二人目の子供ができたと同時に、ぱったりと夫婦生活がなくなった。

第十章 まさか三十年連れ添った夫がホモセクシャルだったとは

本表紙 工藤美代子 著

離婚の”後遺症”は激ヤセとリストカット

 友恵さんが離婚したのは三年前ほど前である。私の知人の知人が、彼女の親友だった。

「熟年離婚なさってから、体調を崩されて入院した人がいるの。ほんとうにすごい苦労をしたみたいよ」と知人から聞かされていた。ぜひお話を伺いたいと取材を申し込んだのは昨年の春だった。しかし、友恵さんの体調はなかなか回復しなかった。

ようやく先月になって、「お会いしてもいいっておしゃっているけど」と、仲介に立ってくれた人から連絡があった。

 現在は葛飾に住む弟夫婦のところに身を寄せているという友恵さんと、都内のホテルのラウンジで会った。

 友恵さんは?せていた。もともと?せた人だったのかもしれないが、とにかく一メートル六十センチくらいの身長に四十キロほどしか体重がなさそうだった。後から聞いたところ、やはり離婚の”後遺症”で十三キロも痩せてしまったのだという。

「ねえ、工藤さん、浦島太郎って、どうして乙姫様から貰った箱を開けてしまったのかしら。あの人、間抜けよねえ。開けなければ、また竜宮城へ帰れたわけでしょ。ほんとに人間って間抜けだと思いません?」

 いきなり切り出されて面食らった。機転の利かない私はこういうとき、いつも曖昧に笑っているだけなのが、自分でも情けない。気の利いた返事ができないのだ。

「でもね、どんなに間抜けでも、やっぱり箱を開けちゃうのが人間の本質なんですね」

 独り言のようにつぶやくと、友恵さんき、静かにコーヒーの中に砂糖を入れた。その腕は痛々しいほど細い。そして、手首のところに傷跡が見えた。私は見ていけないものを見てしまったようで、はっと眼をそらした。彼女はリストカットの経験者なのだろうか。

「結婚したのは私が二十四歳のときですから、今からちょうど三十年前ですね。仲の良い従姉がいて、彼女の職場の同僚が前の主人だったのです。半分は恋愛みたいなものでした。いえ、少なくとも私の方は、そう思っていたんです」

 夫の秀雄さんは、友恵さんより三歳年長だった。二十四歳と二十七歳のカップルは理想的な組み合わせに見えた。友恵さんの父親はサラリーマンで、秀雄さんの父親も鉄道関係の会社に勤務していた。母親は両方ともに専業主婦だし。なにより、お互いの実家は質実で、堅い暮らしをしていたので、価値観もぴったり一致した。

「それまでは男性経験ですか? ええ、実はありました。友達のお兄さんと付き合っていたんです。でも、彼の家は実業家で、すごく裕福でした。だから、彼の実家で結婚には大反対されて、

釣り合いが取れないと思ったのでしょう。彼も親の意向に逆らってまで結婚を強行するような男じゃなかったんです。

 私は、がっかりしました。どうして駆け落ちしてでも一緒になろうと言ってくれないんだろうと、すごく恨みました。

 あのね、工藤さん、私って男を見る眼がないんですよ。ほんとうに、よくわからないんです。その最初の恋人だって、今考えると、私のことがどれほど好きだったのか、怪しいものです。

ただセックスがしたいだけだったのかもしれません。そういうのを見抜くのって。すごく難しいと思いません?」
 友恵さんに訊かれて、私はまた返事に詰まった。

女性のように華奢(きゃしゃ)な彼に”一目惚れ”されて結婚

 実のところ、男の本性を見抜くということにかけては、私もまったく自信がないのだ。とんでもない男に引っかかって、ずいぶん時間とエネルギーを無駄にした経験がたくさんある。

後から考えると、なんで、あんなくだらない男に誠実さを求めたのかわからないのだ。冷静に考えれば無責任な男だとすぐにわかるはずなのに、恋に陥っているときは、それが見えないのだ。

 だから、今の主人は宝くじに当たったようなものだといえる。たまたま人生の最終ランドで、まともな男と出逢えた。しかし、これは多分に偶然の要素が加わっている。もしも主人と巡り会わなかったら、相変わらずつまらない男に足を取られていたかもしれない。

「ほんとにね、男に関しては、謎だらけで、私も相手を見抜く自信はありません」
 そう答えると、友恵さんは嬉しそうに言葉をつづけた。

「でしょう。そうなんです。よく身の上相談なんかで自信たっぷりにああしなさいとか、こうしなさいとか答えている先生がいるじゃないですか。私はいつも思うんです。

あなたは、どうして他人のことがわかるって確信しているのですかって。男というものは‥‥なんて講釈を垂れているのを聞くと腹立たしくなりますよね」

「ええ。男って女にとっては永遠の謎です。わからなくて当然ですよ」
 私の言葉に友恵さんは安心したようだった。ふたたび結婚前の話を始めた。

「つまりは私はふられたんです。それで自信喪失してるところら秀雄さんが現れたわけです。溺れる者は藁(わら)をも?(つか)むっていいますけど、あの人って藁だったんですよ。私は、とにかく掴める何かが欲しかったんですね。

 だから、今になると秀雄さんだけを責めようとは思いません。私たちって二人とも藁だったのかなあなんて考えるのです。秀雄さんは長男でしかも一人っ子でした。

両親が歳を取ってからできた子供だったので、すごく可愛がられて育って、早く結婚して家の跡継ぎを作らなければっていうプレッシャーが強烈にあったらしい。

 初めて会った日にプロポーズされました。私は相手が自分に一目惚れをしてくれたと思い込んだんです。だってそうでしょ。食事をして家まで送ってくれて、別れる間際に『真剣に結婚を考えてください』っていわれたら、誰だってそう思いますよね」

 秀雄さんはハンサムで長身だった。ただ、一緒に食事をしているときに彼の手が女性のように華奢なのが、友恵さんは、ちょっと気になった。長い白い指を動かす動作が妙に艶(なま)めかしく見えた。

 見合いから半年後に二人は結納を交わし、その五ヶ月後に挙式をした。
 婚前交渉は結納後だった。お互いの両家も認め合った仲なのだからということで、秀雄さんの会社の出張のとき、友恵さんが後から行って旅先で合流した。場所は京都だった。

「普通だったんですよ。ほんとうに、ごく普通のあれでした。変なところはどこもなくって私は愛されているんだと思いました」

 二人は秋の京都で静かな時を楽しんだ。秀雄さんは避妊具を使おとはしなかった。子供ができたってかまわない。どうせすぐに結婚するんだからといって、悠然としていた。

 そんなところにも友恵さんには頼もしく感じられた。実際、間もなく彼女は妊娠した。結婚式のときは妊娠三ヶ月だった。まだお腹も目立たなかった。やがて、少し早く子供が生まれたが驚く人もいなかった。

 夫婦生活がなくなった本当の理由に気づかず

 最初の赤ちゃんは女の子だった。秀雄さんの両親は落胆の色を隠さなかった。しかし、友恵さんは心配していなかった。また産めばいいだけのことだ。自分は若いし健康だ。なにより夫は自分を愛してくれている「

「たしかに、今にして思うとセックスは淡白でした。時間は短かったです。ただ、とても優しかったですね。そっと愛撫して、そっとあれを入れて、すぐに果ててしまいました。しつこくないのが、なんだか、おじさんのセックスみたいだなあと内心は思っていました。別におじさんのセックスを知っていたわけじゃないんですけどね」

 といって、くすりと友恵さんが笑った。笑うと可愛い表情になる。もしかしたら彼女は根は明るい人なのかもしれないと私は感じた。

 翌年、二人目の子供を授かった。今度は男の子だった。秀雄さんは、びっくりするほど喜んで、感激に眼を潤ませていた。その意味が当時の友恵さんにはわからなかった。単純に我が子の誕生に感動しているのだろうと思った。そこには、もっと深い意味があると知ったのは、長男が生まれてから二十五年も経ってからだった。

 二人目の子供ができたと同時に、ぱったりと夫婦生活がなくなった。秀雄さんが求めてこなくなったのである。

「私はすごく悩みました。あらゆる原因を頭の中で考えてみたんです。
もしかして子供を産んで、私の容姿がすごく衰えて、彼が抱く気にもならないんじゃないかとか、ほかに女がいるのだろうかとか、

何か会社で悩みがあって不能になったのではないかとか、本当にあれこれとかんがえてみても、どうもぴったりこないんです。

 主人の会社での出世も順調だした。同期では一番早く課長になれましたし、毎日決まった時間に帰って来ますから、女ができたようには見えません。だから原因が思い当たらなかったんです」

 そこで友恵さんにはある晩、思い切って秀雄さんのベッドに入っていった。二人はツインのベッドに寝ていたからだ。すると夫は友恵さんの肩に手をまわして、「ごめん。俺、本音をいうと、どうしてもその気になれないんだ。だってお前は麻衣や洋介のお母さんだろう。なんか、そう思うとダメになっちゃうんだよね」と落ち着いた口調でいった。

 そうかと友恵さんは、なんとなく納得してしまった。麻衣と洋介というのは二人の子供の名前だった。

「それから何事もなく過ぎていきました。どこにでもある平凡な家庭でした。主人は子煩悩で、すごくいいパパだったし、主人の両親と同居すると私が気を遣うだろうと遠慮して、最後まで自分たちだけで暮らしていました。よくできた親御さんだったと思います」

 そんな家庭に異変が起きたのは友恵さんが四十八歳くらいのときだったという。急に夫の帰宅時間が遅くなり出した。秀雄さんは営業担当の役員になっていた。

そのため仕事が忙しくなったんだろうと思っていました。「今日も接待だから」といって朝、秀雄さんが家を出ると、帰りはいつも午前様だった。

 そんな日々が一年ほど続いたところで、さすがに友恵さんもおかしいと気付いた。急用があって秀雄さんに連絡を取ろうとしても、会社にもいない、携帯を切っているということが何度かあった。

 さらには日曜日まで理由をつけて外出するようになった。これは愛人ができたに違いないと思った。

「そこで私がデンと構えていればよかったのかもしれません。そして主人が家庭に戻ってくる日を待つべきだったのかもしれません。私にはできませんでした」

 「相手が男だとは夢にも思いませんでした」

 友恵さんは調査会社を訪れて、夫の素行を調べるように依頼したのである。三週間ほどで、調査結果が報告された。

 さすがに調査会社の人も真実を友恵さんに告げるのに口ごもったという。彼女が目にしたのは、あまりにも衝撃的な内容のレポートだった。

 秀雄さんは都内に若い男性とアパートを借りていた。そこを毎晩のように訪れていた。二人がホモセクシャルの関係にあるのは間違いないとのことだった。

 相手の男性は同性愛の人たちが集まるスナックで働いているのだが、部屋代や食事代は秀雄さんが負担しているようだった。

「工藤さん、私は自分の生涯であれだけ狼狽したことはありませんでした。女がいるという調査結果が出るかもしれないという覚悟はできていました。それなら、女と別れさせるつもりでした。でも相手が男だとは夢にも思っていませんでした。

ただ、主人がホモであるならば、すべてのことが、辻褄(つじつま)が合うのです。主人は世間体のために結婚したのでしょう。そして子供だけは作らなければならなかったのです。

それは彼が両親から課せられた義務だったんですね。だから、結婚相手は誰でもよかったんですよ。私じゃなくても、おとなしくてセックスを要求してこない女なら、だれでもかまわなかった。

 私の生涯は何だったのかと考えたら、怒るよりも情けなくて、ただ呆然として涙も出ませんでした。

 といって、主人を問い詰めても、もっと自分が惨めになるだけです。もう気づいていらっしゃるかもしれませんが、私、自殺をしようとしたんです。手首を切りましたが死に切れませんでした。

 主人の机の上に調査会社の報告書を黙って置いておきました。離婚届の紙と一緒に」
 秀雄さんは翌日、離婚届にサインして書類を返してよこした。夫婦の貯蓄である二千八百万円をすべて友恵さんに渡すことにも同意した。最後に彼が妻にいった。

「お前が調査会社なんか使わなかったら、すべてはうまくいっていた。人間、ときには知らなくてもいいこともあるんだ」

 しかし、友恵さんは知ってしまった以上、ほかに女としての選択はなかった。悩んだ末、二人の子供たちには離婚の真相を告げないことにした。子供たちがあまりに不憫だと思ったからだという。

どんな夫婦にも必ずブラックボックスがある

別れたばかりの二人の言い分を同時に訊いてみれば

 友人が響子さんを紹介してくれたのは、彼女が、つい最近、熟年離婚をしたためだが、実は偶然のことから、私は響子さんの前の夫の川村さんのことを知っていた。というか、響子さんとは面識がなくて、川村さんとは過去に何度か食事をする機会があったのである。

 したがって、二人の離婚に関しては夫と妻の両方から話を聞くことができた。これは、まことに稀有(けう)な例だった。たいがいは、どちらか一方の言い分しか取材ができないからだ。

「今でも離婚の理由って、私にはよくわからないんですよ。どうして急に離婚したいっていい出したか」
 響子さんは初対面の私に話し始めた。

 彼女が五十七歳で、子供は二人いるが、もう独立して家を出ていた。今は夫もいなくなってしまった広い屋敷に一人で住んでいる。もうすぐ、ここを売り払いマンションに引っ越す予定だという。

「突然だったのですよ。そうそう、忘れもしません。次女が二十九歳で結婚したんですが、その披露宴があった翌日です。夜になって電話がかかってきて、ボクはもう家には帰りませんっていっきたんです。あれは、去年の三月でしたねえ、ええ、三月十六日でした。

 びっくりして、とにかく話し合いましょうって言ったら、一週間後にパレス・ホテルのラウンジで会うからということになったんです。

 はっと思って、寝室に行ったら、主人は背広やシャツやネクタイはお気に入りの物だけを持って出ていましたね。私は昼間、友達とランチをしていたものですから、その留守に運びでしたんでしょう」

 まさに寝耳に水の離婚騒動が始まった。双方が弁護士を立てての話し合いは、一年に及んだが、川村さんの決意は固くて、どう響子さんが説得しようとも応じなかった。

「もちろん、最後はもう条件闘争になりましたけど、初めて主人とパレス・ホテルで会ったときは、?然としましたね。だって、主人はとにかく『君の責任だ。君のために離婚する羽目になった』の一点張りなんですもの。少し頭がおかしくなったのかと思いましたよ。

いったい私が何をしたって言うんでしょうか。私に男がいるわけじゃないし、主人には尽くしていましたから、落ち度は一つもないはずです。

主人は外資系の会社に勤めていますが、そこで副社長にまで出世をしたのは、すべて私の努力のおかげなんですよ。こういっちゃあ自慢たらしく聞こえますけど、私は小さい頃から父の仕事の関係で外国生活が長かったから、フランス語と中国語と英語が話せます。それで主人の取材先や本社の方々をご接待してはホームパーティーを開いていました。

 悪いけど、主人の同僚の奥さんたちで私ほど語学が堪能な人なんて一人もいませんよ。ときには取材先との契約書にまで、私が目を通してあげたんです。

 主人が出世したことだけじゃなくって、主人の会社が大きく発展したのも私のお蔭なんですよ。私が取引先である外国企業の経営者や、その奥さんたちと良い関係を築いて、社業に協力したからこそ、あの会社の現在があるんです。私を抜きにして、これから主人もあの会社もどうするつもりなんでしょうねえ。うっかりすれば倒産しますよ」

「調べさせましたけど、女の影は見えなかったんです」
 響子さんの口調は憤懣(ふんまん)やるかたなしといったものだった。それだけ内助の功を尽くしたのに夫は何の前触れもなく家庭を捨てた。彼女にしてみれば理不尽としか言いようがない。

 私は自分の胸にあった疑問をぶつけてみた。

「失礼ですが、川村さんには再婚なさりたい女性がおられたのではないでしょうか?」
 すると響子さんは激しく首を振った。

「もちろん、私も最初はそれを疑いましたわよ。それで調査会社を使って調べさせましたけど、結果はシロ。つまり女の影はまったく見えなかったんです。主人だって、もう六十四歳ですからね。あんなおじさんを相手にする女がいるとは思えません。

 それよりなにより私が腹が立ったのは、とにかくあの人には反省っていう気持ちが皆無なんです。君が悪いとしかいわなかったですね。私も最後には、こんな男と関わっていたら、自分が損をすると思いました。

 しかも、私の友達に主人の件を相談すると、みんな同じことをいうんです。『響子さんくらい美人で外国語がペラペラなら、いくらでも素敵な人が見つかるから、離婚したらいいじゃない』って。

 娘二人いるんですが、二人とも『離婚したら』って、すごく軽い調子でいいましたね。上の娘なんか『夫婦喧嘩は犬も食わないというくらいだから、パパとママの間のことには立ち入りたくないけど、パパが離婚したいっていうんなら別れればいいじゃない』って、平然としていました。

 まあいいんですよ。今さらかまいませんけど、主人が哀れにみえてきましたね。わたしがいなくなって、これからあの人はどうするのかと思って。野垂れ死にする覚悟はできているなんて偉そうなことを言っていましたけどね」

 響子さんは今でも離婚に納得はいっていない口調だった。しかし、現在住んでいる家と五千万の慰謝料をもらうという条件で離婚に同意した。それは彼女に言わせると、

自分がいなくなれば川村さんが社会的に落ちぶれるのはわかっているし、彼の会社も左前になるだろうから、そうなる前に、取れるものは取って別れたほうが利口だと判断したからそうだ。

 川村さんに対する愛情は、初めは残っていたのだが、今は完全になくなったという。あまりに自分勝手な男なので、もはや相手がどうなっても関心はない。そう言いながらも、私が川村さんを知っているとことを友人から聞いて、「ねえ。工藤さん、川村は再婚する気配があります?

あったら教えてくださらない? 別にどうということもないんですけど、あの男の末路がどうなるかと思いましてね」と、かなり川村さんの動向を気にしているようだった。

私は響子さんに川村さんとの性生活はどうだったのかを、素直に尋ねてみた。すると、「あら、いやだ、オホホホホ」という答えが返ってきた。

「そんなセックスなんて、とっくに卒業してますわよ。だって、あなた、三十五年も連れ添っていたんですのよ。そうねえ、あれがあったのは初めの十年くらいじゃないですか。

主人がちょっと身体の調子が悪くて、それでああなったんでしょうけど、まあ、とにかく、ずっとセックスレスでした」

「ご主人の身体の調子が悪いというのは、どういう意味ですか?」
「いえ、たいしたことではないんですけど、とにかく川村はあっちのほうは興味がないみたいでした」

 ということで、響子さんは性生活に関する具体的な説明を避けているように私には感じられた。あるいは、あまりにも昔の話なので現実感が乏しいのかもしれない。

 結局、響子さんのお宅に三時間ほどもお邪魔していたが、離婚の真相は私にはわからなかった。なんとも漠然とした印象が残った。

「あいつは、もの凄い勘違い女なんですよ」 

 その翌週になって、川村さんと会うことができた。彼とは古い付き合いである。職業を紹介できないのは、かれの社会的な立場があるからだ。ただ。私との仕事とはまったく接点がなく異業種の人だということだけは、はっきりさせておきたい。

「そうですか、前の女房にお会いなさったんですか。びっくりなさったでしょ?」
 川村さんが私の顔を覗き込んだ。

「さあ、別に何も驚くほどのことはありませんでしたか? 変でしょ。あの人。なにがって、もの凄い勘違い女なんですよ。ボクのこと悪口をいっていたでしょ? インポだとかなんとかって」

「いえ、そんなことはおっしゃっていませんでした。まさか初対面の私に、いきなりインポなんておっしゃいませんけど、ただお体の調子が悪いからセックスレスになったと言ってましたね」

「それですよ。あの人はボクが糖尿病だっていい張るんです。それで病院に連れて行かれました。結果ですか? つまり糖尿なんかないんですよ。それなのにセックスをしないのは糖尿だからだっていって譲らない。あのときは困りました。

 ボクは単にあの人とはセックスをする気が起きなかった。愛情が完全に醒めてしまいましたすらね。結婚して十年くらいした頃です。それから二十五年間もじっと我慢していたんですから、われながら辛抱強かったと思います。自分を自分で褒めてやりたいです。

 しかしね。ボクだってストレスはありました。なにしろ、あんな女と毎日顔を合わせているんですから、喋らんわけにはいかんでしょう。疲れましたよ。

冗談じゃなくって最後の頃なんて十円禿ができたんですよ。今となっちゃあ笑い話だけれど、頭の後ろのところが丸く禿ましてね。ああ、こりゃもうダメだとわかりました。身体は正直なもんです」

 川村さんは、屈託のない笑顔を浮かべる。私は、しかし、何が本当の理由で彼らが別れたのか、依然として判断がつかなかった。

「響子さんは、会社の発展にまでご尽力なさったとおしゃっていましたが」と水を向けると川村さんの表情が険しくなった。

「だからあの女は勘違い女なんですよ。たしかにホームパーティーはよくやっていました。しかし、工藤さんもご存知のようにビジネスというのは、ホームパーティーの接待くらいで、どうこうというもんじゃありません。

彼女は語学に堪能なのが自慢ですが、会社には、あの程度の外国語ができる社員は掃いて捨てるほどいます。むしろ、あの人は取引先の奥様を怒らせたりして、ボクの足を引っ張っていたんです。

それなのに本人は自分は完璧な妻だと信じ込んでいました。いやあ恐ろしいものです。あのクソ自身はどこからきたものなのか、ボクにはまったくわかりません」

 元夫婦の言葉には真実味はあるが、かくも溝は深かった

「それじゃあ、響子さんがおっしゃるほどには、川村さんは彼女の内助の功を評価なさっていなかったのですね?」

「当然でしょう。娘たちがボクの味方でした。普通なら娘は女親の味方につくものですが、二人の娘は口をそろえて『パパはよく今まで我慢したわよ。離婚したって、ちっともかまわないから。

必要なものがあったらママに内緒で家から持って来てあげるからと言ってよ』なんて励ましてくれました。とにかくあの女は家族中の鼻つまみ者だったんです」

 それでも娘が嫁に行くときに両親が揃っていないと可哀相だと思って川村さんは耐えた。実は下の娘さんの披露宴が終わった翌日、川村さんは家出するのは、もう娘さんたちとは了解済みだったのだという。知らないのは響子さんだけだった。

「離婚の理由は簡単ですよ。あの女が自信過剰で会社の業務まで口出しして出しゃばる。家庭においては独栽者で、ホームパーティーは得意だが、毎日の食事は作らない。掃除もしない。つまりは主婦失格だったんですね。そこへ次女の結婚と、ボクの青春のアゲインが重なったってことです」

「はっ? 青春アゲインというのは?」
「まあ工藤さんだから、お話してもいいでしょう。次女が結婚する半年前ほど前に、ある女性と知り合いましてね、彼女は母親と同居している四十八歳の人ですが、とても控えめで、優しい性格なんです。

その上料理もうまくて、なんていうか、彼女と一緒にいると癒されるんですよ。お恥ずかしい話ですが、性的な相性も抜群にいいんです。彼女が相手だと何度でも頑張れちゃう。いや、セックスだけでなくって仕事も頑張れるんですよ。だから、よし、思い切って彼女ともう一度人生をやり直そうって決心したわけです。
 
 新しい彼女について語るとき川村さんは目尻を下がりぱなしだった。幸せオーラ満載である。しかし、たしかに響子さんが調査会社で調べさせた結果では川村さんに女がいる事実はなかったといっていたはずだが。

「あり前じゃないですか。あの女が調査会社を使うくらいのことはボクだって予測していましたよ。だが、その間は気を付けて、尻尾を出さないようにしていました。ああいう機関が尾行したり調査したりするのは、そう長い期間じゃないですからね。

 ボクが彼女と間もなく再婚することは友人にも娘たちも知っていますが、あの女の耳には入れてません。知らせる必要もないですから」

 川村さんは話し終わると、ひどくさっぱりした顔で帰って行った。
私は一人で考え込んでしまった。響子さんの言葉と川村さんの言葉と、どちらにしも、それなりの真実が含まれているようにも思える。しかし二人の結婚生活に対する理解は、ひどくかけ離れている。それだけに夫婦の間に横たわる闇は奥深いということだろうか。

つづく 第十一章
 女装癖の夫と別れたことは正しかったのか