工藤美代子 著
憎めない中年男が妻に復讐したかったこと
須賀さんが、酒を飲むと「俺は必ず離婚するぞお」と叫んでいたのは、二、三年前のことだった。それは新宿のバーだったり、表参道のレストランだったりした。
「離婚したいならすればいいじゃない」と私は冷やかに答えていた。須賀さんはすでに四十代の後半で、ある雑誌の編集者をしていた。私が物書き家業を始めた当時からの知り合いなので、かれこれ二十年以上のつき合いになる。
眼がくりっとした童顔で、ちょっと見たところ三十代の初めにしか見えない。ハンサムというわけではないのだが、女の子を安心させるような優しい雰囲気があった。もちろん、不倫も続行中だった。仕事の打ち合わせで会っていても、しょっちゅう携帯電話をきにしていた。
「ちょっと、落ち着かないから携帯の電源を切ってくれない?」と私はたまりかねて注意したこともあった。「あっ、ごめんごめん。でも、彼女と会う段取りが決まらなくってさ」などとけろっとした調子で答える。どこか憎めない愛嬌のある顔で言われると、それ以上こちらも怒れなかった。
「ついに俺やったよ。離婚したよ。でもなあ、その後がしょぼい話でさあ」といって須賀さんから電話が掛かってきた、半年前ほど前だった。かれはなんと会社を辞めて故郷の四国に帰っているという。長男なのでいずれ家業を継がなくてはならなかったから、いいんだというのだが、その声は元気がなかった。
ここで彼が四国のどの都市で、暮しているのを書けないのは残念だが、とにかく、私は須賀さんに離婚の経緯を聞くために四国へと飛んだ。
須賀さんの父親は、ある会社の経営者だった。その後継者となった須賀さんは、すっかり実業家然とした姿になっていた。ジーンズにTシャツという気楽な服装ではなく、ダークスーツに身を固めていて、なんか戦国時代の武将を連想させた。
「工藤さんが熟年離婚のことを書くなら、俺みたいに馬鹿な男の例があってもいいだろう。みんなが離婚してハッピーっていうわけじゃないんだから」
午後六時に待ち合わせたホテルの和食の店の個室で、須賀さんが口を開いた。
「でも、あなた、いつも俺は絶対に離婚するぞって、酔っ払っては叫んでいたじゃないの。あれは何だったのか?」
「あれか? あれはな、俺が一番つらかった時のことだよ。こう見えても俺だってけっこう繊細なんだ。いやあ苦しかったよ」
童顔が一気に老け込んだようだった。
須賀さんが彼女ができたのは四十七歳のときだという。それまでは、浮気をしようなんて夢にも考えていなかった。ところが、ある日、仕事が遅くなって後輩の家に泊めてもらった。そこで翌朝見た光景は彼にとっては大ショックだった。
「そこんちの奥さんが、朝、甲斐甲斐しく和食のご飯を作っていた亭主に食べさせているわけ。もちろん俺もお相伴にあずかったけど、これが美味しかった。味噌汁に焼き魚だぜ。それと漬物」
「そんなの悪いけど普通の朝ご飯じゃない。うちだって亭主にそれくらいのものは食べさせているわよ」
「そこそこ。そこなんだよ。後輩の奴に、お前んちの母ちゃんはすごいなあって言ったら、涼しい顔して『普通です』っていいやがったんだ。それで俺考えこんじゃってさあ。だって、うちの女房は朝なんて起きたことがなかったよ。下の娘が生まれてからは寝室も別だったからね。
結婚して二十年以上たったけど、もう十年目くらいからは、寝室は別、食事も別っていうか、作ってくれなかったし、ようするに俺って、まったくかまってもらえなかったってことなのよ」
急に須賀さんは妻の態度が腹立たしくなった。といって今さら喧嘩をする情熱もない。よし、絶対に女を作ってやるぞ。お前がそういう態度なら、こっちだって、遊んでやると一人で復讐心を燃え上がらせたのだという。
“カレセン”の若い女の子との初々しいセックスに耽溺
なんだか子供じみているなあと私は思ったが、彼の言葉に口を挟まず黙って耳を傾けていた。
「こっちがその気になると、女ってできるものだね。編集部にアルバイトで来ていた二十五歳の子がいてさ、里奈ちゃんっていうんだけど、今度ご飯食べようって誘ったら『ハイ』って元気で答えるんだよ。
よっし、これに決めたと思って、ちょっと高いイタメシ屋につれてったわけ。それからはオジサンの腕の見せ所と思ってさ、食事の後は渋谷のセルリアンタワーの最上階にあるバーに行って、盛り上がったところで『今夜ここに泊まっていかない?』って囁(ささや)いたら、これも元気に『ハイ』なんだよ。俺さあ。もう夢かと思っちゃったよ」
里奈ちゃんは、手足がひょろりと長くて、顔が小さく、どこか眠そうな目をしている。それが色っぽいと須賀さんは感じた。
「もうベットの中ではオジサンは大サービスよ。女房にもしなかったような奉仕をしまくり。そうしたら、里奈ちゃんのいうことが可愛いんだよ。『あたし同じ年の彼がいて、最近別れたんですけど、その人のときは一回しかイカなかったのに、須賀さんだと三回もイッちゃいました』なんていうんだよね」
「ふーん。相性が良かったわけね」
「違うよ。俺の努力のたまものよ。そいでね。里奈ちゃんに聞いたんだよ。俺みたいなオジソンでもいいの? って」
すると里奈ちゃんが「あたしカレセンなのかもしれない」と答えた。
「知っている? “カレセン”って」と須賀さんが私に尋ねる。
「うん。このあいだ新聞記者の姪が来て、その話をしてな。なんか、若い女の子がうんと年の離れたオジサンにひかれるケースがけっこう多いんだって、そういう子を”カレセン”っていうらしいわね。漢字で書くと『枯れ専』かなあ。
カレセンの場合って、相手が地位も名誉もあるお金持ちじゃなくってもいいみたいね。ちょっと一芸に秀でていて、たとえば青山の骨董通りでライカを首からぶら下げて歩いているようなオジサンがもてるんだって。それからセックスはしっかりやるらしいわね。その意味じゃまったく枯れていないわよね」
「そうそう。里奈ちゃんと俺だってすごかったよ。オジサンのテクニックでさ、あそこを舐めてげると、それだけで里奈ちゃんもうぐちょぐちょで一回はイッちゃんだよ。
その代わり、私もお返ししますなんて言って、俺のも舐めてくれるの。それで舐め方を教えると言われた通りにちゃんと舐めるんだよね。そいでもって『あたし顎が痛くなっちゃいました』なんて初々しいことを言うんだよな」
「その里奈ちゃんは今一緒にいるの?」
私が何気なく尋ねると須賀さんは世にも情けない顔になった。
「ちょっとその説明をする前に女房との話を聞いてくれる?」
「もちろんそのために来たんだもの」
私はメモ帳と鉛筆を用意した。
里奈ちゃんと定期的に会うようになって一年ほどした頃に、須賀さんの奥さんは夫の浮気をしているらしいと気付いた。
須賀さんが携帯を充電していて、それを忘れて会社に行ってしまった。その間に妻が携帯に入っていた里奈ちゃんのメールを見たらしい。いつも寝る前に里奈ちゃんは須賀さんにメールをくれる習慣になっていた。
問い詰められた須賀さんは「アハハハ、何言ってんだよ、あれは銀座のホステスから営業メールだよ。ああいうのをお客さん全部にだしてんのさ」と笑ってごまかした。
しかし、妻は納得しなかった。どうも変だと疑い始めたのである。しかし、それ以上は夫を追求しなかった。
「妻とは、飽きちゃったんだよね。同じ女とはそう何回もできない」
須賀さんの奥さんは私は一度だけ会ったことがある。ある作家の出版記念パーティーに、彼女が来ていたのだ。印象としては、ボーイッシュな感じで、ちょっと女優のライザ・ミネリの若い頃に似ていた。
「いやあ、女房の反撃はすごかったよ。あの人さあ、急に朝起きてご飯を作るようになったんだよ。和食じゃなくて、トーストに目玉焼きとコーヒーだけど、それにしても十年ぶりくらいだぜ、朝ご飯が一緒なんていうのが復活したのはさ。
それからさあ、しばらくしたら、玉三郎が出演する歌舞伎のチケットを二枚買って来てた、見に行きましょうと言うんだよ。それってデートじゃない。誘ってんだよ、亭主を。
俺はさあ、正直言うと今さら古女房と歌舞伎なんか見に行きたくないよな。でも断れば、やっぱり女がいるのねってことになるから、じっと我慢で、土曜日に歌舞伎座に行ったわけ。
しんどかったぜ。歌舞伎なんて俺わかんねいしさ、頭の中は里奈ちゃんことばかりだろ。それでもちゃんと最後まで付き合ったよ。そうしたらさあ、歌舞伎が終わってから、食事でもしましょうって女房がいうんだよ。
遅い時間だったけど、やっている店が銀座にはあったんで、じゃ行くかって歩き始めたらなんとさあ、俺の腕に自分の腕を絡ませて歩くんだよ、参ったよ。
そうだろう。相手が里奈ちゃんならともかく女房だぜ。『こうして、あなたと歩くの久しぶり。なんかすごく幸せよ』なんて言っちゃってさ、もう敵は恋人モードに入っているんだな。俺は内心、これはヤバイぞ。まじでヤパイぞって思ったわけ」
私は困惑している須賀さんの顔を思い浮かべたら、おかしくて噴き出してしまった。
彼の妻の作戦は手に取るようにわかる。どうも夫に女がいるらしい。だとしたら追い詰めてはいけない。それよりも、今まで、あまり構わなかったから、
こんなことになったのだろう。もう一度、機嫌を取って、昔のようなムードを再現すれば、夫だってこちらに帰ってくるに決まっている。そう考えたに違いない。
「何がそんなにヤバイのよ?」
私が尋ねると、須賀さんが日本酒の徳利を傾けながら、首を振る。
「工藤さんは想像力がないなあ。そういうシチュエーションに男が置かれたら、なにが恐怖かわかんないの? 食事した後、俺はあの人と同じ家に帰んなきゃなんないのよ。敵が狙っているのは、たったひとつでしょうが」
「ひとつって?」
「あああ、やだなあ。うちは十年以上もずっとセックスレスだったんだよ。子供がいたり、俺が忙しかったり、まあ理由はいっぱいあるけど、はっきり言えばもう飽きちゃったんだよね。
同じ女とそう何回もできない。まっ、相手もそう思っているだろうって、俺は決め込んでいた。実際、女房もセックスのことなんて口にもしたりしなかったし」
「それで?」
「だからさ、俺だって、歌舞伎に行く日の前の晩に里奈ちゃんと目黒のラブホでしっかり励んで、二回も頑張っちゃったんだよ。里奈ちゃんは四回もイッたなんていっていたけどね。それなのに、翌日、女房に迫られたら、俺どうなるんだよ。できるわけねえだろう」
「そっか、物理的に無理な状態だったのね。じゃあ、ちょっと日曜日まで待ってもらったら」
「あのなあ、女房に、他の若い女とやったばかりですから、少々お待ちくださいなんて言えると思う? でもなあ、やっぱり家に帰ったら、もう子供たちはいないし二人きりなんだよ。
そんでもって、女房がいそいそワインなんかダイニングテーブルに持ってくるんだ。俺もう泣きたかった。絶体絶命だよ」
妻の反撃をかわし、喜び勇んで離婚届に判を押したが
久しぶりにあなたの寝室で寝てもいい? と妻に聞かれて、須賀さんは返事に困った。今日は飲み過ぎたから一人で寝たいと答える、妻の表情がどす黒く変わったという。ほんとうに空が曇ってさーっと夕立が来るような感じだったそうだ。
その晩は、何とか逃げたものの、妻の攻撃は続いた。しかし、須賀さんにいわせると「できないものはできない」。
当然、家庭内は険悪な空気が漂い、須賀さんは携帯をしょっちゅう隠すようになった。それでもお風呂に入っている間に妻に見られて、今度は厳しく問い詰められた。
半年ほどすったもんだした末に、妻の方から離婚を提案してきたので、須賀さんは喜んで書類に判を押した。
これで念願の離婚ができたと思えば、マンションを妻の名義に書き換えるなど惜しくもなんともなかった。
しかし、最後の最後で神様はどんでん返しを用意していた。
あれだけ大好きなん里奈ちゃんにプロポーズしたら、なんとあっさり断られてしまったのである。
そのときの里奈ちゃんは、この人、いったい何を言っているんだろうという不審そうな表情で須賀さんを見たという。
傷心の須賀さんは、故郷で新生活を模索中というところだった。その晩、彼の長い身の上話が終わったのは午後十一時を回ったころだった。
子連れ再婚夫とのセックスに心も冷めて
キャリアウーマンが選んだのは実直な公務員
渋谷駅から十分ほど歩いたところに、敦子さんの住むマンションはあった。
七月の半ばだった。太陽がじりじりと地面を焼いている。日傘をさしていても、布地を突き抜けて紫外線が降りかかってくるような気がする。
汗をふきふき敦子さんの部屋のインターホンを押すと、黒いワンピースを着た華奢(きゃしゃ)な女性が現われた。すでに電話で三回も話をしている菊池敦子さんだった。
紹介者の名前をいった後で、私は挨拶をした。
「お待ちしていました。さあどうぞ」と敦子さんが笑顔で室内に招き入れてくれた。
ここでますは、簡単に敦子さんの経歴を紹介しておこう。神戸で生まれて、大学を卒業するまで、神戸に住んでいた。東京の会社に就職して、夢中に働いているうちに三十五歳になってしまった。今なら三十五歳で独身女性はたくさんいる。しかし団塊の世代である敦子さんは、ちょっと焦った。大学の同級生はみんな結婚していたからだ。
そんなときに見合いの話があった。奥さんに先立たれ四十一歳の男性で、十歳の女の子が一人いた。国立大学を卒業していて、官庁に勤めていた。出身は敦子さんと同じ神戸だった。
会ってみると、実直そうな感じで、話し方も穏やかだった。特に恋愛感情が湧いたわけではなかったが、「この人じゃダメだという理由も見つからない」と思って、プロポーズを受けた。
初めから夫の娘である由美ちゃんの存在は気になったが、やがて自分になついてくれるだろうと軽く考えていた。
二人の故郷で身内だけでの簡単な結婚式を挙げて、敦子さんは専業主婦となり、新生活は始まった。
ところが、結婚して二十三年目に離婚する結果となった。なぜ離婚という事態になったのか、その辺から話を聞き始めた。
夫の連れ子とは距離を保って平穏に
「一番大きな理由は、やっぱり娘のことだったと思いますね。由美とは最初からそりが合わなかったんです。私も若かったから、どう対応したらよいのかわからなくって。ただ、娘が反抗するのに、本気で怒ったりはしなかったんです。
なんていうか、距離を置いて、好きなようにやらせていました。だって、自分の実の娘ではないんですから、怒っても仕方ないでしょ」
いつまでたっても由美ちゃんは敦子さんに対して他人行儀な話し方をした。そして父親の誠一さんには、思いっきり甘えていた。日曜日などは、誠一さんの傍から離れず、敦子さんが二人の間に割れ込むことができないような雰囲気だった。
しかし、やがて由美ちゃんも高校生になると、自分の世界ができた。友人と遊び歩くようになり、ボーイフレンドができると。むしろ父親を避けるようになった。
世間からみれば、誠一さんは順調に出世をしていたし、由美ちゃんも名門の私立高校に通っていたので、幸せな一家に見えただろう。しかし、敦子さんは何か違和感を感じていた。
「どういったらいいんでしょうね。家の中で、みんながよそよそしいんですよ。喧嘩もしないかわりに、一緒にいて大笑いすることもないんです。
淡々としているというんでしょうかねえ。主人もいたって温厚な人でしたが、私が何を考えているかといったことには無関心でしたね」
敦子さんが「離婚」の二文字を意識し始めたのは、実はかなり早い時期からだったという。結婚して十年が過ぎた頃には、もしかして、この家を先に出ていくのは、娘の由美ちゃんではなくて、自分かもしれないと思うようになった。
そんな予感めいたものがあったので、昼間は専門学校へ通って資格を取った。それがどんな資格であるかは、彼女との約束で書けない。仕事関係への配慮から、書かないでほしいと言われているからである。
とにかく、大変努力しても彼女は専門職につける資格を自分で手に入れた。
ちょうどその頃、由美ちゃんが結婚した。相手は大学時代からのボーイフレンドだった。先方はレストランを経営している家だったので、官庁に勤める誠一さんは気に入らなかったが、由美ちゃんが妊娠したこともあって、押し切られた。
「そのときは、不思議な気がしましたね。私じゃなくて娘が家を出るんだと思ったら、なんか、筋書きが違っているみたいで、妙な気分でした。でも、正直いって、なさぬ仲の娘がいなくなるんですから、ほっとした気分もありましたね」
夫との二人の暮らしも、大きな変化はなかった。誠一さんはますます口数が少なくなっていった。夫婦の会話はほとんどなかった。それでも日常は流れていく。
誠一さんは定年になったが、天下りで民間の会社の役員に迎えられた。経済的には恵まれていたといってよいだろう。
「こんなことを言うのは、子供じみているようで恥ずかしいですけれど、つまりは、すべてが満ち足りていて、ただ『愛』だけがなかったんですね。いまになるとよくわかります。
あの家に足りなかったものは『愛』でした。幼稚だと思われるかもしれませんが。ほんとうのことです。いつも思っていました。どんなに貧乏でも、病気でも、この人のためだったら死ねると思える男がいたら幸せだろうなあって。私は主人のために死ねるなどとは全然思いませんでしたからね」
敦子さんは、常に自分の年齢と離婚を天秤にかけていたような気がするという。今なら、まだ離婚ができるだろうか。もう遅いだろうか。働ける資格を取ってからは、余計に心が惑った。
ネグリジェを突き返されて、逆上した夫
そんな折、予想もしなかった事態が起きた。娘の由美ちゃんが五歳の男の子を連れて実家に帰って来てしまったのである。
相手の家はレストランを営業しているとはいえ、大衆食堂のようなもので、お嫁さんも労働力だった。由美ちゃんはその家風に馴染めず、夫の不甲斐なさにも愛想が尽きて離婚した。
本来なら世間体を気にするはずの誠一さんなのに、由美ちゃんが出戻って来たのは、大歓迎した。そのへんの心理が敦子さんには、よく理解できなかったが、つまり娘を素性のわからぬ男に取られたと思っていたようだ。だから帰ってきたのは嬉しくて仕方ないのである。ようやく自分の手元に取り戻せたという感じだった。
しかも孫は男の子だった。「俺の跡継ぎができた。この子は東大に入れるぞ」などといって相好を崩している。まるで、年を取ってから子供を授かったかのようだった。
実家では由美ちゃんは女王さまだった。嫁ぎ先では遠慮もしなければならないし、経済的にも余裕がなかった、しかし、父親の庇護(ひご)があれば、由美ちゃんは子育て以外は好きにしていられた。充分すぎるほどの小遣いも誠一さんが由美ちゃんにあげていた。
やがて由美ちゃんの息子が小学校へ入る年齢になった。由美ちゃんは、これから仕事に出たいといい始めた。
ちょっと待ってほしい敦子さんは思った。息子の面倒は義理の祖母である敦子さんに任せて、自分が働くというのは虫が良すぎはしないか。
「私だって資格を生かして働きたいと考えていた矢先ですからね。しかも、主人も娘も孫のことは甘やかし放題で、まったく躾をする気がない。とにかく三歳になるまでおしめが取れなかったくらいなんですよ。
どうしようもなく我儘な子供でした。可愛いなんて感じたことは一度もありませんよ。だいた狭いマンションで四人暮らす生活も、私には限界でした」
敦子さんは五十八歳のとき、離婚したいと夫の誠一さんに申し出た。もちろん相手は驚いた。しかし、由美ちゃんは父親の味方だった。
「おかあさんが嫌だっていうんなら出て行ってもらったらいいじゃない。パパの面倒は私が見るわよ」と言い放った。
「二千万の財産分与をしてもらって敦子さんは別れた。あっけないといえば、あまりにもあっけない幕引きだった。
「失礼ですが、ご主人との間に、そのう、夫婦生活はおありだったのでしょうか?」
私は気になっていた質問を思い切ってしてみた。
「結婚した当初から、あっちのほうは、あんまりうまくいっていなかったと思いますよ。今でも憶えていることがあります。私は独身時代から、いつもパジャマを着て寝ているんです。そうしたら、主人がネグリジェを着てくれって言うんですね、
そんなの絶対に似合わないですからって、断ったら、主人が自分でデパートへ行って、レースのついた長いピンクのネグリジェを買ってきたんです。そうですね、結婚して五ヶ月くらいした頃だったかしら。
『こんなもの私は着ません』って突き返したら、『それを買ってきたときの俺がどんなに恥ずかしい思いを忍んだか、君にわからないのか』って、まあ、珍しく主人が声を荒げたんです。
だけど娼婦じゃあるまいし、あんなピラピラしたものは着られませんよね。何を勘違いしているのかしら、この人、と思いました。
夫婦生活は私が四十五歳になるくらいまではありましたね、いかにも主人らしくって、必ず金曜日の夜って決まっているんです。でも、すぐ隣に部屋には由美ちゃんが寝ているし、なんか、小説や週刊誌に書いてあるようなセックスじゃなかったです。
ただ、二人とも静かに手順通りに終わらせるだけでしたね、私もあんなことは、それほど大事なこととは思っていませんでしたから、向こうがしたいならどうぞという感じでした」
性交痛に耐えられず、ホルモン補充療法を試してみたが
結局十年間の性生活で、敦子さんが快感を覚えたことがなかったという口ぶりだった。特に避妊はしなかったが、彼女が妊娠しなかった。
離婚したとき、実は誠一さんは由美ちゃんの気持ちを考えてパイプカットをしていたと知った。それも今となってはどうでもいいことだと敦子さんは小さく笑った。
敦子さんが閉経したのは四十六歳のときだという。その一年前から性交痛がひどくなっていた。とにかくペニスを挿入されると、膣が引っ掻かれるような痛さだった。しかも痛みは翌日まで残った。
私の推測では夫の誠一さんは、あまり前戯をしないで、いきなり挿入したのではないだろうか。どうも二人が情熱的なセックスをしたとは思えない。
そこで敦子さんは、痛みを訴えてセックスをするのを止めてもらうように頼んだ。すると誠一さん、ホルモン補充療法を受けるようにし彼女に勧めた。
わざわざ専門の婦人科まで調べて、ぜひ行くようにいわれると、敦子さんも逆らうわけにもいかず、病院の門を叩いた。
そこで薬を処方され、性交痛は緩和されると聞かされた。ホルモン剤を服用し始めて一ヶ月後に誠一さんと性交渉を持った。
「ところが、あなた、全然治っていないんです。相変わらずすごく痛くて、ひりひりしました。主人にいったら物凄く落胆した顔をしていました、『お前嘘言ってんじゃないだろうな』とまで言われて、私だってムッとしましたよ」
「はあ、そんなこともあるんですか」私は驚いた。だいたいホルモン補充療法によって性交痛は改善されると、更年期関連の本には書いてあるし、私もそう信じていたのだが、必ずしも万能というわけではないらしい。
「それでも主人は諦めないで、今度は自分で産婦人科の病院へ行ったんですよ。まあ、あの見栄っ張りの人がよく行ったと思いますけどねえ。それでまた医師が男の先生だったから相談しやすかったでしょ。なんか違う薬を貰ってきたんですよ」
それを膣に直接挿入するとエストロゲンの錠剤だった。これを二日おきくらいに膣に入れると内部が潤うのだという。
そういえば私も以前に更年期の取材をしたときにエストロゲンについてはきいたことがある。ただ、挿入した翌日くらいにドロリと錠剤が溶け出てくるという話しだったので、使うのは難しそうだなあと思った。
「もう、そんな薬まで使ってまで、どうしてやらなければならないのかと思ったら、情けなくて、涙が出ました。冗談ではありませんよ。私はセックスの道具じゃないんですから、きっぱりと断りました。
この時ばかりは、私の方かが大声を出しました。『汚らわしい』って叫んでやりました。それで主人も頭にきたんでしょう。それ以来、指一本触れなくなりました。私はせいせいしましたよ」
【広告】市販のゼリーを使った場合、女性の膣中は途中から滑りが悪くなり耐え難くなり一気に冷めることもある。しかし特許取得の
ノーブルウッシング(膣温水洗浄器)を用い
オリーブオイルを膣奥に適量を流し込むことで、長時間のプレーであっても膣腔が乾くことはない。行為後に温水洗浄を行うことで残滓の全てを流し出すこともできる。
=ソフトノーブル通販=
敦子さんは、もっと早く離婚すればよかったと悔やんでいるそうだ。自分にはひとり暮らしが向いていると、最近はつくづく感じると語っていた。そうかもしれないと、私も彼女の性生活の過程を聞いて思ったのだった。
なぜ暴力男との結婚は繰り返されるのか
キスどまりで婚前交渉ナシが当たり前だった
まだ二十代の頃のことだ。私はカナダの西海岸にある港町に住んでいた。今の夫と出逢う前で。他の男の人と暮らしていた。結局、その人とは二十年間も一緒にいてから別れた。
それはともかく、当時の夫は州立大学の教壇に立っていた。そのときの思い出である。
ある晩、大学から帰宅した夫が「キャシーがさ、また暴力男と一緒になってすったもんだしているんだ」とため息ついた。キャシーとは、彼の教え子だった女性の名前だ。
小柄で金髪の可愛い女性だった。二十七、八歳だっただろうか。ある日、私たちが彼女のアパートを訪ねると、キャシーの眼の周りが青黒くなっているので仰天した。どうしたのかと尋ねると「聞かないでよ」といって手を振った。その仕草がひどく捨て鉢にみえた。
後から彼女の友人に聞いたところでは、キャーの夫はギャンブルにはまっていた、それを巡って夫婦喧嘩になる。すると最後は必ず、夫が暴力をふるのだという。殴られて、彼女の眼の周りには青あざになっていたわけだ。
そんな男とはサッサと別れたらいいのにと思っていたら、半年で離婚した。今度はまともな男かと思ったら、とんでもなかった。またしても暴力男だったのである。キャシーは腕をへし折られて入院した。
「どうも、キャシーみたいな女は同じようなタイプの男に何度も引っかかるんだなあ。あればっかりはわからない」と前の夫は首をひねっていた。
私は友人の紹介で浜田裕子さんに会って、話を聞いている間に、この三十年も昔のキャシーのことを、急に思い出してしまった。そういえば、キャシーは私がカナダにいる間らも三回結婚したが、相手の男はいずれも女に暴力をふるう最低の奴だった。
といってキャシーが変な女性というのではない。彼女は優秀なキャリアウーマンだったし、普通に話している限り、ごく常識的な人だった。ただ、ある特定のタイプの男性に弱かったのだろう。
裕子さんにも、キャシーに似ているといえば似ている。彼女の最初の結婚は大学を卒業してすぐだった。同級生の男性と結婚したのだが、二人とも二十三歳の若いカップルだった。
「あの頃はね、工藤さんもご存じでしょうけれど、結婚するまでは処女でいるもんだって思いこんでいたでしょ。だから最初の夫とだって、映画を見に行ったり、食事をしたりはしたけど、せいぜいキスどまりで、ペッティングもしないで結婚しちゃったのよね」
髪をショートカットにして、ジーンズをはいた裕子さんは、とても私と同じ五十八歳には見えない。若々しくてチャーミングな女性だ。
彼女の自宅のリビングで、紅茶にケーキを頂きながら。二度の離婚の話を聞かせてもらっていた。
「ああ、そういえばペッティングって懐かしい言葉ですね」と私はいった。
たしか一九六〇年代の末頃に流行った言葉だ。男の子とデートして、まず手を握る。次がキス。それからセックスへと進むのではなくて、その前にペッティングというものがあった。
これが英語で正しいのかどうか、私は今でも知らない。ただ、ペッティングとは、男の子に胸や性器を触らせたりはするのだが、それ以上はさせない。つまり処女はしっかり大切な日まで守るというものだった。
ペッティングの技術ばっかり上手くなった女の子を「テクニカル処女というのよ」と友人が真顔で教えてくれたりした。
ほんとうに今思うと笑ってしまうのだが、とにかくセックスは結婚前には絶対にしてはいけないと多くの女の子が固く信じていた。そして、もし、してしまったら、その人と結婚しなければならないと思い込んでいた。
結婚後にわかった夫のキレる癖。土下座されても信じられず
裕子さんも、結婚式の夜に初めてセックスを体験した。
「特に痛みとかはなかったけれど、なんかあっけなかったのを憶えていますね。私も無知だったから、セックスってこんなものかと思っただけです」
後から考えると夫は早漏だったのではないかと裕子さんはいう。しかし、はっきりとした自覚はなかった。
自分の夫が少し変ではないかと感じたのは、新婚旅行のときだった。九州へいたのだが、帰りに空港に向かうためにタクシー乗り場に並んでいたら、二人組のおばさんが列に割り込んで来た。すると、夫の顔がみるみる変わり、「てめえら、ちゃんと並べ。この野郎」と相手を罵って、おばさんの肩に?みかかった。
裕子さんは驚いて、あわてて夫の手を引っ張った。すると「うるせいえな」と裕子さんのことも突き飛ばしたのである。
そんな夫の姿を見たのは初めてだった。まるで別人のように目が吊り上がっていた。おばさん二人組は猛烈な勢いで逃げて行った。
「今の言葉でいったらキレるっていうんでしょうね。私は彼がキレる人だって、まったくしらなかったんです」
しかし、やがて裕子さんは、嫌というほど夫の本性を思い知らせられるようになる。
とにかく、すぐキレる。会社で気に入らないことがあると自宅に帰って、突然、壁に向かって蹴りつける。車がエンストを起こすと、いらいらして、車のボディーを思いっ切り蹴飛ばす。
それでも相手が物体のうちはよかったが、ついには裕子さんに手を上げるようになった。些細なことに激昂して、何度も平手打ちにされた。
このままではいつか殺されると思い、荷物をまとめて実家に帰ったのは結婚して一年半後だった。
実家の両親は事情を聞いて絶句した。そんな男なら、もはやかかわりにならない方がいいが、一言だけ向こうの両親に文句を言いたいと裕子さんの父親が電話をした。
「やはりそうでしたか、申し訳ありません。あれの病気なのです」と。電話口で夫の父親は、ひたすらに謝った。つまりは彼の家族も息子の暴力に悩まされていたのだろう。
正式に離婚が成立したのは半年後だった。夫が何度も裕子さんの実家を訪れて土下座をして詫びるのだが、彼女はもはや彼の言葉を信じられなかった。
「ようやく離婚したとき、まだ私は二十五歳でしたからね。それほどの挫折感はなかったですね。ちょっと運が悪かったけど、いくらでも再出発できると思っていましたから」
裕子さん友人の紹介で小さな商社で仕事を始めた。社長と、あとは社員が四人という会社だったが、女性は裕子さんひとりなどで大切にされた。
同僚の一人に、やはり離婚経験者の男性がいた。年齢は三十五歳で、裕子さんより十歳年上だった。いかにも優しそうなで包容力があるように見えた。
入社して三ヶ月後くらいから、交際が始まった。彼は社長の信任も厚く、仕事においても有能だった。
「私はねえ、今考えると悪い癖だと思うんですけど、男の人が向こうから積極的に近づいてきてくれないと、自分から接近しないんです。特にあの時は、離婚して間がなかったので、世間に対しても引っ込み思案になっていたのかもしれません。そこを相手に付け込まれたんですね」
再婚後も、流血沙汰で救急車を呼ぶ騒ぎに
後に再婚する相手となる浩二さんは、とにかく強引だった。週末ごとに食事や映画に誘った。デートの帰りはきちんと裕子さんを自宅まで送って、両親に挨拶して帰る。
二人が男女関係になるまでに、それほど長い時間はかからなかった。裕子さんも、もう結婚するまでは肉体関係を持たないという考えはなかった。むしろ 相手をもっと知りたいという気持ちが強かった。
「生まれて初めて、ああセックスって、こんなにいいものかと思いました。その点では主人は百点満点でした。歳も年でしたから女性の経験も豊富だったんでしょう。とにかく最後まで温かく抱きしめてくれていて、幸せでした」
交際を始めて一年後に二人は結婚した。再婚同士なので、披露宴もせず、家族と会社の同僚だけが集まって小さな宴会をした程度だった。
「今になって後悔するのは、なぜ前の奥さんと離婚したのか、主人にその理由を聞かなかったことです。なんか古傷に触れては悪いという思いがあって、なにも尋ねなかったんです。私も過去については話しませんでした。両方が眼をつぶっていたんです」
初めの一年は何もかも順調だった。都内の小さなアパートで、裕子さんの言葉を借りるなら「おままごとのような新婚生活」が始まった。
しかし、悪夢は突然にやってきた。ある日、夫が風邪のため会社から早引きして帰宅した。たまたまそのときに、家に優子さんの従弟の男性が近所まで来たからといって立ち寄って、二人はお茶を飲みながら談笑していた。
浩二さんにしてみれば、見知らぬ男が自宅に上がり込み妻とたのしそうに話していたわけである。彼の形相がみるみる変わった。
「あんた誰よ」といはなり喧嘩腰で、従弟に聞いた。裕子さんは大急ぎで従弟を夫に紹介したい、何も答えずに夫は寝室に消えた。気まずい空気を察して、早々に従弟は引き上げていった。
その晩だった、食事をしていたら、いきなり裕子さんは夫に殴られた。
「俺の留守に間に男を引き入れやがって」という夫の顔は目が吊り上がり、拳が震えていた。ああ、この顔だと思った。前の夫も同じ顔をしていた、そして、そんなときは必ず裕子さんに暴力をふるった。感情の制御ができなくなっている顔だった。
「でもねえ、工藤さん、おかしいのよね。そのとき私は相手が悪いとは思わなかったの。主人の留守の間に従弟を家に上げた自分が悪かったんだって、自分を責めたの」
必死になって優子さんが謝った、なんとかその場は収まった。
しかし、それから年に二、三回の割合で浩二さんは裕子さんに手を上げるようになった。その度に裕子さんは「主人を怒らせる自分が悪い。主人を怒らせないようにもっと気を付けなければ」と思って耐えた。
「よく考えてみると、私の見栄だったんですよ。二度目の結婚でしょ。男の子も一人生まれていましたからね。なんとしても、もう離婚はしたくなかったんです。また失敗じゃないかと世間にいわれるのが悔しかったんです。
主人も暴力をふるった後は必ず優しくなって、花束なんか買って帰ってくるんです。そうするとつい許してしまうんです」
裕子さんが夜中にワインの瓶で頭を殴られて救急車を呼ぶ騒ぎもあったが、それでも彼女は我慢をした。
「お前を殴った俺のこの右腕を切り落としたい」
そんな両親の関係が子供に影響を及ぼさないはずはなかった。高校を中退した息子は一七歳で家を出て行った。
「おふくろ、早くあんな暴力おやじと別れろよ。俺は自分が本気で殴れば親父を殺せるってわかっているから、この家を出るんだ。あの男の面も見たくないからだ。女を殴るなんて最低の人間だよ。我慢しているあんたも最低だけど」
玄関口で息子にずけずけと言われて、裕子さんは目が覚めたような気がした。ほんとうに息子の言葉は正しい。いったい自分は何を恐れているのだろう。世間の目以外にはないじゃないか。しかし、世間と自分の人生を秤(はかり)にかけたら、自分の人生のほうが大切だ。
「工藤さんもおわかりでしょうけど、私たちの年代って、離婚は敗北だっていう意識があるんですよね。負けたという意識。だから、どんなことにも耐えて、夫と添い遂げるのが立派なことなんだって思い込んでいたんです。
でも、自分が大切だと信じていた家庭に、息子はさっさと見切りをつけ出て行きました。家庭なんてとっくに崩壊していたんです。主人は息子のことも殴っていましたからね。ほんとうは、私たちはとっくに終わっていたんですよ」
それでも二年間ほど裕子さんは迷った。夫は暴力の嵐が過ぎ去った後は「もう二度としない。許してくれ」と必ずいった。手をついて謝った。「お前を殴った俺のこの右手を切り落としたい」とまで泣いた。
しかし、裕子さんは知っていた、彼は必ず暴力を繰り返すと。
そんなとき裕子さんの父親が八十六歳で亡くなった。ふっと肩の力抜けて自由になったような気がした。そうか、自分が守りたかったのは実家の父親の名誉だったのかもしれないと思った。
初めて母親に今までの経緯を話すと「帰っておいで、身体ひとつでいいから帰っておいで」と母焼き涙をこぼしながら言ってくれた。
「あれは私が五十二歳のときでした。もう性生活もなくなって、夫も定年になって、すべてが終わったときに、私は離婚したのです。主人が判を押しくれた時は嬉しかったです。裁判になったら勝てないと分かっていたんでしょう。やっと自由の身になれました」と裕子さんは晴れやかに笑ったのだった。
つづく
第九章
“熟女好き”の二十代男性とのセックスで潤う