ある妻は、とりたてて不平不満のない毎日の中で、モヤモヤとした出口のない空虚感を抱え、ある妻は、これが結婚というものの正体なのかと驚き、心の浮気や婚外セックスに走ったりします。

赤バラ煌きを失った夫婦はセックスレスになる人が非常に多い、新鮮な刺激・心地よさを与える特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致を改善しセックスレスになるのを防いでくれます。

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第八女の桎梏(しつこく)”を乗り超えた妻たち

本表紙 沖藤典子 著

―――”夫に養われる身”から”自分に生きる”女へ

(1)”くれない症候群”からの脱出

 ―――「夫はわたしをまんぞくさせてくれない」と悩んでも。何も解決しない
 結婚生活の羅針盤(らしんばん)を自分で探すしかない
 現代は、妻にとって悩みの時代と言っても過言ではありません。
高学歴の主婦が増えて、家事時間の減少と自由時間の増大は、主婦にさまざまな可能性を与えてします。働く女性の半分以上が主婦であり、一〇年以上のロング・キャリアの女性も二割に達しています。女性管理職も増えてきました。

学ぶ主婦、ボランティアなどの社会的活動をする主婦も増えました。六万人とも一〇万人とも言われる”カルチャーセンター族”をはじめ、婦人学級や公民館活動をする主婦の増加は、いまや”奥さん”は死語となり、”ソトさん”と言わねばならないと言われるほどです。

それでは、これら”ソトさん”が、ソトに出ることによって心が満たされ、精神的にも豊かな毎日を送っているかといえば、必ずしもそうではないのです。働いても、学んでも、趣味をやっても心は満たされない。自分は何者なのか、どうやって生きたいのか、心の内へ内へと問いかけてくる疑問に、回答を探しあぐねてするのが現実です。

ある妻は、とりたてて不平不満のない毎日の中で、モヤモヤとした出口のない空虚感を抱え、ある妻は、これが結婚というものの正体なのかと驚き、心の浮気や婚外セックスに走ったりします。

そうした女たちの胸の中には、結婚幻想や期待しすぎてしまった家庭生活への幻滅、甘さを失った夫婦関係、満たされないセックス、自らを縛り付ける母性愛神話などが渦巻いています。

けれど一方では、夫の人間性や生活態度にこれ以上我慢はできないと、家を飛び出す主婦も出現しはじめました。孤独や経済的不安を恐れずに、自分が人生の主人公であると、潔(いさぎよ)く積極的な行動力を示す妻たちです。女は離婚を恐れなくなりました。

こうした勇気ある妻と、そこまで決断のできない大多数の悩める主婦‥‥、帰結するところは、やはり夫婦関係ということになるでしょうか。

しかしながら、この夫婦の関係というものも、これまで見てきたとおり、一〇〇年前にイプセンが「結婚生活――この激しい海原を乗り越えていく羅針盤はまだ発見されていない」といった言葉そのまま、いまだに羅針盤は発見されていません。人は一生、それぞれの羅針盤を探して過ごすものなのかもしれません。

中年期の妻に抱く離婚願望や虚しい思い、それら多くは、夫の人間性に対する結婚時の過剰な期待や、家庭像への幻想的な期待に原因があると私は思っています。しかも、つきつめれば、この羅針盤探しを夫にだけ預け、結局、自らはその仕事に関わってこなかったではないでしょうか。

そして今、多くの女たちは自らの指針を求めはじめたのですか、彼女たちのものの考え方や行動の仕方は、なお混迷を抱え込んでいると思うのです。

新しい妻の生き方をめぐって、精神的に夫とどう関わっていくか、また社会的な環境において妻のエネルギーをどう発散させ、家庭という物をどう考えるのか、本章においては、夫とのかかわりあい、社会の中での女の位置づけ、この二点ついて考えてみたいと思います。

 あなたはくれない症候群を起こしていないか

 女は、あまりにも夫に太陽をもとめすぎる。これが多くの主婦に会った私の実感です。

《告白32》「私は、夫と共通の趣味を持ち、夫と理解あうことが大切だと思っています。夫からいい影響を受けることを期待しています」

これは、ある婦人学級で集まった中年の主婦の発言です。この願望は素晴らしいことだと思います。夫と同じ楽しみを持ち、それを語りあい、夫のすばらしさを再確認し、尊敬する。妻としてあらまほしきかなの姿です。けれど、妻たちのこういう期待を夫に持つことによって、どれだけ不幸を重ねてきたことでしょうか。

夫に対する不平不満の多くは、「私を理解してくれない」「会話をしてくれない」「いい影響を与えてくれない」、さらには「どこへも連れて行ってくれない」「プレゼントをくれない」‥…と、”○○をしてくれない”に尽きると思うのです。

最近流行の症候群という言葉を使えば、これぞまさしく”くれない症候群”というものです。
この妻の求めるものは、たしかに多くの妻の求めるものでもあるのです。彼女たちは、これが夫にとってどれだけ迷惑なものか、考えたことがあるでしょうか。さらには、無いものねだりであることに気づかないのでしょうか。

こうした妻は、夫に不平不満を重ねていくのです。

私は、妻は夫と同じ趣味を持つ必要もないし、豊かな会話がなければならないと思っていません。縁あって一緒に暮らすのですから、趣味も感じ方も一致していれば、それに越したことはありませんが、一致していなくてもいいものだと思っています。

マスコミなどが、あまりにこの”一致”や”理解”を強調することにも責任があると思いますが、これによって何か自分をひじょうに不幸に感じている妻も、もう一度考え直す必要があるのです。

 これは、つまり夫への精神的な依存性にほかなりません。最近は夫の出世や、○○夫人願望を持つ妻は少なくなりましたが、逆に、夫のこうした家庭的なものわかりのよさへの期待と依存欲求が強まっているのも事実です。

 女たちは、まるで”天動説”ならぬ”夫動説”を信じているようではありませんか。夫の光を期待する月です。平塚らいてう(らいちょう)が七〇年も前に言った「今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」と、そのまま精神的な化石となって、依然として女の心の中に根を下ろしているようである。

 私は、これらの女は、これからの妻は、これからの母は、この”天動説”の女という桎梏(しつこく)から逃れ、自らが光り輝く”地動説”の女へと向かわなければならないと考えています。 

夫に刺激を与えるような会話ができますか

 夫の会話が大事と言っても、いったい何を会話すればいいのでしょうか。一〇年も二〇年も連れ添っている夫婦に、そんなにしょっちゅう、心が弾む会話があると思う方がおかしいと私は思います。

会話には、知識・情報を伝える会話と感情を伝える会話とがありますが、多くの夫婦は、冷蔵庫を買い替えるとか子どものことなどの要件を主とする情報の会話しかしていません。それすらもない夫婦もいるかもしれませんが、夫婦の会話というのは、その程度のものです。

 こういう言い方は、あまりに現実肯定的すぎて、夫婦の理想を否定してしまっているかもしれません。まことに身も蓋もない会話ですが、私としては、夫に無いものねだりをして欲求不満に陥るよりも、自分自身の、あるいは自分勝手の世界を持ちなさい、と言いたいのです。

感情を語り合う会話や意見を交換し合う場を、夫に頼らず自分自身の判断で外に求めるほうが、よほど満足いくし、夫に酷な期待をしないですむと思うからです。

 このことは、夫を無視するといことではありません。それどころか、夫との会話を持ちたければ、妻もそれなりに会話力、つまり話題を持っていなければならないということです。夫が話題を提供してくれるのを待つだけの妻は、夫にとって、やはりつまらないのです。

 私は会社生活が長かったので、職場で働く男の実像をかなり見てきているつもりですが、彼らの多くが妻との会話を詰まらないと思っています。反応がない、ただ聞いているだけで発想に新鮮さがない、夫の琴線(きんせん)に響くものがない、と言います。

 だから、夫と会話を楽しみ、理解を深め合いたかったら、妻自身も何か”独自の世界”を持っていなければならない。逆説的ですが、夫に会話を期待しないところから、会話も生まれてくるということになるのです。つまり、いかに夫に刺激を与えるうる存在になるか、ということを自分に課すべきなのでしょう。

 私の心を感じさせてくれたのは、ある婦人学級の主婦のこんな話でした。

《告白33》「私、ずっと夫に不満だったのです。会話もない、お互い理解しあうものは何もないんです。冷たい夫婦だ。これでいいんだろうかと悩んでいたんですけど、ある時これだから夫婦じゃないかと、ふと思ったんです。

そう思うと、すっと胸が軽くなって、それから婦人学級の仕事を一生懸命やり始めたんですよ。夫は、初めのうちは反対していましたけど、このごろは、夫も私のやっていることに興味を持ちはじめてくれて、いろいろ聞くんです。だから、前よりも話し合うことが多くなりましたね」

 こんな話を聞くと、主婦のくれない症候群は、女自身が作り出しているものだと思わざるを得ません。

なぜ「何もやっていいのか分からない」のか

 それともう一つ、今、女が悩んでいることは「何かやりたいけど、何をやったらいいのか分からない」といこうだ。

 これもまた、よくマスコミなどで「何か一つ、これぞという生きがいを持ちなさい」と喧伝(けんでん)されたことの影響だと思います。

 何をやっていいか分からないというのは、ごく当たり前のことではありませんか。これ一つと打ち込んで疑問もなく、したがって他人への羨望(せんぼう)もなく、自分の人生を自分の感性の赴くまま切り拓いていく――そんな強烈な生きがいを持てる人など、そうザラに居るはずがないと私は思います。

最初から”これ”と決めて何かをすることは、実に難しいことなのです。私も会社を辞めて専業主婦になった時、八つのサークルに首を突っ込んでいました。

正直なところ八つというのは多すぎて、どれもモノにならなかったように思いますが、何か一つを見つけるためにはいろいろやってみるのも悪くはないし、その意味では消去法というのは、何かを発見するためのいい方法です。

“何か一つの生きがい”というのは、多くの試行錯誤から生まれてくるものだし、そのあと、これだと思うものに巡り合ったら、それにしがみついて「バカの一つ覚え」的な忍耐心が、やはり大切なのではないでしょうか。

 生きがいというものは、けっして自然発生はしてくれないし、天から降ってくるものではないのです。夫が何かアドバイスもしてくれない、気持ちを分かってくれない、と不平を言う妻もいますが、これも、的外れというものです。

「私には生きがいがないのです」
 と言う主婦は多いのですが、これを聞くたびに、私もまた、これぞという生きがいのない人間の一人として戸惑います。しかし、「生きがいなぞというものは、生きた結果、あとを振り返って言えるものではないか」――と考えるのです。”生きがい”というのは美しい言葉ですが、

それが最初から存在するものではなく、目の前にあることを、心の中ではつまらないと思いつつも、やり続けているうちに、結果として生きがいになっていくものだと思います。

 要は、好奇心を捨てないことではないでしょうか。さらには、継続していくことではないでしょうか。おもしろいこと、楽しいことばかりが生きがいではありません。つらくてつまらない仕事や、くさされてばかりいる絵や短歌。

でも何か心を懸けておけるもの。生きがいというのはその程度のものから大きくなっていくものだと思います。キラキラしたものだけが生きがいだと思い込むことも、くれない症候群の一つの症状です。

 家族に迷惑をかけることのすすめ

 けれど多くの主婦は、何かやりたいと思っても時間の制限があります。さらには、自分のことのために家族に不自由な思いや迷惑をかけているのではないか、と胸の痛む思いを味わいます。

急な雨で、子どもがびしょびしょ濡れに帰って来たりすると、自分のやりたいことのために子どもを犠牲にしている、とそれだけで自分を責めてしまいます。

 あるパートに出た主婦が、嬉しそうに言いました。
「主人が家庭に迷惑を書ない範囲ならいいって、許してくれたのよ」
 彼女は六時に起きて家事をやり、秋ともなれば山のような漬け物を仕込み、春は梅干しを漬け、子どもの弁当や、洗濯と、朝は主婦業をやってから出かけます。

どこかで手を抜かなくちゃ長持ちしないわよ、と気を揉む私を尻目に、約束通りに家庭に迷惑をかけていないのです。

 この時、私が感じた疑問は、妻たる者、家族に迷惑をかけてはいけない存在なのだろうかと言うことでした。

 私たちは子どもを育てる時、「他人に迷惑をかけないような人になりなさい」と言って育てます。けれど、それは社会生活のルールを守れということであり、社会や近隣において、絶対に迷惑をかけない、

迷惑を拒否するということは、考えてみれば恐ろしいことではありませんか。身障者や老人などを考えた時、社会のゆとりとは、ある程度の迷惑を許容し合うことだと思うのです。同じことが家庭生活にも当てはまります。

 夫や子どもに迷惑をかけない。そのことは妻、母として大切なことでしょうが、自分が迷惑をかけないという確信が強ければ強いほど、夫や子どもの迷惑(この二者は実に迷惑の大きな存在です)が許せなくなって、どうしようもなくなります。

ある程度迷惑をかけあってもいい。それが家庭というものであり、いわば家庭とは迷惑とその許容の総合体であると思うのです。

 けっして開き直っているのではありません。家庭とは、つねに「ごめんネ、すみませんネ」と言い合える雰囲気の方が楽だと思っているのです。ある男は「うちの女房は絶対にごめんと言わない女だよ」

と言っていましたが、こういう自分を立派だと思っている妻には、夫のほうも息苦しいのです。この妻は、自分の立派さを守ったために、今流行りの言葉で言えば思春期妻、強い離婚願望を抱いている妻なのですが、夫のほうもなかなかの思春期夫なのです。

 夫の告白「女房も自由にやってほしいんだよ‥‥」

 けれども、いくら家族に迷惑をかけていないと言われようと、中には、
「そんなことをしたら、離婚されてしまうわ。うちの夫はそんな理解なんてありませんもの」
 と言う人もいるかと思います。

 ここにもまた、理解してくれない夫の存在を嘆く姿があります。本当に理解がないのでしょうか。理解させるためには行動(あるいは実績)が必要なのですが、それを示しているのでしょうか。

もし、それをやっていてもなお理解を示さないのなら、男を選ぶ目がなかったということで、自らの責任において、次の行動を考えればいいのですし、1章の妻のように見切りをつける必要もありましょう。

 月一回の日曜日は、子どもと二人を夫に託して都心に出かけることにしている妻は、こんなふうに言いました。

《告白34》「最初は、なかなか分かってくれなかったんです。私の中にも後ろめたい思いがありましたし。だけどせめて月に一回、子どもや家から解放されて独身の時のように歩き回りたいんです。

その一日があることで、残りの一ヶ月が機嫌よく頑張れるんですもの。夫には悪いと思いましたけど、ヒステリー起こすよりいいでしょって言って出ることにしたんです」

 その日、彼女はデパートを歩いたり、ついでに展覧会をのぞいたり、映画を見たりします。時には、こんなこともしていいのかなと思ったり、一人になりたいと思っても、いざ一人で出歩いてみると淋しかったりしましたが、慣れるにつれて、

今度は何を見ようかと新聞の案内欄を真剣に調べたり、自分の興味の方向を徐々に定まってきたと言います。最近は、図書館で調べ物をしてノートを取ったりすることも多くなったということです。

 前にも述べたように、私は働くことにしろ、何か自分のやりたいことにしろ、”育児から手が離れたら”とする考えには反対なのです。時間が連続しているように、人間のすることすべて連続しているのです。

 育児の間から好奇心の根を張り、テーマと言えるほど立派なものでなくていいのですから、関心の分野を広げておいて、やがて徐々に、それを一つに絞っていくことのほうが柔軟な生き方だと思います。

つまり、母性の中の子どもを育てる部分と、自分を育てる部分との二重構造に無理なく付き合っていくことです。

 この彼女なども、夫に上手に迷惑をかけているわけですが、大きな目で見れば、迷惑でも何でもない。実に爽(さわ)やかな生き方と言えるでしょう。女の中には子どもから解放されたい、思い切り笑ったり泣いたりして楽しみたい。

そう思う気持ちがあって当然ですし、子どもにとっても、父親と接するいい機会なのです。かなり多くの家庭では、母親が父親との間に立って通訳を務めているのではないでしょうか。と同時に、妻が意外とわかっていないのは、

《告白35》「女房も好きにやってほしいんだよ。やりたいこともやれないないとか、オレの犠牲になっているとか、そういう目で見られるとやりきれないよ。何もかも、オレの責任にしないでほしいよ」

 とする夫の気持ちもあるのです。その言葉の裏には、家庭的でない夫の、妻に関わりたくない気持ち、オレはオレで勝手にやるから、お前も勝手にやってくれとする責任回避の匂いも感じますが、

夫は妻が思うほどには”迷惑”を感じていないのかもしれません。案外、妻一人自縄自縛(じじょうじばく)で、自由を奪っているのは妻の思い込みの場合があるものです。

 夫と妻は『人生』のパートナーでなくていい

 ここまで書いてきて、私は思うのですが、夫と妻というのは、たしかに生活上、育児上ではパートナーでありますが、お互いの精神世界、言ってみれば「人生」のうえでは、必ずしもパートナーでなくてもいいのではないでしょうか。

 人生観や興味、やりたいことが一致していなくとも(前にも述べたように一致していれば、素晴らしいことですが)、それだからと言って、夫婦の質が落ちるということはないと思います。

 ただ現実は、夫があまりにも妻の心に無関心で分からなさすぎることに、妻の側の淋しさや苛立たしさ、失望があるのですが、心の世界は原則として別々であっていいと割り切る(現状では割り切らざるをえないのですが)のも、気持ちが楽になると思うのです。

 生活上のパートナーとしては、夫は充分に妻を評価していると思います。

 第一勧業銀行が東京都内のサラリーマンに「奥さん評価」調査をしたところ、女房の平均点は八二点と出たそうです。四人に三人までが「結婚してよかった」と答え、家事能力や家計のやりくりにも八割近くが合格点を与えています。

 妻の心を理解することなく妻に満足している夫族――皮肉な感じもしますが、家事や家計のやりくりにうんざりしている女房族にとっては、離縁されることを恐れずに、自分のやりたいことをやりなさいと教えてくれるデータでもあります。

 妻がともすれば陥りがちなくれない症候群、これから抜け出すにはどうすればいいのでしょうか。これまでも縷々(るる)述べてきましたが、突き詰めてみれば、自分自身がひとりの女として評価される世界を持つ。そのために努力することに尽きるのではないでしょうか。

 妻が求めるのは”女房業”以外のところでの評価

 妻が求めるのは”女房業”以外のところでの評価
『人間性の心理学』などの名高いアメリカの心理学者、アブラハム・マズローは、人間の欲求を低次のものより高次のものへと、次の五つの階層に分けています。

(一) 生理的欲求 (二)安全の欲求 (三)所属と愛情の欲求 (四)尊敬(評価)の欲求 (五)自己実現の欲求。

 多くの妻たちは、飢えとか睡眠とか性とか、生理的なことは満たされています。夫の庇護のもとにあるということで、安全と安定の欲求は満たされています。

一家の主婦であり、妻であり、母であることで所属の欲求も満たされているでしょう。この点においては、妻の座を得たものは、独身者に比べれば恵まれていると思うのです。

 けれど、所属の欲求のもう半分、愛情欲求のところが分裂しています。愛する対象として子どもはいるかもしれないけれど、夫はもはや愛の対象でないし、セックスもおざなりのもの。異性を愛すること、さらにはもっと大きい何かを愛することに飢えています。

 さらに四段階の”尊敬(評価)”その上の”自己実現”になると、はるか手の届かないものになってしまっています。つまり、今の妻は(二)と(三)の間の段階にいるということになります。

愛にしろ、尊敬にしろ、自己実現にしろ、それを基本的に支えるところで、自分はいかに他者から”評価”されているかが、あまり見えていないのではないかと思います。

「そんなことはありませんよ。家族は口には出さないけどちゃんと評価しているじゃありませんか。それ以上のことを求めるのなんて贅沢ですよ」

 と思う人もいるかもしれません。たしかにアンケートでも、夫は評価してくれているのです。

 けれども、これまで多くの妻の生々しい声をみてきたように、今、妻が求めているのは、そうした”女房業”以外のところでの評価なのです。旧来の女の役割論を超えたところでの評価を求め、家事・育児は女の天職であり、これほど素晴らしいものはないとするタテマエに対して、ホンネのところでは納得していないのです。

 しかしながら、ここもまた落とし穴がいくつかあって、まず、多くの女が評価を求めるとき、そこにはプラスの評価しか頭の中にないのではないか。私はそのことがとても気になります。

 人は誰しも褒められれば嬉しいもの。けれど、現実に社会に出て何かをしようとすれば、プラスの評価よりもずっと多いのがマイナスの評価です。

 私の一五年の職業生活、及びその後の仕事にしても、ケチョンケチョンにくさされ、手直しを要求され、自尊心もへったくれもないほど叩かれます。いやな思いを味わうために働くのか、と思ったことは数知れずです。

 多くの女は、このことに耐えられないでいます。私の男性の友人が言いました。
《告白36》「女の人は叩かれた時、叩かれた痛みだけが心に残って。なぜ叩かれたのかを考えようとしないですね」

 まことに痛烈な女性批判ですが、私としても思い当たることが多く、その被害者意識の中で、自分を甘やかしてしまっているように思います。

 家庭の中に居れば、自尊心を叩かれる嫌な思いというものは味わわなくてすみます。褒めてくれる人もいない代わりにくさす人もいない。その無風状態は、ぬるま湯のような心地よさがあります。

しかも長いこと家に閉じこもっていると、社会に出て叩かれることに臆病にもなります。そして、それゆえに苛立ちも膨らんでいく‥‥。この悪循環を断ち切るためにも、人との交わりの中で、悔し涙を流すことが必要なのではないでしょうか。

 あなたはマイナスの評価に耐えられるか

 まず痛みを感じ、なぜ叩かれたか考えてみる、そして叩いた人を味方に引きずり込んでいく。そのことは大事なことです。人間一人の知恵などたかが知れているものです。

 にもかかわらず、なんと人は自分の知恵に固執するものでしょうか。これは、ある編集者の女性批判です。

「僕は女性の物書きとは組みたくないんですよ。そこをこう直したらどうかと言っても、頑固に自説を枉(ま)げないんですね。すぐに不機嫌になってしまって」

 欠点を指摘されて機嫌のいい人など、男だってそうザラにいるものではありません。人と人との関係には、夏目漱石の言うように、精神の交換作用、言ってみれば相性というものがあるのですから、

あの人なら素直にやるけれど、あの人なら不愉快だ、ということはあるものです。けれど基本的には、いい意味で他人の知恵を上手に利用することは、自分が伸びていくうえで大切なことです。

 ですから、叩かれることを恐れずに、ニコニコ叩かれること。その中で自分を鍛えていく姿勢を持ち続けられるかどうかによって”評価”というものも、マイナスからプラスに変換していくことができるようになると思います。

 さらに、女は”評価”を求めることに性急であり過ぎると思います。過日、ある会社の人事部長と、女性の人材活用について話し合いをしたのですが、こんなことを言っていました。

《告白37》「同じ大卒で、男も女も同じ仕事をやらせています。賃金・待遇にも差別はありません。ところが、男性は五年ぐらい修行という気持ちがありますが、女性は男と同じことでも、こんな仕事は嫌だとかつまらないとか、不平不満が多くて困っているんですよ」

 プラスの評価をされる生活を得るには、評価の得られない長い修業の生活を経なければならないということでしょうか。息の長さが必要だということになります。

 このあたりを考えてみれば、女の心の中には評価してくれないとする、例の病いがあるのかもしれません。ただ、社会一般を見れば、女というものに対する偏見から、実籍を正当に評価しないという風潮は依然強くあることは事実です。

 それを撥ね返していくには、今、あらためて女たちが力を出していかなければならないのですが、それ以前の意識の問題として、女自らも評価はプラスのものだけではない。叩かれる痛みの原因を考える必要もまたある、ということなのです。それどころか、叩かれること自体、自分が期待されている証明であり、叩かれたり嫌味を言われることがなくなれば、その人間関係は終わったに等しいと覚悟する必要があるのです。

くれない症候群を問い直すための評価を求める妻の生き方は『シンデレラ・コンプレックス』(三笠書房刊)の著者、コレット・ダウリングの次の言葉に要約されるのではないでしょうか。

「まず女性が認識しておくべきは、恐れや不安がどれほど自分の人生を支配しているかということです‥‥恐れることを止めないかぎり、女性は自由になれないでしょう。私たちをがんじがらめにしている不安や恐れを取り除くのは、

洗脳され、この身になじんでしまったことから必死に脱却することです‥‥心理的依存心を太らせ守っているのは自分自身である、ということを自覚すれば、力が湧いてくるものです」
つづく 第九
(2) はたして”妻の自立”は”家庭の敵か”か
――生きがいとしての仕事と、家庭を両立させる方法を求め

煌きを失った夫婦はセックスレスになる人が非常に多い、新鮮な刺激・心地よさを与える特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致を改善しセックスレスになるのを防いでくれます。