結婚してみたら、満足した分だけ不満が見えてくる
 女にとって結婚とは何なのでしょうか。妻とは女にとって何なのでしょうか。どんな女でも結婚の時は、いい夫婦関係を作りたい、と

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第五 妻たちが戸惑う”三つの神話”

本表紙 沖藤典子 著

――結婚幻想、貞淑、母性愛に、もう縛られない

(1) 結婚幻想と”妻の座”の正体

――結婚は精神の避難場所ではなく、新たな試練の場

1・期待過剰がもたらす悲劇
結婚してみたら、満足した分だけ不満が見えてくる
 女にとって結婚とは何なのでしょうか。妻とは女にとって何なのでしょうか。
 どんな女でも結婚の時は、いい夫婦関係を作りたい、と妻としての自分の幸せを求めて結婚します。はじめから離婚する前提で結婚する女はいない。

 結婚にあこがれ、結婚人生のスタートとして多くの女は結婚を求めます。それ自体、私は決して愚かこととは思いませんし(私自身も憧れがありました)、自然な感情だと思うものです。

 けれど、多くの男や女は、結婚さえすれば、それで人生は幸せ、要するに、世の常識の型にはまるだけが幸せの条件だ、と思いこもうとしているところがありはしないでしょうか。何かから逃れるために、あるいは何を解決したいために、あるいは親を安心させるために‥‥。結婚の意味を考えることを放棄してしまうのです。

 モーリヤックは、その代表作『テレーズ・デケィルー』の中で、世間体を重んじ、世の人々が期待する通りの平穏無事な生活に満足する夫と、生の意味に問い、情念の世界に生きようとする妻との絶望的な葛藤を描いていますが、その妻、テレーズの結婚の動機を次のように述べています。

「ことによったら、テレーズは、結婚の中に、支配や領有を求めるよりは、逃避の場所を捜していたのではないのか? テレーズを結婚に追いたてたものは、一種の恐慌がさせたわざではないのか? 

実際的な少女として、家庭的な娘として、地位を得てしまうことを、決定的な席を見つけてしまうことを、急いだのである。自分にも正体のわからない危険にたいして、安心したかったのである」

――自分でも分からない不安から逃れるための結婚、結婚しない自分へのなぜかわからない恐怖――それはわたしにもありました。

「この人と結婚しなかったら、もうチャンスはないかもしれない」
 そういう思いが頭を過(よ)ぎったことを私もよく覚えています。それは、結婚後、夫とどういう人生を切り拓くかということよりも、結婚しない自分への恐れがより強かったという点では、テレーズと同じ心境であったのです。

 未熟な結婚というものでした。そして、それによってやはり私も苦しんできたと言えると思うのです。

 女は結婚によって精神的にも安定し、女として一人前になる部分は確かにあります。けれど、けっして結婚が精神の避難場所ではなく。むしろ夫との関係において新たな葛藤を生じる場であることの認識が、結婚前にはなかなか得られません。

 日本のことわざに「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」というのがありますが、現代の自我に目覚めた女にとっては”添うてみる”ことの苦しさに耐えられなくなってもいるのです。”添う”条件として背格好や学歴だけでなく、人間の資質を問う必要もあるのですが、それは結婚前にはなかなか分からない。

「私は、いったこの人のどこを見ていたんだろう」
 これは多くの妻たちの嘆きです。結婚前はいいとろだけ見えていた。いや自分の結婚したいという気持ちを満足させるためにはいいところしか見ようとしていない。けれども結婚してみたら、満足した分だけ不満がどっと見えてくる。これは多くの妻の心のパターです。

 こんな人とどうして結婚してしまったのか。別れたらどんなにすっきりするだろうと、自分の不満を育て上げていきます。

“結婚”よりも結婚式の方が大事だった

“結婚”よりも結婚式の方が大事だった
 かつて昭和の初めの頃、夫婦の結婚年数は二十三年でした。それが今は四十四年になっています。どこの国の諺(ことわざ)に、「一緒になって一週間は無我夢中、二ヶ月くらいは相手をじっと観察し、あとの人生はうんざりして過ごす」というのがありますが、つまりは、このうんざりの部分が倍増するわけです。

 よほど自分の生き方、結婚というものに対する自分の位置づけ――ある場合には”自分”が大事とする意識、ある場合は諦め――などを肚(はら)に据えておく必要があると思うのです。

 私は、若き日の決断を一生背負っていくのが結婚だと思っています。ですから、その背負う力を、結婚の日々の中に培(つちか)っていくには、相当な精神力が必要とされている、というのが結婚二五年になる私の実感です。

 ところが、今なおどれほど多くの若い女たちが、結婚すれば女の幸せが天から降ってくるように得られると、思い込んでいることでしょうか。

 先にも書いたように、日本は名だたる結婚国で、結婚しない女への冷たさ、”売れ残り”への侮辱、それはいかにシングル・ウーマンが世に喧伝(けんでん)されようと、今なお根強く残っています。
 最近、離婚した私の友人が言いました。

《告白9》「あの時、私は二十六歳だったのね。周りの友人がつぎつぎに結婚していくでしょう。あの取り残されていくような淋しさはどういっていいかわからないわね。だから、私は周囲の人に『私だって結婚できるんだ』っていうことを示したかったのよ。

その時、相手がどういう男か、一生やっていける男か、そういうことは考えなかったように思う。表面的に学歴とか、背格好とか職業とか、そんなことで決めてしまって‥‥。私にとって、結婚ということよりも、結婚式のほうが大事だったのね。・・・・」

 彼女もまたテレーズのように、”決定的な席”としての結婚を決め、そのあと渇(かわ)きのような自分の心の葛藤に苦しんだのでした。

「だから彼には、本当に悪いことをしたと思っている。私の結婚幻想につきあわせてしまって‥‥」
 女は、結婚幻想のツケは、必ずわが身に襲い掛かってくると知るべきです。

 現代は不思議な時代だと思います。若い女の間には結婚願望の妻がそれ同じくらいマスコミを賑わしているのです。結婚に焦っている女がいるかと思えば、その結婚にうんざりしている女がいる――この現象を思うと、私には独身に徹す女がひどく賢明で清々(すがすが)しいものに思えてならなくなります。

 自己の心を裏切っていなか

 《告白10》「二十四歳の時、結婚を前提にして深いつき合いのあった彼と別れました…。それからは、もう結婚できればどんなのでいい、と思うほどやけくそ気味だったのです。そこに現れたのが夫。背は高いし、一流企業のサラリーマンでし、優しそうだったのです。付き合い始めてから一〇ヶ月で式を挙げました。今度こそ母に心配をかけまいとする気持ちが常に心の隅にあったのです。

 …‥けれど、単純な私は、いつも人に騙(だま)されてばかり。結婚する前から一抹(いちまつ)の不安のある人と、どうしても本当の愛を育てることができるでしょう。何だか、日一日と嫌になっていくようで‥‥、また嫌われていくようで‥‥。そもそも愛のない結婚だったのですから、今さら好き嫌いもないのですが。子どもは二人いますが、別れたくてたまりません」

 これは、『主婦と生活』(昭和五十七年十二月号)が募集した”離婚願望”の手記の一節です。
 この三十歳の主婦は、サークル活動で気を紛らわしているものの、この七歳年上の夫の、頑固で言い出したら後に引かない、融通性のない性格、そのくせ頼りがいのない夫に、心を慰められないと言います。

育った環境も違うのだから思い通りにはいかないと思うものの、せっかくこの世に生を享(う)けたのだから、たくまし生きていきたいという願望と、現実の自分の軟弱な性格や子どものことを思うと踏ん切りもつかないのです。

 苦労してきた母を安心させるための”やけくそ結婚”。彼女を批判はできませんが、母を理由に彼女は自分の心をごまかしたことは確かです。夫の性格を非難する一方で、自分の弱さに反省もしているのですが、そこには自己弁護の匂いがあり、彼女の側に責任があることです。彼女も充分にそれを知っていて、子ども、夫、納得できない自分の気持ち、将来への不安、などの間で揺れ動いているのでした。

「前の男を忘れるために結婚する」。そして、そのあと自分が苦しむ。私のところにも、こうした身の上相談めいた手紙がよくきます。そのたびに、やりきれないほどの女の結婚へのある種の傲慢(ごうまん)、”こころ”というものへの裏切り行為を私は感じます。

2・孤独感と倦怠感(けんたいかん)はどこからくるか

 結婚とは情熱を削(そ)ぎ落していくプロセスでもある

 私自身、結婚はあきらめのうえに継承していくものとは思っていません。また、相性というものもありましょう。

 夏目漱石(なつめそうせき)は『それから』の中で、次のように述べています。
「誠実であろうが、熱心だろうが、自分が出来合いの奴を胸に蓄えているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出るように、相手次第で摩擦の具合がうまくゆけば、当事者二人(ににん)の間で起こるべき現象である。自分の有する性質というよりはむしろ精神の交換作用である」

 精神の交換作用の結果としての誠実、熱心、お互い石に鉄にもなりようがないのなら、火花の出ようもない。このことを男も女も肝に銘ずべきではないでしょうか。

 男とて、結婚にどれだけ情熱をかけているかと問えば、やはり”年頃”ということで適当に結婚している場合が多いのです。けれど男は社会生活の中で、朝、家を出れば家庭を忘れることはできる、妻との面倒なやり取りは捨てておいた方が心は穏やか、妻は妻で勝手にやってくれた方がありがたいし、ともかく毎日の生活が無事ならば、夫としての責任を果たしているような気がしているのです。

“精神の交換作用”、これは言ってみれば情熱論の問題かもしれません。恋愛中、ないしは婚約期間というものは、情熱的な非日常性の連続です。しかし結婚生活は”毎日”という日常性の繰り返しに過ぎません。結婚というものは、その情熱を削(そ)ぎ落していくプロセスであるとも思えます。

 アメリカの女流作家エリカ・ジョングはその作品『飛ぶのが怖い』の中で、結婚というものをこう述べています。

「結婚がどういうことか知っていたなら、たいていの女は結婚するだろうか? ‥‥働くことのできないところに、言葉も話せないところに彼女たちは暮らす。孤独と倦怠から赤ん坊をつくり、わけもわからずにいる。夫はこつこつと出世にいそしんでいるので、いつも苛立って疲れている。

結婚後は以前より顔を合わせることが少なくなる‥‥。すでに結婚の最初の年に、睦(むつ)みあっていた時には、ふたりの人間がそうなるとなんて思いもしなかったくらい離れ離れになってしまう」

 これは、まさに結婚というものの一側面を鮮やかに抉(えぐ)り出したもの、さきの五人の妻からもたくさん語られていたことでした。

 自分を評価してくれる人が”家”の中にしかいない
 それはいったい、女たちが感じる”妻の座”の正体とはどのようなものでしょうか。妻たちが感じる結婚のやりきれなさを。もう少し追っていくことにします。

《告白11》「まがりなりにも主婦という肩書がついて、九ヶ月が経ちました。経済的には安定しています。そのうえ情緒不安定気味の私にとっては、居心地の良い場です(そのはずでありました)。
 ところが、一ヶ月二ヶ月過ぎたころから、表面的には幸せであるにもかかわらず、苛立ちがニョキニョキと出始めたのです。なぜでしょうか‥‥。思うに、自分が発散できる場が、自分を評価してくれる人が”家”の中にしかいなのではないでしょうか。そう思い込んでいくと、まるで家の中に居ると、自分が腐っていくような気さえし始めるのです」

 これは『クロワッサン』に寄せられた二十八歳の主婦の手記です。彼女にとって結婚は経済を保障し、精神的にも安寧(あんねい)を約束するはずのものでした。その経済的な面では、自ら書いているよう満たされています。けれど、それだけではどうしても納得できない自分に、彼女は苛立っています。

 おそらく、この彼女は勤めていたに違いありません。職場での仕事のつらさや人間関係の軋轢(あつれき)を思うと、家庭の方がずっと居心地がよい、愛する人のために一日家に居て、細々(こまごま)とした家庭の中のことをする自分の姿を夢見たのでしょう。

 ところが現実は、家庭というものは、自分が発散できるものが何ひとつない。何をやっても家の中のみの”評価”、社会から途絶(とぜつ)されている自分が腐っていくような気がする‥‥。

 ここでもまた、反論が聞こえてくる感じがします。結婚して妻になった以上、それが当たり前ではないか。妻たる者、家の中で”評価”されることが大事であり、それで充分なのだ。なんたる我儘(わがまま)、贅沢か、と。

 あるいは、夫はおかず一つについても文句こそ言え「うまかった」の一言もない。それに比べれば何らかの”評価”があるだけまし、と思う人もいるかもしれません。

 けれども私は、この主婦のモヤモヤした苛立ちが分かるのです。私自身も会社を辞めて専業主婦になった時の驚きにも似た虚(むな)しさを忘れることができません。

 仕事の世界での”評価”は、プラスのものばかりではありませんでした。涙が出るほどの屈辱を味わったこともあるのですが、それでも何かの反応があるのです。それに比べれば家庭の中の仕事は、叩かれることもない代わりに褒められることもない、あたかも真空地帯に放り込まれたようなものでした。

 “評価”の世界で生きることの苦しみもさることながら、そうした重荷のない世界もまた、それ以上に苦しいものであるとことを私は知ったような気がします。

 こうした妻の重苦しい思い、苛立ちさ、これはなかなか夫にはわからないようです。
 夫の心の中には、確実に「女房は働かんで食っている。いい身分だ」とする気持ちがあり、それが、事あるごとに「誰のおかげで贅沢ができるんだ」という言葉になって出てきます。

多くの主婦に聞いてみますと、夫に言われて口惜しい言葉のトップに、この「誰のおかげで…‥」が出てきますが、夫には、自分の稼ぎが食品になり料理になるプロセスにかける妻の心遣いや労働が、まるで分かっていないのです。

 ですから、この言葉を聞いたとき、妻の方も「誰のおかげでご飯が食べられるのよ。そんなこと言うんなら、札束でも食っていればいいでしょ」と反論すればいいのにと、私はいつも思うのですが、中には「離縁されてしまう」と、その口惜しさを耐え忍んでいる主婦もいます。

3・夫の胸の燻(くすぶ)りが分かるか

妻と役割を交換してみた夫の感想

 私は、これまで職場で多くの働く男を見ていて、彼らには”妻子を養う”という責任感が、働く意欲につながっていることを見てきました。ある共働きの妻は、夫のこの点についての重しがないゆえに、「俺は何のために働くのか」と言われ、つらいと語っていました。

 しかし、妻子があると思えばこそ働ける――そのことについての自覚がないままに、女房は楽をし、自分だけが世の荒波にもまれて苦労していると、身勝手に考えている夫のなんと多いことでしょう。だから、なぜ毎日アイロンのかかったYシャツが着られるのか、

風呂場のタイルがきれいなのか考えてもみなければ、妻をどこぞのうまいもの店に連れて行ってやろうかとか、プレゼントでもしようかとか思いもつかないのです。寝たきりの姑を介護する嫁は、夫に一言「すまんね」と言ってくれれば、一ヶ月の辛抱が三ヶ月に伸びるともいいます。

「女房は毎日家に居ていいなぁ」と思い、女房を働かせ自分は家事と、役割交換した男がアメリカにいます。
 半年たった時、彼はこう思います。

「俺は主夫生活を始めて以来、何が真に価値あることを成し遂げたであろうか? 何もやっちゃいないのである。読書計画にすら手を付けていなかった。暇があっても書き物一つしなかった。

日常茶飯の顛末(てんまつ)なディテイルの積み重ねの中、俺は自分自身の姿をすっかり埋没させ、見失っていった。俺自身の存在、俺自身の生活、俺自身の生きがいは、いったいどこに行ってしなったのだろう」(マイク・マグレディ著『主夫と生活』)

 彼は修道僧のような生活と思い、奴隷的境遇だと思います。このあたりは、私が退職後、専業主婦になった時に味わった思いと全く同じです。彼は自分でやってみてはじめて”主夫”の生活には生きがいがないと思い、本すら読めないコマ切れの時間に驚きます。そして「一年でもうコリゴリだ」というのは、じつに正直な感想です。

 女もまた”家事の尊さ”を知りながらも、その同じことの繰り返しにうんざりしています。さらには、夫がそのことへの何の痛痒(つうよう)も感じていない、その”鈍感さ”もやりきれません。

 夫の鈍感さも。このくらいですんでいればまだ可愛げがあるというものですが、「お前なんか分かってたまるか」「お前のようなヘマな奴はおらん」「お前はバカだ」と、妻を自分より劣等者に仕立てあげなければ気が済まなくなるようになれば、もう何を言わんやです。

 これは、結婚の時の男女のお互いの求め方にも原因がある、と私は思います。男は自分よりも知能、知識、教養などで”劣った”女を「優しい人」などという言葉で求め、女は”尊敬できる人”、自分に知識、教養を”与えてくれる”人や、一流企業のサラリーマンを求めます。男の求める”いい女”のタイプに自分を合わせようとして、男にとって都合のいい存在であろうとするのです。

そして、男の望むような形で適当にバカであることが女の賢さと勘違いしてしまう。一方、しだいに化けの皮が?がれてくる夫に対しては、飽き足らぬ思いを抱き始め、心ひそかに軽蔑する、というパータンが実に多いと思うんのです。

 勉強している妻に嫉妬する夫

 人形のように可愛い、自分の意思どおりに動かせる女を求める男と、そうなろうとする女には、中年期以降の溝は目に見えているようなものです。女は自己教育を放棄してしまい(その自己教育の場は職場や社会活動の場であったり、自分の時間であったりするのです)、夫に尽くそうとした結果、自業自得のように夫にバカにされる存在になっていきます。

 このあたり、「有能な男は有能な女を求め、無能な男は有能な女を遠ざける」という言葉を、もう一度男女とも考え直してみる必要があるというものです。

 けれど夫にしてみれば、外で気を使い、神経を張りつめている分だけ家に帰ってくつろぎたい、その時は妻は少々抜けている方が心が休まる。そういう願望があります。エライ妻は気が疲れてしようがない、だから妻にはエラクなってほしくない‥‥。「出ていけ」と怒鳴っても、出ていくアテもないだろう、とタカをくくっていたい気持ちがあるわけです。

 さらには、自分が一生懸命働いてお金を稼いでいるというのに、自分も働きたいなどと言うのは大変な我儘に思える。家事など押し付けられたらかなわない。男の既得権として男女役割分担は守り通したいとする気持ちもあります。

 また、妻がカルチャー・センターなどで勉強して生き生きしていると、会社のくだらない仕事や人間関係で神経を擦り減らししている自分を何もわかってくれない、と悲しい気持ちにもなっていきます。‥‥女房だけがウマイことやっている‥‥そこはかとない嫉妬、それが湧き上がってきます。

女房が生活を楽しんでいると、自分が惨めに見えてくる気持ちと、バカな女房のほうが気が楽でいいとする気持ち、これが夫には強いのです。

 さらには、女房はオレの苦労は何一つ分かってくれてはいないとう悲しみもあります。なぜ夜遅くまでマージャンをしなくてはならないのか。酒を飲まなくてはならないのか。不平不満ばかり言っていないで、少しは分かってくれてもいいではないか‥‥。

オレが鈍感だ。お前の神経の粗っぽさはオレには地獄なんだ‥‥こうして夫は夫で、外に別の世界を作ってのめり込んでしまう‥‥。

 結婚幻想の正体は何か

 ともあれ、妻が夫に抱く何となしの不満、いわばソリの合わなさには、妻が家庭内でする家事というものへの夫の”当たり前顔”に大きな原因があるのではないでしょうか。それが育児にもあてはまり、セックスにも影響をしてくると私は思うのです。

 妻の方に、旧来の”良妻賢母”意識も相当あるのは事実です。女は、誰しも結婚するときには、いい妻、いい母たらんとします。それは当たり前の感情でもあると思うのです。それが、よしや”避難場所”としての結婚であろうと、そこでの生活に、自分が満足するものを求めないはずがありません。

 なごやかな平和な家庭を望まない人はいないでしょうし、夫の優しさとか思いやりのある心遣いの中で、幸せを感じたい人もいるでしょう。夫ともに行動し、夫の喜びを自分の喜びとする人もいるでしょう。

 こうしたことは、また男と女との生活に望むはず。男も女も同じなのです。かつて、私は主婦の結婚への期待感とその達成感の調査をしたことがあるのですが、女性の結婚に対する期待で一番強いのが、夫との関わりにおける情緒的な期待、二番目は社会的地位、経済面への期待であり、三番目は自分の生きがいとか自己を主張して生きる生活でした。そして達成感が一番得られていないのも、情緒の期待でした。

 本来なら一番満たされていなければならないものが、一番得られていないのです。その結果でしょうか、この時行った座談会で、三十代の主婦がこんなことを言っていました。
《告白12》「結婚の時、自分が妻としてどう生きるのか、それをはっきりと考えていたわけではないんですけれど、でも漠然としたものはあったんです。ところが今、一〇年経って振り返ってみると、何か違う。現在の生活は結婚前に望んでいたものではない。これでいいのかしらという気持ちが強いんですね。じゃどうすればいいのか、それはよくわからないんですけど‥‥」

 この漠然とした不満感、自分はこれでいいのだろうかとする思い、これは他の主婦たちと共感をえました。また、別の三十代の主婦は、こうも言いました。

《告白13「この結婚は、私を幸福にしてくれたんだろうか、ふと疑問に思うことがよくあるんです。夫は会社で一生懸命働いてしれる。それはありがたいんですけれど、何かが違うんです。だから、ふと『あの人と結婚していたらどうだったのだろう』とか、ちょっとステキな人が居ると『こんな人と結婚してみたら楽しい人生だろうなあ』と思ってみたり、別な結婚を夢みて楽しむことがありますね」

 この「ふと思う」――あの人と結婚していたら、あんな人と結婚してみたら――そして、現実の結婚生活に違和感を抱く。こういう妻は、この時の調査では半分以上に達しました。

 妻の座の安泰の中にありながら、もうひとつ別の女の姿を夢見る。それは定められてしまった人生に飽きてしまった女の別の可能性への願望です。誰の心の中にもあるでしょう。

 私は、実はこれが離婚願望の正体ではないかと思っています。結婚は誰にとっても未知のものとはいえ、あたかもそこに”幸せの青い鳥”が天から降ってくるような錯覚をしてしまう。結婚後の『人生』をいかに生きるか。そのことに真摯(しんし)ではなかった結婚幻想のツケが、妻の座の正体を知るにつれて離婚願望につながります。中年期以降、別の可能性を求めて吹き出してくるんです。

 女は、結婚だけにあこがれを持ってはいけない。妻である自分の姿だけを夢に描いてはいけない。結婚に際して求めるものは、自分の生き方として何らかのテーマを持つことだと思います。

 モーリヤックは、家を出た(夫は離婚を許さなかったのですが)テレーズにこう語らせています。

「長い時間をかけて用意したあの告白、あの探求にあかした夜、しんぼう強いあの検索、自分の行為の源泉にさかのぼるためのあの努力――つまり、あの芯の疲れる自分自身への帰還、それがことによったら、むくいられるときに達したのだ」

 このテレーズの結婚への幻想によって味わった苦悩は、”自分自身への帰還”という努力によって救いの道に達したのでした。

 現代の、家を出ることのできないテレーズたちにとっても、自分自身への帰還がないかぎり、惑いの中から抜け出す方法はないのではないでしょうか。

つづく 第六
(2)「性の反逆」の源流は何か
――古い倫理観から脱して煌めく性を求める妻たちの叫び