工藤美代子 著
第一章
女が悔いのない人生を求めるとき
語られてこなかった熟年女性の反乱
平成十九年九月のことだ。私はソウルに来ていた。
「ああ、自分はどうしてこんなにお節介な性格なんだろう」と仁川(いんちょん)空港に降り立った時に思った。
しかし、乗り掛かった舟である以上は仕方なかった。ただ前進あるのみだと腹を決めてタクシー乗り場へと急いだ。
なぜ、私がソウルに来たかについて説明が必要だ。まず、前年から、熟年離婚についての調査をしていた。最初にはっきりとさせておきたいのだが、これは例の年金分割問題とは何の関係もない。巷間(こうかん)よくいわれるのが、離婚後も女性が夫の年金の半分をもらえるようになったために、熟年離婚が劇的に増えているという説だ。
この点について私は、いささか懐疑的である。こうした側面があるのは確かだろう。しかし、厚生年金の額というのは、それだけでは二人がやっと何とか食べていけるくらいであり、けっして多額ではない。
それを半分にしていまったら、どうやって一人で生きて行けるのだろうか。
具体的にいうと、私の夫は現在六十五歳なので年金をもらっている。それは月に二十万円ほどだ。もし私たちが離婚をして。これを分割すると十万円ずつになる。アパートを借りるのがやっとで、食費も出ない額だ。
もちろん、年金だけでなく蓄えがあり、持つ家のある女性もたくさんいる。キャリアウーマンもいるだろう。そういう人たちの場合は夫の年金の半分を当てにしなくても、何とかやっていけるに違いない。
しかし多くの主婦は夫と共有する持つ家以外は、わずかな預貯金しかないのが現実である。
だから、年金だけが離婚の引き金になるという解釈は私は余り信じていない。短絡的すぎると思うのだ。
実は年金よりも、もっと大切な問題が熟年離婚には潜んでいる。それは女性が残された時間を、より自由に有効に使いたいしいう欲求である。
高齢化社会となった現代において、女性の生き方の選択肢が増えているのは紛れもない事実だ。離婚するにせよ、思いとどまるにせよ、女性が悔いない生き方を求めるのは当然のことだろう。
たまたま、日本の熟年女性が人生の設計図を引き直す作業を開始し始めた時期に、年金問題も顕在(けんざい)化した。その時期が重なったために、つい年金分割ばかりに視線が注がれがちだが、これは偶然だったのではないだろうか。
つまり、年金問題がなくても、団塊の世代が定年を迎えにあたり、熟年離婚は増加を始め、これからも増え続けると私は感じているのだ。
その理由は、いたってシンプルだ。実際に自分の周辺で熟年離婚が増えているからである。他人から見れば何不自由ない生活を送っている普通のカップルが、ある日、突然離婚する場面に、過去三年ほどの間に何度も遭遇した。これはいったいどういうことだろうと、その度に私は考え込んでしまった。
本を読んだり、テレビを見て知ったのではない。自分のごく身近な出来事として、熟年離婚がいつの間にか日本の社会に定着しつつある。
だからこそ、本来なら人生の最も安定した時間を享受するはずの熟年女性たちが起こす反乱について、真剣に向き合って考えてみたかった。
なぜ彼女たちは新しい人生を歩む決心をしたのか。
その原因に性の問題も含まれることを、私は聞き取り調査の中で実感した。今まで、あまり語られてこなかったことだが、性の問題を抜きにしては熟年離婚はあり得ないのではないかとさえ思った。
更年期を過ぎても、生々しい女であるという現実
制が大切な要素となるのには理由がある。かつて女性たちは閉経を迎えるとともに、セックスをしなくなるのが当然と思われていた時代が長く続いた。しかし、その認識は今や全く変わってしまった。
五十代、六十代になっても女性は生々しく女という性を生きている。セックスにも積極的である。だからこそ、熟年離婚も従来のように、ただ、倫理観や経済的な視点でのみ語られるべきではないのだ。
そうした認識を背景として始めた聞き取り調査だったが、その途上に出会ったのが、まさに現在、夫と離婚の話し合いをしている最中だという聡(さと)子さんだったのである。
私の調査は結婚して二十年以上たってから離婚をした人、あるいは考えている人に的を絞った。年齢は四十代の半ばから六十代の半ばまでとした。
聡子さんはその条件を満たしていた。夫は自営業で、子供が一人いるがもう結婚して家を出ている。現在五十三歳で、結婚歴は二十七年だ。
夫婦の間が上手くいかなかったのは新婚当初からだと彼女はいう。しかし、すぐに女の子が生まれたため、離婚はあきらめようと自分に言い聞かせていた。その女の子がまだ幼いころは、なんとか家族の形態を保っていた。
しかし、一昨年の春にたった一人の娘が結婚して、独立したとき、聡子さんは。何かがふわっと全身から抜けてゆくのを感じた。
「終わったと思いました。これで私の責任は果たしました。これからは私が自分のために生きていく番だと」
不思議な現象が起きたという。それまでは普通に洗濯をしていた夫の衣類が汚く見えて触りたくない。朝食の後、夫が食べたご飯茶碗を洗うのが苦痛になった。
「もうね、納豆なんて食べた日は最悪ですよ。あの大きな主人のご飯茶碗がぬるぬるしていて、気持ちが悪くて、ただ目をつぶってスポンジで大急ぎで洗います。背筋がぞっとするほど嫌いですね」
聡子さんの変化に夫が気付くのに半年ほどかかった。
「よくね、他人さまは離婚って、夫婦のどちらが長い間じっと考えていて。ある日思い切って言い出すさて言うじゃないですか。小説とかテレビドラマでもそうでしょう。でも、現実ってもっと思いがけないんですよ。
主人がある晩、ビールを飲みながら私に聞いたんです、お前どうしてそんなに不機嫌なんだ。オレのどこが不満なんだって。私はそれまで、主人と離婚することまでは考えていなかったんです。嫌だけど、我慢してやっていくつもりだったんです。
でもねえ、目の前にいる禿(はげ)でデブの男がビール臭い息をしているのを見たら、こんな奴のために私の人生が終わっていいのかって、ふっと天から降りてくるみたいに、離婚という二文字が浮かんだんです」
「五分早く、離婚という言葉を思い浮かべていたのよ」
それでも、聡子さんは無言だった。いつものように何も答えなかった。黙って立ち上がり台所へ行った。台所は女の逃げ場だった。ここへは入るものでないと六十歳の夫は決めている。ところが、この日に限って、夫は台所まで追いかけてきた。
「俺なあ、お前の仏頂面を見ているのがつくづく嫌になった。いいぞ、離婚したってかまわないんだぞ。その方がよっぽどすっきりする。言っとくが、俺はお前を殴ったことはないし、他所に女がいるわけでもない。金の不自由だってさせていない。それで感謝しない女は、もううんざりだ」
夫は吐き捨てるようにいうと、手を腰に当てて、聡子さんを睨(にら)みつけた。
威嚇のつもりだったのだろう。
「でもね、あの人より五分早く、私は離婚という言葉を頭に浮かべていたのよ。五分だけ早く。それで、うろたえずに睨み返すことができたの」
彼女には、密かに心の中で彼に言いたいセリフがあった。
「あなたは『お前を殴ったことはない』といった。でも、殴るよりもっとひどい言葉を私に投げつけたじゃないの」
それを言ってしまえば、自分があんまり惨めになると思って聡子さんは最後まで下を向いたまま、何度も流しで布巾を洗い続けた。無反応な妻にあきらめた夫は居間へと戻っていった。
先に離婚を言い出したのは夫だった。「このとき私は勝ったと思ったの」聡子さんは笑った。翌日、とりあえず身の回りの物だけ持って、兄夫婦の住む家に行った。置き手紙には「あなたが離婚をなさりたいとおっしゃったので、私も考えてみます」と書いた。離婚をしたいのはあなたですね、というメッセージを発信したのだ。
それ以降の展開については、ここでは省略したい。全部を書いたら、一冊の本ができてしまう。とにかく、彼女は第一歩を踏み出した。そして現在は離婚の条件闘争に入っている。
これも面倒な問題だが、時間をかけて解決していくしかない。
長い間、専業主婦として生きてきた聡子さんには、キャリアはない。大学を卒業すると保険会社の事務職をして勤めたが、そこの上司の紹介で見合いして結婚してしまった。だから、離婚後の生活に関する不安は残る。
「私は、できれば再婚したいと思っています。得意なことを聞かれたら、やっぱり家事しかありません。料理の腕にはちょっと自信を持っています。だから再婚したいんです」
という聡子さんの目は真剣だった。彼女は小柄でぽっちゃりした感じで、いわば癒し系のタイプである。相手次第では、良い奥さんになる人だろうと私は思った。
「でも、工藤さん、私にはどうしても解決しなければならない問題が一つあるんです。それを解決しないと次の一歩に進めないんです。それで、工藤さんに相談に乗っていただきたいです」
初夜の幸せを打ち砕いた、残酷な言葉が蘇って
いきなり聡子さんに言われたのは、彼女と三回目に会った時だった。今回の熟年離婚の取材では、私は最低三回は取材対象の女性に会ってもらうことにしていた。そうしないと愛の本音が引き出せないと感じたからだ。
「なんでしょう?」と尋ねると、しばらく俯(うつむ)いていた聡子さんは、ゆっくりと顔を上げた。
「あれは結婚して初夜を迎えた翌日のことでした。私はそれまで男の人を知らないわけじゃなかったんです。一度だけ学生時代に同じサークルの先輩とそういう関係になりました。
でも一回で捨てられたんです。理由はわかりませんでした。ですから主人が二度目の男だったんです。
無事に初めての夜を過ごして、私は幸せな気分でした。もちろん婚約中には関係はありませんでした。キスするくらいでした。ところが朝になって、ベッドの中で主人が呟いたんです。
『いやあ驚いたな。君は僕が初めてじゃないだろう』と唐突にいわれて、私はどきっとしましたが『あなたが初めてです。信じてください』といいました。
そうしたら主人が、枕に頭を載せたまま天井を見ながらいったんです。『君のあそこはベロンとして大きくて、子供を三人くらい産んだ女のオマンコみたいだ』つて、いかにも失望したというふうにため息をついたんです」
聡子さんは夫の言葉を聞いて、頭を殴られたような衝撃を受けた。自分の女の部分など、見たこともなかった。まして他の人と比較のしようもなかった。
ただ、たった一度のセックスで去っていった大学時代の先輩のことが急に思い出された。自分の性器は奇形なのだろうか。絶望感が彼女を襲った。
それ以降は夫が体を求めてきてもヨロ去年を感じることはなかった。ただ、妻の義務だと思って応じていた。
そして今、五十代になってみると、結婚初夜の翌日に、あんな無神経な言葉をぶつけた夫が許せないと感じるようになった。
それは私も同感だった。いくら夫婦でも言っていいことと悪いことがある。相手の性器の形について酷評するのはいかにも配慮に欠けている。人間として失格だ。
「そんなこと気になさる必要はありませんよ」と私は聡子さんにいった。だいたい男と違って女の性器は外側に飛び出していないのだから、風呂場で覗(のぞ)き込んで観察するがやっとだろうが、普通の人はそこまでしない。
人間の顔が千差万別のように性器だっていろいろだ。その美醜にこだわる聡子さんの夫は異常だと思えた。
しかし、もはや問題は聡子さん夫に向けてではなかった。その言葉に傷つき、セックスへの恐怖を感じたままでいる聡子さんの気持ちにあった。
「工藤さん、私はどうしても、新しい生活を切り拓きたいんです。そのために、私は、あそこの整形手術をうけたいんです。そうじゃないと、次の人と安心してセックスができないと思うのです」
彼女は正規の整形を宣伝している病院は見つからない。ところが、友人から、韓国には性器の整形をしてくれる病院があると聞いた。それなら韓国へ行って手術をうけたい。しかし、それがどこにあるのか彼女にはわからない。
だから、私に調べてもらえないか、というのが聡子さんからの願いだった。
「わかりました。ソウルへ行ってきましょう。行って病院を探してきます」と私は答えていた。一瞬の迷いもなかった私は彼女の夫に対して激しい怒りを感じていたからだ。
冗談じゃない。無神経な男の一言で、彼女の生涯が不幸のまま終わっていいはずはない。
ということで、私はただ闇雲にソウル行きの飛行機に乗り込んだのだった。
韓国の名医に聞いた「性器整形」の真実
義侠心に背中を押され、整形大国に降り立つ
ソウルにある新羅ホテルのロビーで、私は通訳の篠田さんが現われるのを待っていた。まだ、約束の時間は十五分ほどあった。
その間に聡子さんのことを考えていた。彼女は結婚した翌日に、夫から性器の形について侮辱的な言葉をぶつけられた。それ以来、セックスそのものに嫌悪感を持つようになったと言うが、実はそれはセックスに対してではなく、夫に対してではなかっただろうか。
そうじゃなかったら、彼女は性器を整形してまで、もう一度誰かと結婚しようとは思わないだろう。むしろ、手術を受けたいと希望する彼女はセックスに前向きなのではないか。
私がソウルまで、整形の先生探しに来たのは、一種の義侠心(ぎきょうしん)に駆られてのことだった。彼女の受けた心の傷の深さが同じ女として、よく理解できる。そして無神経な夫に激しい怒りを感じる。
離婚しても当然だ。とかし、この離婚がよい決断だったと後で聡子さんが思えるようになってほしい。彼女が女性としての自信を取り戻すためだったら、整形手術も悪いことではない。
通訳の篠田さんにも、これから調査に行く病院の院長先生にも、実は性器の整形について聞きたいのだとは事前に知らせていなかった。面会の段取りをつけてくれた篠田さんに、そのことをどうにも切り出しにくかったのである。
だから、ソウルで最も大きくて有名だと言われている美容整形の病院で、そんなことはしていませんとあっさり断られたら、あきらめるしかない。
私は旅に出る前にアメリカの西海岸に住む友人に電話した。彼女は日本人で五十三歳。アメリカの夫と結婚して二十年たつ。なんでも気楽に話せる関係だったので、女性器の整形について尋ねてみた。
「そりゃあ、あなた、その種の手術の技術が一番進んでいるのは。ここアメリカよ」と彼女は即座に答えた。
特にね、ロスには腕のいい先生がいるっていう評判よ。ただねえ、あの手術をする女性は限られた人だわね」
「ということは?」
「だから、普通の人はしないのよ。高級娼婦か大金持ちの人妻か、そのどちらかだって言われている」
「ふーん。そうなんだ」
私は電話口で唸(うな)った。すると彼女は日本ではだれもが知っている、有名なセレブ女性の名前を挙げて、「あの人はアメリカで性器の手術を受けたのよ。形を整えて刺青をしているって、こちらではもっぱらの評判よ」。
「ふーん」と私はまたしても唸った。友人によると、アメリカに整形してくれる病院があるのは確かだが、どこがお薦めかと問われるとわからない。雑誌の広告などは出していないから実態は不明だ。
いずれにせよ、ソウルで見つからなかったらロスに行くしかないなあと思っていたところへ、通訳の篠田さんが到着した。
まだ三十代になったばかりの若い娘さんである。初対面だったが、電話でおおよその話はしてあった。熟年離婚をした後に新しい生活を始める整形手術をしたいと考えている女性がいる。
そこで、美容整形が盛んな韓国の現状を知りたい。そう伝えたら、彼女が大手の病院に予約を入れてくれていたのである。
「確かに、こちらでは美容整形はごく普通に行われていますねえ」とソウルでの生活が六年になるという篠田さんは頷く。
大学卒業の記念に親が娘に手術の費用を出してやるとか、両親の結婚記念日に子供が手術費をプレゼントするなどということもあるらしい。日本では少し事情が違う。日本でも整形手術を受ける女性は増えてきているが、誰にも内緒でするケースが多い。
私自身も顔の整形手術をしたいと思いつつ、まだ踏み切れないでいる。何か自分を引き止めているのかよくわからないが、鏡を覗(のぞ)くたびに「なんとかせにゃ」とひとりごとをつぶやいても、行動には移せない。
私はロビーで篠田さんに説明をした。実は申し訳ないのだが、友人の性器の整形を希望している。その可能性を探りにソウルに来たのだと正直に言った。
彼女は落ち着いた女性で、驚いたふうもなく、「わかりました。そういうことなら、院長先生にお聞きしてみましょう」と答えてくれた。
連休前の美容外科はラッシュアワーの混雑
その病院は韓国のテレビなどでもよく紹介される有名な病院で、院長先生がいつも取材に応じている。それが、つい最近、もう一つ大きな病院と合併した。さらに人気は高まっているという。
面談の予約は午後七時からだった。この日は、韓国が大型連休に入る前日で、病院はひどく忙しくて、院長の時間が取れるのは夜になってからなのだそうだ。連休前に手術を済ませて、休みの間は家でじっとしていて、連休明けに美しくなって世間に出たいと考えている女性が多いということだ。
実際、病院に着いて。びっくりした。ものすごい混雑である。待合室は人であふれかえっている。まるで年末の成田空港並みである。
事務局長の男性が出てきて、三十分ほど待ってくれという。なかなか院長の手術が終わらないらしい。
「患者さんは日本からも来ますよ。そうねえ、四年ほど前はチェ・ジウの写真を持った日本人の女の子が駆け込んできて『この顔とそっくりにして』っていったり、そんなケースがけっこうありましたよ」と笑う。
とにかく連休前なので、VIP専用の待合室まで病室にしてしまった。だから応接室もなくてすいませんと、事務局長はしきりに謝る。私はあっけにとられて、口をあんぐり開けて、行きかう女性たちを見ていた。この熱気と活気は何だろう。美しくなりたいという女性の執念が病院全体に立ち込めている。
四十分ほど待ったところで、ようやく院長先生の診察室に招き入れられた。
まだ若い。せいぜい四十歳くらいにしか見えない。後から知ったのだが、彼自身も美容整形の手術をしていて、現在は四十五歳だという。手術前と後の写真を見せてもらったが、確かに術後はぐっと若々しくなっている。
そのキム・ビョンゴン院長にまずは整形手術を受ける年齢層について尋ねてみた。
すると。昔は若い人が圧倒的に多かったのだが、今は年配の女性が手術をするケースが増えているとの返事だ。確かに、私も待合室で、熟年の女性患者の姿を何人か見かけた。
離婚した後に手術をして顔を整える女性もたくさんいますよ、と院長がいうので、私はここぞとばかりに尋ねてみた。
「顔以外ではどんな部分を整形するのでしょうか?」
「そうですね、乳房が垂れているので持ち上げるとか、身体の脂肪吸引も多いですね」といって、院長がちらりと私のお腹を見る。
この三段腹がなんとかなるのなら、すぐにでも手術を受けたい気分になる。私がそう思ったのが顔に表れたのだろうか。院長はさらに言葉をつづけた。
「お腹の整形というのは、脂肪吸引だけではなくて、若い頃のように張りのあるお腹にすることも含まれています。きれいなお腹にするわけです」
つまりは、お腹の皮も何とかしてくれるということだろう。脂肪をとっても皮が残っていては仕方がない。
「たとえば、性器の整形というのもありますか?」
私はなるべく自然な感じで聞いてみた。実は内心はハラハラしていたが、院長はすぐに答えてくれた。
「もちろん、あります。形を変えることができます。それから、外見だけでなくて、内側を狭くすることもできますよ」
「はあ」といって、私は次の質問が浮かんでこなかった。
「性器の整形」とはいったいどんな手術なのか
やはり評判通り、韓国では性器の整形もしてくれるのだ。それがわかっただけでも、ソウルに来た甲斐があった。
しかし、内側の整形とは、どういう意味だろう。これは後で篠田さんが調べてくれた。
つまりは膣縮小の手術である。考えてみれば出産を経験した女性は、膣をあの大きな赤ちゃんの頭が通り抜けてくるわけである。膣が緩んだとしても不思議ではない。それを縫い合わせて狭くしてくれる手術があるのだ。
韓国では通称「イップニ(可愛い子の俗称)手術」というのだそうだ。産婦人科でやってくれるところもあるという。
私がぽかんといている間に院長が次の話題に移った。
「それとですね、日本人と韓国人は身体の構造が同じようにできています。それだけ手術をする側としては、やりやすいということが言えます」
「ということは日本からも患者が来るのですか?」
「たくさん来ますよ。うちの病院のホームページには日本語もあります。それを見て日本語での問い合わせもあります。メールで尋ねてくるのです」
「それをお返事を出すのですか?」
「ええ、ここには日本語、英語、中国語で対応できるスタッフがいます。まあ一番多いのが英語での問い合わせですね。これを見てください」
といって、院長はパソコンの画面を見せてくれた。オーストラリアに住む中年の女性が顔の整形をしたいと、送ってきたメールがある。それには彼女の写真も添付されていた。
「私たちは、もしも手術をしたら、顔がどのようになるかをシミュレーションした写真をメールで送り返してあげます。それで納得した場合は、彼女はソウルに来ます。空港には職員が迎えに出て、ホテルの予約もこちらでしてあげることができます。費用の点もきちんと明示します。
ですから、世界中から患者さんが来ます。中国も最近は多いですね。それで上海に提携した病院をオープンしました」
なるほど、中国が整形手術の新しい市場となっているのだろう。
しかし、聡子さんのように性器の整形を望む場合は、まさかメールで送るわけにはいかない。彼女は英語の手紙も書けないし、たしかパソコンも使えないはずだ。
「大丈夫です。その場合にはお電話をくだされば日本語のできる職員が出て説明をします」と院長はあくまで余裕たっぷりである。
「ただねえ、身体の整形ばかりではなくて、メインは顔の整形ですよ、五十代の女性の患者で一版多いのが目、次に頬(ほほ)、そして額ですかねえ」
いくら整形が盛んな韓国でも性器の整形はかなり特殊なケースだと言いたげだった。
この病院には十九人の医師がいて、それぞれが専門のパーツを受け待っている。
手術の料金は個人によって異なるため、それを広告で表示するのは難しい。だから患者はあくまでも評判を聞いて来るのだという。
夫の非常識な言動が離婚の引き金になる
そういわれて、私は日本に帰ってから、女性週刊誌に載っている美容整形の広告をよく見てみたら、日本では豊胸手術が八十九万円とか脂肪吸引が六十八万円とか、はっきり値段が表示されている。
いや、それ以上に驚いたのは、日本でも性器の整形をしてくれる病院があったのである。こうした状況を私も聡子さんも知らなかったのだが、「小陰唇・膣・性器の悩みにお答えします」とはっきり謳(うた)っていた。
やれやれ、韓国までいかなくても日本でもやってくれるじゃないか、と私は少しがっかりしたが、日本と韓国とどちらを選ぶかは聡子さんの判断だろう。
費用については聞かなかったので、わからないが、値段よりも大切なのは技術だ。いくら安くても後遺症などがあっては困る。
手術に伴う痛みに関しては原則的には無痛手術を心掛けているそうだ。
「あなたが手術をするのなら、私が執刀たしてあげますよ」とハンサムな院長はいって、握手をしてくれて、私たちは病院を後にした。
病院の名前はBKトンヤン形成外科という。日本では整形が普通だが韓国では成形という。形を整えるよりも形を作るという意識が強いのではないかというのが、篠田さんの説だ。
日本の雑誌を見ると美容外科という名称が多いように見受けられた。その中で「小陰唇縮小」の手術の費用は二十六万円から三十一万円くらいとはっきり表示されている病院もあった。
これを高いと見るのか安いと見るのかは、個人によって違うだろう。
しかし、誤解のないように、はっきりさせておくと、女性の性器の色や形は男性経験の多さとは何の関係もない。
これは持って生まれたものであり、たとえば唇の色が千差万別なのと同じことである。それを何かと興味本位に書く小説やルポルタージュがあるから、社会に間違った既成概念を植え付けられているのである。
聡子さんの夫に、もう少しまともな常識があり、相手に対する思いやりがあったら、二人の熟年離婚は避けられたかもしれない。
そう考えると、人間はなんとくだらない迷信にとらわれているのだろうと思わざるを得ない。男性の性器の大きさや形に関しても、まことしやかにその良し悪しを論じる人がいる。だが、あんなものはお互いの相性であって。
形状は関係ないと言える。聡子さんが受けた心の傷を癒すところから、彼女の新しい旅立ちが始まる。熟年離婚を旅立ちととらえる女性は、聡子さん以外にもたくさんいる、と私は思えるのである。
女としての時間を燃焼させたい
お似合いの夫婦が別れた「世間的な理由」
人間が自殺するとき、たった一つの理由だけでは死ねないといったのは、芥川龍之介だった。
熟年離婚も同じではないか。たった一つの理由では別れない。そこは複合した要素がある。そんなふうに感じたのは多美子さんと三度目に会った後だった。
彼女との付き合いは長い。もう十五年ほどになるだろうか。ファッション関係の仕事をしていている多美子さんはたしか現在六十二歳のはずだ。仕事柄いつもすっきりした最先端の服装をして、お洒落な大人の雰囲気を漂わせている女性である。
多美子さんが離婚したのは三年前だった。このときはちょっと驚いた。なにしろ娘さんも結婚し、幼稚園に通うお孫さんまでいる。今さら離婚する必要はないかと思っていたからだ。
彼女の夫はブティックを経営していた。慶応大学出身で、いかにも育ちの良いお坊ちゃんという風貌のひとだ。二人はお似合いの夫婦に私には見えたし、周囲もそう思っていた。
ところが、夫には多額の借金があり、ついには団円調布にあった豪邸を手放すまでになった。その経緯について私は、彼女から詳しく聞いて知っていた。苦境に立たされた多美子さんは自分名義で新しい家を買った。そして以前にも増して精力的に仕事をこなしていた。
夫に対しての不満はあったと思うが、彼女のキャリアは順調で、生活はそれなりに落ち着いていた。だから離婚したという電話で知らされたときは、私は不思議な感じがした。
理由をあれこれ尋ねるのは失礼だろうと思って控えた。しかし、今回、熟年離婚を調査するにあたって彼女のケースを思い出して、取材に応じてもらうことにしたのである。
最初に彼女が言ったのは「もう絶対に嫌、ということを相手が直さなかったら、なかなか熟年離婚には踏み切れなかったわよ」という言葉だった。
四年前の大晦日の晩に知らない女性から多美子さんのところへ電話がかかってきた。その女性の口からは意外な言葉が出た。「あなたのご主人に三百万円を貸しています。今日が返済の期限なのですが返してくれません。奥さんのあなたが返してください」。
まもなく帰宅した夫を問い詰めると、確かに借金はあるという。多美子さんは夫の借金にはもううんざりしていた。ブティックの経営とはいっても実態は赤字だった。それなのに店は閉めない。
家には生活費は一円も入れなかった。ただ見栄のために店をやっているようなものだった。もっと地道な仕事に就いてくれと何度もいっても夫には聞く耳を持たなかった。そして、妻に内緒で高校時代の同級生の女性から三百万円を借りていたのだ。
店の運転資金だというその金を、返せる当てなどあるはずもなかった。結局、多美子さんが自分の貯金から三百万円を払った。このときに、彼女の中で何かがブチンと切れた。「もういい、もう充分だと思った」。多美子さんは一人で区役所に行き離婚届をもらって来て、夫に判を押すように迫った。
「主人は抵抗できるわけがないわよね。黙って判を押したわ。会話もなかった」
多美子さんに離婚までの経緯を聞きながら、私は何かぼんやりした霧がかかっているような気がした。
真実は本当にそれだけなのだろうか。彼女の夫の借金癖は急に始まったわけではない。これまでにも何度か多美子さんは煮え湯を飲まされていた。
六十二歳のキャリアウーマンが語るダブル不倫の日々
二度目に会ったときは彼女のこれからの生活設計を聞くことで二時間が過ぎてしまった。依然として私の胸には何か割り切れない思いが残っていた。
忙しい彼女に無理をいって三度目の時間を作ってもらったのは、先月のことだった。昼間、自宅に来てもらった。周囲に誰もいない場所で、どうしても聞きたいことがあった。
それはセックスについてだった。二度目に会ったときに彼女は奇妙なことを言っていた。
「主人とは五十歳のときから、もうセックスはしていなかったわ。そして最後に私がセックスをしたのは六十歳のときだった」
それだけ言うと多美子さんは話題を他の移してしまった。
私は気になった。五十歳から六十歳の十年間、彼女がセックスをしていなかったとしたら、誰が相手だったのだろう。あまり立ち入って話を聞くのも失礼かもしれないが、彼女の言葉の背景に誰か男性の影を感じた。
だから今回は、「恋人がいらっしゃるんじゃないですか?」と単刀直入に聞いてみた。
「いるんじゃなくて、いたのよ」と答えて多美子さんはしばらく沈黙した。それから、さっと顔を上げて、私を見つめた。
「工藤さん、横川さんってご存じでしょう?」
ああ、と私は頷(うなず)いた。
ビジネスマンとして頭角を現し、某有名企業の役員からトップに就任するのは時間の問題だといわれていた。しかし、その直前にゴルフをしていて、脳溢血(のういっけつ)で亡くなったはずだ。あれは去年のことだ。
「そう、彼とは十七年間続いた仲だったのよ。彼は私より五歳年下だった。たしか私が四十四歳のときだったわ。何人かのグループで食事をして、そのときにお互いに一目ぼれしたの。
次に会ったのは、彼が仕事で失敗したとき。一緒にやけ酒を飲みに行きましょう、って私から誘ったの。そして夜中まで飲んだわ。帰りのタクシーの中でキスをして、それ以上求めてきたから、タクシーの中では嫌だから今度お会するとき、っていったの。
それから彼はもう私を欲しくてたまらなくなったのね。一週間後にニューオータニの部屋を彼が予約しておいて、私たちは結ばれた」
そのとき、多美子さんは夫に対してまったく罪悪感をもたなかったという。夫もそれまでに何度が自分を裏切っていることを知っていたからだ。
多美子さんは五歳年下の横川に夢中になった。セックスの相性は抜群だった。いつも横川さんは時間をかけてゆっくりと前戯を楽しむ。そして驚異的な持続力があった。スポーツで鍛えた身体は逞(たくま)しく、セックスは激しかった。それに応える多美子さんも熱く燃えていた。
だからといって、夫との関係が終わるわけではなかった。夫とも定期的にセックスはしていた。「なぜ?」と私が問うと、「さあ、どうしてだったのかしら。まだ主人のこと愛していたんでしょうね、私の中では二人の男性は対立しなかったのよ」
しかしも横川さんが同業者であるために彼女は常に人目を気にしていた。彼が地方の営業に行っているとき、多美子さんは一人で夜汽車に揺られて会いに行き、近所のホテルに宿を取って彼が来るのを待った。三時間ほどの慌ただしいセックスが終わると彼は夜中に宿泊先へと帰って行った。
立場上仕方がないとわかっていても多美子さんは淋しかった。できれば朝まで一緒にいたかった。それを口に出さなかったのは、彼女が非常に理知的な女性だからだった。
彼を困らせるようなことは一度もいわなかった。デートも忙しい彼の時間に合わせて調整した。それに対して、横川さんも実にこまめに手紙やメールをくれた。彼からのメールは今も多美子さんのケイテイに残っている。その数は百通を超えていた。
「実はね、主人がゴルフに泊まりがけで出かけたときに横川さんを私の家に招いたことがあったの。彼は私の手料理を食べてものすごく喜んだの。リラックスしているのが分かったわ。ホテルで会っているときとは全然違っていた。そのときかな、ふっと、いつでも彼が好きなときに私を訪ねられたらいいなあと思ったのは」
しかし、横川さんには妻も子供もいる。その点について多美子さんはどう感じていたのだろうか。
「そうね、奥様が子宮筋腫の手術をするんで一度だけ入院なさったことがあったのよ。病院へ見舞った帰りに彼が私の家の近所まで車で来たの。私を抱きたいといっていたけど、『奥様が入院なさっているときは嫌よ』って断った。
でもその時、もしも奥様が死んだらって、悪いことを考えたのは事実よ。だって、あの人は私が心底好きになった人ですもの。彼の子供が欲しいとまで思った。そんなこと思ったのは初めてよ』
淋しがり屋の恋人との逢瀬、そして突然の訃報
お互い家族があるという危ういバランスの上で二人の関係は続いた、聡明な多美子さんは彼に離婚など迫ったりはしなかったが、ある意味では閉塞感を感じていたのではないだろうか。
秘密を長い時間持ちこたえるにはエネルギーが必要だ。
「確かに、正直言うと主人と離婚した理由の一つに横川さんの存在はひていできないわね。私ね、彼がいつでも気軽にうちに来られるような環境にしたかったの。あの人ね、すごくうちに来たがっていたのよ。
ほっとするんじゃないかしら。主人が留守のとき何度も来たけれど、いつも大喜びしいたわ。会社の話でさえも、なんでも話てくれた。こんな話って奥様にもなさるのって聞いたら、奥様にはしないって言っていたわ。ああ、私のことを信用してくれているんだって嬉しかった」
多美子さんの離婚の背景には、やはり横川さんという大きな存在があった。今は社会的な立場ではあっても自分の結婚できないが、この先彼が仕事をリタイヤしたら、一緒に暮らせる可能性はあると多美子さんは思った。
彼女の離婚を知ったとき横川さんはひどく驚いたという。しかし理由は尋ねなかった。多美子さんもあえて説明はしなかった。
やがて彼は仕事の関係で福岡に赴任した。
「淋しい。会いに来てくれ」というメールをもらい、彼女は福岡に出向いた。このとき多美子さんは六十歳だった。
「セックスする前に、私、もうできるかどうかわからないわよっていったの。でも終わった後で彼が『なにいってんだよ。まだ現役じゃない』って笑ってたわ」
横川さんの思い出を話すときの多美子さんの表情はほんとうに幸せそうだった。いかに彼女が横川さんを愛していたかがよくわかる。そして、私の勘が正しかったと思った。
多美子さんは横川さんのために離婚したのだ。彼との穏やかだが充実した日々を求めていたに違いない。
それだけに去年の夏に彼が急逝したのはショックだった。
まだ五十六歳の若さでの突然の死。二人の関係を知っているのは、ほんのわずかな友人だけだった。その友人からの知らせで彼の死を知ったとき、「ああ、死んじゃったんだ」と思って、しばらく茫然としていた。
彼の死後、業界の知人たちの思いで語りに、横川さんの家族思いな一面を聞かされた。
「マメな人だったから奥様にもよくメールを出していたみたいね。外国からは絵葉書や手紙を送ってくれた。でもヨーロッパに行ったとき、たった二時間しか滞在しなかった国からまで私には絵葉書をくれていたの。奥様には出していなかったはずよ」
多美子さんは、横川さんの葬式にも参列した。その時初めて彼の奥さんの顔を見た。特別な感慨はなかった。
ただ淋しさだけが多美子さんの心に残った。
離婚を決めたのは、次の一歩を踏み出すため
なぜ多美子さんは、横川さんと恋に落ちたときに離婚をしなかったのかと疑問に思う人もいるかもしれない。だが、私には六十歳近くになってから離婚した彼女の気持ちが痛いほどわかる。
それは女の残り時間の問題なのだ。たしかに多美子さんはいつも最新のファッションを身にまとい、週末はテニスを楽しみ、芸能人との交流もある。海外出張も多くて華やかな日々を送っている。
それでも歳を重ねていくことは止められない。もしも私が彼女の立場で、すでに愛情のなくなった夫がいて、一方に燃えるような思いを寄せる恋人がいたら、間違いなく恋人の方を選ぶだろう。
自分の女として残された日々を燃焼させたいと願うに違いない。
つまり多美子さんはこれからの日々を見据えて、離婚という選択をしたのだ。彼女のこの決断に対して横川さんがどのような対応をするのか、それを見極める前に、突然横川さんはこの世を去ってしまった。
あまりにひどい結末ともいえる。
「これからどうしたらいいのか、私にはわからないのよね。横川さん以上の男性なんて、そう簡単に現われるものじゃないわ。といって再婚もしないで全く一人で生きていくのみふあんなの。そうねえ、まず、彼のことを忘れるのは不可能でしょ。そうすると新しい恋愛も難しいのよ」
多美子さんの思考は同じところを堂々巡りしていた。
熟年離婚で夫とのしがらみを断ち切って、横川さんとの新しい未来を開くつもりだったのに、すべての希望は失われてしまった。
「大丈夫よ。多美子さんくらいのチャーミングな女性には必ず素敵な人がまた現れるから。絶対に大丈夫。元気を出してよ」
私は何度も彼女の肩を叩いたが、多美子さんは最後まで静かに下を向いたまま無言だった。
つづく
第二章 妻が浮気現場に踏み込むとき