夫が妻に対して”女”を感じなくなり、他の女に目を向けていく現象は、共同通信社の調査でも、四〇代、五〇代の夫の六割は妻以外の女性に関心がある、と答えていることからも明らかです(妻は二割程度)。
それでは、家庭の中でその”馴れてしまった”妻はどうすればいいのでしょうか。それを男の生理の必然として認めてしまっていいものでしょうか。
これまでの妻たちは、それも仕方ないと諦めてしまってきたのでしょう。けれど、自我に目覚めた女たちは、そうした夫の身勝手を許さないし、それにもまして、自分の中にも「クーリッジ効果」のあることを認め出しています。
ただ、女の場合は、恋愛結婚一〇年目の三児の母は言います。
《告白19》「長い結婚生活ですから、ただ夫に尽くすのみなどといった貞操感はないのですが、今のところは夫が満足させてくれているし、夫以外のセックスフレンドを持ちたいとも思っていません。
でも、精神的な面では、男友達がもっとたくさんできるといいと思っています。男対女のステキな関係は、夫婦にとってもよい刺激になると思うんです」
さらに、彼女は、こうも付け加えます。
「そこに純粋なものもがあれば、倫理観とか常識とかにこだわらなくていいじゃないかしら。夫は夫として大切な人なんだし、女だって純粋な夢を持っていいと思うの」
彼女は二度も「純粋」という言葉を使って、ひたむきに心をのめり込めさせるような何ものかを求めているのです。しかも、夫や家庭を大切にしたうえで、いえ、それよりも大切なものとして守るエネルギーを補給するためにも、心を弾ませるものを持っていたい。そのためには「純粋」であることが必要だというのです。
こうした乙女のような憧れ。楽しい会話をして自分が生き生きとするための時間。そして、その時間を共にする男を求める思い。これは、どの妻もが抱いている願望なのです。
日本の社会は、男は男だけで集まり、女は女だけで集まるホモ社会、レズ社会です。もっと男と女が集まって、気軽に付き合うチャンスがあってもいいのではないでしょうか。
それによって、男も女も、お互いの色気というものを確かめあうような場がほしいと思います。それが欠落しているゆえに、男女とも付き合い方が下手だというのが私の実感であり、浮気願望もこのあたりから出ているのではないでしょうか。
見合い結婚して十四年目の三十七歳の主婦は、浮気は絶対に許せないと思っています。それにもかかわらず、夫と結婚する前に付き合っていた男のことを一日も忘れたことがないと言うのです。
《告白20》「今ごろ彼の家庭ではどうだろうか、私だったらどうしていただろうかと、自分の家庭に彼を当てはめて考えてみるのです。そう言う思いに耽(ふけ)っているときが一番楽しくて‥‥」
彼女は、その在りし日のロマンをしっかりと胸に抱え込んで、そのロマンの中で生きているということでしょうか。
今、多くの妻たちが求めているものは、このロマンです。それを夫に求めようとしても、夫はもはや”男”として魅力的でない。妻にとっても、やはり夫は”空気”のようになっているのかもしれません。そして、安全なところで自分の情緒を満足させてくれるような”男”はいないものか。彼女らの心はこうした男が永遠に見つかりはしないと知りつつも、なお、それに飢え続けるのです。
はっきりと「浮気したい」と述べた妻『現代』の調査では、結構おりました。
三十五歳の恋愛結婚十二年目の妻は、
《告白21》「一〇年以上も一緒に生活していると、時には別の人と‥‥という感じで、浮気もしてみたいと思います。それによって今の生活がよりよくなる場合も考えられますもの。でも、それにどっぷりのめりこんでしまうだろう自分を思うと恐ろしいのですが‥‥。
ちょっとした子どものお遊びのようなものなら、お互いいいこともあるような気もします。やっぱり最終的には家に帰れる浮気でないと。そういう浮気ならいいですね」
また別の三十五歳の主婦も、
《告白22》「家族を悲しませるようなことがなく、イキイキできるような毎日で、美しいと感じられる毎日があるなら、浮気もいいと思いますよ」
と、あくまでも家庭を大切にしたうえで浮気を――これは男の浮気願望と似通っていることでしょう――を求めています、彼女たちの弁には、家庭をよくするために、つまり幸せな自分があることによって家庭を守るために、その大義名分のもとに浮気したいとでもと言っているかのようです。
実際にそういう男が現れた場合、彼女たちが思っているように都合よくいくかどうか、それはわからないにしても、妻の心の中にこうした異性へのあこがれ、欲求、そこに満たしたい自分の存在感、永遠のロマンへの夢等々が渦巻いてします。
けれど、こうしたロマンを求める女は、むしろ少数派でした。大部分の女は、妻としてのモラルを頑強に守ろうとする、実にしかりした主婦たちです。
《告白23》「浮気しないと女でない騒ぐマスコミに、腹が立ってたまりません。女の浮気は家庭崩壊のもとです。うす汚くて、そんなことに費やすエネルギーはほかのことに向けるべきです。私なら、もしステキな人が現われても、子どものことを思ってセーブするでしょう。子供にとって恥ずかしくない親でありたいと思います」
彼女は見合い結婚一〇年目の四〇歳、四児の母ですが、理知的で、三十代前半に見えるなかなかチャーミングな人です。けれど彼女は、けっして生活に満足しているわけではありません。
毎日には生きがいと感じるものもないし、これでいいのかとする焦りも強い。夫に対しても不満だらけです。夫は、女とはこんなものだと決めつけてくるような男。夫婦で一緒に楽しむこともなければ、共通の趣味や共感を持つ話し合いもありません。
夫はいつも自分のことしか考えない男‥‥。心の片隅に「フリー・セックスのできる人はいいなあ」とする思いもあるのですが、彼女にとって、妻であり母であるタテマエを押し通して生きることが、今の自分の支えです。
彼女のようなタイプは、必ずしも道徳観に縛られた古い観念的な女とは言い切れないでしょう。彼女のように思っていなければ、毎日がやりきれないのが現実です。彼女の言葉は心を安定させるための防衛と言っていいかもしれません。
多くの女性は、こうした自らのガードのもとに、夫への不満を押しとどめて、自分が”女”であることを忘れることで、これから人生を生きて行こうとしていると言っても過言ではありません。
ごく大雑把にいえば、妻が一〇人いるとして、六人がこうしたなんらかのタテマエによる観念派、三人が心の浮気も含めてロマン追求派、一人が浮気実践派――この時の調査結果はこうなりました。
=差し込み文書=
近年の女性たちはエクササイズ教室等でのインナーマッスル鍛錬する運動が盛である。
自分の性感を高める、パートナーの男性を性的に堪能させるための運動ででもある。
インナーマッスル鍛錬は夫をあるいはパートナーを虜にしていたいという情念が常に女にはあり、すぐれた熟女(濃厚なオーガズム知る女・膣筋肉を自在に締め付ける力もつ女・男を堪能させ得る女)、でありたいと思うものの、そのすぐれた熟女になる方法も仕方も解らないし、それを自ら試す方法も仕方わからないという。
これらの仕方がわからない、努力しない多くの女性たちが、性生活が面白くない、楽しくない、面倒で仕方ないという理由からセックスレスに陥って、離婚という最悪の事態になっていく。
しかし、時間とお金がない人にとっては羨望にしかないが、日常生活(台所仕事)等でつま先立ちで洗い物をするとか工夫次第でいくらで鍛錬する方法もある。
夫婦のセックスの問題はさまざまであり、また難しい問題です。
セックス・カウンセラーや弁護士のもとを訪れる妻の中には、夫の異常な性欲や、異常行為を求める夫に苦しむ妻もおりますし、不感症に悩んでいる妻もいます。夫に触られるのも嫌だとする特別の拒否感を持っている妻もいます。夫の浮気で、何年もセックスのない妻もいます。
一方、夫の方でも妻とセックスできないという男性も増えているそうです。家に帰るとセックスを要求されるのではないか、妻を満足させられないのではないかという恐怖心による心因性インポテンツ。
妻の心ない一言や優しさを感じられないのが原因で、ほかの女性とならできるという話です。中年になって妻には性欲を感じなくなった男が、ほかの女とのセックスで生き生きとし(クーリッジ効果)、仕事に励む。これは残念ながらよく聞く話です。
これには妻の方にも原因があるかもしれません。ただ丸太棒のように寝ていたり、恥じらいが失せていたり、夫への何らかの思いやりの欠如が、夫として”義理マン”にさせていることもあるでしょう。そして、それがまた妻をもつまらなくさせていく‥‥。
避妊に対する夫の無理解や妻の性感や性欲に対する無知も、妻をセックスから遠ざけているかもしれません。よく、コンドームをするのを嫌がる夫がいますが、『女の性・あなたの場合は?』(新潮社刊)の著者辻田ちか子さんの話によると、夫のコンドーム拒否症によって悲劇的な効果を引き起こすこともあるようです。
妊娠危険期であるにもかかわらず、夫がコンドームをすることを拒否した結果、妊娠し、出産後、夫拒否症になってしまった‥‥。
私は、避妊は男の責任だと考えています。この避妊への無理解によって、どれだけ女はセックスに冷めてしまっていることでしょう。
女の性の中には夫を拒否しきれないものを抱えています。いやな時にも無理やりセックスさせられて、それから夫に冷めていく‥‥。夫と妻のこの悪循環を、どこかで絶ち切れないものでしょうか。
ただ、私は中年期の夫婦のセックス。ライフがキラキラと輝くようなものでなければならないとする一部の論調には疑問を持っています。また、週刊誌などで週何回、月何回などということに振り回されるのもナンセンスです。
ある精神科医が、こんなことを言いました。
「夫婦というものは、若い頃の濃厚なスキン・シップがあるからこそ、中年期以降の生活を支えていけるのではないだろうか」
と同時に、セックスだけが夫婦ではない、ということも、もっと夫婦は考える必要もありはしないでしょうか。
「会社で疲れて帰ってくるでしょ、そんな時に女房からセックスをせがまれると、ホント辛いですワ」
こうした夫族の呟(つぶや)きも、私の周囲の多くの男性が語ることです。セックス恐怖症に陥(おちい)る男が多くなっていることは前にも書きましたが、アメリカの心理学者、ガブリエル・グラン博士は、次のように述べています。
「夫婦が夫婦としての結びつくためには、けっしてセックスだけではない。ノン・セックス・ラブのあり方を検討しなければならない、それが夫婦における性生活を豊かにする」(『セリバシー』講談社刊)
つまり、結婚生活において性的興味が薄れてきたら、それは夫婦の肉体的統合がすでに行われてしまった、残されているのは、精神的な交流、つまり目を見つめ合ったり、肩を寄せ合ったり、一緒に散歩したり、芝居を観たり、心の内側を交流する経験。このような深いレベルで結びつくようになることが、夫婦としてはずっと豊かになるというのです。
私の好きな言葉に、瀬戸内晴美さんが何かの本に書いていた「官能的な精神なり」というのがあります。この言葉の意味はあまり深くはわからないのですが、セックスの行き着く先は心の問題ということになるのでしょうか。
セックスは心を通わせるための手段。セックスはだけを目的とする技術(それも大切でしょうが)以上に、いかなる魂の交わりがあるかという問題だとおもうんです。
私たちのしゅうへんに渦巻くセックス信仰、あるいはセックス神話から一つ抜け出たところで、新たなる性を求める必要がありはしないでしょうか。男も女も、やはり惚れ方が問題だということです。
このことを証明するような興味深い報告が、板坂元氏『猥褻(わいせつ)な話が大好き』(K・K・ベストセラーズ刊)の中に出ています。
これまで、一般的に前戯の大切さが主張されてきました。それは確かにセックスをより豊かなものするために重要であるのですが、ジェームス・ハルパーンとマーク・シャーマン両博士の研究によると、「性交後の二〇分は、性交そのものよりずっと大事だ」という結論がでています。
男も女も情熱のほとぼりが冷めるまで、ロマンチックに静かに抱擁したいという回答が一番多かった。
そして、愛を囁き交わすような言葉をお互い語りかけてほしい。相手を褒める一言、せめて五分はそのままじっと愛を囁く。ただ相手の腕をつかんでいるだけでいい。とにかく夫婦は、もっと終わった後の時間を大切すべきだということでした。
このことは、とりもなおさずセックスというものが、男と女の残す”惚れあい”の世界を確かなものにするといことではないでしょうか。そこで交わされる会話こそが、性と官能の世界をより精神的な深いところに導いてくれるのではないでしょうか。
それがその次のセックスの導火線にもなる。中年期におけるセックスとは、こうした静かな肌のふれあい――それはけっして煌(きらめ)きくものではないにしても――そのことから、再び若い頃と違った濃密なものが生まれてくるのではないでしょうか。
それには、男も女も”終わったにすぐ寝る”式の性生活を振り返ってみる必要があるでしょうし、何よりも”会話”にたいする努力が必要だということではないでしょうか。
夫婦の間で一番わかり合っていないのは、案外お互いのセックス。それも技術ではなく心の交歓という意味でのセックスなのではないか。私にはそんな気がしてならない。
私たちの周りには、セックスに”淡白”であることを誇らしげに語る人が多いのですが、まだ、女が性欲を語るのはタブーなのでしょうか。
また夫も、妻の性欲を汚いものを見るかのように「お前も好きだな」と蔑(さげす)みの一言で妻の心を傷つけたり、妻がセックスに快感を得ているかどうかに無関心であることを反省すべきです。妻は”セックス付きの家政婦”ではないのですから。
性をめぐる女の周囲は、まだまだ旧来の道徳観や婦女子の美徳なるものが強く、一番自由が束縛されています。女の下半身に対する世間の目は、男からも女からも厳しいものがあります。
けれども、夫とのセックスに満たされない悩みを抱く妻が、浮気願望を持ち、夫以外の男とセックスすることは許されないことでしょうか。なぜ女の性にだけ厳しいのか、私にはわかりません。
たとえ人の妻であろうと男に恋し、身体を求めあうことは起こりうることです。そこに何らかの倫理や罪の観念を持ち込み、不道徳と決めつけることは、人の心の問題への不当な干渉です。
一生をセックスに不満を持つ続け、燃え切らないままに生きるくらいなら、なんらかの行動によって、自分を納得させるものを得た方が自分に対して忠実です。
けっして浮気を勧めるものではありませんが、旧来の女に課せられた枠組みの中で窒息しそうになって生きるよりも、息がしやすいように生きていくことを、私は求めたいのです。
今年三十三歳になる主婦は言いました。
《告白○24》「今、恋人がいるんだけど、それによって家庭を壊そうなんて全くおもっていないわ。恋人は恋人、主人は主人で大切なひとなの。よく女は浮気すると家庭を壊すなんて言うけれど、そんなの嘘よ。女も男と同じ、家庭を壊すほどのものなんて考えないわ」
私の母はセックスに飢えた時、駆け落ち以外に方法はありませんでした。自分の恋を守るためには、家庭崩壊もやむをえないと思ったのかもしれません。
現代はまだ厳しいとはいえ、母の時代に比べれば、女の性に対するタブーは、はるかに緩いものになっています。女にも性欲があり、新しいセックスの好奇心のあることの主張ができやすくなった時代です。性においては男も女も変わりない。それを是認する社会は、女にとって生きやすい社会です。
男だけの一方的なセックスを許さない。女は男の性に隷属(れいぞく)するものではない。妻たちが性の悩みから抜け出すのは、この点の主張において、自らの性の燃焼感を求めることにあると思います。
ただ私は、その性の主張の行為が、どのような形であるにしろ。その中に誇りや潔癖さがほしいと思います。
先ほどの瀬戸内晴美さんの言葉のように、官能を求めることは限りなく魂の作用だと思うからです。D・H・ローレンスが『チァタレイ夫人の恋人』の中で恋人メラーズに言わせた言葉に通じるものです。
「おれは、人と人との間の肉体によって知る触れあいと、優しさの触れあいのために断乎として闘う」
男と女の関係は、”なにもの”かとの闘いを覚悟させるものでもあります。
とにかく女は、セックスは誰のものでもない、自分のためのものだということに気が付き始めたのです。今は、まだその対応の仕方に試行錯誤があるかもしれませんが、自己主張としてのセックスのありようを求めて、私たちは着実に動き出しているのです。
づつく 第七
(3)母性愛神話からの脱出
――子育てと職業・社会参加は矛盾しない