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第十二 再婚時代 ―女と男の協奏曲―

本表紙 沖藤典子 著

再婚時代 ―女と男の協奏曲―

 京王プラザホテル地階居酒屋――
 忘年会のお開きの時間が近づいていた。帰りだすお客も多くなって、ドアーが開くたびに冷たい風が吹き込んでくる。その一筋の流れが夜が更けてきたことを告げている。

「最後に何かご飯ものをいただきましょうよ。やっぱりお米をお腹に入れないと、しっくりこないでしょう?」

 Iさんのひとことで、また私たちのお腹は勢いづいた。お茶漬け、おにぎり、お味噌汁、あ、おしんこも、口々にいい合って、なぜか笑い転げる。

「何がおかしいのかしら」
「再婚の話をしていると、気持ちが華やぐのね」
 これは本当にその通りだ。離婚の話には涙や苦悩がまつわりついていて、その衝撃が大きいだけに、いささか疲れる。だが、幸せな再婚の話は、人が生きることへの熱源体に触れるようで、人生を信じるに足りるものだと思わせてくれる。それが気持ちを明るくする。笑いは、その明るさの申し子だ。私はいった。

「再婚は確実に新しい時代を迎えたと思いましたよ。昔風なイメージでいえば、再婚は生きるために止むを得ないというような不幸の衣をまとっていた。そういう社会の目や世間の口があったと思うの。

私の両親なんか、子供にすら絶対に秘密にするという感じでね。とくに女は、貞女二夫にまみえずで、再婚は反貞女の烙印よ。そこからきた悪いイメージがたくさんあったのね。強欲だとか性格が歪んでいるとか。シンデレラ物語や白雪姫のお話もずいぶんと貢献したわね」

 ところが現在、再婚は不幸の衣どころか、ある種男の器量、女の器量を証明するものとして、再登場してきた。

 私はこの取材でいろいろなことを聞いたが、特に力点を置いたのは。五点だった。
第一は、再婚は今のどのようになっているか、再登場の具体的内容。
二つには、再婚ってなんだ? シングル志向が高まり、結婚は女に取って自立の墓場などと言われながら、なぜ再婚なんだ。
三つには、再婚と相性、再婚は相性を訪ねる旅なのか。相手が変われば結婚も変わるのだろうか。
四つには、夫婦が女と男としてうまくやっていくためには、何が必要かということ。
五つめに、再婚をうまくやるための知恵。

「この五つの大命題をひっさげて取材したんだけど、取材下手でもあるし、微妙な問題だし、結論が出たような出ないような。結論は出ないですね。出なくてもいいんじゃないかしら。水の形を説明しようとするようなものでもの」

 再婚の大きな変化は、死別による再婚ではなく、離別による再婚が増えたことだ。医学の発達によって青壮年の死が減ったことにより、死別よりも離別が増えた。また、成田離婚など言われるような、若い人たちの不思議な離婚も増え、定年離婚といわれる中・高年者の離婚も増えた。

これまで比較的死別による再婚が多いといわれていた高年男性すら、この一〇年余りの間に離死別の数値は逆転した。加えて”夫初婚・妻再婚”の増加。

 再婚は配偶者の死しいう悲しみを抱く人のものというよりも、別れの苦悩を背負った人のものとなった。俗ないい方をすれば、再婚とは”過去ある結婚”となったのである。

「だから、その過去をどう整理するか、沖藤さんがアルバムをどうしたかとか、家具はどうしたか聞いたのは、そこのところなんですね」

 山野さんが、あの深い目で見た。頬がほんのり紅色に染まって、色づき始めたリンゴのように光っている。

「写真っていうのは、一つの手がかりだったんだけど、私の出した結論は、人はまったく過去とは無縁には生きられないんだっていうことだったの。整理することは大切だけど、捨て切ることはできない」

 彼女の場合、写真は焼いた。持ち物も全部捨てたといった。自分の花嫁姿のものだけ持ってきたといった人もいた。その一方で、そういうことにはこだわらない人もいた。このさまざまな対応の仕方を聞いて、私が思ったことは、整理すること大切だけれど、捨て切ることはできない。

それを認める度量のようなものが必要だということである。過去は、あの世にいった人と共にあの世へいったと、思うことのできない時代になっている。

「だけど、いつまでも前の人のことを思っているというのも、どんなものなんでしょう。私のように全部焼いてしまう必要はないかもしれないけど、新しい出発のためには、ふん切りが必要でしょうに」

「それはもう新しい人への礼儀として大切なことですよね。だけど、生活って不思議なものだと思いましたよ」

 それは新米父さんに会ったときだ”おふくろの味”とは、どのくらい残る物かという話になった時、彼は言ったのである。

「味付けとかね。そんなに別に努力しなくたって、きれいさっぱり前のカミのやり方なんてわすれていますよ。おふくろの味って奴だって、あんなものは女の人の思い込みです」

 これは彼独特の考え方なのか、男性一般通ずるものなのか、よくわからないが、このとき私が思ったことは、現在の生活を大切にしようと思うその気持ちが、過去を忘れさせてしまうのではないかということである。

 過去というものも、忘れられる過去と忘れられない過去があるのだろうが、無限の会の和多田峯一会長が、婦人公論(平成三年三月号)で面白いことを書いている。結婚には”建設結婚”と”持ち寄り結婚”とがある。比較的若いうちなら、過去のことは忘れて、また新しく二人で建設していけるが、年をとってくると、それを期待することは難しくなる。

自分や相手の過去を消そうたってそうはいかない。それなら、お互い、過去に築いたものを大切にして、それを持ち寄る結婚をしよう。再婚をすべて”過去を消して”捉えるのには無理があるのだと。

「お互いに、相手には自分の知らない人生があった、それはそっとしておこう。その代わり自分のこともそっとしてほしい。そう言う関係での結婚、私、これはものすごく大事なことだと思ったわ」

 夫婦に秘密があってはならないとよくいわれる。その秘密の内容にもよるけど、裏切るようなことでなければ、秘密があってもいい。相手の心の中すべてを覗き込むようなことはしない。お互い秘密があってもいい、こう割り切ることも大切だ。とくに高齢者になってからの再婚は、持ち寄りなのだ。そのうえで新しく二人の人生を築く。

「それと私がもう一つ思ったのは、結婚には”遺伝子を残す結婚”と、そうでない結婚とがあること。若いうちの結婚は、初婚であれ再婚であれ遺伝子を残す場合が多いわね。

だけど、中・高年になると遺伝子を残したくても残せない結婚が多くなる。行ってみれば遺伝子の代わりに”生き方を残す結婚”ね。大谷さんや山野さんがそのスタイルだと思う。遺伝子にこだわらない結婚・再婚があるのも、悪くないと思うわ」

 遺伝子にこだわらない結婚のなかには”なさぬ仲””義理家族”が入ってくる。血縁なく構成される家族のためのガイドラインは、目下のところ暗中模索だが、今後再婚が増えてくるにつれて知恵も出し合われるだろうと思う。

 今後子ずれ再婚に加えて、親連れ再婚も増えてくるに違いない。親の生き方、子の生き方が改めて問われる時代になった。そういうことすべてひっくるめて、遺伝子ではなく”生き方を残す結婚”のひとつのスタイルとして、再婚がある。

 離婚による再婚が増えたということは、結婚をやり直したいと思う人が増えたということだ。これは、簡単に離婚して再婚する、結婚軽薄時代の幕開けなのだろうか。それとも、長寿化になって自然のお別れが期待できなくなり、老いたればこそやり直したいと強く思う人に象徴されるような、命の質重視時代がきたのだろうか。

 離婚・再婚にタブーがはずされてきて、非常にいい時代がきたと私なんかは思うが、とんでもないと反論するひともいるだろう。その反論の理由も、社会的モラルをいう人から、結婚懐疑派までさまざまであるに違いない。

 ただ私が今回の一連の取材を通して思ったことは、ボタンを掛け違えた、そう思ったときはやり直していいんじゃないかと言うことだ。

「山野さんのようにイエというものに縛られて、これは本当の生き方でないと思ったときはやり直す。大谷さんのように、より自分に適している愛情の世界に生きたいからやり直す、そういう主張があるのは当然だと思うの」

 加えて長寿化の彼。人生が長くなった分だけ、最初の誤差は大きくなる。
「初婚で一生を添い遂げるのがいいという考え方には、人は決断を間違えないものだという前提があるのね。結婚が二〇年三〇年時代ならそれでも何とかやり繰りできるけど、五〇年六〇年になると、若き日の決断に耐えきれないという人だって出てくる時代なんだわ」

「それに」
Iさんがいった。
「その結婚の間に、女も男も変わるでしょう。二人でいつも調整していないと、女は女の世界にはまり込んでしまうし、男は男の自分の世界に生きる。ある日突然、まったく変身してしまった女と男が同じ家にいることに愕然としてしまう。高原さんがそうじゃありません? 妻と夫の間の距離がどんどん広がってしまった夫婦」

「そこなのよね。誰の目から見ても、この結婚は間違いだった、そういう結婚、たとえば借金とか浮気とか、暴力とか、そういう結婚は何も忍耐したり我慢したりする必要はないわよね。

女に甘えるんじゃないよ、そういって男を捨てるのは当然だし、それは男にとってもいいことだわ。女にだって心があり人生があるだって思い知ることって大切よ。女が昔風の忍耐の美徳を捨てることが、男をも立ち直らせるんだわ。

ところが問題は、どちらも取り立てて悪いことはないのに、知らず知らずのうちに溝が広がってしまった夫婦なのね。ほころびた関係を繕い繕いながらやっていくのがいいのか、高原さんみたいに定年して世間体がなくなり、子供も独立した時点でさようならした方がいいのか。それに、そのほころびを繕う努力だって、何十年は保たないだろうし」

 この離婚による再婚が増えたという事実は、女の視点からみたとき、もう一度結婚ってなんだ、という問いかけを生む。それは、なぜ人は”自由”の中で生きられないのだろうという疑問も生む。Iさんが、その問題を提起した。

「結婚によって自由を束縛されたという思いを持った女性もいますわね。私の離婚した友人は、一人暮らし一度やったらやめられないって言っていますよ。その一方でやっぱり離婚した女性は、よそのご夫婦が楽しそうにしているのを見ただけで、頭に血が上るって。ものすごい嫉妬にかられるんだそうですよ。

一人は解放感でシングルを謳歌していますし、一人は孤独のどん底にいるし、ま、別れた理由にもよるんでしょうけど、受け止め方も様々ですね」

「そこなんでいすよ。シングル志向で、非婚、否婚、避婚、これまでの結婚を生み出した不平等を拒否した、新しい女と男の関係がほしいという動きと、再婚は拘束でもなければ、束縛でもない、やっぱり一人で生きられないという人達、この山野さんや大谷さんのようなね、なんだか世の中には、シングル派と再婚派の二大潮流が生まれているような気がしたんですよ」

「でも、再婚っていうのは、この二人のように好きな人ができてその勢いで飛び込むならともかくとして、いったん離婚してなると、なかなか決断のいるものですよ。再婚して幸せになった人ばかりじゃないですもの。危険な賭けだっていう気がするし」

 岸田さんがいったが、全くその通りだと私も思う。幸せになった人ばかりでない。
「この間聞いたんだけど」
 彼女は続けた。
「再婚して、離婚同士なんだけど、すぐ奥さんの方が病気になったんですね。そうしたら入院させたつきり見舞いにも来ない。周りの人みんな怒ってましたよ。そして亡くなって、遺産を半分男に取られてしまったんですよね。あれはいったい何だったんだ。ひどい話ですよ」

「ひどい話ねえ」
「女は男に仕えるものだという意識で再婚しているんですよ。だから看病もしない、そのうえ、女の遺産までせしめて。逆の場合もあるでしょうけれど、もし逆だったら女は看病しますよね。それを全然しないで、放ったらかしなんですもの、その男は男で、病気持ちを隠して再婚したなんていっているそうですよ」

 私たちは顔を見合わせた。他にもいろいろと再婚の悲劇はあるに違いない。上手くいかない再婚は、病気の問題も多いだろう。それに加えて、女と男の役割意識のずれ。

「再婚は、支え合い、助け合いですよ」

 といった橋池さんの言葉が、重みをもって思い出される。究極の女と男の助け合いは、病気の時だろうし、日常的な”家のなか”のことだろう。女だって、四〇年も五〇年も台所仕事をやることに、いい加減うんざりもし、体力もなくなっている。とくに老いてからの再婚には、心のところが大切だ。私は高原さんの話を思い出しながらいった。

「助け合いという点については、私、女もしっかりしなくてはならないと思うの。高原さんの奥さんという方、どんな方だか会ったことないから分からないけど、彼女はいわゆる昔からの世間でいう”いい妻”の役割に復讐されたような気がするんですよね。

家庭でいい妻やっていれば夫は満足すると思って、彼女なりに努力してきたと思うの。それが裏目に出てしまって、助け合いどころか男とコミニケションができなくなってしまった。女の悲劇を見る思いですよ」

 結婚は長い間、女の家の中に閉じ込めて来た、それは、男は仕事、女は家庭の性別役割分担を生み出してきた。男は外で稼ぎ、女は家の中で子育てに励んでいる間は、それでいいとされてきた。

ところが、いざ男子も家にいるようになり、子育ての子供もいない状態になると、お互いどうしてよいかわからなくなる。男の意識のなかにも、家事を助け合うなんてとんでもない、という意識があるし、また長年家のなかにいた妻とは話が合わなくなっている。

外側からの力であろうと自らの意志であろうと、結婚によって社会的に自立を失った妻が、その結婚からも追放される。高原さんの場合もこうだったのではないだろうか。女の立場に身を置いて考えると、こんな割の合わない話はない。

 最近は男性のなかにも、家のなかで助け合ってこそ助け合いなのだと、分かる人も増えて来たけれど、まだまだ多くの男は分かっていない。

 無限の会で話を聞いたときも、女性は再婚にパートナー・シップを求めるけれど、男性は家事をしてくれる人であればだれでもいい、若ければなおいいという安易な人もいると聞いた。

何のために再婚するのか、ここのところの認識が低い男、場合によっては女も多いかもしれない。女として用心しなければならないのは、こういう分かっていない男と再婚した場合に、女の身に何かあった時のことだ。

 再婚希望者の中には、前の妻の代用品? を求めたがっている人もいるだろう。そこにイエがからんでくる。前の嫁はこうした。だからあなたもと、余計な口出し、いらぬお節介も皆無とはいえない。

 再婚家庭は、まえの家庭とはまったく別物だ。それを周囲に徹底させるためには、独立宣言と、その調印式としての、あの”意義ある商魂”を利用させてもらうことも、大切になるかもしれない。再婚だからと引っ込んでしまうのではなく、再婚だからこそ、賑やかにパーティやりましょう。再婚を日陰者から引っ張り出すためには、イベントも必要だ。違いを明確にするためにも、確認するためにも。

「でもやっぱり、再婚は、慎重に決めなきゃならないことなんでしょうね」
 とIさん。私はなおも感想を続けた。

「私つくづく思いましたよ。男に生活的自立を求める一方で、女も経済的な自立の手段を手放してはダメだって。年金だって、たまたま当たったケースがそうだったというだけかもしれないけど、老婚の二人は二人とも自分の年金を持っている人だったもの。

一人は厚生年金で一人は共済年金で、高い年金は女の再婚を助けるっていうことよ。昔の再婚が欲からみっていわれたのも経済力がなかったからですよ」

「だけど、男の人は生活的自立なんて考えるかしら。高原さんだって、今でこそお料理や掃除・洗濯が苦にならないっていうけど、再婚したらやっぱり奥さんにやらせるんじゃないかしら。女はどんな男と再婚しても、仕事と家事の二重役割から逃れられないと思いますよ」

 女の男に対する恨みのなかには、セックスつき家政婦かっていうのがある。そのうえ金まで稼いで、いったい私は何なんだ? 自立を考えない男の鈍感にはやりきれないと。

「そこなんだわ。女に自立を、男にも自立を、そうでないと、再婚もこわいものね。今、若い男の結婚難だと聞いているけど、再婚難だってあった方がいいのかもしれない。

離婚したってそう再婚できるものではないのです、あなたの意識と行動が変わらない限り、再婚してくれる女はいませんよ、そういう危機感を持ってもらう必要も絶対にあるわね」

 女であれ男であれ、離婚したあとの孤独や不安、未来への恐怖など、精神的修羅場をくぐった人とそうでない人とでは、再婚への意識も違うかもしれない。児島さんのように、過去があまりに辛かったから、今がとても幸せに思えるというような。また、再婚によって自分の気持ち通りの人生を得たと思えた人とそうでない人とでは、また幸福感に違いがあるのだろう。

「さっき私、昔の再婚は、家事と経済がドッキングした二K再婚だったって言ったけど、現代の再婚は、精神的充足っていうものがものすごく大事になってきていると思うの。

私の場合は、うまくいった再婚しか取材していないけど、その場合はお互いのパートナー・シップというのがとてもしっかりしていて、相手に対する感謝がとても深いのね。そのうえ、寛大であるっていうことの意味を知っているように思えた。

修羅場を潜ってのち、初めて知る境地ってのが、やっぱりあるような気がしたの。それを思うと、再婚っていうのは、より成熟した人間同士の結びつきっていうか、初婚にはない良さがあるような気がしたのね。

感謝と寛大による新たなパートナーの絆、これが現代の二K再婚。こういう組み合わせの場合は、再婚による結婚生活も、束縛とは意識されないかもしれない。もちろん、どんな夫婦にだって波風はあるから、きれいごとばかりではないだろうけど」

「それで、どうですか、相手が変われば、結婚は変わりますか。私の前の旦那が借金したり、荒れたりしたのは、相性の問題だったのかしら」

 再婚に踏み切れない岸田さんの最大関心ごとはここにあるらしい。結婚って相性なのだろうか。

「それは、そちらの二人に聞いてみたほうが答えは出るかもしれない」
 私は大谷さん、山野さんを見ながら言った。
「この二人なら相性の問題だって言うと思うのよね、そうでしょう?」

「今の人に会って、生き返ったって思ったあの瞬間ですね、あの一瞬のなかに自分の人生の未来を見たんですね。巡り合うべき人に会ったって」
 山野さんがいい、大谷さんも頷いた。

「大谷さんも言いましたよね。人はいつか自分にぴったりの人に巡り会えるって。そういう言い方をした人、多かったですよ。巡り合うべき人に巡り合った。その巡り会いの中で、人生の時のときを生きているって。この巡り合うべき人っていうのが、つまりは相性のことなんでしょうね」

「さっき、感謝と寛大って言われたけど」
 大谷さんが付け加えた。
「自分が巡り合うべき人にあったからこそ、感謝の気持ちとか、相手に対する寛大さって生まれてくるように思うんです。私なんて今の人に会ってから、自分のいいところが次々に出てくるような気がするんですね。取材の時も話したけど」

「逆にまた真なりで、感謝の気持ちや寛大さが表現できる相手だからこそ、巡り合うべき人に会ったと思えるんじゃないかしら。非常に相乗効果が生まれてくる。離婚したあとものすごくつらくて、再婚後の生活が夢のようだったといえる人って、

基本的にはこの二つのKがあるから、相性も生まれてくるんじゃないかしら。だから、夏目漱石の相性も自然に具わってるものじゃないという言葉が意味を持ってくるのね」

 橋池さんに会ったとき、児島さんに会ったとき、私はしみじみと相手によって結婚は変わるんだなあと思った。離婚に至るプロセスやその後の生活の中で味わった苦悩が、相性の基本にはあるらしい。ただ座って待っているだけでは、相性というものも、はい相性でございますと現れるものではないようだ。

「それはね、結婚を続けている中であるんだろうなって思った。よく、似たもの夫婦っていうでしょ。何だか顔まで似てくる夫婦っているでしょ。それはやっぱりお互いに相性をつくりあげていっているのね」

 私のこの言葉をIさんが継いだ。

「そういうふうになっていける夫婦と、いけない夫婦とがあるんですよ。ぎくしゃくしながら、五〇年、六〇年と我慢している夫婦。我慢している妻といった方がいいかしら、冷え切っている老後を生きるなんて地獄だっていう妻たち。この人たちは、相性づくりに失敗したのかしら」

「結婚は、今や一生ものじゃない、じゃ離婚していいか、それもいうのが難しい。相性を発揮できる相手に巡り会う保証もない。だから我慢して、家庭内離婚して、日々家庭内離婚を繰り返している夫婦が多いのではないかと思う。

「家庭内離婚?」

「私なんかそうですよ。家庭内離婚と家庭内再婚を繰り返して。これまで二回離婚届の用紙をとりに市役所へ走ったことがあるのね。

その用紙を見ると、なぜか気持ちが落ち着いて。これが不思議なんだけど、安心して、ま、いいかなんて思ってしまったり。妥協につぐ妥協で家庭内再婚」

 Iさんが私の言葉にうなずき、そういう分析に立てば、私もそのパターンだという。そうして私とIさんは大きな溜息をついた。

 しばらくの沈黙の後、私は聞いた。
「大谷さん、夫婦がいつまでも求め合っていくのに、いい方法ってあるのかしら」
「何か女って、いつまでもセックスの欲望なんかあると恥ずかしいとか、いやらしいとか、面倒だとか思っているところがあるような気がする。
飽きてしまった男には冷淡で。私なんか、せっかく女と男が一緒に暮らしているんだから、生涯現役でありたいと思っているもの」

「セックスってひと口にいったって、いろいろな範囲があると思うの。捉え方だと思うわ。具体的なものがなくたって、触れ合うもの、心と身体とか、お互いに愛しいと思えるものがあればいいと思うの」

 と山野さんが答える。これはさきほどからの彼女の主張だ。彼女自身がそういう生活で、それを信じて生きている人なのだ。

「つまりは、恋愛感情があるかどうかっていうことね。愛情を頼りに生きるということだと思うけど。でも、ここではっきりさせておきたいことは、女の中年になれば性欲がないとか、年取った人には恋をする感情がないとか、そういう色眼鏡で見てほしくないっていうことね。老婚を、いい年してとか、色狂いとか、そういう目では見ていけないってことね」

 橋池夫妻は、若者の夫婦と何ら変わらないと思う。胸もドキドキするし、会わずにはいられないと思う日もあった。そういう人間の感情を大切にし、親子の愛とは違った女と男の愛情の世界を求め続けるということなのだ。人間何歳になったって、それは消えない。

「そうですよ。私なんて、愛情が頼りの生活だと思ってますもの」
 山野さんもいった。

再婚して一時はきらめくセックスがあったとしても、それはまた前の結婚のように、日常のなかで色あせていくだろう。大谷さんはそうあってはならないとのだと力説するが、現実には多くの夫婦は元の木阿弥になっていく。結婚しているからこそ、孤独が深いと思う時だってある。山野さんの夫のように、体質的な性関係をもてない男だっているだろう。

 夫婦は年月をかけて、性を超越した固有の愛情というか、特別の友情というか、そういうものをつくりあげていくものだろうけど、きらめく性にしろ、特別の友情にしろ、簡単にはいかないのが夫婦の難しいところだ。そこのところは再婚も同じだろう。

「取材して思ったんだけど、再婚の人って、この二人もそうなんだけど、もう後戻りはできない、うまくやろうっていう意識的な努力とか、決意のようなものが初婚とは違うような気がしたんですよ。”片道切符”っていう言葉に象徴されるような‥‥」

「さっきの話にあったような、結婚不適格者っていう烙印が押されるのというようなね」
 大谷さんが応じた。
「そう。再婚がまたもしダメだったときには、他人の眼にも自分の心のなかにも”またか、の烙印”があると思うの。でもよく考えてみると、そういう気持ちっていうのが女にも男にもあることは、結婚に緊張を生んで、それがまた相性をつくりあげていく。いい循環に結びついているような気もして。

大変だろうけど、それが夫婦の原点のような気がしましたね。だから、飽きた相手とのきらめく性っていう問題を除けば、家庭内再婚も決意次第だとおもったりもしますよ。別な相手とうまくいった再婚は、この両方を手にするんでしょうけどね」

 相性問題については、これだという結論は、山ほど議論したとしても、得られないに違いない、女と男がうまくいく、いかないというのも、微妙な問題でもある。愛情追及だけでも語れないし、性だけでも語れないし、緊張や決意だけでも語れない。

要は幸福観の問題なのだろうし、この幸福というものについてだって、じゃ何が幸福かとなると、これまた難しい幸福というのは、永遠の逃げ水のような気もする。ただ、今回の取材で私が感じたことは、再婚によって”幸福を感知する能力”とでもいうべきものを、磨き込んだ人が存在するということだ。厳密にいえば、それが再婚によってなのか、別れによってなのかは定かではないけれど。

 さっきの話にあったように、うまくいく再婚ばかりではないが、再婚の難しいのは、やっぱり”義理家族”というものを構成したときだ。なさぬ仲への偏見、”血縁至上主義”も絶滅したわけではない。

 しかし今、再婚を秘密にする時代ではなくなった。情報の遮断なんていうものは、できない時代でもある。それゆえに、新しい義理家族の知恵、遺伝子を越えた愛情の確認が求められる時代でもある。

「寺本さんという方が、近所の人に、自分の子だって育てるのに大変なのに、他人の子を育てて偉いわねっていわれたと教えてくれて、時代は確実に新しくなっていると思ったんですよ。

血に頼らない、いってみれば自覚的愛情こそが尊いっていう認識は、社会の成熟の尺度のひとつだと思うんですよね。これを広げると、里親、里子とか、養子、養女とか、さらには高齢者介護とか、いろんな関係まで広がっていくのね」

「お父さんが二人いる、お母さんが二人いる、運がいいよっていう話て、ものは考え方ひとつなんだと思いましたね」と岸田さん。

「私の働く友人なんかでも、産む大変さを思うと、子づれの人との再婚がいいなんて、そんな過激な人もいて、おもしろいと思うのね。妻の連れ子を”既製品”っていいもんですよっていった父さんもいるし。”なさぬ仲”っていうものを不幸の象徴でとらえる時代は終わったということですよ。再婚時代のニュー・ファミリーが生まれている」

「といっても、偏見は簡単には消えないでしょう。まだまだ悩んでいる人たちもいると思う」
「だからそういう家庭をサポートするしくみ、これが必要なのね。社会的にルールをつくっていくこととか」

 夫婦同士ででは相性ぴったりでも、子供はどうか、夫のほうの子供、妻のほうの子供、双方の子供同士、加えて男の子、女の子の性の問題、再婚が悩みとして語られるのは、子供のことだ。再婚が市民権を得ていくうえで、越えねばならないハードルである。

「岸田さんが再婚しないのも、お子さんのことがあったと思うのね。再婚は夫婦の問題だけでは語りきれないものがあるものね」

「これが、うんと小さいとか、もうすっかり大きくなっているとかだと、同じ子供でも違うんでしょうけど」

「思春期っていうのは、ただでさえ難しい時期だから」
 だがしかし、子育ての時期というのは、大体が一五年か二〇年、そのあとの膨大な時間をどうすごすのか。その問題に今、私たちは直面している。高原さんのように余暇を一緒に過ごす人が欲しいと思う人が現れる時代だ。

 親子は、育てる人と育てられる人だけの関係だけでなく、育てた人と育ちあがった人との人間関係として再登場してきている。そのなかで、子供は子供、親は親、それぞれの生活を生きるという、新しい親子観が生まれきていると思う。友人化した親子ともいうべき、成人した子供との関係の調整。

 そのなかで、子供は土俵の外に置いて、もう一度、人生をやり直すという人が現れた、それが老婚といわれているものだ。

 そして、この老婚につきものの遺産問題ね、変化が始まっている。
「親子観が変わってきたっていうことは、老後の再婚の遺産問題にも影響を会えると思ったわ。児島俊二さんって通う婚の人なんかは、いずれ籍をちゃんとして、財産はすべて奥さんに残すって。親子より夫婦、自分を幸せにしてくれる人に財産は残すって、はっきりとね」

 これからの子供は、親の金は親に属すると、徹底的に思わねばならないのかもしれない。だがそれも一概に断言できなくって、親が騙されたり、言いなりにされることだってある。欲がらみではなくて、純粋な愛情で、親の金を管理しなければならないこともあるだろけど。

「いろんな問題があるにしろ、世の中は親子より夫婦へと動いていて、遺産も”人生晩年への貢献”に力点が移ってきているような気がしましたよ、もちろんこれもケースバイケースだかから一概には言えないけれど。若いうちからの貢献だけでは、片付かない時代になっているんですね。これは、女にとっては厳しいことですよ。よくよく議論しないと」

 もし社会的にコンセントが”晩年貢献”に傾くとしたら、有責配偶者からの離婚が認められるようになった現在、財産分与や慰謝料問題もはっきりさせる必要性がある。また、貢献もなしに遺産だけ受け取る男(あるいは女)への制裁というものもはっきりさせないと、老・再婚はこわい。

 再婚は、遺産問題の難しさもあるけれど、もうひとつ長寿化による親の存在も浮き彫りにしている。”子はかすが”から”親はかすがい”、”子づれ再婚”から”親づれ、あるいは、姑づれ再婚”、”子供の反対”から”親の反対”そして”孫の面接交渉権”。あるいは、前の夫の親の介護のために、再婚できない女。そして、前の嫁とあれこれ比較する姑。口出しする前妻の実家。

 また、籍の問題も、離婚したあと夫の姓を名乗れるというだけでは、再婚の場合、新しい難問に直面することになる。夫婦別姓議論は、再婚の視点から見たときも、重要なのだと改めて気が付いた。

子供を改姓によって混乱させたくないという母の願いは、前夫の姓を名乗れるというだけでは解決つかない。姓に限らず、離婚後の生活を守るためのものが、再婚には有効でなくなる場合もあるということも、今後の課題だと思う。再婚新時代というのは、また改めていろんなことを考え直す時代ということなのだろう。

「そしてまた再婚と老後の介護問題ね。晩年貢献のなかには、介護って大きいと思うの」
 おやじのシモの世話をする女、そんな目で再婚を見られたらかなわないし、妻が先に倒れたり痴呆性老人になったりする可能性だってある。

そのとき、なさぬ仲の人たちはどう関わり、それに対してどう報いるのか、このあたりのガイドラインも、決めておく必要があるのだろう。病気中の介護分担や、経済的負担、遺産配分、これら難しい問題を老・再婚は隠し持っている。

 こうした病気中の問題に加えて、どちらか一人が残った時にどうするのか、多くの場合は女が残される。この一人取り残される女の老いの問題は、今すべての女の関心事だが、再婚の女とて例外でない。

一人になった時、夫の前妻の子供たちとどう付き合うのか、何かあった時、どういう内容のものをどの範囲で連絡するのか、これもケース・バイ・ケースだろうけど、考えておかなければならないことだ。

前の女房の実家とどう切れるか、という問題は、夫が亡くなった時点で、夫の子とどのように切れるのか、切れないのかの問題につながってくる。

 私はときどき考える。大川さんの「後妻なんて一度でたくさんですよ」という言葉だ。再婚そのものはすばらしい思い出だった、だが二度とはしたくない。その結果の一人暮らし。彼女は意志的な人だから、夫の前妻の子供に頼ろうなんて夢にも考えていない。そんなことは自尊心が許さない。

 中年期以降の再婚は、孤独から解放されていい思い出を残す。つまり、”生き方を残す結婚”ではあるけれど、また再び一人になる日を覚悟しておく必要がある。一度だけでたくさんという彼女の言葉は、その決意を呼びかけているように聞こえる。だからこそ、再婚している間は、これぞ人生の至福と言えるものを持つ必要もある。ということだろうか。

「何だか私一人で喋ってしまったけど、大谷さんと山野さん、再婚者代表というわけではないけど、再婚って何だ? ひとことずついってみてくださる?」

「そうですねえ」
 二人は小首をかしげて、まず大谷さんがいった。
「自分の気持ちに正直に生きるってことかしら」
「愛情を頼りに生きるってことでしょうか」
「一応の結論が出たみたい。私、おもしろいなと思ったんだけど、さっき感謝と寛大っていったでしょ。再婚を考えてると、このKで始まる言葉って、多いのね。感謝、寛大、緊張、決意、覚悟、感動、幸福、可能性、組み合わせ、片道切符、掛け違いボタン、通い妻、場合によっては悔恨、後悔、危険、賭け。経済と家事の二Kになるのかしら」
「一九K。まだまだあると思いますよ」

「とにかく、三六計には及ばないけれど、Kのつくのが再婚のキーワードかしらね。ということで、ぼちぼちかえることにしょうか」

 再婚に、特別の物語があるのかどうか。

 すべての幸せな結婚が平凡であるように、幸せな再婚も平凡であったように思う。私はその平和なドラマを喜びをもって受けとめた。別れの衝撃のあとに訪れた小波の水平線。その波間から聞こえて来たものは、そのさまざまなリズムの一つひとつに、幸せになろうねという願いが込められている。自分に正直に、愛情をもって、人生のパートナーとして。

 外に出ると、師走の風が凛(りん)として寒気を呼び寄せていた。

 山野さんがカメラを持って来て、記念写真を撮りましょうという。大谷さんが二人連れの男性に声をかけた。シャッターを押してくれませんか。その連れの男性も加わって六人が、はいチーズ。念のためにもう一枚。

「そちらの方も入ってくださって、もう一枚お願いします」
 誰かが、あっちのほうがハンサムよと囁く。笑い転げる女たち。

 冷たい風を頬に向けて振り向いたとき、クリスマスのイルミネーションが一瞬、輝きを増したように見えた。
 深い闇に背に、冬風をうけて、いっそうきらめいて――。

エピローグ

はめるボタンが歪んでしまったら、
どうしたらいいのだろうか。
情熱は
永遠に続くものではないと知ったとき、
どうやって自分の心に折り合いをつけるのだろうか。
人は絶対に、
自分に合う人にめぐりあうというけれど…‥。

しかし確実に、再婚は新しい時代を
迎えている。

 あとがき

 私はこれまで、市井にくらす女たちの呟きを拾いあげる仕事をしてきました。結婚生活に悩む女たち、職業をもった女たち、転勤族の妻たち、高齢期を生きる女たちなどなど、私たちのまわりで、声を上げることもなく生きている人々のつつましい物語です。今回の作品もその延長線上にあります。

再婚というかたちで、人生を仕切り直した女や男たちは、どう生きてきて、どう生きようとしているのだろう。その生活と精神に触れようとしたものです。

 本文のなかでも書きましたが、その理由もさまざまですが、其処には紛れもなく人生への信頼と賛歌がありありました。もちろん幸福な再婚ばかりではないのですが、いかなる結果であれ、人は愛を求めて生きるものなのだと、教えられました。ふたたび、愛が始まるとき、人々は人生を確信するようです。

 私がこのテーマに大変魅力を感じたのは、私自身が離婚による再婚の両親をもっていることも関係しています。再婚にいささかとも肩入れしているとしたら、この私の生まれ方の影響、再婚への偏見に苦悩して生きた母と父への愛情の結果だと思います。

 再婚に対する意識や世間の目も、この半世紀ずいぶんと変わったように思います。夫婦生活六〇年時代は、若き日の決断を一生背負っていくことを難しくしました。結婚の意味や夫婦の向き合い方が、現代ほど問われている時代はないと思います。この本は、女と男がいい関係で生きあっていく結婚の姿というものを、再婚というキーワードから考えてみようとしたものであります。
 一九九一年四月、桜満開の日に。 沖藤 典子