工藤美代子 著
便利かつ恐ろしい、浮気発覚のツール
ほんの十年ほど前には、私は自分が毎日メールを使うとなるとは夢に考えていなかった。もっぱら郵便、ファクス、電話といった通信手段に頼っていた。
それなのに、今ではメールがなければ夜も日も明けない。電話では相手の都合がわからないが、メールなら時間の空いているときに読んでもらえる。郵便のように到着まで何日も待つ必要もない。外国にいても簡単に意思の疎通ができる。
これほど便利なものはないだろう。だから、つい三ヶ月前までは、メールとは現代人にとって、まことに貴重なツールだと思っていた。
ところが栄子さんに会って、まったく考えが変わってしまった。メールは確かに便利ではあるが、ときには恐ろしい存在があり、一組の熟年夫婦を離婚させてしまうほどの破壊力がある。こんなことに気づいたのは、どうも遅すぎたのかもしれない。
なぜなら、栄子さんのケースを友人たちに話したら「ああ、それは熟年離婚の典型的な例で珍しくもなんともないよ」と言われてしまった。つまり、私が時代遅れということだろう。
それでも、やはりここで紹介しておきたいと思ったのは、メールといういたって現代的な通信手段が、不倫というまさに古典的な男女関係と密接につながったときに、何が起こるのかを教えてくれたからである。
栄子さんが、「あたしねえ、人生の大転換がきたの」といって電話をくれたのは、昨年の暮れだった。私はてっきり彼女に恋人ができたんだろうと思い込んでいた。
というのも五十八歳の彼女は常に成熟した大人の女性の雰囲気を漂わせている。結婚して三十二年も経つのだが、まったく所帯じみた感じがしない。独身と言われればそんな風にも受け取れる栄子さんだ。
彼女の夫となる人には会ったことがない。なぜなら海外駐在が長くて、やっと三年ほど前に日本に帰ってきた。仕事を持つ栄子さんは、子供の教育のこともあり、夫の赴任地には同行しなかった。
お互い大人の夫婦で、あまり干渉しあわないで暮らしているような印象だった。
その栄子さんが大転換期を迎えたというからには、大恋愛でも始まったのかと勝手に想像していたら、その逆だったのである。
気忙しい年末の東京で、私は彼女に会った。自由が丘のキャンティは以前の西麻布の店にいたマネージャーの人がいて、いろいろ気を使ってくれる。なるべく静かな隅の方の席を予約した。
栄子さんは透き通るように白い肌に薄化粧をして、なんだか色っぽく見える。すでに小学校に通う孫がいるとはとても思えない。
「何があったの? 素敵なこと?」
もう十年来の親しい友人なので、私は単刀直入に聞いた。
「とんでもないわよ。これね、あなたに見せようと思って持ってきたの。たしか、あなた熟年離婚について書くといっていたでしょ。書いていいのよ。これ資料よ」
「え? 何言っているの? なんの資料なのよ?」
面喰っている私に栄子さんは堰(せき)を切ったように話し始めた。
「今夜はクマちゃんのお布団に一緒に入れないのね」
事の起こりは昨年の八月だった。栄子さんが自宅で使っているパソコンが突然、壊れてしまった。マスコミ関係の仕事をしている彼女にとってパソコンは必需品である。どうしても送らなければならないメールがあったので、夫の忠雄さんのパソコンを借りることを思い立ったのである。
たまたま夫が留守だったので、黙って彼の部屋へ行き、パソコンを開いてメールをクリックした。すると目に飛び込んできたのは、受信トイレにある同じ人物からの大量の通信だった。
それが連日届いている。なんの躊躇(ちゅうちょ)もなく彼女のメールを開いて読んだ。
仰天した。それは菜津子という女性からのものだった。
「あなた、これ読んでよ」と栄子さんは私の手元の”資料”と称する書類の中から一枚を抜き取った。それは次のように書いてあった。
「今夜はクマちゃんの温かいお布団に一緒に入れないのね。淋しい。あした、もし飲み会がなかったら、いつものように夕方に逢いませんか? それが無理なら昼でもいいです。
ケアマネはいつでも時間をつくります。だから確実に会える時間を教えていください。クマちゃんは私のビタミン剤、逢えない日があるのはまだまだ辛いです。ごめんね。明日も逢えますように」
これは完全に特別な関係にある女性からのラブレターだとわかる。こんなメールを毎日のように夫のパソコンには入ってた。
栄子さんが腹が立ったのは、「クマちゃん」という呼び方だった。それは忠雄さんの子供のときからの愛称で、彼の両親も息子を「クマちゃん」と呼んでいた。結婚した栄子さんは、そのままこのニックネームを引き継いで、姑と同じ夫に「クマちゃん」といっていた。
いわば、ほんとうに内輪しか知らない暗号のようなものだ。忠雄さんが大柄で毛深いところからついたあだ名だという。
それを平気で使っている女がいることが許せなかった。そして、もうひとつ、栄子さんには許せないことがあった。
「みっともないと思って、誰にも話していなかったけど、実は主人の会社がね、あの人が定年になる半年前に倒産したのよ。それで退職金から企業年金まで、全てがパーになったの。
それから主人は独立して介護ビジネスを始めるといって、私の貯金を一千万円もつぎ込んだの。この菜津子っていう女も、そのときの設立グループのひとりなのよ。メールに『ケアマネ』とあるでしょ。
きっとケアマネージャーの仕事をしていて、主人の介護ビジネスに参加したのね。ところが、主人の会社なんて、あっという間に潰れちゃったわ。長年お気楽なサラリーマンをやっていた人が急に事業を始めたって、そう簡単にいくわけないんじゃない。
それで赤字だけが残ったわけ。でも、私の出した一千万円があったから、それほどひどい借金はしないで済んだけど。だから、二年前からは主人は私のヒモ状態だったの。それだけ私に迷惑をかけておいて、自分はのうのうと女を作っていたのよ」
栄子さんの怒りは止(とど)まるところがなかった。実はメールを発見してから、はっと気づいて、彼の携帯電話をチェックした。そうしたら「ゴキブリのようにぞろぞろ不倫メールがでてきたわ。
その数は百通以上あったと思う」ということで、栄子さんの怒りは頂点に達した。
彼女はパソコンの中に入っている夫の愛人からのメールをすべてプリントした。そして夫の眼前に叩きつけて離婚を迫ったのだった。
コンビニおにぎり持参で事務所で逢い引き
「甘んじて受けますよ」というのが忠雄さんの返事だった。その後、友人と約束しているからいって、以前から夫婦が使っていた軽井沢の別荘に行ってしまった。一緒に行ったという友人に電話をしてみると、なんと在宅だった。つまり夫は妻の離婚話を早めに切り上げて、愛人と別荘に行ってしまったのである。
「うーん、それはちょっとひどい行為だと思うけど、はっきりいって女を作るのってお金がかかるじゃない。ホテルに行くんだって食事をするんだってタダじゃないでしょ。どうしたのかしら? 彼女がお金持ちなの?」
私は友人というよりは取材者の立場で聞いてみた。
「それがねあなた、世の中にはお金のかからない女っていうのがいるよ。このメール読んでごらんなさい」
差し出されたメール文書には次のようにあった。
「今日は六時に事務所でクマちゃんを待ってます。途中のコンビニでおにぎり四個買ってきてね。おかかじゃなかったら、なんでもいいです。事務所は誰も来ないから大丈夫です」
なるほど、忠雄さんは彼女と介護士さんたちの事務所で会っていたのだ。二人の夕飯はコンビニのおにぎり。これならば、たしかにお金はかからない。
「それで、私どうしたと思う? このまま黙って引き下がるのでは腹の虫が治まらないじゃない。だからね、この女にこちらから”返信”をクリックしてメールを出してやったの。それがこれよ」
といって、彼女はまた一枚の紙片を差し出した。
「軽井沢でお楽しみのことと思います。私は吉田忠雄の妻です。お二人のことは私も存じております。吉田の経済的破綻(はたん)の後処理をして、その後も少なからず被害を被っております。ですから、吉田にはこれから責任を取ってもらうつもりです。
吉田の母にも報告に参ります。娘にはもう話しました。もう孫を絶対に吉田には合わせないし、絶縁すると申しております。人には表面から見えないバックグランドがあるということです。
愛するということは、それらすべて責任を背負うことです。このことをご承知の上で吉田を引き取り下さるなら、私は何も申し上げることはございません」
まさに栄子さんの憤りが噴出している文面だ。ところが、この後、事態は思いがけない展開を見せる。非常に複雑な話なのだが、簡単に述べると、菜津子という女性いから、すぐに返事のメールが来た。
それは、栄子さんの心を傷つけたことをことひたすら詫びる内容で、忠雄さんのことは尊敬しているが、変な関係はないとしらを切った。
それにまた激怒した栄子さんが忠雄さんを問い詰めると、なんと彼女は人妻で小学生の男の子までいるという。そして、彼女の夫に愛人ができたため、思い余って忠雄さんにいろいろ相談をしている。しかし、彼女自身は息子のためにも離婚する気はさらさらないのだそうだ。
離婚届に判を押した夫と同居を続ける事情とは
なんともややこしいダブル不倫である。とにかく、妻に離婚された忠雄さんは彼女と結婚できない。しかも相手は二十歳も年下なのだ。現在、六十五歳の忠雄さんは、生活力もなく栄子さんのお荷物になっているが、引き取り手がないともいえる。
「私ねえ、あんまり頭にきたら彼女のご主人に電話してやったの。あなた、奥さんがこういうことをして、他人に迷惑をかけているのをご存知ですかって」
栄子さんの質問に対する、向こうの夫の返事は思いがけないものだった。
彼もうすうすは知っていたという。だが、妻には興味がないので黙認していた。
「あの女はケチなんですって、向こうのご主人がいうのよ。働いて稼いだお金を家には一銭も入れないんですって。とにかく自分勝手な女ですからって、こちらも拍子抜けするほど主人は冷静だったわ」
結局、栄子さんの夫は離婚届に判を押した。それで二人は赤の他人となった。
本来なら物語はここで終わるはずなのだが、そうはいかなかった。
「主人がね、離婚はしたものの家を出て行かないのよ。つまり居座っているわけ。私も無理やり追い出して、自殺でもされたら困ると思って、我慢しているの。セックス? そんなものとっくにないわよ。今さらできるわけないんじゃない。だから冷たい他人同士が一つ屋根の下で暮らしているっていう感じよ」
本当のことをいえば、夫と離婚したものの、まったく一人ぼっちの生活に栄子さんの側も不安を抱えている。思い出せば、今でも蹴飛ばしてやりたいくらい憎いのだが、女一人の所帯の侘しさも彼女は知っている。
「熟年離婚って、終わりがないのかもしれないわねえ。きっぱり断ち切るには重すぎる人生ってことね」
栄子さんはぽつんと呟いた。その言葉を聞いて、これからどんな展開になるのかは私にも全く予測が立たないなあと思った。
考えてみれば、人間の生活は一人より二人で暮らした方が経済的にできている。さらに栄子さんに聞いたところでは、夫の退職金をあてにして、二人は新居を購入してしまっていた。
そのローンの返済にも彼女は追われている。幸い、栄子さんはかなりの収入があるのだが、それでも経済的なやりくりは大変だ。たとえ働きのない夫でも最低限の厚生年金は入ってくる。それをローンの返済に回している状態なので、夫の厚生年金がなくなるのは痛手だ。
そんな実質的な要因があって、まだ別居を躊躇しているらしい。忠雄さんは、栄子さん事情を承知で居座っている観もある。
さすがに菜津子という女性とは別れたと思うのだが、実際のところはわからない。その女性が自分よりはるかに不美人なのを知っていて栄子さんのプライドはさらに傷ついた。
「もしかしたら闘いはこれからかも」、冗談っポイ口調でいう栄子さんと、私は自由が丘の駅で別れたのだった。
誰にも相談できない、セックスの不一致
教授夫人の鑑として過ごした二十五年、貞淑な妻の告白
久しぶりに親友の恵美子さんから電話があった。彼女は私より二歳年上なので、今年六十歳になる。独身で、ある大学の教壇に立っている。いつ会っても若々しくてお洒落な女性であり、私の前著『快楽』にも何度か登場してくれた。
「あなたさあ、たしか熟年離婚のこと調べているっていわなかった?」
と尋ねられ、そうだと私が答えると彼女が言葉をつづけた。
「実はね、同僚の男の先生が離婚したのよ。彼は六十歳で、奥様は四十八歳なの、あたし、もうつくづく困っちゃっているのよね。だって、ご夫婦の両方とも親しいから、どっちの味方に付くわけにもいかないんだけど、この前、奥様とゆっくりお茶を飲みながら、どうも離婚の原因はセックスらしいのよ」
ここで、私の耳はピンと立った。
「セックスが原因で別れた方なら、ぜひお話を聞きたいけど、ご紹介してもらえないかしら?」
すがるように私が頼むと「ダメよ」と恵美子さんに言下に断られた。
「だって、奥様はすごく内気な人で初対面の相手に、ベラベラ性生活の話をするような方じゃないのよ。ただね、二十五年も連れ添っていて、しかも子供がいないのに、今頃になって別れるのって不思議といえば不思議よね。それは私も気になって、引っ掛かっているのよ」
しばらく考えた末に恵美子さんが提案した。私の代わりに恵美子さんが妻の方を食事に招待して、話を聞いてくるというものである。
自分が直接取材をしないで書くのはノンフィクションとしては禁じ手であると私は承知しているのだが、今回のようなケースは仕方がない。恵美子さんにすべてを任せて、詳しい事情を調べてもらうことにした。
その女性と恵美子さんとは長い付き合いで、かなり親しい間柄なのだそうだ。だとすると、私がお会いするよりもいい結果が出るかもしれない。
行動力のある恵美子さんは、その週に、早速、彼女を表参道のフェリチタに呼び出した。イタリアンの美味しいお店だ。
三階の片隅の静かな席で、じっくりと四時間ほど取材をしてきてくれた。女性の名前は信子さんという。大学在学中に当時、講師だった岡本先生に見初められた。そして、卒業後、間もなく結婚した。彼女が二十三歳のときだ。それからずっと都内のマンションに二人で暮らしてきた。
恵美子さんにいわせると信子さんは、淑(しと)やかで、今時には珍しいタイプの女性だそうだ。家庭でも夫のことを「先生」と呼んでいた。もちろん、家事万端はきちっとこなし、教え子が来れば、手料理でもてなす。まさに教授夫人の鑑のような人だった。
それが突然の離婚で、恵美子さんは戸惑った。岡本先生は今の大学がもうすぐに定年になるのだが、私立の女子大に再就職が決まっていた。そこは七十歳くらいまで教授でいられるそうなので、生活面での心配はなかった。
四十八歳の誕生日に突きつけた離婚届
忙しい恵美子さんが時間を作って我が家を訪ねてくれたのは、先週の日曜日だった。
「いやあ、参ったわよ。男と女のことって、本当に他人にはわからないものね。まず、岡本先生なんだけど、なかなか優秀な学者で、まああんまり風采は上がらないけど、紳士よね。もちろん学内でも評判はいいし、女子学生にセクハラをしたなんて噂もないし。そうねえ、平凡でどこでもいるオヤジだけど、ちょっとインテリとこかしら」
「うん、なかなかわかる気がする。それで離婚を切り出されたのは奥様だったわけ?」
「そうなのよ。信子さんが四十八歳の誕生日の夜に、離婚届を突き付けたんですって。先生はもうびっくり仰天よね。最初の一言が『これでわかったぞ』だったんですって」
「何が分かったのよ?」
「だからさ、その言葉の意味を聞き出すのにあたしは苦労したのよ。ちょっと感謝してもらいたいわ。相手はお上品な奥様で、なかなか口を割らない。そこを、ワインとか勧めて頑張ったのよ。あなたのいつもの苦労も少しは察したけどね。
それでね、これでわかったって岡本先生がおっしゃったのはセックスのことだったのよ。ここ二年間くらい信子さんはセックスを拒否していたの。だから先生にしてみれば、妻がセックスを拒否した理由がやっとわかったという意味なんじゃない」
ここで、先生のみならず誰もが考えるのは、信子さんに男ができたのではないかということだ。私も一瞬、そう思った。ところが真相は違った。
「初めに信子がいったのは、性交痛についてだったの。彼女は閉経が早くて四十五歳くらいで生理が止まり、その後は性交痛がひどくて、セックスするのがすごく辛かったんですって。
なんかね、まるでご主人のペニスがざらざらのヤスリでできているみたいに感じるんだそうよ。ギコギコとヤスリで擦れる感じで、実際に出血もあったらしいわ」
「でも、それはホルモン補充療法で簡単に治るじゃない。あなただって、やっているでしょう? 教えてあげた?」
「ううん、そこがもうちょっと複雑なのよ。女性の身体って、心と密接にリンクしているでしょ。ただ、薬を飲んだり注射をしたりしても問題の解決にはならないってこと」
信子さんは、ホルモン補充療法に関する知識は持っていた。それがいかに有効であるかも知っていた。しかし、どうしても、その治療をする気持ちなれなかったのだという。
「ここからが、驚きの真相告白なのよね」と恵美子さんは、ちょっと勿体をつけたようにいった。
「私たちの性生活は初めから歪(いびつ)だったと思うんです」と信子さんが重い口を開いたという。
結婚当初から夫は妻にフェラチオを求めた。信子さんにしてみれば、相手は尊敬する先生である。彼を喜ばせることができるなら、なんでもしたかった。信子さんも、それまでにボーイフレンドがいなかったわけではない。
二人くらいは男性経験もあった。しかし、いずれも淡い関係で、結婚までは発展しなかった。そこに現れたのが岡本先生で、ちょうどアメリカ留学から帰ったばかりの新進の学者だった。彼は一直線に信子さんを求めた。その真剣さが嬉しくて彼女もプロポーズを受け入れた。
毎度のフェラチオ要求に心も体も疲れ果てて
結婚した当初の十年間ほどは、毎晩のようにセックスを求められた。
「とこがね、そのセックスのパターンがほとんど決まっていたんですって。初めに信子さんに三十分以上もフェラチオをさせるんですって。それから先生もお義理みたいにちょっと彼女の乳首とかクリトリスを愛撫するらしいんだけど、とにかく長くフェラチオをしないと機嫌が悪いわけ。だから初めは顎(あご)が痛かったそうよ」
「そんなのいやだって、はっきり言えばよかったのに」と私は少し怒りを感じていた。男女間でどんなセックスしようと、それは勝手だが、自分だけ快楽を貪って相手に奉仕を求めるのはどうかと思う。
「でもねえ、あなたがいうように簡単にはいかないのよ。年齢差が十二歳もあって、信子さんは先生を尊敬していたから、とにかく一生懸命に尽くしちゃったのよ。また、先生もうまいことを言ったらしいの。
こんなに気持ちよくしてくれる女性は初めてだとか、今まで知ってた女性の中で一番うまいとか、調子のいいこと言っておだてたのね。だから彼女も、セックスとはこういうものだと思い込んでいたわけ」
「それってさ、つまり岡本先生が自分の教え子の中から、言うことを聞きそうなおとなしい女を選んで、好きなように教育したともいえるわね。なんか不快だなあ」
私が感想を述べると恵美子さんはニヤリと笑った。
「あなたねえ、よく天網恢恢(てんもうかいかい)っていうじゃない。そういう男にはちゃんと天罰が当たるのよ」
結婚して十年もした頃、信子さんはフェラチオをするのがほとほと嫌になった。そうなると夫の性器もにおいもいやだし、触るのも嫌になる。女性は一回嫌になると、ほんとうに極端にダメになる。
しかし、その理由だけで一足飛びに離婚まではいかなかった。信子さんは今、それを後悔しているという。まだ三十八歳のときに、なぜ思い切って離婚しなかったのか。やはり教授夫人という地位に未練があったのだろう。
夫婦の性生活は微妙に変化していった。まず、信子さんがフェラチオをしなくなった。そういう気分になれないの、ごめんなさいと言った。夫は面白いはずがないのだが、だからといって露骨に文句はいわない。
そこは教養のある紳士なので、妻を責めたりはしなかった。ただ、むっと押し黙って、彼女を抱き寄せた。つまりフェラチオという儀式を抜きにしたセックスをしたわけである。
ろくな前戯もなくて、いきなり挿入ということである。それでも信子さんにとっては、長時間のフェラチオをさせられるよりは楽だった。
やがて、信子さんは夫がこちらの快感などおかまいなく一方的挿入してくる性行為が、たまらなく疎ましくなった。
そこで、夫から求められると、くるりと後ろを向いて、ネグリジェは着たままでパンティーだけ下して、おしりを突き出すようになった。それならば、夫の息が顔にかかることもないし、こちらの顔を見られないですむ。
そそくさと夫は背後から挿入し、射精してセックスは終わった。その間は五分から十分くらいだった。これさえ我慢していれば、何とかなると信子さんは思った。
あきらかに妻がセックスを嫌がっているのを察知した夫は、一週間に一度くらいしか求めなくなった。「なあ、いいだろ。今日はいいだろう」と、しつこくいわれると信子さんも応じざるを得なかった。
ところが閉経した信子さんは、いきなりペニスを挿入されて激しい性交痛を感じるようになった。さすがに今までは従順だった彼女も、はっきりと宣言した。
「私はセックスに全く興味がありません、したくないのです。すいません」
彼女にしたらずいぶんと思い切った発言だった。日常生活での夫婦は、これといった問題を抱えてはいなかった。夫の両親は亡くなっていたし、きょうだいはいなかった。
信子さんが親族の関係で悩む必要もなかったし、岡本先生は学者として着実に実籍を伸ばしていた。だから、このまま静かな初老の夫婦になる予定だった。
朝から初老の夫が叫ぶ「セックス?」
岡本先生の行動が常軌を逸していると信子さんが感じたのは、彼女がセックス拒否宣言をしてからのことだった。
朝食を二人で食べているとき、突然、夫が「セックス」と叫んだ。これには理由がある。有名な巨匠の監督した映画で、ヨーロッパのある村の男が木に登り「セックス」大声で怒鳴るシーンがあった。
たまたま、その映画を二人は前の晩にテレビで観た。夫はそのシーンがひどく気に入って、拍手をして面白がった。信子さんはなんともいえない嫌悪感を感じた。
その台詞を夫は思い出して、俳優の声色を真似していったのだ。信子さん悪い予感がした。そしてその予感は当たった。
「それからね、岡本先生は信子さんの顔を見ると、わざと、その俳優みたいに手を広げて、『セックス』って叫ぶんですって。ほとんど毎日、多い時は一日に三回とか、それをやるんですって。なんか、子供が欲しいものが手に入らないで、いつまでもぐずっているのと同じよね。
先生は冗談のふりをして、アハハハって笑うんだけど、信子さんにしてみれば、笑うどころじゃないわよ。精神的にすごく追い詰められて、もう離婚しかないっていう決断をしたわけ」
「なるほど。それじゃあホルモン補充療法なんてやる気にもならないわね。きっとその先生って、すごく真面目で女遊びも浮気もできないタイプなんでしょうね。でも若い頃のセックスのつけが還暦になってまわってくるなんて、夢にも思わなかったでしょう」
私は岡本先生のセックスに対する身勝手さには腹が立ったが、その反面、彼が少しお気の毒でもあった。なんとか妻の気持ちを理解する努力ができなかったものか。セックスなんてしなくたって死ぬわけじゃないんだから、我慢すればよかったのではないか。
「ああ、それは違うわよ。セックスは何歳になったってしたいものなのよ。ただし、相性のいい相手じゃないと難しいという見本みたいな話が、このケースね」
恵美子さんは、ばっさりと裁断した。もともと性的な相性が悪かったら夫婦関係が、長い年月ですっかりねじれてしまったということか。
離婚したものの、信子さんはまだこれからの生活設計をまったく立てていないという。その事実に、私は彼女が置かれている境遇の切実さを感じ取ったのだった。
つづく
第五章
“円満離婚”と思いこんでいる夫の能天気