
工藤美代子 著
次々キャリアアップした妻のおだやかでない心境
熟年離婚をしたことを、ひどく後悔している女性がいるのだが、会ってみないかと知人から連絡があった。
考えてみれば、今まで熟年離婚をした男女をずいぶんたくさん取材したが、あまり後悔をしている様子の人はいなかった。相手に対して今でも心底怒っている女性はいた。悲しんでいる人もいた。しかし、後悔となると話は別だった。
若い頃と違って、熟年になってからの離婚は、その場の勢いで決めてしまうことはない。みんなじっくり考えて決断する。それが大人の常識だ。
しかし、なかには自分の判断が間違っていたと悔やむケースもあって当然だ。私は知人に頼んで、その女性、原口憲子さんを紹介してもらった。
彼女は現在、五十四歳で、都内に在住のキャリアウーマンだ。いかにも職場でも有能そうな感じなの、てきぱきとした話し方をする。それだけに離婚を後悔しているというのは、ちょっと意外な印象を与える。
そもそもなぜ、離婚に踏み切ったのか、そこから話を始めてもらった。
ちょうど二年前の一月に、彼女は離婚届を夫の徹さんの眼前に突きつけ、有無をいわせず、強引に判を押させた。
「でもねえ、工藤さん、私がぶっち切れたのは、それだけ訳があったんですよ。ただやみくもに離婚を決めたんじゃないんです。もちろん私の我儘や気まぐれなんかじゃありません」
憲子さんが栗色に染めたショートカットの前髪をかき上げた。指には大粒のダイヤが光っている・マックスマーラのスーツも彼女の身体にぴったりとフィットしていた。ほんとうに、どこから見ても都会的な女性だ。
それまで夫婦の仲は円満だった。彼女は大学を卒業する同時にある企業に就職し、そこで同僚だった徹さんと結婚した。二十六歳のときだった。徹さんは三十一歳だった。
結婚を機に会社を辞めることも考えたが、上司から強く引き留められた。それだけ憲子さんが優秀だったということだろう。
しかし、夫婦で同じ会社にいるのは、何とも居心地が悪かったので、三年後には職種は変わらないが別の会社に、憲子さんが移った。彼女との約束で会社の名前は書けないが、世間ではよく知られている大企業だった。
子供が一人生まれた。女の子だった。夫は娘を溺愛し、夫婦の関心はもっぱら娘の亜美ちゃんに向けられた。憲子さんが働きながら子育てをするのも、徹さんの協力があったのでなんとか乗り切れられた。
亜美ちゃんが幼い頃には、保育園の送り迎えから入浴の世話まで、徹さんは実に小まめに世話を焼いてくれた。家事もほとんど公平に半分ずつ分担した。亜美ちゃんの保護者会には、徹さんが会社を休んでも出席してくれた。
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その娘も今はもう二十三歳になっている。
夫婦生活は憲子さんが四十九歳のときに閉経して以来なんとなく疎遠になった。それまでも一ヶ月に一回くらいの間隔だったので、なくなったのも自然消滅といった感じだった。
もともと、二人ともがセックスには淡白だった。はっきりいって、仕事が優先した。時間に不規則な職場だったので、子育てと、仕事を両立させるだけで精一杯で、セックスにのめり込むエネルギーが残っていなかったのだと憲子さんは説明する。そして、そのことを憲子さんは別に不満にも感じなかった。むしろ夫がセックスに執着しない男でよかったとさえ思った。
徹さんは、自分が期待したほど、会社では仕事が評価されないのが不満なようだった。根が真面目な性格なので、仕事を手抜きするということはなかったが、なぜ社長に嫌われて、同期が次々と役員になるなかで、彼だけが部長代理のままで五十代も後半となってしまった。このまま定年を迎えるのだろうかという焦りが徹さんの胸中に会ったに違いない。
一方、憲子さんは女性だったが、早々と五十歳で執行役員になってしまった。彼女の立てた企画がヒットして、それで会社でも評判になった。しかも、さばさばして性格なので上司からの受けもよかった。
徹さんと同じ会社に勤めていないで本当に助かったと憲子さんは思った。もし夫が自分の部下などという事態になったら最悪だった。
朝起きると、ベットの傍らにけばけばしい厚化粧の”女”が
憲子さんが閉経したのと、会社で役員になったのとは、ほぼ同じ時期だった。今、考えると、この頃から徹さんに微かな変化が表れていたと憲子さんは回想する。
「いってみれば、妻の勘みたいなものね。どこでどうと言うのではないけれど、ちょっと変なの。食事中にぼんやりしていて、会話が途切れたり、一週間に一度くらい帰りが極端に遅くなって、ちょっと今までとは違っていたのよ。携帯を覗いて妙にそわそわする素振りのときもあったわね」
ただ、徹さんに女ができたとは思わなかった。彼がいかに家族を愛してくれているかは、日常の言葉の端々からも感じ取っていた。
事件が起きたのは三年前のクリスマスの夜だった。まだ亜美ちゃんが小さい頃は一家揃ってクリスマスを祝った。ケーキにキンドル、そしてプレゼントと、どこの家庭にもみられる光景が繰り広げられたが、亜美ちゃんが大学に入ってからは、もう友達と一緒にクリスマスを過ごすようになり、一家にとっても特別な日ではなくなった。
憲子さんも、その日は大学時代の女友だちと銀座で食事をして、夜の十時頃に自宅に戻った。徹さんは同僚たちと飲み会に行くといっていたので、さっさと一人で風呂に入り、化粧を落としてベットに横になった。亜美ちゃんは、友達とスキー旅行に出かけていた。
徹さんが何時に帰って来たのか、憲子さんは知らなかった。ぐっすり寝込んでいたのである。
そして翌朝、いつものように七時頃に目が覚めた憲子さんは、ふとダブルベッドの上で、自分の横に寝ているはずの夫を見やった。
そして、思わず息をのんだ。傍らにいるのは、スパンコールのついた真赤のロングドレスを着て、厚化粧をした一人の男だった。金髪のカツラがずれて半分は髪の毛が見えていた。
猛烈ないびきをかきながら、その男は眠りこけていた。
「すごく汚らしい物体が自分の夫だってわかるのに、十分くらいかかったんじゃない。だって、初めは何が何だか全然、見当もつかなかったですもの」
憲子さんは、そのときの衝撃を語る。
夫の徹さんは、厚くファンデーションを塗り、くっきりと口紅を引き、マスカラを塗ったまつ毛を閉じて、グワォー、グワォーと凄い音の鼾(いびき)を響かせている。ドレスの裾がまくれ上がり、ストッキングをはいた足が大の字になって放り出されていた。
「あの人は身長が一七八センチもあって、男としては大きい方だったから、もうまるで、巨大な女が転がっているように見えたわ。私は気持ちが悪くて胸がきゅーっと締め付けられるような発作に襲われたの」
はっとして玄関に行ってみると、これまで見たことのないような大きさの、赤いエナメルのハィヒールが、横倒しになって散らばっていた。
今でも、その朝を思い出すのは不快だと憲子さんはいう、あの光景を頭に思い浮かべただけで吐き気がするそうだ。
「とにかく、主人を揺すって目を覚まさせようとしのだけど、なかなか起きてくれなくてね。よっぽど深酒をしたんでしょう。ちょっとやそっと揺すったぐらいじゃ、まったく気がつかないの。
頭にきて最後は思い切り、頬にビンタを喰らわせてやったら、ようやく目を覚ましたのね。それから、びっくりしたようにキョロキョロ周りを見回して、私の顔を見たときは。もう凍りついていたわ。自分がどういう状況にいるか、ようやくわかったんじゃない?」
そう、徹さんは女装して酔っ払い、そのまま帰宅して眠りこけてしまったのである。彼に女装癖があることを、この朝まで憲子さんはまったく知らなかった。
その後の修羅場については、憲子さんは語りたくないと口をつぐんだ。しかし、夫を問い詰めて、判明したいくつかの事実を教えてくれた。
「主人が女装したいのは、私がブスだからなの?」
徹さんの言葉によると、かれはホモセクシャルでかない。誓って、男性と性交をした経験はない。ただ、女装をしたいという。どうにも抑えがたい願望が若い頃からあり、それが最近二年ほど間に極端に強くなった。
やがて、同じような嗜好を持つ人たちが集まるクラブがあることを知って、週に一回くらい参加するようになった。
この日はたまたまクリスマスのパーティーがあり、みんなが張り切って着飾った。衣装はクラブで用意されていて、レンタルで間に合うのだそうだ。
通常はそのクラブで着替えをして、のんだりするらしい。もっとも憲子さんは、さらに何かいかがわしい行為があったのではないかと疑っていたが、徹さんは、それを頑強に否定した。本当にただ女装を楽しむだけのクラブだと主張して譲らなかった。
しかし、憲子さんにいわせると、ああいう人たちは自分が女装した姿を誰かに見せたいはずだから、きっと盛り場などを出歩いていたに違いない。あるいは、自分が女としてどう値踏みされるかに興味を持っていたはずという。
いずれにせよ、普段なら細心の注意を払って、着替えをし、化粧を落としてから帰宅するところだが、この夜はレストランを借り切ってみんなで酒を飲みダンスをして騒いだため、すっかり酔ってしまった。
そして、あろことか、徹さんは自分が女装していることを忘れて、そのまま夜中の三時ごろに家に帰ったのである。酔いつぶれているから、ただ、這うようにしてベッドまでたどり着き、布団に潜り込んで寝てしまった。
つまり、妻には一番知られたくない秘密がばれたわけである。
「主人はねえ、その翌日の夜、私の前で床に手をついて謝って、もう二度とあんな馬鹿な真似はしないから、どうか許してくれて、泣きながら、かきくどいたの。でも、私にはどうしても許す気になれなかった。
変な話だけど、主人が女装したのは、私がブスだからなの? って思ったの。ねえ、工藤さん、私ってそんなブスかしら?」
憲子さんの話のいきなり飛躍に私はたじろいだ。慌てて「そんなことはありません。とっても素敵です」と答えた。本当に、憲子さんは、特別に醜い女性ではないし、それになにより、徹さんの女装癖と憲子さんの容姿はなんの関係もないはずだと私は思った。
しかし、憲子さんの受け止め方は違った。自分の伴侶が不美人なので、夫はきれいな女性に憧れた。その思いが昂じて、ついには自分が美女に変身する夢を見たのではないか。妻に対するこれ以上の侮辱はない。
離婚後に病死した夫に「ごめんなさい」と涙して
とにかく、憲子さんは離婚をしなければ、自分の気持ちが収まらなかった。正月明けに区役所から離婚届をもらってきた。
娘の亜美ちゃんは両親の突然の離婚騒動に驚いて、何度もその理由を憲子さんに尋ねたが、「彼女はパパに聞いてごらんなさい」としかいわなかった。もちろん、徹さんが真相を語るはずもなかった。
顔を見るのも不快だった憲子さんは、身の回りの品だけ持って実家に帰った。そして徹さんも観念したのか、あるいは女装癖が世間に知られるとまずいと思ったのか、諦めて離婚届に判を押した。それが一月の二十日過ぎのことだった。
財産はきっちりと半分ずつにした。憲子さんのほうが収入が多く、しかも定年までの年月も長いので、非は徹さんにあるのだが、経済的な配慮はてあげようと思ったそうだ。それに、夫婦の財産はいずれは一人娘の亜美ちゃんのものになるのだから、かまわないと憲子さん考えた。
ところが、なんとそれから、わずか三ヶ月後で、徹さんは腎臓がんを発病し、半年後には帰らぬ人になってしまった。
「主人が亡くなったとき、亜美と二人で病院に駆けつけて、もう冷たくなった手を握って、『あなた、ごめんなさい』っていいましたよ。あの人は自分が殺したようなものかもしれません。許してやれなくても、近所に別居するとか、なんとかしていたら、病気にならなかったでしょう。
人生を切り抜けられたかもしれない。私があまりにも頑なので、あの人は精神的に追い詰められて、きっと彼の肉体が敏感にそれを察知して、参いちゃったのね」
そういって、憲子さんは涙をぬぐった。苦い後悔の涙だ。しかし、同じ女として、私は夫を許せなかった憲子さんの心情もよく理解できたので、なんとも返答のしようがなく、ただ割り切れない悲しみだけが胸の底に残ったのだった。
異常なセックスしか知らなかった二十一年の悔恨
「とても文字に書けないので一度会って話したい」
見知らぬ女性から手紙をもらったのは昨年の夏だった。封筒の裏には木村房子という名前が記されていた。
その名前に心当たりがないまま開封してみると。私が以前、ある講演会で名古屋へ出かけたときに、彼女が主催者の一員であり。名刺を交換したのだが、「もう工藤さんは私のことなど忘れでしょう」と書いてあった。
正直なところ、講演に行くとたくさんの人と挨拶するので、なかなかすべての名前を記憶できない。房子さんのことも、どんな顔の人だったか憶えていなかった。
さて、手紙の内容は、とにかく一度会って、自分の悩みを聞いてくれないかというものだった。つい最近、四十七歳で熟年離婚したのだが、どうしても解決できない問題を抱えている。
しかし、それはとても文字にして書けるような種類のものではないので、直接会って話したいというのである。
その真剣な執致には、切羽詰まったような調子があった。よほど悩んだ末に手紙をくれたのが紙背からじんじん伝わってきた。
私はすぐに返事を書き、彼女が東京へ来る用事があるという日に渋谷のエクセルホテル東急出会うことになった。
静かな場所で二人だけでゆっくり話したいという希望だったので、エクセルホテルの一室を取って。向かい合って座った。
房子さんは健康そうな小麦色の肌をした女性で、明るいピンク色のパンツスーツが活動的な印象を与えた。
挨拶もそこそこにして、彼女は六月に離婚した経緯を話し始めた。
理由はたった一つだった。夫が嫌いだったからだ。もう最後の二年間は、夫の顔を見るのも嫌だった。ふとした拍子に手が触れたりすると、嫌悪感で背筋がぞっとした。
二人の間に子供はいなかった。彼女は、ずっと夫の経営する会社の経理を担当してきた。職種は書けないが、従業員が八人ほどいる会社だった。
世間体を気にする上に、会社の経理に明るい房子さん手放したくないという思いもあって、夫は離婚の提案に強硬に抵抗した。
房子さんの両親は他界しているため、彼女は帰れる実家もない。我慢も限界に達したある日、夫の留守の間に荷物をまとめて家を出た。高校時代からの親友の女性のマンションの近くにアパートを借りておいて、そこで生活を始めた。
ようやく離婚が成立したのは別居して半年後だった。予想より早く相手が判を押したのは、有能な弁護士が間に立ってくれたからだという。こうした問題を扱いなれている弁護士が、上手に説得してくれた。
結婚したのが二十六歳のときだったから、二十一年間の結婚生活だが、そのうち半年は別居だった。しかし、彼女に言わせれば十年以上は家庭内別居の状態だったそうだ。
クリトリスと乳首に固執する夫の異常な性癖
初めから夫に対して深い愛情は持てなかった。それなのになぜ結婚したのかといえば、二歳年下の妹が妊娠して、大慌てで結婚したからだ。いわゆる、できちゃった婚である。
そのことで房子さんの心境にも変化があり、自分も早く身を固めなければという焦りを感じた。男友達は何人いたが、恋愛までは発展しなかった。
「結局、叔母が持ってきた見合いの話で、主人と結婚しちゃったんです。自営業の家で経済的にも余裕があり、しかも三男というところが気に入ったのかな。私より九歳上の三十五歳でした」
結婚前に夫の正人さいがしつこく尋ねたのは、彼女の男性経験があるかどうかだった。まだ処女だった房子さんは、きっぱりと「ありません」と答えると正人さんは嬉しそうな顔をした。
「その意味を深く考えるほど、こっちも大人じゃなかったのよね。かえって、自分が純潔であることが誇らしいと思っちゃったの。馬鹿だったのよ。あの男の本性なんて、とても見抜けなかったわ」
「ご主人の本性っておっしゃいますと?」
私は房子さんの苦々しい口調が気になった。彼女の内部には今でも燃え盛る怒りの炎があるのが感じ取れた。
「そうね、あの人は他人の眼から見たら普通の人よ。普通よりちょっといいかもしれないわ。仕事も熱心だし、礼儀正しくて温厚。外見も悪くない。中の上といったところかな。でもねえ、すごく特殊な性癖があったの」
そういってから房子さんは五分ほど沈黙していた。なぜか周囲をきょろきょろと見回して、私にもっと近くに来てくれと手招きした。
私は座っていた椅子を引き摺って彼女のすぐ近くにいった。顔がくっつきそうな距離だ。
「工藤さん、こんな話を信じます? 女はセックスのときにクリトリスでいく女と膣でいく女と二種類に分けられるっていう説」
「はあ?」
私は思わず間抜けな声を出してしまった。そんな珍説は聞いたことがなかった。たしかにクリトリスがすごく敏感で、恋人に愛撫されたらクリトリスだけでも絶頂感を感じると語っていた友人がいた。
それは私がまだ二十代のときに聞いた話だ。へえーそんなことがあるのかと感嘆したが、もちろん、その友人だって、最後はちゃんとペニスを挿入するセックスで終わるといっていた。
だから、少々変な言い方かもしれないが、クリトリスと膣を同格に論じているのは、ちょっと無理があるように思える。だって、クリトリスとはあくまでも性感帯の一部であり、そこを通過して最終的に膣の辿り着くのが普通のセックスの手順ではなかろうか。
「そんな話は初めて聞きました」と答えると、房子さんは満足そうに頷いた。
「ねえ、そうでしょ。でもあの男は結婚して初めての夜を迎えたときから、みょうちきりんなことを口走ったの。女は二種類いるんだっていう持論を喋って、『俺はお前がクリトリスで行ける女にしてやるからな』っていうの。
こっちは何しろ男に触られるのも初めてなんだから、緊張しパなしで、何を相手がやるはさっぱりわかんないのよ。
あたしがもっと男性経験が豊富だったら、アホなことをというなって怒鳴って、さっさとその晩のうちに実家に帰ったかもしれないけど、やっぱり初心(うぶ)だったから、騙されたのね」
房子さんは、半分笑いながらも眼は真剣に怒っていた。
「工藤さん、あなたなんかとても信じられないと思うわよ。あの男がどんなセックスをしたか。とにかく異常だと思うわね。クリトリスと乳首にものすごい執着があるの。新婚の頃なんて食事中でも、あたしの乳首をずっといじっていたのよ。あんまりしつこく触るから、乳首が腫れあがって、それが傷になって瘡蓋ができたこともあったくらい。
ああ、いやだ。思い出すのもいやだわ」
爪楊枝に針――エスカレートする行為に絶望して
房子さんが激しく頭を振った。眼を瞑ったままで、少しずつ彼女が語った内容を要約すると次のようになる。
新婚初夜から、まともなセックスはなかった。夫は彼女の乳首を長時間吸って、それからクリトリスを指で摘まんで、擦る。痛いというと自分の唾液をつけた。
わざわざ枕元のスタンドを手で持って、彼女の性器を照らし出して、クリトリスばかりを剥き出しにして、刺激を続けて。
房子さんは狼狽した。二十六歳にもなっていたので、セックスがどのような営みであるか頭では承知していた。しかし、夫となったばかりの人の行動は彼女の理解の範疇を超えていたのだ。
いつまで経っても正人はペニスを挿入しようとはしなかった。ただ、執拗にクリトリスだけを触り続けた。
たまりかねた房子さんが泣き出すと、さすがに正人さんは行為を止めた。
驚いたような顔で房子さんを見て、「おかしいな。俺の勘が間違っていたのかな。いや、そんなはずはない。まあ心配するな、おまえも、すぐに、これをやってくれって自分からねだるようになる」。
自信たっぷりにそういって、房子さんの肩を抱いた。
翌日も同じことが繰り返された。違ったのは前夜より優しく触れるようになっただけだ。それから房子さんの耳元で「房子愛しているよ。おまえは俺のものだよ」と囁いた。
彼女も最初の夜よりは、少し緊張が解けていた。夫の指先を気持ち良いと感じるこころが芽生えていた。そのために房子さんが潤うと正人さんが嬉しそうに「これでいいんだ、これでいいんだ」と呪文のようにいい続けた。
快感がなかったと言えば嘘になる。房子さんも身体の芯がかっと熱くなるように感じた。しかし、正人さんの愛撫はいつも乳首とクリトリスだけで終わってしまう。絶対に自分のペニスを挿入しようとしない。
不思議だった。これがセックスなのだろうか。房子さんは考え込んだ。
結婚して一ヶ月ほど経った頃だった。初めて房子さんは、行為中の最中にそっと薄目を開けて正人さんを見た。
右手で房子さんのクリトリスを触りながら、正人さんは左手で自分のペニスをせわしなくしごいていた。そして、最後に痛いほど房子さんのクリトリスを掴み上げながら「房子いくぞ、ほらいくぞ」と叫んだ。
正人さんが射精したのが房子さんにもはっきりとわかった。それまでは「いくぞ」と言われても何が何かわからず、ただ行為が終わるサインだと思っていた。
それだけ房子さんは性に関しては未成熟で、絶頂感なども感じたこともなく、「いく」という意味もわからなかったのである。
拍子抜けした思いに襲われた。どうしてちゃんとしたセックスをしてくれないのだろうという不満も感じた。
だが、女性の方から、それを求めるのははしたないと思って何も言わなかった。
そんな状態がずっと続いて、正人さんの行動はさらにエスカレートしていった。
房子さんのクリトリスを爪楊枝の先でつつき始めたのである。彼女は快感どころか痛みしか感じなかった。
それでも正人さんは夢中で腫れあがったクリトリスをつつく。ああ、この人は異常だと房子さんは絶望的になった。
その晩、正人さんは「実はな、今度は針の先でおまえのをつついてやろうと思ってんだがどうだ? いいだろう。興奮するぞ。もっとやってくれってせがむようになるぞ」。
そういって嬉しそうに房子さんの肩を何度も強く抱きしめた。
ぞっとしたのは房子さんだった。彼女はマゾヒストではないし、そもそも正人さんとの常軌を逸したセックスに疲れていた。結婚して五年くらいは一週間に三回くらい求めてくることも珍しくなかった。
性の不一致に傷つき、いま渇望するものは
さすがに房子さんもはっきりと言った。あんまり変態みたいだから、止めてくださいと。それが彼女なりの精一杯の抗議だった。
みるみる正人さんは不機嫌になり、その晩から口も利かなくなった。三日ほどして、何もなかったように房子さんを求めて手を伸ばしてきたが、彼女はきっぱりと拒否した。
初めのことだった。正人さんは「ただ、触だけならいいだろ」と食い下がり。房子さんもつい懇願にまけてしまう。そんな日々がさらに五年近く続いたところで、つくづく嫌になり寝室を別にして、一切肉体的な接触のない生活が始まった。当然、夫婦の間はとげとげしくなり、喧嘩が絶えなかった。
性の不一致が離婚になる典型的な例だったかもしれない。幸い房子さんは経理関係の仕事を担当していたので、離婚しても、仕事を見つけられる自信があった。また、夫には内緒でためたお金が一千万円近くあった。熟年離婚に踏み切るには、なんの躊躇もなかったという。
「ただね、工藤さん、あたしは悔しいのよ。このまま女の悦びを知らないで人生を終わっとしまうのが。といって、これから男を見つける気にもなれないの。その男がどんな性癖を持っているかって考えると心配で、とてもセックスをする勇気がないのよね。
だから、工藤さんにお会いしてお聞きしたかったのは、恥ずかしいのだけど、女の人が自分を自分で満足させる道具があるじゃない。あれをどうしても欲しくの。
こんなことは初めていうのだけど、あそこが疼くのよ。入れたいのよ。前の主人が異常性欲者だったために、あたしは中でちゃんと感じたが一度もないないんですもの。
ねえ、教えて。あれどこで手に入るのか。工藤さんなら知っているでしょ。男はもういいの。バイブレーターが欲しいのよ」
房子さん詰め寄られて、私は困惑してしまった。性の専門家ではないので、そういったものが、どこで売られているのかまるで知識がなかった。しかし房子さんの真剣な願いを簡単には無視できなかった。
「わかりました。どうしたら、女性の道具が手に入るか、調べて必ず報告します」と答えて、この日は彼女と別れた。とにかく、あらゆるコネを総動員しても、そうしたグッズがどこで買えるのか、調べてみる必要があると思っていた。
つづく
第十二章
女性の人気のアダルトグッズ事情に迫る