けれども、いくら家族に迷惑をかけていないと言われようと、中には、
「そんなことをしたら、離婚されてしまうわ。うちの夫はそんな理解なんてありませんもの」
と言う人もいるかと思います。
ここにもまた、理解してくれない夫の存在を嘆く姿があります。本当に理解がないのでしょうか。理解させるためには行動(あるいは実績)が必要なのですが、それを示しているのでしょうか。
もし、それをやっていてもなお理解を示さないのなら、男を選ぶ目がなかったということで、自らの責任において、次の行動を考えればいいのですし、1章の妻のように見切りをつける必要もありましょう。
月一回の日曜日は、子どもと二人を夫に託して都心に出かけることにしている妻は、こんなふうに言いました。
《告白34》「最初は、なかなか分かってくれなかったんです。私の中にも後ろめたい思いがありましたし。だけどせめて月に一回、子どもや家から解放されて独身の時のように歩き回りたいんです。
その一日があることで、残りの一ヶ月が機嫌よく頑張れるんですもの。夫には悪いと思いましたけど、ヒステリー起こすよりいいでしょって言って出ることにしたんです」
その日、彼女はデパートを歩いたり、ついでに展覧会をのぞいたり、映画を見たりします。時には、こんなこともしていいのかなと思ったり、一人になりたいと思っても、いざ一人で出歩いてみると淋しかったりしましたが、慣れるにつれて、
今度は何を見ようかと新聞の案内欄を真剣に調べたり、自分の興味の方向を徐々に定まってきたと言います。最近は、図書館で調べ物をしてノートを取ったりすることも多くなったということです。
前にも述べたように、私は働くことにしろ、何か自分のやりたいことにしろ、”育児から手が離れたら”とする考えには反対なのです。時間が連続しているように、人間のすることすべて連続しているのです。
育児の間から好奇心の根を張り、テーマと言えるほど立派なものでなくていいのですから、関心の分野を広げておいて、やがて徐々に、それを一つに絞っていくことのほうが柔軟な生き方だと思います。
つまり、母性の中の子どもを育てる部分と、自分を育てる部分との二重構造に無理なく付き合っていくことです。
この彼女なども、夫に上手に迷惑をかけているわけですが、大きな目で見れば、迷惑でも何でもない。実に爽(さわ)やかな生き方と言えるでしょう。女の中には子どもから解放されたい、思い切り笑ったり泣いたりして楽しみたい。
そう思う気持ちがあって当然ですし、子どもにとっても、父親と接するいい機会なのです。かなり多くの家庭では、母親が父親との間に立って通訳を務めているのではないでしょうか。と同時に、妻が意外とわかっていないのは、
《告白35》「女房も好きにやってほしいんだよ。やりたいこともやれないないとか、オレの犠牲になっているとか、そういう目で見られるとやりきれないよ。何もかも、オレの責任にしないでほしいよ」
とする夫の気持ちもあるのです。その言葉の裏には、家庭的でない夫の、妻に関わりたくない気持ち、オレはオレで勝手にやるから、お前も勝手にやってくれとする責任回避の匂いも感じますが、
夫は妻が思うほどには”迷惑”を感じていないのかもしれません。案外、妻一人自縄自縛(じじょうじばく)で、自由を奪っているのは妻の思い込みの場合があるものです。
ここまで書いてきて、私は思うのですが、夫と妻というのは、たしかに生活上、育児上ではパートナーでありますが、お互いの精神世界、言ってみれば「人生」のうえでは、必ずしもパートナーでなくてもいいのではないでしょうか。
人生観や興味、やりたいことが一致していなくとも(前にも述べたように一致していれば、素晴らしいことですが)、それだからと言って、夫婦の質が落ちるということはないと思います。
ただ現実は、夫があまりにも妻の心に無関心で分からなさすぎることに、妻の側の淋しさや苛立たしさ、失望があるのですが、心の世界は原則として別々であっていいと割り切る(現状では割り切らざるをえないのですが)のも、気持ちが楽になると思うのです。
生活上のパートナーとしては、夫は充分に妻を評価していると思います。
第一勧業銀行が東京都内のサラリーマンに「奥さん評価」調査をしたところ、女房の平均点は八二点と出たそうです。四人に三人までが「結婚してよかった」と答え、家事能力や家計のやりくりにも八割近くが合格点を与えています。
妻の心を理解することなく妻に満足している夫族――皮肉な感じもしますが、家事や家計のやりくりにうんざりしている女房族にとっては、離縁されることを恐れずに、自分のやりたいことをやりなさいと教えてくれるデータでもあります。
妻がともすれば陥りがちなくれない症候群、これから抜け出すにはどうすればいいのでしょうか。これまでも縷々(るる)述べてきましたが、突き詰めてみれば、自分自身がひとりの女として評価される世界を持つ。そのために努力することに尽きるのではないでしょうか。
妻が求めるのは”女房業”以外のところでの評価
『人間性の心理学』などの名高いアメリカの心理学者、アブラハム・マズローは、人間の欲求を低次のものより高次のものへと、次の五つの階層に分けています。
(一) 生理的欲求 (二)安全の欲求 (三)所属と愛情の欲求 (四)尊敬(評価)の欲求 (五)自己実現の欲求。
多くの妻たちは、飢えとか睡眠とか性とか、生理的なことは満たされています。夫の庇護のもとにあるということで、安全と安定の欲求は満たされています。
一家の主婦であり、妻であり、母であることで所属の欲求も満たされているでしょう。この点においては、妻の座を得たものは、独身者に比べれば恵まれていると思うのです。
けれど、所属の欲求のもう半分、愛情欲求のところが分裂しています。愛する対象として子どもはいるかもしれないけれど、夫はもはや愛の対象でないし、セックスもおざなりのもの。異性を愛すること、さらにはもっと大きい何かを愛することに飢えています。
さらに四段階の”尊敬(評価)”その上の”自己実現”になると、はるか手の届かないものになってしまっています。つまり、今の妻は(二)と(三)の間の段階にいるということになります。
愛にしろ、尊敬にしろ、自己実現にしろ、それを基本的に支えるところで、自分はいかに他者から”評価”されているかが、あまり見えていないのではないかと思います。
「そんなことはありませんよ。家族は口には出さないけどちゃんと評価しているじゃありませんか。それ以上のことを求めるのなんて贅沢ですよ」
と思う人もいるかもしれません。たしかにアンケートでも、夫は評価してくれているのです。
けれども、これまで多くの妻の生々しい声をみてきたように、今、妻が求めているのは、そうした”女房業”以外のところでの評価なのです。旧来の女の役割論を超えたところでの評価を求め、家事・育児は女の天職であり、これほど素晴らしいものはないとするタテマエに対して、ホンネのところでは納得していないのです。
しかしながら、ここもまた落とし穴がいくつかあって、まず、多くの女が評価を求めるとき、そこにはプラスの評価しか頭の中にないのではないか。私はそのことがとても気になります。
人は誰しも褒められれば嬉しいもの。けれど、現実に社会に出て何かをしようとすれば、プラスの評価よりもずっと多いのがマイナスの評価です。
私の一五年の職業生活、及びその後の仕事にしても、ケチョンケチョンにくさされ、手直しを要求され、自尊心もへったくれもないほど叩かれます。いやな思いを味わうために働くのか、と思ったことは数知れずです。
多くの女は、このことに耐えられないでいます。私の男性の友人が言いました。
《告白36》「女の人は叩かれた時、叩かれた痛みだけが心に残って。なぜ叩かれたのかを考えようとしないですね」
まことに痛烈な女性批判ですが、私としても思い当たることが多く、その被害者意識の中で、自分を甘やかしてしまっているように思います。
家庭の中に居れば、自尊心を叩かれる嫌な思いというものは味わわなくてすみます。褒めてくれる人もいない代わりにくさす人もいない。その無風状態は、ぬるま湯のような心地よさがあります。
しかも長いこと家に閉じこもっていると、社会に出て叩かれることに臆病にもなります。そして、それゆえに苛立ちも膨らんでいく‥‥。この悪循環を断ち切るためにも、人との交わりの中で、悔し涙を流すことが必要なのではないでしょうか。
まず痛みを感じ、なぜ叩かれたか考えてみる、そして叩いた人を味方に引きずり込んでいく。そのことは大事なことです。人間一人の知恵などたかが知れているものです。
にもかかわらず、なんと人は自分の知恵に固執するものでしょうか。これは、ある編集者の女性批判です。
「僕は女性の物書きとは組みたくないんですよ。そこをこう直したらどうかと言っても、頑固に自説を枉(ま)げないんですね。すぐに不機嫌になってしまって」
欠点を指摘されて機嫌のいい人など、男だってそうザラにいるものではありません。人と人との関係には、夏目漱石の言うように、精神の交換作用、言ってみれば相性というものがあるのですから、
あの人なら素直にやるけれど、あの人なら不愉快だ、ということはあるものです。けれど基本的には、いい意味で他人の知恵を上手に利用することは、自分が伸びていくうえで大切なことです。
ですから、叩かれることを恐れずに、ニコニコ叩かれること。その中で自分を鍛えていく姿勢を持ち続けられるかどうかによって”評価”というものも、マイナスからプラスに変換していくことができるようになると思います。
さらに、女は”評価”を求めることに性急であり過ぎると思います。過日、ある会社の人事部長と、女性の人材活用について話し合いをしたのですが、こんなことを言っていました。
《告白37》「同じ大卒で、男も女も同じ仕事をやらせています。賃金・待遇にも差別はありません。ところが、男性は五年ぐらい修行という気持ちがありますが、女性は男と同じことでも、こんな仕事は嫌だとかつまらないとか、不平不満が多くて困っているんですよ」
プラスの評価をされる生活を得るには、評価の得られない長い修業の生活を経なければならないということでしょうか。息の長さが必要だということになります。
このあたりを考えてみれば、女の心の中には評価してくれないとする、例の病いがあるのかもしれません。ただ、社会一般を見れば、女というものに対する偏見から、実籍を正当に評価しないという風潮は依然強くあることは事実です。
それを撥ね返していくには、今、あらためて女たちが力を出していかなければならないのですが、それ以前の意識の問題として、女自らも評価はプラスのものだけではない。叩かれる痛みの原因を考える必要もまたある、ということなのです。それどころか、叩かれること自体、自分が期待されている証明であり、叩かれたり嫌味を言われることがなくなれば、その人間関係は終わったに等しいと覚悟する必要があるのです。
くれない症候群を問い直すための評価を求める妻の生き方は『シンデレラ・コンプレックス』(三笠書房刊)の著者、コレット・ダウリングの次の言葉に要約されるのではないでしょうか。
「まず女性が認識しておくべきは、恐れや不安がどれほど自分の人生を支配しているかということです‥‥恐れることを止めないかぎり、女性は自由になれないでしょう。私たちをがんじがらめにしている不安や恐れを取り除くのは、
洗脳され、この身になじんでしまったことから必死に脱却することです‥‥心理的依存心を太らせ守っているのは自分自身である、ということを自覚すれば、力が湧いてくるものです」
つづく 第九
(2) はたして”妻の自立”は”家庭の敵か”か
――生きがいとしての仕事と、家庭を両立させる方法を求めて