沖藤典子 著
羽かろき通い路
指定された私鉄駅前で待っていると、白いブラウスにピンクのモヘアのセターを着た人が、小走りに私のところへ近寄ってきた。どこのお嬢さんかと思っていたら、それが永田光子さん(仮名、五十八歳)だった。
「沖藤さん? 児島です」
彼女は夫の”姓”で名乗った。紹介された日から三ヶ月以上経った、木枯らしの吹く日曜日の午後だった。彼女は腕を胸のあたりで重ねて、少し寒そうにかがめていた。
海辺近く、ぎっしり家が立て込んでいるあたりの一軒に案内された。玄関には、この家の主、児島俊二さん(仮名、六二歳)が出迎えてくれた。玄関を入るとすぐ右手に階段があり、そこを上ると二間続きの和室があった。襖を開け切って、カーペットを敷いてある。
置床に大きなフランス人形、それを背にして私はコタツに入った。左手に光子さん、向かい側に俊二さんが座ったが、二人はやや身体をずらせるようにして、向き合う感じになった。取材中、見つめ合いつっ語る二人を眺めなから、話を聞く形になったのである。
白いタートルネックのセーターに黒い上衣を着た児島修二さんは、上背もしっかりあり、姿勢がとてもいい、あとで、若い頃からダンスを習っていると聞いた。きちっと背広を着たら、あの無限の会のなかでも目立つ人だろう。
光子さんも、この年代の人としては中年太りもせず、体形が崩れていない。ハンサムな中年紳士とどこか娘のようなあどけなさを残す淑女、この二人が出会って、週末だけの夫婦を続けている。胸がときめくほど刺激的な話だ。
「無限の会に入ったのは、踊りの会の人の紹介でしてね。最初いったときは歳を取った女の人が多くてびっくりしたし、がっかりもしたね、正直のところ。一年以上いって分かったんだけど、そのときは特別年上の人が多かったみたいで、悪いときにいったよね」
入会の動機と印象について、彼女はこのようにいった。ダンスのことを踊りという美意識を、彼は持っている。一方、彼女のほうは、友人に誘われて入会した。
「君の場合迷ったんだよね、会に入るのに」
「うん、やっぱりね。できればああいう会でなくて、自然に出会えればと思ったんだけど現実にはなかなか出会いもないし。迷いますね、やっぱり。この年になれば、お金目当てとか、いやな話いっぱい聞いていますもの」
「事務局の高橋さんが、迷いの光子さんだって」
「そうねえ…‥」
この二人が初めて話をしたのは、懇親会が終わってからいった鮨屋だった。
「新橋のね」
「新橋の鮨屋。一月十八日だったよね。ちゃんと覚えているよ。歩いて一五分だったね」
「そのときのお互いの印象とか‥‥」
この私の愚問に二人は、ぷっと噴き出し、そして、互いの目を見つめ合った。彼の視線の矢をやわらかく受け止める彼女。大きな声を受けるが細い声。こんな眼差しと言葉のラリーを目の前にして私は、まことに結構な役回りだ。
「正直に言いなさいよ」
「あら、私だけいうの」
「女の人は、勇気がいるのよね、いろいろと。ゆっくり話したのはあのときが初めてだったね。会場にいたときは、ザワザワしていて」
このときが二人にとって決定的な出会いだったようだ。このあと一ヶ月後、二月の雪の降る日に彼女はこの家に訪れた。そして、家のカギを受け取った。
二人とも離婚経験者である。光子さんは三〇年前に見合い結婚したが、その相手は女の身体に触れることのできない男だった。そういえば、私の会社時代の友人にも、それが原因で離婚した人がいたことを思い出す。
「そういう人、案外いるんですね」
「毎晩背中を向けて寝るんですから、泣いて泣いて。今のように婚前のとか、ない時代ですものね。身体も心もボロボロになってね」
半年後にその家を出て、二度と戻らなかった。以来ずっと、母親と二人肩を寄せ合って生きてきた。そしてこの母親が、愛しあっていた母娘であったがゆえに、再婚の大きな壁となったのである。
二一世紀の通い婚、羽かろき恋の通い路と意気込んで出かけた私は、再婚に影を落とす高齢者の存在を知らされたのだった。
離婚後、彼女は外資系の銀行の電話交換手として働いてきた。取材の時、一カ月前に退職したといった。現在、五十八歳であれば、年金改正による女性の六〇歳支給開始の移行措置にも引っかからず、厚生年金の受給資格がすぐ生かされる。三〇年の勤続となれば、生活には困らない額になるはずだ。
「あのとき、正直いうとぼくのこと待っている人がいたの。だけど逃げたんだよね、ぼく。踊りの会にもいいなと思う人いたんだけど、ぼくは子供のいる人は最初から対象外だったのよ。子供で苦労するのはもうコリゴリだってね」
「私もね、子育てなんてやったこともないし、できないわ。もう大きくなって独立しているならともかく、手のかかる子供のいる人はね」
児島さんの前の妻は、下の子が中学二年生に入ったころから働きに出始め、その三年後に家を出た。そのとき長女は高三、長男は高一だった。
「それじゃ、お子様は引き取られて‥‥」
「引き取られたって、向こうは出て行っちゃったんだから。子供のことか、いやになったんじゃないかな。自由が欲しいていう心境だったらしいですね。もちろんそれだけではないけど」
彼は自分自身、二歳のときに母親に出ていかれている。因果はめぐるんですかね、といった。
「子供はある程度大きくなっていたから自分のことはできたけど、反抗されてねえ。思春期だったから、素直に聞かないもの。まいったなあ、あれには。とくに娘がね、父親批判がきつくて。
ことごとにつっかかって、だから子供はもうね。でも今は分かってくれているんじゃないかな。娘ももう三人子供がいるし、大人として一人前だから、理解を示してくれているけど」
妻が出て行ったのは、かれこれ一五年も前になる。父と子供二人の三人暮らしが四年ちかくあって、娘が結婚して家を出た。そのあと父と息子と二人暮らしが四年ほどあって、その息子も独立した。就職先の寮に入ったのである。父は一人になって、この家に七年過ごした。
「そりゃぼくもね、悪いところはあったと思うよ。今みたいに人格温厚でもなかったから、短気でね」
「人格温厚」
光子さんが笑い出した。
「そりや、踊りにいった時はね、どういうわけか口やかましくなるけど」
「この人上手でしょ。私下手だから。でも、それ以外のときに怒ることってないわね」
「でしょ。だってつらかったもの」
「すごい女性不信になったよね」
「そう、そうなのね。人間が信じられなくなって。二年半くらい騙されていましたから」
若いころやっていたダンスを始めた。それでずいぶん慰められたという。
「別れるとき、絶対に後悔させてやる、見返してやる、ずっと思っていましたね。それが目標みたいなもんで、絶対にダメ人間にはならない‥‥一生懸命だったなあ」
ダンスの会で、優しい女性と知り合えて、次第に心もほぐれていった。息子が独立したころから、心を割って話し合える人が欲しいと思うようになった。そして四年前の一月一八日がやってきた。
「娘が電話交換手やっていてね、この人もそうだっていうでしょ。これも因縁だって、ピンときたんですよね。それまで四・五人ぐらいお茶飲む程度のお付き合いの人はいたんだけど、ピンとくるものがなかったんだね。ぼく、名刺渡したんだよね、あの時」
「そうね」
「だけど電話こないんだよね。駄目なのかなあって思ってさ」
「一〇日ほど、どうしようか迷って、電話したのね」
「そう、一〇日ぐらいだったね。あれが運命で」
「ほんと、運命」
このとき初めて彼女の口から、彼の印象が出てきた。先ほどの私の愚問への回答である。
「優しくて包容力があって、すごく笑顔が素敵だなあって思いました。人間的で」
男に対して、これほどの賛辞というものもないのではないだろうか。優しくて包容力があって、笑顔が素敵で人間的。これぞ男の条件というものだ。彼はテレたように笑った。
「若い頃は包容力がないって、よく言われてね。この年でようやくオトナになったんだよ、ぼくも。痛い授業料のお蔭でさ。だけど、一本気なところはまだ直ってないね」
彼は二年前に定年退職して、一年ほどぶらぶらした後再就職した。その間、心筋梗塞で入院したりもした。父の再婚に対して、娘は最初はしぶったという。息子ははなから賛成だった。今は二人とも納得している。娘と新しい妻とは、その入院のとき会った。それ以来はあまり行き来はない。息子の方とは”野球がとり持つ縁”で、ときどき会うそうだ。
「奥様はずっとこちらに通っていらっしゃるんですか」
「ええ」
「三年と一〇ヶ月ね」
彼がいった。二人にとっての要の日とか、日数とか、しっかり覚えているのは彼のほうであるらしい。それは多分、彼の彼女への情熱の証しなのだろう。
「金曜日の夜きて、月曜日の朝帰るんです」
「約四年間ずっと? 雨の日も雪の日も?」
「ええ。来なかったことはないわね。二年前母が亡くなったときのお葬式と法事以外は」
「そうだね、こなかったことはないね」
これが本当だと思う。この取材の日、電話では日曜日に来てほしいということで、朝電話したら彼女が出た。そして午後の訪問となったのである。いきなりかけた電話に彼女が出たということ自体が、話を裏付けている。彼女は、片道一時間半の道のりを、電車を乗り継いでやってくる。
「こういう通い婚という形にしたのは、お仕事の都合ですか」
「いいえ、仕事じゃないんです。ずっと母が反対していまして。私が家を出ることをすごく嫌がって」
なんということだ。母親が娘の再婚に反対だったとは。
「この人が理由で反対とか、そういうのじゃないんです。なにしろ側に居てほしいくて。淋しい淋しいで、お前がどっかにいったら死んでしまうなんていって。だから、週末だけここにくるのも‥‥」
「ぼくも悩みましてね、こっちにきてくれて、三人で一緒に暮らせたらって」
「動くのもいやだったんです。母が亡くなった時、ちょうどここにきているときだったんです。弟夫婦が知らせてくれて。ショックでした。自分で最後まで悔いなく看たってきがしなくて」
「ぼくのほうがショックでしたよ。僕と知り合わなかったら、死なずにすんだんじゃないかって、そこまで考えましたよ」
「おいくつだったんですか」
「八一歳でした」
「だからぼくもね、この人に無理してこっちにこなくてもいい、自然の成り行きに任せましょうって。この年になれば、自分本位な考え方ってものがなくなりますから」
「気持ちこっちにはあるし、すがりつく母もいるし」
「つらかったでしょうね」
「つらかったです」
光子さんのただでさえ低音の小声でいっそう小さくなって、囁くような、しぼり出すような声になった。
再婚のネックといえば、これまで、子供の反対というのが通り相場だった。小説でもドラマでも、遺産や親子の情愛をめぐって、子供が反対する。
ところがここには、中年の娘の再婚に反対する老いた親の存在があった。娘に老いの世話を期待する母によって、再婚は捨てられるに等しい心細さなのだ。娘の幸福よりも何よりも、自分の身の安全を願う親。その親への愛と。恋人との間に立って苦悩する娘。
長寿社会となり、誰もが長生きする時代になったにもかかわらず、老親の最後の世話に対する社会福祉は遅れているし、今の超高齢化の親世代の意識の中にも、子供に縋る以外の生き方を知らない。
何ということだ。羽かろき通い路も、その現実は、高齢化社会といわれる今の日本の社会を写す鏡だったとは。
娘の再婚を老いた親が邪魔する、この話は、実は私の周囲でも話題になっているものだった。今の中年の女は、若い頃にも結婚の自由はなかった。その女が再婚するときにまた、親の干渉を受けるのか、結婚の自由とは、いったいどこの国の話だ、そんなことを語り合ってもいた。
私が所属する「高齢化社会を良くする女性の会」の熱心なメンバー、福永隆子さんもこうした問題に直面した一人だった。五〇代半ばで彼女は夫と死別した。そのあと、当時勤めていた灘神戸生協を退職し、仙台に住む母の許へ帰った。子供たちはすでに独立していた。
彼女のことを語るとき、”ひまわりのような笑顔の豆鉄砲”という表現が一番ぴったりする。仙台に戻ると同時に、彼女は「あかねグループ」を設立した。
「六〇近い女に再就職の場がないなら、自分たちで働く場を作りましょ」
生協時代のノウハウを生かして、地域活動を始めた。老人給食、ホーム・ヘルプ、電話相談などの、ノン・プロフィット活動である。ほかの活動団体と組んで講演会の企画もやる。私も一度呼ばれて、老婚の花嫁ファッション・ショーに出されられた楽しい思い出がある。
その彼女が、NHKの「老年の主張大会」に出演し、それがきっかけとなって、古い友人に再会し、恋に落ちた。
「まあ、恋をしている女は美しいわね」
などと冷やかしたり、羨ましがったりしたものだ。彼女は生き生きとし、その笑顔は幸せの花びらが満開のように見えた。彼は名古屋の人で、彼女は仕事もあるので仙台を動けない。別居結婚になると聞いて、ナウイわねえと、ますます彼女の生命力というか行動力に感じ入ったものだった。
「あかねグループ」の会員が中心になって、披露宴をするという案内状が舞い込んだ時、私はできるだけ都合をつけて出席しようと思ったものだ。ところが何かと予定が重なって、仙台では駆けつけるのが無理だなあと思案していた矢先また飛び込んできたのが、中止のお知らせだった。会員の一人に電話してみると、
「それがねえ、お母様の反対なのよ」
「まさか、そんな」
これが、娘の再婚に反対する親の存在を知った最初だった。その後、彼女に直接聞くのも悪いし、どうしたものかと思っていたら、その半年後だったか彼女は披露宴を決行した。
福永隆子著『老後ばんざい』(ミネルヴァ書房)によれば、母上の反対とはかくのものであった。
『昭和六一年五月、初めて再婚の意志を言葉にしたときの、母の形相を忘れることができない。
相手が何歳で、どのような経歴の人で、どんな生活をしているのか、そのようなことには一切触れず、頭ごなしに再婚は絶対反対だといきりたった。
再婚に、年齢制限の法律でもあったかしら? 私は妙にさめた心で反問した。「六〇過ぎてからの再婚など、世の常識では考えられない。なんと破廉恥な、家紋の恥」とばかりの剣幕に、私はますます冷めていった。
「病気でもなれば、案じてくれる子供たちが居て、土地も家もあり、生活に困らないだけの年金があるのに、何を血迷って、再婚などとバカげたことを考えるんですか。女は独り身が一番自由で楽しいもんです。第一、そんな世間体の悪いことをするもんじゃありません!」
それについてつづいて起こった周囲の猛烈な反対と侮蔑‥‥』
逆上した母上は、親戚の人とも、こんな話をして、彼女を嘲ったという。
「お互いに老いを励まし合い、支え合って生きていくんだと、小馬鹿くさい寝言みたいなこと語ってんのよ。チャンチャラおかしくておかしくて」
こうして親の態度について彼女は、こう書いている。
「人間、八十を過ぎると、自分の老いを安らかに全うすることだけを願い、その後に残された者の幸せまで思いやるゆとりがなくなってしまうのだろうか。‥‥自分の幸福追及を諦めて、親を看取ったなら、この土地をやるという。財産と引き換えの親の看取り、これもまた、私には納得がいかない」
彼女は、母親と同時に、親戚や周囲の目とも闘わねばならなかった。このあたりは、仙台という土地柄も大きく働いているかもしれない。いい年して、色きちがい。男好き。老婚をした夫婦を見る周囲の目も、いやらしい、いい年こいて、新婚気取りで、など読むに耐えない言葉が並ぶ。
むしろこのとき、子供たちの方が賛成だった。所帯をもっている息子の家に避難したこともあったようだ。
『老婚ばんざい』が上梓されたとき、評論家の樋口恵子さんは、こんな句を献辞した。
六十路の恋、親が邪魔する長寿国
年齢がそうさせるのか、若い頃からの生き方の結果なのか、あるいは社会福祉の貧困、制度に対する無知と不信なのか、娘に縋(すが)りつく母の存在は、老婆に影を落としている。
福永隆子さんもこの光子さんも、じつの母に再婚を邪魔されたケースであるが、娘の立場となると、また別な深刻さがある。廃止されたはずのイエ制度は、今も延々と人々の心にしみついたままだ。
夫に死別したあと、姑の介護を余儀なくされていた五〇代の娘がいる。再婚なんてとんでもないと反対されて、姑の長生きが恨めしいと彼女はいった。再婚だって適齢期というものがあるでしょう、このまま七〇になってしまったら、私はどうしたらいいのかしら、姑仕えの辛さを息子の嫁に味わわせたくないと思ったら、私は孤独な老後を迎えなくちゃいけないのね。彼女は涙ぐんだ。
再婚後も亡き夫の母親に送金している女もいる。その母親が最近病気がちなって、周囲から引き取ってあげなさいと言われているそうだ。再婚しているのに、どうして引き取れるっていうの、彼女は改めてイエ制度のむごさを感じたという。
離婚した後も、夫の母親の世話をしている女もいる。夫は女をつくって家を出ていった。そのとき姑はいったという。我が息子ながら情けない、孫もなついているし、どうぞあなたはこの家に居てください、新しい嫁とやり直すなんて、この年寄りにはむごいのですよ。どっちがむごいのかしら、もし再婚することになったら、この姑連れていくことになりそう、彼女は薄く笑った。親連れの再婚、姑連れの再婚。
夫の親だから大切にしなければならない、この婦徳と教えは、今も女の心を縛っている。老いた人への愛情もあるだろう。婦徳と愛情と世間からの圧力。社会通念的に「お年寄りは家族と一緒なのが幸せ」と言われていることも、一皮むけばこうした女の犠牲に支えられている現実がある。
夫と死別あるいは離別した時点で、夫の親とは縁が切れてもいいと思う。なのに、介護の美徳観や親孝行意識がそれを許さない。大川さんの話で述べたように、前の妻の親を本当の親と思え式の考えと、別れた後も夫の親は親とする考えは、表裏一体をなすものだ。女を羽交い締めにするイエ制度。
しかしこれは女だけの問題ではない。男だって、老親のいる中年は、のちのちの介護の問題を恐れて、再婚相手が見つからないという事態がおきている。老いの介護についての社会的コンセンサスがなく、家族依存型福祉が続く限り、男も再婚難の時代を迎える。夫の二度のお仕えすることだって考えものなのに、姑にまで二度のお仕えなんてとんでもない、女がこう考えたって不思議ではない。
さて、福永さんはハッピーエンドを迎えることになった。
再婚してもけっして親を捨てるものではない、二人で看取りますからと、約束に約束を重ねたのである。
『比較的母は元気な間は、私が名古屋、仙台間を往復するという形をとった。母にはできるだけ長く自立してほしいのである。だから私は、必要以上の過保護、過干渉はしない。これが二年近く続いた。が、この生活にもタイムリミットが来た』
母親の心身の衰えと具合から、夜一人でいる淋しさに耐えられないと判断したのである。夫が名古屋から転居し、八七歳と六七歳と六六歳、この三人の同居が始まった。
この二人は、婚姻届は出していないそうだ。通い婚を解消したのち、同棲生活となったのだった。母上に対する彼女のなみなみならぬ愛情が、頑なな心を解きほぐした。いくつになっても女と男は愛し合える、人を愛する力を持っているのは、男性であれ、親であれ、子であれ、その愛によって和解できると、彼女は証言していると思う。
「結局母は、私の結婚を認めないうちに亡くなってしまったんです。それが心残りで」
光子さんの声はかぼそくて、触れると消えてしまいそうだ。
長い生きさえしていれば、きっといつかはわかり合えたのに‥‥、母親から祝福してもらいたかった、その無念さ、切なさ、胸のなかの表現したいものが大きくなればなるほど、声は小さくなるのだった。
親に認められなかった結婚。五十四歳の娘の再婚におびえた七八歳の母。母親とは、いつもいつも愛を持って娘の幸せを願うとは限らないのだ。それを親のエゴイズムというのか、老いの無残というべきか、私は言葉にならない衝撃で沈黙する。
子供に縋らないで老いの自立を全うするには、何が必要なのだろう。親はどう生きればいいのだろう。親を愛しているがゆえに、男を愛してしまったゆえに、身も心も二つに分かれて、その結果の通い婚だった。
「母がだんだん具合が悪くなって、そしたらこの人が心筋梗塞で入院して、仕事はあるし、病院二つでしょ。どっちもいい加減にできないから。身が裂かれる思いでした」
一刻なりとも娘を放そうとしない母の手を振り切って、夫のいる病院へ走る。そしてまた母の病院へ。やがて母は、一人であの世に旅立った。そのときのショック。どれだけの涙を流したことだろう。その傷はまだ癒えてはいないようだった。
「でもお母様は喜んでいらっしゃったんじゃないでしょうか。やっぱり娘のことが心配し、幸せであることを願っていたと思うんです。これで安心だって」
私は慰めにもならないようなことをいった。
それにしても、彼女は自活できる十分な収入がありながら、それでもやっぱり結婚というこの煩わしさを伴う関係に入りたかったのだろうか。母親の反対を押し切ってまで。それが私の質問になった。
「一人の方が自由で、楽しいっていう人もたくさんいますよね。二度のおつとめはこりごりだって」
「でもそれはねえ、結婚の楽しさを一生知らないで過ごすなんて。若いうちはそれでもいいだろうけど、年を取ってくると、どうにもならない不安なんですよね。母にはそのところが分かってもらえなくて、ただもう悲しい悲しいで」
話はまた母親のことに戻った。
「周囲の人たちの、再婚への偏見とか、言葉は悪いけどいい年してとか、そういう目はありました?」
「いえそれは、全然ありませんでした。ただ母だけがね」
福永さんは周囲の目にも傷ついた。女の自立なんていっているくせに、男ができたらあのザマよ。結婚することが、女の自立を放棄したかのような、女たちの活動を裏切ったかのような、同志の女たちからの攻撃。
結婚が女の自立を妨げて来たことは、過去の事実として認めなければならない。結婚は、女と男の関係をギクシャクとしたものにし、仕事を志した女は、家事と仕事の二重役割を背負って生きねばならなかった。
それがゆえに職業を放棄した女の何と多いことか。私もその一人だ。”結婚は人生の墓場だ”といういい方もあるけれど、女にとっては”結婚は自立の墓場だ”。この累々たる墓標の群れ。
仕事を続けることに理解のある男に巡り会わなかったと、独身を通している女も私の周囲にはたくさんいる。大学での女なんか、石のように冷たい女、エライ女はまっぴらごめん。彼女たちはみんな五〇代を迎え、そのうちの何人かは親を抱えている。未婚の娘と暮らすのが一番気楽と語る老いた母たち。その母があの世にいったあとの、彼女たちの老いは‥‥。
その一方で、私のように、夫に理解はあったけれど協力はなかたがゆえに、くたびれ切ってしまった女たち。家庭の中は依然として不平等だ、家庭内家事均等なんて、夢の夢。そういう母親の苦労を見て来た娘たちは、あんな辛い思いをするんなら、女の自立なんてイチ抜けたとばかりに専業主婦を志す。ところが、お布団フカフカに干していい妻、いい母をやっていた彼女らは、そのうち気づく、私の人生何だったのかしら、ここは生活はあるけれど、人生はない!
結婚はいつの世も、多くの女の憧れを掻き立て、これまた多くの女たちに諦めを生み出してきた。その結果、一人で生きるのが最終的な女の自立よ、結婚なんてナニサ、あるいは、とてもとても怖くて結婚なんてできないわ、ひとくくりにできないにせよ、非婚、否婚、避婚、シングルという人たちが現れてきた。
結婚という制度がもたらした女の悲劇(そこには男の悲劇もあるかもしれない)。結婚の現実からくる怒り、憧れと諦めの間を触れ続けた女たちの上に、自立論議が加わった。女の自立と何か――。
「自立した女は独身であるべきという図式はおかしい、それではまるで、結婚とは自立できない女が、男の経済力に縋る代替えとして、男の身辺の世話をするという依存関係なのか。男の支配と女の服従という縦の論理なのか。
そうでなくて、精神的にも、経済的にも、生活身辺的にも一応自立した男と女が、互いに人生のパートナーとして結びついたときに、はじめて人間らしい対等な関係、真の連帯が生まれるのではないか」
結婚は女と男の真の連帯。連帯としての結婚。それが可能となる男と巡り合ったのだから、自立としての結婚。
ここには、結婚というものの新しい地平線が開かれている。女は結婚して一人前、母となって一人前と、結婚の中に押し込められていて、そのあがきのなかから女たちは新しい哲学を発見した。
最初の結婚でそれが得られなかったとしたら、二度目の結婚でそれを得て、祝福こそあれ、いったい何がゆえの誹謗(ひぼう)中傷なのだろう。
「そうですか。お母さま以外は反対もなくて、いやな思いをしないで済んで、よかったですね」
光子さんは大きく頷いた。この違いは土地柄なのか、属している集団の違いなのか、別れてからの年月の違いなのか、死別と生別の違いなのか、それとも光子さんの別れ方の悲しさへの同情なのか、福永さんの活躍への嫉妬なのか、私にはわからない。
「それで、お母様が亡くなられて、いい方は悪いですけれど、障害はなくなったと思うのですが」
「遺産のこともあるんですよね」
「だから動かない方がいいと思って」
詳しくは語らなかったけど、遺産問題があるらしい。籍も未届けのままだ。
「この人に理解があって」
「べったりしているよりも、少し離れている方がいいんです。ぼくは甘ったれの割りにクールなところもあるんだよ」
雪の降る夜に彼女に鍵を渡して、以来、金曜日の夜きて、月曜日の朝に帰る生活を四年以上も続けている。これはもう、お互いの信頼以外の何物でもないだろう。
「朝、奥さんがお帰りになるとき、淋しくはありません?」
「いやあ、それがそうでもないんですよ」
「ずいぶんあっさりと」
「全然淋しくないといったら、嘘になるけど」
「信頼し合っているんでしょうね」
「それが基本です」
それはそうですよ。光子さんも同時にいって、ふたりはまた目を見つめ合った。
「金曜日の夜勤から帰ってくると、家に電気がついているの。電気がついているだけで疲れが吹っ飛ぶのよ。一〇年も暗い家に帰ってきて、電気をつけていたが、辛かったよ」
「あら、女性はそれが当たり前よ」
光子さんはなかなか手厳しいことをいう人だ。おとなしそうで静かで。ピンクのコアラのようにあどけない表情をしながら、短い言葉でぴしっという。
前の結婚についても彼が、後になってみれば反省するところも多々あるよといったのに対して、あらそう? 私には全然ないわといった。はっきりした嘘のない性格の人なのだろう。そんな彼女に、彼のほうが惚れ切っている、そんなふうに見えた。
彼は軽く手を振って、
「男は違うんだよ。想像つかないでしょ。この何年か週末にさ、帰ってくると電気がついていて風呂が沸いているでしょ。これが当たり前だと思っている男性にはわからないと思うよ。
彼らが感じていないものを感じるんだから、それだけ幸せだよ。昔はね、つらくてつらくて、あんまり暗かったから、今の生活がありがたい。そう思うとね、過去のことも今につながってきてね」
「ずっと一緒に住むようになったら、また問題がね。起こるかもしれないし。私。ずっと一人だったから、それも」
光子さんはもう一度決断を迫られる。三〇年一人身だった女には、男との暮らしに不安もあるだろう。今のままがいいと思うのは、遺産とは別に、自活してきた女の正直な気持ちであるかもしれない。
住む家も、この家も、この家は日当たりがよくない。今いるとこは緑がたくさんあって陽もよく入る。彼女は、どこかマンションに移ろうといい、彼は自分が生まれ育った家だから動きたくないといった、見つめ合い語り合う二人の、唯一妥協点のないところが、住む家の問題だ。
「家の問題って、大きいですよね」
「二人ともずっと家に居るようになったら、どうなるのかしらって」
「そのときはそのときさ」
「奥さんがこちらにいらっしゃるときの生活費は?」
「あ、それ、それはいい加減だなあ」
「ほんと。ちゃんとしないといけないわね」
声をそろえて二人は笑う。経済力のある女の余裕というものだ。
「適当にやっているわね。私が出すときもあるし、この人が出すときもあるし」
「貯金通帳なんかもその辺に置きっぱなし。ぼく、料理もうまいよね」
「私より上手。私は仕事だけだったから」
仕事一筋の女と家事をやってきた男、いい関係だなあ、ふと彼は改まった声でいった。
「何年かこうして付き合ってみて、それで籍もきちんとしたいと思っていますよ。それが男のけじめだから。けじめはきちんと。ぼくは、ぼくを幸せにしてくれた人に財産を残す。もうすでにこういう考えを明確に言葉でいう人が現れ始めた。
「お子さんはそれでいいと」
「いいも悪いも、親父は親父ですよ。息子はあっさりしてたけど、娘は最初はちょっとしぶってましたね。でも、残された人生、だれにも遠慮することはないです。修羅場を潜り抜けて開ける境地というか」
「お互いにいえるんですね、それは、修羅を経てね、幸せになろうって。最初から財産を条件にする人なんて、幸せにはなれないですよ」
「無限の会だって、最初から経済の話をする人は警戒されますよ」
無限の会で一番話題になることは、家族関係だそうだ。二番目は趣味。三番目は健康、話が煮詰まってきてから経済条件に入る。だが、このお金の話になってから断られて、ショックを受けた男性もいるそうだ。
「中年期からの再婚をうまくやるには、何が大切だと思います?」
「そうねえ、そういうことを改めて聞かれると難しいね、何しろ、前の結婚のことを思うと嘘のような幸せだから」
「そうよねえ」
「口に出してしまえば、ありきたりのことになるんだよ。お互い思いやりが大切とかね。ぼくは思ったけど、じっくりやっていれば、いつかめぐりあうんだな」
じっくりやっていればいつかめぐりあう。前に大谷さんも同じことを言ったけれど、男からこれをいわれると、何か血の色をしたものが胸の奥から噴きあがる。運命を感じる出会いをして、週末の逢瀬を過ごして、二人の胸の中には。あの「狂いの子われに炎の羽かろ…‥」と謳いあげた歌人の情熱が火の粉を放っているのかもしれない。
じっくりとやれば‥‥、いつかは巡り合う‥‥、こういう人生こそが、正しいボタンの位置なのだろう。
この日私は、あまりに考えることが多過ぎて、大事な商売道具テープレコーダーを置き忘れてきてしまった。はからずも、中年の再婚と親の問題に直面したが、これもまた、新しい再婚の時代の断面だろう。
そして知恵を出し合いながら、見つめ合う。けっして若くはない二人。人間何歳であろうと、ふたたび、愛が始まるときの輝きに、深く酔いしれた思いだった。
つづく
第十一 めぐりあいて、人生のとき