
沖藤典子 著
〈ケース・3〉夫以外の男に”生の煌めき”を求めて
夫・渡辺俊二(三十九歳) 大卒 機械設計技師 年収八〇〇万円 妻・律子(三十五歳) 専門学校卒 デザイナー 年収四〇〇万円 長女・真弓六歳 律子は三年前に主婦症候群を起こす
目の前で苦しむ妻よりも世間体を気にする夫
律子はふと目覚めました。何か得体のしれない巨大なものが押しかぶさってきて身動きができません。息ができない、苦しい、誰か助けて、と叫ぼうとしたのですが、声が出ません。
厚いカーテンに閉ざされた部屋は真っ暗、その闇の中で律子は声にならない叫びをあげてもがき続けました。それは何時間だったのか、いや何秒だったのか、長いような短いような不思議な時間でした。
それ以上に、このまま息絶えるのではないかと思える、恐怖に満ちた時間でもあったのです。いったい何が起こったのか、原因がわからないままに、はぁはぁと喘(あえ)ぎながら、ひたすら体の自由が戻るのを待つ、岩のように固く締めつけてくるものから逃れる闘いの時間でもありました。
やっと体の自由が戻った時、律子は別の部屋に寝ている俊二に救いを求めようとしました。けれど、なぜか足から力が抜けて歩くこともできないのです。息苦しさは相変わらず続いていて、万力(まんりき)で押さえつけられているような痛みを感じ、這ったまま俊二の寝室の戸を開けました。
「助けて、私、息ができないの、このままだと死んでしまう‥‥。救急車呼んでほしいの」
「今何時だと思っているんだ。こんな時間に近所の手前だってあるだろう。朝まで待てないか」
夫は布団の中から面倒くさそうに、パジャマのまま床にうつ伏している律子を眺めているのだけでした。律子にはどうやってこの肉体に起こっている異変を伝えていいか、その言葉も発見できないし、ましてや言い募(つの)る力もありません。
彼女はそのまま這って茶の間にいくと、電話を取り上げました。その姿にやっと俊二も妻の異変を信じたようで、不機嫌の顔のまま起き上がってくると、後ろから受話器をひったくるようにして、一一九番を回しました。
「妻の様子がおかしいんですが。息ができない、歩けないと言っています。こんなことでお手数を煩(わずら)わせてすいません‥‥。はぁ、じゃお願いします。ご近所のご迷惑になるといけませんので、サイレンを消して来てくださいますか。‥‥じゃ、下で降りて待っていますから」
マンションの七階から下に降りるにはエレベーターを使います。けれど律子にはそのエレベーターまで歩いていくことはできません。
「あなた、おぶっていってくださらない?‥‥」
「何言っているんだ。近所の人に見られたらどうするんだ。恥ずかしいと思わないか」
‥‥ああ、この人はどんな時でも冷静なんだわ。社会に迷惑をかけないように、他人に恥ずかしいところを見られないように、そのことばかり考えている‥‥。今、この目の前で苦しんでいる妻よりも、そういう世間体のほうが大切になんだろうか‥‥。
他人の手の温かさに、思わず涙が
それで俊二は、実際には歩けない律子のために背をかしてくれました。でも律子には、その行為がけっして彼の愛情から出ているものでないことはわかっている・・・・。夜中に叩き起こされて、妻から被った迷惑に苛々(いらいら)している夫の心が手に取るように分かるのです。
春まだ浅い夜の芝生は濡れていました。寒くて寒くてブルブル震えています。そんな律子を俊二は眺め下しているだけです。
駆けつけてきた救急隊員が、毛布を持って律子をくるんでくれました。
「旦那さん、どうして奥さんにガウン着せてやらないんです。こんな時は擦ってやらないと駄目なんですよ。氷のように冷たいじゃないですか」
その毛布にくるまれ、手や足をさすってくれる救急隊員の手の温かさ、この他人の手の温かさはどうだろう。律子はとめどなく涙が流れました。人の肌ってこんなにも温かいものだったのだろうか。
診断した医者は言いました。
「これは奥さんに、典型的な主婦症候群というものですよ。主婦であるということで起こる病ですね。心の病気とまではいかないんですが、不安、イライラ、不眠、頭痛、手足のしびれ、吐き気とか、ストレスが昂(こう)じて起こってくる症状ですよ」
医師は、俊二に家庭の状況を聞いたうえで、こうも付け加えました。
「この病は、ご主人が優しくしないと治らないんですよ。あなたが治す以外に方法はありません。お子様のことも含めて、もっと手を差し伸べてあげないと、この人は何度でも発作を起こしますよ」
しかし、俊二には医師の言葉の意味が分からなかったようでした。
久しぶりに人さまから擦ってもらい、精神安定剤を飲まされた律子は気分も治まり、帰りのタクシーの中でうとうとしておりました。車がマンション前で止まった時、夫の声で起こされたのです。
「さあ、着いたよ。起きなさい。もう歩けるだろう」
‥‥ああこの人は、私が求めているものを持っていない・・・・・。私はこんな人と結婚していたのか・・・・。この人はもう駄目だ・・・・・。それは、底知れぬ闇に向かって突き落とされていくような、孤独の失墜(しつつい)の思いでした。
結婚とは何なのか。考えまいとした理性を、身体の方が先に突き崩し、自分の過ちを生理でもって暴きたてられたような、深い絶望感でもあった。
ウェディング・ベルは彼女の心の弔鐘(ちょうしょう)だった
渡辺律子が結婚したのは二十五歳。二十九歳で長女真弓を出産しました。そして子どもが三歳になり、少し手が離れて、ひと安心と思った矢先、今から三年前に起こったのがこの事件でした。
このことは、あらためて律子と俊二との結婚生活。結婚に至るまでの未熟、そうしたものに刃を突き立てるものでもあったのです。
律子には結婚前、結婚を前提に付き合っていた恋人がいました。けれども彼は、彼女の身内に精神障害者が居るということを理由に去っていたのです。
俊二と知り合ったのは、その失恋の痛手が癒えぬ時でした。機械設計技師の俊二には、かつての恋人とは違う落ち着き、大人っぽさ、社会にしっかりと根を張っている男の静けさのようなものを感じたのです。後になって律子は思いました。
「私は人生に対して、なんか不遜(ふそん)だったのだろう。ただ負けん気で、しっぺ返しをしてやりたいという思いで結婚し、いい気分になっていたとは・・・・・。私は今、人生からしっぺ返しをされてるんだわ」
俊二とは婚約後半年で結婚しました。
その時の俊二の律子への思い、それは彼女にはわかりません。イラストレーターという仕事を持つ女の生き生きしたものへの憧れだったのか、失恋への同情、彼女の身内に対する侠気(おとこぎ)のようなもの、あるいは彼女への深い愛・・・・、その時、律子は彼の心の中にあるものを確かめようとはしませんでした。
ただ、結婚後も仕事を続けていいという俊二の言葉や、自分と結婚してくれるというその事実にだけ酔っていたように思います。自分の知らない世界の仕事をやっている男への新鮮な思い。
彼から影響を受けることで、自分も伸びていけるだろうという期待。そこには、男と女の性を営み、生活を共にし、思いを語り合うことで築き上げていかなければならい”心を寄せあう世界”のあることを置き忘れていのでした。
そのしっぺ返しは、まず新婚旅行の時に始まりました。沖縄に四泊五日で行ったのですが、この時、初めて俊二とはお互いに見る世界が違うのではないか、と僕然とした不安に駆られたのです。
「ねえ、市場に行ってみましょうよ。いろいろ珍しいものがあるんですってよ」
「そんなものつまらないよ。第一汚いじゃないか。得体のしれないものなんて見たくもないね」
レンタカーで走る海岸線の光景にも、まるで興味を持たない夫。万座毛(まんざもう)の絶壁に立って、落日の壮大さに心を奪われながらも、その感覚の世界を語り合う共有の言葉を持たないことへの、心を押しつぶすような孤独と不安。
この人とは、好奇心の世界がまるで違う。同じ光景を見ても、その心に落ちる色合いが違う。こんなことってあるのだろうか。いったい私はこの人のどこを見て結婚したのだろうか。その思いはホテルに入ってから決定的になりました。
「大浴場に行ってみたいわね。面白いわよ、きっと」
「そんなものどこも同じだよ。部屋にバスがついているだから、それで充分じゃないか。第一浴衣がけで廊下歩くなんて下品だよ」
ほんのちょっとしたことにも”冒険”を感じ、子どもっぽいまでに感激する女と、あくまでもオトナの社会の規範の中で、自分を律して生きる男の冷静さとが、この時はじめて浮き彫りにされてきたのでした。
夫に抱かれ体を開いていても、心は逆に硬くしぼんでいってしまう妻。何かが違う。私の求める感性がこの人にはないと恐れを抱く律子にとって、その新婚旅行はあらためて自分の心と向かいあう旅の始まりでもあったのです。
まさに新婚旅行は、その後の十年間の夫婦の生活の心の擦れ違いを象徴させるものであり、ウェディング・ベルは、律子の心が闇に向かっていく弔鐘であったのでした。
心地よさの条件がまるで違っていた
俊二が好きなのは車でした。それは機械技師にふさわしい精密で狂いのない世界への好奇心、一人没頭する隔離された世界への志向でもありました。ですから、律子が友人を呼んでパーティをするのにもいい顔はしませんし、友人のところに遊びに行こうと誘っても応じてくれません。
なお戸惑ったのは、俊二と律子の生理の違いというか、心地よい条件がまるで違っていたことでした。たとえば夏の夜、律子は窓をかけて寝たいと思います。ところが、俊二はそれを嫌います。
「だって暑苦しいじゃないの」
「誰が見ているかわからないんだよ」
「マンションの七階を覗く人なんていないわよ」
「そんなこと分からないさ。第一窓を開けて寝るなんてはしたないよ」
大気の中で胸を広げて原始的な感覚の中で解放されたい妻と、同じ空気の中でじっとこごまっていたい夫。こんなにも何もかも食い違っていてやっていけるのだろうか…‥。
仕事の世界で気晴らしのできたことは救いでした。自分のデザインする作品の中に律子は自分の抑えられている感性、感覚、欲望を満たしていったように思います。
やがて真弓が生まれました。その後の三年間は、多くの共働きの主婦が味わうような育児と仕事との葛藤の中で、彼女は女の部分を切り捨てていきます。職業人として、母として、生きることに精一杯の毎日、その中で得る充実感、無我夢中のように過ぎていく日々は、律子に”考えること”を忘れさせてくれます。
毎日を職場と保育園と家をピストン運動のように駆けずれ回って。夫は夫の仕事と車の世界に、妻は妻の充足感の中に生きてきたつもりだったのです。
恐ろしい夢を見たのは、あの発作が起こって二ヶ月ほどした夜でした。
仕事から帰ってみると、マンションのはずの彼女の家は一軒家になっていました。しかも野原の真ん中にポツンと建っている、ひどいあばら屋。おりしも風がピューピューと吹いて、雨がどっと降っていました。どうして戸を閉めなかったのかしら。律子は家に飛び込んで戸を閉めて回りました。けれども戸は閉めても、閉めても雨が吹き込んできます。天井からもざあざあと音を立てて雨が落ちてくる。思わず律子は叫びました。
「ふさぐものがない!」
ふと見ると、家の真ん中で真弓が寝ています。雨に濡れてぐっしょり、駆け寄って抱き起してみると、なんと氷のように冷たいではないか。死んでいる!
「真弓ちゃん!」
その絶叫する自分の声に目が覚めました。
これは、なんとしても彼に言わなければならない。フロイトが「夢は無意識の王道」と言っているとおり、この夢の中には夫婦で語り合い。何かを発見していくべきものが隠されているのではないだろうか。律子は夫を揺り起こして泣きながらこの夢を語ったのです。
「何を言っているんだ。真弓はちゃんと寝ているじゃないか。君はこの頃忙しすぎて抱いてやらないからなんだよ」
「そうじゃないのよ。子どものことにすり替えないでちょうだい。これは私たち夫婦のあまりに隔たってしまった心のありようを意味しているんじゃないの。このままだと、私たちは本当に駄目になっていってしまうんじゃないの」
夫にないものを持った男に抱かれて
その後、律子は考えに考えて仕事を辞める決心をした。彼が悪いんじゃない。彼はこういう人なんだ、彼は彼なりに精一杯やっている。ギャブルをするわけじゃないし、酒を飲むわけじゃなし、借金をするわけじゃない、誠実な人なのだ。その彼に心が離れていくのは、私のほうに何か欠けているものがあるからなのではないか…‥。
けれども、その生活も半年、一年と何の変化も生じさせてはくれませんでした。最初の二、三ヶ月こそは俊二も律子の話につきあい。家族で外食を楽しむ生活を見せてくれましたが、やはり二人の性格の違いは決定的だったのです。それは、火と水とが決して共存しえないことを、あらためて律子に教える結果となりました。
しだいに律子は仕事の世界がなければ、自分がより一層に惨めになっていくことに気が付き始めました。いえ、それ以上に、ここまでやってみても結果が同じだったことに、より深い失望を感じてしまったのです。
経済力をつけよう。律子は友人のツテを頼って、再就職しました。その時の彼女には、真弓と二人、夫と別れて生きることへの強いあこがれを――夫から解放され、独立することへの願望があったのでした。
串田哲と出会ったのは、再就職して一年ほど経った頃、仕事の疲れを癒そうと同僚と出かけスナックでした。世の中にはこんなに楽しい会話をする男がいるのか。新しい発想で人生を語る男がいるのか。律子には何もかもが驚きであり、新鮮であり、刺激に満ちたものでした。
律子と同い年。大企業に属することなく、一匹狼のように自分の力だけで生きている男。七十年安保闘争の挫折をそのまま背負って、世の中の安逸に批判を抱き続ける男。律子の社会や経済を見るときに欠けていたものを補ってくれる力。芸術というものに対する精神のありようを諭してくれる力を持つ男でもありました。
…‥これこそが私の求めていた感性の世界。哲との間で起こるであろう未来への予感に、律子の体には疼(うず)きにも似たものが走りました。
初めて哲の部屋に入った時の感動。本とステレオだけの小さな部屋は雑然としていて、それにもかかわらず彼らしい主張の宇宙がありました。
「ああ、ここには私の欲しくないものは何もない」
哲に抱かれた時の震えるように満たされた思い、大きくすっぽり包んでくれる温かい肌。それは、かつて恋人に抱かれた時以上に、父のような温もりを感じさせるものであり、現役の女であることを確かめさせてくれる時間でした。濃密で煌めきに満ちた生そのものの時間でした。
手の甲を擦りあわせるような違和感は、どこからくるのか
「僕は、やさしくて従順な昔ながらのいい女っていのには一度も惚れたことはないね。僕が惚れるのは、仕事が好きで快活で、君のような女だよ」
その思いは律子も同じでした。あなたこそが私が求めていた男、野性的で社会通念を拒否し、いつも非主流でいる誇りに満ちた男、自分の言葉で人生を語ることのできる人…‥。あなたは破滅型の男かもしれない。それなら私も一緒に堕(お)ちていこう。その堕ちて行った先に二人の魂の故郷があるに違いないから…‥。
俊二と別れたい。その思いが律子の胸の中で破裂せんばかりに膨(ふく)れ上がっていきました。哲と生きること、それは俊二との生活をやり直そうと思ってそれに満たされず、あらためて仕事にしか心を慰めるものがないと思い定めていた律子に、新たな火をともすものであったのです。
長いこと求めながら求められず、現状に満足しようと抑えに抑えていたものが、巨大な反作用の力をもって吹き上がってきました。
けれど、律子の胸の中には、けっして哲への思いばかりではなく、夫に対する言い知れぬ申し訳なさの思いもあったのです。
「私は、あなたによって救われたのです。私が失恋し、世の中のことすべてが信じられなくなっていた時、手を差し伸べてくれました・・・・。私のような無一文の家の、不幸な身内をかかえた娘を温かく迎え入れてくれたというのに、気が合わない、ただそれだけの理由で他の男に心を移してしまうとは、私は何という女でしょう」
考えてみれば、俊二にはあげつらって責めるべき非はなにひとつありません。感動の世界が違う、好奇心の対象が違う、それは夫と別れるほどの理由なのでしょうか。他の男に走る免罪符になるものでしょうか。
妻の告白、俊二もまた、強烈な打撃を受けたようでした。
「考えてみれば、僕は常に君に嫉妬していたように思う。僕と違った生命力、僕の知らない感情の持ち方、そういうものは初めのうちはとっても魅力的だったんだよ。だけど、だんだんそれが僕には重荷になってきた。君は僕を飽き足らない男と思ったかもしれないが、僕は君に巻き込まれないために、自分を守っていたかったんだよ」
一言一言吐き出される言葉に、今度は律子が衝撃を受けました。あの、手の甲と甲とを擦り合わせるような違和感は、夫婦のこのお互いの心を守り合うためのものだったのか。夫もまた苦しんでいた。
情熱の強すぎる女を妻にして、夫は途方に暮れていたというのか…‥。自分の感情を表すことに無器用な男は、仕事の世界、自分だけの楽しみの中でしか生きる道を発見できなかった。そうさせてしまったのは自分自身だったのか…‥。
律子は雷に打たれた思いでした。
そのうえ、律子にも家庭を破壊することの恐ろしさ、高校生の頃、父の破産によって一家が離散した時の、大地をも信じられないと思ったあの恐怖が、常に胸の中にありました。あれと同じ思いを、まだ幼な子の真弓に味わせるのだろうか。それはあまりにもむごい。
この不決断の責めを負うのは、自分自身ではないのか
夫から離れて、すぐ恋人のところに走るということに抵抗の思いもありました。私は決して男から男へと渡り歩くような女ではない。しかも、哲の前で彼の望む女であり続けるためには、律子自身が強い女でなければ、いずれ彼に捨てられてしまうのではないか。その恐れもあります。
まずは、この家を出て、一人で生活してみる。そのうえで夫のところに帰るか、哲のもとに行くかを決めるべきだ。その心の囁きが日増しに膨れ上がっていきます。
けれど律子は決断できないのです。
これまで夫によって支えられてきたもの。それはどう否定しようとしても、現実に歳月を積み上げているのです。不貞を知ったうえでも一緒にやっていこうという夫。そこには男の体面、あるいは日常的な家事がないことへの不便もあるかもしれないけれど、やはり律子を守っていこうとする思いがあるからなのです。
それは律子にも痛いほど分かります。もう一度夫と心を通いあわすための何かをやってみたい。律子はその頃、上演されていたミュージカルの切符を三枚買ってきて、夫に渡しました。
「私たち、こういうことをやらなさ過ぎたんじゃないかしら。お互い忙しい忙しいと自分のことにだけ熱中しすぎていると思うの」
その上演の夜、ふと見ると夫の目から涙が溢れているではありませんか。二人で同じ舞台に同じ涙を流す。これは夫婦の十年近い歴史の中で初めてのことでした。
灰皿を投げつけてよこす俊二の本当の俊二なら、こうして涙を流している俊二もまた本当の姿、人間には、いろいろの光がある‥‥。そのプリズムのような色を抱え込んで生きているのが人間というものかもしれない。律子は深いため息とともに、未来への選択をしあぐねている自分を凝視するのでした。
夫の人間性に期待しては失望し、そしてまた期待しては失望を重ねてきた自分が、今また一人になることの恐さゆえに、夫の涙に何かを期待しようとしている。だからといって、哲への思いを諦めるわけではない。この不決断の責めを負うべきは自分自身ではないのか。夫と肩を並べて真弓の手を引きつつ家路をたどりながら、涙がとどめもなく流れてきました。
私は浮気できるような女じゃない
夫と縒(よ)りを戻そうとしている。このことを知って哲は激怒しました。
「君はいったい何を考えているんだ。僕はいったい君の何なんだ。結局は人妻の遊びだったんじゃないか!」
戻ろうとして戻りきれない夫と、飛び込んでいこうとしても行けない恋人との間に立って、律子は、自分の心がどこにあるのか、自分の本当に求めてしているのは何なのか、探しあぐねてただ佇(ただず)むだけでした。
律子は今思います。
哲との恋が燃えた頃、この恋こそが自分の真実。この恋によって自分は生き返る。生きていく力を与えられたとおもったのに、出会った後のこの一年の間に、その恋もただ自分を迷路に追いやるだけのものだった。
いったい私はどう生きたいと思っているのか。それすらもがますます見えなくなってしまった。結局は今の生活を壊したくないという打算のみで動いている。
「共働きの主婦の仕事って余裕があっていいね。この仕事だけで食べてんじゃないよっていうところが、じっくりした作品を作り上げていくのかもしれないよ」
と言った上司の言葉の中に、やはり自分は仕事でしか生きられない女なのかもしれないと律子は思うのです。
家庭は仮の生活の場、そして喰うに飢えないための生理的欲求を満たす場、人並みの女であることを世間に示すための所属の場。そこに目をつむって、そこで得られない感情の世界を、仕事あるいはほかの男との情熱の中に求めていけば、人のいう幸せな家庭があるかもしれないのです。
それを欺瞞(ぎまん)だと責める人がいるかもしれないけれど、裁くなら裁いてくれてもいい。
律子は暗い諦めの中に、今日もマンションのドアーを開けて仕事の場に出かけ、夜になると家に帰ってドアーを閉めます。
そして、そのドアーの響きのたびに、哲への情熱が冷めていく自分を感じます。
「違うわ。私は浮気できる女じゃないわ。私自身がどう生きたいのか。勇気をもって選択ができるようになるまで待ってほしいの」
自分への反戦歌のように律子は呟(つぶや)きます。
けれど何も変わらない。いや変えようとしない律子の心の弱さ、何か大きく温かいものへの甘え。これだけはいかんともしがたいものであるのです。
つづく
第四
〈ケース・4〉共通の目的を持てない苦悩の末に