沖藤典子 著
――どんなとき、妻は夫に”やりきれなさ”を感じるか
夫婦間に欠落してしまった”男と女の関係”を求めて
この春、山田太一氏脚本のテレビ・ドラマ『夕暮れ』が多くの主婦たちの共感を呼びました。
岸恵子さん扮する女主人公は年の頃四十代後半、エリート社員の妻であり、浪人中の息子の母であり、同居の舅(しゅうと)には嫁であり、かつパートで働いています。
経済的にも安定し、郊外のマイホームでのよき妻・母・嫁として毎日が過ぎているかのように見えるのですが、その心は名状しがたい淋しさに埋もれています。
折しも、仕事に忙しい夫は通勤に疲れるからと、都心にアパートを借りて移り住みます。そこで夫は秘かに変身して夜の巷を彷徨(さまよ)い歩き、若い隣人の女に心をときめかしたり、夫一人だけの世界を持ち始めました。
ちょうどまたその頃、同窓会があって彼女は昔の恋人と再会します。電話での楽しいお喋り、恋人時代だった一回のデートした鎌倉を再び訪ね歩く夢のような時間、男は妻に死なれて娘と二人で暮らしなのです。
妻に対して無関心で冷ややかな夫と、甘くて優しい昔の男、彼女の心は激しく揺れ動き、情熱的な恋へ次第にのめり込んでいきます。それは、忘れかけていた”女”であることをもう一度呼び醒ます、何か得体の知れない妖しい煌めきに満ちているものでもありました。
物語のストリーは、その後、彼女は家を出、夫と恋人との格闘があったりして、妻は家に戻り、夫にも戻ってもらって、もう一度夫婦生活をやり直そうとするところで終わっています。
なぜこのドラマは主婦の共感を呼んだのでしょうか。このドラマの基本的な訴えは、夫婦の間に”甘さ”が決定的に欠落してしまい、もはやおとことおんなの関係が見えてこない妻の側のやりきれなさでした。
それは、妻たちが漠然と感じていたものだったのです。夫の前で一杯のワインにははしゃぎ、いそいそする自分に”女”を認めて欲しいと思っても、夫は不器用なのか感じないのか、まるで無関心。なんと生活にロマンがないのだろう、心のときめきがないのだろう‥‥、そう思う妻は、キュッと空気が緊張する心の動きを求め、毎日のうっとうしさを発散させるものを外に求め始めます。
けれど、毎日を家と近隣の中で過ごす女には、息抜きもなければ、気分を転換させる場もありません。何よりも人との付き合い、あるいは心をときめかせるもの、そうしたものから無縁になりがちです。
それは小さい子のいる主婦も、子育てが終わった主婦にも、共通に見られる飢えとでもいうべきものではないでしょうか。
女が「自分の人生はなんだったのだろう」と、ふと立ち止まって考えるのは三十五歳前後が多いと言われています。
一般的に言って、女の三十五歳は末っ子が小学校に入学する年齢であり、それによって職場復帰も可能となる年齢であり、なおかつ女としての肉体の曲がり角でもある年頃です。時間的に余裕ができ、経済生活も安定と将来のメドが立ち、さらには人生八十年時代の中年期の過ごし方を考えなければならないUターンの時、さあ何かしなくちゃ、という時ではないかと思います。
とりとめのない不安と悩みに苦しむ妻たち
ところが、夫はそうした自分の悩みや戸惑いに無関心、何か習い事をしてみても虚しさのみが募ってくる、しだいに皮膚がたるみはじめ、若い頃のように四股に張りつめるものがなく、気がつけば三段腹。散りかかった花が最後に匂い立つ一瞬を待つように、女たりは焦りの思いを抱きます。
そんな時、もし昔の恋人や夫とは違う魅力を持つ男が現れると、妻たちの心は波立ちます。三十五歳は浮気の危険年齢が始まる時であり、蒸発やアルコール依存症になりやすい年齢とも言われています。
妻たちは、現実離れしたところで、夫に満たされない”甘い”何かを求め始めるということでしょう。
『夕暮れて』の女主人公は、まさにこうした中年期の女のモヤモヤとした空虚感、焦り、”女”であることの確認を求める思い、夫との関係のやりきれなさなどを凝縮したようなものでした。
今日の主婦たちの状況を見てみれば、一章の妻たちのように、夫との関係を清算し、家を出ることによって新しい自分の人生をスタートさせる女は。まだ極めて少数派です。
ほとんどの女たちは、このドラマの主人公のように、漠然とした虚しさを抱えながら、自分はどこへ行くべきか、その方向性をつかめないでいます。
あたかも門の下に佇(たたず)んで、門を通り過ぎることも後戻りすることもできない人のように、惑いの中に生きています。結婚とはしょせんこんなものもだと思いつつ、小さな幸せを発見しようと努め、その期待とそれが裏切られる悲しさの中で、日々をやりくりしています。
これでいいんだ、これが私の選んだ人生なんだから思いつつ、自分の心を定めがたく、とりとめのない不安と悩みに苦しむ妻たち、ふと浮かぶ離婚という名の再出発。こうした出口なき迷路の中にいる妻たちの思いを、この章では綴(つづ)ってみたいと思います。
ここでは五人の妻に登場してもらいます。
二十七歳から三十九歳までの、いわゆる”三十五歳前後”の妻たち。専業主婦、パートの主婦、定職のある主婦、それほど裕福でもなければ貧乏でもない、ごく平均的な家計のやりくりに日々を過ごす妻たちです。恋愛、見合い、職場結婚など、その結婚の仕方も様々です。
彼女たちは××一一〇番のようなところに電話したり、カウンセリングに出かけたり、あるいは離婚講座や家裁に出かけたりする主婦ではありませんし、精神病やアル中となって家庭を破壊した妻ではありません。私たちの周りにいるごく普通の女。
その妻たちの胸の内は、なんとストレスに満ち、現在の生活に倦(う)み、甘さに飢え、迷いに満ちているでしょう。彼女たち一人一人の姿に、私たちは自分の分身を発見します。
私は彼女たちの告白に何らかの論評を加えたり、教唆(きょうさ)を与えたりしようとは思いません。よしや彼女たちの結婚の考えが甘く、考え方が未熟であり、幼いものでもあるとしても、いったい誰が彼女たちを裁けるでしょうか。
家を出るまで追い詰められてもいないし、自分というものも見えていない、この現代の行き場のないノラたちの呻(うめ)きこそが、日本の妻たちの現状を象徴するものなのです。さらには、夫との関係をめぐって、家庭という場における夫と妻のありようへの鋭い問いかけをはらんでもいます。いましばらく、彼女たちの素直な内面の告白に耳を傾けてみましょう。
〈ケース・1〉幸せなのに”心の渇(かわき)き”癒(いや)せぬ妻
夫・村井信一(三十八歳) 妻・洋子(三十三歳)恋愛結婚後九年 長女小学校三年 長男小学校一年 夫婦ともに大卒 東京調布市でマンション生活 夫の両親とは別居 夫の年収七五〇万円
何ひとつ不自由ないのに、虚しさが漂ってくる
洋子は、さきほどから少しも編物が進んでいないことに気がつきました。明るい陽射しの入り込むリビングルーム、きちんと整頓され掃除の行き届いた室内、ベランダには菊の鉢が黄色い花弁を揺らせています。
この静かで落ち着いた部屋の中で、一人ひっそりと編み物をしている自分‥‥それはかつて描いた幸せの姿であるはずなのに、なぜかぼんやりと虚ろなのです。
結婚九年、洋子は三十三歳になりました。
下の子も小学生、子育てから解放されて日々はゆっくりと静かなものになりました。恋愛結婚であった夫は今や中堅どころ、生活が不規則で新婚の頃のような楽しい会話や、ちょっとじゃれ合うような睦(むつ)まじさはなくなりましたが、誠実で真面目、酒や女などで争いを起こしたこともありません。
同じころ結婚した友人たちが、けっこう夫婦喧嘩しては別れたいと愚痴るのを聞くにつけ、洋子は自分は恵まれていると思うのでした。
収入よりも人並み以上、マンションも買って生活は落ち着き。ある程度の豊かさと生活の安定を洋子はありがたいと思っています。毎日の生活の中には小さな不平や不満はありますが、とりたててあげつらわなければならないものはありません。
すべては若き日に望んだとおりなのです。優しく働き者の夫とすくすく育つ子ども、その家族のために尽くす自分、夫の働いて持ってくるお金を大切に管理し、家計のやりくりや料理にいそしみ、家庭を守る妻の姿‥‥。いったいこれ以上何を望んだらいいのでしょうか。
けれど、時として襲ってくる虚しい思い、色でも形もない不安なようなもの・・・・・、ふと、ぼんやりして大好きな編み物すら手につかない自分を発見して、洋子は驚くのです。
このところ夫の会話が少なくなったように思います。結婚のとき、二人は約束しました。
「なんでも話し合う夫婦になろうね」
世間並みの夫婦と違った夫婦、生き生きとしていつまでも恋人であるような夫婦、それが洋子の期待でもあったのですが‥‥。
月日がたつにつれて、これでいいのかしらという思いが頭をもたげてきたのです。OL時代のあのつまらなかった仕事ですら、何かとても輝いていたもののように思え、世の中の動きから取り残されてしまっているように感じます。毎日が、両手で救い上げた砂のようにボロボロとこぼれ落ちていく‥‥。
夫と話したいと思っていても、夜は遅いし何時も疲れている感じで、自分のこのモヤモヤした感情について語るのも悪いような気がして、つい言葉を呑み込んでしまいます。
子どもに手がかかっていた間は気も紛れていました。衣類の修理やパンやケーキを焼いたり、料理の工夫、家の中を磨き立てたり、近所の奥さんと立ち話、そんなことも子どもが小さい頃は張りがあったのに、この頃はなんとなく身が入らなくなってしまいました。
陽だまりのなかで枯れ果てていような恐ろしさ
朝、夫と子ども二人を送り出して洗濯や掃除、それでも10時には終わってしまいます。一時期は講演会や婦人学級にも顔を出したりもして見たのですが、つまらなくてこのところは誘いがあっても出かける気にもなりません。どこに行っても女ばかりというのは気が晴れないと思うんです。
一日中家にいて、誰とも喋らないで過ごすことが多くなりました。しゃべる相手はお店の店員とかセールスマン。日常の生活の中にキャッチボールのようにポンポンと弾む会話、たとえそれが冗談話であっても、何か自分の感情とか考えを表現するような機会がまったくないので。
ですから、この頃は人前に出ても妙に気後れがしていまって、つい口ごもって喋りたいことがうまく出てこないのです。下の子がまだ小さかった頃、お隣りの奥さんに話しかけようとして、赤ちゃん言葉というのか舌足らずなってしまったような気がして、とても恐ろしいと思ったことがあるのですが、それがますますひどくなったようにも思います。
夫は、一応は、「僕や子供に迷惑がかからない範囲でなら、好きなことをやりなさい」と言ってくれるのです。
けれど、洋子には分からないのです。いったい私は何が好きなのだろう…‥。編み物? リボンフラワー? 木目込み人形作り? 英会話? 読書? それらは時間つぶしにはやれても、何かひとつの情熱の対象とならないのです。
そのうえ、夫の稼いでくれたお金を自分の遊びごとに使うような気がして、いつも後ろめたい思いがあります。洋子自身OL体験がありますから、これだけのお金を稼ぐのがいかに大変かよくわかります。そんな思いも、洋子の行動にブレーキをかけるのでした。
今朝、ふと夫にこんなことを言ってみました。
「家でブラブラしていてもつまらないのよ。パートにでも出てみようかしら」
そこには、自分の力でお金を稼ぎ、友人もできて楽しいお喋りがあるような気がしたのです。けれど夫は、「そんなことをしなくたっていいじゃないか。生活に困るわけじゃないんだし。それより本でも読んで勉強したら?」。
夫は常々パートで働くくらいなら、何か自分のライフワークになるようなことをした方がいいという意見の持ち主でした。洋子も、かつてはそう思っていたのです。主婦の働きなどたかが知れている。
そんな小銭を稼ぐためにあくせくと忙しい思いをするよりも、じっくり本でも読んだほうが、ずっと身のためになるのにと、パートに出ていく主婦を見ていのです。
でも今は、本を読んだって何にもならないんじゃないの、と洋子は思います、その感動を語る人も居なければ、作者について教える人もいない。この夫とて、ただ家と会社を往復するだけで感情を分かち合うような会話もないではないか‥‥。ただ活字を追って”読んだ”という事実だけを積み上げているのは、まことにつまらないことでした。
この頃は、夫が異邦人のように見えはじめました。夫だけが生き生きしている。妻子を養うという大義名分を背負って張り切っている。けれど養われるほうの身は、なんともつまらないものだろう。
家庭という名の美しき牢獄、格子なき地下牢、その中にあって老いていく自分。十年先もこうして陽だまりに座っているであろう自分を思えと、洋子は、ただ枯れ果てていくような恐ろしさに襲われるのでした。
“男には、七人の敵と同時に八人の仲間がいる”
このところ、夫に朝「行ってらっしゃい」と言うのがとても苦痛になりました。以前はすんなり言えたものが、どうして口から出てこない。家を出ていく夫の仕事の世界の張りつめたものを思うと、それが妬ましくて、置いてきぼりにされているような自分を感じるのです。
「男は外に七人の敵がある」と言い、男の仕事の世界の大変さが強調されています。七人の敵がいるかもしれないけれど、それよりも一人多い八人の仲間がいる…‥。洋子にはそれが、家庭にいる妻には味わえない緊張と快感、涙や笑いがあり、人間としての豊かな感情がある生き生きとした世界のように思えてならないのです。夫はその世界に向かって出ていく。一人残される妻は、感動のない世界に置き去りにされてしまっている‥‥。その思いが「行ってらっしゃい」と言えなくさせているのでしょうか。
仕事の世界が過酷なものと知りつつも、感動の部分が納得しないのです。
夫は、夫婦一心同体、何も話さなくても分かり合えると思っているに違いありません。けれど本当にそうなのだろうか。夫は私の心の中にある焦りや不安、家の中で腐ったように死んでいくであろう私の気持ちなど、
まったく分かってくれないのではないか。一心同体なんて嘘だ。夫は夫だけの世界でしか生きていないじゃないの。そう思うと惻々(そくそく)とした淋しさがこみ上って来るのでした。
自由な時間がたっぷりあって、何をやってもいいはずなのに、何をやっても満たされない自分‥‥、毎日の生活が自分の本当の姿じゃないよう思えてならない…‥。”ままごと遊び”にか過ぎないように思えるのは、贅沢なことでしょうか‥‥。最近は、操られている糸のままに手足を動かしているにすぎない人形のように思えます。
こんなことを近所の奥さんに語ってみても分かってもらえません。
「なんでもいいからやればいいじゃないの。ただ悩んでいるだけなんて、時間の浪費よ。今の時代、やろうと思えば機会はいくらでもあるわよ。消費者問題だって、子どもの教育の問題だって、老人問題だって、問題はいくらでもあるし。目的を持つことが大事ね」
洋子とて、ただ毎日ぼんやりしているわけではないのです。PTAの役員もやっているし、趣味のサークルにも入っています。
けれど、この何をやっても心が満たされない、この思いをどうやって伝えることができるのでしょうか。表面的な行動、PTAの会議や趣味のサークル作り、そこで交わす会話、それは余りに通りいっぺんで、そこに身をのめり込ませて燃えるものがないということは、すべて洋子の心の持ちように尽きるものなのでしょうか。
“幸せ”な家庭の中で、なぜ”幸せ”と思えないのか、洋子には分からないのです。
とりあえず冬になるまでに、子どものセーターを二枚を編み上げようと思っています。同じことの繰り返しによって編みあがっていくセーターは、洋子には唯一確実なものに思えるのです。
「編まなくちゃ‥‥」洋子は呟きまました。気を取り直して編み物を取り上げてみました。その時、ふと洋子は思ったのです。
「私は結婚には不適格な女だったんじゃないかしら‥‥」
どこかで人生を取り違えてしまった自分。自分には別の生き方があったはずだとする思い、それは言いようのない悲しさでした。一生をこうした空虚感に苦しみながら過ごすのかと思うと、恐ろしさと不安と焦りにかられます。
けれど洋子には、どうやったらこの自分の心の渇きから逃がられるのか、喉を潤す一菊(いちきく)の水はどこにあるのかそれが見えてこないのでした。
〈ケース・2〉私はセックスつき家政婦じゃない
夫・佐藤淳(三十歳)大卒 二人の兄弟の兄 妻・佳子(二十七歳) 高卒 二歳の長女が一人 埼玉県草加市でアパート住まい 夫は東京へ一時間半の通勤年収四百八〇万円
なぜ 姑は、こんなに干渉するのだろう
「ねえ、ママ公園へ連れて行ってよう、ねえってばぁ」
二歳になったばかりの瑤子(ようこ)が後ろから抱きついてきて、佳子はとりとめない思いにふけっていたことに、はっと気がつきました。
「そうね。いいお天気だものね。お家にいたら退屈してしまうわね」
佳子は何かを振り切るような思いで、立ち上がると、サンダルをつっかけて外に出ました。
初夏の太陽がまぶしく降り注いできて、先ほど姑からかかってきた電話の重苦しいさから救い出してくれるようです。
週一度はかかってくる姑の電話、それも今朝はこんな具合だったのです。
「あなた、佳子って名前はよくないわよ。姓名判断で見てもらったら、いつか大病をするって。今のうちに変えておかないと大変なことになるわよ」
どうして姑は、こうも私たちの生活に介入してくるのだろう。アパートだって方向が悪い、地名が悪いと、もう三回も引っ越ししているというのに‥‥。その度に夫の淳は、母の言いなりに従うのです。
「お母さんの言うとおりにやっておけば間違いないよ」
それにしても、女はひとたび”嫁”という名がつけば、どうしてもこうも夫の実家から振り回されなければいけないのか、佳子にはどうしてもわからないのです。
佳子が同郷の淳と知り合ったのは、郷里のデパートで働いていた時、彼が夏休みの帰省でアルバイトに来たのがきっかけでした。
高校を卒業してすぐに働きに出た彼女にとって、東京の大学はまばゆいばかりの光に満ちたものでした。激しい想いを抱いて重ねたデート、恋の囚(とりこ)になっていた佳子にとって、淳こそが人生のすべてと思えたのです。
夏休みが終わって、東京に戻った淳との文通、一年後には郷里の母を捨てるようにして淳のアパートに転がり込んでしまった。若さゆえの冒険、情熱でもあったのです。
その後、同じアパートの二階と一階という形で半同棲のような生活を六年続けました。
結婚が遅れたのは姑の反対でした。
淳は佳子とのことを母に告げることができず、結果的に母に秘密にしてしまったことが感情をこじらせた原因でもあったのです。
また母親にしてみれば、いずれは郷里に戻り、二人兄弟の長男として家を継いでほしい。それには自分の気に入った嫁を娶(めと)らせたい。そんな気持ちがあったのでした。
「あなたたちの結婚は反対ですよ。何もよりによって、そんなふしだらな娘と結婚しなくても、他にいい家のお嬢さんがいくらでも居るじゃないの」
アパートに乗り込んできて。佳子の目の前でそう言った姑の言葉を今も佳子さんは忘れられません。
男の正体は同棲じゃ分からない
それでも、まだ半同棲のような生活をしているころは淳もよかったのです。
つくづく佳子は、男というものは同棲じゃ分からない。結婚して籍を入れ”嫁”となってみて初めて分かるものだと思うのです。
同棲の頃は、食事の支度にしても、セックスにしても、どこか華やいだものがあって生き生きしていました。淳との間も”恋人”関係、そのままごとめいた日常は、お互い男であり女であることに緊張があったのです。
その同棲の間に、佳子は別の恋人ができてひと悶着(もんちゃく)あったことも、淳との間に張りつめたものを持たせていのでしょうか。
淳がようやくのこと結婚を決断し、母親を説得したのは、瑤子がお腹にできたこともあったのですが、やはり他の男に佳子を取られたくないとする思いもあったようです。その結婚を期に、出産準備のためもあって佳子はOL生活を辞めました。
最初の衝撃は、結婚式のあとあいさつを兼ねて田舎に新婚旅行に行った時でした。お腹がせり出しはじめ、体がだるくてたまらない佳子は、実家に行って休もうと言ったのです・けれども淳は言いました。
「あんたは佐藤家の長男の嫁になったんだから、まずはボクの母のところに行くのが順序じゃないの」
それまでは、帰郷するたびにまず行くのが佳子の家でした。淳はこの結婚に反対している自分の母に寄りつこうともせず。むしろ佳子が急き立てて行かせるほどだったのです。
あらためて佳子はこの長い間の恋人、やっと夫になった男の顔を見つめました。なんとう母への従順さでしょうか。
でも佳子は、それも止むを得ないと思いました。長男として母の意に背く結婚をしたことへの後ろめたい思いもあるのだろう。ここはまず一番にあいさつに行って、彼の立場を立てる必要もあるんじゃないかしら‥‥。
そう思った佳子の気持ちには、とにかく挨拶がすめば、身重の妻のために横になる配慮をしてくれるだろうという期待もあったのです。
ところが姑(はは)の家に行ってみると、待っていたのは、集まった親戚のための宴会の支度でした。淳はと見れば、その人たちに交じってもう酒で頬を染めている。その表情の中には嫁なんだから、台所をするのは当たり前だというような、それはまさに”主人”の顔だったのです。
この時の辛さを佳子は忘れられませんでした。
セックスを断ったら、いきなり殴られました
新婚生活が始まってから、淳の態度は少しずつ変わっていきました。それは佳子のほうの感じ方の変化なのかもしれないのですが、かつては恋人同士として働き、お金を出し合って家計を守ってきたのが、一緒に暮らし、夫の稼ぎだけで生活するようになったことで、
一方は支配者、一方は仕える者となりました。さらには”家”という目には見えない掟(おきて)のようなものによって、結婚を境に、女の立場は恋人から嫁としての従属物に転落するのでしょうか。
なくなったはずの”家族制度”は、まだ根強く残っていて、恋人時代の二人の立場を変化させてしまいました。どこか平等ではない結婚というものに、佳子は懐疑の目を向けはじめました。
加えて、夫の母親との週一回繰り返される長電話。結婚した途端にその時間が長くなったように思うのです。同棲の頃は避けていたこの母と息子のつながりは、いったい何がきっかけでこうも密になったのか、佳子には分からないことばかりです。
姑が最初の引っ越しを言い出したのは、この頃でした。
「母さんがね、このアパートじゃいい子が産めんと言うんだよ。迷信だけどさ、それでもやっぱり無難なように、引っ越しておいたほうがいいだろう?」
母親の言うことことに何一つ逆らわない夫の姿に、あらためて佳子は驚き、自分の淳に対する位置関係が低くなったのを感じたのでした。
新婚といえども。二人のセックスは六年も続いていれば、もう新鮮なものではありません。
引っ越しが終わった後、疲れ切った佳子にとって、夫の求めは、もう何かとても面倒なものに思えてならなくなりました。
ある夜のこと、
「ねえ、今夜は私その気にならないの。嫌なのよ」
そう言った佳子に対して、夫はいきなりふとんを引きはがして殴りつけてきました。
「それが亭主に向かって言う言葉か。誰のおかげで食わせてもらっていると思っているんだ」
枕を蹴飛ばし、青あざができるほどの勢いに、佳子はアパートを飛び出しました。夜の鎧戸(よろいど)を降ろした商店街の冷え切った光の中を歩きながら、佳子は胸の中で叫んでいた。
「いったい私は何の。私はセックスつき家政婦じゃないわ。子どもを産む道具でもないわ」
同棲の間、いったい淳のどこを見ていたのだろう…‥。性格に弱いところはあるけれど、けっして横暴でもなければ、ましてやセックスを拒否することで暴力をふるう人ではなかった。
これまでだって、「疲れているから嫌」と言ったことは何度もあるというのに、妻になるということは、性においても隷属(れいぞく)することなのだろうか‥‥。
恋人であった時代が懐かしい。晴れて夫婦になれたと思った、のもつかの間、妻と言う名のセックスつき家政婦に甘んじて生きて行かなければならないとしたら。これから先、いったいどんな楽しみがあるというのだろう。佳子はあてどなく夜の街をさまよい歩きました。
自分の中に、ひどく好色な血が流れているような気がする
それ以降、佳子は夫のほんのちょっとした癖、たとえば、ご飯を食べる時に箸(はし)をカチカチと茶碗に当てる音や、洗面所でガッ痰(たん)を吐く音などに、身震いがするほどの嫌悪感を持つようになりました。
あの夜以来、途絶えていたセックスが戻ってきた後も、かつてのように燃えるものをかんじません。
心の中には、どうせセックスつき家政婦なんだから、これも”お勤め”のひとつ、お好きなようにと醒(さ)めてしまっ
たのです。もはや佳子の中で、夫は男としての魅力を持つ存在ではなくなりました。
その代わり、心の中に広がっていく漠然とした不満、その色も形も見えないモヤモヤしたものだけが、とどめようもなく降り積もってくるのです。
佳子はときどき思います。
「小さい時に父親に死なれたから。淳に対しても父親のようなものを求めていたんじゃないかしら。同棲の間はお互い距離があったから、私の父親的なものを求める思いに満たされていたのかもしれないわ」
妻となることは、夫に父親的なものを求める気持ちから袂別(べいべつ)することでもあったのです。
そうは思うものの、二度目のアパート引っ越し、生まれた子どもの名前まで母親の言うとおりなっている夫を見ていると、夫にはもっと性格が強くなってほしい。
瑤子の父親として、なにか”父性”を感じさせるものがほしい。いつまでも母親の乳房にぶらさがって、妻にだけ威張っている夫が、疎(うと)ましく思えてならないのでした。
出産したあとは、三、四ヶ月に一度の営みしかありません。それは、まだ二十七歳という若い体に埋火(うずみび)のような不満を宿してしまいます。
夫はときどき訊(き)きます。
「あんたはどうしてセックスを嫌がるのかなあ」
「好きじゃないのよ。それに上手でもないし」
と答えるものの、その嘘を一番知っているのも彼女自身なのです。
ときどき、ふと思い出します。淳と知り合う前、郷里でOLをしていた頃、初めて体を許した男がいました。最近よくその男のことを思い出し、ふと名前を呼んだりすることもあるのです。
「初めての経験の人って忘れられないのかしら」
淳との生活に、セックスが重要な位置を占めなくなってしまった現在、思うのはその昔の男、そしてふと買い物に出かけた折などすれ違う男に、男の色香を感じて佇(たたず)んでしまいます。
何か自分の中にひどく好色な血が流れているのではないかしら、セックスが嫌いなのではなくて、淳以外の男とのセックスにあこがれているんじゃないかしら。そう思うと恐ろしくなります。
もし今、強烈な魅力の男が現れたら、子どもも夫も放り出して走ってしまうのではないか。セックスつき家政婦の日常から逃れるために、何をしでかすか分からない自分を思って恐怖にかられます。
マザ・コンの夫に絶望しながら‥‥
それにもかかわらず、その思いに反比例するように、淳はやはり私を頼っている。そう思う気持ちも根強くあるのです。
瑤子が生まれて一年ほどした頃、淳は胃潰瘍(いかいよう)で一ヶ月ほど入院しました。その時の子どものような心細がりよう。それを思うとこの男と一生を過ごすのも、私の運命なのではないか、そう思って心を慰めるものも生まれてきます。
若い日、淳を想って一途(いちず)に田舎から東京へ追い求めきた情熱を大切にしたい、という気持ちも湧いてきます。
ほかの男と煌(きら)めくようなセックスをしてみたいという呻(うめ)きのような思いと、この男に馴れた日常の中で生きるのも悪くはないとする思いで、佳子の胸はゆれています。
考えてみれば、淳は気が弱いだけの男、ほかに女を作るわけでもないし、母親と佳子に甘えている男なのだろう。そう思えば、佳子の胸も収まってくるのです。それに病気以来、佳子の発言力も強くなってきたような気がします。
病気したことで気を弱くしたのか、文句を言わなくなり、なにか佳子が怒っていても、「なに怒っているの」とオドオドとした感じがするのです。それもまた。佳子にしてみれば男の魅力がますます欠けていようでもどかしいのですが、居心地は悪くありません。
そこにかかってきたのが、今朝の姑の改名の電話でした。またしても佳子はこの発言力の強く、言い出したら引っ込まない姑にうんざりしたものを感じ、それに反撥しないであろうマザ・コンの夫を思うと気が滅(め)入ります。
こうして、毎日毎日、自分の心をなだめながら生きていることに、そこはかとない疲れも覚えます。やっと二人目の子どもを産もうか、淳との生活に順応していこと決めた矢先に、再び黒い雲がのしかかってきた感じでした。
何か出口のない不安を感じます。爆弾を胸の奥ひそかに抱えている自分を思うと、どうしたらいいのかと叫びたくなる時があります。
将来に対する具体的な計画もなく、趣味や学習会に出るほどの経済的余裕もなく、こうして公園で遊ぶことで鬱積を発散させている自分が惨めでたまらないのです。
二人目の子どもができれば、その生活、あたかも海の底の岩かげに潜むような生活は、まだまだ続くことになります。
私にも生きている手応えが欲しい
だからといって。今のこの毎日を打ち破る何ものも持ちえません。子ども大きくなり手が離れたら、パートで働くことも考えられるし、そうすれば家を建てるとか、旅行するとか何らかの楽しみを発見できるかもしれないけれど、今のところはそんなこと夢のまた夢。
佳子の毎日は、ただ同じことの繰り返し。朝起きて、そそくさと朝食をすませる夫を手伝い、彼が出て行ったあとは掃除して洗濯して、それも二DKのアパートはそれほどの時間をとりはしない。
あとは瑤子と公園で遊び、あまりものの昼食をすませ、子どもが昼寝をすれば一緒にうとうとし、夕方になるのを待つ。
夕飯の支度をしても、何時に帰るか連絡もない淳のこと、それほど念入りのものではないのです。第一、毎日、料理ブックに出ているような料理を作るほどの経済的余裕はありません。
スーパーで安いものを見つけてきて、適当に調理すれば、あとは淳の帰りをテレビを見たり風呂に入ったりして待つだけ。
毎日が単調な家事の明け暮れ。これが若い頃夢見ていた結婚と言うものの現実だったのでしょうか。何も生きている実感がないではありませんか。
自分に力がないことも感じています。テレビや雑誌で華々しく活躍している人は私とは違う。そう思うことで心の慰めはするけれど、すっきり晴晴れはしません。
いったい妻というのは、家政婦とどこが違うのだろう。夫とは会話らしい会話もなければ、一緒に遊びにも行くこともない。夫が男だということも忘れてしまうほどの燃えない毎日。その中で女としての魅力もどこかに置き忘れているようなエプロン姿の自分。
佳子はどうしたらいいのか分からないこの毎日の生活の、そこはかとない不満の雲の中で叫ぶのです。
「私はセックスつきの家政婦じゃないんだ。私にも生きている手応えが欲しい!」
つづく
第三
〈ケース・3〉夫以外の男に”生の煌めき”を求めて