嫌がる相手を説き伏せてようやく結婚したのに「夫婦関係」を築けなかった。家族も持てなかった。年齢を経るにつれて、それが自分のコンプレックスになり、ある種の欠落感にもつながっている。

心と快楽と身体のすれ違いを、どうやって埋めていくのか。たかがセックス、されどセックス、といつも思う。そして、寿命が延び、いつまでも女、いつまでも男と願っても叶えられない現実を打開し、今まで女として成熟しきれていなかった。成熟するための、
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第八 四章それでも夫婦は続いていく!?

本表紙 亀山早苗 著

それでも夫婦は続いていく!?

 先日、とあるテレビ番組で、妻に先立たれた七十歳くらいの男性が、「夫婦の絆は、親子よりも強い」と涙ながらに話しているのを見て、胸を衝かれた。多くの夫婦が、いろいろなことを乗り越えて、相手に先立たれたときにそう感じるのかもしれない。

 私はせっかく結婚したのに、しかも自分が追いかけ、結婚を迫り、嫌がる相手を説き伏せてようやく結婚したのに「夫婦関係」を築けなかった。家族も持てなかった。年齢を経るにつれて、それが自分のコンプレックスになり、ある種の欠落感にもつながっている。

同い年で一度も結婚していない友人などは、「考えたって年齢が若くなるわけじゃないし、別にいいんじゃん、毎日が楽しければ」と開き直っているが、私はそこまで達観できずにいる。

 じゃあ再婚したいのかと言われると、素直にうなずくこともできないところが、我ながら屈折していると思うのだが、決断を先延ばししてきたツケかもしれないが、今になって思うのは、人間というものは決局、「すっきりさっぱり」とは生きられないのではないかと言うことだ。自分だけが心のもやもやを抱えていると考えがちだが、実は誰しも、何かを一生ひきずりながら生きていくしかないのではないか。そんな気がしてならない。

ヘンな夫婦かもしれないけれど

 夫婦とはこうあるべき、男とは、女とはこうあるべきという「決めつけ」が、人を不自由にすることは多々ある。だが、この決めつけから、なかなか自由になれないのも人間だ。

私が今になって結婚や家庭に対して屈折した感情をもってしまうのも、こういった「決めつけ」から自由になれないからだろう。あらゆる決めつけは、「あくまでも世間一般の価値観に過ぎない」とわりきって、自分は自分の幸せを見つけていく、

自分なりの充実を図っていくと思えば、人はもっと気がラクになるのかもしれない。「ヘンな夫婦」と言われても、それを聞き流す余裕があれば、「自分たちならではの関係」と自負できるようになるのではないだろうか。

 それぞれやりたいことがあるとか、結果的に子どもはいらないと考えたとかならともかく、結婚してすぐにセックスしなくなったという夫婦というのがいる。はたから見ると、なんとも不思議なかんじがしてならない。

 とある飲食店で知り合った茂さん(四十三歳)は、結婚して十六年たつが、結婚以来セックスしていないと言っていた。最初は酔っ払いの戯れ言かと聞き流していたのだが、周りの人たちから話から察するに、そうではないらしい。あげく、彼はその店で知り合う女性を口説くことでも有名らしかった。

 私は幸か不幸か何度も顔を合わせても、口説かれることはなかった。だから、こちらから彼らの夫婦関係を聞き出すべく、口説くことにした。彼にして見たら。「ある日突然のできごと」だったらしい。

「僕は精密機器関係のメーカーで働いているんだけど、僕が二十六歳のとき、彼女が大卒の新人社員で入ってきたんです。それで一目惚れして夏くらいから猛アプローチをかけて、その年の暮れには一緒に住んでいた。ただ、彼女が『入社一年もたたずに結婚するなんて恥ずかしい』と言ったので、結婚式は翌年の春にしました。

その結婚式の夜ですよ。『やつと式を挙げられたね』と近寄ったら、『相談がある』と。『私、セックスしたくないの』って、言ったんです。僕はものすごく驚きました。僕だって、別に絶倫というわけじゃないんだけど、ごく普通に性欲はありますからねえ。『したくない』と言われると傷つくし」

 結婚して数年たって、お互いに「いて当然」という関係なっていればいざ知らず。結婚式の夜に新婦が言うセリフとは思えない。よほど訳があったのだろうか。たとえば、どうしても子供が欲しくないとか。

「それがますますわからないことに、彼女は『子どもはほしい』と言うんです。だから人工授精でも何でもしたい、と。だけどセックスはしたくない。僕のことが好きじゃないのかと聞くと、『好きだ』と言うわけです。

じゃあ、セックスしたくない理由が何かあるわけですよね。何を言っても驚かないし、僕が彼女を嫌いにならないから話してほしいと言っても、理由はないの一点張りなんですよ」

 結婚前、半年近くは同棲していたことになるのだが、その間、週に一度くらいはしていたはずだと茂さんは言う。ただ、そのときの彼女の反応を今となっては覚えていないから、妻がセックス嫌いだったどうかは記憶が定かではないらしい。

「誰に言っても、そんなことがあるのかねえと言われてしまうんだけど、本当だからとしょうがない。その後、彼女は会社を辞めて専業主婦です。結局、人工授精の話も立ち消えになりました。僕はあきらめきれなくて、何度か誘いをかけたことがありますが、彼女は細い声で『ごめんなさい』と言うだけ」

 妻に謝られれば、それ以上、ごり押しはできない、と彼はつぶやいた。妻の態度を許容しなければ生活してこられなかったのだろうが、当時は怒りが沸き起こったりしなかったのだろうか。なぜもっと踏み込んで話さなかったのだろうか。矢継ぎ早の私の質問にも、彼は嫌な顔ひとつ見せず、腕組みして考え込んでいる。

「どうしてかなあ。もちろん、ちょっとムツとしたこともあるはずなんだけど、大ゲンカになった記憶はないんですよね。僕自身、仕事が忙しかったせいもあるだろうし、『嫌なものを無理にやらせたらいけない』という気持ちもあった。彼女は、『理由が分からない』と何度も言うから、それを信じてやらなくちゃなあと思っていたような気もするし」

 そんなんこんなで数年が経ち。ふたりの間で「セックス」について触れないとする不文律のようなものができあがってしまった。そうなると、子どもを持つ持たない以前の話になってしまう。

「そうなんですよね。いつしか、うちはふたり暮らしということで家族観が固定化していった」

 子どものいない専業主婦は、家事の他に、何をしているのだろうというシンプルな疑問もわく。

「何か習いに行ったりしているようです。あとは子猫をもらって来て飼ったり。うち今、三匹も猫がいますよ。猫が子どもの代わりですね」

 茂さんは、風俗店に行ったこともあるし、外で恋愛関係を持ったこともある。もしかしたら、妻とセックスの関係があったとしても、そう言うことは起こり得たかもしれない。だが、彼としては、「満たされない気持ち」を常に抱えて生きてきたのだろと強調する。じゃあ、と私は力を込めた。

「妻と別れようと思わなかったの?」
と。
 茂さんは目の前のビールをぐいっとあけて、それでもしばらく声を出さずにいる。
「そうですねえ、思ったことはあります」
 しばらく間を開があく。

 離婚を考えたことはあるが、妻に言い出したことはない。つまり実行する気になれなかったのだ。それはなぜなのか。
「結婚しちゃったからねえ」

 離婚するエネルギーがなかったということなのか、妻をひとりにさせるのが忍びなかったのか。自分自身が離婚に直面したくなかったからか。

「今はもう、こういう生活に慣れてしまったし、セックス以外の面で、特に妻に不満もないんですよ。セックスする関係だとしても、子どもがいたかどうかは分からない、という意味で、子どものことはあきらめているし。

三十代半ばまでは悶々としていたけど、ひとつには仕事が忙しくて、出張も多かったから、本気で離婚を考える時間もなかった。もうひとつは、外で恋愛したりもしたけど、どうしても離婚してまで、この女性と一緒になりたいとは思えなかった。

妻と別れて、その女性と結婚しても、特別な人生が始まるとは感じられなかったんですね。妻は決してヘンな女ではないんですよ。人として僕はやっぱり好きだしね」

 妻に対して、茂さんは一目惚れしたのだった。その自分を裏切れない、という思いもあったのかもしれない。

どうしてもセックスが好きになれない

 その後、実はひょんなことから私は、茂さんの妻である美咲さん(四十歳)に会うことができた。茂さんが、偶然に出会ったと、私のことを妻に話し、たまたま私の本を読んで知っていた美咲さんがメールをくれたのだ。

 私は彼女が、どんな女性なのかあってみたくてたまらなかったから、早速、会いたいと返事を書いた。

 美咲さんは四十歳とは思えないくらい、若くて素敵な女性だった。身長は一六〇センチの私より少し背が高い。スレンダーで、肌もすべすべしていて、染めたことのない髪は、今も白髪が一本もないのだという。私の本を数冊読んだことがあるという美咲さんは、すでに夫と私がどんな話をしていたのか、わかっているようだった。

 世間話が一区切りつくと、彼女は口元に少しだけ笑みを浮かべながら切り出した。
「うちの主人、私が夫婦生活を拒んでいると言ったでしょう」
 嘘をつけない私は黙ってうなずく。

「私、本当にセックスが好きになれないんです。特に理由はないんだけど、主人と同棲しているときも、セックスが楽しいと思ったことがなくて。その前の人もいたんですけど、やっぱりいいとは思えなかった。

自分がおかしいのではないかと思って、カウンセラーに相談に行きました。だけど理由が分からない。あるカウンセラーに『人間、食べ物とだって映画だって、好き嫌いはある。あなたはセックス嫌いに生まれてしまったんだと思えば、気が楽になるのでは?』と言われたんです。

ああ、そうか、と。でも、私は気が楽になったけど、主人がどう思うかは別の話ですからね。主人も、頭では理解してくれているみたいだけど、実際は分かっていないと思います。私自身が分かってないんだから、彼に分かってくれと言うのは無理ですし」

 美咲さんは、明快に話しを進めていく。彼女は、夫が外で遊んだりしているのも、薄々分かっていると話す。

「もし主人が、誰か本気で好きになった人がいて離婚してくれと言うなら、私は離婚しかないと思っています。いつ捨てられても仕方がない。セックスに応じられない私がいけないんですから、だけど、無理に応じていると、好きでもないことをさせられているという気持ちになるんです。私は主人を好きなのに、セックスのために嫌いになってしまいそうで・・・・」

 美咲さんが、ちょっと辛そうな顔をする。ああ、こういう人もいるんだと私は初めて分かったような気がした。理由はないけど嫌いなものは、誰でもある。彼女の場合、それがセックスだったのだ。セックスが嫌いというと、何か心の問題があるようにとらえられがちだが、本当に「単純で嫌い」という人がいてもおかしくないのかもしれない。

 私たちはカフェで話していのだが、美咲さんはしきりに水の入ったコップを手で撫でている。人が無意識にこういう行動をとるとき、何かを言いあぐねているという経験則が私にはあった。突っ込んで聞くべきかどうかと考えていると、美咲さんは、ぐいっと水を飲み、顔を向けた。

「私誰にも言ったことがないんですけど、性感マッサージや出張ホストに何度かいったことがあるんです」

 美咲さんの悩みは、相当深かったのだ。嫌いなものは嫌いなんだから仕方がないと、割り切っていたわけではなかった。

「ネットで調べて、この人ならと思う人にメールを出して。よく『オーガズムを感じない』という女性はいると雑誌で読んだりしたけど、私はそれ以前の問題。そもそも裸で抱き合うのもあまり好きじゃないんです。

手をつなぐのは好きなんだけど、そういうことを話して、何人かの人と会いました。ホテルに行って、マッサージしてもらったり手でやってもらったりしました。

技術があるから、気持ちよさはあるし、私、別に潔癖性ではないので嫌悪感があるわけでもない。だけど、別に積極的にしたくはないというか、できればしたくないという結論になっちゃうんですね。生理的に嫌いというほどでもないけれど、自分の中の性欲を意識したこともない。上手く説明できないんですけど」

 彼女の場合、セックスという行為そのものが、どこか「嘘くさくて」たまらないのだという。自分が女として、女を主張して演技しなくてはいけないもの、自分自身に嫌気がさすらしい。彼女の気持ちを「わかった」とは言えないが、そういう人がいても不思議ではないと、私は、目の前の美咲さんを見ながら思っていた。

 過去に何があったからそうなったのではないと言うことは簡単だが、実際、彼女に心当たりはない。最初のセックスが特別おかしかったわけでもなさそうだ。過去を掘り起こせば、すべてが解決するわけでもない。彼女自身、自分のそういう在り方を認めるのに苦労したのではないだろうか。

「そうですね。私はおかしいんじゃないかと今も思っているけど、もうどうにもなりませんしね。ただ、主人に悪いというのは、今もあります」

 美咲さんは今、ある大学で心理学の勉強をしているという。その他にも病院でのボランティアをし、地域の町会役員にも精を出している。誰かの役に立ちたいという気持ちがそうさせているのだろう。

「このまま主人に捨てられないように生きていけたらいいなと思っています」
 その後、また茂さんに会う機会があった。美咲さんは、夫にかなり細かく、私との話をした内容を告げていたようだ。もちろん、性感マッサージや出張ホストのことは内緒だろうけれど。

「美咲さんは美咲さんで、かなり茂さんに悪いと思っていたみたいですよ」
 当たり障りなくそう言うと、彼も大きくうなずいた。

「僕、実は彼女が苦しんでいた事を初めて知ったんです。自分がしたくないのはなぜなんだろうと、思い詰めたことがあったみたいで。その時に言ってくれればよかったのにと言ったんですが、妻の立場としては言えなかった、と。『かえってあなたを縛ることになる』とも言っていましたね。久々に、妻とセックスのことが話せただけでもよかった」

 茂さんは、どこかうれしそうだ。
「すごく愛されてますよね」

 そう言ってみると、さらににやけた。お互い相手に遠慮して踏み込めずにいたことが、少しだけ踏み込めたということだろう。気軽に妻を私に会わせるくらいだから、茂さんはオープンな性格なのだろうと思っていたが、本当は妻を会わせるのが怖かったとも、彼は白状した。

第三者に夫婦のプライバシーを話すのは、当然、怖いことだと思う。だが、それによって、多少、関係に風穴があくこともあるのだろう。夫婦というのは、それだけ密閉された関係だということに他ならない。

他人には言えない、子どもがいたとしても子どもにも言えないから、ふたりの間でわだかまりだけが、どんどん濃くなっていく。

 よく、「ストレスをためないためにガス抜きをしましょう」などと言うが、夫婦関係そのものにわだかまりがある場合。個々がそれぞれガス抜きをしたとしても、根本的な解決にはならないのかもしれない。だからといって、誰にでも話せばいいというものではないから、夫婦と言う関係は難しい。

「まあ、ヘンな夫婦かもしれないけど、今は、なんとなくこの先もやっていけそうな気がしています」
 茂さんは、美味しそうにビールを飲みほしていた。

恋を夫に相談してしまう妻

 夫婦が、母と息子、父と娘のような関係性になってしまうのは、それほど珍しいことではない。ただ、通常の親子でも、そんな相談はしないだろうと思われるのが、真砂子さん(三十四歳)と、隆夫さん(五十六歳)の再婚カップルの関係だ。

 真砂子さんは、明るくて楽しい女性。販売の仕事をしているが、彼女が接客すると、客は必ずリピーターになると言われるくらいだ。人付き合いもよく、会社の同僚たちと飲み会にいっても、別のグループからお呼びがかかるくらいモテるらしい。

お酒が大好きで、飲むとノリがよくなり、男性にも惚れっぽくなってしまう。そして、恋をしたと感じると、夫の隆夫さんに相談するのだという。

 このふたりとは、たまたま知り合いに連れて行かれた、とあるカラオケスナックで知り合った。べたべたしながらデュエットしている姿がほほえましく、つい話しかけて、互いに離婚経験者で、再婚して五年になるとことを知った。妻は夫に甘えた口調で、「パパ」と呼ぶ。

彼らに会いたくてその店にときどき行った。そして何度か会っているうちに、隆夫さんが、私にぽろっと言ったのだ。

「まーちゃん(夫は妻をそう呼ぶ)は、好きな人ができると僕に相談するんですよ。これってどういう心理なんですかね」と。

 まーちゃんこと真砂子さんは、そばでにこにこしているだけだ。のろけの一種だろうと最初は思っていた。

 だが、真砂子さんが飲み疲れてうとうとしているとき、隆夫さんは再度、同じことを私に尋ねてきた。ちなみに隆夫さんは、酒に強く、酔って正体をなくすことはまずない。
「隆夫さんが父親代わりみたいになっているんじゃないですか」

 私は思ったことをそのまま答える。
「うん。たしかにまーちゃんは、中学生のときにお父さんが亡くなって、それ以来、自分がお母さんを支えて頑張ってきたところがある。甘えたくても甘えられなかったんだと思うから、僕も父親的な気持ちもあるんですよ。

 でもねえ、目をウルウルさせながら、『好きな人ができちゃったの』と言われる僕の心境、けっこう複雑なのよ」

 わざと軽い言い方をしているが、隆夫さん、実は真剣に悩んでいるのかもしれないとようやく気付いた。

「好きな人がいると言うだけで、その後どうなったかは言わないんですか」
「最初はね、結婚して一年もたたないころ。仕事で知り合った独身の男に告白されちゃったと軽く言ったんです。そのくらいで嫉妬するのも嫌だから、「まーちゃんその人のこと、どう思っているの」と尋ねたら、『好き。デートしてもいい?』って。デートくらいならいいんじゃないかと思って送り出したんです。

その日は、食事をしてカラオケに行って、楽しかったと帰って来たんですが、数日後、黙って遅くなったんですよ。帰って来たのは午前一時を回っていた。心配で何度も携帯に電話したのにつながらなくて。

ようやく帰って来たときは、ほっとして思わず抱きしめてしまったんです。すると彼女は『彼とキスしちゃったの』と。僕、それまで自分が嫉妬深いなんて考えたこともなかったんだけど、そのときは頭に血が上ってねえ。

思わず彼女を押し倒して、無理やりセックスをしてしまいました。彼女に『本当はエッチしたんだろう、彼はよかったのか』と言いながらしていると、やたらと興奮する。彼女を見ると、もう目の焦点が合っていなくて、やはりものすごく興奮している。

その恋はほどなく終わったみたいなんですが、それ以来、彼女は好きな人ができると、いろいろ相談にしてくるようになったんです」

 妻を寝取られるのが好き、妻を他の男性に抱かせることを暗に欲望として持っている男性はときどきいる。それほど珍しいことではないが、そういう男性は、自分の嗜好を認識していることが多い。だが、隆夫さんは、妻が他の男とキスしたと言うまで、自分の中にそんな性癖があることを全く知らなかった。
だから二重に傷ついたともいえる。妻に対して、そしてそんな妻に欲情してしまう自分に対して。

 ただ、妻の方は、どういう意図があってそんなことを言うのだろうか。隆夫さんが席を外したとき、私は真砂子さんに尋ねてみた。

「隆夫さん、けっこう苦しんでいるみたいよ」
「パパは、私にとって文字通り、父親であり、兄であり、恋人であり、親友であり‥‥。
すべての関係がパパとの間にあると思っているんです。だから外で恋したとき、自分の中だけでおさめておけなかった。私のことは全部知ってほしいから」

「それは、真砂子さんの甘えでもあるのかしら」
「中学のときに父が死んだでしょう? 実は自殺だったんですよ。私は、父が大好きだったから、ものすごくショックで学校へ行けなくなりました。母が苦しんでいるのを見て、長女である自分が頑張らなければと。少しずつ立ち直ったんですが。

自殺の理由もよくわからないんです。もしかしたら母は本当のことを知っていたかもしれないけど、何も言わないまま苦労し通しで、私が二十歳のときあの世に行ってしまった。そのとき十八歳だった妹は、妻子ある人と駆け落ちしちゃったんです。

今は居場所がわかっていますけど、当時は私、ひとりぼっちになってしまって寂しくて寂しくて。それで、二十三歳のとき、五歳年上の人と結婚したんです。でも彼は暴力夫で、ひどい目にあって。家に戻りたくなくなって、会社帰りに飲み屋に寄るようになって‥‥」

 彼女が隆夫さんと知り合ったのは、その飲み屋だった。当時、すでにバッイチだった隆夫さんに、「離婚してオレのところに来い」と言われたとき、彼女は生きていく先に光を見つけたような気持ちになったという。

 絶望の淵で、一筋の明かりを照らしてくれた人。その人なら、何でも受け止めてくれると彼女は無条件で信じている。

「結婚したとき、『何でも言っていい? 全部怒らないで受け止めてくれる?』と聞いたんです。そうしたら『もちろん』って。だからお互い仕事から帰ると、その日にあったこと、今思っていること、何でもパパに話すんです。何でも話すのに、恋していることだけ秘密にするのはおかしいんじゃないかと思って」

「でも、それによって夫が苦しんでいるとしたら?」
「嫉妬ですか? パパ嫉妬するほど小さな器の男ではないはずだと信じています」
 明るいというか無邪気というか、親に甘えられなかった分、親以上に妻は夫に甘え切っている。彼女に失礼であることを承知でいえば、私は正直、内心、少し苛ついていた。

たとえ頼り切り、甘え切っていても、相手だって人間なのだ。それを斟酌せずにやりたい放題、言いたい放題の女性に対して、少しだけ私の嫌悪の針が振れる。ついでに言えば、そこまで増長させている隆夫さんに対しても。苛立った気持ちが抑えられない。

 そんな私の気持ちを敏感に察したのか、彼女は私の目をひたと見つめて言った。
「私が夫に対して甘えすぎだって、みんな言うんです。ダンナの愛情を試すようなことをするんじゃないと、パパの友達に本気で怒られたこともある。私はいつでもどこでも、パパに対して態度を変えないから、パパの友達はみんな怒るんです。だけど…‥」

 真砂子さんは、急に声をひそめた。
「私と知り合ったとき、パパは自殺未遂して入院し、退院したばかりだったんです。パパには、離婚してからずっと会えなかった娘さんがいたんですけど、大人になった娘さんが結婚式にパパを招待してくれたんですって。大感激して出席しのだけれど、その後、急に落ち込んでしまったらしいの。

 結婚式から帰って、もう自分は誰にも必要とされていないという気持ちがだんだん強くなってきて。夜中に部屋で首を吊ったその瞬間、元奥さんが飛び込んできて助かったんだって。

元奥さん、帰り際の彼の様子がおかしかったから、虫が知らせたみたい。でも、元奥さんも再婚しているし、娘も大人として旅立っていった。病院のベッドでずっと死んでしまえばよかったと思ったらしいんです」

 自らの命を絶とうとした男と、父に自殺された女、偶然とはいえ、すごい組み合わせだと思うしかない。真砂子さんは、隆夫さんに全面的に甘えることで、彼の「生きがい」を引き出しているのかもしれない。

「私、我儘過ぎたら言ってとパパに言っているんです。彼が本当に傷つくと分かれば、私だって控えますよ。だけど、あの人はいいなと思うことは私にもある。ただ、それはパパに対する気持ちとは全く違うんです。パパも、その辺は分かっていると思うんだけど」

 天衣無縫に振る舞っているように見える真砂子さんだが、実はそうではなかった。彼女には彼女なりの計算もある。ただ、隆夫さんへの絶対的な信頼感だけは揺るがないのだろう。私の嫌悪感の針は振れなくなった。夫婦のことは他人にはわからない。

夫の不安と決断

 ある日、時間を取ってもらって隆夫さんだけに会ってみた。彼は、たしかに真砂子さんとの生活を楽しんでいるし、若い妻に振り回されることで、自分の気持ちが支えられているとは言った。

「だけど、僕は腹をくくれないというか。いつか彼女が本気で好きな男が出てくるんじゃないかという不安があるんです。こっちは年食っていくばかりだけど、彼女はまだまだわかいわけだから。僕より若くていい男なんて、世の中にはいくらでもいる」

「でも隆夫さんほど、彼女のことを愛している男はいないじゃないでしょうか」
「僕がどんなに彼女を愛していようと、彼女が他の男に心を移してしまえば、僕の愛情なんてうっとうしくなるだけだと思います。

彼女を本気で愛しているなら、解放してあげるべきだという時期が来るかもしれない。そう思うと、不安が募りますね。彼女にはなかなかそう正直に言えないけど‥‥」

 好きだから執着する、好きだから解放してあげる。どちらが正しいのか、私には分からない。前者は恋する者の正直な気持ちだ、後者には、相当な苦痛が伴うが、相手の立場に立って広い愛情からの決断でもある。

「実は、今も彼女には好きな男がいるんですよ。今度はかなり本気らしいんです」
 それから一ヶ月ほどたったころ、ふたりはまた会った。真砂子さんは、これからデートだという。珍しく、女っぽいプリントのワンピースを着ている。世間話を暫くしてから真砂子さんを見送って、私は隆夫さんとふたりで、ファミレスにいた。

「まーちゃんは、今日会う男と、すでに関係をもっているんですよ」
 隆夫さんは落ち着いた様子で言った。私は目を白黒させるだけだ。いつからそんなことになっていたのだろう。

「二週間くらい前かな、デートから帰って来たまーちゃんの様子を見てすぐわかりました。台所で水を飲んでいる彼女に『彼としたの?』と聞いたら『うん』って。顔を上気させている彼女を見たら、とても愛おしくなって、同時に、すごく激しい欲求が沸いてきて、そのまま彼女を後ろから犯してしまいました。

彼女もすごく興奮して…‥。その後、彼女が泣きながら『パパ、怒っている?』と言ったんです。なかなか整理がつかなかった自分の気持ちきちんと見つめてみようと思って」

 その結果、彼は嫉妬しながら興奮してしまう自分を受け入れた。そして、彼女を愛しているからこそ、彼女の行動を全て受け止めようと考えた。

「まーちゃんは、僕の元を離れる気なんてさらさらない。それもよくわかった。だけど彼女にしてみたら、浮気ではなくて『本気の恋』なんですよ。わかってもらえないかもしれないけど、彼女は僕がいるから恋ができる」

 帰るところがあるから、好きなことができる。それはよくわかる。恋がすべてを振り捨てて身を投じるものだとすれば、彼女のありようは決して潔くはない。だが、ベースがあるから、安心して本気になれるという彼女の心情も理解できる。

「ようやく少しずつ見えて来たんです。自分の役割が。彼女が人生を楽しんでくれればいい。僕はその手助けができればいい。もちろん、彼女が僕の元を離れる時が来るかもしれない。でもそれは今から考えても仕方がないですからね」

 隆夫さんは、少し晴れやかな笑顔を見せた。
「まーちゃんが、こんなことを言ったんですよ。『パパも好きな人ができたら、恋してもいいよ』って。『他の女とエッチしてもいいのか』と聞いたら、急に目に涙をいっぱいためて。『まーちゃんが嫌がることはしないから大丈夫だよ』と言ったら、泣きながらにっこりしていました。

『なんでそういうこと言うの?』と尋ねると、『私だけしていると不公平でしょ』って。男女の間なんて、不公平なものだし、それはしかたがない。ある意味では、まーちゃんに関わって、貧乏くじを引かされたのかもしれないけど」

 最後は冗談のように言って、隆夫さんは笑った。その笑顔には、「男としてのプライド」や「器を大きく見せよとしている演技」は感じられなかった。もちろんそれは、彼女を失うかもしれないという不安や恐怖と表裏一体の危ういものではあるけれど‥‥。

「親しい友人からは、非難囂々ですよ。『オマエはおかしい』と面と向かって言われました。だけど中には、『どういう夫婦でもいいんじゃないか。別に誰かに迷惑をかけているわけじゃないし』と言ってくれた人もいる。

まあ、この先、僕もぶれることがあるかもしれないし。偉そうなことは言えませんけれど、なんとなく、まーちゃんとは一生仲良くやっていけそうな気がしています」

 そんな夫婦もいるんだなあと私は、妙に感動していた。最初は、ただ明るい性格に見えた真砂子さんが、純粋であるがゆえに夫を平気で苦しめているように見えて、腹立たしくもあった。

 だが、彼女は彼女なりの過去があり、彼には彼の過去があった。途中経過を見ていただけに、隆夫さんの心の揺れが伝わってきて、せつない反面、人の心の変化にも興味がわく。人間の奥深さ、豪の深さ、そして夫婦の絆の多様さは、他人が簡単に測り知れることではないのかもしれない。

それでも、ひとりよりふたり?

 人間は本当につらいことはしないと、私は思っている。もちろん、DVの夫から逃げられないところまで追い詰められてしまった人は別だが、そこまでいなければ通常は「逃げる」ことができるはずだ。心身が崩壊するような危険を感じたら、どんな手段を使っても逃げた方がいいに決まっている。

 夫婦関係においては、自分の心身の危険を覚えるほどではないけれど、特に「浮かれるほど幸福でもない」という人が多い。だが、私が三十歳で離婚したころは、もっと「結婚は我慢と忍耐」「結婚は修行」と話す人たちがいた。

あれから約二十年、我慢することはそれほどいい結果を招かないというのが一般的になったのかもしれない。

「うちのカミさん。思ったことをすぐ口にするんだよね。だからこっちは、いちいちカチンとくるわけ。でも言った本人は何も考えていない。たいしたことじゃないから日々、やっていけるけど、それが積み重ねると、やはり大ゲンカになる。何度も離婚を考えたことがあるよ」

 友人である五十歳の男性は、苦笑しながらそう言った。結婚して二十年、小さな口ケンカから「出ていけ」と思わず怒鳴ってしまったようなケンカまでしてきた。離婚という言葉が頭をかすめたことも、一度や二度ではない。

「それでも行動に移さなかったのは、結婚する時に、絶対離婚はしないと決めたからかなあ。離婚したら自分を裏切るような気持ちになって、自分を許せなくなると分かっているから」

 私は彼の顔を見ながら、それだけではないだろうと思っていた。子どももふたりいる。妻とふたりで家庭を築いてきた実感は、本人が意識しているより強いものではないのだろうか。いざ離婚という言葉が頭をかすめたとき、人は「築いてきたもの」をそう簡単に振り捨てられないことに気づくのではないか。

それとともに、一緒に歩んできた妻への執着も、改めて感じるはずだ。そうやって人は立ち止まったり踏みとどまったりしながら家庭を築き、夫婦の絆を強めていくのだろう。

 一方で、早々と「夫婦の絆」定義づけて語ろうとする女性がいる。
「なんだかんだ言っても、男と女は一緒に暮らして同じものを食べて、初めて絆が生まれるんだと思う」

 以前からの知り合いである裕美さん(三十九歳)とあるとき、食事をしていると、彼女は何かの話の流れから、急に厳しい口調でそう言った。

 一歳年下のエリートの夫と結婚して十二年、自分の実家を二世帯住宅にして暮らし、本人も趣味が高じてアクセサリーの店まで開いてしまった。何もかもうまくいっているように見えていた。常に夫との絆も強調していた。夫と彼女の両親との仲も良好。この不景気な時代にあっても、年に一度の海外旅行は欠かさない。

 そんな彼女が厳しい口調で「一緒に暮らしてナンボ」という発言をしたのには、突然、夫の浮気疑惑が降ってわいたからだ。後日、改めて話を聞かせてほしいと頼んだが、なかなかいい返事はもらえなかった。時間をかけて頼み続け、ようやく彼女に会うことができた。

 彼女は喫茶店の席に落ち着くなり、開口一番、思い切ったようにこう言った。
「実はうち、ここ十年以上、セックスレスなんです」

 いつも幸せを強調する彼女から、私はどことなく「無理」を感じ取っていた。本当に幸せな人は、それを強調する必要などないからだ。そして、彼女は不倫している男女にも厳しかったし、長く付き合って結婚しない人たちにも妙に冷たかった。

彼女にとっては、結婚こそが「愛情の証のすべて」なのだろう、そういう価値観をもっているのだろうと思っていたが、セックスレス発言で、すべての謎が解けたような気がした。

 彼女はセックスレスであることを打ち明けて気がラクになったのか、今までの結婚生活を語りだした。

 結婚当初、彼女たちは賃貸マンションに住んでいた。あまり壁が厚くなく、あるとき、隣のカップルの喘ぎ声が聞こえた。夫は露骨に嫌な顔をしたという。

「それからかな、あんまり夫がしなくなったのは。私も自分から迫るタイプじゃないから、少しずつ間遠くなっていきました。その後、自宅を二世帯住宅にして引っ越したんです。

頑丈に作ったから声が漏れるようなことはないんだけれど、やはり夫はしようしなかった。台所もお風呂も全部別にしたのに、夫はなぜかうちの母の料理が気に入って。結局、週末はほとんど親たちと一緒に過ごしています。

うちの夫、中学生のときに母親を亡くしているので、家庭的な雰囲気に飢えているんでしょうね。両親と夫と私で食事をしていると、なんだか夫と私は姉弟みたいになってしまって。今思えば、それもいけなかったと思います」

 そのころから年に一度は夫婦で海外旅行をしていたが、朝から歩き回って、夕食でお酒が入ると、夫は部屋に戻ってすぐ寝てしまう。これはいけないと南の島でのんびり過ごす旅行も計画したが、夫は昼間、海での遊びに専念。夜はやはり疲れて寝てしまう。

「二週間旅行しても、結局、一度もしない。ここ数年、私はすごく悶々とするようになりました」

 昔に比べてセックスの情報も蔓延している。女性もセックスをしたいと言っている時代になっていることを、彼女は察知していた。周りの友達は、恋人がいてセックスライフを楽しんでいる。それなのに、私は夫に女として見てもらえず、性の歓びも知らない。女として負けている。彼女は焦った。

 焦りは他人への厳しさを生んだ。結婚しない女を避難し、不倫をしている友人を罵倒した。自分は女だということを強調するために、月に二度は美容院とエステに通い、洋服もたびたび新調した。

収入以上に出費がかさむと、会社経営の父に甘えさえすれば出してもらえるという計算もあった。仕事柄、もともときれいにしている人だったが、歯止めがきかず買い物をしてしまうこともあると、涙ぐみながら話す。

「三年くらい前、思いきって夫に話したんです。私は子供が欲しい。と。本当は子ども云々よりセックスがしたかったのだけど、そうは言えなくて‥‥。すると夫は『オレ別に要らないけどなあ』って。彼にとっては、とにかく今が居心地いいし、仕事も思い切りできる。子どもがいたら、旅行だってできなくなるし、真顔で言う。

この人自身が、私の実家で子どもとして心地いい思いをしているんだなとよくわかりました。仕事では一人前だけど、ひとりの男と見ると、責任をもって家庭を築いていこうという覚悟ができていなかったのかもしれません」

 夫は抱きしめられるのが大好きなのだという。帰ってくると、まずお互いにハグする。だが、セックスになだれ込むことはしない。キスもするが、ディープキスは「あり得ない」。
夫が居心地よく暮らしていくことの条件に、「妻とのセックス」は入っていないのだと、裕美さんは改めて感じた。

彼女自身にも誘惑がないわけではなかったが、「結婚しているのに浮気なんかできない」と、他の男性には目もくれなかったわけではなく、単に「人妻がそんなことをしてはいけない」と自分を縛っているだけのようだった。

 その夫に「最近、女ができたかもしれない」と裕美さんは言う。夫の帰りが遅くなったり、週末も会社に行くことが増えたからだと彼女は言うが、それだけでは何の証拠にもならない。夫の彼女に対する態度は、特に変わりはない。先日も一泊で温泉に行ってきたと彼女は話す。

 あっ、と私は気づいた。彼女にとっては、夫が浮気しているかもしれないというストーリーにした方が都合がいいのかもしれない、と。だから自分に触れようとしないんだというある種の言い訳が成り立つから。

 セックスレスも、ここまで来ると重症だと感じざるを得なかった。彼女は少しずつ病んでいっている。そのときも、近くのテーブルにいた若い女性他に対して「化粧が下手ね、あの人」とか、「どうして若いのに、あんなに髪をばさばさにして平気なのかしら」と悪口が続いた。

「夫婦でカウンセリングを受けてみたら」

 そう提案してみた。セックスしたいという自分の気持ちを彼に直接ぶつけられないなら、ふたりでカウンセリングを受けてみてもいいのではないかと思った。

 彼女はぱっと顔を輝かせた。
 二ヶ月後、また彼女に会うと、夫を急き立てて本当にカウンセリングに行ったのだと言う。夫はバイアグラを処方されたそうだ。セックスレスであることを正直に言ったのではなく、「子どもが欲しいけれど、夫の勃起力が持続しない」という話をしたとか。

「バイアグラをもらえば、飲んでみたくなるだろうと思ったんですよ。だけど病院に行って一ヶ月経つけど、まだ一度もしていません。夫はもしかしたら、別の女とするときにバイアグラを飲んでいるのかもしれない」

 彼女の目に恨みが宿っていた。夫に女性がいるかどうかは、いまだにわからない。疑惑は疑惑のままだ。一方で、彼女の「セックスしたい」願望は強くなるばかり。誰よりも「女」でありたいのに、世の中で一番「負けている」と感じている。

だが、人妻である以上、別の男とするわけにはいかない。家では、相変わらず両親と食事をとり、姉弟のような関係を保ち、友達には「うちは仲良しなの」と振り回っている。

 現実を見なければ、彼女の気持ちはすっきりしないはずだ。だが、おそらく怖くて現実を見ることができないのだろう。それでも、私は嫌われることを承知であえて言った。
「現実を見た方がいい」
と。
 自分がセックスをしたい気持ちを認め、この夫婦関係でいいのかどうか夫と正直に話し合った方がいい。そうでなければ、あとの人生、このまま悶々と過ごさなければいけないのだ。

 彼女は急に黙った。このままではいけないことは分かっているのだろう。自分が壊れてしまうかもしれないと恐怖感も、彼女の中にはすでにあった可能性も高い。

 それっきり、彼女は連絡を断った。メールを出しても返事は来ない。私とは話ができないと思ったに違いない。どう話せばよかったかもわからないままに、こちらから連絡は取らずにいた。

 その後、たまたま知り合った人が彼女の知人だったため、噂を聞いたことがある。相変わらず、「仲良し夫婦」を強調しているらしい。人を騙せても、自分をごまかし続けることは出来はないのに、彼女のことを思うと、なぜか胸が痛くなる。

つづく 第九 夫に恋人が。そのとき妻は‥‥