夫・大山弘 三十七歳 大卒 妻・克子 三十七歳 職場結婚後十三年 一度流産 子どもなし 現在週三日和文タイプのパート勤務 神奈川県藤沢市在住 年収 夫・六五〇万円 妻・二六〇万円
女たちが発散する香水や化粧品の匂いが、狭い教室にむせ返るように充満しています。
年賀状のための紙版画教室。「市の広報」で見て、ふと行ってみようかと思ったのは、克子自身毎日の生活の中に、あまりに彩りが乏しいと思ったからかもしれません。
週三日、知人の経営する会社の和文タイピストとしてパートで勤める大山克子ですが、これまでこれといった趣味もありませんでした。
このまま無趣味で老後を迎えるのは淋しすぎる。そう思っていた矢先に、公報で教室のことを知ったのでした。七回コース、基礎から始めて七回通えば手作りの年賀状ができるなら、ひとつやってみようか。子どものいない克子には、何かひどく楽しいことに出くわしたような心のときめきでした。
普段、公民館通いなどしたことのない克子には、見知らぬ顔ばかりでしたが、手を動かしながら適当なお喋りをしていく。しかも、しだいに形もうまくなり配色もシャレたものになっていくのが楽しくてなりませんでした。
けれど、それも最初の二、三回まででした。
しだいに狎(な)れ狎れしくなっていく女たちの無遠慮な質問に、克子は奇妙な苛立たしさを感じるのです。
「お子さん居なくて淋しいでしょう。どうしておつくりにならないの。あら、こんなこと伺ってごめんなさい。いけなかったかしら」
「あんまり仲がよすぎると、かえってできないんですってよ。ホドホドになさったほうがいいわよ」
この無遠慮な主婦たちの好奇心に、どう説明しても、今の自分の気持ちなど通じないだろうと、ふと泣きたいような思いと、彼女らに対する軽蔑の思いに駆られるのでした。そして心の中で呟(つぶや)きます。
「子どもがいるからって幸せじゃないでしょ。あなた方は幸せの仮面に自分をごまかそうとしているだけじゃないの」
今年三十七歳の克子は、同い年の夫とは職場結婚でした。一応は恋愛結婚のつもりでしたが、今となってみれば、あれが恋愛だったのかしら、あの時は何をひとりのぼせていたのかしらと不思議に思うことがあります。
結婚と同時に、共働きはしにくい雰囲気もあり、また辞めるのが当然とする気持ちもあって職場を去ったのですが、いざ辞めた後は後悔の毎日、今でも職場に復帰した夢を見ます。
結婚したのは二十四歳の時ですが、その後は別の会社に勤めることにしました。
結婚後まもなく、克子は風邪をひいて寝込んでしまいました。夫の義弘は、朝出かけに言いました。
「薬飲んでおきなさいよ。あまりひどいようだったら医者に行った方がいい」
朝から三八度三分の熱にうるんでいる妻にそう言いおいて出かけて行きました。
その一言だけでも、ないよりはあったほうがマシというものかもしれません。けれど克子にしてみれば、そんなことは子供でもあるまいし、言われなくたって大人であれば誰でもすることだ。それよりもちょっと額(ひたい)に手を当ててみるか、部屋の空気を入れ換えてくれるとか、おかゆを作るとか、何かほかにしてくれることはあるんじゃないか。そんな気持ちだったのです。
その前に義弘が風邪をひいたとき、たいした熱はなかったけれど、克子は会社を休みました。夫は妻が熱を出していても、会社を休んではくれないのだろうか。それは新妻の胸にわずかですが淋しさを湧きあがらせるものでした。
その夜、義弘は九時頃帰って来ました。せめて早く帰ってきて、私のために夕飯の支度をしてくれるだろう・・・・、そう思った克子の期待は見事に裏切られたのです。
「どうせめしの支度はしていないだろうと思ったから、外で済ませてきたよ」
克子は、体のだるさと薬を飲んでも熱が下がらない熱のために、夕飯の支度どころではありません。朝から何も食べていないのです。その夫の言葉を聞いた途端、涙がどっとあふれ出ました。
「せめて病気したときぐらい夕飯の支度をしてくれたっていいじゃないの・・・・」
思えば、父は母が病気をした時などは、娘の克子が居ても母の食事の支度をする人でした。
そうした細やかな愛情こそが夫婦の絆だと思っていたのに、この夫の思いやりのなさはどうだろう‥‥。克子はひそかに誓います。
「私もこれからは、あなたが病気をしたって会社休むことは二度としないわ」
克子は、夫に対して急速に心が冷えていくのを感じました。
共働きの生活に対する夫の無理解にも腹が立ちました。疲れて帰ってみると、夫はビールを飲んでテレビを見ています。家事というものは、どんなに疲れても、女がやらなければならないものなのでしょうか。もしこれが逆で、克子がビールを飲んで夫の帰りを待っていたら、彼はどんなに怒るでしょう。
しかも、夜遅くなる時でも電話一本ありません。夕飯の支度をして待っていてもすっぽかされるのは日常茶飯事。そのくせ、たまに早く帰ってくると「腹減ったなぁ。まだ夕飯の支度もできていないのか」。その口ぶりには、非難めいたものが込められています。
そんな時、克子は、そばのお皿でもぶつけてやればどんなに気がせいせいするのかと思います。
「私は神様じゃないんですからね、あなたが早く帰るかどうか、どうしてわかるのよ」
夫が最初の浮気をしたのは、結婚して一年ほどした時でした。相手は二十歳の女子大生。
「何かおかしい」
そう思っていた時、夜中に夫の寝言でその女の名前を聞いてしまったのです。問い詰めると克子に、義弘は簡単に白状しました。
克子は仲人のところに出かけ、その顛末(てんまつ)を語るとともに、離婚したい旨を告げました。驚き慌てたのは義弘でした。
「向こうはまだ大学生なんだよ。ほんの遊びじゃないか。それを大袈裟に騒ぎ立てて」
「あなたは遊びで、それでいいかもしれないけど、私はどうなるのよ。冗談じゃないわ」
「君だって、僕に優しくしてくれたかい? 僕がどこか具合が悪いって言ったって、君はなんて言った? 『私に言ったって無駄よ。お医者さんに行ってよ』と言うだけじゃないか。僕は優しさに飢えているんだ」
「じゃ、なおさら別れましょうよ。そう言うことを言うんなら、私だって言い分はたくさんあるわ」
この時は、仲人のとりなしで離婚沙汰は取りやめになりました。この事件は決定的に克子の気持ちを義弘から引き離してしまったのです。
人は、自分のことに対しては敏感過ぎるほどほど敏感でも、他人のことになると、こうも鈍感なのでしょうか。お互いに優しさを求め合いながら、一度、ほんのちょっとしたことで歯車が狂い始めると、永遠に噛(か)みあわない別々の機械になってしまう‥‥。
この頃から克子は、しきりに初恋の人に会う夢を見るようになりました。克子はよく夢を見るタイプの女なのです。その夢の中で幸せな自分を発見し、時として、深い交わりの感覚が体に残ることもあるのです。
会社に行っても、これまであまり気に留めなかった男性社員に心をときめかすようになりました。
克子は述懐します。
「私って、浮気っぽいのかしら。いつも誰か好きな人がいないと心が落ち着かないのよ」
義弘に対して申し訳ないとか、なんらの罪悪感を持つとか、そんなことは全く感じませんでした。それは、けっして夫が浮気したからその仕返しにこっちも浮気しようとか、そんな思いはなかったのです。
妻が、夫以外の男性に心を動かさないなんて、そんな不自然なことはあり得ない。結婚したからには夫以外の男に目を向けてはいけないとか、心を動かしてはいけないとか、そういう風に思えなかっただけのことでした。
その点では、克子にも義弘の浮気を大目に見ようとする心の動きがありました。夫と妻といえども、ほかの男や女に心を奪われることもありうることだと、夫に対しても寛大になれたのでした。事実、その会社に勤めていた頃、克子のほうから誘った男がいました。
最初のうちはほんのちょっとしたいたずら、そんな気持ちだったのですが、ズルズルと体の関係になっていきました。ところがその男はまさに浮気者。女は克子だけでなく、多方面に手を伸ばしている多情な男だったのです。
このことは、克子の誇りを傷つけました。しかも、優しくすれば付け込んでくるという感じ。そのうえ、女同士のさやあてや飛び交うあらぬ噂。すっかり克子は嫌になってしまいました。その会社を辞めたのには、他にも通勤事情などもあったのですが、やはり、その男のことが大きな原因でした。
流産したのは、それから一年ほど経った頃でした。
その流産の時の苦しさを、今も克子は忘れられません。突然出血が始まったのは、夜中、お腹の異常な激痛に気づいて、トイレに立とうとした瞬間でした。
流産の後の精神的ショックと肉体の疲労に対しても、義弘はまるで無関心でした。克子は、子どもは絶対に産むまいと決心しました。
義弘がサラ金から五〇万円借金していたことを知ったのもこの頃でした。
結局その五〇万円は、克子の働きの中から返済しました、夜討ち朝駆けの催促に、家で寝ている克子には耐えられなかったのです。どうせ返さなくてはならないものなら、ボーナスまでこのしつこさを我慢するよりも、早く返した方がいいと思ったのでした。
何に使ったお金だったのか、最後まで克子には言いませんでした。
「お金返しておいたわよ」
その一言に、義弘は一瞬たじろいだ表情を見せましたが、ありがとうでもなければ、すまんでもない、ただ黙って自室に引き上げていきました。
義弘は酒好きな男で、普段はおとなしいのですが、酒が入ると別人のように変わります。このサラ金の一件も、女か酒かと問えば、多分、酒場の借金だったのではないかと克子は思うのですが、
その後も夜中に帰ってくる生活は相変わらず。寝ている克子の枕を蹴飛ばしたり、何が気に入らないのか物を投げつけてきたり、身の危険を感じることもしばしばでした。
酒が人格を変える。時として恐怖の思いで克子は酒乱なのではないか、と逃げ出したくなることがあります。何回も離婚しようと考えます。けれど、克子もまたその頃は会社を辞めた専業主婦の身の上、離婚の損得を考えるとその決断ができません。
会社を辞めて失敗したな、経済力のない女ってこんなに惨めなものだろうか。義弘にはもう愛も何も感じない。旅行しても面白しろい相手ではないし、共通の趣味とてあるわけでもない。このまま年老いていく自分の姿を思うとぞっとするのです。
最近、つくづく夫が早く死んでくれないかなぁ、と思います。そうしたら、今度こそ間違いのない男を夫にして、楽しい生活を築いていけるのに‥‥と思えてなりません。
パートに出るようになってからも、克子の心の中には常に異性の面影が棲(す)んでいます。
夫とのセックスはせいぜい月に一回、下手すると三、四ヶ月に一回。それも燃えることのないお義理のようなもの。克子の心の中にはふといろいろな人とセックスをしてみたいな、という気持ちが湧くこともあります。この肉体の奥から湧き上がってくる淋しさに耐えられないこともあるのです。
けれど今のところ、克子は積極的にそういう交際を持とうという気になれません。平凡な家庭の主婦にとって、しかも週三日のパート勤め、小さい会社の中では、ちょっとした心の浮気めいたことはあっても、そこまでの関係にのめり込めそうな男はいないのです。
そのうえ、やはり克子には最終的に帰れるところがないと恐ろしいのです。夫への罪悪感がないのは前にも述べたとおりですが、やはり不倫の女を見る世間の目が気になるし、さらには肉体関係を持つと男は必ず離れて行ってしまう、という確たる思いが克子にはあるのです。
男を引き付けておくには、肉体関係を持たないに限る。それが克子の美意識でもありました。
流産の時に味わった妊娠への恐怖もあります。けれどそれ以上に強いのは、やはり男の心を永遠に自分に引き付けておきたい女の願望なのです。子どもを産んでいない克子の体は肉付きのいい四肢のせいもあって、まだ若く張りつめています。
肉体に謎を残しておくこと。そのうえで生き生きとして楽しい会話を男と楽しみ、危うい一線で逃げる。それが克子の求めるものなのです。そこには、女は性の交わりによって必ず傷つくという信仰があり、また、かつての会社で味わった屈辱が、もう二度とあってはならぬこととして胸の奥深くに潜んでいます。心の浮気なら、夫にとやかく言われることもない。
家に逃げかえることもできれば、やましさもない。傷つけることも傷つくこともない。そのうえで自分の女である部分を楽しむこともできる。克子の心の中には、いつも幻のごとくに慕う男が棲んでいます。ある時はタレントであったり、ある時は勤め先に出入りする若いセールスマンであったり、ある時は電車の中で見かける男であったり、ある時は夫の同僚であったりします。
紙絵画教室に通うようになってから、克子はまた一つ楽しみができました。講師の先生が、版画ひと筋に生きてきて世俗を卓越した、どこか翳(かげ)の漂う渋い男なのです。白髪の混じった髪を首筋まで垂らして、細身の長身がひょうひょうとした男の悲哀が漂います。
克子には、年賀状完成でこの七回コースが終わってしまうことが残念でたまりません。この先生と二人だけで、どこかの喫茶店の片隅で、熱いココアなどすすりながら、じっとシベリウスでも聴いていたいような気分に駆られます‥‥。
もし体を求められたら…、逃げおおせるかどうか、克子にも自信はありません。でも、そんなことは夢なのです。克子だけが一人白昼夢のように心に描いて楽しんでいるだけなのです。
相変わらず、いろいろな男の夢を見ますが、最近は頻?に先生の夢を見るようになりました。
昨夜見た夢は、先生と北鎌倉を歩いている夢でした、先生の腕がきつく克子の胴に回り、熱い息吹きを首筋に感じます。その抱きしめられている感覚の中に、克子は生きている実感、この世に在ることの幸せを、しっかり?みとっていたのでした。
この五人の妻たちは、教育歴も結婚の動機も家庭状況もことごとくに違います。
現実に抱えている悩みも多様です。
何ひとつ不自由のない暮らしでありながら、日々虚しさを感じている妻、姑の言いなりになる夫にやりきれなさを感じる妻、心の浮気に慰めを感じる甘さに飢えた妻、気の合わない夫にないものを求めて恋人を作ったけれど、家を出ることに決心のつかない妻、愛されることが女の幸せと信じて結婚したのに、変わってしまった夫にあらためて自分自身を問う妻、一人一人の人生の綴れ織りは多色です。
彼女たちは夫との乖離(かいり)に苦しみ、夫婦とは何かを問い、自分の生きようを探します。夫との会話もなければ、生活の中にこれが自分の結婚だと納得させるものがありません。結婚への期待は虚しかったです。
彼女たちは五人が五人とも共通して。
「うちの主人は無口なんですよ」
と言います。
けれど、私は彼女たちの夫が決して無口だとは思いません。彼らは職場で、あるいは仕事上の付き合いで、自分を表現し、主張する会話欲求を満たしているのです。妻が求める”感情を分かちあう”ような会話は、家に帰ってくれば面倒なものにすぎない。無口だと思われていることは、彼らにとってありがたいことであるのです。
それゆえに妻の心は離れていきます。この人に語っても無駄だ、わかってはもらえない。妻たちは、その心の渇きを夫以外の何かで潤そうとしているのですが、その何かがわからないのです。ある妻は、自分の内へ内へとその問いかけを発して苦しみ、ある妻は、他に恋人を持つことで解消しようとし、ある妻は、仕事に解決の場を求めています。
いずれにしても、自分は何者なのかを問い。その答えを得ようとして得られずに、家庭という名のぬるま湯に浸っているというのが、惑いの中にある妻の姿でした。
いつか、離婚を決意する日が来るかもしれない。この、形だけの夫婦なんてあまりに偽りに満ちている、と彼女たちは言います。自分の『人生』に忠実でありたい‥‥。その願いが彼女たちの未来を支えているのでした。
と同時に、その夫との心の距離は、セックスのつまらなさを産み出しています。
「こんなものなのでしょうか。今は新鮮さも興味も感じませんね。私たち淡白なんですよ」
これもまた。五人共通して語られたことでした。セックスをこの数年まったくしていない妻もいます。心においても性においても、夫婦というものが形だけになっている。これでいいんだろうか・・・・、というのも彼女たちの深い悩みです。
夫婦になればこそ、ひろびろと大らかであるはずのセックスが、歳月とともに貧しくお義理のようなものになっていく‥‥。
夫は、もはや男として胸をときめかせるものではないし、妻もまた夫にとっては同じような存在。その戸惑いも隠し切れません。
彼女たちは自分が”女”であることの確認の手立てがなくなっています。女の性を抱えたまま、中年期という若くもなければ老いてもいない時期に立ちすくんでいるのです。彼女たちの中には、意識しようとしまいと、もう一度、煌(きらめ)くようなセックスの憧れがあります。
「相手が変わればまた違ったものになるのではないかと」と言った妻もいます。彼女たちが抱く甘さへの飢えには、セックスも大きな位置を占めています。語りにくいものがあるゆえに正面きっては出てこないのですが、夫への不満、あるいは自分の中の満たされないもの、その中には、もう一度女として認められたい、異性の目が欲しいとする願望も込められています。
女ばっかりの集まりなんてつまらない、男と喋りたい。こうした心の動きに、女である自分の再発見欲求を見逃すわけにはいきません。
けれど、現実は家庭での母たるもう一人の自分がいます。現実の生活に疑問を感じ、自分に忠実に生きていないと思っていても、子どものことを考えると決心がつきません。一章で述べた女たちが、子供の育つ過程での問題を割り切っているのに対し、惑いの中にある妻は、そこまで吹っ切れてはおりません。
自分の心をなだめるために子どもを利用している感すらありますが、それが離婚願望を持つ多くの妻の行動できない理由でもあるのです。
家庭破壊を恐れる気持ちには、経済的に独り立ちできない、夫という支柱を失うことへの心細さや孤独の恐怖などあるのですが、それ以上に、子どもにとって家庭は大切だとする思いがあります。子供がかわいそうだから自分が我慢する。そうした母たることの自己犠牲に生きている女のなんと多いことでしょう。
いったい、女にとって母とはどういうことでしょうか。母性愛とは何なのでしょうか。
私はこの五人の妻たちの惑いの告白を聞きながら、今、女が乗り越えなければならないものが三つあるのではないかと思いました。
その一つは、結婚に対して女が抱く幻想的な期待、二つは夫婦間のセックスのありよう、三つには母性愛なるもの。
これらは、いずれも旧来の女を惑わせてきた”女の幸せ”神話のようなものです。それがゆえに惑いも深く、もつれたものになっていると思えてなりません。女は、もう一度自らを縛りあげている神話の正体を見定める必要がありはしないでしょうか。
つづく 第五
三章 妻たちが戸惑う”三つの神話”
――結婚幻想、貞淑、母性愛に、もう縛られない