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第5 二章“かすがい”の価値

本表紙 沖藤典子 著

血よりも濃い関係

「あんなお母さん、まま母のくせに」
 この言葉は、私を攻撃したいときに使う子供たちの常套句(じょうとうく)だった。あんたのお母さんまま母なんだから。大きな顔をするんじゃないのよ。じつの子のあんたばっかりかわいがって、まま子のKちゃんを虐めているじゃないの。

 他愛のない口喧嘩であっても、私にとどめを刺したいとき、彼女たちはこの言葉を使う。そうすれば私が黙る、あるいは泣き出すことを知っているからだ。母にとっても私にとっても、正当な市民権などないのだ、と脅しているようなものだった。

 私の育った家庭は、父と母、私と父の先妻子である”姉”Kちゃんとの四人だった。
 両親が離婚同士の再婚であるのを知ったのは二五歳のときだったが、それまで私はずっとKちゃんは親戚の子だと思っていた。実際には母違いの姉なのだが、再婚であることを秘密にしたかった両親にとっては、彼女の存在を”親戚の子”にする以外になかったのだろう。

そしてまた不幸なことに、彼女は頭と体の両方に障害があった。正直のところ、この事実は、二人の姉妹の育てられ方に格差を生んだと思う。

 しかしながら、子供心にも母の苦労は忘れられない。
 Kちゃんはなぜか排泄がうまくいかず、母はいつも膨大な洗濯物に追われていた。生理が始まっときのことも、母の涙と共に消すことのできない記憶だ。自分の背丈よりも大きくなった”姉”を、背中にくくりつけて病院通いしていた母の姿。

 確かに母は”姉”に対して厳しかった。??責は日常のことであり、加えて愚痴、嘆き。教えても教えてもうまくいかないKちゃんに母はいらだち、父はかんしゃくを起こした。

 そしてこれは、世間の目から見ればまま子いじめになるのだった。

“まま母”、この言葉ほど、私を傷つけた言葉はない。白雪姫にしろシンデレラにしろ、まま母は意地が悪く、最後に復讐される存在だ。なさぬ仲の母娘の関係を、これほどの偏見の目をもって、幼い子供の魂に焼き付け、差別を再生産していた童話ではないのだろうか。

 後妻、後添え、まま母、これらの再婚関連の言葉は、その状況にある女を一段と貶(おとし)めるものとして、広く人々の口にのぼってきた、後妻。後添え、まま母は、世間では肩身が狭く、控え目に生きなければならなかった。

 翻(ひるがえ)って、後夫、男の後添え、まま父という言葉はない。再婚は男にとっては当然のものであり不幸な女を守るもの、一方は、女はその不幸を利用して我欲を守る、そういう目もあったと思う。

女から見て再婚にどこか暗いものを感じるとしたら、まさにこの点である。不運なくせに男を利用して欲望を満足させるような者は、罰せられなければならない。白雪姫やシンデレラはまさにこのパターンだ。

 こういう感じ方は少し過敏かもしれない。これからは経済力のある女も増える。また再婚に対する考え方も、家事ができない男経済力のない女との二K再婚から、愛情や人生観を共有したいというパートナーシップ再婚へと、再婚は新しい時代を迎えた。再婚は、よりよい人生の追及として意識されている。

そうなれば、後妻、後添え、まま母という言葉もなくなるかもしれない。高齢になってからの再婚なども、大金持ちの老婦人との再婚となれば、相手の男の子供たちが三拝九拝しておいでを乞う、ということになりかねない。

 この一連の取材で私は、再婚に対する意識は大きく変わり始めていることを感じたし、そのことに希望をもった。

 しかし過去を振り返ってみると、私自身、まま母と呼ばれた人を母にもったその悲しさは消えない。せめて”姉”が、語弊はよくないかもしれないが、普通の子であれば、家庭はもっと明るかっただろうし、もし彼女が母の実の子であれば、母の葛藤も別なものになっただろう。

障害の問題なのか、遺伝なのか、あるいは父と母との性格、二人の過去のありよう、いろいろなことが入り混じっていて、私にもよく分からないのだが、少なくとも私の育った環境はもう少しすっきりしたものになったと思う。

 まま母というものへの先入観、まま母とは恐ろしいものだ、そう思いこまされていた目で、母を見たことがなかっとは言い切れない。母に同情し、母の苦労を知りながら、そしてまま母と呼ばれることを憤りながら、私の心のどこかに「やっぱり‥‥まま母だから」と自分のじつの母を見たことがなかったとは言えないような気がする。

 あるとき、縁側に父と母とKちゃんと私とがいた。母がしきりに父に何かをいっていた。父はいきなり縁側から飛び降りると、スコップを手にした、逃げようとするKちゃんを押さえつけてスカートをまくりあげ、そのむき出しのお尻めがけて父は何度もスコップを振り下ろした。泣き叫ぶKちゃん、私はそこに立ちすくんで声も出なかった。

 Kちゃんを助けに入らなかったことで、私はどれほど自分を責めたことだろう。そしてまた、お仕置きを受けているのが自分でなくてよかったと、どんなに安心していたことだろう。私は今でも、いざ土壇場になったら、弱い人の味方になれない人間ではないかと、自分を疑っている。

 自分がまま子でなくてよかった、そういう目で母を見ていたもう一人の自分がいたのではないだろうか。自分はまま子でないからお仕置きを受けない、そう刷り込まれたものがなかったとは言い切れないような気がする。

 もうひとつ胸が痛くなる思い出がある。そのころ住んでいた北海道の田舎町に大相撲がやってきた。父と母と私が歩いていた。母はおめかしをして、重箱を下げていた。

「忘れ物、ないかしら」
 母はいった。
「忘れものは、Kだっ」
 初夏の陽を浴びて、父の顔は赤い鬼であった。土ほこりの舞い上がる砂嵐のなかに、三人の影となって立っていた。

 母の私に対する愛情は、今思っても異常なものだった。お母さんの希望、母の生きがい、母さんの命、母さんの名誉、母さんのすべて。骨折したら困るからスキーはダメ、溺れたら困るから水泳はダメ、厚着しないと風邪をひく――。

私はそういう母をときには拒みながら、限りなく甘えてもいた。いいものは第一に典子に、何事も典子が第一。私はその差別的愛情にぬくぬくしていた。私は”じつの子”なんだからと…‥。

 近所の子供たちから「あんたのお母さん、まま子いじめっ」といわれたとき、半ばその事実を認めざるを得なかった。しかし母の苦労も知っている。知りもしないくせに、と私は子供たちの前で混乱して度を失い、言葉を失った。材木置場の、積み上げられた丸太のてっぺんに座って、いつまでも泣いていた記憶がある。

 だからといってその子供たちが姉に優しかったかといえば、絶対にそんなことはなかった。棒切れで叩く、石を投げつける、そんなことは日常茶飯事だった。”姉”をいじめる者はいじめ返す。それが私の子供時代だった。

 私は、その町の人々に会うのが今でもいやだ。何人かは「Kさん、どうしてるの」と聞いてくる。「元気にしていますよ」とさりげなく答えるものの、胸の中は怒りの火だるまとなる。

 あなた方が何をしてくれたっていうの、聞いてどうするっていうのよ、彼女を助けてくれるっていうわけ? あんたの好奇心を満足させるために、どうして私が答えなくちゃなんないのよっ。

 この再婚の取材をしながら、つくづく私は取材下手だと思ったことが何度かある。どうしてもプライバシーに触れる質問が多いので、こういうこと聞いたらいやな気になるんじゃないか、単なる好奇心による質問になっているんじゃないか、と自分で勝手に線を引いてしまう。

 無限の会を取材にいったときも、なかなか質問ができなくて、隅に座ってボーッとしていた。切り出す最初の言葉が分からないのだ。自分の好奇心を満足させるためだけの質問じゃないか、そのセーブは、こういう仕事をする者にとってはないほうがいい特性に違いない。基本的に私は不向きな仕事をやっている人間だ。

“まま母”であった母に、前の夫との間に八人の子供がいたのを知ったのは、私が二五歳のときだった。母は二〇年間の結婚生活の間に七人の子を産み、四〇歳のときに、若い男と駆け落ちしたのだそうだ。そのとき、八人目の子供を身ごもったという。

前にも言ったけど、古今東西、駆け落ち多しといえども、妊婦の駆け落ちというものは、あまり例がないのではないか。

 何が原因だったのか、私にはわからない。母はその男と別れて八人目の子供を生んだ。その直後、腸チフスにかかり、まさに九死に一生を得た。父と知り合ったころ、母は病後の身体で、保育園の仕事をしていたそうだ。

 父はそのころ家具商をしていて、その保育園の出入り業者の一人だった。ありていにいえば、障害のある子を抱えて途方にくれていた男と、恋人に捨てられてこれまた呆然としていた女とが一緒になった。いい加減な奴らと言われてもしようがないのかもしれない二人の再婚だった。そして私が生まれた。

 だから私には、母違いのきょうだいが一人、父違いのきょうだいが八人いることになる。
 母がどうして駆け落ちしたなどしたのか、単なる色恋沙汰だったのか、ほかに何か理由があったのか、私にはまったく分からない。母もそのことについては、ひとことも洩らさずにこの世を去った。

 残された八人の子供たちは北海道という厳寒の地にあって、しかも戦争という惨状のなかで、困難を極める毎日であったようだ。彼らの父は、母に何度も帰ってきてほしいと言ったそうである。しかし母は帰らなかった。子供たちの一人がいった。

「ぼくらの父は、お母さんのこと、心底愛して、ずっと帰るのを待っていたんです。僕らもまた、母恋しの子供時代でした」

 戦争がひどくなってきて、彼らの父親は新しい母を迎えた。その母にも子供いた。私の母、自ら”まま母”となって”まま子”を育てながら、自分の実の子は”まま母”の手にゆだねたのであった。

 私の父と一緒になったころ、八人目の子は母とともにいた。ところがある日、私の”姉”にあたる一人に母に会いに来たとき、この子の父親はあんたのお父さんだから、連れてお帰りといって、その彼女の背中にくくりつけて、帰したそうだ。

「お父さんに内緒で会いに行って、帰りは赤ん坊を背負わされて帰ったものだから、??られて??られて。あんなに辛かったことはありませんよ」

 この話をしてくれたとき、彼女の目に大粒の涙があふれた。

 その子は養子に出され、養親をじつの親と信じて大きくなった。母が亡くなるとき、じつは本当の親が居る、もうじき亡くなるから会いに行きなさいとといわれ、打ち明けられた方も打ち明けたられた方も、ショックで寝込んでしまったそうだ。彼女も、そのとき初めて”兄”や”姉”に会った。

 母と一緒になった父は、商売をやめて国鉄(現JR)に入った。転勤族を志願したのである。その理由は痛いほどわかる。

「一ヶ所に長くいると、口さがない人たちの話題のネタになる。知らない土地を転々とするのが一番いいからね」

 戦前のこととて、姦通罪があった。父も警察から呼び出しを受けたことがあったそうだ。
 私は子供のころから、母方の親戚つき合いが一切ないことが不思議だった。だからといって、詮索(せんさく)した記憶もない。どうもこれは聞いてはいけないらしい、聞いてはいけないことは聞かない、この性格は小さい頃から出来上がっていたように思う。

 そしてまた、子供の日常生活のなかでは、母親の親戚のことなど、まったく忘れて過ごしているというのが本当のところだった。

 父と母とが正式に結婚したのは、私が高校に入る時だったが、それを知ったのも二五歳のときであり、”姉”のKちゃんのことさえ除けば、その辺りにありふれている、ごくごく普通の平凡な家庭だった。

母が父より八歳年上ということも、まったく気づくこともなく過ごしていた。すべてのことは後になってから、そういわれれば、お母さんて誕生日の話をしたがらなかったなあとか、なんとなく聞かされた年より老けた感じだったなあとか、そういう感じで納得がいったことばかりだった。

 私が取材のなかで、アルバムはどうしたかとか、結婚披露宴はどうしたかとか、前の人の持ち物はどうしたかなど、つまらない質問をしたのは、自分にこうしたささやかな体験があったからだ。

 私は父と母の結婚写真を見たことがない。あるとき父のアルバムを眺めていて、奇妙なことに気づいた。花婿姿とすぐわかる父の写真の、本来ならば花嫁が居る部分が、ハサミのようなもので切り取られていたのである。

「お父さん、これどうしたの」
「喧嘩したとき、母さんが怒って切っちゃったんだよ」

 そのときは、その切り取られた部分が母が写っているとばかり思っていた。どうしてこんな人と結婚したのよっ、写真にしろ一緒にいるなんて胸くそ悪いっ、カッとなった母は、写真を切り取ってしまった‥‥。母ならやりそうなことだ。なにしろ、母を形容するときは、気性の激しい人、というのが大方の一致するところだったから。

 だが、それは違ったのだ、父の先妻が写っていたのだ。こんなもの、いつまでも持っていてっ、それが母の怒りだった。

 その怒りはまことに当然のものだと思う。前の結婚のことが心のどこかにあるのはやむを得ないし、心の中を覗き込むことも、そこにあるものを引きずり出すこともできないが、せめて形のあるものや、写真なんかは整理してほしい。再婚を新しい出発とするためには、そのくらいの努力はすべきだというのが、母の言い分であったろう。

 その写真を切り捨てたことは、私に対して二人の秘密を守り続ける上でも有効だった。父や母は私には再婚であると知られることを恐れていたし、何より恐れていたのは、世間の噂だったろう。転勤族を志願したのも、親戚から遠く離れることによって、私の耳に入ることを防ごうとしたからである。

 私が二五歳まで親の再婚を知らなかったということは、このいささかのほほんとした性格もあるだろうが、やはり徹底した秘密作戦が功を奏したためだと思う。私の婚姻届のときも、「いいよ、父さんが出しておいてあげるよ」という具合に、今にして思えば、先手を打たれていたのである。

 その二五歳のとき、私は東京に出て共働きをやっており、母は札幌にいて、脳内出血の後遺症で、ほぼ寝たきりの生活だった。父と母と”姉の”Kちゃんの三人がひっそりと暮らしていた。

この”姉”は、母が亡くなったあと結婚して一児をもうけた。厳しすぎるほどに厳しく仕込んだ母の教えは、彼女にとってはけっして無駄にはならなかったのである。

 夏休み、母にとっての”初孫”を連れて帰省した私に、母はいきなり三枚の年賀状を突き出してよこした。いつも懐に入れていたものらしく、柔らかく、しなしなになっていた、かすかに排泄の匂いがした。ごく普通の、印刷した年賀状だった。いずれも男の名前のものだった。

 どうしたの、これ? 問う間もなく母は激しく泣き崩れた。起き上がりかけた上体を、ふとんに打ち付けるようにして、大声をあげた。

 この年賀状は何だ? なぜ母はこうも泣くのか、当惑している私に、母は嗚咽(おえつ)のなかでいった。

「あんたの、お兄さんたち」
 え、そんな、小説でもあるまいし、あまりにも突然の母の言葉だった。
「母さんが二十(はたち)のとき、無理やりお嫁にいかされて…‥、我慢しきれなくて…‥」
 なおもこのとき、涙の中で母は驚くべきことをいった。
「お前、母さんを軽蔑するかい?」
 …‥お前、母さんを軽蔑するかい? 一生忘れられない言葉だ。

 しかしどうして、何の理由で私が母のことを軽蔑したりできるだろう。”姉”の病気、父の長い病気、働いて働いて身体を壊した母を、一体だれが責められるというのだろう。

「そんな、軽蔑だなんて、私がするわけないでしょう。さ、気持ちを鎮(しず)めて、病気によくないわよ」

 私の中にあったもやもやとしていた霧がすっかり晴れて、一挙に何もかも見渡せた感じだった。そうだったのか、こういうことだったのか。

 驚愕とか、衝撃とか、おどおどろしい言葉で表現されるような感情は一切なかった。ましてや母を軽蔑するだなんて、どうして私が思うだろう。

 驚きというものがまったくなかったわけではないが、しかしそれはむしろ嬉しい驚きだった。小さい頃から、お兄ちゃんとかお姉ちゃんが居ればいいのになあと夢想してきて、

それがあたかも魔法のランプをこすったように突然”三人の兄”が現れたのだから、これは大きなプレゼントだった。二五歳という年齢に達していたことも、平静に受け止められた要因であったかもしれないが。

 それにしても母はどうして「軽蔑」などという言葉を口にしたのだろう。私のほかに子供のいることが、生涯の痛恨事ででもあったかのように――。母は、私がそのことで批判するとでも思っていたのだろうか。母はそれほどに自分を責めて生きてきたのだろうか。

「お母さんも大変だったんだ。でもね、軽蔑だなんて、そんなこと絶対にないから、安心してちょうだい」

 正直な気持ちだった。むしろこのときは、母が激することによって病気を悪くするのではないかという恐れの方が大きかった。この話は早く切り上げたほうがいい。

「母さんのお願いは、仲良く付き合ってほしいということなの。連絡を取り合ってね」
「分かった。きっと手紙を書くわよ」
 私は、その三枚の年賀状を受け取った。

 その夜、父から詳しい話を聞いた。父はにがにがしい顔で開口一番いった。
「勝手なことをして」
「どうしてこれが勝手なことなの? お母さんなりのギリギリの決断だったろうと思うわ」

 ふと、母は寿命を知ったのかもしれないと思った。あの世に行く前に、自分の口から告げておきたい。母はそれを、私から裁きを受ける日と思っていたのではないだろうか。

 私からすれば、これは母から知らされるのが一番良かった。母が教えてくれた、もし教え方のルールというものがあるとすれば、これが一番正しいやり方だ。

一番愛してくれた人が教えてくれる。この夜私は、じつは私には三人の”兄”のみならずほかに五人”きょうだい”がいるのだと知らされた。え、八人‥‥。

「父さんもね、一緒になるまでは、八人も子供のいる人だなんて知らなかった。だけど母さんっていう人は、強い人なのか、そのころの生活がよっぽどつらかったのか、子供のころを思い出して泣くなんていうことは、まったくなかった」

 そうだろうか、と私は思った、父は見ていないだけ、あるいはみようとしなかっただけではないか。父は母のことを知ってはいない。

 ときどき母は激しく泣いた。どうしてこれほどに泣くのかといぶかるほどに。たとえばKちゃんの右脚の切断のとき、転がり回るようにして慟哭(どうこく)というか、号泣というか、大地が割れるほどに泣いた。母は、もしかしたら、何かのきっかけがあったとき、ありとあらゆる感情が噴き出してきたのではないだろうか。嵐のように泣く理由を、母はいつも持っていた。

 駆け落ち前後の母の精神状況と、生活がどんなものであったか、今となってはまったく分からないのだが、ひとつだけ確実にいえることは、自分が産んだ八人の子は、途中までしか育てず、あるいはまったく育てずして、なさぬ仲の子供を育てたということだ。

 新しい母のところにいる子供を思って、密かに涙を流した夜がなかったと、どうして断言できよう。自分を責め、裁いた日だってあったろう。だから、あんな言葉が出てきたのだろう。

「お前、母さんを軽蔑するかい?」
 軽蔑なんかするものか。こういう女の人生もあったと、重々しく受け止めよう。そして母が知らない孫、私の二人目の娘がいった言葉をあの世の母に伝えたい。

「おばあちゃんのこと、玲子は誇りにしているよ」
 しかし、八人の”きょうだい”からすれば、母のやったことは、あまりにむごいことだった。

“兄姉”はもう五〇代、六〇代になり、人生経験も豊富になったとはいえ、いまだに深い傷を背負っているように見える。母を許そうとしても許せず、許せず愛している、矛盾葛藤が入り乱れている人たちだ。

 その夜父は、親戚の子と私に教えていたKちゃんが、父の先妻の子であったことを語った。
「じゃあ、それなら、せめて一人だけでも、八人目の子供だけでも引き取って、育ててあげればよかったじゃない。フェアじゃないわ、そんなこと」

 自分の子供を育てさせておいて、母の方の子供は育てないなんて、男の身勝手だ、対等じゃないわ、そんなこと。父は目頭を押さえた。

「このことをお前に知られる恐れはいつもお父さんの中にあった。お前はきっとお父さんを批判するだろうと。だけど考えてみてくれよ。父は仕事を替え、お前が生まれ、自分たちの生活を維持していくのがようやくだったんだよ。

父さんだって初めのころはその子と暮らしていて、育ていいと思っていた。だけど母さんが向こうへ渡してしまって、どうして父さんが受け取りにいける? 責任を持って私が育てますと言える自信が、父さんにはなかった」

 もしかしたら父はこのことで、ずっと母に負い目をもち続けていのかもしれない。あのスコップや『忘れもの』のひとことのなかに、父の負い目のすべてが込められていた。

今この年になれば、父の気持ちも理解できるが、あの二五歳当時、母の一生があまりにも切なくて、まま母といわれ続けた母の半生があまりにかわいそうで、私もまた父を許そうとして許せない葛藤に取り込まれたのだった。

 私は母のために弁護をしたい。母は確かに二人の娘を差別して育てたが、母なりの愛し方で精一杯彼女を愛したと思う。料理を教え、編み物を教え、生活を教えた。根気よく、何回も何回も、同じことを繰り返し教えた。

嫌味もいった。叱りつけもした。だが教え続けた。脚の切断のときには、転げまわって泣いた。母は、八人の実の子をとるか、一人のなさぬ仲の子をとるか、その決断のときに、なさぬ仲の子をとったのである。これもまた、人生の選択であった。

 つい最近、Kちゃんに会ったとき、彼女はいった。
「お典ちゃん、ずいぶんとお母さんに似てきたわね」
 彼女に厳しかった母を思い出して、私は一瞬うろたえた。彼女と会うとき、私はいつも厳しくなる。甘えるんじゃないのよ、という気持ちが態度に出る。威張っていて支配的になる。

優しくなれないのだ。しかしこれも、彼女の母への追悼の表現として受け止めよう。あの母に育てられたことを感謝していると‥‥。

 再婚の取材を始めたとき、どうしても”まま母”の立場の人に聞きたいと思ったのはこんな事情からだった。社会は私の子供時代と大きく変わっている。血のつながらない、新しい親子関係に触れてみたいと思ったのだった。

 寺本和子さん(仮名)は現在四九歳、十三年前に再婚して、いきなり母になった。一人息子は今、一七歳、頼もしい青年に育った。通された自宅マンションの応接室で、彼女はいった。

「十三年間育ててきて、来年(平成三年)は高校を卒業します。とにかくほっとしているところです」

 その実感、よく分かる。私も、下の子が高校を卒業したとき、責任を果たした思いで、どっと疲れがでて、病気になるんじゃないかと思ったくらいだ。

 四歳が一七歳といえば、子育てのフルコースである。幼稚園、小学校、中学校、高校と、入学式と卒業式が目白押しとなる。おまけに、宿題だ。林間学校だ、海水浴だと、子供中心の行事、夫婦が女と男ではなく、親役割に巻き込まれてしまう期間である。”子は鎹(かすがい)”が一番実感される時期である。

「目まぐるしい毎日で、子供中心の生活、それがかえって良かったんじゃないかしら」
 寺本さんの十三年間には、悩んだ時期もあった。子育ての手がほしくて、夫は再婚したんじゃないかしら‥‥。まま母と呼ばれた立場が悔しさ。自分の子はついに諦めたときのこと。平坦な十三年ではなかった。

 責任はちゃんと果たした、その喜びは大きい、と彼女はいった。
「ただいまって帰ってくるでしょ。その笑顔がとってもかわいかったのね」
 母としての小さな自信と誇りが込められた言葉だった。

 夫の前の妻は、病気で亡くなった。膠原病(こうげんびょう)を結婚と同時に発病し、子供を産むと治るという通説を信じて出産に賭けたが、結果は裏目に出た。ほとんど入院生活で過ごし、亡くなったのは子供が四歳のときだった。

その間子供はおばあちゃんや親戚の手で育てられた。幼な子を置いてあの世に行った母、運命を受け入れねばならないとき、どれほどの涙を流したことだろう。

 再婚は友人の紹介だった。奥さんが亡くなってまだ一年経っていないということに、迷いもあった。

 そのころ寺本さんは離婚して七年が経っていた。最初の結婚は二四歳。恋愛結婚だったが、三年ほどして、夫には結婚前から付き合っていた年上の女性が居ることが分かった。その女性は、二人で旅行した写真を送りつけてきたという。女は、どうしてこう女に残酷なのだろう。本来なら男を責めるべきを、女に責める。五年で別れた。

「別れて三年は、思い出しては泣いていました」

 男なんて信じられないと思った。しかし、その心を癒してくれたのも、皮肉なことに男だった。妻も子もある人。その人とも別れた。状況こそ違え、前の夫と同じことをやっている自分に気が付いたからだ。

「勤めていましたけれど、このまま一人で年を取っていくのか、という気持ちって、もう恐怖に近いものでした」

 何を生きがいにしたらいいのか分からない。深い孤独だったと語る。高原さんの話と同じだった。

「仕事は任されていてもおもしろかったですよ。でもそれが給料や地位に結びつかないんです。将来への保証がない。このままでいいのだろうか、悶々としていました」

 子供がいないことだし、もう一度結婚したいと思っていた。前の結婚は巡りあわせの悪さだった。その彼女が結婚していたら、あんなことにはならなかったんじゃないか。

男に対する不信感や結婚への疑問よりも、”巡りあわせ”の問題として、彼女は、結婚をもう一度したいと考えていのだった。三六歳になっていた。

「じゃ、その巡りあわせの問題というのは、二度目の結婚の場合、裏切られなかったんですね」
「ええ、裏切られなかったんです。本当にいい人です。驚くくらい。こんなんでいいのかなって思うほど。でも、私とまるで正反対の人です。恋愛なら絶対にしないような相手ですね。私が”動”なら向こうは”静”で」

 三LDKのマンションに五年前に移ってきた。きちんと整理されて、磨き込まれた家具。サイドボードのなかのワイングラスが、夏の午後の陽にかすかな虹色を放っている。私と寺本さんは二人ともカーペットの上に触り込んで、彼女は紅茶のポットを両手で温めるようにして持ちながら、力強く答えた。

「友人の紹介で会ってみないかって言われたのが十月なんです。十一月には、息子の数え五歳の七・五・三で、母親も一緒の写真があった方がいいといわれて、それがプロポーズの言葉だったんです」

 彼女はくすんと笑った。早い方がいいということで、結婚したのは十二月。だから、結婚前に会ったのは、十月と十一月の二回だけだった。ずいぶん早い結婚。一度手酷い目に遭っているというのに、身元調査もしなかったという。

「高校の教師ですから、変なことはしないだろうと」

 急いでいたのは夫の方だったというのは分かる話だ。妻の長い入院生活と子育てとで、夫も、子供を預かってくれていた親戚もくたびれ果てていた。そこへ子育てをやってくれそうな三六歳の再婚希望者がいた。それ急げ、やれ急げというのは夫の事情だ。

 しかし彼女の方は、再婚は即母になることである。それだけでも大決断であるうえに、妻に亡くなられたばかりの人である。女にとって再婚相手は死別がいいか離別がいいか、一概には言えないけれど、

『去り跡にはいっても、死に跡にはいくな』「この世で一番完璧な女性、それは亡くなった妻である」という諺もある。相手の胸に残っているだろう女性像に不安はなかったものだろうか。

「それは母が言いました。おまけに子供のいる人でしょう。他人の子供を育てるというのは簡単なことではないんだ。よくて当たり前、人の口には戸を立てられないって。母は結婚することには賛成でしたが、

この再婚には反対でした。でも私は、結婚ってやっぱりいいなと思っていたんです。前の人だって、いい時もあったんですもの」

 もし、仕事も収入も十分で、将来の保証がきちんとしていたとしても、再婚したいと思うと彼女はいった。

「私、仕事でずっと生きていくタイプじゃないんです。それなりに力を発揮して行けるとは思いましたけれど、意識としては古いところもあって」

 一人で生きるのは、やっぱり淋しかった。

 離婚直後はすっきりして、なんと自由かと思いましたけれど、その時期が通り過ぎると、自由が苦痛になって耐えられなかった。

 自由であることの苦痛、多くの再婚者が語った言葉だ。自由とはなんと厄介な代物だろう。自由を欲しがりながら、続くと苦痛、拘束を呪いながら、拘束に安心を見出す。『自由からの逃走』とは、エーリッヒ・フロムの言葉だが、これが再婚のエネルギーでもあるかもしれない。

「再婚してから、まったく憑き物が落ちたかのように、表情が柔らかくなったって言われます。一人で仕事をしていた頃は、険しい顔だったんですね。どっかで肩ヒジ張っていて。全部自分でやらなくちゃなんないし、老後のことがやっぱり頭にあって、今はいいけど、年とったらどうしようかって、そのことがいつも頭にあって」

 結婚して突然母になって、覚悟はあったが、現実の生活のなかでは、利用されているだけだと夫に疑いの目を向けたこともあった。

「吹っ切れていなかったんでしょうね、多分、女手がほしくて結婚したんじゃないかって思うのは、辛かったでしょう」

「しようがないですよ。それは。私もあっさりした性格だから」
「おばちゃんとかは」
「あ、それは私、大歓迎で向えられて、前の嫁は病気ばっかりで、おばあちゃんもヘトヘトになっていたのね。今度の嫁は病気しなそうにない、頑丈そうだって。だから気が楽でしたね」

 頑丈一直線、彼女は姑たちの期待を裏切らなかった。
 死別の場合は、仏壇とか、お墓とか、前の奥さんの親戚づきあいがある。そっちにもおじいちゃん、おばあちゃんがいる。

「仏壇は、子供の部屋に置いてあります。命日ごとにお花を供えたり、受験とか節目のときにはお参りするようにっていっていますよ。亡くなった人に嫉妬してもしようがないし。

子供も四歳のときに別れて、じつの母親の記憶がないのが可哀想でね。話を外から仕入れてきて教えてあげるようにしています」

 亡き妻の一周忌の法事は、夫の再婚が決まっていたので、先方だけで済ませた。彼女の友人には、仏壇もお墓もいやだ、処分してくれと言った人もいるけど、私はそんなことないと語った。

 このあと取材した大川啓子さんは、亡妻の実家から墓を建てるように、それが共養だといわれたという。死別の人との再婚はここが辛いところだ。亡くなった人への精神的な恐れのようなものだろう。迷信だと思っても、この世への未練・怨念が残っているのではないか、それを思うと心が落ち着かない。

 向こうのおじいちゃん、おばあちゃんとのつき合いも、子供を育てくれた一時期もあるし、電話が来たり、子供にお小遣い送ってくれるのを彼女は、ありがたく受け入れている。ただ、家具を返したときのトラブルで、あまりつき合いはなくなっていた。

子供が中学一年生になったとき、先方も高齢だし、彼の叔父さんや叔母さんも集まるという日に、一人で行かせたこともある。孫が大きくなった姿を見てほしいと思った。翌年、またいく? と聞いたら、もういい、やめとくと答えたそうだ。

「子供が行きたいって言わない限り、いいんじゃないでしょうか。はっきりしていますよね」
 おじいちゃんが亡くなったとき、遺産相続を放棄してほしいといってきた。
「それも承知しました。争う気なんてまったくないですもの」

 これで、亡くなった妻の実家との縁は切れたようなものだ。これはすっきりしていると、寺本さんはいう。

 前の妻の実家とどう切れるか、とくに死別による再婚の場合、大きな問題だ。孫との関係が残っている以上、すっきりさせることは難しい。夫の親の方だって、前の嫁と比較したがる姑もいる。

加えて家具など、前の妻が使っていたものなんて気分が悪い。前妻の実家の再婚の認識が必要になってくる。

 寺本さんの場合は、ちょっとのゴタゴタはあったものの、尾を引くものではなく、平和な再婚生活を送ってきた。彼女が、今の生活や夫に百点満点文句なしというのも、うなずける。

「お子さんは、一人だけなんですね」
「最初は自然に任せようといっていたんです。でもいろいろ考えてみて、子供まで欲張るのは止めようと思って」

 子供のことで、心が揺れた。これが彼女にとっての最大の悩みだった。もう一人生んだ方がいいよと勧めてくれた人もいる。だが決心がつかなかった。友人にも、他人の子を育てることに大反対した人がいた。その彼女は、二度目の母親に育てられた人で、食べ物も満足に与えられなかったと言った。”まま子いじめ”されたとも。

「子供を生まなかったのは、その彼女の話が基本になっています。私は、彼女のお母さんの立場ですから。食べ物は存分に与えるようって決心しましたね。

自分の子供を生んだら、そっちの方が可愛くなって差別するんじゃないかという不安もありました。自分の気持ちが変わらないとは言い切れないですもの」

 人間の気持って、どこでどう変わるか分からない。もしそうなったとき、一番嘆くのは夫。その思いが子供を産むことを踏みとどまらせた。

「今はこういう形でよかったと思っていますけど、やっぱり生んでおけばよかったと後悔したこともあります。でも、それも過ぎたことですから」

 それは涙の決断であっただろう。子度を生める身体でありながら、産まなかった、自分の子供を生んだら、そっちの方が可愛くなって、差別するんじゃないか、そうすれば、夫が嘆く、だから産まなかった。この子は一人と思い定めて育ててきた。切ない話だ。

「子供が何気なくふっと見せる笑顔、あれは本当にいいものですね」
 彼女は繰り返していった。その笑顔は、この母の決断に報いて有り余るものだろう。

「子供にフランクに何でも言っています。ぼくのお母さん、本当のお母さんじゃないよって。このマンションは引っ越してきて五年ですけど、ご近所の人はみんな我が家の事情は知っています」

「好奇心とか偏見とか、感じます?」
「あまりないですよ。逆に、自分の子でも大変なのにって言ってくれたりして、助けられてます。男の子だからあっさりしていますね。男の子でよかったと思っています」

 まま母 まま子ということも、子供が男の子か女の子では違うものだろうか。彼女は男の子だからあっさりしているという。私には、それは性でなく、個人差だと思えるのだが。だが、女の子だったら、やっぱりもう少し難しいものがあるかもしれない‥‥。

「でも、子供を叱りながら、本当のお母さんならこういう言い方はしないだろうなって思うことありますよ。そういうとき、たまらないですね、ホント、たまらない、ひとことで済ませればいいのに、そのあといろいろくっけちゃうのね、それが一番よくない」

「それは実の親でも同じですよ。私なんかもそう。叱っているうちに、前のこといろいろ思い出したりして」

「どうしてもね、続いちゃう。主人にそれがよくないっていわれて」

「心の中で、どうせこれもあんたのお母さんの遺伝よって思うことありません? 自分の子だったら、これも私の遺伝と諦めもつくけど」

「あ、そういうのはないですね。それはない。うちの息子、主人とそっくり、性格も顔も。だから救われているんです。尊敬している人と同じ性格だというのは救いですよね。これが主人を疎(うと)ましく思っていたら、ああいやだ、似ていてい嫌だって思うでしょうけど」

「反抗期はどうでした? 今は落ち着いているでしょうけど」
「中学二年くらいから高校にかけてのころね、親を無視してかかってきて。私の姉に電話して相談したら、それは自分の子でも同じ、血がつながっているかどうかは関係ないって。

ただ、母はさっきも言いましたように、子供のいる人は反対で、他人の子っていうのはよく育って当たり前、普通に育ったってあれこれ言われるんだから、それだけは覚悟しておきなさいって言ったんですよ。だから母にはいえなくて、それが辛かったですね、近所の人にも言えないこともあったし」

 支えは、夫と夫を紹介してくれた友人だった。この二人が常に彼女を励ましたのだった。これがあったからやってこれたと、彼女はいった。

「遊び仲間と付き合ったこともあったし、他人の中で育ったせいか、子供らしくないところもあって、学校の先生にもいろいろ忠告されて、主人にいったら、教師の言うことより。自分の目を信じなさいと」

「ご主人、学校の先生になのに?」
「そうなの、おかしいでしょ。でもそうなんですね、親としてずっと育ててきたという自信ね、それを持ちなさいって。そういう言葉に助けられましたね。先生の言うことを真にうけて子供を批判しちゃいけない。あとに感情を残さない子だから、それも良かったですね」

 じつの母親のことを思ってジメジメしたりすることもない。これも男の子だから、女の子だったら、また違っただろうと、再び彼女はいった。

 まま母やまま子のことを子どものころから考えて続けてきて、私は二つのことを思っている。
 ひとつは、私たちは、普通のやり方と違う、異性質を排除するメンタリティがあるのではないかということ。結婚とは初婚のもの。わが子とは血のつながっているもの。それが”普通”であって、それ以外はうんくさい。

 母親が子を愛せるのは、生みの苦しみがあってこそ、だからその苦しみがなく、かつ”血のつながらない”子とは、愛情の基盤がない。血の信仰とまま子は合わせ貝のようなものだ。

ピタッとはまる一枚の絵。もし、女の子のほうがまま子に敏感だとしたら、それは女が異質性排除による苦しみを多く背負ってきた長い過去の累々(るいるい)たる記憶があるからなのではないだろうか。

 二つ目には、差別の根底には貧しさもあったこと。彼女の友人や私の母の時代は、食べるものにしても十分ではなかった。そういう時代なら、一個のパンを半分にしたとき、より大きい方を実子に与えるかもしれない。貧困は差別の温床である。

 今の時代、貧困はなくなった。とすれば、二つ目の問題はない。残るのは、義理の関係に対するメンタリティの問題だ。最初のめぐりあわせの悪かった結婚のおかげで、自分の子を産むことを諦めて、血のつながらない子を育てて来て‥‥。勲章こそあれ、悩みを一人で背負うものではないはずだ。

 近所の人が、自分の子でさえ大変なのに、といってくれた言葉は、聞く人によってはそれも差別だと思うかもしれないが、私の耳には、時代が変わってきたと、うれしい言葉だった。

彼女が常に、本当の母親ならこんな叱り方はしないのではないかと悩み続けてきた気持ちが、理解される時代になったのだろう。

 これはもしかしたら、この世には血よりも濃い関係がある、心と心が血よりも固く結び合えるものだということを証言しているのではないだろうか。

 たとえ血がつながらなくても、じつの親子、兄弟同様のものになれる、この関係を求めて悪戦苦闘したのは、タレントの佐々木功さんと声優の上田みゆきさんの再婚カップルである。二人が書いた『子連れ再婚の片道切符』(講談社)によると、二人は双方ともに男の子を連れて再婚し、家族をつくった。

 親の再婚によって新しい”父”のできた子と、そして”兄弟”になった子供たち。この世人の義理家族は、当初の予想をはるかに越えた波風にさらされる。とくに母親の愛情に飢えていた兄による弟いじめが酷かった。兄弟間の緊張の厳しさに親たちはもうダメかと悩みながら、心を込めて解決していったその愛情物語には、深く胸に響いてくるものがある。
“片道切符”と銘打った決意も重いものだ。

 愛情というものも、乳牛がちちを出すに自然に流れるものではない。努力して、なやんで、ときに傷つきながら、作り上げていくものだと、この義理の母は教えてくれる。もし愛情というものが目に見えるとしたら、それは、荒地に生えるオリーブの木のような色と形をしているのかもしれない。黒くてゴツゴツとしていて節くれたもの。そしてたっぷりと油の入った実をつける‥‥。

 義理の関係には、血は流れていなくても、このオリーブの油のようなものが豊かに流れているような気がする。寺本さんにも、それはたっぷりとした大きな実になっているはずだ。

 その反面、義理の関係は、甘やかなものととらえるのも危険だと思う。

 私の”姉”のKちゃんは、ときどきふっと思い出したように、「本当のお母さんに会いにいきたい」と洩らしたものだ。育ての子が”本当のお母さん”への心情を持っていることを否定してはいけない。

 さて寺本さんが一三年間育ててきた子、その子も来年には家を出るつもりらしい(平成二年取材したので、今ごろもう出ているだろうか)。

「大学に入ったら、この家を出るつもりらしいですよ。父親にはまだいってませんけど、私には打診しています。父親が苦労した人で…‥。彼は昼間働いて学資を稼いで、大学は夜の部なんですね。

そう言う話を子供にずっとしていましたから、子供も独立するって決めていますね、お金は最低限出してくれればいいって。父親も、勉強したければ大学に行きなさい、でなければ働きなさいっていっています。息子も、うちはよその家とは違うんだよなっていうけど、父親がさめているから」

「お父さんは学校の先生だから‥‥、その辺は‥‥」
「でもね、これにもやっぱり偏見がつきまとうんですよね。自分の本当の子じゃないから早く外へ出したって、でも私、これは平気で受けとめようと思っていますの。子供のためなんだからって」

「人は勝手なことを言いますものね。子供を一人前にしようと思ったら、家から出すのが一番いいと思いますよ」

 私なんて二人の娘をアメリカとドイツに出している。これは少し遠くに出しすぎたとときに後悔もするけど、やっぱり私も子供のためだと思っている。本当の親の愛というのは、子供を空高く飛ばせることだと思う。その意味でも、彼女には本当の親の愛がある。

「これからの時代、マザコンは結婚できないですよ」
「そう。うちは一人息子だけどマザコンじゃないですね」

 もうすぐ夫婦二人になる、子育てに女の手ほしくて再婚したのではないかと悩んだこともあったが、これかにはいよいよ夫婦本番だ。今のところは親子三人で水泳に通っているが、二人だけでいくことになる。彼女はかつての事務能力を生かして、銀行にパートで働いている。子離れの用意はできているらしい。

「この十三年、いろいろあったけど、悔いはないですよ。再婚して本当に良かったと思っています」

 彼女と息子とは、まだ養子縁組をしていない。まだ、と書いたのは、目下彼女はそのことを考慮中だからだ。夫に万一のことがあったとき、遺産は子供と半分ずつ分ける。彼女に万一のことがあったとき、実子なら遺産を受け取れるが子供とは養子縁組をしなければ、

彼女の兄弟の方にいってしまう。どっちがいいか、それは彼女の老後観にも関わってくるだろう。自分が一番得をする方法を選んでほしい、と私は思っている。

 取材中、彼女の顔は私の母が重なって見えてしようがなかった。同じくまま母と他人から呼ばれた人。しかもこの人は、それがゆえに自分の子を産むのを断念した。義理の関係を深い母性愛に高めていってその意志と努力、その自覚的愛情は尊いものと思う。

だから彼女には、人生の帳尻を合わせてほしい。どこで、どういう形になるのがいいのか、具体的な形については分からないが、「これで帳尻があった」そう思うものを心に抱いてほしい。

 私の母も、母なりに人生の帳尻を合わせた人のような気がする。
 あの告白の日から三年後、母は息を引きとった。そのとき、母の側にいたのは、父とKちゃんだけだった。母は自分の子供を九人も生んでいながら、死の床に間に合った者は誰もいなかった。母は”姉”に看取られてあの世に行った。

 じつの子が誰も間に合わなかったということ、”まま子”と言われた”姉”が看取ったということ、私はここに母の人生を見る思いだ。母のこのことによって、人生の帳尻を合わせたのではないだろうか。誰よりも。一番ふさわしい人に見守られて…‥これもまた、帳尻の合わせ方の一つだった。

つづく 第六 新しい命の意味