結婚といえば初婚同士のもの、再婚というのは何か事情のある人のするもの、そういう固定観念が人々の間にしみついている。だから離婚は失敗であり、再婚した人に、今度は失敗しないようにという訓示になる。
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ふたたび、愛が始まるとき 再婚新時代

本表紙  沖藤典子 著

プロローグ

幸せな再婚は、人生を確信させる。
よしんば、前の結婚が悲しいものにあっにせよ、
再婚によって幸福をえた人々にとっては、
それもまた、
現在に至るためのプログラムでもあった。
その意味で幸せな再婚は、
過去を救うものかもしれない。

再婚は、新しい時代を迎えたのだろうか。
第一章 結婚の常識なんて

1 ささやかな忘年会 ――その人は、最初の結婚――

 京王プラザホテル地階居酒屋――。
 その夜、五人の女たちが集まった。
 何かを語ろうという特別の目的があったわけではない。この再婚の取材を通して友達になった者同士、おいしいものでも食べようという程度の、ささやかな集まりだった。
 
 その顔触れには、興味を誘うものがある。
 離婚した再婚した女が二人、離婚したあと結婚なんてまっぴらだと思っている女が一人、何というべきか、あえていえば、だらだらと初婚生活を続けている女が二人。この五人が一堂に会しておしゃべりをしようという計画は、とても刺激的だった。再婚した理由、しない理由、別れる理由、別れない理由、再婚とは何だ?

 この五人は”友達の友達は友達だ”的なつながりである。全員が面識があったわけではないが、そこは女のネットワーク、ひと声かければ馳せ参じる仕組みになっている。

 離婚・再婚の二人は、大谷千加子さんと山野佳子さん。離婚・非再婚は岸田尚子さん。だらだら初婚組とは、この私とフリーの編集者Iさんだ。ネットワークの元締的存在である岸田さんは、少し遅れる予定である。

 本来ならば、板前をしている大谷さんの夫の手料理を頂く予定だった。そのとき、みんなで会いましょうと。ところが私の都合がなかなかつかずに、約束が延び延びになっているうちに一二月になり、今度は彼の方が忙しくなった。

結局外でやろうと、Iさんがこの席を用意してくれたのである。大谷さんと山野さんとは、八月の取材で会って以来、四ヶ月ぶりの再会だった。

「ごめんなさいね、大谷さん。せっかくお招きいただいたのに。残念だったわ」

 私たちは、店の奥の板敷きに上がった。窓のない白壁の広間は、すっぽりとお蚕さんにでもくるまったような感じを与える。丈の低い座卓が何人分かずつ何組も並べられており、隅のほうに陣取った私たちに小さな世界ができた。

 大谷さんはいいえ、いいえと手を振りながら、山野さんと並んで座り、私はこの二人と向かい合う形に座った。時間が早いせいか、一番乗りのお客だった。忘年会のシーズンだから、そのうちに混んでくるだろうと。

 仲居さんがメニューを持って料理の注文をとりにきた。ひとわたり注文がすむと、ビールで乾杯。

「何に乾杯かしら」
「再婚人生に」
「再婚できない人生に」
「再婚しない人生に」
 勝手なことを言い合いながら、ともかくここは乾杯の儀式だ。

「どうですが再婚の本、うまくまとまりそうですか」
 と大谷さん、痛い質問だ。

「それが難しくって、クロスワードパズルのように、タテのカギ、ヨコのカギ色々で」
 ここは正直に告白するしかない。
「取材にしたって。どれだけやればいいものか、すべての再婚夫婦を取材するわけにもいかないし」

 平成元年(1989年)だけでも再婚夫婦は約十三万組あるのだから、とてもとても全部取材なんてできないし。しかも再婚と一口にいっても、”夫・妻ともに再婚”、”夫・初婚妻・再婚”、”夫・再婚妻・初婚”と三通りあるし、さらにそれが離別か死別かとなれば八通りになる。

「再婚に至るまでの人生の物語が、一人一人膨大なものなんです。これはもう若い人も高齢の人も同じね。これが再婚の典型ですというものがなかなか見つけられなくって。結局は結婚論というものになるんだろうけれど、これがまた大問題」

「それに、再婚する相手の年齢もあるだろうし。私みたいに、前の人は二〇歳も年上で、今度の人は一〇歳年下なんていう、こんな年齢差のある組み合わせもあるだろうし」

 大谷さんは右手を高く挙げ、左手を下にもっていって、その差を示した。彼女は前の人と今度の人とでは三〇も年が違う。

「大谷さんの話が面白かったし、会う人会う人、みんなドラマをもっていて、ショックの連続。取材する私のほうが混乱して、どう気持ちの収拾をつけていいのか分からないのね」

 彼女は”夫初婚 妻再婚(離別)”組で、その夫は一〇歳年下、山野さん”夫初婚 妻再婚(離別)”だ、彼女の場合は夫が年上。この二人は、私やIさんにしてみれば、むむむ、もしかしたら私たちもと、希望を与えてくれる存在でもある。

「私、今度の結婚年数のほうが最初の結婚より長くなったとき、本当にほっとしましたね。前がちょうど一〇年で、再婚してから十三年。だけどどうして安心なんかするのかしらね」

「分かるきがするわ」
 運ばれてきた料理を食べていた山野さんが箸を置いた。
「私もそうだったんですよ。前のが三年で、今度が、籍をちゃんとしてから六年で、ああ乗り越えたって思ったんですもの」

「日本って、再婚がまだ特殊な目で見れているでしょ。だからかしら」
「なんだかレッテルを貼られているみたいなんですよ。もしダメだったら、また?って目で見られて、結婚不適格者だと思われそうで」

 大谷さんの「ほっとした」という言葉は、じつは少し意外だった。彼女は取材の時、人から良く前の結婚が失敗だったんだから、今度は失敗しないようにっていわれて憤慨(ふんがい)していた。

離婚がどうして失敗なの? 沖藤さん、これだけは書いてくださいよ。離婚は絶対に失敗なんじゃないんだから、大切な経験なんだから。その経験を通して初めて見えてくるものがたくさんあるのよ、彼女はかわいく力んだものだった。

「山野さんがほっとしたというのは分かるような気がするけど、大谷さんもそうだったというのには、少し驚いた。そういう世間の目があるのかしら」

「いや、目っていうほどのものでもないんだけど、なんとなくそう思ってしまったのね」
 自分でそう思ってしまうのか、世間から知らず知らずのうちに思わされてしまうのか。離婚・再婚を繰り返すのは、結婚不適格者なのか、アメリカでよくいわれるように、飽くなき愛情の追求なのか、難しいところだ。

 日本が名だたる結婚国で、しかも初婚国であるというのは確かなことだ。再婚の婚姻件数に占める割合も徐々に増え、一九八九年には一九・五パーセントとなり、二割を突破するのは時間の問題だといわれている。

しかし、まだ圧倒的に多いのが初婚同士。これは欧米などと比較したとき、驚くほど高い数値だ。厚生統計協会が出している『離婚統計』によると、アメリカの最新情報は一九八二年のものだが、初婚同士は約五五パーセントである。日本はそのとき約八五パーセントだった。

イングランド・ウェールズ六四パーセント、西ドイツ七二パーセント、スウェーデン七〇パーセント、日本もまた初婚は減少傾向にあるとはいえ、これらの国と比較するきその比率は断然高い。

 結婚といえば初婚同士のもの、再婚というのは何か事情のある人のするもの、そういう固定観念が人々の間にしみついている。だから離婚は失敗であり、再婚した人に、今度は失敗しないようにという訓示になる。

どうして離婚が失敗なのよと怒りながらも、そのしみついた意識が、ああやっと前のときの結婚年数を越えたと安心させる。とくに日本では離婚・再婚を愛情の追求だと考える人は少ないと思う。

どこか軽い女、移り気の女、忍耐力のない女、否定的言葉で語られることが多く、それが再婚者という烙印を押す。再婚に失敗したら、”またか、の烙印”が飛んでくる。大谷さんが言いたいのは、ここのところだ。

「私、前の人だって一生懸命だったわよ。私なりの愛情をたっぷり注いだもの。働いて夫の借金も返したし、病気になった時に看病だってしたし、なんにも後ろめたいところはないわよ。だからこそ私にもっと合う人が現れた、別の人生を歩みたい、こっちの愛情の方がより私を幸せにする、そう思ってどうしていけない」

「まったく同感。その気持ちわかるわよ。それに、再婚に至るまでに、みんな大変な苦しみを味わっていますね。山野さんの場合だって、いってみればイエ制度の犠牲だし、最初の結婚は、イエの亡霊との結婚だった。だからこそ、大谷さんと同じようにその経験を生かしてますよね」

 大谷千加子さんと山野佳子さん。四八歳と四一歳のこの二人は、じつに対照的だ。片や日本でもまったく新しいタイプともいえる”愛情の追求”のための再婚だと堂々というし、他方は明治の残骸と心中したようなものだ。

同じ四〇代で、しかも年下の方が古い意識の虜(とりこ)になっていた。結婚をどう考えるかということも、育った家庭や地域の環境、親の意識とずいぶん深く関わっているように思う。山野さんは、恋人が現れ、親とイエを捨てたときに、初めて愛というものを知ったと語った。

 対照的といえは、着ているものも雰囲気も、この二人はまったく違う。
 大谷さんはローズ・レッドの厚手のパンツ・スーツに少し太めの身体を包み、ハートの形の赤い石をはめ込んだ大きなイヤリングで色白の頬を飾っている。

ふっくらとした大輪のバラのように華やかでかわいい。超ショートカットの後ろの髪の毛がピンと立っていて、そこだけはいたずら盛りの少年のようである。

彼女の胸の中には熱くて激しいものがあって、それが表情や仕草に現れるようだ。情熱をもって、再婚は愛情の追求だったと語り、前の結婚も否定はしない。愛情の引き出しが二つあったという。積極的で明朗な人だ。

 一方、山野さんは黒のTシャツにベージュのブレザー。上着を脱いだので黒だけになった。痩せすぎずの細い肩、首まで切りそろえたストレートの髪、アクセサリーも化粧気もない。その青白い頬は、修道院に身を置いている人のようだ。ひっそりしていて凛(りん)とした静けさ。

 赤と黒。情熱と修道院。バラと尼僧。この二人を前にして私は座っている。
「お料理どうします? もう少し頼みません?」

 Iさんが通りかかった仲居さんを呼び止めながら聞いた。お客さんが立て込んできて、空席がなくなっていた。さすが年末。ひとしきりメニューを覗き合って、追加注文する。女の年末は飲むよりも食べることに集中する。

「さっき、再婚は本当に多種多様だといったけれど、この二人だって似たような年齢でありながら、まったく違うのね。大谷さんは前の結婚は死んだも同然だったというし」

 共通しているのは、結婚している間に恋人ができたことだ。それが離婚のエネルギーになった。山野さんは、今の人と一緒になりたい一心で、すべてのものを捨てたと語った。大谷さんも身一つで家を出た。

「今圧倒的に増えているのは、離婚による再婚なんだけど、私やIさんはそこのところができないのね。結婚生活にうんざりしたの疲れちゃったと言いながら、そのエネルギーがないんだわ。いい男が現れないってことかもしれないけど」

「あら、うんざりしてるんですか、その話を聞きたい」
 山野さんが割り箸を二本マイクのように突き出してきた。その茶目っ気のある行動に、私は少し驚いた。

「今、夫婦も結婚六〇年が珍しくなくなったでしょ。お互い長生きだから。そりや数多い夫婦のなかには、円満で、なんの不満のない夫婦もあるだろうけど、くたびれてしまって、結婚はどうも”一生もの”じゃなくなったと思っている人もいる。だけど、離婚する確たる理由もないし、ブツブツ不平を鳴らしていても、それだけじゃ別れられないのね」

「結婚二回説ってあるでしょう?」

「いやあれは、男にとって都合のいい話。私の解釈では、最初は年上のお金持の女と結婚して、今度は若いピチピチしたのと結婚する。冗談じゃないわ。そういう下心とは別に、長くなった結婚生活をリフレッシュしていけばいいのか、大問題を抱える時代になったということね」

 私の中には、そこはかとなく再婚願望がある。それは多分、夫も同じだろうと思う。安定しすぎて沈滞している毎日は、その平穏のありがたさ以上に、なにか心をヒリヒリさせるものが欲しいという願いにかきたてる。

 だがそれはいつも一瞬の願望にすぎず。次の瞬間には”新しいこと”への怯(おび)えて変わってしまう。また初めからやり直すなんてしんどいわ、結局は再び同じようなとりとめない日常がやってきて、そのとき、前のほうがよかったと思わない保証もない。

しかも、これだけ長くなると過去の分量が多過ぎて、それをどう整理したらいいものか、見当もつかない。あれこれ考えると再婚願望は、はかなくもしぼんでしまう。

 加えて私の性格では、いつまでもぐずぐずと前のことを思い、あれこれ比較し、ときに後悔し、ときにやっぱりよかったと思い、日常生活の細部にわたって未練執着型の性格を発揮するような気がする。それが我ながら怖い。

 私が取材したのは、再婚して幸せになったと答えた人ばかりであった。幸せン再婚は人生を確信させ、悲しい過去から救うものであるらしい。そうは思ったが、それが自分のことになると、本当にそう思える確信もない。

それは、この二人のように恋人が現れなかったせいなのか、年齢のせいなのか、エネルギーがないためか、現状を激しく否定する思いがそれほど強くないためか、とにかく再婚してよかったとする”確信”の世界に導かれるという予感がない。

 ただひとつ、大谷さんの言葉に触発され、はっと思いついたことがあった。
 私は、本当のところでは、離婚も再婚も恐れているのではないか。
 それは――
それをいおとしたとき、岸田さんが駆け込んできた。
「ごめんなさい、遅くなって」

 外の冷たい風を身体にたっぷり含んで、彼女は私の隣に座った。
「お先にやっていました。忙しかったんでしょう」
「いえ、そうでもないんです。今日はちょっと予定が入ったものですから」
「今、岸田さんの噂をしていたところ」
「嘘ですよ。そんなこと話していなかったわよ」

 山野さんが真顔で否定する。

「そうかあ。今夜は独り者は私だけか。酒の肴にさせられる。千加子ちゃん、今夜仕事は?」
「お休み。だから今夜にしてもらったの」
 彼女は、夫の仕事が夜だから、自分も夜働こうと、電話局に勤めている。山野さんは会社員、二人とも共働きをしていて、ともに子供はいない。

「余りものだけど、お腹が空いているんじゃない? 食べて」
 料理が彼女の前に集められた。大谷さんが、
「さっきも話してたんだけど、私、今の人と結婚して十三年、最初の結婚より長くなったの」

「もうそんなになった。そうね、私も別れて一〇年だもの。上の子が大学生、下の子が高校生、夢のように楽になったわ」

 岸田さんは、一〇年前、事業に失敗した男と別れて、子供二人を育ててきた。夢中で働いてきましたと彼女はいった。
「再婚する気はないんですか」
 私が聞くと、大きく手を振って、
「いえ、もうコリゴリ。夫と別れたときからすっかり男性不信になってしまって。それに一〇年も一人でいると、今さらって思うもの。ある人が、再婚するんだったら別れて二、三年のうちだっていっていたけど、本当、本当にその気がなくなって、面倒になってしまう」

「そうかしら。いい男がいないっていうことだけじゃないですか」

 私が混ぜ返すと、彼女は太めの身体をゆすって笑った。フワフワのソバージュの長い髪、薄いピンク色のスーツ、仕事に自信をもった女の風格が漂っている。荒波に鍛えられた大きくて優しい岩・・・・・。

「そう、そう、それですよ」
「やっぱり、今実は、別れる理由、別れない理由、いろいろあるけれど、一番別れやすいのは、いい男が現れて、そのエネルギーでわっと家を飛び出してしまうことじゃないかって話してたんですよ。そしてまた、この人だって思い込んだら、面倒とか言っていないんじゃないかしら。今まで一度もなかったですか、そういうこと」

「そりゃ私だって、正直言えば、一人や二人はね。だけど、最初の二、三年は男性不信でしょ。再婚なんてまるっきり考えていなかった。男性不信が落ち着いてきたら、今度はその気がなくなってしまった。うまくいかないわ」

「これは取材を始める前からIさんと何度も話し合ったことだけど、離婚して自由になったわけでしょ。それこそ天井がすっぽ抜けた、青空が広がったという人がいるくらい、晴れ晴れするものらしいのね。離婚の理由によるものだろうけど。今の中年の離婚願望からすれば結婚って拘束感が強いわね。離婚は解放かもしれない。束縛からの」

「あら、私は結婚って束縛だなんて思っていないわ」
 大谷さんが異議を唱え、山野さんも、そう、私もよといった。

「あ、そうか。再婚した人は違うんだ。再婚した人にとっては、結婚は束縛じゃないんだ。離婚・再婚をしたことのない人間にとってのみ、結婚は束縛なのかしら」

 どうなのだろう。これは一般的に通用する感じ方なのだろうか。

「ここにいる二人の体験者と非体験者の二人だけの違いなのかもしれないわね、じゃ一般化はしないけど、岸田さんが再婚しない理由は面倒だということだけ? いい男がいないっていうこと? それとも自由を手放したくないっていうこと?」

「どうなんだろう。深く考えたことがなかった、ただ私は子供が居るから、ずっと思春期で。だけどこれから子供が居なくなったら、私、どう思うかしら」

 これまでの取材は、再婚した人の、再婚した理由だった、みんな語った。離婚した後の自由と、そのまたあと襲った孤独と不安について。再婚は、束縛どころか、未来に横たわる得体の知れない恐怖からの解放だった。

 それまで言葉少なかったIさんが口をはさんだ。
「無限の会に取材に行ったとき、驚きましたね。こんなに再婚したい人が多いのかって」

 無限の会というのは第三章で詳しく述べるけど、中・高年者のための出会いの場の組織である。

「そうなんですよ。あの熱気には圧倒された。結婚って何なのだろう、大命題にぶつかってしまった感じだった」

 無限の会の取材の時、私とIさんはあまりにも疲れて、喫茶店でへたり込んでしまった。しかもその熱気が、自分とほぼ同年代の女と男から発せられたものだけに、ショックも大きかった。こちらの二人は、会えば亭主の愚痴をこぼし合って、もし離婚するとしたら”うんざり離婚ね”などと言いながら、その亭主が居ないと不甲斐なくも淋しがっている。中年期の夫婦が向き合うことの難しさ痛感しながら、結局はいい妻の振りをして日々をやりくりしている。

 そんな二人が、真剣に相手を探そうとしている活気に充ちた中年の群れを見たのだから、刺激はあまりにも強かった。違う星からの岩が頭の上に落ちてきたようなものだった。あのときIさんはいった。

「再婚に夢を託そうとするのは危険だという気もするんです。だけど、相手が変われば、いい自分が出るのかと思ったりしますわね」

「それも、年数がたてば元の木阿弥のようにも思うし。幸せな再婚ばかりではないと思うのよ。その一方では、夫婦にも耐用年数があるような気もするし」

「なんだか女房ってのは、永遠に壊れない耐久消費財だと思われているんじゃないかって思う時がありますよね」

 私の見るところ、今の中年の女たちの離婚願望の中には、旧来の女役割と期待されている家事に疲れ切ってしまった、そこが大きいと思う。三〇年も同じことをやって、しかもそれが当たり前だと思われて暮らしていることからくる無力感、女房永遠に回り続ける電気洗濯機ではない。

この積み上げては崩すシシュフォスのような労働があと二〇年、三〇年と続くかと思えば、これもまた未来への恐怖なのだ。

 そのうえ、長い歳月とともに積もり積もった夫への不信感。
 ある妻は、風邪をひいて寝ているとき、夫が、いいよいいよ寝ていなさい、オレ外でメシ食ってくるからといった話を聞かせてくれた。そりゃあなたはそれでいいでしょ。だけど寝ている私はどうなるのよ、私のメシはどうなるのよ、つくづく離婚したいと思ったわ。

 妻の離婚願望のなかには、夫への復讐の思いがある。思い知らせてやる。山のような恨みつらみ。昨今の定年離婚だって、もとはと言えば恨みつらみの結果と言えなくもない。だけど離婚したかといって、風邪引いたときおかゆを作ってくれる再婚相手に巡り合う保証もない。

 女は、別れなくても未来の恐怖を背負っている。私が病気したとき、夫は看病してくれるだろうか。別れても未来の恐怖は去らない。一人で老後やっていけるだろうか。だとしたら、せいぜい”夫改造論”で連れ合いに迫るのが無難なところだろうか。離婚も再婚も、女にとっては、女と男の関係をめぐる一人芝居だ。果てしない堂々巡り。

 だから、いつも私とIさんの結論は、
「結婚なんて、一回でいいわね。相手が変わったっておんなじよ」
 というところに落ち着いてしまう。

「だから問題はそこなんだけど、結局再婚しても元の木阿弥しれないのに、再婚したい人があんなにいる。自由を手放したがっていて、ぜひとも苦労したいと言っているように私にはた見えるの。せっかく手にした自由なのに。その点岸田さん、あなたは貴重な存在よ。再婚したくないというのは」

「私は、思想とか信念があるわけじゃないですよ。さっきも言ったけど、年取ったら、だれか相手を探すかもしれないし」

 ふと思い出した。私の友人に若い頃夫を亡くして、一人で子どもを育てた人がいる。子どもが成人式を迎えた時、再婚しようかなと言った。だって、もし孫が生まれとき、一緒にあやしてくれる人がいないと淋しいもの。

「よく、結婚は若い頃と歳を取った時と、この二つの”とき”のためにあるというけど、そういうことなのかな」

「多分ね。でも、今はね、今はこの自由がいいわ、やっぱり」
「やっぱり」
「そうねえ」
「さっき岸田さんが入ってきたとき、いおうと思っていたけど、どうして私が離婚しないのかっていう理由」
「あ、それ、聞きたいんです」

「大谷さんが、今度の結婚の方が長くなったって言ったでしょ。結婚不適格者のレッテルがあるって。それであっと気が付いたんですね。私にも”烙印”っていうものへの恐怖感があったって」

「どうしてですか」
「私が、離婚同士の女と男の再婚によって生まれた子だったからですよ」
「まあ‥‥」
 驚きの八つの目が私をみつめていた。次の話を促す優しい目。共感の波長がうねる心強い光。シンパシーの嵐。

「だから、私も、もし私が離婚したら、あれはやっぱり親の影響だっていわれるんじゃないかという恐れがあったんですよね。実際そんなことを言うはずはないのに、そう自分で自分の心を縛ってしまう。

人様に理由を与えたくないっていう気持ち。親のカタキじゃないけれど、ここはわたくしめ踏ん張りましようっていう、われながら健気な気分になってしまうの、そんなこと思う必要はないのにね」

 もし父と母か、どちらか一方が”離婚は悪””再婚も悪”の思想の持主だったら、私はこの世に生まれなかった。双方ともに、”結婚は初婚同士”の常識に従順でなかったことが、ささやかではあるけれど、私に人生をプレゼントすることになった。

私はひざまずいて、離婚と再婚に祈りを捧げよう。この本の話が講談社からきたときは、これは私にとって天のシナリオではないかと思ったりもした。

 にもかかわらず、どうして”烙印”を恐れるのか、自分でもよく分からない。知らず知らずのうちにしみついてしまったものが、私にあるのだろう。おまけに、戸籍上の母と実の母との二つの名前をめぐって、私はだれだ? という長い問いかけがあったものだから‥‥。

 だか、これだけはきっぱりといえる。再婚家庭を取材するとき、特別の目で見る、あるいは好奇心で見る、それだけは絶対になかったということだ。再婚家庭といったって、ごく普通の平凡な営みだ、どこの家庭でも起こることが起こったにすぎない。

大谷さんは夫よりも一〇歳年上だが、私の母も八歳年上だった。姉さん女房にというものもおおよその見当がつく。若い男と一緒だから若ぶっているといわれると、彼女は怒るが、その気持ちをすんなり私の心の中に入ってくる。

 私の取材態度は、いささか離婚・再婚に対して好意的だったのかもしれないが、それは両親に対する愛情によって増幅されてしまったものだと思う。私の意識の中には、いろいろの人生があっていい、いろいろな命があっていい、それを認めようという強い願いがあるのだ。

「私の母も離婚のエネルギーは恋人らしいですね。駆け落ちしたんですって。その時が四〇歳で、四二で私を産んでいる。だから私、自分が四〇歳のとき、駆け落ちしなかったことにひどくほっとしてね」

「お母さんは情熱的な人だったんですね」

「よくいえばそういうことでしょうけど。七人の子供を置いて出たそうですよ」
「え、七人も‥‥」
「その恋人と駆け落ちしたとき、八人目の子供がお腹にいたんですって。古今東西駆け落ち多しといえども、妊婦の駆け落ちって聞いたことがない」

「その相手はお父さん?」
 幸か不幸か、その相手は父ではなかった。父が出会ったときは、母は生まれたばかりの赤ん坊と二人だけだった。そのころ父は離婚していた。父にも赤ん坊がいた。

「だから経済的に困っている女と、赤ん坊を抱えて、家事をする人が居なくて困っていた男とが一緒になって、私が生まれたっていうことなんですよ」

 この経済力と家事を相手に求める再婚、これは実に古典的な再婚のパターンだ。私はいつも、うちの父と母は愛情もあったのだろうけど、基本的には二K再婚だなあと思う。経済力(K)のない女と家事(K)のできない男との利害が一致しての二K再婚。現代だって、けっしてない話ではない。

 だからといって私は、結婚に対して、ある種の打算が働くのを否定しているわけではない。人間が欲とは無縁でいられないように、結婚も再婚も打算とは無縁ではないと思う。

だからこそ、大谷さんや山野さんのように、はっきり愛情です、と言い切れる女は素晴らしいと思う。打算とか物欲を度外視して生きようという情熱は、貴重なものだ。

「とにかくね、私はいつも確信していますよ。離婚同士が再婚すれば、私のような子が生まれるって。がんばんなさい、岸田さん」
「やだ、また私?」
「離婚した男を見つけなさいよ」
 彼女はまた笑い転げた。そしてそのあと、口調を改めていった。
「お母様が駆け落ちなさったっていうのも、昔のことを考えれば、やっぱり情熱的だったと思うわ」

「昭和十一年ことでね。そのころ、人生五〇年と言われているときで、それで四〇歳でしょ。ときどき、母にとって人生とか、子供とか、家庭とは何だったんだろうって思うわね」

 六十八歳で亡くなった母は、いわば人生を真っ二つに割った人だった。前半はともかくとして、後半の再婚後の人生は、母にとって幸せだったろうか、これもまたよく考えることだ。

母は本当はどう生きたかったのだろう。本当に再婚したかったのだろうか、八人の子供のところに帰りたかったのではないか、私が生まれたために、母は八人の子供を犠牲にしたのではないか。

「ま、母の話はこんなころだけど、人の一生って何が正解なのか分からないわね。私もふらふらしていて、母のようになることを恐れながら、期待しているところもあって、これがなかなか複雑なのよ」

 私としては、母は再婚して正解だったと思いたい。”姉”の一人が、お母さんという人は沖藤さんと出会ってようやく落ち着いたのよ、といってくれたことがある。多分彼女の言うとおり、母は父と再婚して、落ち着いたのだろう。

そして私自身は”落ち着いて”いるのかいないのか。再婚は私にとって、飲んではいけない毒薬であり、一度飲んでみたい毒薬でもあるのだ。結婚は一回でいい、もうこりごりと言いながら、本当は全然懲りていないのではないか。

「私、いつも思うんだけど」
 山野さんが深い目を私に向けた。

「私は、再婚してこれが私の生き方なんだって納得がいったんです。結婚というものに懲りたわけでもないし、自分にふさわしい相手が現れれば、そっちが正しいんだって思えた。人は結婚という”形”だけでは生きられない。愛がなくては生きられないんですもの」

「愛せずには生きられない。それはすごくよくわかる。だけど、永遠に続く情熱もない。じゃこれからも、こっちのほうがもっと正しいと思える人が現れたら、そのときはまた、愛せずには生きられないと思うのかしら」

 話はまた愛情追及論に戻った。どんな情熱も永遠には続かない。この過酷な事実に、これまでどれだけ多くの女や男が苦しんできたことだろう。愛せずには生きられないと思ったら、再婚を繰り返すことになるのだろうか。

「私自身としては今の人で十分満足しているから‥‥。だけどもしそうなったら、そのときはまた考えるかもしれない。行動するかどうかは別にして」

「今の結婚を壊さないで、心の中で愛し続ける?」
「そうなるかもしれない。ただ仮定のことだけど」
 大谷さんが、異議を唱えた。

「私は、今の人以外の人なんて考えられないわ」
 彼女はあたかもこの情熱を永遠に続かせると宣言しているかのように、きっぱりと高らかにいった。結婚という日常の現実のなかで腐蝕していくものを、絶対に食い止めて見せるとでもいうように。多分彼女は愛情追求の終着点、ゴールに達したのだろう。

「なかなかそう言い切れる人はいないのよ」
 と、私。断言できる彼女がうらやましい。

「ただ私も」
 山野さんはいう。
「再婚して生き返った、そのありがたさは忘れない。形の上では再婚だったけど、精神的には初めての結婚だったし、今の人に忠実に生きていこう、それははっきり思っているんです」

 初婚であれ、再婚であれ、その人とは初めての結婚。そこに結婚のおもしろさと難しさがあるのだろうが、彼女は、再婚によってはじめて人を愛することを知ったという。

 だが、再婚する理由、しない理由、いずれも簡単に結論の出るものではない。ここに集まった五人もそれぞれに理由を持っている。今のところは一人身がいいけれど、さきのことは分からないという岸田さん、妻・勤続疲労だというIさん、同じく疲れた疲れたと言いながら、あれこれ理由をくっつけて結婚生活三十二年の現状にぬくぬくしている私、新しい恋人の出現が再婚へのエネルギーとなった大谷さんと山野さん、各人多様なのだ。

 その一方で、社会も変わりつつある。離婚・再婚を、結婚不適格者、”またか、の烙印”で見る眼は少なくなっているように思う。婚姻件数に占める再婚の割合は、戦後はともかくとして、昭和五〇年代以降、確実に増え続けている。しかも、死別でなく離別の再婚だ。

 再婚には、離別のドラマがくっつく時代となった。その別れがもたらした衝撃が、再婚の幸福性を裏打ちしているように思う。別れの理由が、次の結婚に意味を与えている。別れがもたらした出会い、出会いがもたらした別れ、これが新しい時代の再婚である。

 私は、別れの理由を探ることで、再婚の意味を知ろうとした。再婚とは何なのか、その扉を開けるカギとしての離別。その第一番目の回答者として現れたのが、山野桂子さんだった。前述のように彼女は、明治のイエ制度の精神的名残を引きずったために、出直しが必要だった。

 それではまず彼女の、古い桎梏(しつこく)からの脱出の物語を始めることにしよう。彼女の再婚のドラマは――。
つづく 第2愛さずにはいきられない