
亀山早苗 著
夫婦崩壊!? それでもふたりが別れない理由
はじめに
本を書くために男女関係の取材を始めて、一二年を超えた。あっけなく離婚するひとたち、あるいは何があっても別れない人たち、そして結婚していながら、婚外恋愛に走る人たち。人が生きていれば、自ずとドラマが生まれる。
不倫の恋について聞けば聞くほど、その恋が真剣であればあるほど、感情移入しながら、一方で「では夫婦とは何だろう」「結婚とは何だろう」という思いを新たにしてきた。
私自身は、二〇代半ばからある男性とほぼ同棲状態になり、二年経って結婚して三年で別れた。当時は、「私には結婚そのものが向いていない」という思いを新たにしてきた。
最近、四〇代、五〇代で結婚する人たちが増えている。それまで機会がなくて独身だった人もいれば、再婚同士という人もいる。いずれも、このままひとりでいるのは寂しいから、毎日をもっと心豊かに過ごそうとしたいからという理由で、気が合うという原点に立ち戻って結婚していく。
話を聞いてみると、今ならお互い大人だから、それぞれの生活スペースを大きく変えることなく、適度に妥協しながら仲良く同居していけるだろうと感じて結婚に踏み切っているようだ。
私も半世紀近く生きてきて、「ひとり」の寂しさが徐々に心身にこたえるようになってきている。「誰かと同居し、日常会話のある心穏やかな生活」を羨ましくも感じる。
中年と言われる年代で結婚した人たちは、みな、「穏やかな生活を本当に幸せだと思う」と顔をほころばせる。ひとりでいつづける「孤独感」は、年齢とともに苦痛になっていくものだからだろう。
一方で、結婚生活を続けてはいても、はたから見て、「この人たちはなぜ、夫婦でいつづけるのだろう」と感じさせる男女もいる。もちろん、夫婦のことは夫婦しか分からない。どんなありようも否定するつもりはないのだが、私の心の中では「謎」がどんどん膨らんでいった。
お互いに外に恋人が居て、それが薄々わかっているのに、しかも経済的にはどちらも独立しているのに、離婚の気配さえない夫婦もいる。もはや会話さえないのかというと、どうもそうではないらしい。ただ、男女関係はいっさいない。それなら別れて友だちでいた方がすっきりするのではないかと思うが、そうもいかないのが現実だという。
離婚するには「顔も見たくない」「同じ部屋の空気が吸えない」というほどの嫌悪感が必要なのかもしれない。そうでない限り、人は「離婚」という、いろいろな意味で事務的精神的手続きの煩雑なものには取り組もうとしないのではないだろうか。
はたから見て、「一般的な意味合いにおいての”夫婦”は終わっている」と思うような夫婦は、なぜ夫婦でいつづけるのか。まるで言葉遊びのようだが、私はそれが不思議でならなかった。
自分があっさり放棄した「夫婦」という関係に、いい意味でも悪い意味でも固執しつづける人たちは、いったい「夫婦」をどういうものとして捉えているのだろう。
「夫婦」は「男女」ではなくてもやっていけるとは思うが、そこに寂しさは感じないのだろうか。しっかり二人三脚を組んでいないことへの寂しさのようなものないのだろうか。
そんなことを知りたくて、私の目から見て「従来とは違う。少し変わった夫婦」を見つけては話を聞いてみることにした。
第一章 「夫婦関係」に変化あり
セックス抜きの友だち夫婦
結婚すれば、恋愛感情はだんだん薄れていく、それは私にもよくわかる。結婚式と同時、なぜか女性は「嫁」という扱いをされ、よくも悪くも、双方の親類縁者と無理矢理親戚にさせられる。
実家を出て嫁いだのだからという実感の強い人や、あまりそういったことにストレスを感じない人は別にとして、少なくとも私には「嫁」に対する違和感がどうしようもなくあった。
かつて、女性たちはそんなことでは悩まなかっただろう。女は相手の家に嫁に行くのが当然だったのだから。今は、お互いに実家の戸籍を抜いて、新たな戸籍を作るのが「結婚」だから、本当は「相手の家に嫁ぐ」わけではない。
姓だって、男女どちらの姓を名乗ってもいいことになっている。男性の中には、いまだに「結婚したら、女は男の姓を名乗るのが法律で決まっている」と思っている人もいるようだが、その誤りは正した方がいい。
制度はともかくとして、私の中には「妻たるものは、きちんと夫の面倒を見なくてはいけない」という思いがあった。そこには従来の「妻らしさ」が心の中に刷り込まれていたのだろう。
朝晩は、きちんと食事を用意する。たとえば自分が仕事で夜遅くなりそうだったら、出かける前に用意しておいたりもした。夫の前では仕事をしなかった。彼が寝静まってから、夜中にせっせと仕事をして、そのまま朝食の準備に取り掛かった。
仕事をさせてもらっているのだから、家事は手抜きしてはいけない」などと古風なことを考えていような気がする。
そんなとき、同時期に結婚し、専業主婦となった同い年の女友だちが「私は土日は食事の支度はしないの」と言ったことがあり、私はひっくり返るほど驚いた。なぜか、と聞くと、夫が仕事をしているのは平日であり、その間、自分は家事をしている。それで対等であると言うのだ。
だから、彼か休みの土日に、自分だけが家事に忙殺されるのはおかしい、と言うのが彼女の言い分だった。夫が外で十二分に働けるのは、妻の自分が家事万端を引き受けているから。自信をもってそう言う彼女を見て、私は確実に時代が変わっているのだと気づいた。
その後も、同世代の友人たちは、夫に子どもを預けて主婦仲間で飲みに行ったり、夜遅くまでカラオケを楽しんでいるという情報が入ってきた。たしかに「お金」を稼いでいないから、大きな顔をしてはいけないというのは、不当な考え方ではある。
私の母などは、私から友人たちの主婦ぶりを聞いて、「男が優しくなったんだろうね。いい時代になったね」と言いつつ、「夜、家をあけるなんて、妻として母親としてどうなんだろう」とつぶやいたりもする。
だが、妻たるものはかくあるべしと、従来の古い価値観に縛られていた私にとっては、友人たちの自由さは、いい刺激でもあった。「いつも夜遊びしている」わけでもないのだ。そのへんは彼女たちも心得ている。
年末年始や、春の歓送迎会など、夫の飲み会が続いたあとなどで、夫の良心が少し痛んでいるときに自分たちがおおっぴらに飲み会を開く。夫と同じ回数の飲み会を開くわけではなく、そこは下手に出ながら、ちゃっかりうまく息抜きをしている。
ただ、現在の三〇歳前後の女性たちは、また少し違ってきていて。やはり自分で稼ぎたいという思いが強いように見受けられる。出産して、育児休暇を取っている人でさえ、「稼いでいないことが、どこか後ろめたい。夫より立場が弱くなっているような気がしてならない」と言う。
この世代は、完全に男女平等の中で育ってきているから、恋愛や結婚においても、「力関係」を妙に気にする。「食べさせてもらっている」ことは、相手に「負けた」ことにつながると感じてしまうようなのだ。
だから夫に対して素直になれず、妙に居丈高に振る舞ったりする。恋愛においても同じだ。平等を求めるあまり、「恋愛の情緒」が欠けてしまう。
個人差があるとはいえ、育った時代の空気は、人の価値に大きな影響を与える。「夫婦関係」においても、同様なことが言えるはずだ。
セックス抜きの友だち夫婦
例えば高度成長期の夫婦が、どのくらいの頻度でセックスしていたのか、そんな統計はないので知りようがない。ただ、「セックス」に対する考え方が、その時代と現在とでは、まったく違うということは言えると思う。
私がティーンエージャーだった七〇年代は、まだ巷では、「女の子は自分を安売りしてはいけない」「結婚するのでは処女でいるべき」という感覚が強かった。
その後、多少尻すぼみであったが、ウーマンリブがあり、男女平等と言う考え方が広まり、女性たちの社会進出が本格的に始まって、女性たちは徐々に解放されていったような気がする。
セックスレスが正面切って取りざたされるようになったのは、二十一世紀に入ってからではないだろうか。実際、厚生労働省の研究班がセックスレスについての調査に乗り出ししたのは二〇〇一年になってから。一〇代から四〇代までの夫婦を対象にした統計で、当時、セックスレスは二八パーセントだった。それが二〇〇八年は三十六・五パーセントにのぼっている。
他の民間企業がとっている統計でも。日本人は年間四十八回ほどで、とにかくセックスの回数が少ないことで有名だ。そして、現実に私の身近にいる男性たちは、その少ない回数に対しても「こんなにしていないだろう、普通」言い放つのである。
夫婦の四割が、一ヶ月以上、まったくセックスしていないという現状。きちんととした統計はないものの、雑誌などで見る限り、恋人のいる二〇代、三〇代の独身男女でさえ、会うたびにセックスする人などという人はまれで、三ヶ月も付き合えば、「セックスなんて、ごくたまにでいい」と言い始める始末だ。
こういう状況に対して、知人である美穂さん(四二歳)は、事もなげに言う。
「私も結婚して一五年たつけど、いつセックスしたかしら、という状態ですよ。ここ数年はしたことないような気がする。今、子供が一三歳と一〇歳。いつ起きてくるか分からないから、夜中は気になってできないし」
住宅事情、子供のことなどをセックスレスに上げる男女は多い。もちろん、それも大きな原因のひとつなのだろうが、最近、よく聞くのは、女性たちからの「夫を男として見られないというセリフだ。
セックスレスが叫ばれだしたころは、夫が「妻を女性として見られない」と、よく取り上げられた。妻側はその気があるのに、夫に女として見てもらえない。家庭に入った妻たちは、どこか哀しい存在に見えていた。だが、実際に私が話を聞いてみると、もちろん「夫にその気がない」人も多いが、同じように「夫を男として見ることができない」女性も激増している実感がある。
厚生省の統計では、セックスレスになっている原因として、順位は違うものの、男女とも「仕事で疲れている」「子供ができてから、なんとなく」「面倒くさい」という理由がベストスリーだ。しかし、その根源にあるのは、「配偶者を異性として感じられない」「配偶者が相手だと性的に興奮できない」という問題ではないだろうか。
美穂さんも、その点には同意する。
「子供ができると、夫はお父さん、妻はお母さんになってしまうんですよね、ふたりきりでいるときも、お父さん、お母さんと呼び合っている。私もいつのころからか、夫を男と意識しなくなりました。家族、身内という感覚が強くなりすぎているのかもしれません。今さら照れくさくて、エッチなんてできないという気もする」
美穂さんのところは、決して夫婦仲が悪いわけではないという。週末には、みんなで公園や遊園地に行ったりすることもある。夫が腕を振るって、料理を作ってくれたりもする。
ただ、それはいつも家族四人ですることであり、両親と子供という単位での行動だ。夫婦だけで出かけることはめったにない。
「週末の夜、ふたりでワインを飲みながらDVDをみたりすることはあるんですよ。だけど映画が終わると、『おもしろかったねー、じゃあ寝るか』となる。どちらかがエロチックな雰囲気にもっていくなんてことは有り得ないんです」
そんな状態がおかしいとも思わないし、セックスするような努力をしたいとも思わないと美穂さんは少し考えてから言った。
「今はまだ、子供にかける手間も時間多いから、寂しいとは思わないかもしれませんね。うーん、ちょっと待って。どうだろう」
美穂さんは、さらに考え込む。
「夫とは別にセックスしなくても仲が悪いわけじゃないし、何でも話せるという安心感があるから、このままなくてもひょっとしたら、何とも思わないかもしれませんね、ああいうのって、しなければしないで慣れちゃうものじゃないですか。せっかくお風呂に入ってパジャマを着たのに。また脱ぐのも面倒だしねえ」
そう言って美穂さんは、からからと笑う。
性的欲求の強さには個人差がある。しかも、セックスというのは常習性がある。しょっちゅうしていればしたくなるけど、暫くしなければしなくても構わないという女性も少なからずいる。
セックスレスが話題にのぼると、「女はやっぱりセックスをしていないとダメよね。男に求められているから女として輝けるだと思う」と言う女性もいるが、セックスのあるなしで、女として「輝いているかどうか」をはかるのはおかしいと、個人的には思う。
求められてなんぼという考え方は、どうしても「女性の主体性」が感じられないので、個人的には好きでない。ただ、今の時代であっても、「やっぱり女は男次第」「女は求められてこそきれいでいられる」と言う女性が多いというのも事実である。
しなければしないで、どうということはないという意見も多いのだが、一方で、個人的には、セックスというものは、男女関係には欠かせないものだという気はするのだ。
歳を取ればできなくなるんだから、としたり顔で言う人もいるけれど、できるのにしないのと、できないからしないのとは違う。セックスは挿入のみならず、スキンシップ全般を含むと考えるなら、せっかく男女でありながら、愛情表現や確認の行為をしないのはなぜなのか。
「夫婦はセックスだけで成り立っているわけではない」
これは真実だと思う。家庭は社会の最小単位で、セックスなんかしなくても、夫婦はともに家庭を築くという同じ目標を持っている。嫌でも絆は強い。だから生々しいことなど必要ないと断定する既婚者もいる。
しかし、夫婦は男女でもある。人間は動物と違って、繁殖期を過ぎても性欲を持っているものだ。だから異性と一緒に住んでいて、性欲を駆使しないのはおかしいともいえるではないか。それなのに。なぜセックスを必要しない人たちがこれほど増えているのだろう。
家族だから、身内だから、今さら恥ずかしくてできない、というのは彼ら彼女らの本音なのだろうか。私の疑問はますます深くなっていく。
つづく
第2 専業主婦でも家事は分担?