
亀山早苗 著
男性たちの「離婚しない理由」
百組の夫婦がいれば、二百通りの「別れない理由」があるかもしれない。
女性たちに話を聞いて、少し意外だなあと思ったのは、いざ離婚という言葉が頭に浮かぶと、「親のこと」を考えてしまうという話した人が多いことだ。親を心配させたくない。親が納得するだけの理由を見つけられない。もちろん、親は「世間体」とも言い換えられるのかもしれない。人からどう見られるのか。
「あんなにいい家族だったのに、分からないものね」と言われる可能性だってある。言われたってかまわないと私は思うが、「陰口を叩かれているのではないか」と考えるだけで、すでに気持ちがずしんと重くなってしまう人たちは確実にいる。
自分の人生をより発展させるより、周りに心配を掛けずに現状維持をしていこうとする気持ちがある。もちろん、それがいけないとは思わない。むしろ、女性たちはそういう気持ちがあるから、離婚率は飛躍的に上がらずにすんでいるのかもしれないとさえ思う。
我慢しない、わがままな女性が増えたと言われるが、やはり家庭という存在は、女性にとって大きなものだし、それを守ろうとする意識は強い。
男性も同じなのかもしれない。女性より柔軟性に欠ける男性は、「今の生活を変える」ことがもっとも苦手なはず。自身に特に不利益がなければ、わざわざ「壊す」ようなことをする必要もない。それでも、やはり個別に話を聞いてみれば、「別れない理由」は人それぞれだとは思う。
婚外恋愛しても、妻を嫌いになれない
恋愛に慣れていない男性が、結婚後に恋にはまると、大変なことになる。ある人からの紹介で、私は寛さん(四十四歳)に会った。
中肉中背、眼鏡をかけたスーツ姿の彼は、いかにもエリートサラリーマンという風貌。学生時代は「秀才」と呼ばれていたんだろうなと思わせる。
彼の個人的な事情が絡むので、詳細には明かせないが、日本でも屈指の名門大学を卒業、一流企業に就職し、さらに会社から大学院に行かせてもらったという、どこからどう見ても「エリート」の道を歩んできた人だった。その彼が、不惑という年齢を迎えて「生まれて初めて惑ってしまった」という。
四年前、別の支社から寛さんのいる部署に、六歳年上の絵里子さんが配属されてきた。当時、絵里子さんは四十六歳。だが、その年齢には見えないほど、かわいくてコケティッシュ、いかにも男好きするタイプの女性だった。
「既婚で子どもがいるのに、彼女、ちょっと男に媚びるところがあるんです。同僚女性からは嫌われるタイプでしょうね。男たちの間でも、最初は『いいよね』と言われていたんだけど、すぐに『ちょっと媚びすぎ』という声がでていました。
仕事の話をするときも、妙に身体を密着させてくるし、長い髪をわざと男の前でかきあげたりするし。コロンをつけいるせいか、こっちはクラッとくるんです。僕たちより年上の上司などにはウケがよかったみたい。ただ、仕事はできるし、特別、問題はなかったんです」
ああいう女性とつきあうと痛い目に遭うかもしれない、という警告音は、寛さんの脳内でも鳴っていた。だが、エリートの哀しさというか、恋愛経験の乏しい男性のこと、いけないと思いながらも自制がきかず、ついつい惹かれて、一気に恋愛関係に陥った。
寛さんが結婚したのは、三十三歳のとき、相手は三歳年下で、友達の紹介で出会った。妻は明るくさっぱりした女性、家庭を持つなら、こういう人がいいとすぐに結婚を決めた。妻も仕事をしているので、子どもはしばらくお預けだったのだが、結婚して四年目に第一子をもうけた。
仕事を続ける予定だった妻は、子どもの可愛さに、どうしても復職する気になれず退職。この不況の中でも、寛さんの収入だけで、何とかなるだろう。家庭はいつも、明るく穏やかな雰囲気に包まれている。
それなのに、彼は絵里子さんに惹かれてしまった。
「彼女は、夫とはもうセックスの関係を持ちたくない、心も通い合わないといつも言っていました。だけど夫は彼女のことを束縛するし、愛しているから身体を求めてくる。『夫婦だから仕方ないのよね。でも私、あなたのほうがずっと感じるの』って、彼女はよく言っていました。
僕としているのに、夫ともしているんだと考えると、頭の中が沸騰するほど嫉妬しました。彼女をオレのものにしたいと思ったり、彼女を横暴な夫から守ってやりたいと思ったり。自分でも、理性がどこかに吹っ飛んでしまったような気持ちでした。彼女に身も心も溺れてしまったんです」
結婚するときは理性が勝っていた。家庭を作るなら、という視点で妻を眺めることができた。だが、恋はそうはいかない。底なし沼に足を取られるように、彼は絵里子さんにずぶずぶとのめり込んでいった。
会社で毎日顔を合わせるものの、ふたりきりでデートできる時間は限られている。なかなかゆっくり会えない。その飢餓感が、恋の炎をさらに燃え上がらせる。お互いに時間をやりくりして、ようやく身体を重ねたとき、寛さんは「生きている実感」を確認できたという。
できることなら、離婚して絵里子さんと人生をやり直したい。そう思ったこともある。そう言うと、絵里子さんはいつも「私も」と言う。それでいて、「離婚なんて言ったら、私、夫に殺されるわ。殺されたらあなたに会えなくなるより、今のままのほうがいい」と目に涙をためる。
彼女とつきあって一年半ほどたったころ、寛さんの妻が、「もうひとり子どもが欲しい」と言い出した。寛さん自身は、多少、間遠になりながらも、疑われないために妻ともセックスの関係をもっていた。
なぜ急に、妻が「もうひとり」と言い出したのか、よくわからないんだけど、と寛さんは言った。推測ではあるが、妻は夫の様子がおかしいことに気づいていたのかもしれない。疑ったり責めたりせずに、もうひとり子どもをもうけることで、夫の家庭への執着を強めようという意図したのではないだろうか。
浮気、あるいは恋愛している夫たちは、妻が気付いていないはずだと言い張るのだが、妻側は「夫の様子がおかしいなんていうことは、すぐにわかる」と豪語する。しかも、それは帰宅が遅くなったとか、帰って来たときに香水の香りがするとか、そんな分かりやすいことではない。「ただいま」と言ったときの夫の声のトーンから、外に女性がいると気づいた妻もいる。
「夫の身体に何か薄いベールみたいなものがまとわりついている、と感じたこともあるんです。それが徐々に厚くなってきて、おかしいおかしいと思っていたら、やはり浮気していた。言葉では言えないけど、いつもとは”何か”が違う。女はそういうことに敏感だと思います」
そう言う女性もいる。他の女に身も心も溺れている夫を、寛さんの妻は見て見ぬふりをすることにしたのではないか、という疑問は消えない。
絵里子さんとのつきあいが四年目を迎えようとするころ、少しずつ異変が起こってきた。
「あるとき、絵里子が『うちのダンナが、私の携帯、見ているかもしれない。なんかヘンなのよね』と言い出して。彼女はちょっと杜撰というか、ルーズなところがあるんですよ。
連絡をとりあうために、プリペイド式の携帯を渡しておいたんですが、それもなくしちゃうし。パソコンのメールもフリーアドレスを消して、ネットカフェからやりとりをしようと言ったんです。会社の近くにネットカフェもあるから、だけど彼女は。結局、そのアドレスもわからなくなったと」
彼女だって既婚の身。何かあったら社会的にも家庭的にもリスクは大きい。それが分かっていて、なおかつ彼を本気で好きであるなら、もっと注意深くなってもいいのではないか、と私の口調は思わずきつくなる。
「ね、たぶん、女性たちからは、彼女が僕に本気じゃないよというように見えると思うんです。でもつきあっていた僕はわかっている。彼女は単にそういう性格なんです」
彼が彼女をかばうのはわかるが、その後の彼の告白に、私は心底驚かされた。
「実はいうとう、ダンナにばれてしまって。それで八百万円請求されて、先日、半分を支払ったところなんです」
八百万円! 思わずのけぞってしまう。あっけに取られている私を尻目に、彼は苦笑いしながら続けた。
「それで彼女は結局、会社を辞めて、というかダンナに辞めさせられたんです。そういう場合って、元の鞘にうまく戻れるものなのでしょうか。彼女が辛い思いをしているのではないかと心配で」
彼が本当に私に話しかったのは、最後の一言。彼女か辛い思いをしているのではないかという心配のあまり、私に会って、今まで似たような例があったかどうかを聞いてみたいと思ったらしい。しかし、私としては、そんなことより八百万円である。
「ある日、例のプリペイド式の携帯に、知らない番号から電話があったんです。無視していたら、今度はいつも使っている携帯に電話がきて。知らない番号には出ないようにしているので、そのときも出なかったんですね。
そうしたら、男の声で、彼女の名字を名乗り、『何もかも分かっているんですよ。とにかく会って話をしたいのでご連絡をください』とメッセージが入っていました。ドスの利いた声だったけど、口調は丁寧でした。
いやあ、さすがにそのときはびっくりしましたねえ。彼女に連絡をとったら、『どうしてあなたの番号が分かったのかしら』と言っていたけど、彼女の携帯の管理の悪さから考えれば、いつばれてもおかしくはないですよね」
翌日の昼休みにも電話があったが、どうしても出る気になれなかった。「夫にばれたみたい」絵里子さんが言ったのが翌日。そして次の日。絵里子さんが唐突に会社を辞めた、「家庭の事情」とだけ上司から報告があった。慌てて絵里子さんの携帯にメールをすると、「夫が怒っているから気を付けて」と短い返信があった。それっきり、彼女の携帯はつながらなくなる。
三日ほどたったころ、残業を終えて遅く帰宅すると、妻が不安そうに言った。
「今日変な電話があったのよ。一回目は無言電話。二度目はすぐかかってきて、「ご主人はいらっしゃいますか」って。夕方だったから、まだ仕事で会社におりますと言ったら、
はーってものすごく大きなため息をついて切れたの。それからついさっき、また同じ人から電話があって、まだ帰っていないと言ったら、『ええっと』と言い淀んでるの。
『どちら様でしょう』と聞いたら、急に『あっ』と叫んで、『すいません、お宅に電話するつもりじゃなかったんです。間違いでした』って。ドスのきいた声なんですけど、口調は妙に丁寧なの。慇懃(いんぎん「○意丁寧・ねんごろ」)無礼という感じ。あなた、心当たりある?」
絵里子さんの夫の芝居じみたやり方に、寛さんはちょっとムッとした。だが、そんなことはおくびにも出さず、「心当たりはない。振り込め詐欺みたいなものかもしれない。物騒だから気を付けた方がいいよ」と妻にさりげなく言った。
「翌日電話しましたよ。絵里子の夫に。自宅に電話したのは申し訳なかったと言うので、困りますよといったら、『あなたが私に連絡くれないからでしょう』と脅すように言われました。
絵里子に言わせると、決して乱暴な人ではないけど、短気なところがあるから怒ると何をするか分からないという。そんなことを聞かされるとこちらはびびりますよ、ただのサラリーマンなんだから。とにかく会おうといことになって。数日後、都内の一流のホテルで持ち合わせました」
絵里子さんと連らを取りたかったが。自宅に電話するわけにもいかない。しかし、夫と会う直前、彼は思いきって自宅に電話してみた。夫はいないに決まっているからだ。運よく、絵里子さんがいて電話をとった。
「これから絵里子のダンナさんとホテルで会う」
と言うと。
「ふたりきりにならないで、ロビーで会って」
切羽詰まったように彼女は言った。
「心配しないで、大丈夫だから」
寛さんはそう言いながら、「絵里子はやはり僕のことが好きなんだ」と確信したという。
「ロビーいると、彼から電話がきて、部屋番号を言うんです。部屋に来い、と。絵里子の切羽詰まった声が蘇ってきたて、殺されたらどうしようと思いましたけど、こっちも半分、覚悟はできていたので部屋まで行きました。それがとんでもないスウィートルーム。応接室みたいな部屋がついていて、そこに向かい合って座りました」
絵里子さんの夫は、寛さんに椅子を勧め、自分で座るなり、どさっと「証拠資料」をテーブルに置いた。置くというよりは、放り出すような感じだった。写真が見えた。
「僕とラブホテルに行っていくところでした。完璧な証拠握られているのは分かったけど、どう対処したらいいのか迷って、僕は無言でいました」
夫は、落ち着いた、丁寧な口調で言った。
「覚えがありますよね」
こういうとき、相手が騒いだり叫んだりすれば、こちらは冷静になれるものだ。だが、相手が落ち着いていると、妙に恐怖感にとらわれる。寛さんが、「はい」と答えると、夫はまた妙な間を開ける。寛さんがうろたえて、墓穴を掘るようなことを言うのを待っていたのかもしれない。寛さんはというと、実際は心臓が口から飛び出す寸前で、うまく言葉が出てこなかったのだという。
絵里子さんの夫は、以前から妻が誰かと会っているではないかと疑っていた。確信したのは、携帯電話だ。そこには男女の赤裸々なやり取りがあった。夫は興信所に頼み、二か月間、ふたりに対して探偵を付けたと明かした。
その間、何度かラブホテルに行っている。居酒屋やレストランで仲むつまじく食事をしている写真も、夫から「ほれ」とばかりに突き付けられた。
「あなたも家庭がおありだ。会社にばれてもまずいでしょう。どうです? 取引しませんか」
夫は巧みに話の核を持ち出す。脅してはいない。寛さんとしては、家庭や会社に知られなければ、あの程度のことは仕方がないと覚悟を決めるしかない。そうやって彼は寛さんを追い込んだ。
興信所の「経費」が月二百万で、二ヶ月だから四百万。そして自分が受けた精神的な被害が、その経費と同じ額。合わせて八百万円.それでいかがか、と夫は言った。
「何度も『会社や家庭』という言葉を出すんですよ。妻や子供の顔が浮かんでくるし、仕事を失った自分を想像できる。相手の言うことを呑むしかありませんでした。最初はもう少し安くしてもらえないか言おうと思ったんです。
でも、『八百万円』と絶句した僕に対して、彼は『それだけのことをやったんだろうが』と突然、テーブルを叩いて怒鳴った。ずっと静かな口調で話していただけに、それがものすごく怖くて・・・・」
話の持っていき方がうまいなあという感は否めない。私はどうも、絵里子さんと夫とが、意図したわけでないにせよ、無意識な共犯関係にあるような気がしてならなかった。
「あんたがオレのカミさんを抱いたのか」
夫は寛さをじっくり見ながら、そんな言葉も呟いたという。「あんたより僕の方がずっと感じたと絵里子は言っていたよ」と言い返したかったが、恐怖感から言えなかった、と寛さんは苦笑いする。
その金は、二回に分けて銀行に振り込むことで片付いた。
「オレも人がいいなあと思いますよ。こんなホテルを取って、あんなに恥ずかしい思いをさせまいとしているんだから」
夫はそう言ったが、寛さんは内心、「このホテル代だって、オレから巻き上げた金で払うんだろうが」と思っていた。かと思うと、絵里子さんの夫は、
「僕はなんとか絵里子とやり直したいんです。ふたりで温泉にでも行って、ゆっくりしてこようと思っています。これからの人生をふたりで考えるために」
そんな泣き落としのようなことも言った。温泉旅行も、寛さんのお金だろう。そもそも、夫は興信所に四百万円も払ったというが、それだけの経済力があったのだろうか。絵里子さんの弁によれば、夫は小さいながらも会社を経営していて、それなりにお金はもっているということではあったが、疑いがぬぐい切れないような話ではある。
一週間後、寛さんは独身時代から貯めて来た貯金の内四百万を、夫の口座に振り込んだ。残り半分を支払うのは一ヶ月後、それまでに会社の組合から少し借金をするつもりだった。
あきらめきれない恋心
だか、私が意外だったのは、寛さんが、それによって別れを決意したわけではなかったということだった。彼は、絵里子さんに未練たっぷりだったのだ。未練というよりは、まだ情熱が冷めていなかったというべきだろう。
寛さんは、絵里子さんが唯一、親しくしていた同僚の女性に頼んで、彼女の居場所を探ってもらった。すると、絵里子さんが、とあるブティックに勤めていることがわかった。
彼は残りの半分を払う前に、彼女がいる店に会いに行っている。あれだけ探偵につけられて危ない目にあったのに、彼は懲りていなかったのだ。私が驚きながらそう言うと、彼は突然、目に涙をいっぱいためた。
「僕は八百万円なんて、惜しいとは思わなかった。もう彼女に会わない、その代わり、僕の家庭にも会社にも何も言わないという取り決め書を交わしたんですが、彼女に会わないなんてことはできなかった。金を払ったことより、彼女に会えない方がつらくて辛くて‥‥」
しかし、八百万というお金があれば、子どものためにも妻のためにも、どれだけのことがしてやれるか‥‥。冷や水を浴びせるようにそう言っても、彼はおしぼりで目を拭っているだけだ。
家に居ても、絵里子さんのことばかり考えてしまうという彼に、そんなに好きならいっそ奪い取ってしまえば、と私はわざと乱暴なことをけしかけてみる。そもそも、妻と結婚したときの気持ちと、今の絵里子さんへの気持ちは全然違うものなか、とも尋ねた。
「うーん、全然違いますね。自分がこれほど女性に執着するなんて思ってもみなかった。それでも、やはり家庭は壊せないんですよ」
なぜ壊せないのか、なぜ執着していない女性と夫婦でいるのか、妻とはセックスできるのか。私はたたみかる。
「妻には何の落ち度もないんですから。なのにいきなり離婚してくれ、なんて言えるわけないですよ。子ども二人いるし、専業主婦になっている妻を放り出すことなんて、人としてできないでしょう。
妻とはたまにエッチしますけど‥‥。カモフラージュみたいなものかもしれません。あるいは絵里子が夫としているだろから、それに対する腹いせみたいなものか‥‥。あっちがそうならこっちも、というわけじゃないけど」
意地悪い質問しても、彼は決して激したりムッとした顔を見せたりしない。おそらく、彼にとって「家庭とは恋」はまったく別のものだったのだろう。だが、妻も女性であり、絵里子さんも女性だ。
妻ともセックスの関係をもっているのに、彼は妻とのセックスを「生身の女とのセックス」と受け止めていないような節がある。
もしかしたら、多くの男たちは、そう思っているのかもしれないと、ふと思った。恋人とのセックスは、「生身の女、自分が情熱を傾けている恋愛の相手」としているもの。
妻とのセックスは「相手をきちんと女として見て、情熱をぶつけるもの」ではなく、「習慣として欠かせないもの」になっている可能性があるのではないだろうか。
どちらが上とか下とかいう問題ではなく、彼らの脳の中で、そんな切り替えがいつしかできてしまっているのかもしれない。
彼はふうっと大きなため息をついて、「やるせないですよね」とつぶやく。彼の「やるせなさ」の正体は、絵里子さんとに会えないことだろう。かといって、全力で略奪しに行こうとは考えていない。
「もし。絵里子さんと一緒になったら、いい家庭が作れると思いますか?」
そんな質問に、彼はしばらく考えてから、首をひねりつつ答えた。
「たぶん、今のほうが、家庭としてはずっといいと思う。だけど、彼女を失うことは考えられない、考えたくないんです」
もうひとつ、宝くじで三億円当たったらどうしますか、と私は尋ねた。予想としては妻に一億五千万、彼女の夫に同額を渡して離婚し、絵里子さんとふたりで暮らすという答えが返ってくるかなと思っていた。ところが、寛さんの答えは違っていた。
「彼女に全額あげて離婚してもらう」
自分は離婚しないということ? と尋ねると彼はうなずいた。絵里子さんが、三億円をどう配分しようとかまわない。とにかく離婚させて、どこかに住んでもらって自分が会いに行くという形態をとりたいようだ。あくまでも、彼は「離婚」する気はないのだろう。
妻に愛されているという実感があるのだと思う。彼自身も、家庭を大事にしなければいけないという思いがある。だか、妻にしみれば、三億まるまる私にくれれば、さっさと別れるわと言うかもしれない。
過去に大恋愛と自覚した恋をしたことがあるなら、もう少し諦観できるかもしれない。だが、彼にとっては生まれて初めての濃い思いだ。それでも「恋」は「恋」でしかないのか。あるいは「恋」は「日常の結婚生活」より、彼にとっては上なのかもしれない。
その後、彼は数回、彼女に会いに行っている。金額も打ち明けた。彼女はまさに、口をあんぐり開けて驚いたという。会いに行っても、長い時間話せるわけでもない。彼女の姿を見て、ひと言でもふた言でも言葉を交わすことができればいいと彼は言う。
あるとき、彼のフリーメールを彼女に渡した。だが、彼女はまたもそれをなくたようだ。彼の情熱に比して、どうも彼女の情熱は頼りない。
残り半分を払った後。絵里子さんの夫から彼にメールが来た。
「これで永遠にサヨウナラ」と。
しかし、それから数ヶ月して、彼の携帯に妙なメールが入ってきた。意味不明な文章なのだが、絵文字が多用されている。冷ややかな眼差し、せせ笑うような顔、そして動物の絵などなど。そんなものを送ってくるのは、他の人物とは考えられない。
彼は携帯のメールアドレスを変更しているのだが、なぜまた分かってしまったのか。かれが恐れるように、夫の警告かもしれない。再度興信所に依頼しているのだろうか。あるいは、彼女の携帯から知られてしまったのか。
取引成立に交わした誓約書には、もう二度と彼女に会いませんと彼自身が書いたはずだ。だが、やはり恋は、人を思う気持ちは、ふだんはもっている彼の理性を吹っ飛ばすだけのエネルギーを持っているということなのだろう。絵里子さんの顔を見ないと、居てもたってもいられなくなり、週末、会社が休みなのにわざわざ彼女の勤め先まで行ったこともある。
このまま離れてしまう。まったくの他人になってしまうことへの不安に駆られ、気づいたら彼女の勤務先の近くまで行ってしまっていたということらしい。恋の強さの前に、人間の理性など役に立たない。
一方で、家庭は大丈夫なのだろうかと余計な心配をしたくなる。ふたりの子を育てながら、家事万端抜かりなくやってくれる妻は、相変わらず穏やかで明るいという。多少の不安や疑惑は持っているかもしれない。
だが、それをお首にも出さずに、しっかり家庭を守っている妻が、もしかしたらいちばん強いのかもしれない。夫は、もともと真面目な人なのだから、ここでヘンにつついて逃げ場をなくすよりは、自分が気付いていないフリをしているほうが賢明だと思っているのか。
あるいは、一応、夫は毎日帰ってくるのだから、今のところは泳がしておこうと思っているのか。
寛さんは、妻はまったく疑っていないと繰り返し言うが、どうしても私にはそう思えない。妻の胸中はいかに、と考えてしまう。
外で恋愛している男たちは、みんな家庭と恋の場での顔を使い分けている。努力しないと使い分けられない男は、たいてい恋愛が破綻していく。
自然とスイッチが切り替わる男は、家庭も恋愛もそれなりにうまく行ってしまうケースが多い。寛さんが、そううまく顔を使い分けられるかしは失礼ながら思えないので、妻が「何か」に気づいているのではないかと感じるのだ。
いずれにしても、寛さんの絵里子さんへの情熱は、まだ冷めてない。会えなくなって、ますます恋心は募っているのかもしれない。おそらく彼は、今日この時も、どうしたらまた彼女に会えるようになるか、いろいろ考えているに違いない。
「家庭」になじめない
結婚したのは間違いだった。と話す男たちが少なくない。かつてもそう言う男たちはいたが、今、そう話す男たちの多くが「家庭になじめない」と言う。自分が作った家庭になじめないのは、どういう意味なのか、最初、私にはよくわからなかった。
私自身は自分が「結婚」に向いていないと思っている。親戚づき合いも、おそらく地域でのつきあいもうまくできないだろう。子ども二人を育て上げた友人によれば、「ママ友だちのつきあい大変なのよ。ストレスまみれになるわよ。
いまだに子どもたちの幼稚園や小学校時代のママ友だちとのつきあいでしくじった夢を見て、うなされることもあるもん」と苦笑いをしていたこともある。
もともと私は社会性に乏しい私は、そういう「自分が選んだわけでもない人たち」とのつき合いがうまくできない。結果、家庭を持つことができなかったのも、仕方のないことなのだろうと思っている。
ただ、「家庭になじめない」と言う男たちは、私の感覚とはまた違うようだ。そんなふうに語るのは、三十 代の男たちが多い。もともと結婚したいわけではなかったのだろうか。
「平日は三日くらい、ネットカフェとかサウナに泊まっています」
そう言うのは、俊和さん(三十五歳)だ。知人から紹介された彼とは、都内の?華街の居酒屋で会った。すらりと背が高く、一般的に言えば、「イケメン」の部類だろう。
社内で知り合った二歳年下の女性と結婚して六年、四歳になるひとり娘がいる。
「娘が生まれてすぐに、妻の主張で、一軒家を買ったんです。だけど都心の会社まで一時間半以上かかる。だんだん通勤が苦痛になりましてね、娘は可愛いし、会いたいけど、どうせ平日の夜は一緒に食事もとれない。だったら無理して帰るより体を休めた方がいいんじゃないか、と思ったのがきっかけですね」
俊和さん、どこか歯切れが悪いというか、表情が曇りがちだ。単に物理的な理由だけで自宅に帰らないわけではないだろう。
「自分がどう説明したらいいのかわからないんですが、なんだか家庭になじめないです。妻のことは嫌いじゃない、娘も可愛い。だけど、家庭にいる自分は自分じゃない。
そんな気分。自分自身、夫であり父親なんだから頑張らなくちゃいけないと思っている。それなのに、家にいる自分を、もうひとりの自分が客観的に見ていて、『どこかおかしい』とつぶやくんです。分からないですよね、こんなこと言っても」
俊和さんは、決して「ヘン」な人ではない。初対面の挨拶から世間話まで、普通の人よりずっとスムーズだし。常に笑みを浮かべて、人当たりもいい。彼を紹介してくれた共通の知人によれば、「すごくいいヤツだし、仕事もできるんだけど、控えめな感じ。自分に自信がないのかなあと思うことはある」
という人物評価だった。そのことと、「家庭になじめない」こととは関係があるのだろうか。
「僕自身は、ごく普通の家庭で育ちました。どちらかというと干渉しあわない感じかなあ。三人兄弟だったか、家の中はむさ苦しかったんですけどね。母も働いていましたけど、定時で帰ってきて、夕飯はわりとみんなで食べていました。寂しい思いをするわけでもなく、本当に普通の家族だったと思います」
自身が結婚したのも、ごく普通の成りゆきだったと俊和さんは主張する。社内恋愛で二年ほど付き合い、「そろそろ潮時」だと思ったそうだ。「どうしてもこの人」というわけではなかったと言うが、男性にはわりと多いパターンでもあろう。
「娘が生まれたときは、本当にうれしかった。家族が増えたことか、自分のDNAがどうとか、そんなふうには思わなかったけど、ただ、この小さな命が生まれてきてくれたことに感謝しましたね。無条件に可愛いと思った」
だが、一方で、妻に対しては少しずつ気持ちが変化していく。
「僕自身は、結婚して子どもが産まれても、特に自分の中での変化はなかったんですが、妻はそうではなかったようです。結婚して、『巣』を作るように家の中を調え、子どもが産まれてからは、それがもっと過剰になっていった。
娘はまだ四歳ですが、私立小学校を受験させると言っています。せっかく空気のいいところに家があるんだから、地元の小学校でいい。
あんな小さい子を都心の学校に通わせるのは残酷ですよね。すると妻は、受かったら引っ越せばいい、と。まあ、いつでもそんな話をしているわけじゃないんですが、結婚してから自分自身を客観的に見られず、娘だけすべてを捧げる妻に、多少の違和感はありますね。過干渉なんです」
仕事をし、三人の息子たちのために毎日、ボリュームのある料理を作ってくれた母。勉強をしなさいなどと言われたことはなかったが、「好きなことを見つけなさい」と常に言われていた。元気に育てる。父母の教育はそれだけだった。と俊和さんは懐かしそうに話す。
妻は、ふたり姉妹の長女。専業主婦の母にしっかり育てられたせいか、真面目ではあるが、「自分も母のようでいなくては」という気持ちが強いらしい。
独身時代はともかく、結婚、出産と経験を重ねるうち、ますます自分の母のようにならなくてはいけないというプレッシャーが大きくなっていったのかもしれない。
「妻は僕がリラックスできるような家庭を作ってくれていると思います。だけど、それがあまりにも見え見えというか‥‥。『さあ、リラックスしなさい』と言われても、かえって緊張するものでしょ。人間って、妻の気配りが逆にうっとうしいという側面もありますね。その中で、くつろいだフリをしている自分が嘘くさくて」
生活における感覚が微妙に違うというとだろうか。妻は妻で、完璧であるべく気を遣っているのだろうが、その気遣いが夫には逆効果になっている。だが夫も、妻の気持ちはわかっているから、無下にもできない。ほんの少し、ボタンとボタンホールの位置がずれているような、隔靴掻痒とでもいうべき事態に陥っている。
「こういうのって、話し合ってもどうにかなるものでもないと思うんですよね。僕も妻を傷つけたくないし。結婚当初だったらともかく、もう六年も経ってしまったから、今さら言いづらい。生活って、習慣だから固定しちゃうじゃないですか。もう、うちにはうちの習慣ができてしまっていて、今さら僕が拒絶はできないような気がするんです」
娘が生まれたばかりのころ、残業で遅くなり、サウナに泊まった。そのとき、俊和さんは身も心も、解放されたような喜びに包まれたのが忘れられないそうだ。週に一度はこういうところでひとりになろうと考えた。それが週に二回、三回と増えていった。
「妻が心配するので、サウナやネットカフェに泊まるのは、なるべく週に三回くらいまでにしています。そのくらいの距離感があったほうが、僕は家庭と自分との切り替えができるみたい」
妻はもうひとり、子どもを欲しがっているが、彼はなかなかその気になれず、はぐらかしている。妻にとって、子どもがふたりになったら、「家庭」は完成形となるというイメージがあるらしい。
「なんだかねえ、覚悟ないままに結婚してしまったツケが来ているのかなと思います。妻が嫌なわけじゃないのに、家に帰ろうとすると体が重くなるんです」
決定的な理由があるわけではない。だが、なんとなく家に帰るのに気が重い。そんな気持ちは、彼の話を聞いていると分からなくはないという気がしてきた。
男は、意外と「ひとりになれる場所」がないのだ。妻は、夫が出かけていけばひとりになれる。子どもがいても、幼稚園や小学校に入れば、少しは自分の時間がもてるようになる。
ところが、男たちは会社で気を遣い、ストレスまみれになり、家庭に戻ってくれば「父、夫」の役割を果たさなくてはいけない。あるいは、妻に「役割」を果たすことを強要されることもあるだろう。昔のように、お父さんは家で威張っていていい立場ではなくなっているのだ。
男性たちの中には、家に帰って食事が終わると、自室に閉じこもって好きなことをしている人がいる。そこまで開き直れば、自分はラクだろうが、妻との関係はぎくしゃくするだろう。
「離婚なんて全く考えていませんけど、他人から見ると、家に帰らない僕のことを大丈夫かなあと思うんでしょうね。同僚や上司には心配されています。『十分、休めないと仕事に差し支えますから』とか『寂しいけど、家が遠いから』なんて適当なことを言っていますけど、
行きつけのサウナやネットカフェに行くと、なんだかほっとするんです。妻に『遅くなったからこっちに泊まる』とメールしたら、もうのんびり。まずいですかね、こういうの」
家が遠いのは本当だがから、妻が納得している限り、問題はないだろう。ただ、この先どうなるのかは分からない。ひょっとして、都内に引っ越してくる可能性もあるとしたら、そうそうサウナには泊まれなくなるはずだ。
「いや、子どもには絶対に地元の学校に行かせます。景気のこともあって、私立に行かせるお金もありませんし、あんまり先のことを考えると暗くなるから、今日が楽しければいいやと思っているんですけど」
どことなく、寂し気な笑みを浮かべて、俊和さんは言った。彼自身が孤独感を覚えているわけではないのだろう。こんな状態に陥っていることが、彼をどことなく寂しげに見せているのかもしれない。
つづく
第七 別居生活は長いけれど