恥ずかしいことですが、母はパチンコに狂っていたんです。まさか、そんなこと、家族は夢にも思いませんでした。でも、なんか変だと思って、私、ある日、母が出かける後をつけていきました。そうしたら母は、駅前のパチンコ店に入ったんです

ピンクバラ性の問題、更年期よる性交痛・性機能不全・中折れ・性戯下手によるセックスレスは当サイト製品で解決できるが。パートナーの言動・行動から発した忌々しいできごとからの嫌悪感からのセフレは修復不可能である

第六章 普通の母親が陥ったギャンブル依存症

本表紙 工藤美代子 著

「この五年、どれだけ家族が苦しんできたかを聞いてほしい」

 あれは私がまだカナダの大学に通っていたときだから、一九七〇年代の話だ。

 心理学の授業の時間に、教師が「もしも、あなたの家族のだれかアルコール依存症の患者になったとしたら、周囲に与える影響は、少なくとも三十人以上にも及びます」と語ったことがあった。
三十人とはなんと大袈裟(おおげさ)な、と当時の私は思った。しかし、なんとなくその数字は私の頭の隅にこびりついて離れなかった。

 そして、最近、私はしきりと、あのときに教師が言った言葉を思い出す。熟年離婚も、もしかしたら、他人が考えるよりはるかに多くの人々に迷惑や心配をかけているのではないだろうか。確かにその数は三十人に及ぶかもしれない。

 そんな事を考えたのも、知人の紹介で真奈美さんに会ってからだった。彼女は現在三十三歳である。五年前に離婚したのは、母親の由香子さんだ。由香子さんは五十二歳のとき、三歳年上の夫と離婚した。真奈美さんが結婚してちょうど一年が過ぎたときだった。

 つまり、真奈美さんは二十七歳で結婚して、その翌年の二十八歳のときに両親が離婚したわけである。

 私が熟年離婚についての調査をしていると人づてに聞いて、どうしても会いたいと面会を申し込んで来たのだった。たまたま彼女の友人のお姉さんが私の知人だった。その人からの紹介だったのでお会いすることにした。

 いかにも健康そうな溌剌(はつらつ)とした真奈美さんは、外見からは悩みを抱えているようには感じられなかった。しかし、話し始めると、彼女の表情はみるみる変わった。なんとも困惑したような、暗い目つきになり、口調も重くなった。

「工藤さんにお会いしたかったのは、この五年間、どれだけ私たち家族が苦しんできたかを聞いてほしかったからです。そして、何か、この地獄のような状態から逃れる方法があるのかどうかをお尋ねしたかったからです」

 真奈美さんの言葉を聞きながら、私はまず、時系列で、なぜご両親が離婚に至ったか、そこから話してくださいと頼んだ。

「離婚を言い出したのは父からでした。でも、その前の三年間ほどは、家の中はもうめちゃくちゃで、離婚は時間の問題でした。私が結婚するのを、父は待っていたんだと思います」

「めちゃくちゃって、どういうことですか?」
「それが、本当にある日突然始まったんです。初めは誰も気が付きませんでした。夜になっても母は帰らない。おかしいなとは思ったんですが、父は仕事が忙しくて帰宅は午後十一時過ぎでしたし、私も実は結婚した今の主人のアパートに、その頃は入り浸りで、半同棲みたいなものでしたから、母のことなんて考えていなかったんです」

「えーと、そうするとお母様は四十九歳くらいのときに、その異変は始まったわけですね」

「ええ」と答えたまま、真奈美さんは本題にいるのを躊躇した。よほど話しにくいことなのだろうと私は察して、しばらく黙っていた。

 父の看病もせず。駅前のパチンコ店消えた

「もう、家族のだれもが予想しなかったことでした。とにかく母が朝、家を出たきり夜まで帰って来ないのです。私は一人っ子で、きょうだいはいません。どうも変だと思ったのは、母がどんどん?せていくんです。それと月末前にはもうお金がなくなって、私や父にお金を貸してくれって言うんです。

父はあの頃は会社の役員になっていましたから、月給は手取りで八十万円くらいはあったと思います。そこから家のローンの支払や光熱費を引いても六十万以上のお金が母の手元には残っているはずです。

 それに私は大学を出て勤めていましたから学費もかかりませんし、父は夜はたいがい外食ですから、食費はほとんどかかりません。それでどうしてお金が足りなくなるのか、さっぱりわからなかったんです。

母が何かをしていたかを私や父が知ったのは、ずいぶん後になってからでした。母はあれを始めて半年は経っていたでしょうか」

「あれって、なんですか?」
「それが恥ずかしいことですが、母はパチンコに狂っていたんです。まさか、そんなこと、家族は夢にも思いませんでした。でも、なんか変だと思って、私、ある日、母が出かける後をつけていきました。

そうしたら母は、駅前のパチンコ店に入ったんです。そのときは、まるで足元の大地が崩れていくような衝撃ですよ。私も父も想像だにしていませんでした。

その夜、八時過ぎに母は帰ってきました。手にしていたのはチョコレート数個でした。ああ、パチンコの景品だってすぐにわかりました。母は朝の十時くらいかにパチンコに行って、昼ご飯も食べずに、ずっと九時間以上、パチンコ台に座っていたことになります。そう考えるとぞっとしました。

「ママ、パパが気付く前にパチンコを止めてくれない?」と私はかなり強い口調でいいました。母は最初はとぼけてて、私はパチンコなんかしていない、とか言ったんですけど、最後には渋々認めて、わかったと言ってくれました。

これで母はパチンコを止めてくれると私は信じたんです。馬鹿みたいな話ですが、これ以後、何度も母に裏切られることになるなんて、考えてもみませんでした」

 真奈美さんの母親がパチンコを自粛したのは、わずか三日間だけだった。それからは元の木阿弥(もくあみ)で、またパチンコに通い始めた。

 さすがに真奈美さんの父親の史郎さんもその事実に気づいた、そして真奈美さんと話し合った。

「父は自分が忙しくて家族を顧みなかったことに、忸怩(じくじ)たる思いもあったようです。それで、いっそ環境を変えて、母と再出発できないかと考えました」

 長年住み慣れた土地から離れて、一家は都心の新しいマンションへと引っ越した。もうすぐ真奈美さんも結婚することが決まっていた。そうしたら夫婦二人の生活になる。老後のことも視野に入れてバリアフリーの3DKのマンションを買った。

 ちょうど引っ越しが終わった直後、父親が胃潰瘍で入院した。二週間ほどで退院し、しばらく自宅療養となった。

「このときだったんです。母が、まだ病後の看病が必要な父を置いてパチンコに行ってしまったのは。もちろん、父は困りました。とにかく母が朝食を終えるとそそくさと消えてしまうのですから。病床の父にしてみれば、たまったもんのでありません。

父も強い性格ですから我慢ばかりしていたわけではなく、母に、かなり厳しく注意をしていたんです。そして、最後にはついにたまりかねて、『あなたは、夫である僕を取るか、パチンコを取るのか、どっちなんですか? はっきりしてください』と詰め寄ったんです。

 このとき、母が『ごめなさい』と謝っていればよかったのですが、『あたしはパチンコを取るわよ』って捨て鉢みたいに答えたんです。その場面を見ていて、私は、ああ終わったと思いました。ママはパパに捨てられるって、はっきりわかりました」

 “ギャンブル離婚”した母と同居を始めたが‥‥

 真奈美さんの結婚式までは、どうにか夫婦の体面を保っていた。ところが、結婚式に招待した真奈美さんの祖母、つまり史郎さんの母親にあたる人から、とんでもない話を聞かされる羽目になった。

 なんと、由香子さんは、義母を一人で訪ねて、史郎さんの入院で治療費が必要だからといって、五百万円ものお金を借りていたのである。

それを知った史郎さんは烈火のごとく怒り、すぐに借金の返済をしてから、荷物をまとめて家を出て行ってしまった。会社の近くにワンルームマンションを借りて、別居生活が始まったのである。

 それでも由香子さんのパチンコ通いは止まらなかった。五百万も、もちろんパチンコで作った借金だった。

別居生活が一年を過ぎたころで、史郎さんが由香子さんに切り出した。そろそろ離婚しようではないか。新築のマンションは、由香子さん渡す。ローンの残りは史郎さんがはらってゆく。さらに毎月十五万円ずつ、自分が定年になるので由香子さんに仕送りするから、離婚をしたいというのが史郎さんの出した条件だった。

「あなたは、マンションを貸して、その家賃と毎月十五万円の仕送りで、じゅうぶんに暮らしてゆけるでしょう。そして、いくらでも好きなパチンコに通うったらいいじゃないですか」と史郎さんは皮肉を込めていった。

すると、あっさりと由香子さんは離婚を承諾して、離婚届に判を押してしまったのだ。

「父はつくづく母のパチンコ通いが嫌になっていたんです。母にはきょうだいが四人いるのですが、離婚の前、その叔父や叔母たちにも頼んで、パチンコを止めるように母を説得してもらいました。だけど約束が実行されたためしがありませんでした」

 離婚した由香子さんは真奈美さん夫婦に一緒に住んでくれといってきた。一人では暮らせないというのである。もうパチンコとはすっぱり手を切るから、仲良く暮らそうと申し出た。

真奈美さんも夫に捨てられた母親が不憫(ふびん)になり、同居を承諾した。真奈美さんの夫は、とてもやさしい人で「真奈美のママは僕のママだと思っているから、いいよ」と気持ちよく同居に賛成してくれた。

「本来なら、ここで母が心を入れ替えて、三人で助け合って生活していく予定だったんです。ところが、それはとんでもない甘い考えでした」

 同居して早々に発覚したのは、由香子さんがカードローンで八百万円もの借金をしているという事実だった。すべてパチンコにつぎ込んだお金だ。いまさら離婚した夫に尻拭(しりぬぐ)いも頼めない。

真奈美さんのご主人が会社からマンションをリフォームするという口実で融資を受けて、とにかくその借金を清算した。しかし、責任を感じた真奈美さんは、それまで専業主婦だったのだが、働きに出て、借金返済の足しにした。

 母親の由香子さんは、まったく働こうともせず、家事の手伝いすらしない。パチンコに魂を奪われてしまっていた。

 これはもうギャンブル依存症の人が入院する施設にでも入れるしかないと思った真奈美さんが、密かに資料を取り寄せたところ、それに気づいた由香子さんが半狂乱になって、絶対に自分は病気ではないから、そんな施設に入らないと言い張る。そして、もう二度とパチンコはしないと約束する。

 母親の涙に、真奈美さんはついほだされて許してしまう。しかし、別れた夫からの十五万円の振り込みがあると、またすぐに由香子さんはパチンコ店に行へと直行して帰ってこない。

 真奈美さんは母親からクレジットカードを取り上げて、お金を借りられないようにした。すると、由香子さんは実の娘である真奈美さんの財布から一万円抜いて、パチンコに行くのである。

「それは精神的な病気ですね」と真奈美さんにいった。専門の治療が必要だと思ったのである。由香子さんは、頑として治療は受け付けない。

 家族をこわしてしまう依存症の恐ろしい

 思い余った真奈美さんは、父親の史郎さんに相談した。
「なあ、真奈美、夫婦って縁を切ることができるんだ。俺はあの女が野垂れ死にしようがどうしようが、関心はない。それくらいの気持ちじゃなかったら離婚なんてできないものだ。

真奈美もママと縁をきったらいいじゃないか。真奈美がいつも後始末をしてやるから、甘ったれてパチンコを止めないんだ。親戚にも迷惑を掛けているんだ。放り出せばいいんだ」

 父親は冷たく言い放った。しかし真奈美さんには、そこまでの気持ちの整理はついていない。やはり母親に対する愛情はある。そしてパチンコのことを除けば、母親にも良い点はたくさんあった。子供のころに可愛がってもらった思い出などが浮かんで涙がこぼれる。

 私は真奈美さんの話を聞きながら、なんとも不思議な思いにとらわれていた。たしかに由香子さんの生き方は愚かとしか言いようがない。周囲の人間に迷惑をかけまくりだ。その人数は三十人にも及ぶかもしれない。なにしろ由香子さんにお金を貸して、返してもらえない親戚や友人は数知れずいるというのだ。

 だが、由香子さんが抱える心の闇も私には、なんとなくわかるような気がする、家庭にも社会にも自分が必要とされていない虚しさである。女として、その生命が終わることへの焦りもあったかもしれない。

だからといってギャンブルに走る行為が許されるとは思わないが、おそらく、根本的な解決は彼女が自分のこれからの持ち時間をどうコントロールするかにかかっているのだろう。

 ついに最後まで真奈美さんに有益なアドバイスをしてあげられないまま、話し合いは終わった、肩を落として悄然(しょうぜん)と真奈美さんが帰って行く後ろ姿がいつまでも瞼(まぶた)に残った。

別れは、自覚症状がないまま忍び寄ってくる

「まさか自分が離婚するなんて、思ってもみなかった」

「あたしは思ったんですけど、結局、熟年離婚と癌はそっくりじゃないでしょうか」
 邦枝さんが、濡れた雑巾を手にして、ガラス戸を拭きながらいう。

「癌って。病気の癌ですか?」
 私は尋ねる。
「そう、病気の癌です。あれって自覚症状がほとんどなくて、なんか変だと気付いて病院へ行ったときは、すでに進行している場合があるんです。あたしの父がそうでした。すごく元気な人で、どこも悪くなかったんですが、ちょっと膝が痛いって、病院に行ったのです。そうしたら、もう末期の肺癌で、骨に移転していました。あれよあれよという間に衰弱して亡くなりましたね。熟年離婚もそれと同じ」

「はあ」と答えたきり、私は話の展開についていけなかった。

 邦枝さんは、今年の春に離婚したばかりの五十二歳の女性だ。あるマンションの管理人として住み込みで働いている。彼女の友人が私の知人だった。取材を申し込んだら、マンションの管理人室に来てくれれば、会ってもいいと言ってくれた。

 私は新宿区にあるそのマンションの一階のロビーで、ガラス戸を拭く邦枝さんに挨拶をした。その後で、最初に彼女が切り出したのが、熟年離婚は癌と同じという説だった。

「だってねえ、ほんとうに自覚症状って、まったくなかったんです。ていうか、ほら、人間ってみんな思うじゃないですか。自分だけはそうならないって。あたしだってそうです。自分が離婚するなんて思ってもいなかったですよ。このあたしが離婚するなんて」

 邦枝さんは、雑巾を何度も折りたたんでは、また広げたりする動作を繰り返していた。その手が痛々しいほど細い。青く血管が浮き出ていて、正視するのが辛い。

「どうして、ご自分だけ離婚なさらないって信じられたんですか?」
 私の質問に邦枝さんは小さく笑った。

「あたしか馬鹿だからですよ。そして、あの女が利口だったからじゃない」
「女の人ですか?」

「そう。すべては、あの女の責任なのに、あの女を悪くいう人は一人もいない。主人の会社の人たちでさえ悪くいっていないわね」
「なぜですか?」
「だって、主人が愚図だからよね」
 どうも邦枝さんの話は飛躍が多くて、初めは私はついていけなかった。しかし、それから三時間ほど、じっくりと事情を聴いてみると、たしかに彼女の言い分も一理あった。

真面目な婿養子の夫に肩身の狭い思いはさせたくない

 まず、邦枝さんが結婚したのは二十三歳のときだった。彼女は一人娘だったので、お婿さんをもらった。相手は邦枝さんの伯父の経営する工場に勤めていた。三歳年上の二十六歳だった。結婚と同時に、邦枝さんの姓である高田を名乗るようになった。高田昭義というのが、別れた夫の名前だ。

 交際期間も半年ほどであり、お互いにほのかな恋愛感情を抱いた末の結婚だった。邦枝さんにとっては初めての男性であり、新婚当初は夫に夢中だった。

 やがて子供が生まれた。二十八歳のときには邦枝さんは三児の母だった。両親との同居は恥からの条件だった。昭義さんは、それを承知で婿入りしたのだ。

 秋田県の農家の三男で高校しか卒業していない昭義さんは、女子短大を出た邦枝さんと一緒になるのを気にしているようには見えなかった。むしろ社長の姪(めい)の婿に選ばれたのを誇りにおもっているようだった。

 結婚して七年ほどした頃で、邦枝さんの父親が肺癌で亡くなった。悲しいが、どこかほっとする部分も邦枝さんにはあった。同じ家に男が二人いるのは、どうにも気詰まりだったのである。

母親の静子さんはおとなしい控えめな人なので、昭義さんを大事にした。婿だからといって夫が肩身の狭い思いをすることはなかったはずだという。

 一番下の子供が小学校へいる年に、思いがけない不幸が一家を襲った。伯父の経営する工場が倒産したのである。その前に、社長である伯父に懇願され、夫は自分たちの住んでいる家を担保に入れて工場のために銀行からお金を借りた。工場が倒産すれば、当然、家も借金のかたに取られた。

 親子五人とくにの母親の住む家を失った。邦枝さんが三十五歳のときだったという。
 しばらくはアパート暮らしをしていたが、伯父が再起をしてもう一度、事業を起こした。

 そのときに夫も総務担当として呼ばれた。どこでどう工面したのかわからないが、伯父は二百万のお金を邦枝さん夫婦にくれた。自分の工場の倒産で迷惑をかけたお詫びだ、これを頭金にしてマンションを買ってくれといわれた。

 新しい職場の近くに邦枝さんと昭義さんは2DKのマンションを買った。これで、とにかく新生活を再スタートさせたのである。邦枝さんも働いた。近所のパン屋にアルバイトに出かけた。そうしなければ夫の給料だけでは家のローンは払えなかった。

 六畳の和室に邦枝さんの母親と子供二人が寝た。五・五畳の洋間にダブルベッドを入れて夫婦と末っ子の三人が川の字になって休んだ。六畳のダイニングキッチンは家族六人が座ると、もういっぱいだった。身動きもできないほどだった。

 それでも邦枝さんは幸せだった。夫は社長が見込んだだけあって、真面目一方の人だった。少なくとも邦枝さんはそう信じていた、お母さんの静子さんも健康なので、安心して子供の世話を任せて働きに出られた。

 会社の従業員にも噂になっていたなんて
「なんか変だって気づいたのは今から三年前だったかしら。そう、あのときに長男が妙な顔をして帰ってきたんですよ」

 長男の正雄君は高校を卒業すると宅配便のドライバーとして働いていた。もう二十六歳になるのだが、家から出て独立しようとしない。家賃も食費もかからないので、狭くても親のところにいるのが楽だと思っているようだった。

 それは長女も次女も同じだった。二人とも定職にはつかず、コンビニのアルバイトなどしてお金が貯まると、海外旅行に行くような生活をしていた。ボーイフレンドがいる様子もなかった。

「長男がね、『昨日の夜、おやじが二丁目の花屋に入っているマンションから出てくるのを見たんだけど、あんな時間にどうしてだろうなあ』って不思議そうに首をひねったんです。主人の帰りが遅くなるのは、もう十年以上のことでしたから、あたしはあんまり気にしていなかったんですよ。

伯父が社長で、主人は総務部長っていたって、実質は運転手みたいなもの。伯父の都合であちこちに行くのに、主人がいつも一緒でしたから、自分の時間なんてないのが当たり前と思っていました。

 伯父の工場はお陰様で今度は軌道に乗って、うまくいっていたんですが、なにしろ伯父も八十歳を超えていましたから、面倒を見るのがなかなか大変だったんです。

といって、伯父には実の息子がいますから、主人を跡継ぎにする気なんてなかったし、まあ便利に使い捨てされるんだろうなあと諦めていました。

ただ、このご時世ですから、高卒の主人が今さら雇ってくれるところがあるはずもないし、とにかく定年まで伯父の会社にしがみついているしかないと覚悟していました」

 それでも長男の一言は気になった。二丁目のマンションといえば、自宅から二百メートルほどしか離れていない。

 その三ヶ月後に、会社の慰労会で新橋の演舞場へ行った。珍しく邦枝さんも招待され、昭義さんと二人で出かけた。

「ところが主人は劇の途中で帰ろうと言い出したんですよ。なにがなんでも帰るって。そんなこという人じゃないのにおかしいなあと思って、ふと横を見たら、太った女がじっと私のことを睨んでいるんです。

なによこの女と思って、こちらも見返してやったんですが、眼をそらしません。後を追いかけて、あの女は誰? って聞いたんですけど、知らないって、ぽそっと言うだけで、なんかもうすごく気まずくて。

あたしもそこでやめておけばよかったのかもしれませんけど、主人の工場でよく知っている総務の古株の女性がいたものだから、彼女を呼び出して、あの日、演舞場であたしの隣に座っていた女は誰なのって聞いたんです。とにかく工場の社員が全員招待されていた慰労会でしたから。

そうしたら、『奥さん、やっぱりお気づきになりましたか。木原さんのことは、私たちの間でも噂になっているんですよ』っていわれたんです。

それで女の名前は木原だと知りました。そして主人とは、もう長い間、関係があったらしいんです。バレンタインデーに木原が主人にチョコレートを、贈って評判になったとか言っていました。

とにかくビンと来たんです。これは妻の勘たですね。すぐに二丁目のマンションに行ったら、やっぱり『木原』っていう名前がありましたよ。まあ図々しいったらないですよ。あたしたちの家のすぐ近所に、あの女はマンション買っていたんですよ」

 したたかな不美人の尻に敷かれていた事実に嘆息

 それから邦枝さんは夫の会社の知人に次々に会って、情報を集めた。木原啓子という女は、もう勤続十年以上になり、工場の女子部の監督をしている。年齢は四十八歳だという。邦枝さんとほとんど違わなかった。

「ひどいブスですよ。その上にデブ。あたしって自分が美人だなんて思っていませんけど、あんなブスでいいなんて主人もどうかしていますよ。腹が立って腹が立って、何日も眠れませんでしたよ」

 夫婦の間はぎくしゃくして、邦枝さんは昭義さんを責めた。そのとき、無口な昭義さんがいった。

「だって、この家に俺の居場所はないじゃないか。子供たちとお母さんとお前がいたら、俺は座る場所さえなかったんだぞ」

 だからといって、女を作っていいのかという話になる。なぜか、そうした夫婦の修羅場があっても夫は律儀に夜の十一時には帰宅した。女のマンションには泊まらないのだ。

 逆に邦枝さんのほうが我慢できなくなって、マンションの管理人の仕事を見つけて家を出た。本来なら管理人は夫婦で住み込みが多いのだが、邦枝さんの人柄を見込んで管理会社が雇ってくれた。

「家の中のことは母がやってくれていますから、あたしは安心してここに逃げられたんです。でも、後から思ったら、本来なら家を出ていくのは婿である主人の方ですよね。

どうしてあたしが出なきゃならないんですか。木原は知れっとした顔をして『奥様には何のご迷惑もおかけしていません』っていうじゃありませんか。確かに、主人は給料だって一銭も手を付けないで渡してくれるし、お小遣いは三万円しかあげていません。だから女に貢げるはずがないんです。

 逆に女の方が、けっこういい給料をもらっていて、マンションも自分で買ったし、主人はご馳走になったりしているんじゃないですか。情けないけれど、向こうはまったく動じないんですよ」

 夫はだんまりを決め込んで喋らない。女は堂々としていて、謝りもしない。邦枝さんは怒りの持って行き場がなかった。

「あたしは主人に対しては、きちんと尽くしてきたつもりです。たった一つ、悔いがあるとすれば、主人が求めてきたときに、なにしろ子供や母もいましたから、それに、あたしも疲れてましたから、やめてくれっていて、相手にしなかったんです。

だって子供が三人もできていたんですもの。もういいでしょう、三十代の半ばからセックスはしなかったです。でも主人も男ですから、不満だったのかもしれません。後悔するのはそれだけです」

 自分が家を出れば夫はすぐにでも女のところで暮らすようになるだろうと思ったら、予想は外れた。さらに苛立った邦枝さんは離婚届を夫に突き付けた。黙って夫はサインした。しかし、それでも、夫は子供たちのいる家に帰って来る。

邦枝さんの母にも優しく接する。いったいなぜなのか、邦枝さんは初めはわからなかった。近頃になってようやくわかってきた。

 木原は夫が定年になるのを待っているのだ。そうすれば晴れて一緒になれる。会社の同僚の批判もかわせる。社長の姪の夫を略奪したと言われないですむ。なんと利口な女だろうと呆れてた。

「気が付いたら家はぶっ壊れていました。もう手遅れだったんですよ。あたしだけが知らなかったんです。それでこうやって一人でいるんです。死んだ方がいいかもしれません。主人と木原が喜ぶでしょうね」

 乾いた声で笑って、邦枝さんは手にしていた雑巾をもう一度、ぎゅっと絞ったのだった。

 弁護士からの書類にあった「夫婦の濡れ場」

 女将が語りだした、驚愕の裏切り体験

 都内で小料理屋を経営している尚子さんは、五年前に五十歳で熟年離婚をした。ある日との紹介で最初に彼女に会ったのは、昨年の夏だった。それから何度か彼女の店を訪れたが、正直にいうと取材目的ではなかった。店の雰囲気が落ち着いていて料理も美味しくて値段も納得のいくものだったからである。

 いつか熟年離婚について尋ねてみたいと思っていたが、なまじ常連客になってしまったために、口に出せない部分があった。

 ようやくチャンスが巡ってきたのは、五月の末だった。激しい雨降りの日だった。たまたま夫が留守だったため、私は一人で彼女の店に行った。

カウンターが七席とテーブルが八席くらいしかない小さな店だが、いつも繁盛していて満席だった。この日はお天気のせいかお客さんが一人もいなく、がらんとしていた。

「私は呑めないけどママは召し上がって」と日本酒の八海山を尚子さんに勧めた。
「そうね、今日は暇そうだからいただこうかしら」と尚子さんが微笑んだ。無造作に髪をアップにして紬(つむぎ)の着物を着ているのだが、なんとも所作が色っぽい。

 あれこれ世間話をしているうちに時計は十時を回ってしまった。板前さんが先に上がり、私と尚子さんの二人が店に残った。どうせ夫は帰りが遅くなることが分かっていたので、

私ものんびりと、最近始めたプラセンタ療法の話などしていた。胎児の胎盤のエキスだというプラセンタはアンチエィジングに効果があるという。

「なんかね、性交痛にも効きますよってお医者様がおっしゃるのよ」と私がいうと、「あらそう。でもあたしは、もうセックスはこりごり。卒業よ」と尚子さんがきっぱりと言った。

「え、どうして。ママはすごくきれいだから、リタイヤはもったいないですよ。これから楽しまなくちゃ。独身だし」と私は思わず本音を吐いた。

「うーん、でもねえ、あたしはもう、一回失敗しているから」と尚子さんは徳利を傾けながら答える。

「一回くらいなんですか。私なんて、あんまり大声じゃ言えないけど二回も離婚しているんですよ。さすがにこれで終わりって自分でもあきらめていたんだけど、棚ボタで今の主人が落っこちてきたんだもの。まだまだですよ」

「そうねえ、セックスで苦労していない人は、大丈夫かもしれないけど、あたしはなんかもう恐ろしくて、やろうという気にはなれないのよ」

「どうしてですか?」
「それはねえ、前の夫に嫌な思いをさせられたからじゃないかしら」
「ああ、いわゆる性の不一致ってやつですか?」
「違うのよ。その逆だわ。セックスの相性は抜群に良かったのよね。よすぎて困るくらいだったわ。でもそれが原因になったの」

「はあ?」と、私は首を傾げた。よほど私がトンマな顔をしたらしく、尚子さんが噴き出した。

「工藤さんにわかってもらえるかどうか、つまりね、ある種の男って、すごく嫉妬深いものね。あたしが離婚話が持ち上がるまで、それを知らなかったわ」
 尚子さんが問わず語りに、自分の離婚の経験を話してくれた。

 毎晩のようにセックスした十年、義父母と同居がはじまって

 まだ二十代の頃、尚子さんはある企業の受付嬢をしていた。美人だから当然、もてた。
交際した男性は何人もいたのだが、結婚はしなかった。特に深い仲だった男性が妻子持ちだったことがあって、尚子さんは気がつくと二十九歳になっていた。

 そこに現れたのが前の夫の隆さんだった。営業で彼女の勤める会社に来て、受付に座っている尚子さんを見て一目惚れをした。直接に誘うのではなくて、社長のところへ行って、真面目に交際したいので紹介してほしいと頼んだ。
その誠実な態度に尚子さんは心を動かされた。社長もしきりに結婚を勧めた。

 三十歳になる二日前に尚子さんは結婚式を挙げた。どうしても二十代のうちに花嫁になりたかったからだ。

 セックスは初めから激しかった。尚子さんはお酒を飲むと男が欲しくなるタイプなのだそうだ。隆さんもお酒は強かった。二人で日本酒の一升瓶を軽く一本は空けてしまう。

 酔うとセックスの快感が高まった。
 結婚して十年ほどは毎晩のようにセックスに溺れた。その頃の尚子さんは、自分がつくづく幸せだと感じていた。まさか、それが後のトラブルのもとになるなんて、夢にも思わなかった。

何かの歯車が少しずつ狂い始めたのは、隆さんの両親と同居をしてからだった。
 長男の隆さんは、いずれ両親を引き取ることになると尚子さんも知っていた。

 茨木に住んでいた隆さんの両親は、母親が七十二歳のときに転んで骨折をし、その後遺症で歩行が困難になった。時を同じくして八十歳の父親も認知症の症状が出てきた。

 こうなっては同居しか方法がないと隆さんにいわれて、専業主婦で子供がいない尚子さんとしては、反対のしようがなかった。自分の両親が長男、つまり尚子さんのお兄さんの家に同居して、幸せに暮らしているのを見ていたので、あまり抵抗はなかった。

 ところが、いざ隆さんの両親を引き取ってみると、家庭生活はめちゃくちゃに破壊された。姑は足が悪いといって、一日テレビの前から離れようとしない。舅は認知症のためか、台所に立つ尚子さんの後ろから抱きついてスカートをまくり上げる。拒否すれば殴りかかってくる。

 それなのに隆さんが夜になって帰宅すると、両親はいたって穏やかな表情で、「尚子さんにはお世話になって感謝しているんですよ」などとお為ごまかしを言う。

 どこまでわかっているのか、尚子さんはうす気味悪くなった。

 思い余って隆さんに自分の窮状を訴えたが、取り合ってはもらえなかった。隆さんにとって、両親は、嫁に遠慮しながら生きているおとなしい老人たちだった。同居が嫌さに尚子さんが?をついているのだろうと思ったようだ。

 夫婦の関係は二年ほどで急速に悪化していった。舅の認知症も進み、徘徊も始まった。こうなると、もう尚子さんの手には負えない。

「妻にはソープランドでの経験があるのではないか」

 離婚話を切り出したのは尚子さんの方だった。たとえ、両親を施設に入れても、夫婦の亀裂は修復できないと思った。それまでには彼女なりの葛藤もあったが、高校時代からの親友が大きな料亭の娘で、「あなたなら、料理屋ができるわよ」

といってくれた一言が、彼女の背中を押した。実際、その親友は親身になって開店の相談に乗ってくれて、板前の手配も手伝ってくれた。

 尚子さんには多少の蓄えはあったが、これからはひとり立ちしなければならない。隆さんに財産分与の申し入れをした。

 お互いに弁護士を立てて話し合いが始まったのだが、隆さんの言い分を縷々(るる)述べた書類を見て卒倒しそうになった。

 なんとそこには二人の性生活が赤裸々に綴られていたのである。
 大きく分ける三点ほどであった。

 まず、第一点である。初めてセックスをしたときに、尚子さんが後背位をせがんだ、そして耳元に息を吹きかけてくれといった。

 その結果、隆さんは、彼女が処女でないと悟り落胆した。
 さらに、セックスの最中に挿入されたまま乳首を強く捩じり上げると妻が異常に興奮して達してしまうことがわかった。

 それ以来、挿入時には必ず乳首を愛撫し、しかも手荒に扱えば扱うほど快感は高まっているのがわかった。

 また、素人の女性なら躊躇するはずの騎乗位も、尚子さんは喜んで応じた。そのときは必ず、冷酒の入ったグラスを手に持って、それをぐいぐいと美味しそうに飲み干しながら、腰を激しく揺らした。

膣を自在に締め付けるテクニックを習得しており、隆さんはしばしば我慢しきれずに途中で射精してしまった。

 いったい何人の男と彼女はセックスをしてきたのだろう、という疑問が隆さんの頭に浮かんだ。あまりにも新妻の身体が成熟しすぎていて、鼻白む思いがした。

 第二点は、これの続きだが、二人でセックスをする前にいつもお風呂に一緒に入る。そうすと、尚子さんが隆さんの身体を泡立てたボディソープで丹念に洗ってくれる。ときには頭で洗髪をしてくれる。

その手つきが実に手慣れていて、これまでに何度もしているような仕草なのだ。隆さんは妻がソープランドで働いた経験があるのではないかと疑った。

石?の泡をつけたままで、ぴったりと身体を密着させて、快感を誘うテクニックは素人の物とは思えなかった。

 第三点は、尚子さんの異常な性欲の強さだった。ほとんど毎日、妻から求められ、隆さんは仕事に支障をきたすのではないかと心配だった。ひどいときは帰宅して玄関に入るなり、そこでセックスをしたこともあった。

マンションの廊下を通行人が歩く気配があると、尚子さんは興奮して、音を立てて隆さんのペニスをしゃぶった。

 こうした妻の異常な行動から、隆さんは精神的なストレスを感じ、軽度のうつ病になった。妻の欲求を満たすべくあらゆる努力をした隆さんには何の落ち度もないうえに、平穏な夫婦生活を送らせなかった尚子さんの強烈な性欲こそ、二人の破局の原因である――といったことが書かれていたのだ。

 色情魔のレッテルを貼られ、争う気力も失せた

 尚子さんは驚くというよりも、激しい怒りを感じた。たしかに夫婦のセックスにのめり込んでいたのは間違いない事実だ。しかし「尚子、お前の身体は素晴らしい。一生離さないよ」といって、毎晩求めてきたのは隆さんのほうだ。セックスなんて一人でできるものではない。二人の心と身体が求め合ってから成立するのだろう。

 隆さんが尚子さんの過去の男関係を聞いたことは一度もなかった。処女ではないくらいのことは、わかっていたはずだ。二十九歳になっていたのだから。

 逆に尚子さんも隆さんに昔の恋人のことなど尋ねなかったが、本人が自分から「俺は尚子に会う直前までひっかかっていた女がいてさあ、でも尚子を知ったら、そんな女はもう触るのも嫌になったよ」などと、あけすけに語っていた。

 いざ離婚話が持ち上がると、今まで献身的に隆さんの両親の面倒を見てくれていた尚子さんには、文句のつけようがなかった。もし裁判にでもなれば、隆さんは妻に認知症や障害のある両親の介護を押しつけて、自分は知らん顔をしていたことで、不利になると判断したのだろう。

 そこで尚子さんを貶(おとし)める文書を作成したというわけである。
「初めは怒りよね。かあ―っと頭に怒りがこみあげてきて、それが終わると、今度は悲しくて食べ物が喉を通らなかったわよ。

主人と別れようと決心したのは、主人がたどうしても両親を施設に入れるのを認めてくれなかったから。何度説明してもわかってくれなかった。こままだと自分が壊れると思ったの。お義父さんなんて、主人が朝、家を出ると、

ズボンを下して、ペニスを握ってあたしの後を追いまわしていたのよ。お義母さんはそれを目の前で見ているのに知らん顔していた。もうほんとうに生き地獄だった。

 だから、主人が少しでも私の立場を理解してくれたら、やり直せたかもしれないという気持ちはかすかにあったわ。でも、向こうの弁護士が持ってきた書類を読んで、こんな卑怯(ひきょう)な男だったのかって。

あたしにとっては主人とのセックスは楽しい、素晴らしい思い出だった。それなのに、向こうは常に、あたしの過去ばっかり疑っていたんだと分かって、物凄いショックで八キロほど?せたわよ。

 何が一番嫌だったかというと、工藤さんは意外に思うかもしれないけれど、二人のセックスのことを主人が赤裸々に弁護士に話したっていう事実だったの。だって、そんなもの二人とも死ぬまで誰にも言わずにあの世に持っていくべき秘密でしょ。

それを赤の他人の弁護士にべらべらと喋ったのよ、そう考えると今でも怒りで身体が震えるわ。まるで、あたしが異常性欲者みたいじやないの。

 ねえ、夫婦の間のセックスってお互い楽しめば、どんな体位だって、どんな前戯だっていいじゃない。だけど、それ以来、あたしは男は豹変(ひょうへん)するっわかったから、もういくら優しいことを言われてもダメね。お断り」

 尚子さんは当時を思い出したのか、お銚子を強く握りしめた。

あまりの仕打ちに尚子さんは財産分与を戦い取る気持ちも失せてしまった。とにかく縁を切りたいと、一銭ももらわずに離婚した。そして経営者として今では立派に経済的にも自立しているのだという。

つづく 第七章
 「最後に勝った」と笑う妻の執念