第九 夫に恋人が。そのとき妻は‥‥
亀山早苗 著
夫に恋人が。そのとき妻は‥‥
他人から見れば、理解しようがない決断をする人がいる。最初に、萌香さん(三十八歳)からメールをもらったのは、今から九ヶ月以上前の話だ。
同い年の夫と結婚して十三年たつが、うち七年、夫には由香里さんという二つ年上の恋人がいる。妻が、夫の恋人の存在を知っているのだ。そいて、知っているだけではなかった。メールには、「私たちは三人で一年以上話し合って、誰もしないような決断をしました」と書いてあった。
彼女のメールには淡々と、しかし事情がしっかり綴られていて、私は興味を惹かれた。
それから毎日のようにメールのやり取りを続けた。その中で、彼女の言う「決断」が「三人でやっていこう」ということだったと分かる。
萌香さんとは夫は大学時代に知り合い、そのまま同棲、そして卒業後に結婚した。お金はなかったが、新婚時代から五年ほどは、本当に楽しい日々だったという。
私は萌香さんに会いに行った。東京郊外の自宅近くの最寄り駅まで、彼女は車で迎えに来てくれた。お互い顔がわからないので、携帯電話でやり取りする。
「駅ビルの駐車場が混んでいて車を止められないので、駅前の○○ビルの前で待っていてもらえませんか」
待ち合わせ時間の少し前に、彼女からそんなメールが来た。私は、そのビルのちょうど反対側の歩道を歩いていた。土地勘がないので、そのビルがどこにあるのか分からない。近くにいた警備員に尋ねると、「あ、それはあれですよ」と彼は目の前のビルを指で示した。
お礼を言って、ビルの反対側への歩道橋を渡っているとき、萌香さんから電話がかかってきた。
「わかります?」
「○○ビルって、隣に不動産屋さんがありますよね」
「え? 不動産屋さん?」
そのとき、少し先の車からひとりの女性が降りて、ガードレールをまたいでいるのが見えた。その後姿が妙にかわいらしくて、
「今ガードレールをまたいでいますか?」
と電話に向かって言うと、キャハハという明るい声が響き、同時にその女性が後ろを振り向いた。眼が合う。彼女はまだ笑っていた。
メールの文章からは、もっと堅苦しい生真面目な女性を想像していた。夫を責めないその態度から、「無理にいい子になりすぎていないか」と私は書いたこともある。だか、目の前の萌香さんは、そんなふうには見えなかった。もっと温かい、お母さんのような感じもするし、子どものような笑顔を見せる人でもあった。
そのまま彼女の自宅へ行った。瀟洒マンション住まいだが、会社の借り上げマンションだという。萌香さんも夫の陽介さんも関西の出身で、三年前ほど前、夫の転勤に伴って引っ越してきたそうだ。
家の中はすっきり片づき、萌香さんの性格を象徴しているかのようだ。子犬が萌香さんにまつりわりついている。萌香さんは、ある資格をいかして病院で働いているが、その日は休み、貴重な彼女の休日を使ってくれていた。
話はメールのやり取りでほぼ知っていたが、私はもう一度、彼女の口から聞きたいと思っていた。
「結婚して五年たったころ、ある晩、陽介から電話があって、『一緒に飲んでいた会社の人がケガしたから、病院につきあう。帰りは遅くなる』と。その瞬間、女だと思ったんですよ。
でも、そのとき私は彼には何も言いませんでした。その二ヶ月ほどあと、朝五時ごろ目が覚めたら、彼がまだ帰っていない。外泊したんです。今までそんなことはなかったから、酔って事故にでもあったんじゃないかと心配になって、すぐ服を着替えて警察に行ったり、友人のところに電話を掛けたり‥‥。
実はそのときに、彼の恋人である由香里さんの実家にも電話をしているんです。彼女、実はひとり暮らしをしていたんですけど、私はそれを知らなくて、会社の名簿を見ながら彼女の実家にかけたの」
由香里さんとはその時点で、萌香さんはまったく面識がない。夫から特に彼女のことを聞いたわけでもなかった。なのに、なぜか彼女が怪しいと思ったという。
「自分でもなぜかわからない。妙な勘なんです」
萌香さんの勘は、それだけではなかった。外泊の前から、夫の様子がどこヘンだった。
セックスはするが、キスの仕方が以前とは微妙に違う。ディープキスを嫌がっているような気がした。胸の触り方も「何か違う」と思っていた。
女の勘、妻の勘は鋭いものだ。何がどう、と言葉では言えなくても、長年、一緒に暮らした女性は必ず夫の変化に気づいている。
その後も、夫の帰りが遅くなることがあった。それほど頻繁ではなく、「パチンコした」「同僚と飲みに行った」と、言い訳は怪しいと感じる以前と同じだった。なのに、萌香さんは「この言い訳は本当のことではない」と勘づいていた。
ある日、また遅くなったとき、萌香さんの口からするりと言葉が出た。陽ちゃん、しんどいやろ。嘘つくのはやめとき。由香里さんとつきあっているんでしょ? 由香里さんに赤ちゃんできたの?」
萌香さんは言ってしまったから、自分でもそこまで言うつもりはなかったのに、と愕然としていた。夫も、あまりにも図星だったので驚いたような顔をしていたが、正座して、その日に由香里さんと一緒に、妊娠検査薬で確かめたと白状した。
「忘れもしません。そのとき、陽ちゃんが『アイツがコンドームつけたらセックスできないって言うから』って言い訳したんです。『そんなの聞きたくない』と近くあった物を泣きながら投げたのを覚えています」
夫の恋人が妊娠したと聞いたら、どんな妻でも動揺するだろう。だが、萌香さんのショックはそれ以上だった、なぜなら、その直前。萌香さんは医者に妊娠しづらい体質だと告げられたばかりだったか。
「陽介も私も、早く子供が欲しかったんです。私の夢はお母さんになることだった。なのに結婚して五年も経つのにできない。そうしたら私に原因があるとわかった。
私は離婚する覚悟もしてたんです。でも陽ちゃんは、『そんなの全然かまわない。オレは子どもと萌香だったら、萌香をとる』といってくたんです。彼なりに慰めだったかもしれないけど…‥」
だからこそ、由香里さんの妊娠には打ちのめされた。女として「負けた」と思った。だが、萌香さんは自分の揺れる感情を抑えて、あくまでも冷静に振る舞った。
「私が赤ちゃんをどうしろとは言えない。それは由香里さんが決めるこだし、陽介が決めること。そう言いました。だけど、夫も彼女も決められなかったみたい。しばらくして、病院に行って、妊娠していることがはっきりわかったとき、私は陽介に、由香里さんに会わせてほしいと言ったんです。彼は私が彼女を罵倒したりするような人間じゃないと信頼してくれたんだと思う。会わせてくれることになりました」
当日、萌香さん夫婦、由香里さんとその友人、そして陽介さんの親友である男性が同席し、萌香さんの夫婦の自宅で会った。陽介さんは場を和ませようとしたのか、最初は、妙におちゃらけたことを言って、自分の親友に??られていたという。
「陽介は『どうしたらいいか分からない』と言う。由香里は黙っていましたね。私は『主人の決めることに従うけど、私は別れたくない』と言いました。認知して養育費を払うというならそれでいい。
陽介と由香里さんどうしても一緒になるというなら、それも考える。いろいろ案を出したのだけれど、陽介は決めることができなかった。私は私で、由香里のことを可愛いと思ったり、たいしたことないと思ったり。彼女を見てしまったことで、それからしばらくは嫉妬に苦しみましたね」
夫も由香里さんも、悩み葛藤した。夫は萌香さんをひとりにはできないと言い、由香里さんはひとりでは産めないという。かと思うと、「萌香さん子どもをあげるから、陽介さんといさせてほしい」とも言う。「じゃあ、子どもを頂戴」と萌香さんも言った。
「私たちの子にして、それから離婚すれば、子どもも私生児にならずにすむとも考えました。みんながみんな、正しい物事を考えられない状態だった」
男を挟んで、女ふたり。三人が三人とも苦しんだ。
夫は結局、「萌香は子どもを産めないかもしれない。それなのに由香里に産ませるわけにはいかない。産むなら一緒にはいられない」と言ったそうだ。そして、由香里さんは堕胎の決意をする。
「少し月日が経っていたので、四〜五日入院したんです。そのとき主人は、『毎日、病院に行ってやりたい。だからオレはその間、由香里のひとり暮らしのアパートで暮らす』と。彼なりの由香里さんへの愛情表現だったのかもしれない。
だけど私は辛くてたまらなかった。夫が帰ってくるまでの数日間、いっさい連絡しませんでした。帰って来たときも、夫の顔をまともに見られなかった、あのね、夫のスーツから、自分の家の匂いがしないんです」
せつない、リアルな言葉だった。妻でなければ出てこない言葉だと、私は感じ入っていた。自分の家の匂いがしないスーツを着た人は夫なのだ、まぎれもなく。
夏の暑い日だった。恋人の入院に付き添っていた夫が帰った日、萌香さんはまず夫にお風呂を勧め、ベランダにスーツを干して消臭剤をふりかけ続けた。
萌香さんには、「自分は妻だから」と夫の恋人を低く見るようなところはない。ただ、自分の好きな男性に他の女性がいる。自分は産めないのに彼女が妊娠した。そのことに深く傷ついているだけだった。
いっそ別れてしまうとか、夫に愛想が尽きたとか、そんな気持ちはなかったのかと私は彼女に尋ねる。
「私は陽ちゃんが好きだから、とにかく別れたくはなかった。だけど一方で、恋愛が燃え上がったらだれにも止められないというのも分かっていました。これからどうしていくつもりなのか、と彼に尋ねたんです。由香里だってある意味で犠牲を払った。どうするべきなのかいろいろな選択肢を考えてほしい、と。
実際、そのとき私は別れる覚悟をしていました。でもそれは、私が別れたいわけじゃない。陽介にとって私がいらない人間になったのなら、別れるしかないんだろうという覚悟です」
その後も、陽介さんと由香里さんの恋愛迷走は続く。週に何度か夫の帰りが遅くなり、さらに週に一、二回外泊するようになっていった。萌香さんはせつない思いを抱えたまま、ただ待ち続ける。いよいよ「もうダメなのかなあ」と思い始めたころ、夫は「由香里と別れた」言い出した。
「萌香がつらい思いをしている、泣いていると思うと、やっぱり無理だ、と由香里さんに言ったと。だけど、由香里の気持ちを考えると、彼女も陽介のことが好きなわけだから、そう簡単に別れられないのではないんじゃないかと私は思っていました」
案の定、数ヶ月でふたりは復活してしまった。ふたりだけではもう考えも尽きたのだろうか。また三人で会った。今度は付き添いなしで三人だけの話し合いがもたれた。
「由香里とも萌香とも別れられない。それが陽介の結論でした。ふたりきりになったとき、彼は『オマエとは心も身体も離れることはない。だからこの事態を受け入れて、ふたりで乗り切ろう』と言うんです。都合がいいでしょう? だけど何て言うのか、憎み切れない男なんですよ」
萌香さんの顔が緩む。陽介さんの写真を何葉も見せてもらったが、写真に写る彼は、いつもおどけた顔をしていて、たしかに憎めないタイプなのかもしれないと思わされた。
一年近く、三人は話し合いを続けた。そしてある日、由香里さんから萌香さんに手紙が届いた。念書のようなものだ。
「そこには五つの条件がありました。離婚してくれとは絶対言わない、二度と妊娠しない、陽介を外泊させない、週に一度だけ会社帰りにデートさせてほしい、月に一度、土曜日は朝から終電まで一緒に居させてほしい。
自分が守れなかったら、即刻別れます、という内容でした。それを読んで私も、『この人は本気で陽介が好きなんだな』と感じたんです。かれは普通のサラ―リマンで経済的な余裕もない。だからお金なんか関係なく、ただひたすら好きなんだろう、と。
それでも私は返事ができなかった。四ヶ月悩みました。私が返事をしなかった期間、彼は外泊することなく帰ってきました。受け入れるべきか、突っぱねるべきか。彼女の出してきた条件は、おそらく彼女にとっても厳しいはず。どんなに苦しいことかとやってみればいいと意地悪な気持ちが沸き起ってくることもありました。
その反面、どうしても私だけじゃダメなのかと彼に喰って掛かったこともあります。『由香里のどこがいいの、エッチがいいの?』とパニックになって。そんなとき陽介は『オレがこんなことを言わせるんだ、ごめん』と抱きしめてくれるんです」
萌香さんは結局、由香里さんの申し出を受け入れた。やはりどうしても、陽介さんと別れることはできなかった。かといって、無理やりふたりを別れさせることもできないと分かっていた。事情を知っている数少ない、しかし親しい友人たちは陽介さんに対して非難囂々で、萌香さんが友人たちを慰めるほどだった。
申し出を受け入れるにあたって、萌香さんさらに条件を出した。年に一度、三人で旅行に行くこと。半年に一度、三人で食事をすること。由香里さんは「奥さんがヘンになった」と驚いたというが、萌香さんとしては「状況を把握しておきたかった」のだという。
人間は知らないと不安が増す。由香里さんどういう女性なのか、自分の目できちんと知りたかったのだ。まったく知らなければそれでいい。
だが、中途半端にわかっていると、人間は不安でたまらなくなる。萌香さんのとった行動が適切かどうかは別としても、そうやって、夫の恋人と接触をもったほうがまだ気がラクになるかもしれないという気持ちは、私にはよくわかった。
「それからすぐ、初めて三人で、近場の温泉に一泊旅行をしたんです。陽介が席を外したとき、私は彼女に言いました。『本当に守れるの? 私、妻としてではなく女として聞きたいの。私があなたの友達だったら、やめておきなって言うよ。赤ちゃんだって産めないんだよ』と。
そうしたら、彼女、きっぱりと『それでいい。陽介と一緒にいたい。一度だけの人生、後悔はしない。お願いだからいさせてください』と。そこまで言われたら、私も『わかった』と言うしかないでしょ」
苦しんで苦しんで得た覚悟
そうやって「三人で」生きていく人生が始まった。とはいえ、萌香さんがすんなり受け入れられないはずもない。夜、悪夢を見て号泣し、うなされて飛び起きると、顔中が涙で濡れていることもしょっちゅうだった。食道に潰瘍ができて吐血したこともある。三人での旅行から帰ると、胸が痛くて痛くて倒れ込んだこともあった。
「それでも慣れていくしかないと思っていました。友人は「どうしてそんなダンナに料理を作って待っているのよ」と言うけど、やっぱり好きなんですよね。子どもが産めなくて彼に悪いと思っているし、中絶させた彼女にも悪いと思っている」
夫は由香里さんのところから帰ってくる。妻しては当然、何をしてきたか分かっている。だか、一日のうちで最後に触るのは自分であってほしいと萌香さんは願っていた。かといって他の女を抱いてきた同じ日に抱かれたくはない。彼女は、夫の両手をとって自分の頬に当てたという。最後に触ってほしかったから、その一心で。
「翌朝、洗濯をとようと彼の下着を持ち上げると、何か匂う気がするんです。それがとても嫌だった。陽介は、何でも私にやらせるんです。自分の仕事用のバッグも私に『中、きれいにしておいて』と平気で渡す。彼女からの手紙が入っていたこともありした。
もう封を切ってあったし、観てしまおうとも思いましたけど、やっぱり読めなかった。男と女というだけなら見ていたかもしれない。でも彼は私にとって、大事な家族だし、信頼関係を壊したくなかったんです」
それが彼女自身の、彼に対して、そして由香里さんに対してのプライドだったのかもしれない。
いっそ離婚してしまった方が精神的にもラクだったのではないだろうか。だが、彼女にはそれができなかった。なぜ、そこまで、と彼女の友人ならずとも思うのだろう。
「どうしてなんでしょう。好きだからのがいちばんの理由だけど‥‥。知り合ったころ、彼は親とうまくいっていなかったりして、いろいろあったようで、ものすごく心がささくれ立っていたんです。誰も信じられないといつも言っていたんです。
その自分の言葉を裏切りたくなかった。それとね。私たち、阪神・淡路大震災にあっているんですよ。そのとき、気づいたら陽介が私の上に布団を二枚かぶせて、さらにその上に自分が乗っていてくれた。いざとなったら、この人は命を懸けて私を守ってくれるんだということが実感できたんです。
あの震災で、叔母も友人もなくしました。だからこそ明るくて生きなければ、今日を大事に生きなければと思うようになった。人はいつ死ぬんでしまうか分からない。私は彼が大好きだから、最後まで、彼の味方でいたいと思ったんです」
男ってヤツは、と嘆くのは簡単だ。だが、萌香さんのように魅力的な女性を、そこまで虜にさせるのだから、彼もやはり魅力的な男性なのだろう。
その後、陽介さんの会社は関西支社を閉めることになった。彼も東京転勤が決まる。由香里さんは派遣で陽介さんが勤める会社にいたので、当然、転勤はできない。だが、彼女は会社に頼み込んで、派遣の身分のまま、東京本社に勤めることになった。仕事を分かっている人がいたほうがいいと、彼女の上司が判断したらしい。
家族も友人も土地鑑もない場所へ、彼女はひとりでやって来た。萌香さんは放っておけなくて、頻?に彼女を家に呼んで一緒に食事をとったりするようになった。彼女がインフルエンザで倒れたときは、看病のために彼女のマンションへも行った。
「彼女もこちらへ来ると聞いたとき、それほど陽介のことが好きなんだと心底。分かったんです。三人でやっていくというのは、本当のことなんだな、と。それなら、私も由香里を愛そうと覚悟を決めました。陽介を愛するように彼女のことも愛していこう、家族として生きていこう。そんなふうに思ったんです」
深刻な話をしながらも、萌香さんはなるべくこちらに負担がかからないように軽めに話す。笑顔も絶やさない。彼女がそうなるまでどれだけ泣いたかが想像できるだけに、こちらが何度も胸を締め付けられる思いだった。
のちに、萌香さんは手紙をくれた。メールでのやり取りは続いていたが、「自分の素直な気持ちを書くには、自筆の方がいいような気がして」と書いてある。そこにも彼女の誠実さが見て取れる。
その手紙の中で、彼女は「私だって、もう生きたくない、消えてなくなりたいと何度も思った」と心情を吐露している。ただ、それでも「どうして私がこんな目にあわなければいけないの」という被害者意識はないし、夫への恨みもない。
そう、彼女にはまったく被害者意識がないのだ、夫に対してはもちろん、由香里さんに対しても。不思議なほど突き抜けた、人の心を和ませる穏やかさは、彼女の心に被害者意識がないからかもしれない。
夫と恋人の破綻
例の念書は当然、そのまま生きていて、東京に転勤になってからも、夫は週に一度は彼女のマンションに寄って帰ってくる。
だが、関西にいるときとは、少しふたりの関係が変わってきたようだと、萌香さん言う。
実は私は、その後、日を改めて由香里さんに会っている。萌香さんが計らってくれたのだ。三人でランチをとりながら話をしようということになり、萌香さんがある店を予約してくれた。少しは早めに着いた私は、その商業ビルのお手洗いに入った。個室から出てきたら、萌香さんが立っていた。
「やっぱり、ここで会うような気がしたんですよね」
彼女は明るくて言って、後ろにいた由香里さんを紹介してくれた。小柄で、どことなく頼りなさげな感じだった。この人のどこに、妻のある男を追ってきてしまうエネルギーがあるのだろと思わせるような雰囲気をもっていた。
店で三人で話したあと、萌香さんの自宅に行った。夫は会社の仲間たちと遊びに行っているという。落ち着いたところで、萌香さんが由香里さんと私をふたりにさせてくれた。自分がいたら、由香里さんが話しにくいこともあるだろという配慮だ。自宅なのに、彼女は申し訳なさそうに、子犬と一緒に別の部屋へと出ていく。この家から見れば、他人である由香里さんと私がリビングにどっかり残っていた。そのあたりでも、萌香さんの人なりが分かるだろう。
こちらに来てからの変化を、由香里さんこう話す。
「関西に居るころは、私は私で妙な自信があったんです。陽介は萌香さんのことも大事にしているけど、私のことも女として愛している、と。ただ、こちらに来てから、陽介は忙しくて、うちに来ても『ちょっと寝かせて』と寝てしまったりする。私としては、やっと会えたという感じなのに、彼はテンションが低くなってしまった。それで焦燥感が募ったんです」
由香里さんは、言葉を選びながら慎重に話す。ひまわりのように笑う萌香さんと比べると、笑ってもどこか寂し気な印象がつきまとう。まったくタイプの違うふたりの女性を目の前にして、これだけタイプか異なると、男としてどちらに決められないとしても仕方がない。男なら、むしろ両方の女性を手にしていたいと思うかもしれない。
由香里さんは、萌香さんと陽介さんの気遣いから、関西にいるときより頻?に、夫婦の自宅を訪れるようになった。そんな中で、陽介さんの「素の顔」も見るようになる。
「あちらにいるときは、陽介は私に対してもっとかっこつけていたんです。でも頻?に家に行くようになってよく観察すると、私が思っていたより夫婦はずっと仲がいいし、萌香さんも陽介に対しては、
本当にかわいい女。陽介が萌香さんに向ける笑顔も、とてもリラックスしている。それが何だかショックでしたね、私は私で愛されていると自信が持てなくなっていって。不安で不安でたまらなかった。それでなんとなく、いつもとは違うファッションをするようになったんですよね』
もともとふたりは、違うタイプ。萌香さんは料理が大好き、由香里さんはほとんど料理をしない。萌香さんに言わせれば、「私は草食系、どこかさっぱりしている。でも由香里さんは肉食系。実際、由香里は肉が大好きだし好き嫌いも多い。私は肉より魚や野菜が好き」と。
ほとんど正反対。なのに、由香里さんは、萌香さんのようなキャラを目指し、ファッションもきりっとしたものではなく癒し系のものを着るようになっていった。
「自分でもなぜかわからないのだけれど、萌香さんみたいにならなければ、と思ってしまったのかもしれない。彼女と同じところを目指しても、どうにもならないのはわかっているはずなのに」
由香里さんは、好きになればなるほど、自分の気持ちを正直に陽介さんかに言えなくなっていった。自分だけが取り残されている感覚もあった。
「萌香さんはこっちに来てから、すぐに仕事に就き、さらに仕事を増やして、友だちもできて生き生きしてた。陽介だって忙しいと言いながら、仕事が楽しそうだった。私だけが友だちもできず、仕事も半端で立ち止まっているだけとしか思えなかったんです」
さらに悪いことには、派遣としての仕事が終了したこともあって、由香里さんは仕事を失った。幸い、すぐに派遣で別の会社で働くことはできたが、会社で陽介さんの顔を見ることができなくなると、彼女の焦燥感は頂点に達した。
女の不安は、男に伝わるものだ。たとえ言葉にしなくても、縋るような目や態度を、ある瞬間から、男はうっとうしく思うようになりがちだ。それに勘づいた女は、ますます不安になっていく。すでに悪循環に入り始めた関係‥‥。そのころ、由香里さんはたびたび萌香さんの家に来ていたという。ひとりで不安を抱えきれなくなっていたのだ。
第三の女の出現
ここから、また萌香さんに登場してもらう。
「そんなとき、陽介の様子がおかしくなったんです」
萌香さんには、夫に新しい女性ができたのではないかという思いがあった。そして前と同じように、彼女の勘は当たっていた。「オマエはオレや」と夫によく言うそうだ。陽介さんは、妻を自分だと思っている節がある。確かにそうだから、萌香さんは夫の気持ちを感じることができるのだろう。
「由香里が不安定になっているのは私もわかっていたけど、陽介に直接、ふたりの仲がどうなっているのかは聞けなかった。ただ、あるときふと言ったんです。陽ちゃん、木村さんと付き合ってるのって」
木村さんというのは、陽介さんの会社で働いている女性。もちろん、萌香さんは彼女に会ったことはないが、由香里さんからその名前を聞いたことがあった。由香里さんにしてみると、「どことなく陽介が好きになりそうな気がした」そうだ。
「陽介はぎょっとしたような顔をして正座したけど、木村さんの話には触れず、『実は三人でやっていくのに疲れた』と言ったんです。由香里にも話す、と。だけどその数ヶ月後、やはり木村さんと付き合っていることを認めました。その間、由香里はずっと苦しんで、ここに来ては泣いて。だから私は、陽介に言ったんです。木村さんのこと、由香里に言うよ、と。卑怯だよ、と」
萌香さんは由香里さんに、そのことを告げた。由香里のショックは思った以上だったという。
「因果報酬っていうことなのかもしれないとも思いました。私は木村さんのことも陽介のことも許せなかった。当時に、萌香さんが、どんな思いで受け入れたかのか、身にしみてわかって‥‥」(由香里さん)
「私は私で、由香里ショックを受けているのを見て、なんともやるせない気持ちだした。自分の心の中に、由香里が傷ついているのを見て、ちょっとでも『ざまあみろう』という意地悪な気持ちがわいてきたらどうしようと思っていた。でもそれはまったくなかった。
ただひたすら、由香里にどうしてあげたらいいんだろうと考えていました」(萌香さん)
お互いに、精神的にぎりぎりのところに追い詰められた。原因を作ったのは陽介さんだとわかっていても、彼を直接、恨めないのがふたりのくるしいところだ。
木村さんに会ってほしい、と陽介さんが萌香さんに言ったが、彼女は拒絶した。私は由香里が最初で最後のだと思ったから、必死で努力して三人でやっていきてがんばった。
ここに来るまで、何年もかかっているんですよ、同じことを繰り返すなら、陽ちゃん、それは人として間違っている。男として間違っている。由香里は何もかも捨てて、陽ちゃんのあとを追ってこちらに来たんだよ。萌香さんは怒りを抑えながら、夫を諭した。
「そうしたら、由香里が木村さんに会いに行くと言い出して、止めようがないと思ったから、会いに行く直前、由香里に言ったんです。『私を木村さんだと思って叩きな』と。そうしたら由香里は思いっきり私の頬を叩いたんですよ。
まさか本当にやるとは思わなかったんですけど。『今、手の感触が残っているでしょ。だから実際に木村さんに会ったとき、暴力をふるったらダメだよ』と言いました。由香里は深くうなずいて、木村さんに会いに行ったんです」
由香里さんにしてみると、自分と陽介さんとの関係は誰に知られずに、ひっそりと始まってひっそり終わろうとしている。だが、まだ三十歳になるかならないかの若い木村さんとの関係は、会社の中でも知れ渡っている。木村さんが陽介と結婚する気でいることも、みんな知っている。
自分の存在は何だったのだろう、自分が存在していることを木村さんに思い知らせてやりたい。そんな思いでいっぱいだったらしい。ところが、由香里さんもまた、純粋で「いい人」なのだ。結局、木村さんに会っても、罵倒のひとつもできず、かえって鼻であしらわれて帰ってきてしまう。
由香里さんは失意のまま、関西の実家に戻った。今は仕事も見つけ、新たな生活を送っているが、ときどき、萌香さんとは会っているという。
「ただね、今回を最後に、由香里とは少し距離を置こうと思っているんです。由香里のためにもそうした方がいい。私はもしやり直せるなら、由香里と三人でと思っていたけど、今は陽介がどうするのか、彼の決断を待っているところです。
彼が木村さんと人生をやり直すというなら、私は別れるしかない。木村さんと三人でという選択は、私はしたくない。それは陽介がダメになることでもあるから」
夫が好きで、彼に寄り添って、無理難題も受け入れて来た萌香さんだが、これ以上、自分が一緒にいることで彼がダメになることを恐れていた。同時に、木村さんと一緒になることで彼が幸せになるのなら、それは受け入れると決断している。彼女の深い愛情は、こちらが何も言えないくらい伝わってきた。
「陽介の大好きなシチューを、あと何回、作ってあげられるのかと思うこともあります。木村さんと関係については、私はほとんど尋ねないけれど、今も続いていることは陽介も認めている。夏になるまでには、何らかの結論が出ると思います」
他人から見たら驚くような「三人の関係」は、七年あまりで終わった。そのときには、心身を壊しそうになりながらも、その関係を受け入れた萌香さんだが、次も同じような関係を受け入れるわけにはいかない。彼女は、ただ夫の言うなりの女性ではなく、きちんと自分の意志で生きている。
最初が何とか大丈夫だったからといって。次も同じようなことを続けられるわけはない。そこを、夫である陽介さんは分かっていないし、甘えているのではないだろうか。
少し前、萌香さんはひとりで、新婚時代の五年間を過ごしてきた街を歩いてきた。
「あの頃はお金もなかったけど、本当に毎日が楽しかった。ふたりで一緒に居られればそれでよかった。ただ、懐かしんでばかりもいられないですよね。人間は前に向かって進んでいかなければいかないと」
彼女は由香里さんを見つめて、「だから由香里も次の人を早く見つけなさいと」と言った。由香里さんは「今は難しいけど、でも萌香ちゃんのおかげで、少しずつ前向きになれてきた」と微笑んだ。
妻と恋人。ふたりが仲良く話をしている様子をみながら、このふたりは同志のような感覚があるのだろうと思った。大変な時期を乗り越えて来た、ふたりにしかわからない感情が行き交っているように見える。
恋人は妻を憎んだことはないというが、妻は最初は恋人をどうしても受け入れることができなかった。そこから一歩ずつ、歩み寄って、妻は夫の恋人を受け入れた。
最初で最後に、萌香さんはチャーミングな笑顔をうかべた。
「たとえどういう結果になってもご連絡します。もし本当に離婚することになったら、とっても寂しいと思う。でも彼が本当に幸せになるのなら、私はそれでいい。陽介はずっとここにいますから、この中にいますから」
彼女は自分の胸に手を当てた。
妻と恋人。女として、どちらが居心地がいいのだろう。生活が一緒だから、最後に帰ってくるところはここだから、妻の方が精神的にはラクなのだろうか。
「そんなふうに思ったことはありません。世間が思うほど、妻の立場は強くない。子どもが居れば、また別でしょうけど。いつ恋人の方に行ってしまうか、私は怖くて不安でたまらなかった」
萌香さんはそう言う。一方、恋人だった由香里さんも、立場としては強くないと感じている。
「次の恋人が出てくれば、前の恋人は簡単に捨てられる。こんなに簡単に裏切られるとは思ってもいなかったからショックだった」
彼女たちは、男に振り回された女たちというふうに映るだろうか。それとも、同じ男を好きになってしまったために無理して頑張ってきた女性たちと見えるだろうか。
私は実際に彼女たちに接し、なかなかありえないような決断をし、悩んで葛藤しながらがんばってきたふたりが、とてもまぶしく思えた。彼が好きだから側にいさせてほしいと願った恋人の気持ちもわかるし、彼が好きだから、彼の恋人を家族のように愛そうとした妻の気持ちも、切ないほど伝わってきた。
誰もがする経験ではないかもしれない。だが、ふたりとも、まっすぐに生きている。切なくやるせなくて、私は彼女たちの話を聞きながら、何度も泣いたけれど、それでも自分をごまかさずに生きている人だけから受け取る感銘を、静かに味わっていた。
おわりに
男と女のことは、他人にはわからない。つい最近も。結婚して三十数年たつ熟年俳優夫婦が別居していると話題になった。そうなると、人はすぐに「離婚か」と考えるのだが、彼らには離婚の意志はまったくなさそうだ。
かと思うと、かつて不倫関係で取りざたされたカップルが、二十四年ぶりに再会し、すぐに結婚したという話もある。芸能人カップルだから騒がれてしまうが、一般的には世間の常識から見る、『変わった夫婦』たくさんいる。とかし、この『世間の常識』というものも、そもそもあやふやなものだ。私たちは、そのあやふやなものに、「基準」を合わせて生きているのだから。窮屈さを感じる人たちは少なからずいるはずだ。
夫婦って何、結婚って何、男と女って何。多くの取材対象者から話を聞くたび、実は私の気持ちは混沌としいった。ただ、出会った人たちが今後、世間の基準値ではなく、自分ならではの幸せをつかんでいってくれたらいいなあと、心から願っている。
二〇〇九年五月 亀山 早苗
恋愛サーキュレーション図書室