彼は判断した。定年までは会社にいる。それが彼の出した結論だった。しかし、心の中には、長い間、ふつふつとわき起こるものがあったのだろう。
★大事にしたい思い
「そのときは、し残したことが恋だとは思わなかった。だけど、誕生日から一年後、出会ってしまったんだよ。彼女に」
彼女は同い年。小学校の同級生だという。彼の実家は北陸のとある町、数年前に父が亡くなり、母一人で暮らしているので、たまに訪ねてはいた。
「そのとき、母の所に来た女性がいてね、オレの顔を見るなり、『隆ちゃん』って、懐かしい声だったなあ。ふと見ると、幼なじみの和美ちゃんだったわけ。和美ちゃんは、結婚して関西に行ったと聞いていたんだけど、なんと離婚して実家に戻ってきた。ひとり息子は関西の大学近くでひとり暮らしをしているんだって」
和美さんと話をしているうち、彼は自分の原点を思い出すような気持ちになった。話題は尽きなかった。
「母親の所へ行くたび、和美ちゃんに会うようになって。お互いの人生を語り合ううちに、これからはこういう人と付き合いたいなあと思ったんだ」
一目見て恋に落ちた若い人は違う。結婚相手として過不足でないと判断した妻への気持ちとも違う。じんわりと、心の奥底から「この人を大事にしたい、一緒にいたい」という今までに感じたことのない思いだった。それが彼の「好きなタイプ」だったわけだ。
だが、子どものころ、和美さんと特に親しかったわけではない。高校生まで地元にいたが、和美さんを恋愛相手として意識したことはなかった。お互いに人生経験を積み、再会したらこそ話が合うのだろう。もちろん、相手は幼なじみならだれでもよかったわけではない。ひょっとしたら、ブランクだった時間の生き方が似ていのかもしれない。
「出会いって不思議だよね。オレたちの場合は再会だけど。もっと前に再会していても、何も感じなかったのかもしれないしね。和美ちゃんだって、離婚せずにただの里帰りでオレに会ったのなら、こんなことにはならなかったかもしれない。こういうのを巡り合わせっていうのかなあと思ったよ」
隆一さんは、いつになくしみじみとそう言った。
★ 誰もが抱く欠落感
人はいつも、どんなときでも、心のどこかに欠落感を抱いているのかもしれない。そんなとき、ひょんなきっかけで恋が忍び込んでくる。そのきっかけに気づかないこともあるだろう。
だが、半世紀以上生きてきた男たちは、自分の欠落感を意識しているし、忍び込んでくる恋を拒絶する気もない。拒絶する前に、恋に取り込まれてしまうのかもしれないが。
きっかけは、いいなと思う人との出会い。だが、そこで背中を押すのは、日常的な欠落感と、そして残り少ない「元気でいられる時間」への焦燥感。
「男を取り戻したい感覚も、あるかもしれません」
武田光弘さん(五十歳)が、意外なことを口にした。
同年代の女性たちが、「婚外恋愛」をしたときに発する言葉と同じだ。
「妻は私を男として見てくれません。もう五年以上、セックスを拒否されている。『風俗でも行って』と言われたことさえあるんですよ。
それさえ求めなければ、家族としてはやっていけると。私は妻を女として見ていたいけど、妻のほうは『子どもの父親』としてしか見ていません。だからといって離婚するほどのこともない。うちは二十歳と十歳と、年の離れた子どもたちがいるんだけれど、特に下の子とはまだ離れたくないしね」
会社員として、父親として、世間に向ける夫としての自分の顔も嫌でもない。役割は役割として楽しんでいる。それでも、ときおり、『オレだってひとりの男だ』という思いがよぎるそうだ。
「役割をすべて捨てて、ただの男になりたい瞬間が、男だってあるんですよ。それを意識させてくれたのが彼女だったというわけです。私の場合」
彼が出会ったのは、中途入社してきた三十代半ばの女性。離婚して独身に戻ったばかりだったという。
「バツイチ子どもなしですって元気に言われて、ちょっと面喰いましたけど、私が今まであったことのないくらい明るい女性ですね。仕事は熱心。だけどそそっかしくてときおりミスをする。落ち込んで反省して、また元気になって。見ていると面白いんですよ。部署の飲み会のときも、率先して自分の失敗をネタにしてみんなを笑わせる。なにげなく、『今度、メシでも行こう』と気楽に誘ったら、満面の笑みで『はいっ』って」
ふたりきりで食事に行っても、恋愛感情など抱かなかった。あくまでも部下として接していたつもりだった。元気で仕事熱心な彼女を早くひとり前に育てたい気持ちもあった。
「だけど気づいたら、彼女の魅力から目を背けられなくなっていた。女として意識していたんですね。自分でもいつどうしてかわからない。特別にきっかけがあったわけではない。ただ、仕事で私が部下をかばったとき、あとから彼女がこっそり『部長は男としてかっこいいです』と言ってくれたんです。そのとき、胸の奥から熱くなった。彼女が私の『オトコ』を引き出したような気がします」
オトコを刺激され、オトコとしての意識に目覚めてしまったのだろう。それもまた、恋のきっかけになり得るはずだ。
男女とも、自分を「男だ」「女だ」と自ら意識することは難しい。やはり異性の目があってこそ、自身の性を特別視するようになるのではないだろうか。
★ 家庭での顔と男としての顔
光弘さんが言うように、人はふだん「役割」としての自分を生きている。必ずしも演技しているわけではない。周りの状況を判断して、自然と仮面をつけ替えているのだと思う。
もしかしたら、それは女性の方が得意とすることかもしれない。女は生まれながらにして「女優」だから。
女は男に比べて、自分に酔いやすい側面がある。結婚式で「世界一幸せな花嫁」を演じるのも好きだし、何かあったとき「世界一不幸な私」を演じるのもうまい。演技していることすら自覚しないままに、その時に応じた役を演じ切る。
一方、男性はどこかで自分を客観視する習慣が抜けないのか、その役になじむまでに時間がかかる。夫になるのも父親になるのも、その状態がある程度習慣化されないと、役が板につかない。もちろん、個人差も大きいから一概には言いきれないが、そこに男女の違いがあるような気がしてならない。
家庭にあっては主婦として妻として母として、すっかりなじんでその役をすんなり演じきれる女性に対して、男性はいくら年月がたってもどこかで夫でいなければいけないと気になり切れず、ふと浮遊するような感覚があるのではないだろうか。
「演じているうちに、素の自分を忘れていますね。家や地域では、それなりにきちんとした父親や夫としての言動が求められる。私は親に対しても『いい息子』でありたい。ときには親を諌めなくてはならないし、逆に甘えることが親孝行になることもある。同じ役割でも、その時によって『こういう演技をしておいた方が相手が喜ぶ』とわかっていれば、どうしたって期待に応じなければと思ってしまいます」
白木洋司さん(四十九歳)は、少し疲弊したような様子で語った。常に相手の期待以上の自分を見せようとすると、彼が言うように確かに大変だ。しかも、そんな自分のありようを分析しているのだから、洋司さんが疲弊した表情になるのも当然。いったいどうして、そこまで考えてしまうのだろう。
「学生時代の友だちと飲みながら話したことがあるんです。男って、というか私たちの世代は、やっぱりまだ『男とはこうあらねばならぬ』という気持ちが強いよね、と。会社の若い男性を見ていると、彼らにはもうそういう思いはあまりない。私はまだ『男とは強くなければいけない』『夫たるもの、妻に苦労は掛けてはならぬ』などと思っています」
洋司さんは二十九歳のとき三歳年下の女性と職場結婚。妻は専業主婦ふたりの子を授かった。三十七歳のときにマイホームを買い、当時に妻は週三回パートで働くようになった。典型的な日本の家族といってもいいだろう。
「私自身も典型的な日本の男なんだと思います。流通関係の企業で部長職ですが、部長になってからストレスまみれになっていると自分でも思います。上司からはやたらとハッパをかけられる。そんなときはいい部下であろうとしている自分がいる。自分の部下たちには、いい上司だと思われたいから気を遣う。
関係している部署にも、いい部長だと思われたい。すべての場面で『いい人』『一緒に仕事をしたい』と思われたいから。無理してしまう。いいたいこともぐっと抑えて。その理由が、自分が嫌なやつだと思われたくないからだというのがせこい感じがして、なんだか忸怩たるものがある」
いい人と思われたい、悪者になりたくない。男たちの心の奥にはそういう願望が根強くある。そここうしているうちに、喜怒哀楽のありようが分からなくなっていく。自分の本音も見えなくなる。
「確かに素の自分がどういう人間なのか、ときどき分からなくなってしまうことがあります。年齢を経ればどんどん自分のこともわかってきて、生きやすくなるんじゃないかと思っていたけど、案外生きづらいなあと」
大人はこうあるべきだという考え方も強い人なのだろう。現実は、年齢を経れば立場も複雑になり、要領よく立ち回らなければいけなくなる。根が正直で、なおかつ「こうあるべき」という理想が高いので、がんじがらめになって柔軟に対応できないのではないだろうか。
「立場を捨てて本音でいいじゃないかと友人は言うんです。彼は五年前に離婚したんですが、離婚と同時にあらゆるものから自由になったそうです。気持ちは分かるし、私もそうなれたら楽だろうと思うけど、よほどのことがないとそうはなれないでしょうね」
そんな洋司さんが今望んでいるのは、「自分を無条件であがめてくれる存在」だそうだ。つまりは、自分の絶対的な味方になってくれる女性がいたら、どんなに人生が変わるのだろうと思っているらしい。
「私は現実に恋愛なんてできないと思います。いくら家庭や職場に不満があっても、それらを失う可能性があることを考えると勇気が出ない。だけど妄想することはあるんですよ。中学生のころ片思いをしていた女の子と、何かの方法で連絡が取れて、彼女は今、あまり幸せでなくて‥‥。その彼女が私のことを実は好きで忘れられなかった、なんていう妄想をね」
そうなったら彼はどうするのだろう。すべてを捨てて彼女と一緒になろうとするのだろうか。
「妄想の中ではね、完全に『失楽園』状態ですよ。彼女とふたりきりで小さな部屋に住んで、最後はもう一緒に死んじゃってもいいかなあ、と」
うーん。こういう男性は洋司さんに限らず、案外多い。日ごろ、婚外恋愛などついて否定的なことを言うタイプだが、わりと大きな妄想を抱いている。まじめに生きてきた中高年の典型かもしれない。
もちろん、こういう男性を否定する気も非難する気もない。妄想は個人の自由だ。だが、女性や恋愛に対して過大な期待を抱いている分、万が一、本当に恋愛に陥ると暴走する危険もある。抑圧されていると感じている分だけ、恋愛すると自分を解放しすぎてしまうのだろうか。
★彼女しか見えない
「私がそうでした」
名乗り上げてくれたのは、石原英太さん(五十二歳)だ。中学時代の同級生だった女性と再会し、恋に落ちた。
「結婚して二十年、一度も浮気なんてしたことがなかった。仕事一筋で、家庭のことは妻に任せきり。私自身、仕事人間だった父親に遊んでもらった記憶がないので、それだけは意識しましたけどね。子供と一緒にいる時間は大事にしたつもりだし、夏休みや冬休みには必ず家族で旅行もしたし。ただ、それ以外は典型的な日本のオヤジだと思います」
そんな英太さんが恋に落ちた。自分でもまさかそんなことになるとは思っていなかった。
「それまでも中学時代の同級生は会ったんです。ただ、彼女は参加したことがなかった。三年前に再会したとき、心が疼きました。中学時代とまったく変わらない彼女がいた。
彼女はなんと二十歳のとき、二十歳年上の男性と結婚していた。ふたりの子を授かったが、三十歳のとき夫が急死。それ以来、昼も夜も働いて子どもたちを育ててきた。下の子も結婚して、ようやく自分の時間が持てるようになったので、クラス会に参加したのだと言う。
「この話を聞いて、私はすっかり心を動かされてしまった。そんなに頑張るタイプだと思えなかったから。女性は強いですよね。しかも彼女は、苦労が顔に出ていないというか、とても穏やかな表情で、いいところの奥さんにしか見えなかったんです」
男は女の苦労話に弱い。英太さんの中で、たった一人で頑張って働く彼女の姿が浮かんだことだろう。
「それから必死で彼女にアプローチしました。『家庭がある人とそう言うことにはなりたくない』という彼女を口説きに口説いて。今でも、どうしてあれほど彼女に熱くなったのか説明ができないんです。ただ、彼女をもっと近く感じたかった。彼女を自分のものにしたい気持ちが強かったんだと思います」
クラス会で会ってから何度もデートを重ね、半年後、ついに彼女とホテルへ。若くないから裸を見せられないと恥ずかしがる彼女に、「今のきみが好きなんだ」と決定的な言葉を浴びせ続けた。
「彼女とひとつになれたときの歓びは、何も変えがたかった。もうそれからは、彼女しか見えなくなりました」
会社帰りに、ひとり暮らしの彼女の元へ寄るようになった。一週間、ぶっつづけで寄ったこともある。何時になっても、彼女は待ってくれた。外泊などしたことのなかった彼が、週に一度、二度と泊まるようになる。それで妻にわからないはずがない。
「一ヶ月もたたずに、妻から『最近、おかしいわよ。どうなっているの。きちんと説明して』と言われました。自分のことしか考えられなかった私は、『好きな人ができた。別れてほしい』と口走ったんです。うちは当時、まだ大学生だった息子と高校生の娘がいた。それなのに、私は子どものことすら頭から飛んでいて、とにかく彼女と一緒になりたいと思い込んでしまったんです」
妻は呆れたように、彼を見つめていた。そして無言で泣き出したという。
「これも意外でした。妻が泣くのを見るのは初めてだったかもしれない。気の強い人ですから。私は妻に泣かれても、頭が彼女のことで一杯。その日のうちに身の回りのものをまとめて、家を出ました」
なんと、彼女のところに家出してしまったのだ。翌日からは、彼女の家から出勤するようになった。だが、彼女の所には、近くに住んでいる娘夫婦がたびたびやってくる。週末は居づらくて、あてどもなく街をさまよったこともある。
「それでも彼女への思いは変わらなかった。彼女自身、娘に責められ、私との板挟みなって苦しんでいたし。ふたりでいるときは幸せでしたよ。彼女はいっだって私のためになりたいと言ってくれていた。会社から帰ると、私の好物がテーブルに並んでいる。風呂に入れば背中を流してくれ、寝るときはマッサージもしてくれる。話をすれば目を輝かして聞いてくれる。妻とは、結婚当初からそんなことはなかった。尽くしてくれる彼女を愛しくてたまらなかったんです」
私は思わず、英太さんの顔をまじまじと見てしまった。同世代の彼が、前の世代の男性たちと同様、尽くしてくれる女性の存在を心から求めていることが不思議な気がしたからだ。
ただ、ひょっとしたら男とはそういう生き物なのかもしれない。これを読んで「男を舐めるな、男だって尽くされるだけでなく、もっとちゃんと向かい合って女性と関わりたいんだぞ」という気概をもつ男性がどのくらいいるのかわからないが。
女たちは、あるときから気づいてしまったのだ。男は「ママ」をほしがっていると。そして自ら「ママ」となれるタイプの女性がモテるのだ、と。だからママになれない女性は、男性と付き合うことさえ拒絶しつつある。そういうタイプの女性は、女同士でつきあうほうが気楽でいいとわかってしまったのだ。
もしかしたら、男たちは永遠に変わらないかもしれない。絶対的な味方がほしい、自分だけ見てほしい、自分の庇護の元にあって満足する女でいてほしい、等々。個人的には、ときに向かい合ったりときには伴走したり、ときに保護したりという柔軟な関係を望んでいるが、それができる男性はおそらく、今の時代にあっても少ないのだろうと想像できる。
さらに考えてみれば、それが男性の本質なのではないだろうか。持ち上げられないと動けない、味方がいないとがんばれない、さらには無条件で甘える場所が欲しい…‥。それを鎧に隠しているのが男だという気がしてならない。
実は私は、「女の人にはかなわない」「男はどうしてがんばったってダメ」と男性自らが言うのを聞くのはあまり好きでない。先に白旗をあげてしまったほうが責められずにすむというみみっちい意図を感じるからだ。最近、そうやって女性を持ち上げる男性が増えているが、必ずしも本心からではないように感じられる。
威張るのも卑屈になるのも、女性と同じ目線にならない、同じ土俵には上がらないという点では同じ。女性はもっと真正面から向き合ってほしいのに、いつまでたっても男女は歯車が合わない。昨今、ますます男女が背を向け合っていると私は感じている。
それはともあれ、英太さんはそうやって恋に落ちたのだ。彼の男心をどこまでもくすぐり、気持ちよくしてくれる女性に出会えたのだ。夢中になるのも致し方ない。
「家族のことも考えずに家を出て彼女の所へ行って。だけど三ヶ月くらい経つうちに、裏切った家族に対して、今度は罪悪感が募っていったんです。彼女は相変わらず尽くしてくれるけど、『彼女のせいでオレは家族を捨てざるを得なかったんだ』という思いがどこかにあった。『私のせいでこんなことになってごめんなさい』と彼女はひとことも言わない。そこにちょっといらだったりしてね」
彼は自分の意志で家を出て彼女の所に転がり込んだのに、その行動までも彼女のせいにしてしまう、男の身勝手さに、男に寛容な私でさえちょっとむっとした。それが伝わったのか、彼は苦笑した。
「身勝手ですよね。自分でもわかっています。初期の恋の熱が冷めた時期だったんだと思う。それまで本当に、自分でわからないくらい、頭がかっかとしていましたから」
恋に慣れていない彼は、自分の気持ちを持て余してしまったのだろう。いつも彼女の側にいたい。その思いが募って家を出た。だか、側にいればいるほど情熱が冷めるのも早い。恋はミステリアスな部分がないと維持できないのだから。彼の場合、一気に熱が上がった分、冷めるのも早かったのかもしれない。
彼は、だが自分の正直な気持ちを彼女に伝えられなかった。悩みな悩んだ末に、「子どもが荒れて手が付けられないらしいから、一度家に帰る」と告げた。彼女は「わかった。あなたが思うようにして」と見送ってくれたという。この態度もまた、彼を半分満足させ、半分不満足させ、半分不満に陥れた。
「自分のすることに文句を言わず、応援してくれるのはありがたかったけれど、私がいなくなることに『寂しい』とか、『行かないで』とか、そのくらいのことは言って欲しかったような気もするんです」
こういう微妙な心の揺れはとても興味深い。男性もまた、恋愛すると些細なことで気持ちが上下するものなのだ。それは女性よりも激しいかもしれない。
★役割から逃れられない
彼の話を聞きながら、役割を超えて、ただの男として彼女と対峙していたはずなのに、気づくとまた、「彼女の恋人」という役割を演じてしまったのではないだろうかと考えていた。こういう人は、役割がないとむしろ、どういう言動を取ったらいいかわからなくなるのではないか。
そういえば、とある女友だちが言っていたことを思いだした。彼女は三十代後半の独身で、十年近く妻子ある同世代の男性とつきあっている。あるとき、彼と話していたら、「いや、それはパパがやるから」と言ったそうだ。ふだん、家庭の話はいっさいしない彼が、彼女と話しているにもかかわらず、そんな言葉が出た。
「そのときは可笑しくて笑っちゃったんだけど、後からいろいろ考えたわね。単なる習慣で自分を『パパ』と言ったのか。あるいはふと気が緩んだのか。私の部屋にいながら、自分の家に居るようなつもりになっていたのか。そのときは彼はただ照れたように笑って、『なんてパパなんて言っちゃったんだろう』としきりに首をかしげていた。私も問い詰めなかった。ただ、それ以来、微妙に関係が変わったような気がするの。彼は家庭の話もするようになって、つまりは、お互いに、『不倫カップルの片割れ』という役割を気にしなくなった。今、とてもいい関係だと思っている」
彼はおそらく彼女の所に来るとき、家庭のことを一切頭から取り除いていたのだろう。ところが、彼女の前ではからずも、「父親としての一面」を出してしまった。彼にとっても意外なことだったはずだ。だが、それによって、急に気が楽になった。ごく自然に、自分の日常の一部として家庭の話もできるようになった。それを彼女もさりげなく聞いてくれる。十年だって、「不倫という、背徳的であるがゆえに燃え上がる恋」は、少し形を変えつつあるのだろう。
結局、人はどういう場面であれ、何らかの「役割」を意識し、それに合った仮面をつけているのだろう。英太さんの場合、役割と本来の自分との乖離が大きいから戸惑うのかもしれない。ただ、「そもそもの自分」とは何ぞやと考えると、そこでまた混迷するのだけれど。
★恋は感情を豊かにする
彼の話を聞きながら、役割を超えて、ただの男として彼女と対峙していたはずなのに、気づくとまた、「彼女の恋人」という役割を演じてしまったのではないだろうかと考えていた。こういう人は、役割がないとむしろ、どういう言動を取ったらいいかわからなくなるのではないか。
そういえば、とある女友だちが言っていたことを思いだした。彼女は三十代後半の独身で、十年近く妻子ある同世代の男性とつきあっている。あるとき、彼と話していたら、「いや、それはパパがやるから」と言ったそうだ。ふだん、家庭の話はいっさいしない彼が、彼女と話しているにもかかわらず、そんな言葉が出た。
「そのときは可笑しくて笑っちゃったんだけど、後からいろいろ考えたわね。単なる習慣で自分を『パパ』と言ったのか。あるいはふと気が緩んだのか。私の部屋にいながら、自分の家に居るようなつもりになっていたのか。そのときは彼はただ照れたように笑って、『なんてパパなんて言っちゃったんだろう』としきりに首をかしげていた。私も問い詰めなかった。ただ、それ以来、微妙に関係が変わったような気がするの。彼は家庭の話もするようになって、つまりは、お互いに、『不倫カップルの片割れ』という役割を気にしなくなった。今、とてもいい関係だと思っている」
彼はおそらく彼女の所に来るとき、家庭のことを一切頭から取り除いていたのだろう。ところが、彼女の前ではからずも、「父親としての一面」を出してしまった。彼にとっても意外なことだったはずだ。だが、それによって、急に気が楽になった。ごく自然に、自分の日常の一部として家庭の話もできるようになった。それを彼女もさりげなく聞いてくれる。十年だって、「不倫という、背徳的であるがゆえに燃え上がる恋」は、少し形を変えつつあるのだろう。
結局、人はどういう場面であれ、何らかの「役割」を意識し、それに合った仮面をつけているのだろう。英太さんの場合、役割と本来の自分との乖離が大きいから戸惑うのかもしれない。ただ、「そもそもの自分」とは何ぞやと考えると、そこでまた混迷するのだけれど。
★恋は感情を豊かにする
私はときどき考える。半世紀以上を歩んできたのだから、もっと生きるのが楽になるはずではないか、と。日常生活においては、かなり図々しくなっている分、悩みで疲弊することはなくなった。だがそれは、悩む力が衰えているだけかもしれない。
基本的に「生きるって大変」という思いは十代のころから変わらない。意味や理由を求めたがるのは、長く生きても、言動や感情に自信がないからだろう。
同世代の女友だちこう言った。
「二十代のとき、四十代の自分が想像できなかったじゃない? だけど四十代になると、六十代くらいまでは想像がつく。今、五十代になってみると、もう最期まで見通しがつくわよ」
言い得て妙だ。かつては四十歳で「初老」だったらしい。彼女の言い分と照らし合わせると確かに四十歳は初老なのだろう。そこから先の心理や老化の振れ幅は、二十代から四十代までの振れの幅よりずっと小さい。「若いとき」がいかに短いか、このごろ私は痛感している。
だったら五十代で、すべての欲望を諦められるのかと言われても頷けないのが、人間の(私の)強欲なところ。自分自身を諦めるのは至難の業だ。しかも、心身ともに衰えを実感してくる五十代。最後のあがきとばかりに身悶える。
男性もおそらく同じだろう。恋や性から遠ざかってきた人が多いとするならば、むしろあがきは強くなる一方かもしれない。
★恋にのめり込んでいく過程
好きになって一緒にいたいと願い、身も心も求め合う。あえて簡単に言うなら、恋の過程なんて、これだけのものだろう。だが、男女の関係とは、これだけの過程の中に、世の中のあらゆる幸不幸が詰まっている。シンプルに考えればいいのに、どんどん当事者たちが複雑にしていく。恋心ゆえに、あるいは恋心から派生する嫉妬や独占欲などの自分を持て余してしまうようなネガティブな感情によって。
五十代男性たちも、思いのほか嫉妬深く、ネガティブな感情に悩んでいた。その年齢になれば、今さら嫉妬してもしかたがないのだが、しかたがないからこそ悶々とすることがあるようだ。
自分にも相手にも家庭がある場合なら、そう悩みはしないかというと、そんなこともないらしい。
「二年ほど同世代の女性と付き合いましたが、僕の嫉妬ですべてを壊したようなものです。今も後悔していますね」
松本忠志さん(五十五歳)は、老後を考えたらいろいろな意味をもつべきだと思い、五十歳を機に知り合いの句会に入れてもらった。
「もともとサッカーをやりたかったので、草サッカーは続けていたんですが、いつか体が動きづらくなったときのために俳句を始めたんです。文学的なことはまったくわからないけど、句会の仲間たちがいい人で楽しかった。これなら続けられそうだなと思いました」
そこで出会ったのが、二歳年下の真由美さん。十年続いているその句会で最初からメンバーだったベテランだ。
「お互い句を論評し合うんですが、彼女にはコテンパンにやられました。悔しくて、それからけっこう俳句の勉強をしたんですよ。日々、電車の中では俳句ばかり考えていた。いつもとは脳の別の部分を使うんでしょうか、リフレッシュにもなるし、これはいいなと思い、のめり込みました」
月に一度の句会には休まずに通った帰りにみんなで飲むのも楽しみのひとつ。メンバーになって一年半ほどたったころ、句会で、俳句の解釈について彼女と意見が対立した。そのときは真由美さんに論破されたが、どうしてもそのバトルの続きがしたくて、翌日、真由美さんに時間を取ってもらえないかとメールした。
「いつでもいいと強気の返事がありました。早速、翌日会うことになって。ふたりだけで会うのは初めてだったけど、居酒屋ですっかり盛り上がりました。彼女は気が強い。自分の解釈を曲げないんですよ。でもその気の強さが子気味良かった」
そのとき初めて、彼は真由美さんが病気の夫を長い間、介護していることを知った。
「『自宅介護をひとりきりで五年やって、自分も倒れたから、今は夫は施設にいる。これはこれで経済的に大変だけど、ひとり息子が独立したから、あとは細々とやっていくわ』と。彼女の気の強さは本物だなと思いましたね。まだ年金も入らないから、句会のとき以外は、昼も夜も働いていると言っていた。そこでちょっと胸にぐっとくるものがあった。苦労話に感動したというよりは、自分の人生を淡々と客観的に話せる女性に心を奪われたんです」
恋の初期には、たいていこうした、心をぐっと引き寄せられる瞬間がある。じわじわと好きになるよりは、ぐっとくる瞬間があったほうが恋にのめり込む確率は高くなるような気がする。
★恋は「落ちる」もの
愛は育むものだが、恋は落ちるものだとつくづく思う。恋に落ちて、恋に取り込まれて、人は身動きが取れなくなっていく。
忠志さんの場合、まさにそういう感じだったそうだ。
「彼女に惹かれたけど、なかなか行動には出られなかった。入院中の夫がいる女性を誘うのって、見下しているように受けとめられないだろうかと悩んでしまって」
「四、五回食事をしたとき、彼女が『あなたは何のために私を食事に誘ってくれているの?』言ったんです。何のために? 僕は彼女と過ごす時間が楽しいだけ、そう答えると、『私を女として見ている?』って。もちろん。すると彼女、まっすぐ僕を見て、『じゃあ、抱いて』ときっぱり言いました。びっくりしました。普通だったら、句会の仲間でもあるし、そういう関係になったら面倒だなと思いがちでしょう。でも彼女にはそんな発想がない。自分を女として見ているなら抱け、と。わかりやすいですよね。僕は非常にプレッシャーでしたが」
挑む女、である。かっこいいと思った。同世代だが、私は近ごろ、男性に対してそこまで切り込む勇気はない。多くの同世代がそうだと思う。
「好きであればあるほど、相手に裸は見せられない」
と言った女性もいる。
真由美さんの写真を見せてもらった。笑顔がはじけている。決して美魔女系ではないが、人を魅了する笑顔だ。ただ、この笑顔ゆえに、忠志さんは苦しむことになる。
「性的な関係を伴うようになって、彼女には他に男が居るような気がしてきたんです。あれだけ生き生きと明るい彼女を、男が放っておくわけがない。彼女は『男友だちならいるけど、滅多に会えない。時間がないもの』と言う。でもそのうち僕は妄想にとらわれるようになっていって、実は彼女は忙しく働いているなんて?で、誰か愛人からお金をもらっているんじゃないかと考えた。彼女ひとりで暮らしているのに家には入れてくれない。病院にいるとはいえ、夫がいるのだから当然だと思う反面、誰もいないんだから入れてくれてもいいじゃないかとも思った」
そのうち、夫が入院している事実すら、嘘なのではないかと彼は思うようになっていった。なぜそこまで疑ったのだろう。
「わかりません。彼女のことを好きになれば好きになるほど、こんな魅力的な人が僕だけを思ってくれるはずがないという気がしたんです」
女性はよく、自分を卑下(ひげ)したりネガティブにとらえたりしがちだ。昨今、話題になっている「毒親」について語っているのも女性ばかり。女は女であるだけで、親や社会から抑圧を受けて、自己肯定ができずに悩んでいる話はあまり聞かない忠志さんは、もともと自己評価が低かったわけでもないらしい。
「あまり自己肯定とか自己否定とか、考えたことはなかったんですよね、多くの男がそうじゃないかなあ。男同士でそういう話をした記憶すらありません。だけど、五十歳過ぎて本気で彼女にのめり込んだら、急に『オレは彼女にふさわしいのか』が気になって気になって。まるで中学生の恋愛ですよ。彼女に嫌われたらどうしようとびくびくしている。そのくせ、彼女を信じ切れない。我ながら、どうしてしまったんだろうと思いました」
そんな女々しい感情を彼女に伝えるわけにもいかない。彼はひとりで悩みながら、彼女と付き合っていた。
「一年ようやくもったけど、次の一年は地獄でした。僕が嫉妬して、しょっちゅうメールを送っては『今、どこにいるの』『誰といるの』としつこくしたものだから、彼女は僕を遠ざけるようになった。彼女の家にもたびたび様子を見に行きました。近所の人に不審がられて、警察に通報されたこともある。彼女はそのたびに怒っていました。彼女の夫の入院は本当であることは突きとめましたが、それも彼女を傷つけてしまった」
結局、彼は自滅した。自分で自分に疲れ、彼女への苛立ちに疲れた。それから二年。今は、自分の存在が彼女には鬱陶しかっただろうと想像できるようになった。
「あれが正しい恋愛だったのかどうかわかりませんが、僕にとってはああいう激しい感情は生まれて初めて味わうものだった。だから、自分の中の嫉妬をどうしてもうまくコントロールできなかったんです。彼女には嫌な思いをさせたんだろうなと思います」
彼女とうまくいかなくなってから、句会には顔を出していない。ただ、彼女は相変わらず元気で、俳句を作っているようだ。
「女は強い。本当にそう思います。あの強さの半分でも自分にあれば、彼女との関係ももっとうまくいったんじゃないかと・・・・」
後悔先に立たず。
彼は彼女を通じて、恋に恋をするようになったのかもしれない。まっすぐに彼女というひとりの女性と向き合っていれば、いたずらに疑惑や嫉妬に取り込まれずにすんだのではないか。
恋をしたいと言いながら、実際に恋をすると、不慣れゆえに自爆するような言動をとってしまう男性たち。
長年、妻という立場の女性たちの恋愛を取材しているが、彼女たちにはこういった不器用さはない。もちろん、相手にのめり込み過ぎて日常生活とのバランスを崩すことはあるが、それも短い期間である。恋愛を続けるのか続けないのか、この恋をどうやって昇華していくのか、などのことを、女性たちはうまく自分の中で解決しながら進んでいく。
いったい、男たちはどうしてこれほど「不器用な恋」をすることになってしまうのだろう。
つづく
第二章
悩める現代のアラフィフ世代