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第六 新しい命の意味

本表紙 沖藤典子 著

新しい命の意味

私は、母から渡された年賀状の住所を見て、長兄という人に手紙を書いた。詳細は忘れたが、会いたいという内容のものだった。

 そのときの会いたいという第一の目的は、母を喜ばせることだった。「会ったわよ」といえば母はどんなに喜ぶか、その母の顔が見たい。

「仲良くしてもらいたいんだよ」
 あの嗚咽の中でこう願った母に、仲良くしているから、安心してちょうだい。私が言いたいのはこのことだった。

 後になって考えてみれば、これはずいぶん虫のいい話だった。彼らにしてみれば、自分たちを捨てて出ていった人を喜ばせるために、どうして私に会わねばならないのか、会う理由は何もない。

私なんか会いたくもない、顔を見たくない、もし彼らがそういったとしても、それは当然の感情なのである。私の誕生は、彼らにしてみれば、もうけっして母は帰りはしないのだという最後通牒(つうちょう)のようなものだったろう。私の出現によって、彼らの母親は永久に奪われた。

 あとになって姉の一人が「生まれた子には罪はないからね」といったことがある。
 一瞬、私はその言葉を他人事のように聞いていて、あ、そうか、罪のない子とは私のことなのかと、不思議な気持ちになったものだったが、私の誕生は、彼らにとっては涙の出来事だったはずだ。

 これもまた、後になって感じたことだが、母親にたっぷり愛されて、いい思い出をたくさん持つ子は、母親の思い出のない子よりも、精神的に優位に立つものがあるらしいということである。

母のない子の辛さは、ここにあるように思う。それだけ考えたって、彼らが私に会いたいはずはなかった。なつかしいと思うのは私の一方的な感情であり、彼らにしてみれば、私は十分に”罪のある子”なのだった。

 しかし彼らの私への対応は優しかった。そのころ唯一、母方の親戚として出入りしていた人を通じて、自然な形で会うこともあるでしょうから、時を待ちましょうという回答を寄せて来たのだった。

 母を喜ばせることはできなかったが、この含みある返事は、私を十分満足させるものだった。

 私の父や母が、離婚同士で再婚したという事実を私に知られたくなかったのには、私自身が自分の命をどう評価するか、それを恐れていたためらしい。あの夜、父は言った。

「お前がこのことを知ったらどうするか、自殺でもしやしないか、父さんはいつもびくびくしていたんだよ」

 小さいときから、神経の過敏な子だったから、と父は目頭を拭いながらいった。
 世の常識からいえば、尋常ならざる結婚によって生まれた子は、自分の命をどう評価するのか、これは、一般的な回答はなかなか得られないと思う。父の心配は正しかったともいえるし、正しくなかったともいえる。

 私にも、なんとも答えられないが、ただひとつ思っていることは、人はいろんな生まれ方があっていいということだ。人が生まれるのに、一度だけの結婚とか、正式な結婚で生まれ方にルールはない。女と男がいろん理由で求め合って子を産む、過去人類こうやって続いてきたのだと思う。

 ときどき欲張って、私をこの世に送り出すために母は八人の子を捨てる必要があった。父も妻を選び間違える必要があった。これも神の意志である思ったりもするが、いつもその考えは長続きしない。

私の生は、それほど力むものでもない代わりに、太宰治的に「生まれてすいません」と卑下するほどのものでもない。大きく構える必要もないし、否定する必要もない。ごく風の、何となくできてしまった子で十分だと思う。だいたい私の頭は、人間存在の意義などを考えるには、適していないのである。

 ただ思うことは二つある。
 ひとつは、母が他の八人の私の”兄・姉”と、父方の”姉”と、この九人には、何か責任めいたものを感じているということ。その内容が何なのかはじつはよく分からないのだが、何かもやっとしたものが、いつも私の胸の中にはある。

そのことをきっちりと分析し整理したこともなく、そして日常的にほとんど忘れているのだが、ときどき、ひょこっと何かが頭をもたげてくる。強いて言えば本当に、命を大切にしなくてはいけないな、というような思いであるのだけれど。彼らが得られなかったその世界を知っている者としての責任。

 二つ目には、最善の知らされ方をしたことへの感謝である。欲をいえば、もう少し早くてもよかった。思春期のころ、あの強烈な不安の中にいたころに知っていれば、どんなに心強かったろう。せめて遅くとも成人式か結婚式の時にと思う気持ちがある。

母がもうすっかり衰弱して、話もろくにできない状態というのは、責任回避ではないかと言う気持ちのある反面、しかし、あれがやっぱり一番良かったのだろうと言うことだ。母の口から直接だったということは。

 父や母の行動には、私が衝撃を受けない年齢になるまで秘密にしておきたい、という周到な計画もあった。しかしそれとて、今ほど交通網や電話などが発達していなかったにせよ、もし”兄姉”に悪意があれは、匿名で嫌がらせの手紙を書くことだってできた。情報を完全に遮断する節度を、周囲の人たちが持っていてくれたことへの感謝、これは大きい。

 友人たちは、「あんたののほほんとした性格のせいよ」というけれど、いくらぼんやり者であったとしてもKちゃんもいたことだし、疑えば疑うことだってできた。そのかけらもなかったことに、やっぱり私は感謝する。

 私の母とその子どもたちとは、完全に交流が途絶えていたわけではなかったようだ。住所を知らせるようなことはしていたらしい。

 思い出すのはまだ田舎の町にいた高校二年生か三年生のときの朝である。突然若い二人の男性と一人の女性が我が家を訪れた。あとになって、それが”兄”と”姉”であることを知ったのだが、そのときは、はるばる訪れた親戚の人を、大喜びで近所の公園に案内したものである。

しかしそのことも、煌めくような思い出というのではなく、あとになってそういうこともあったと聞かされれば、ようやくのこと深い記憶の底から浮かび上がってくる程度の淡い記憶である。

 そのとき、母の思惑があってのことかどうか、私一人で彼らを案内している。

「あのとき、典子さんきょうだいだと言おうかどうしようかと迷ったけれど、何も知らないようだったし、そっとしておくのが一番いいと思ったんだよ」

 ずいぶん後になってから、その時の一人がいった。私のことをそっとしておく、母に会いたい一心で夜汽車に飛び乗った三人は、何の混乱も残さずに、きれいに優しく去って行ったのだ。

私が母に嫌悪感も抱かずに、また現れた”きょうだい”を嬉しく受けとめられた背景には、私の周りの人たちの切ないほどの気遣いがあったのだと思わずにはいられない。

 彼らのいう”自然なとき”が巡ってきたのは、母の葬式の時であった。母の病状が悪化するにつれて、父は彼らと連絡をしていた。そのころ、家は札幌にあったので、札幌にいる子供たちは何回も見舞いに来てくれていたが、東京にいる私とはいつもすれ違いだった。

 このとき彼らに会ってどう思ったか、これまた定かな印象としては残っているものはない。私にとって母の死の衝撃の方がはるかに大きく、次々に現れる彼らに紹介されても、ようやく”兄”や”姉”に会えたという感傷を抱く心の余裕がなかった。

 ただ思ったことは、八人八色だということだった。上の人と下の人とでは、年齢も二〇歳近く違っている。母や私への感情も、過去の分量、その内容によってずいぶん違っている。

 母にいい感情を持っている”姉”もいれば、そうでない”姉”もいた。私の存在を完全に無視して、目を合わせることもせず、顔を見ることもしない”兄”もいた。彼は、柩(ひつぎ)に頭を下げることも手を合わせることもせず、ほかのきょうだいたちから離れて、一人腕組みをしたまま、窓から庭を眺めていた。

 当然私の方も、何しに来たんだ、とっとと帰れといいたい気持ちをじっと我慢して、彼に近寄らなかった。その”兄”と仲良くなれたのは、私の父も亡くなり、私が再び札幌に住んでいた間のことだった。彼はこんな風にいった。

「典子さんに対しては特別に含むところはなかったんだよ。あのときは、子供のころの、母さんに帰ってきてほしいとひたすら思い詰めていた頃のことが思い出されてね、自分でもどうしていいか分からなかったんだよ」

 彼らにとっても私にとっても等しく母の死であったのに、私は泣くことができて、彼は泣くことができなかった。泣くことさえできないということは、どんなにつらいことだっただろう。”姉”の一人は、こういう言い方で母に対する切ない胸の内を表現したものだ。

「お見舞いにいったとき、うちの子供が、汚いおばあちゃんって言ったの。私たちの恨みつらみが顔に積もったんじゃないかしら、お母さんという人は、母としてではなく、女として生きた人ですものね」

 母は晩年、顔面神経麻痺で顔半分が歪んでいた。いつも白いハンカチで顔を覆っていた母‥‥。そのうえ、なぜか顔の色が土くれのように黒くなった、みにくくなった自分の顔に、母は神の裁きを感じた日もあったのではないか。そしてこの”姉”もまた、そう思ったのではないか、それを思うとき、私はいつも涙にくれてしまう。

 母恋しの物語をしてくれた”兄”もいた。

「母さんにラッパを聞いてほしくて、一生懸命練習したものです」
「お母さんは、優しい子煩悩な人でしたよ。私たちの父とは性格が合わなかったんですね。沖藤さんに出会って、母はようやく落ち着いたんですよ」

 こう語った”姉”もいた。
 母への思いは、一人ひとりみんな違っていたが、私が共通していると感じたことは、彼らが否応なくであっても、母の新しい家庭を認めていたということだ。その悲しい節度のうえに、私の平穏が保たれていた。

さらに感動させられたのは、彼らがいつかは母さんに再び会える日が来る、そのとき胸を張って会えるようにと、懸命な人生を生きて来たということだった。きょうだいの結束も堅かった。

「ぼくら、家が貧しかったから、教育は受けさせてもらえなかったけど、誰一人としてぐれた者もいないし、人の道を外れた者もいないし、それぞれ商売をやって成功していますよ」

 胸を張って母に会う、その悲願のうえに、彼らは人生を築き上げてきた。
 母ほど子供にむごい仕打ちをした人はいないし、また母ほど子供に慕われた人もいないだろう。しかしこれもまた一面に過ぎず、私の母という私だけの視点で見れば、平凡で、情にもろい、子煩悩な母に過ぎないのだけれど。見る人の立場によって、母は実に大きく評価の変わる人生を歩んだ。

 私が母の生き方から学んだことは、人は状況によっては鬼にも仏にもなり得るものらしいということである。私はいつも、どっちにもころぶ可能性のある人間だと思いつつ、できるだけ中庸(ちゅうよう)の、小さく小さく人生を歩んできたと思う。

 よく、義理家族の人間関係のなかで、意外に難しいのは”呼び方”だというが、私もそのことでは、結構苦労している。”兄や姉”だから、名前で呼ぶのはおかしいし、かといって、お兄さん、お姉さんと呼んでいいものかどうか、わざわざ聞くほどのことでもない。アメリカのように、きょうだいを名前で呼び合える社会だったら、私もずいぶん気が楽になる。

 お兄さん、お姉さんといえない理由のもう一つに、もう一方の”姉”のことがある。私は、小さいときからずっと彼女のことを「Kちゃん」と名前で呼んできた。親戚の子だと思ってきたし、父からも母からもKさんと呼ぶように言われたこともない。

また実際、私の方が年下であっても、Kちゃんはいつも私が守る存在だった。最近になってこそ、じつは守られていたのは私の方だったと気付くことも多いが、小さい頃は私が一家の中心、一人っ子ひとり娘、この家の跡取り、家庭の中の”姉”の地位は、私の下に位置するものだった。私の意識のなかで、彼女は”姉”ではなかった。

 母違いの姉であると知って、いきなり姉さんというのも、奇妙なものだ。こういう日常の習慣というのは、簡単には変えられない。私は依然として”Kちゃん”と呼んでいる。

 そうなると父方の姉は名前で呼び、母方の方は尊敬のこもるお兄さん、お姉さんと呼ぶのもおかしなものだ。そこには、知的・肉体的ハンディキャップを持つ者への蔑視があるのではないか、わが心をのぞき込まねばならないものである。ええい、面倒だ、省略させてもらおう。だから、ごくたまに用事があって電話するときも、「沖藤ですけど、‥‥いらっしゃいますか」というような言い方になる。

『離婚の社会学――アメリカ家族の研究を軸として』

(野々山久也著、日本評論社)を読んでいて、アメリカでも新しい人や母の呼び名で問題が起こることを知った。義理の親子関係ができたとき、新しい父や母を「パパ」「ママ」と呼ぶことは、実子にとっては脅威となる。領分を侵されたような気分になるというのだ。離婚・再婚先進国のアメリカでさえ、再婚家族のためのマニュアルはないという。

 生活上のこまごまとしたことをどうやればいいか、その合意形成のなさが再婚家庭の固有の困難さとなる。それが再婚者の離婚率の高さの一因ではないかも言われているそうだ。

 この本の面白いと思ったのは、なぜ再婚者に離婚率が高いのか、決定的な理由がいまだ家族社会学的に論証されていないというところだった。さまざまな学説がある。

 ひとつは、パーソナリティ障害説。この説は最近あまり支持されていないようだが、離婚再婚を繰り返す人は、人物が違っても同じようなタイプの人と再婚してしまい、最初の結婚と同じ問題を繰り返してしまう。

二つ目は、離婚抵抗欠如説。ひとたび離婚を経験すると、離婚に抵抗がなくなり、またいろいろな法律や知識を蓄えているから、躊躇しなくなる。しかしこれもさまざまな反論がある。

三つ目には、低社会経済階層説。経済的問題から再婚率が高くなる。しかしこれも、むしろ中層以上の人々の間により頻繁に繰り返されるという事実を説明できない。

四つ目には、不完全制度化説。アメリカ社会もかつては再婚といえば死別によるものだったが、急激に離別者の再婚が増えた。しかし人々の意識や制度は、初婚の場合と同じように考えている。とくに、前の結婚に子供がいる場合、新しい家族としてどう関係を結ぶのか、そのときどんな問題が起こり、どう解決するのか、こういうことに対する制度的支援がない。

だからみんな手探り状態でやって、葛藤や混乱を招いてしまう。それが再離婚につながるという説である。私など読んでいて、この説が一番説得力があると思った。

 アメリカにおいてすら、再婚家庭を支援するためのガイドラインがないというのは驚きだった。ましてや日本においてもおやと思う。血縁信仰とでもいうべきものはアメリカよりも強いし、再婚への偏見も強い。父親の再婚、母親の再婚によって、打撃を受けている子ども多いはずだ。

新しくできた人間関係をどう調節していけばいいのか、親も子も悩んでしまう。私のように呼び方一つのことで、思わず口ごもってしまう子供も多いはずだ。

 それは子供ばかりではない、親の方もそうだ。大きくなった子供のいる相手と再婚した女は、お母さんと呼んでもらわなくてもいいと割り切るべき、そう述べた人もいる。父親の立場の人も同じだ。呼び名にこだわるべきではないと。それもひとつの知恵というものだ。

 呼び名と同時に、どの程度の付き合いをすべきか、これもまた難しい。私も、きょうだいに会うには会ったが、さて、どうしたらいいものか分からなかった。会いたかった最大の理由は、母を喜ばせることであり、会ったときにはもう母はいなかったのである。

 父が生きている間は父に任せていた。父は私が彼らと付き合うのを制限する人ではないが、何となく父はどう思っていたのだろうかと、彼らと会うのをはばかるものがあった。とくに遠慮したわけではないが、距離的な遠さもあって、親しく付き合う関係はほとんどなかった。

 彼らと付き合いたいと思ったのは、父が亡くなり、私も会社を辞めて夫の単身赴任先である札幌に転居してからだった。私に自由時間が増えたことと、距離が近くなったことが、つき合いの始まりとなった。

 母のことを知りたいと、一番上の”姉”を訪ねこともある。
 しかしそれは、ほかの”兄や姉”たちに混乱を招いたようだった。その”姉”は、私が抱いるであろう母のいいイメージを壊してはならないと思ったようだが、ほかの”姉”は、母の非情なところもちゃんと伝えるべきだと思ったらしい。

同じ”姉”といっても、年齢の開きがあるから、母の家出によって受けた打撃も違い、思い出の量も質も違う。そのとき私は、余計なことをしてはいけない、波乱を招くようなことは二度とすまいと、自分の軽率を恥じたものである。

 私が再び夫の転勤で東京に戻ることになったとき、札幌在住の”兄と姉”が会いに来てくれた。その時の嬉しさは忘れられない。母の形見分けをしていなかったと、母の着物や帯を渡したとき、彼らは五〇代、六〇代になっていたにもかかわらず、これが母さんの匂いなのかと、着物に顔をうずめて泣いた。

その強烈な母への思慕の姿は、ひたすら母に会いたいと念じていた少年の日、少女の日そのままのものだった、彼らとてもちろん育ての母への感謝の思いもあるだろう。じつの母には、なんの感謝もないだろうに、

これほどに慕うものなのか、私は衝撃を通り越して、厳粛な気持ちにさせられたものだった。このことは、義理家族も家族として、血を越えた付き合いをしようという主張と同時に、子供たちがもつじつの母(父)の存在をけっして否定してはならないという教えでもあると思う。私の”姉”Kちゃんも「本当の母さん」は大切な人だった。

 このときだったか。その前に会ったときだったか、”姉”の一人に私に、お母さんのことは書かないように、と言ったのだそうだ。つい最近”兄”の一人が用事で電話をかけてよこしたついでに、

「彼女はあんなことをいったけど、ぼくは書いていいと思うんだよ。せっかく憲子さん書く仕事しているんだし、そういう親子もあったんだと多くの人に知ってもらうのも、いいんじゃないかと思って」

「あら、そんなこと言われていましたっけ? 何時だったかしら」
 私の頭はよくよく忘れやすくできているのか、母と同じように自分の都合の悪いことは忘れてしまう仕組みにできていているのか、まったく記憶に残っていない。

このことから得た私の教訓は、母のことに関する限り、私にとっては些細なことでも、彼らにとってはすべて重要なことなのだということだった。

 東京に戻ってからつき合いは間遠くなった。今は用事があるときとか年賀状くらいのものだ。一度”兄”の一人の息子、つまり私にとっての”甥”が、病院を開設することになり、その披露パーティの招待状を受け取ったことがある。先約があっていけなかったけれど、ああ、私のこと忘れていなかったんだと、ひどく安心したことを覚えている。

 彼らは私にとって、いつも懐かしい人々だが、やはり基本的には出しゃばるのを遠慮すべき人たちだと思う。

 不思議なことに、彼らに会うときと、父方の一緒に育ったKちゃんと会うときと、緊張の度合いが全然違う。血のつながりからいえばどちらも半分半分なのに、父方のKちゃんに会うとき、私はいつも子供時代の私に戻れる。威張っていて傲慢なのは相変わらずだが、それはじつに私らしい側面なのだ。

私はKちゃんの前では安心して他人には見せない顔を見せることができる。この”姉”への胸の痛む愛情も、いとおしさも、時に生じる疎(うと)ましさも、責任感も、悩みも、すべて特別のものがあるような気がする。

共有した過去の時間、些細なこと、あんなこと、こんなこと、言葉にして語ることはないけれど、胸の底で響き合っているものを感じることができる。これは、一緒に暮らしたことのありがたさなのだろうか。

 Kちゃんは、母方の”きょうだい”のような、冷悧さ、知識、強さなどないけれど、これこそが神の贈物かと思うような、素朴な優しさがある。思春期のころはそれに気がつかなくて、彼女さえいなければ、あの人がいる間は私は幸せになれないなどと思ったけれど、それは何という浅はかさだったろう。

 風邪で熱を出して寝ている夜、ふと目を開けると、心配げに覗き込んでくる目があった。いつも私をじっと見つめている目、私は今でも優しさに飢えるとき、Kちゃんのあの目を思い出す。そうすると、気持ちがすうっと楽になっていくのだ。

 私という新しい命の誕生は、八人の”兄姉”からすれば、母はもう二度と彼らのもとには帰らないという別離の宣言だったが、この”姉”にとっては、一人のぽっちの未来から救い出すものであった。

私もまた彼女が居てくれたことで、一人ぽっちから救われた。もちろん、八人の兄。姉も心強い存在だ。同じ人を母とし、同じお腹から生まれたというのは、これまた言葉では表現できない親しみが湧き出てくるものだ。

一緒に育てられた懐かしさと、同じお腹からという親しみと、これは天秤にかけられるものではない。みんなひっくるめて、”ネットワークのきょうだい”であり、親の再婚は、幅広い”きょうだい”を与えてくれた。

 離婚同士の再婚が増えるにつれて、私のように、異父、異母のきょうだいを持つ子が増えていくと思われる。つき合いのルールについてガイドラインはないけれど、時代が変わるにつれて、うまい関係づくりもできていくのではないだろうか。

 私の周囲でつい最近も私のような”新しい命”が誕生した。私の時から五〇年以上経って、ずいぶんと状況も変わってきているように思える。

 お互いに子どものいる女と男の再婚。しかも双方離婚。その二人の間の新しい命。彼は私であり、私は彼だ。彼が生まれたとき私は「まあ、お孫さんができたそうで」と父親になった人をからかい、私の夫は「いいなあ、オレもほしいなあ」とすっ頓狂な声を上げて、誕生を祝福したものだ。私はその彼に会いに一日で出かけていった。

 生後十ヶ月の山谷淳ちゃん(仮名)は、その日、乳母車に乗って現れた、夏の陽射しがまぶしすぎるのか、彼はねむたげに目を細めて私鉄の駅で私を待っていた。ふわりとした花柄のタオルケットに包まれて、お花畑に座っているようだった。少し陽射しが強すぎたようで、ご機嫌のほうはよろしいとはいえなかった。

 お父さんとお姉ちゃんが、私を家に案内してくれた。父親が離婚したのちに住み始めた家で、この家に母親と姉が移ってきて、彼が生まれた。この小さな命は、両親が離婚の悲しみや苦悩の後に得た、幸福感を証明する存在だった。

 家に着いて彼はお昼寝のために別室に連れて行かれた、父親の手から母親の手に移されて、安心しきった子犬のようにまどろんでいる。父親四九歳、母親三二歳、姉八歳。両親が再婚して三年目に彼は生まれた。彼には大学生と高校生の”兄”がいる。その下の”兄”が会いにきてくれた。うれしかったとお母さんはいった。

 兄貴はいったそうだ。
「おやじ、年取ってからで大変だなあ、死んだらぼくが淳の面倒見てやるよ」
 お姉ちゃんは、淳のことを少し嫉妬している。
「お父さん、淳ちゃんのほうが可愛いんでしょう」

 お母さんは、お姉ちゃんそういうことをいえる子でよかったなあと思っている。内にこもらないでぱっと言える子。父親は。お姉ちゃんのことを、母親がダメな分だけしっかりしている。

 利発な賢い子と表現する、お姉ちゃんも大きくなったら、お父さんのような人と結婚するつもりだ。お姉ちゃんが教えてくれた。

「お父さん、この間お母さんと喧嘩してお鍋投げたんだよ」
「違うよ。お鍋を床にぽんと置いたんだよ」

 お父さんは慌てて否定する。細長いお父さんの身体が、よりいっそう細くなってしまった。この元気な娘のおかげで、白髪増えるんじゃないかなあ。

「お父さんね、パパっていたら怒るの。返事しないの」
「どうしてだろう、恥ずかしいんだ」
「年取ってからね。おじいさんだから」

「お父さんはパパっていのが嫌いなの。お兄ちゃんたちにも言わせなかったんだから」
 お父さんの信念は一貫している。

「ねえ、お父さん、あたしお父さん二人いるの?」
「そうだよ」
「どこにいるの?」
「分からない。貴恵が大きくなって、一人で行けるようになったら探してあげる」
 このあと私は、テレビで『パリ。テキサス』という映画を観た。ビム・ベンダース監督のドイツ・フランス合作映画だが(一九八四年)、このなかで、育ての父のほかにじつの父が居ることを知った少年が、ぼくは運がいいというくだりがある。

友達が「お父さん二人いるの?」と聞いたとき、彼は「うー、運がいいんだよ」と答えた。胸がふわっと温かいもので満たされた瞬間だった。貴恵ちゃん、あなたは運のいい人なんだよ。

 貴恵ちゃんはこの家の放送局でもある。近所中に新しいお父さんができたと言いふらして歩いている。幼な心にも運の良さがうれしくてたまらないらしい。

 お父さんも放送局を支持している。

「この子の頭には、前のお父さんのこともインプットされているし、それに昔から限られた生活範囲だったけれど、今は付き合う範囲が広いから、隠してもダメなんですよ」

 彼の上の息子さんは、職場の上司のお嬢さんと同じ大学におり、親しい付き合いがあるとか。二人が付き合い始めたとき、父親が同じ会社に勤めているとは、まったく知らなかったそうだ。

「こういうことだって起こるんだから、何事もオープンにしないとダメな時代になんですよ。過去のことを全部なかったことにしようなんて、そう言う生活はありえないですね」

 今はもう私の時のように、情報を遮断することなど、不可能な時代なのだ。再婚も、グラスノスチの時代になった。前の結婚のことをきちんとと話す。離婚に至ったいきさつも。これは、私の時と一八〇度の違いである。

「前の結婚のことって、どのくらい話し合われたんですか」
「すべて洗いざらい」
「勇気がいったでしょうね」
「そこは全部しっかり話さないと、お互いの過去のことをね。だって、それを引きずって生きているのだから」

 私の父は、母に八人も子供がいるということを、結婚してから知った。びっくりしたよと、父は語った。

「そういう過去の話を聞かされて、奥さんはどう思いました?」
「初めは結婚の相手と思っていなかったから、似たような境遇にいるなと、私の話を聞いてもらったり。お互い茶化して話し合いましたね」

 高原誠さんのところでも書いたけど、男の離婚には不義の匂いがある。それをいうとお父さんは、オレはまったく潔白なものだったと大きく力んだ。真面目な仕事人間、仕事一途の会社人間、だからこそ離婚になってしまったのだと。

 彼の離婚理由が、単身赴任という転勤問題であったことは、私たち夫婦にとってショックだった。私たちもその一歩手前までいった。私たちの場合は、私が妥協してキャリアを棒に振り、彼の妻は職業を守った。

 転勤に起こる女性の職業継続の問題、これはまだ正面切って議論されたことはない。妻のプライド、夫のプライド、プラドとプライドの闘いの結末は、大方の場合は妻の惨敗に終わる。私もそうだった。詳しくは拙著『転勤族の妻たち』(講談社文庫)に譲るとして、職業を捨てることを選んでも、単身赴任を選んでも、妻の心には傷が残る。夫婦とは何か、考えても考えても分からない命運を引きずって生きることになる。

 彼は単身赴任四年にして離婚した。二年経った頃からギクシャクしだしたという。あるとき妻は夫の職場に、本とか洋服、身の回りの物を全部宅急便にして送ってよこした。

それが別れの予告であったという。彼はそれらを燃やした。同僚への恥ずかしさと怒り。昨今話題のパンツを箸でつまんで洗濯機に入れる妻たちだって、夫の物がなくなったら、どんなに清々するだろうと思っている。パンツに当たり散らして腹(はら)いせする妻からみれば、なんという度胸のよさだろう。

「でもそれは、私の誇りが許さなかったのです」
 誇り高い男、私の夫をしてこう言わしめた男の精神世界が、この出来事を許さなかった。会社を辞めてほしいと言われたことも、仕事を理解してもらえないと思った。彼は自分の誇りを守った。

「カミさんのいる前でいうのもなんだけど、何度もやり直そうといいましたよ。私の母親も子供に悪影響があってはいけない、やり直せるものならやり直しなさいと言いましたけど、そのころまた転勤になりましてね、割り切れるものなら割り切ろうと」

 割り切った結果彼は会社を選び、離婚となった。単身赴任が離婚の直接的原因だったという。二人の子供の親権は彼女に、扶養は彼に。慰謝料はお互い必要なし。扶養料として彼は一千万円払った。彼女はそのまま彼の姓を使うこととし、長男は妻の旧姓を使うことになった。

「そのころ住んでいた家は、妻の実家で、私が追い出されたようなものです。不動産もなかったから、すっからかんです。そのときは、これからはもう余生だなって思いましたよ」

 新しいカミさんに出会ったのは、再び東京転勤になってからだった。転勤が別れを作り、転勤が出会いを生んだ。飲み屋でばったり、彼はこう表現した。

 その新しいカミさんが、貴恵ちゃんを引き取って離婚したのは、二六歳のときだった。その後、彼女は実家に子どもを預けて、東京に働きに出た。

「お父さんに出会った頃、私はもう疲れ切っていたんです。いろんな意味で。二九だったんですけど、今までの自分のことや、これからどうしようっていうことをすごく考えた年で、子供を引き取って食べていける職業もないし、考えれば考えるほど疲れていった。

そのとき、お父さんが『もういいんじゃない?』って言ってくれて、とても素直に『あ、もういいや』って思ったのね。すごく安心できる人で、子供つれていっても幸せにしてくれるんじゃないかって」

 子供のことが一番心配だった。馴れてくれるかどうか。

 彼からは結婚を決めたとき、私たち夫婦を呼んでご馳走してくれた。それが彼らの披露宴”意義ある表現”だった。そのときお姉ちゃんは、新しいお父さんの胡坐(あぐら)の中に納まっていた。

「こいつは既製品で」などといいながら、新米のおやじは、既製品の食べ残したオムライスをかたずけていた。お互い安心し切っている姿。

「前の夫は夢の大きい人で、夢ばっかりで実生活の軽い人でした。気がつたときは大きな借金で、私の知っているだけで二千万円ありました。そのころの私の年では大変なお金です。

私も頑張るからっていったのが大きな間違いで、どんどん逃げていってしまって。辛かったんだろうなって、今なら思えますけど、女の人と逃げたから。泣いて泣いて、あれからもう涙って出なくなりましたね」

 大粒の涙が真珠のように艶やかな頬を伝わって落ちた。いまだに癒えない傷、その深さ、痛さが伝わってくる。彼女に限らず、多くの女たちは、前の結婚の話をするときに涙をこぼした。再婚の妻たちの悲しみは、永遠にこの世から散り去ることはないのだ。

 慰謝料も扶養料もなく別れた。
「面接交渉権とかは‥‥」
「与えませんっ」
 少しきっとなって彼女は答えた。その声は、与えてなるものかと言っているようだった。

「何もいただかずに別れましたし、父や母も絶対に会わせたくないって言っています。もし貴恵が会いたいと言ったときは、もう少し大きくなってからねって。今そういう話が出たときは、お父さんのこと分かる範囲で伝えていますけど」

 別れた夫のことをどう伝えるか、これは難しいところだろう。私の母は、残してきた娘に再会したときこう言ったという。

「何もかも、あんたたちのお父さんのせいなんだよ」
 これを聞いたとき、その娘は、お母さんという人は良くよく救われない人だと思ったそうだ。

 母が本当にこういう言葉でいったのかどうか、彼女たちの耳にはそう聞こえたにすぎないのではないか、疑う思いもある。しかしこれはいかにも母らしいセリフだ。

心の中ではどう思っても、口に出して謝ることのできない人なのだ。私には「軽蔑するかい?」と泣き崩れながら、ほかの娘たちには絶対軽蔑されまいと虚勢を張っていた母。

 何もかもあんたたちのお父さんのせい、これは母の生きるバネでもあったろう。自分が悪いと思って生きるのは苦しすぎたから。あんたが悪いからこうなった。そう思うことによっては母は生きてこられたのだろう。しかしそれを子供にいうべきかどうかとなれば、別の問題になる。

 ちょうどそのころ、前にも述べた野々山久也著『離婚の社会学』を読んでいて、面接交渉権の難しさを考えていたところだった。

 別れた父や母に会う権利を子どもは持つ。そのために、別れた親は努力しなければならない。これは、離婚のときには当然であり、子供の情緒安定にも役立つだろう。しかし、再婚となると、それが逆に再婚家庭の基盤をもろくする。

たまに会う父や母は優しく甘い。日頃一緒に暮らすほうは、どうしても口やかましくなる。そこから生ずるしつけの不純一。また、子供と一体どんな話をしているのか、どんなに表面上は友好的に別れた夫婦であっても、子供に会えば悪口のひとつもいたくなるかもしれない。

君のお父さんは冷たい人で、あんたのお母さんは酷い女で…‥、仮にこういうことがなくても、実の親の影が、ちらちらすることによる不安定さはあるだろう。難しい問題だ。

 椎名麻紗枝・規子著『離婚・再婚と子ども』(大月書店)によれば、現在別れた親子が接触するケースは、わずか二六パーセント(昭和六一年)であるという。同著では「面接交渉については十分に理解されていないことも(この低い数値の)理由とおもわれます。またどのように面接交渉を行ったらよいか分からないという声も耳にします」という。

 養育費についても同じだ。
 同著によれば、母親が子供を引き取っているのが七割以上、離婚した父から養育費を受けているのは全体の十一パーセント(昭和五十八年)、過去に受けたことのある人は十パーセント、全く受けたことのない人七九パーセントにのぼっている。

 養育費をうけずに、母親が頑張っているケースが圧倒的に多く、男の無責任を許せない反面、その養育費を出すために別れた父が苦労している場合もある。扶養料のために再婚後共働きを余儀なくされ、新しい妻は、見知らぬ先妻の子供のためにどうしてこんなにつらい生活をするのか、こちらはこちらで再婚家庭が危うくなってしまう。

 なかには金を出す以上は口も出すという父親もいて、ここでも押し付けの混乱が起こる。金だけ出して、口も手も絶対に出さない、これはどんなに約束しても難しいに違いない。それがお互いのストレスになる。

 子供のために、よいと思われる面接交渉権や養育費そのものには援助の面もあるが、再婚となると、その家庭を危うくする。野々山久也氏は、「レコードA面にとってはいいことが、B面には破壊作用を及ぼすことになりかねない」と書いている。彼は、これもまたアメリカ社会の再婚者の離婚率の高さにつながっているのではないかと指摘する。

 日本ではまだ前述のように、責任を果たしている父親が少ないので、問題は表面化していないが、アメリカのような皮肉な状況日本でも起こらないとは断言できない。面接交渉権を、
「与えてませんっ」
 と答えた彼女の激しい口調のなかには、今のこの平穏と幸せを破壊させてなるものか、という悲鳴が込められているような気がした。子供への侵略は許さない。自分の頭で判断できる年になるまで、そっとしておきたい。

 お父さんと貴恵ちゃんは養子縁組をした。法律的にも、父と子になった。彼女は将来、じつの父からの遺産、養父からの遺産、母からの遺産、三とおりの相続権をもっている。

「世にまま母っていう言葉ありますけど、まま父っていう言葉はないですよね、そのまま父になってみて、何か思います?」

「いやあ、思ったこともない。利発な子で、面白いと思いますよ」
 男親というのは、気が楽なものなのだ。この”まま父”は、初めての女の子を楽しんでいる。ここが男と女の違い、日常を背負う女と男の違い。男版『シンデレラ』や『白雪姫』がなかったのも幸いした。これも、男社会を生きる男の余裕だろうか。

 新しい命は、再婚家庭の基盤を固くするといわれている。その淳ちゃんについて、
「前のカミさんと別れたとき、再婚しようと思っていなかった。再婚したときも、子供を作ろうなんて思っていなかった。私は性格的に好き嫌いの激しいところがあるから、貴恵と差別するようなことがあってはならないし」

 新しい命に対する責任もある。彼が七〇歳になったとき、淳ちゃんは二一歳だ。何がなんでも働かねばならない。

「頑張りますよ。できた命として大切にしますよ」
 その割には、改心する様子がない、酒は飲むし、夜帰りは遅いし、会社人間の行動は改まっていない。悪友の存在も問題である。

 母親には別の心配もあった。貴恵ちゃんを二年間実家に預けていたことだ。そのことによって、淳ちゃんとの可愛がり方に違いが出るのではないか。

「貴恵をここに連れてくるのには、すぐにお父さんに馴れたしなんの不安もなかったんですが、淳のことで悩みました。でも、友達が同じように生んで育てても、気の合う子と合わない子がいるのよっていってくれて、すごく気が楽になりました」

 私も上の娘を二年間実家に預けたことがある。下の娘はずっと手元で育てた。だからといって愛情の違いがあるとは、どうしても思えない。お母さん、安心ていいんじゃないかな。
 
 お父さんはいった。
「ま、前のカミさんのところに置いてきた子供らも、それほど苦しい生活をしているわけでもないし、みんな幸せになってくれれば、それでいいんです。私だって、少しは自信がありましたよ。やっていけるって」

 新しい命、若くてスタイル抜群で美貌の妻、利発な娘、彼にとっては、何もかも新しい出発だった。人生を二度生きたようなものですね、と私が言うと、いやあ、そんな大げさなものじゃないわと否定した。

妻との年の差を少し気にしているが、妻の方は、あらお父さん私は全然気にしてませんよ。いざとなれば私だって働くし、大丈夫、大丈夫。もう一人生もうか、お母さんは張り切っている。

 この家には、新しい活気の風が吹いている。
「さっき淳を乳母車で乗せて駅まで迎えにいったけど、こういう乳母車を押して歩くっていうようなこと、前の生活にはなかったですね、どうしてなんだろう」

 出産にも立ち合わされた。長男のときは単身赴任中、次男のときは出張で、空港の呼び出し電話で誕生を知らされた。何という大きな違い。離婚・再婚を経て、彼のなかになんらかの変化があったのだろうか。

「どうでした。出産に立ち会った感想は」
「びっくりしました」
「これだけ女が苦しんで子を産むって、知りませんでしたでしょ」
「知らなかった。がんばれがんばれっていいましたよ。新しいことだらけで。そのいみでは、人生を二度生きているようなものかもしれませんな」

 新しい家庭と、新しい命は、夜の酒が改まらないのは別として、彼の家庭観にいくばくの変化を与えたようだ。

「たいして出世するわけでもないし、名誉とか出世とか、そんなもの求めているわけでもないんだけど、仕事のことね、割り切れないんだよね。家族の方がつき合いが長いんだから、これじゃよろしくないって、頭ではわかってるんだけどね」

 それでも二日間、ウイスキーを断った。ピアノのお稽古から帰ってきたお姉ちゃんがいう。
「お父さん。ウイスキー飲んでいないから機嫌が悪いんだよ。ウイスキー持ってこようか」
「いらない。それよかビール持って来て」
“新米”父さんは、少しだけ健気に気を使いつつ、昼下がりのビールをぐいっと飲んだのだった。

 三ヶ月ほどして淳ちゃんの写真が送られてきた。彼はなぜか左足をお鍋の中に突っ込んで立っていた。そのお鍋はどうやらお父さんが喧嘩のときに、ぽんと床に置いたものであるらしい。黄色のロンパースを着て。この新しい命は、無限大になびく見えない旗を振っていた。その旗には、可能性という文字が刻まれているように私は見えた。

つづく 第七 義理家族の知恵 ――再婚十カ条と財産・年金――