熟年離婚って確かに増えているわよね。あなただって取材してそう思ったでしょ。でも、女はみんな前向きなのよ。どんなに傷ついても、もう一度しっかり新しい生活をやり直そうと覚悟しているのよ

 誰かに甘えて現実逃避するのは、男のほう

本表紙 工藤美代子 著

六十歳”現役”で、セックスを語れる女友達

 先日はっと気が付いた。私が安心してセックスの話をする友人は恵美子さんだけだ。ほかにも女の友達はたくさんいるが、セックスには触れない。なぜだろうと考えてみた。

 思えば私の女の友達は、ほとんどが五十代である。そして、もうセックスを卒業している。したがって話題にならない。

 ところが、恵美子さんは六十歳だが、現役で女を張っている。だから、彼女とは更年期以降の女性の性の悩みについても、かなり突っ込んだ会話もできるのだ。

 今年の恒例の新年会を二人でやろうと恵美子さんが誘ってくれたのは、お正月の三が日が明けたすぐだった。しかし、私は面倒な原稿を抱えていて、ようやく彼女と会えたのは、もう一月も終わろうという時期になったからだ。

 お互いの健康と遅ればせながらの新年を祝して、恵美子さんの好きな白ワインのシャルドネを開けた。表参道にあるフレンチのレストランだった。

「実はさあ、新年早々に頭にくることがあって、あなたに聞いてほしかったのよ」と恵美子さんが、ワインで喉を潤すと急(せ)き込むように話し始めた。

 今年のお正月の彼女は両親と兄夫婦の住む実家で過ごした。恋人は所帯持ちなので、こんなときはすごく淋しいが、もう慣れっこになっている。

 お兄さんの幸一さんは、彼女より二歳年長だ、兄嫁は恵美子さんと同じ歳で、「よくできた人」なのだそうだ。

 さて、新年を祝っていた恵美子さんの実家に、思いがけない客が訪ねてきたのは、元旦の午後だった。幸一さんの高校時代の同級生だった中山君である。

 中山君は学校の成績が抜群で、現役で国立大学に入学した。幸一さんは一浪して有名私立大学へと進学した。大学へ行ってからは、お互い環境も違ったため、あまり交際しなくなり、いつしか疎遠となって、今ではたまに開かれる同窓会で近況を報告し合うくらいの仲でしかない。

 美少女だった恵美子さんは、高校時代から男の子にもてた。中山君が自分に淡い恋心を抱いているのは知っていたし、彼女の方も誠実そうな彼を気に入っていたが、あくまで、お兄さんの友人としてしか付き合わなかった。

「だってねえ、いくら秀才っていても、なんか妙に屈折しているところがあってね。それが魅力にも見えたけど、あの時代の女子高生なんて男女交際は禁止されていたし、とにかくデートもしたことなかったわよ」

 恵美子さんの口調は素っ気なかった。お兄ちゃんの幸一さんには私も会ったことがあるが、スカッとしたスポーツマンタイプの人で、礼儀正しい好青年が、そのまま中年の紳士になったような感じだった。

「兄が中山君と親しくなったのは、二人とも映画が好きだったからなの。洋画に凝っていて、連れ立って観に行ってたわよ。題名なんて忘れたけど。それで映画を観た後で、よく兄と中山君が二人で芸術論みたいなのを戦わせていたわ。若かったのねえ」

 というわけで、突然現れた中山君を恵美子さん一家は歓迎した。懐かしさで、みんな胸がいっぱいになった。

「後から考えれば、おかしな話よね。どうして六十二歳にもなった男が急に何年も音信不通だった友達の家を元旦に訪ねて来たのか。私たちもよく考えるべきだったんだけど、とにかく昔は家族同様の付き合いをしていた人だったから、すっかり安心していて、警戒心がまったく湧かなかったのよ」

 それは当然だろう。居間で、お節をつつきながらお酒を飲んで楽しい昔話に興じた。二時間ほどで、中山君は帰って行ったのだが、恵美子さんは、そのとき、何の気なしに自分の名刺を中山君に渡した。高校時代の思い出を、また一緒に語り合うのもいいと思ったけど、他意はなかった。

 すでに会社を定年になり、次の会社で契約社員として働いているという中山君は、すっかり老人じみてみえた。髪も白くなり、顔にはシミが浮き出ていた。

「だからさ、私は彼を男としては見なかったのよ。当たり前でしょ。子供も大学を卒業したっていうし、まあ人畜無害のご隠居さんっていう感じに受け止めたの。それが、とんでもなかったのよ」

「久しぶりに会って欲情したよ」突然の告白に仰天
 一月四日の日曜日、自宅のマンションで、恵美子さんが勤めている大学の新学期の準備のためにパソコンに向かっていたら、中山君から電話が掛かって来たのである。

 この間は楽しかったとお礼をいわれ、こちらこそと答えたら、中山君が唐突に変なことを言い出した。

「あのさあ、昔、君の家に遊びに行ったとき、恵美ちゃんが三十歳まで独身でいたら、僕がお嫁にもらうって約束したことを憶えている?」と聞かれ、恵美子さんは「そんなの全然憶えていないわよ。冗談でいったんでしょう」と軽く受け流した。ところが相手は真剣な声で言葉を続ける。

「あのときさあ、どうして三十歳じゃなくて六十歳って約束しておかなかったんだろうと思って、僕すごく後悔してんだよね。恵美ちゃんは、僕が初めて親しくなった女性だからさあ」

 ここまでいわれて、恵美子さんも、さすがに気が付いた。これは、何か勘違いしている。というか中山君の中では、時間はあの高校生の時代のまま止まっているのではないか。その証拠に彼は、すっかり昔の口調に戻って話しているのだ。

「何を言ってんのよ。立派な奥さんや子供までいて、変なことを言わないでよね」
 わざとつっけんどんに恵美子さんが答えると、中山君が、待ってましたとばかりに反応した。

「いやさ、僕、去年、離婚したんだよ。かみさんとうまくいかなくなって。まあ僕が悪かったから無理もないんだけどさあ」

 恵美子さんは、中山君にはまったく興味がなかったので、彼の身の上話に付き合わされるのはかなわないと思った。「あら、そう」と短く答えて、それ以上は何もいわなかった。
 しかし、相手の告白は止まらなかった。

「実はね、友人の投資話に乗っちゃって、三千万円ほど穴をあけちゃったんだよ。それでかみさんに愛想を尽かされたんだ。僕が今まで住んでいたマンションを追い出されてさあ。

結局、マンションも退職金もかみさんに取られちゃったから、小さなワンルームマンションを自分用に買ったんだけど、このローンが終わるまでっていうと、僕は七十歳まで働き続けなきゃなんないんだよ。金が要るから勤めを辞められないで、再就職した会社じゃ、自分より格下の奴に使われるんだから、精神衛生上もよくないよねえ」

 延々と中山君はしゃべり続ける。恵美子さんはいい加減に電話を切りたくなったので、
「でもさ、働けるのって素晴らしいことじゃない。

私だって、今教えている大学を定年になったら、講師でもいいから、どこか他の大学でまた働きたいと思っているわよ。ものは考え方じゃない。元気出して頑張ってね」

 そういって話を終わらせようとしたら、中山君が、声を大きくしていう。

「恵美ちゃんの場合と僕は違うよ。楽しい仕事ならいいけど、ただ生活のために下っ端で働くのって惨めだぜ。でも、僕、こんな話をするのは恵美ちゃんだけだよ。普通の奴らとは話してもわからないと思うからいわないんだよ。

 正直にいうね、僕さあ、この間、久しぶりに恵美ちゃん会って、欲情したよ。恵美ちゃんって、やっぱり色っぽいよね。僕もさあ、今までの生活に区切りをつけて、新しい恋愛を始めなきゃと思ったよ。ほんと」

 熟年離婚を経て「新しい恋愛」に縋ろうとする男

 中山君の言葉を聞きながら「あんた、馬鹿じゃないの」といいたいのを恵美子さんは必死になってこらえていた。しかし、猛然と腹が立ってきた。もう何十年も前に、たしかに中山君は恵美子さんを「恵美ちゃん」と呼んで、ほんとうに身内のように彼女の家族に溶け込んでいた。

 しかし、今は立場も違う。恵美子さんだって、大学では教授と呼ばれ、それだけの尊敬を集める仕事をしている、馴れ馴れしく「欲情したよ」などといわれる筋合いはない。

 そういえば、中山君が昨年の十一月頃に兄の幸一さんのところに電話をかけてきたのを思い出した。特に用事はなさそうだったが、みんなの消息を聞いていたよと幸一さんがいっていた。

 それは、もしかすると、まだ、恵美子さんが独身でいるかどうかを確かめるために掛けてきたのかもしれない。

「あなた、冗談じゃないわよね。熟年離婚をして女房に財産を全取られて、しかも定年になってお金はなくて、あわよくば私のところにでも転がり込めたらと思っているのが、その口調からも、見え見えなのよ。

なまじ一流国立大学なんか卒業しているからプライドばっかり高いのね。再就職したってうまくいかないでしょう。まったく世の中を甘く見ているとしか言いようがないわよ」
 
 恵美子さんは怒り心頭という感じだった。私は中山君の、あまりにも幼稚なアプローチの仕方に呆れてしまった。女を口説くにしても、もう少し上手な方法もあるだろう。

 恵美子さんは意地悪い気分になったので「中山君、奥さんに詫びを入れて、許してもらって、もう一度やり直せないものなの?」と聞いてみた。

「女房? うーん、たぶんダメだよ。こんなことをいうのは恵美ちゃんに悪いけどすごく美人なんだよね。それに僕より十三歳も年下で、まだ四十九歳なんだよ。

いい女でさ、四十二、三歳にしか見えないよ。仕事もやっているし、テキパキしていて、そうだなあ、恵美ちゃんに似たタイプかもしれない。僕、そういうタイプの女に弱いんだよね」

 これを聞いて、恵美子さんは、また怒りが込み上げてきた。あんたの女房が美人なのが、なんで「恵美ちゃんに悪い」のだ。まるで、私が不美人みたいではないか。ふざけるなと怒鳴って電話を叩き切りたくなった。

 それでも彼女は我慢して、「ごめんなさい、ちょっと出掛けなくてはならないから」といって、話を切り上げた。

 その翌日、中山君から今度はメールが来た、恵美子さんの名刺にメールアドレスが記してあったからだ。ぜひ、昔話がしたいので会ってほしいと書いてあった。「僕たちの新しい関係を構築するプロセスのためにも、会うべきでしょう」といった独りよがりの文言が並んでいた。

 もちろん、恵美子さんは返事を出さずに無視することに決めた。

 ここ最近、疑問に感じていたことの答えは
「だけどさあ・・・・」と恵美子さんはため息をついた。
「熟年離婚って確かに増えているわよね。あなただって取材してそう思ったでしょ。でも、女はみんな前向きなのよ。どんなに傷ついても、もう一度しっかり新しい生活をやり直そうと覚悟しているのよ。

前に話した、教授婦人ね、熟年離婚した。あの人の奥様で何十年もきて、いきなり一人になったけど、ちゃんとアロマセラピーの技術を学んで、働いていらっしゃるわよ。生活は以前とは比べものにならないほど質素になったけど、でも、生き生きしているわ。

 それに比べて男はだらしないんじゃない。奥さんに去られた教授の方は、すっかり老け込んじゃって『わしはもうすぐ死ぬから』とか『世間の邪魔者ですからね』とか愚痴ばっかり言っているんで、聞いている方が嫌になっちゃうのよ。

 中山君にいたっては、縋(すが)れる女を探そうって考えているわけでしょ。まだ六十二歳なんだから、どうして、堂々と人生に勝負を挑まないのかしら。独身で小金を持っていそうな女に学歴だけをちらつかせて取り入ろうって魂胆は卑しいわよ。やっぱり歳を取ると。男の方がダメみたいね」

 恵美子さんがきっぱりと言い切った。

 私はなんだか、ここ最近、ずっと疑問に感じていたことの答えを得たような気がした。
 熟年離婚って何だろう。それは長い年月ですれ違ってしまった夫婦が、老年を迎える前に下す決断だ。双方に痛みが伴わないといったら嘘になるだろう。

 女性の中には自傷行為に及んだ人、また、それを真剣に考えた人もいた。それでも時間が流れるにつれて「離婚」という事実を受け入れて、その現実と共に生きていく術を学習する。

 だが、男は少し違うのかもしれない。目の前の現実を受け入れられないのだ。中山君のように、誰かに甘えて現実を逃避できないものかと考える。すべての男性がそうではないかもしれないが、私が取材した限りでは、配偶者に去られた場合、女性の方が、はるかに逞しく第二の人生へと踏み出していた。

 それは女性が内包する性が、実は生きる力と密接に結びついているのではないかと私は思った。

 心の整理はつかないけれど、人生をあきらめない

 二度目の結婚が破綻するのを恐れていたあの頃

 ここ二年ほどは、熟年離婚について考えない日はなかった。もちろん、原稿を書くためでもあったが、友人や知人が次々と実際に熟年離婚をするのを目の当たりにしたらだった。

 かつては、知人のまた知人が離婚したらしいという話を伝え聞くくらいだったのが、今では、よく知っている親しい人々が「私離婚したのよ」といって連絡をくれるようになった。それほど、熟年離婚は増えているのかと空恐ろしい気持ちにもなった。

 そんなときも私は、ふと自分が離婚を決意した日のことを思い出したりした。
 あれは私が四十二歳のときだから、今から十七年ほど昔になる。二十年近く連れ添った夫と離婚した。

 これは、まことにすっきりしない離婚だった、今でも、私の中では、あの時の経緯がうまく整理できてない。

 最初の結婚は二十一歳のときだった。あっけないほど短期間で破局を迎えた。相手から一方的別れてくれといわれ、何が何だかよくわからないうちに、結婚生活が終わっていた。

 二度目に結婚したときは二十三歳になっていた。いや、正式に結婚したのはこの五年後だった。五年間の同棲を経て、式を挙げた。しかし、私の認識では、一緒に暮らすのは結婚したのと同じだった。

 今の若い人が聞いたら信じられないかもしれないが、私の時代には、結婚する相手以外と同棲することは考えられなかった。社会的にも許される行為ではなかった。

 二度目の結婚は神田のバンクーバーで始まった。夫は州立大学で日本文学を教えていて、私より十八歳年長だった。

 今度の結婚は、きっとうまくいくと信じていた。日本の大学を卒業して、フルブライトの留学生としてアメリカに渡り、三十九歳でカナダの大学教授となった夫を、私はとても尊敬していた。

 徒手空拳で戦後はまだ貧しかった日本を脱出し、アルバイトをしながら博士号を取得した夫は、目から鼻に抜けるような才気あふれる人だった。

 最初の十年間は、何事もなく順調な生活だった。しかし、少しずつ私の心の底に不満が芽生えていた。それはセックスの問題でもなければ、生活態度や思想信条の問題でもなかった。

 あえていえば、経済的な問題だったろう。夫は女性も経済的に自立していなければいけないという考え方の持ち主だった。したがって、私は彼から生活費をもらったことは一度もなかった。それどころか、彼の給料の額も知らなかった。

 初めの五年間は、私は大学に通っていた。事情があって、カナダ国籍を取得できなかったのである。そしてカナダの法律では留学生が働くことは禁止されていたので、収入の道はなかった。

それでも、夫は基本的な居住費や光熱費、食事は負担してくれたものの、それ以外の金銭的援助は一切してくれなかった。

 そのために、学費の捻出はもちろんのこと、美容院へ行く費用も四苦八苦した。
 これではどうしようもないと思い、二十七歳のときに本を書こうと決心した。作家になれるかどうかはわからなかったが、とにかく何か突破口が欲しかった。

 幸いなことに、三十二歳になって、ようやく出版した最初の本はよく売れて、あるノンフィクション賞の候補にもなった。受賞は逃したものの自分の仕事が社会的に認められる面白さを、初めて知った。

 もう文筆で食べていくしかないと思っていたので必死だった。デビューした翌年には三冊の本を上梓した。それだけ切羽詰まっていたのだといえる。

 不思議なことに、仕事が楽しくなると、バンクーバーでの夫との生活は退屈極まりないものとなった。彼とのセックスにもまったく興味が亡くなった。

 執筆に逃げることができたが、夫への不満はくすぶっていた
 そんな私の変化と時期を同じくして、夫は体調を崩していった。原因不明の脱力感に悩まされ、自然食の生活へと傾斜を強めた。

 ある日、彼はおごそかに宣言した。「僕はこれからは、加工された食品は一切食べないことにします」。なぜなら、加工された食品にはどんな化学物質が混入しているかわからないので、危険だというのである。

 妻の私に求められたのは、パンもジャムも自家製の物を作ること、料理はすべて手製じゃなければ口にしない。お茶は殺虫剤が入っているから飲まない。外食は町に一軒だけある自然食のレストランでしかしない。

 しかし、正直いって、私は彼のためにすべて手作りの料理をしている時間なかった。そんな暇があったら原稿を書きたかった。

 今になって思えば、なぜ、そうしたことを、お互いとことん話し合わなかったのだろうと悔いが残る。そうすれば、離婚は回避できたというのではない。もっと早く離婚して二人とも新生活を始められたと思うからである。

 夫は私に経済的な自立を求めた。それと同時に煩瑣(はんさ)な家事もこなしてほしかった。もしも私がもっと能力のある人間なら、そのどちらもできただろう。

 実際、私などよりはるかに超売れっ子の女流作家で、家事や家族の世話をきちんとした上に趣味も楽しみ、それでいながら、原稿を量産している人はたくさんいる。

 だから、私は夫だけが悪かったとはけっして思わない。いかに自分が無能であるかは、私自身が一番知っている。

 つまり、経済的な自由を手に入れた途端に、家庭にまったく興味がなくなってしまったのは、私という人間の身勝手さからだったろう。

 その反面、もしも夫が私を経済的に惜しみなく支援してくれて、普通の意味で妻にできる小さな贅沢を許してくれていたとしたら、私もまた、彼のために一生懸命、自然食を作り、家の中を美しく保つ努力をしたことだろうと思ったりもする。

 私の心のどこかでは、自分が不当に扱われていたという不満がくすぶっていた。しかし、夫にはそれを話すことはせずに、ただ、カナダの家から逃避する方法を選んだ。

 いや、その前の三、四年は三週間おきに日本とカナダを往復していた。だが、それでは稼いだ原稿料はすべて飛行機代に消えてしまう。それにノンフィクションを書くための資料はすべて東京にあったので、バンクーバーの家では仕事ができなかった。

 私の足は次第にカナダから遠のき、逆に夫が夏休みとクリスマスの休暇に日本に来て一緒に過ごすようになった。

 喧嘩はなかった。もっと怒鳴ったり罵り合ったりしていたら、結論は明白になっただろう。だが、私は離婚をひどく恐れていた。二度目の結婚だったので、「なんだ、今度もダメだったの」と世間に思われるのが辛かった。そのため、極力、夫との衝突は避けようとした。

 もちろん、セックスもなかった。夫の方にも不満はあっただろうが、彼も何かを恐れて離婚を切り出さなかった。

 どうにも煮え切らない関係は十年も続いた。夫が嫌いかといえばそうではない。しかし、彼をもはや愛していないことは明白だった。

人間は死ぬときは一人で、潔く生きていこう

 ある晩、徹夜で原稿に向かっていると、カナダの夫からファクスが入った。あの頃はメールなどという便利なものはなかったので、もっぱらファクスが通信手段だった。

「そろそろ離婚しませんか?」と、そのファクスには書かれていた。
「来たか」と思った。実はこの少し前に夫から相談されていたのである。彼は六十歳を目前にして大学の定年を視野に入れなければならなくなった。そこで、日本の大学に再就職の口を見つけたのである。ところが、その大学は京都にあった。

 一緒に京都で暮らすつもりはあるのかと尋ねられた。今まで、私は自分が年のほとんどを東京で過ごす口実として、仕事の場が日本にあるからだといってきた。だが、彼が日本に移住するとなったら生活を共にするのは、夫婦だから当然だ。

 考え込んでしまった。夫と京都で仲良く暮らせる自信は皆無だった。といって、そう告げるわけにもいかず、ただ沈黙していた。

 そのため、夫も自分なりの結論を出したようだった。「僕も歳なので、これから先のことを考えたいし、できれば共に生きていける伴侶も探したいのです」といった意味のことが綴られていた。

 離婚の手続きは、いたって冷静に進められた。弁護士も必要もなかった。英文の書類にサインをしたとき、何か憑き物が落ちたような気分だった、自分では今まで、いったい何を躊躇(ためら)っていたのだろうと不思議だった。

 どうせ人間は死ぬとき一人なんだ。だったら、潔く一人で生きていこうと決心した。
 ところが、離婚して間もなく、編集者だった今の夫と食事をする機会があった。私は誰にも離婚した事実を隠すつもりもなかったので、

実はこの度、離婚をしましてと話したら、相手も、もう十年も奥さんと別居していて、ようやく娘が嫁にいったので、離婚の手続きをしているところだという。

 まったく奇遇だったが、熟年離婚をしたばかりの二人が巡り会ったのである。正確には、その前から今の夫は知っていたが、あくまでも仕事の相手であって、男性として意識することはなかった。

 しかし、私たちは、その日のうちにすっかり意気投合してしまった。お互いに熟年離婚がどれほど難しいものか、よく理解していた。

 相手の非を鳴らせば、ではそんな相手となぜ結婚したのかという問いに自分自身に返ってくる。さらには二十年の日々は何だったのかという空しさに襲われる。今の夫の場合は三十年という月日を経て離婚だった。

 私は今の夫と話していて、心が次第に癒されていくのを感じた、彼はすべてを呑み込んでいた。熟年離婚をするには、その人が人並はずれて我儘だからでも、非常識だからでもないと知っていた。

 柿の実が熟して、木からぽとりと落ちるように、離婚が成立するときは、無理に木を揺らさなくても、自然に時機がやってくる。そんな思いがしたのだった。

熟年世代でも、遅すぎということはない

 再婚したのは四十三歳になる一日前だった。あれから十六年の歳月が流れた。私は今でも夫に「ねえ、なぜ、もっと早く巡り会って結婚できなかったのかしら?」と尋ねることがある。

失われた歳月が惜しいと感じるからだが、そんなとき、夫は静かに答える。
「一緒になれただけで良かったじゃないか。神様に感謝しなきゃ」と。

 だから、私は熟年離婚をした女性に感謝しなきゃ」と。
 だから、私は熟年離婚をした女性に「これからどう生きて行ったらいいのかしら」と問われると、必ず、こう答える。

「心配しなくても大丈夫です。一人で生きていく覚悟さえあれば、道は思いがけないところから拓けるものです」と。

 たしかに、男女どちらにとっても、熟年離婚は厳しい現実だ。自分の過去を否定して、そろそろ定年を迎えようという年齢から、新しい生活を切り拓かなければならない。

 しかし、実際に熟年離婚を経験した立場からいうと、経済的な点は、健康でありさえあれば、自分の努力次第で、何とかなるものである。

 特に女性は糊口(ここう)の資を得る手段に足をとられがちだが、精神の自由と物質の自由とどちらを選ぶかと言われた、自ら答えは出るだろう。いくら物質的に恵まれていても、精神が死んでしまってまで、結婚生活を続ける意味はない。

 ただ、一番難しいのは、心の傷をどう手当てするかである。私はたまたま幸運なことに、お互いの傷をいたわり合えるパートナーに恵まれた。しかし、たった一人で悩んでいる人は数限りなくいるのが現実だ。

 今回、熟年離婚を取材し、執筆してつくづくと感じたのは、人生における熟年離婚という出来事を、絶望の側面からばかり見てはいけないということだった。

 たしかに、再起が難しいと思う人ほど落ち込んでいる人もいた、これで私の生涯が終わったのです、泣いた人もいた。

 その度に私は同じ言葉を口にした。

「英語でネバー・トゥ・レイトという表現があります。どんなことでも遅すぎるということはありません。再出発は必ず可能です」

 この言葉がどこまで有効かはわからないが、いわゆる熟年といわれる世代で、人生を諦めるのは早すぎるのである。

 おそらく、これからも熟年離婚は増えていくだろう。しかし、社会が熟年離婚をした人々を見る眼は確実に変わってゆくに違いない。なぜなら、熟年世代にも豊かな日々を生きる権利はあるのだから。

あとがき

 平成十九年から二十年にかけて、私は毎日のように熟年離婚についての資料を集め、取材を続けていた。

 はっきりいって、熟年離婚は明るいテーマではない。それを経験したほとんどの人は、できればもう、自分の過去に触れられたくないと思っていた。

 その心情をじゅうぶんに理解した上で、やはり話を聞かせてもらう作業は精神的にき、ずいぶんと重いものだった。

 本書で書いているように、私も熟年離婚の経験者である。だからこそ、その過程を振り返るのは、まるで自分の傷口を広げる行為に等しいと知っていた。

 しかし、その反面、人間の心の中には、密かに隠されている負の堆積(たいせき)を一気に吐き出してしまいたいという願望も存在するようだ。驚くほど詳しく、そして冷静に、それぞれの体験者が熟年離婚に至ったプロセスを語ってくれた。

 取材はときには三回から四回に及んだこともあったが、そうした背景にはテーマの本質とあまり関係ないと思い、説明を省いた。つまり、頂いた談話のエッセンスを取り出して、一回ずつの時間の流れの中に纏(まと)めたといってよい。その点については取材に応じてくださった方々や読者の皆様にご了解を頂きたいところである。

 しかし、それ以外の話の内容は、すべて事実である。

 本書の記述と重複してしまうかもしれないが、もう一度、ここで熟年離婚について私なりの定義を記しておきたい。

 まず、結婚して二十年以上たってから離婚したカップに限定した。年齢は四十代から六十代までの人々だったが、これは私が意識的に選んだわけではなく、結果として、そうなっただけである。

 原稿を書き始めた頃は正直いって、いったい何人くらいの人々が取材に応じてくれるのか、まったく見当がつかなかった。私は、熟年離婚の統計などというものには、あまり興味なかった。数字が増えているとしても、自分が直接に会って、インタビューができなかったら意味がないと思った。

 ところが、いざ、取材を始めてみると、まるで同時進行形のドラマのように、自分の周辺で熟年離婚する夫婦が現れた。これは予想外の展開だった。

 実は、この原稿を書き終わった後にも、「私も熟年離婚の体験者なんですよ」と言う人が数人いて、もっと取材を重ねたいと思ったほどだった。

「なぜだろう」という疑問は常に私の頭の片隅にあった。

 かつて熟年離婚とは、非常に特殊なケースだったはずだ。もう老年に差し掛かる寸前になって、静かな余生を楽しむ予定だった夫婦が、結婚生活に終止符を打ち、お互い全く違った人生を歩む決断をする。「今更どうして」という言葉が彼らの周囲には巻き起こったことだろう。

 つまり熟年離婚が、あまりポジティブには捉えられなかった時代が長い間、続いていた。それは当然だ。これからは歳をとる一方で、体力は衰え、経済的な基盤が脆弱になるのは明白だ。そんなときこそ、夫婦で穏やかな晩年を迎えるのが正しい老後の過ごし方だという既成概念が社会にはあった。

 それに、あえて反旗を翻して、熟年離婚を決行した夫婦の本音を私は知りたかった。また、今の時期になって、なぜ、これほど自分の知人や友人の間で熟年離婚が増えたのかも不思議だった。

 まず、考えられるのは、人間の寿命が毎年のように延びていることである。かつては人生六十年といったものが、現代では八十歳以上まで生きるのが当たり前になっている。すると、六十歳で定年を迎えても、まだ二十年以上の歳月を確実に生きるわけである。

 問題はこの二十年から三十年の時間にある。歳を取ったからといって、人間は急に何もかもに達観し、浮世のあらゆる欲望から自由になるわけではない。むしろ、自分の持ち時間が少なくなっていくことを悟っているからこそ、この世に執着する側面もある。だとすると、残りの人生を大切にしたいと願いを優先させる行動は、さほど不自然とはいえない。

 しかし、妻と夫がお互いに、同時に過去のしがらみを断ち切ると決断を下すなら、何の問題もないのだが、それが片方だけの強い主張だった場合は当然ながら摩擦を生む。

 私は男女間にあって、「捨てる」とか「捨てられる」という言葉を使うのが嫌いだ。人間は物ではない。別れるとい行為には、感情があり、理解が伴わなければならない。

 頭でわかっているのだが、されでも熟年離婚の取材には何度もこの「捨てる」と「捨てられる」という言葉を聞かされて、たじろぐような気持ちになった。

 こういってしまえば、身も蓋もない表現になるが、長い人生を共に歩んでいると、いつしか自分の伴侶が居間に置かれた家具と変わらぬ存在になってしまうのかもしれない。厳然として、いつもそこに置かれている物体である。その物体に突然に、足が生えて、逃げ出したら、誰でも狼狽するだろう。

 しかし、よく考えてみれば、妻も夫も物体ではない。生身の人間である。厄介なことに人間というものは常に変化を続けている。だから、そうすることに、昔はひどい困難が立ちふさがったのだが、現代では、事情がずいぶん違ってきている。

 熟年離婚を社会が認識する前に、現実の方が、どんどん先に進み、気がつけば熟年離婚は珍しい現象ではなくなってしまったのではないか。
 
 その結果。もう人々が熟年離婚に眉(まゆ)をひそめる時代ではなくなったといえる。むしろ一定の理解をもって社会に認められる行為にとなった。

 だからこそ、私の知人や友人たちは熟年離婚を決行した。そして、これからはさらにその数が増えていくだろう。

 ただし、熟年離婚につきまとういちばんの問題は、実は感情の処理でもなければ、世間の偏見でも、家族の反発でもなかった。

 すべての体験者が口にしたことは、経済的な問題だったのである。特に専業主婦だった女性の場合は、離婚したいけど、経済的な裏付けがなければできないという現実だ。

 しかも、現在の日本の不況にあえぎ、けっして楽観できる経済情勢ではない。なんのキャリアもない熟年の女性が自立して生きていゆくのは、かなり厳しいのが事実だ。

 それにもかかわらず、離婚という選択を自らの手で下した女性たちは、私が驚くほど逞しく、新たな生活の再建を始めていた。その生命力の強さと、英知に、私は何度も感動した。

 彼女たちの胸の奥底にあるのは、「これで女としての人生を終わらせてたまるものか」という叫びだった。理性では、現状維持で安泰な生活が一番だと理解していても、身体がそれを拒否するのだと語った女性がいた。

 なるほど、心と身体が激しく亀裂するのが、熟年の世代なのかと、私は、その言葉に納得した。

 女性が閉経したら、もはや女性ではないといった観念は、まったく通用しないことを、私は取材の途中で何度も思い知らされた。もう孫がいる年齢になっても女性は女性であり、良いパートナーに恵まれれば。もう一度、豊かなセックスライフを送りたいと願っている。

 男性もまた、熟年離婚をした後に新しい妻と再出発したいと、ほとんどの人が語っていた。また、これは私の思い込みがあるかもしれないが、熟年離婚をした女性たちは何らかの形でセックスに関して傷ついた過去を背負っているように見えた。

 夫とのセックスライフが充実していたら、離婚はなかったと語った経験者もいた。それは、一瞬にして起きる突風ではなくて、長い年月をかけて、少しずつ吹き付けていた北風により、ある日、彼女たちの心も身体も完全に冷え切ってしまっていたという結末がある。

 それが、夫や妻の婚外恋愛や、介護問題などによって顕在化(けんざいか)すのである。そのときに、もう我慢するのを止めるのは、自分の生命を維持するための決断とさえいえるようなきがした。

 だから、熟年離婚と性の問題は私が予想していたよりも、はるかに強く影響しあっていた。ときには、いわゆる「大人の判断」を乗り越えて、生命の叫びを優先させた結果の先に熟年離婚という選択があったといって良いだろう。

 最後に、私は熟年離婚を望みながらも、最終の段階で思いとどまった女性たちにも、何人か話を聞いた。それは原稿にはならなかったが、彼女たちの苦悩も根深いものだった。「離婚するよりも、しないほうが勇気がいるんですよ」と語った五十代の女性の言葉は今でも忘れられない。

 取材に応じてくださった人々は、五十人を超えていた。その中からご本人の了解を得て、私が特に興味深いと判断したケースを紹介させてもらった。しかし、すべての人たちの体験談が私にとっては新鮮であり、生きることへの大切さを実感させてくれた。
 「婦人公論」出版 平成二十一年五月 工藤美代子
本表紙 沖藤 典子著