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第十一 めぐりあいて、人生のとき

本表紙 沖藤典子 著

めぐりあいて、人生のとき

 橋池広・松子(仮名、八〇歳・七五歳)夫妻を訪ねたのは、師走の半ばのころだった。
その日私は、約束の場所に一五分も遅れた。息せき切ってJRの改札口を抜けたとき、ダークグレーのダウンジャケットを着た小柄で太めの人が、沖藤さんですかと、声をかけてくれた。少しなまりがあり、朴とつな印象を与える人だった。

「すいません、この線に乗ったことがないもので、時間を計り間違えてしまって」
「いえ、ぼくも今来たところです」
「お寒いなか、お待たせしてしまって」

 冷たい風の吹く日だった。こんな日に八〇歳の人を待たすなんて、しかもお願いしている立場の者が遅れるとは。

 時間を計り間違えたこともあったが、出かけにぐずぐずしていたことも事実だった。どの取材も事前の情報は乏しかったが、この二人についても、老婚してほくほく幸せに暮らしているおじいさんと、おばあさん、そんな程度のものであったのである。Iさんもいったものだ。
「あんまり参考にならないかもしれませんよ。無駄足だったら悪いですねえ」

 でもあ、せっかく無限の会で紹介してくれたんだし、高齢の方の再婚の話もあって悪くはないし、いくだけいってみよう、そんなしぶしぶの思いが、朝の行動力欠如となった。

 ところが橋池さんに会ってみると、その楽しさ、ユーモラス、そして話の衝撃は、どの再婚もドラマであり感動であったけれど、また別の強烈なものがあった。

誰もが長寿迎える時代の結婚の意味について、これほど人生を深く考えさせられるとは、私はテープレコーダーを忘れたときのように、帰りのバスを乗り間違えて、とんでもない方向にいってしまったのだった。

 バスが来ると橋池さんは、回数券をボックスに入れながら運転手さんにいった。
「すいませんがこの人を、○○中学校の前で降ろしてください」
「あの橋池さんは?」
「ぼくはオートバイで追っかけます」
「え?」
 驚いた。八〇歳の人が、オートバイでバスを追っかける。まあ、これは驚いた。八〇歳のオートバイとは、これが第一の衝撃だった。

 動き出したバスの中から外を見ていると、橋池さんはヘルメットをかぶって小型のオートバイにまたがり、たちまちバスを追い抜いていく。あとで、七五ccと聞いた。

 案内された家は、高層賃貸住宅の九階だった。小さなダイニングキッチンに続く六畳の和室、もう一つ和室があるらしかった。玄関には大きな金魚鉢があって、たくさんの金魚がきれいな水中で泳いでいる。鉢をいつもきれいにしておくのは、手間がかかる。

わが夫も金魚が好きで、一時期は何種類も飼っていたことがあるが、最近は二匹だけになってしまった。金魚好きな人には、一種独特の孤独があると思う。私はいつも夫を冷かしている。金魚はパパの最高の親友だと。

「今朝お部屋の模様替えをしたんですのよ。タンスを動かしたりして、バタバタしてましたの。さ、おかけになって」

 楽し気な歌うような声で、夫人が案内してくれる。ブルーのざっくり編んだセーターに、うっすらとお化粧をして、香水の香りが漂っている。七五歳の新妻は、いそいそと迎えてくれた。ゆったりとした身のこなし。

「お父さんはね」
 おとーさんと、との音を少し延ばして発音する。聞く耳のせいか、そこに何か甘美なものが込められている。

「お父さんはマメな人で、換気扇のお掃除までしてくださって」
 何という丁寧な言い方。やっぱり昔の人だ。
「何だか忙しい思いをさせてしまって」
 内心二度目の驚きだった。

 橋池さんは、月曜日から土曜日までビルの管理人をしている。イメージとしては老体に鞭打ってとするものがあるのだが、なんと朝からタンスを動かし、換気扇の掃除をし、私を迎えに駅までオートバイを走らせた。すごい体力だ。耳も遠くないし、言語
明瞭、夫妻ともに身のこなしが軽い。

「コーヒーをいれましょう。ぼくは絶対にインスタントコーヒーなんて飲まない主義でね」
 私のように介護問題をやっていると、すぐ寝たきり老人や痴呆性老人を思い出してしまうが、かくも頑健な人もいるもんだ。高齢期における個人差の大きさを改めて思う。ここには壮年となんら変わらない生活をしている人がいる。

「コーヒーをいれるのは、お父さんの仕事なんですのよ」
 彼は都庁を退職した後、コーヒー店を経営していたことがある。どうりで、フィルターを折る手つきといい、カップを扱う指の動きといいプロのものだ。そして夫人もまた、都庁に二〇年勤めていた。その二人が、無限の会で知り合った。いってみれば。職場の元同僚、現役時代は出会こともなかったのに、不思議な運命の二人だ。

「でもその頃知り合ったとしても、こうなっていたかどうか、それはわかりませんわね。この人奥さんが居たんですし」
「じゃ、奥様が亡くなられて」
「いえ、離婚しました」

「離婚‥‥。おいくつのときですか」
「ええっと。七二かな」
「え? 七二歳、七二歳で離婚なさったんですか」
「結婚したのが二七だから、四五年ね。それを清算したんです」
「まあ」

 驚きの第三波。四五年間の結婚生活を、七二歳で解消。四五年、約一万五四〇〇日、破り捨てられた日めくりカレンダーはどのくらいの厚さになっているのだろう。私はメモを取るのを忘れた。

 高原誠さんに会ったときもショックだったが、何とまあ、上には上が居るものだろう。四五年間の結婚生活を、七二歳で解消したとは。結婚というのは、何年続いたから大丈夫という、そんな目安なんてないものなのだ、結婚四〇年がルビー婚式、五〇年が金婚式。ルビーと金の間で、彼は別れた。

 人生を八〇年時代というのは、こういうことが起こる時代だということか。もしこれが人生を五〇年時代なら、合法的離婚ともいうべき形で、円満にあの世にいったものを。高齢化社会は、離婚をも高齢化させた。

「結婚四五年も経って、何が起こったんでしょうか」
「宗教。新興宗教ですよ。ぼくは宗教なんて大嫌いだから」
「宗教‥‥。何教ですか」
「それは勘弁してくださいよ。差しさわりがあるといけないから。ぼくが怒るもんだから、止めました、止めました、っていいながら隠れてやっていたんですよ。だけど、根はね、もっと古いところにあるのよ、古い話がね」

 明治四四年生まれの男は二七歳で結婚して、その三五日目には兵隊に取られた。あの、二・二六事件のあった翌年だった。捕虜生活二年も含めて一〇年の兵役から帰って来たとき、妻は産褥の床にあった。まさに死の戦場から生還した男にとって、それはあまりにもむごい光景だった。

「あの女も戦争の犠牲者ですよ」

 新婚三五日にして別れた夫、敗戦と同時に行方不明となった夫、そして突然帰って来た夫。そのとき妻の胸には生まれたばかりの赤ん坊が‥‥。

「長い間ご苦労さん、お帰りなさいというのが普通でしょう。それがいえないんだから」
 戦争は、こうした悲劇の種をまいていった。戦後多く語られた悲しい話の一つが。ここにもあった。

「当然別れようと思って田舎に帰りましたよ。だけど相手の親や親戚が何度もきて、手をついて謝るでしょう。情にほだされたんだね。ぼくも」

 このとき、さまざまな事情が彼のほうにもあった。何度か話し合いがもたれ、最後に出した結論は、彼が橋池家の婿養子になって、一からやり直すということだった。赤ん坊は養子に出された。新たに、三人の娘が生まれた。

 しかし、一度まかれた不穏の種は、死滅したわけではなかった。地中深く、ぶくぶくと異形の芽を肥えさせていたのである。ぎくしゃくした夫婦、波風の絶えない家庭。

 昭和二二年のこのときに、別れようという決心はついていたと彼は語った。だけど、子供も生まれたし、ぼくが目をつぶっていればまあいいだろう。世間体もある、今さら
別れても‥‥。だけど許そうとして許せない、その葛藤のなかでやけっぱちになった。

 家庭なんか。麻雀と酒、妻は新興宗教に。それがまた夫婦の溝をおし広げ、切り裂き、漆黒のもので塗り固めていく。

「今考えてみれば、あの女も可哀そうな女ですよ」
…‥あの女、二度も出て来たこの言葉には、彼の万感の思いがこもっている。
 祖国の妻を守ろうとして戦場に出かけ、辛酸をなめた結果、その妻に裏切られた。裏切った妻も悲しい。裏切られた男も悲しい。

宗教に救いを求め妻もどんなに切なかっただろう。宗教は彼女にとって、生きることそのものを支え、日々の慰めと励ましを与えるただ一つの、大きな柱であったろう。その柱に縋っていた彼女は、どんな祈りを捧げたことだろう。しかし夫は、祈ることを認めなかった。

 四五年近く経って、やめたと誓ったはずの宗教の印をタンスの奥に発見したとき、ついに地中の種が破裂した。三人の娘とその娘の夫、老夫婦二人、計八人で話し合った末、妻は離婚届に印鑑を押した。

「初めは別れるのは嫌だといってましたけど、ハンコを押してくれといいましたら、すぐ押しましたね」

 定年退職後に始めた。コーヒー専門店の権利書、貯蓄全部渡して、冷蔵庫とテレビと布団二組と身の回り物を持って、家を出た、このとき、今更旧姓に戻るのもと、そのまま橋池を名乗ることに決めたのだった。

「結局、みんな戦争の犠牲者ですよね」
 夫人が、ふうっと溜息をつきながらいった。
 いつの間にかテーブルの上には、緑茶とお菓子。?いた柿が並べられてある。

 ここにも姓の問題が出てくる。二人は婚姻届を出して五年余りになるが、彼女が橋池の姓を名乗ることにした。ぼくが養子に入ってもいいといったんですよ彼はいい、彼女は嫌ですよそんなこと、といったけれど、何で私があなたの別れた女房の姓を名乗らなきゃいけないの? 

といっても不思議ではない話なのだ。ちょうど男が、何でオレがあんたの別れた亭主の姓を名乗らなきゃいけないんだ? というように。

「いいえ、わたしは、そんなこと、ちっとも気になりませんのよ。今が幸せであればいいんですの」

 夫人は、ふっくらとした顔でおうように笑ったけど。
 そして彼女の物語が始まった。これが第四の衝撃だった。

「最初の結婚のときのことですけど、夜中にふっと目がさめたら、姑が部屋に入ってきて、上からの見下ろしているんですのよ」

「えっ。そんな」
「暑いからあなた方寝冷えしてはいけないと思って、なんて言うんですのね」

 ああ、ここにも出て来た。これまで何度、こういう話を聞かされことだろう。夜中に出刃包丁を持って廊下に立っていた姑。朝起きると必ず襖が一〇センチ開いていたという話。深夜になると聞こえてくる包丁を研ぐ音、すべて女の浅ましさとして語られているけれど、ここにはいみじくも山野桂子さんがいっていたような、

身のとろける、魂の救いとなる愛の世界を、つい知らずに老いた女の怨念がある。男を愛することも、男に愛されることもなかった女が、息子を奪い、その愛に身を任せている若い女を憎んで、何の不思議があろう。

 夫は帝大卒の高等官、当時は台北に住んでいた。裕福な家庭の若奥様としてかしずかれながら、しかし、心の中に砂漠が広がっていく。やがて娘が生まれたが、心労のあまり身体を壊してしまう。戦争もたけなわとなり、子供と共に帰国した。そして敗戦。夫の引き揚げ。そこで見たのは、あまり無様なインテリ男の無責任だった。

「この人も数奇な運命の人でね。いくら帝大出た高等官だっていったって、女房・子供を守れない奴なんて、男のクズだっていうんですよ」

 今の言葉でいうなら、偏差値っ子のマザコン夫ということになる。離婚。離婚といっても足入れ婚で、婚姻届は出してもらっていなかった。

「敗戦後のどさくさでございましょ。娘は小学校に上がっていたんですけど、向こうの家の方が立派に育てもらえると思って、渡しましたの。泣いて泣いて尼になろうと思いました、わたくし。でも尼になったら北海道の修道院に入れられると聞いて、そしたら子供に会えない、とにかく働こうと思って、それから都庁に入りましたの。都庁には二〇年間いましたのよ」

 四三歳のときに、二〇歳年上の人と再婚したが、六一歳のときに死別した。この結婚も内縁だった。

「だから、七〇歳でお父さんと婚姻届を出したとき、わたし初婚でしたの、おかしいでしょ」
 七〇歳の花嫁。七〇歳の初婚。女にとつて桎梏(しっこく)であったイエ制度も、ときには粋な計らいをしてくれるようだ。

 不幸にしか生きられなかった女が、次の世代の女を不幸を押しつけた陰惨な物語。これがつい五〇年前までの日本の女の姿だ。

 悲しい物語が終わったときは、新しい物語の始まりだった。同じ職場に居ながら別々に生きてきた二人が、無限の会で出会った。
 彼も彼女もまたそれを、運命的出会いであったと語った。

「別れて、さて、一人になってみると、これが淋しくてね。苦しみましたよ。行きつけのスナックに、それこそ雨が降ろうと槍が降ろうと、毎晩行かなかい時ってなかったですね。この人に会うまでの三年の間に五百万円くらい使ったかな」

「身体、壊したんじゃないですか」
「身体は壊しませんよ。だけどふところを懐しちゃって。これから先のこと、いろいろ考えてくよくよするんだよね。それから思うと今は平和だなあ。たまに喧嘩でもしないとね」

 彼は友人に教えられて、それじゃ行ってみようかと無限の会に入り、彼女は娘にこういうのがあると教えられた。泣きながら手放した娘ももう五〇歳、幼いころ別れた母の味方となってくれている。二人の過去を聞くとき、これが唯一救いのある話だった。

「やっぱり年でございましょ。私も胃潰瘍やったり肩が痛くなったりで、このままでいたら娘に苦労を掛けると思っていましたの。そしたらお母さん、こういうのがあるのよって教えてくれて。ちょうどテレビなんかでも、年取った人の結婚っていうことが話題になっていて、わたくし、よし、この波に乗ってみようと思って、どうしてもこれは結婚しなくちゃと思ってましたの」

 なんというたくましさ。自信。積極性。七〇になんなんとする女が、どうしても結婚しなくちゃと思ったというそこのところが、じつに正直でさわやかだ。彼女の場合、孫はいないけど、普通なら孫かひ孫かの自慢話に明け暮れてもおかしくないし、また日本の婦徳というものも、可能性を諦めるように教えて来た。女も男も変わりつつある、その証言者として夫人は登場してきた。第五の衝撃だ。

 彼女の場合、しっかりとした年金の受給権をとって退職している。生活には困らない。だけど、娘に苦労を掛けたくない、その母の一念もまた高齢化社会の新しい女性像だ。娘に頼ってすがりつく母もいる一方で、自立をめざす母もいる。母もいろいろなんだなだと思う。

「無限の会で知り合ったら、都庁にお勤めしていたっていうでしょ。すっかり信用しましたの。それとね」

 彼女は、彼への信頼を決定的にした喫茶店事件を話してくれた。
 お父さんと、また会いましょうねと日時を約束した店が、二度目にいったら分からない。時間で看板を出すお店だったのかしら、どんなお店だったかしら、おろおろして探しまわりましてね。

頭はボーッとしてくるし、胸はドキドキするし、その界隈かけ廻ってみたけれど分かりませんの。約束の時間はどんどん過ぎて、もう三〇分も遅れてしまって、ああ、これは、ご縁がなかったんだなと思いましたのよ‥‥。

 もう帰ろうと思って、ひょっと振り向くと、なんとそこにお父さんが立っていた。ごめんなさい、お店が分からなくてといった彼女に「ぼくも今来たんですよ」と彼は言った。問題の喫茶店は二階にあって、彼は彼で三〇分待って、来ないならあきらめようと出て来たところだった。

「なんて心の広い人かと思いましたのよ。都庁の信用が半分、このときが半分、でしたわね。本当にタッチの差ですもの。どっちかが一秒ずれたって、会わなかったと思いますわよ」

 ぼくも今来たところです、これは私も駅の改札口でいわれた言葉だ。よくよく女に待たされる運命の人だともいえるけれど、恐縮しきっている相手に負担を掛けまいとする優しさ。私は感じたことを彼女も感じた。そのうえ、タッチの差、ここにも二人は運命を感じた。若者のようなときめきの世界。

 頻?なデート。一日おきに二人は会ったという。三ヶ月ぐらいしてから、いや違う。五カ月だよ、とにかくこのくらいの期間ののち、結婚の意志が固まった。

「なんてプロポーズしたんですか」
「うん、まあねえ、いったん結婚した以上は、やり直しがきかないよって。そんなふうに言ったような気がしますね」

「それでね、もし結婚を嫌っていったら、ぼく死ぬかもしれないよって」
「それはね、ぼくがいわれたんだよ」
「あらやだ。男の人がいうに決まっているじゃありませんか」

「結婚しなかったらこの人死ぬって言うから、死なれたら困るし、ぼくはいやいやながらね」
「そう言うことにしておきましょ。わたくし、きっと、お父さんじゃなきゃ嫌だあっていったんだわ」

 夫人は身をよじるようにして笑い転げた。笑い声が部屋中に響いて、色とりどりの手毬のような幸福感が空間を飛び交う。

「おっしゃいますわね」
 人生も晩年になって、こんな艶っぽい笑いがあるなんて。生きるってまんざらじゃないな。
「ぼくはあなたの青い鳥だって言ったんですのよ。青い鳥だって」
「もうねえ、この年になると、記憶力がねえ」
「都合の悪いときは、オレ、ボケてきたって」
「ほれ、老人性痴呆っていうんじゃないの。まあ、適当に書いておいてくださいよ」

「いえ、正直書きます。それにしても、心の底から信頼し合われたんですね」
「お父さんもね、苦労した女だ、守ってやろうと思ってくださったんじゃないですか。ただやっぱりね、若い人と違うから、世間の人たちはもしのことがあったとき、そんなこと初めから分かっているんじゃないの、いい年してほら見ろって笑うんだから、やり直しはきかないよって」

「ほれ『人』っていう字は、こうやって支え合うじゃないの」
 テーブルにあった箸立てから、割り箸を二本とりだして彼は字を作った。ぼくがこっち側の支えてるほう、お母さんがこっちのもたれかかっているほう。あらやだ、お父さんがこっち側じゃないの。いやいやこっちがぼくさ。二人は賑やかに乱戦を繰り広げる。

 森幹朗著『老婚へのみち』(ミネルヴァ書房)で紹介している高齢者の配偶関係別生命表(昭和六〇年)によれば、だいたいの傾向として、男女とも配偶者のいる者のほうが平均余命は長い。

この傾向は、男よりも女がいっそう顕著である。そして日本は老人の自殺率の非常に高い国だが、一人暮らしの男の老人の自殺率が異常に高い。配偶者のいる老人の自殺率は男女ともに極めて低い。

 夫婦って不思議なものだ。こんなに賑やかで楽しい夫婦ならいざ知らず、結婚五〇年、六〇年となって、冷え切っている夫婦も多いだろうに、そうであっても、一緒に入る方が長生きだとは。とくに、配偶者のいる女の平均寿命の長いことが驚きだ。

夫より先に死ねない、この人を送ってからと緊張していきているというのだろうか。そこに繰り広げられている生活の質というか、命の質というか、そういうものを考えてみると、そうやって命を長らえるのも、どういうものだろう。

夫が亡くなった後、急に生き生きと元気になるおばあさんというのは、あれは嘘なのか。私の夫の母親も、未亡人になってから張り切り始めたけど、あれから元気なのかなあ。

 老後どうやったら、楽しい夫婦でいられるのか、これは中年の女にとって最大の関心である。

 子供巣立ったあと、この人とまだあと二〇年か三〇年一緒に生きるのか、と思ったとたんにウツ病になってしまう女もいる。女はたいていが、夫に恨みがましい思いを持って生きているというけれど、それでも一緒にいるほうが命が長いとは。

 老夫婦が軽口叩き合いながら、じゃれ合って生きるためには、相手を替える必要があるということなのだろうか。命の質を守るための老・再婚?

 さっき夫人は、老人の結婚がブームになった、この波に乗ろうと思ったと語った。確かに老人の結婚は市民権を得つつあるとはいえ、統計上は必ずしも増えているわけではない。

『老婚のみち』から、昭和五二年の六〇歳以上の再婚者を見ると、男は二五一七人、女は五二七人であった。一方、平成元年の六〇歳以上の再婚者は男三一六九人、女五六一人、人数だけ見れば、この一二年間に男は一・二六倍、女は一・〇六倍に増えた。しかしこの間、老人の数は増えつつある。

高齢化比率の年齢区分が六五歳以上になっているので正確な比較はできないが、ごく大まかにいって、この間、男は一・三倍、女は一・四倍に増えた。ということは、再婚の伸びは、人口の伸びを下回っている。

統計上は老・再婚はちっとも増えていない。とくに女は増えていない。年とつてからまで二度のお勤めなんて御免だわ。冗談じゃないわ、残された日々、生き生き自由を楽しむわ。ここには、年金などで自活能力のある女性が増えたとう背景もあるだろう。

そしてまた、遺産問題などでの子供の反対で、正式に届け出ていない事実婚が多いということもある。老・再婚が増えているとしたら、”老いの同棲”なのかもしれない。

 ところが、再婚の内容は変わったのである。死別か離別かでみると、昭和五二年当時男は死別が六一パーセントであった。女は三五パーセント。男は死別による老・再婚、女は離別よる老・再婚、これが主流だった。

 しころが、平成元年になると、男は死別四〇パーセント、離別六〇パーセント、女は死別一二パーセント、離別八八パーセント、共に離別が主流になった。一二年前から女は離別による再婚が多かったとはいえ、現在では圧倒的多数派を占めるに至った。男もなかなかの健闘だ。六割が離婚者になったのである。老いの再婚もまた離別によるものだ。

 老後の命の質を守るためには、相手あの世に行くまで待てない、こういう時代になったのだろうか。老いたればこそ愛が欲しい、さよならあなた、さよなら君。お互い別の人と、再び愛を始めよう。
 厳しい時代――
 すばらしい時代――
 どちらとも考えられる。中年期を過ぎたら、女も男も離婚を覚悟して生きる。そのことは女と男の関係、とくに家庭内での夫婦のありようを再構築するのに、特効薬となるかもしれない。

 ただひとつ問題なのは、男は中年期過ぎても恋愛のチャンスはあるのに、女にはなかなかないことだ。無限の会でみたように、男は若い女を求め、年取った女が多いとがっかりする。

 だけど時代は”夫初婚・妻再婚”に向かっている。年上の妻の目尻のシワが美しさに感動する男性も現れた。そういえば、この話をある席上でしたとき、中年の男たちは言ったものだ、
「最近は男もだらしなくなったねえ」
 こういう発想しかできない男も、現実にいる。
 老・再婚は、老人人口の増加という点や、統計上の比率からみれば必ずしも増えているとは言い難いが、しかしその件数は着々と増え、大都市生活者が増えた結果、アパートを変えれば、偏見の目をそこまでは追ってこない。何よりも高齢者の恋愛について、許容的になっている。

 橋池夫妻も、再婚と同時にこの賃貸アパートに移ってきた。どこに行くのも二人一緒、近所ではおしどり夫婦と言われているそうだ。春一週間、秋一週間の旅行。月給日には二人でカラオケへ。剣道三段の夫とお琴を弾くのが好きな妻。

「結婚してからの波風っていうのは、やっぱりあったと思うのですが」
「そりゃありましたわよ。なかったら嘘ですもの。山あり谷ありですよね。ねっお父さん」
「たんなる口喧嘩さ」
「この人絶対に暴力は振るいませんの。それはありがたいですね。わたくし、暴力は嫌ですもの」
「ぼくの我儘が多いのですよ」
「そんなことはありませんよ」
「この人の作ったお料理、手を付けないことがあるんですよね。嫌いなものだと」
「好き嫌いないっていったのに」
「いや、あの頃はなかったんだよ」
「まあっ、お父さんたら」
 また大笑いになる。

「日曜日祝日には会社が休みだから、私がお料理をつくっていますよ。私の方が上手だね。家庭サービス。奥様どうぞ、お食事できましたよ、とは言わないけど」

 あまりおかしくって椅子から転げ落ちそうになる、爆笑に爆笑。
 このあと橋池さんのオートバイの免許証を見せてもらった。そのときのことだ。ふと見ると写真が違う、若いソース顔のハンサムな男の写真。

「あ、これ? お巡りさんからかい用。こうすればぼくの顔」
 ケースから引き抜くと自分の写真。ケースの上に別の男の写真を貼ってある。

「前は若い女性の写真貼ってあったんだけど、この人妬いて酷いんだよ」
「あら、妬くのはお父さんじゃありませんか」
 こんな楽しい人が…‥。ふと前の家庭はどうだったんだろうと思う。いさかいが絶えなかった毎日と聞いたが、その中にこんな笑いがあったのだろうか。この気を許し合う笑いは、いさかいとはあまりに異質なものだ。

 人は歳を取ると、だんだん自分に似てくると聞くけれど、人を笑わせることの好きな男は、相手が変わったことによって、自分に似るための所を得たのだろうか。

 夏目漱石は『それから』(新潮文庫)の中で書いた。
『誠実だろうが、熱心だろうが、自分の出来合の奴を胸に蓄わえているんじゃなくて、石と鉄が触れて火花が出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人の間に起こるべき現象である。自分の有する性質と言うよりは寧(むし)ろ精神の交換作用である。だから愛が悪くっては起こり様がない』

 誠実も熱心も相手次第。そしてユーモアも、鼓を打ち鳴らすような女と男。相手によってこちらが変わるのか、相手を変えるのか、漱石は相手次第だというけれど‥‥。

 茶目っ気たっぷりの、愉快な人は、再婚によって変わったのか、それとも、もともとこういう人だったのか、それはやっぱり分からない。でもとにかくこういう人が四五年間の、ルビー婚式と金婚式との間で離婚したというのは、ショックなのである。第六の衝撃。

 ただひとつだけ、私にも分かったことがある。それは、彼がこの生活を楽しんでいるということだ。

 こぢんまりしたアパートで、質素な家具に囲まれて、小さなお鍋の並ぶ台所で、小さなテーブルで、ゆったりとコーヒーを飲みながら、赤と黒のシマ模様のウール・シャツを粋に着込んで、饒舌な時間を楽しんでいる。

 そして夫人もまた、ここで安心を得たという。小舟がたどりついた港。生活の詳細は分からないが、助け合い励まし合って、命を守り合っている。新しい老いの姿。新しいパートナー・シップ。

 聞きたくてうずうずする質問がある。だけどそれはあまりにも好奇心が強くて、いやらしい質問だ、だも、ついに、
「あのう、お風呂とかご一緒に?」
「うちの風呂は小さくてね、二人一緒に入れたら壊れてしまうよ」
「ホテルに行った時なんかはね、二人でね」
「この人も健康、ぼくも健康、夜のことは想像して書いてくださいよ」
「夫婦ですもの、足と足を温め合うとか、風邪をひいているんじゃないかしらとか、スキンシップは大事ですものね」

 再婚によって得たもの、それはかなり大きなものがあるらしい。
 だが失ったものもあった。父として、親父としての存在。

「こちらの子供たちとはまだ会っていないんですのよ。私の娘にはあってもらっていますけど。いつかね、会うこともあるでしょうから、そのとき『ごめんなさい、お父さんに申し訳ないことをしました』っていうことのないようにと思ってますのよ。『お父さんをどうもありがとう』っていってもらいたいですものね」

「ぼくにもプライドがあって。向こうは結婚したことを知っているかもしれませんけど、前の子供のところにいったりすると、うまくいってないんじゃないかとか、未練があるんじゃないかとか、疑われたりするのがいやでね。痛くない腹を探られたくないから」

 娘の一人に駅でばったり会ったことがあった。そのときは食事をした。その程度の付き合い。孫は六人いる。

 考えさせられるのは、妻のほうの娘とはつき合いがありながら、彼のほうの娘とは、積極的なかかわりがないということだ。これも彼の現在を大切にしようという心意気なのかもしれない。この妻が大切だからという、男の優しさ。

 身体の具合が悪くなったり、事故に遭ったときは知らせてくれと、免許証に連絡先を入れてある。いつか会う日のために準備はしてある。いつの日か、再び一人になる日に備えて、児島夫妻にも橋池夫妻にも、老・再婚には厳しい予定稿が必要なのだ。

 その他のことは、すべて暗黙の了解であるらしい。お墓のことも、仏壇のことも。
 ここには、子供に頼らない老後があった。孫に愛情をすり替えない。”夫婦の老後”があった。
 
「夫婦がちゃんと向き合ってちょうだいよ、夫婦がうまくいかないからって、こっちに埋めるものを求めないでちょうだいよ」

 これまで、老いの幸せといわれてきた親子の絆、孫との絆も、それはそれで人の愛の姿である反面、老いた夫婦の嘘を隠すベールでもあった。息子夫婦へのメンツで保っている老夫婦。孫のための老夫婦。高齢期の長く続く夫婦の難しさ。

 この二人にはそのレベルではない。夫婦の間では限りなく妥協しながら(彼は、私が妥協しますと言ったけれど)、世俗に対しては妥協を排した老いの再婚。

 それはいみじくも夫人のいった次のような言葉に要約されていると思う。

「若い人みたいに、いいボーイフレンドができて、おいしいものを食べに行ったり旅行したりするだけの、そういう空っぽけた気持ちじゃ年取ってからの関係はダメですよ。

お父さんにも、死ぬときに過去を振り返って後悔するようであってはならないと言われて、それが私を支えているんですのよ。わたくしも一生懸命生きてきましたし、これからだってそうですわよ」

 一生懸命生きる。すべての人がもつべき命題を、この二人はより純粋な形で、あるいは厳粛な形で、あるいは過酷な形で、そして豊満な愛のなかで解き明かそうとしている。
 これが第七の衝撃であった。

 めぐりあいて、人生の時のときを生きる夫婦。これが、老・再婚の一番理想的な形なのかもしれない、と私は思った。

つづく 第十二 再婚時代 ――女と男の協奏曲――