恋することと愛すること 弐
ぼくが今まで言いたかったのは「情熱(パシオン)」と「愛(アムール)」とのちがいです。ぼくは多くの恋人たちや、また多くの恋愛論がともすれば混同している情熱と愛とのちがいを考え、「恋すること」と「愛すること」の明確な区別を指摘したかったのです。
「恋する」という言葉をフランスでは普通Aimer(エメ)と字引に書いてあります。けれども本当を言えばこの場合「恋する」とはetre amoureux(アムルー) euseと言う方がよいと思います。そしてAimreこそは「愛する」と訳した方が正しいでしょう。
恋すること、つまり異性に対して情熱を持つこと、これは「愛する」こととはちがいます。なぜなら、恋することは、その機会や運命さえあれば誰でもできるように、貴方だって好ましい男性が現れたら恋をすることができるように、貴方のお友だちのAさんもBさんも、それぞれ、適当な恋人さえ見つける幸運さえ持てば、恋することができるのです。貴方たち若い女性は何時も恋人の現れるのを待っていらっしゃる。そして、その「いつか」がやってきた時、貴方は恋をすることができる。
恋をすることはそれほど大きな努力も、忍耐も深い決意もいらないものです。彼を好ましいと思い、信頼のできる青年と考え、そして心惹かれはじめ、相手の情熱を感じさえすれば恋をすることができる。それは人間の本能的な悦びだからです。美しい花に向かって蜜蜂たちが本能的に集まるように、貴方は彼にむかって自然に傾いていくことができます。恋をした夜、貴方は白い窓をあけて夜の匂い、大地の匂いをやさしく、かぐことができるでしょう。
そんな時、貴方は御自分におっしゃるでしょう。「私は彼を愛している…・」と。
だが待ってください。言葉を正確にするために言い変えましょう。貴方はまだ彼を「愛している」のではない。「恋している」のに過ぎないのです。他の女性と同じように一人の男性に情熱を感じているにちがいないのです。胸に手を当てて彼と貴方とが今日までしたことを思い出してごらんなさい。
貴方は彼と夕暮の人影のない坂道を二人きりで、ゆっくりと上がったこともあったでしょう。雪の降る夜の街をたがいのポケットに手を入れ暖ためあいながら歩いたこともあったでしょう。彼の病気の日、朝から夜まで病床で看病をしてあげたこともあるかもしれない。彼が仕事のこと勉強のことで挫けた時、一生懸命、慰めてあげたこともあるでしょう。ちょっとした誤解から嫉妬をして眠れぬほど苦しい夜をあかしたこともあるかもしれない。それから再び二人寄り添った時、もっと幸福な気持ちに浸かった経験も思い出されるでしょう。
だが、それらはやはり恋することの経験であって、愛することの経験ではない。愛の形に似ているけれども、やっぱり恋であって愛ではないのです。
なぜなら、そんな経験は些少(さしょう)の形のちがいこそあれ、貴方だけでなく恋をした全ての女性が、多かれ少なかれ味わったことだからです。どんな安っぽい恋愛小説にでも、ぼくたちがたった今、あげたような場面(恋人と夕暮れ、坂道をのぼり――嫉妬のため苦しい一夜をあかすような場面)は出てくるものです。どんな歯のうくような恋愛映画にも、このような思い出やシーンは倦(あ)きるほど見受けることができるものです。勿論、ぼくはこのような思い出が詰まらないなどと言っているではありません。たとえ、他の誰もが味わった経験にしろ、貴方にとっては、それが「彼」とやったものである以上、この上なく貴重な、この上なく大切な追憶や出来ごとであったにちがいない。けれどもその個人的な価値を無視するならば、たしかにこのような恋愛の経験はありふれたものであり、誰でもが味わえることであり、そして容易(やさ)しいものなのです。
スタンダールの『恋愛論』を開いてみますと、そこには女性が恋をする心理の過程が、さながら高速撮影で運動選手の手足の動きを映した時のようにハッキリと図式化されています。皆さんの中にも恐らくお読みななった方もあると思いますが、十七世紀のフランスの小説に『クレーヴの奥方』(ラファィエット夫人作)という作品があります。この小説にでてくるクレーヴの奥方の恋愛心理を二十世紀の作品であるラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の主人公、伯爵夫人の恋愛心理と比較してごらんなさい。時代こそちがえ二人の女性が男を愛するまでの恋愛心理の過程や動きはほとんど似たようなものです。印象――好感――もう一度会いたいと思う気持ち―軽い嫉妬―彼のことが気にかかりだす―その自分の心を持て余しはじめる―自分の恋心を否定しようとする――と言った風に、ぼく達はさながらグラフ用紙にグラフの線を書き込むごとく、彼女たちの心の動きをたどることができます。
勿論、こうした心理図式が正確であるかどうかはわかりません。けれども、それは別の問題なのです。おそらく女性の心はもっと微妙なもの複雑なものですから、この心理図式で全ての女の心を割り切れるはずはありますまい。
けれども、こういう図式さえできるという事実は恋愛の心理過程や経験が昔から今日まで、それほど変わりなかったことを示しているのでしょう。貴方が彼にたいして味わった心の過程も体験も、表現の微妙な違いこそあれ、A嬢もB嬢もC嬢も、もし恋をすれば、同じように味わうにちがいないということです。
だから貴方は彼に「恋をしている」のであって、まだ「愛している」のではないのです。恋にはそれほど烈しい努力も忍耐も克己もそして創造力もいらぬことです。だが愛すること――それは恋のように容易(やさ)しいことではない。「愛すること」には恋のように烈しい炎の華やかさも色どりもないのです。その代わりに長い燃え尽きない火をまもるため、決意と忍耐と意志とが必要なのです。
人間にはそれほど強いものではないように恋人たちの情熱も、今あなたが考えていられるほど、強いものではない。むしろ情熱は烈しく燃え上がるものである以上、やがては燃え尽きねばならぬ運命さえ持っているように思われます。情熱のもつ矛盾やその危うさについてぼくが今日まで繰り返し、繰り返し申し上げたのはそのためなのです。
貴方が今、恋していらっしゃるなら、貴方は彼と自分とがいつまでも恋しあっていくと信じて入らっしゃるでしょう。二人の人生の上に不幸や悲しみや苦痛が訪れることも余り考えていないでしょう。いや、そうした不幸や悲しみがあっても、彼と一緒なら平気で乗り超えていけると考えていらっしゃるかもしれない。
彼に幻滅したり、信じ切れなくなったりする日があるかもしれぬとは想像もなさらないでしょう。そして彼もまた貴方に幻滅することがあるとも考えていないでしょう。
つまり、貴方は今日、彼の強さに自信をもっていらっしゃるのです。それは当然のことです。誰だって恋をすれば恋人をすぐれた人と思いたがるものですし、そして自分たちの未来だけは幸福に結びついていると考えずにはいられないものなのです。
けれども人間はそれほど強くないように、恋人たちもそんなには強くないのです。恋というものは、相手の完全や絶対を心ひそかに願うものですが、そうした願いを恋愛は充たしてくれるものではありません。現実の不幸や悲しみは貴方と彼だけを除外してくれるほど甘いものではない。貴方の夢を砕くようで気の毒ですが、ぼくが今あげたような御二人の信頼が時として砕かれ、足をすくわれる日が必ずやってくるものです。生涯、その信頼や情熱を一度も失わず生きていった恋人や夫婦というものはこの地上には決してありません。恋人や夫婦の間には多かれ少なかれ、人生の辛さ、疲労、倦怠というものが必ず見舞ってくるのです。貴方と彼との場合も例外でない。いつかは貴方たちも躓(つまづ)いたり、よろめいたり、彼のそばで孤独の淋しさを味わったりする日が来るかもしれない。彼がどのよう立派な人間でも、なぜか充たされぬ不満が貴方をくるしめるかもしれない。
なぜなら人間の愛とは矛盾に充ちたものだからです。安定は情熱を殺し不安は情熱をかきたてるということは既にぼくたちが考えた通りです。貴方と彼との結びつきが、外眼では安定すればするほど、疲労や倦怠も強くなっていくものです。まして、その上に生活上の困難や現実のみすぼらしさが加わるでしょう。人生は映画のように甘い、優しいものでない以上、そして貴方たちも人間である以上、くたびれたり、飽きることは当然なのです。
その時――「恋をする」ことは全て消え去るかも知れません。葩(はな)が次第に色あせ、褐色になり、そして地面におちるように、今日、貴方が彼に持っている情熱は疲れていくかもしれない。
けれども、その時「恋すること」の代わりに貴方は「愛すること」をはじめねばならないのです。愛することは決意と意志と忍耐とからはじまるのです。だから、それは「恋すること」のようにやさしいものではない。貴方もA嬢もB嬢もC嬢も、誰でもが機会と運命さえ恵まれれば、できるというものではない。
愛することは、貴方だけの決意と、貴方だけの意志と、貴方だけの努力によって少しずつ創られていくものなのです。
現実のみすぼらしさ、苦しさに耐えながら、彼と幸福を共に築こうとしていく決意――それが愛のはじまりです。生活の重荷によろめきながら時として離れ合おうとする二人の指をふたたび、シッカリと握りあおうとする意志――それが愛の歩みです。どんなことがあっても彼の生に絶望しないで最後まで努力を重ねてみること――それが愛の忍耐です。恋のように烈しい炎の代わりに、決して燃え尽きぬ火を大事に守ること、この地上で巡りあった二人の男女が楽しみだけでなく苦しみも悲しみも共にしながら生の路を歩いていく時、次第に生まれてくるあの深い共通の運命愛、それが愛の悦びです。愛は長い病気に耐えながら、忍耐と努力とで最後まで絶望せず闘病するあの療養の路に似ています。
健康が与えてくれるのではなく創っていくものであるように、愛と幸福とは夢みるものでも、与えられるものでもありません。それが貴方が(彼と自分で)創らねば、決して生まれてはこないものなのです。
世間ではこのような愛の忍耐や努力による愛を軽蔑する風潮がだんだん強くなってきました。悲しいことには、それが合理的であるとか、近代的であるとかさえ言われているのです。
けれども、そうした風潮は一人の人間がもう一人の人間に恋をして、愛していく尊さ、厳粛さを放棄することです。人生も貴方の恋愛も、ただ貴方だけの力で深くなっていくのです。「恋すること」――それは今、貴方が経験されていることでしょう。しかし、やがて「愛すること」の長い日々がはじまります。その日のために、貴方は御自分の恋愛を立派に育てていってください。砂浜を振り返って貴方と彼との足跡が、黄昏(たそがれ)の金色の光に包まれた波打ちぎわに、波に洗われながらも何時までも消えぬように、二人の人生の愛の歩みを残していって下さい。
恋のかけひきについて・・・・・・・・15ページ
恋のかけひきという言葉はドン・ファンという言葉と同じように、あまり良い印象を我々には与えません。「あの人の恋愛はかけひきだらけだ」というような批評は、ぼくたちにその人の恋愛の誠意のなさを感じさせるものです。
たとえば――こんな例はよくアメリカ映画やユーモア小説にもあるのですが、ある財産家の息子と結婚するために、若い娘が色々とカケヒキをやって、遂に金的をしとめるというお話――こういうお話は映画のスクリーンでみていると如何にも罪のないように作られているので、ぼくたちは声を立てて笑って観ていられるのですが、もし実際に、そういうカケヒキをする娘に出会ったらどうでしょう。ある人はなかなか可愛い小利口な娘だと言うかもしれませんが、他方、なにか恋愛の純粋さに欠けていると考える人たちも多いにちがいありません。
まして、恋のかけひきなどと申しますとまだ良いのですが、これを「手れん、手くだ」と言い換えますと、愛情ではなく、愛情以外のもの「金銭とか物質とか」を術策を弄して相手から獲るための功利的なニセの恋のような感じをぼくたちに起こさせるものです。
とにかく、かけひきをする恋愛は、あまりいい印象を当事者にも他人にも与えないものです。けれども、ぼくは今日、ニセの恋愛ではなく本当の恋愛、つまり自分と相手との本当の幸福を育てようとする恋愛を皆さんがやっていらっしゃるなら、怯(ひる)まず恐れず「恋のかけひき」をおやりなさいと申し上げたいのです。
こう書きますと皆さんは驚かれるかも知れません。実際、普通のまともな恋愛論なら、あまり、このような「恋のかけひき」などを奨(すす)めないものです。
二人の信じあっている恋人同士に、どうして「かけひき」など必要だろう。純粋な恋愛とはおたがいの純粋な信頼感の上にたてるものではないだろうか。かけひきなどは、そうした二人の信頼を傷つけたり、ヨゴしたりするものではないか――そう一般の恋愛至上主義者の人は考えるでしょうし、また皆さまの中には同じように眉を顰める方もあるかもしれません。
にも拘らず、ぼくは皆さまに「恋のかけひき」をおやりなさいとお奨めします。何故でしょう。今日皆さまも一緒にこの問題を考えてみて下さい。
まず、一つの例からお話し申し上げていきましょう。
ぼくの女友達の中にある劇団の研究生をしているお嬢さんがいました。大変、気立てのいい人でしたが、文学少女といいますか、フランス戦後の小説などの愛読者で、特にシモーヌ・ド・ボウバールの『第二の性』に随分、共鳴していたようです。
もう四ヵ月も前から彼女がある青年と恋に落ちたという噂をぼくたちは聞きました。彼女の方がむしろその青年に夢中になったらしく、ぼくの友だちなども彼女からその青年について、随分ノロケをきかされたようでした。
二ヵ月もたたぬうちに彼女とその青年とはあるアパートで一緒に生活を始めました。勿論、結婚式を挙げたうえでの話でもないので、彼女の友だちの中には式を挙げることを奨める人もいたようですが、そんな時、
「式のような社会的な契約を私は信じないわ、私は私たちの愛情の純粋さの方を信じている」
という彼女の反撃をくったようです。
ぼくたち若い者はたがいに他人におセッカイをすることが嫌いな世代に属していますから、そう言われれば、あとは彼女の自由に委ねるより仕方がありません。
ところが、つい、この間、ぼくが耳にはさんだ噂によりますと、二人の生活はまたたくまに飽満状態にきたらしく、遂に別れてしまったとのことでした。彼女は会う人ごとに、あれほど夢中になっていた青年に、
「裏切られた。見そこなっていた」
としゃべっている様子です。失恋や別離の愚痴をきかされるほど、他人にとって迷惑な話はありません。四ヵ月前には皆から好意を持たれていた彼女はこのころ、仲間からイササカ敬遠されている様子です。「チー子(彼女の名)の顔、随分、荒れていたよ。恋愛に失敗すると、女の顔ってあんなに荒れるのかな」と、ぼくの友人がしみじみと呟いていました・・・・・。
この例を皆さまとご一緒にちょっと、考えてみましょう。ぼくたちは勿論彼女の恋愛に細部に渡ってまで、細かに知ることはできません。彼女と青年との私生活にまで、立ち入る権利はありません。
けれども、ぼくたちは彼女の恋愛の失敗の根本的な理由だけはわかることができます。その理由とは一言で言えば、節度がなかったからです。抑制がなかったからです。
早い話、恋愛に落ちて二ヵ月もたたぬうちに彼女はその青年とアパートで一緒に生活しています。一緒に生活するほどの決心をした以上、無論、彼女はその青年に心だけでなく、体の全ても与えてしまったのでありましょう。
ぼくは無論、その時の彼女の恋愛の烈しさ、真面目さ、真剣さを毫(ごう)も疑いはしません。彼女は自分たちの恋愛の純粋さを信じたのでしょうし、相手の愛情をも信じたのでしょう。そしてまた、相手の青年も本気でその時は彼女を愛したに違いないのです。
にも拘わらず、この二人の恋愛は同居生活が始まってから半年もたたぬうちに破れてしまった。それは二人が、自分たちの弱さ、というより人間の情熱の弱さということを考えなかったからであります。たとえば、結婚という秩序をヌキにして二人の男女が肉体と肉体とを投げ出しあった時、感じねばならぬ孤独感、悲しさ、そしてまた、それを繰り返していく時、やがて倦怠や飽満感が襲ってくるということを毫も考えてみなかったからです。
女性はともかく、男性というものは、どんなに相手を愛していても、相手の全てを余りに早く知りすぎると、ある幻滅と失望とを感ずるようにできている存在なのです。そしてまた、余に相手から愛され過ぎると、その愛を逆に重荷に感じるものであります。
勿論、すべての男性がそのようなエゴィストだとは申しません。中にはこのエゴィズムを捨てた立派な青年も稀(まれ)にはいるに違いない。けれども、それは極く稀であり、貴方たちの恋人やボーイフレンドの大半は心の底にはこのような男性の本能的なエゴィズムを持っているのです。それがまた男性の特質である以上、ぼくたには眼をつぶったり、美化したりする権利はないのです。
とにかく彼女はおそらく相手の青年のなかにこの男性のエゴイズムを認めなかったにちがいない。彼女はただ「愛の純粋さ、愛の信頼」という言葉に陶酔しすぎたのであります。その意味で彼女はやはり無謀だった。
情熱や恋愛を考えれば考えるほど、ぼくたちは情熱や恋愛の根底に潜んでいる矛盾や弱さや罠(わな)に気がつきます。
繰り返して書きますけれど、本当に恋愛というものは一本の綱を渡るようなものです。右足に力を入れすぎても危ない、左足に力を入れすぎても重心を喪(うしな)います。必要なのは心の均整という原則です。
不幸にして、現代でのこの恋愛における心の均整ということが、段々忘れられてきたようです。恋愛の純粋さ、情熱の強さなどという旗印をかかげて、彼女のように一本の綱を盲進していくような例が多すぎます。
だが、ぼくの女友だちはこの盲蛇に怖じずのやり方のため、かえってその恋愛を失い、恋愛に破れたわけです。もし彼女が本当にカシコイ女性であり、自分たちの恋愛を永続させ、幸福に育てていくつもりだったらなら、二ヵ月という僅かな交際だけで相手に体の全てを与えるべきではなかったでしょう。それは決して功利的な意図からでなく、恋人のもっている男性のエゴイズムに出来るだけ刺激を与えないためであり、また人間の肉体の快楽の持つ弱さを知っているからなのです。情熱の強さと同時に情熱の弱さを知っているからなのです。恋愛の素晴らしさと共に、恋愛のもつ色々な危険性を知っているからなのであります。
この知恵こそ、ぼくが皆さまがお持ちになるようにお奨めしてきたことなのですが、今日、ぼくが『恋のかけひき』と言うのは、この知恵を恋愛期間中、さまざまな具体的な行為で活用することにほかなりません。
たとえば――ある夜、パーティの帰り、自動車の中で彼が貴方に接吻を求めてきたとします。勿論、もし二人が本当に愛しているなら接吻は許してあげなさい。けれども、それはあまりデートのたびごとに幾度もやりすぎると新鮮さも魅力も失うということは頭に入れておきなさい。そして彼が求めることが多すぎれば、ヤサシク拒絶すべきです。彼は怒ったふりをするかも知れない。けれどもそれで良いのです。彼は貴方から時々接吻さえも拒絶されれば不安になり、イラだつにちがいない。だが不安や焦燥がかえって彼のあなたに対する情熱をたかめることでしょう。
まして万一、彼が貴方に肉体を求めた時は、必ず、拒絶すべきです。その理由がなぜかは先ほど申し上げた通りです。おそらく彼はウマイ理由をつけたり、あるいはスネてみせたり、あるいは怒ってみせたり、するでしょう。「君は本当はぼくを愛していないんだ」などと言うかも知れません。けれどもそんな時、どんなに心が彼に凡てを与えてやりたくても、結婚までは拒絶をなさい。なぜなら一度、彼に体を許せば、二度、三度、許していくことになるでしょう。貴方は彼にたやすく負けてしまうようになり、彼はまた、それを当然のように思うようになるでしょう。やがて貴方の体はもはや彼にとって新鮮さも魅力も次第に喪っていく危険があるのです。
こうした恋愛中における拒絶の知恵、節度と抑制とによって、ともすれば綱から落ちようとする自分の爪先のバランスを立て直すこと、これをぼくは「恋のかけひき」、恋の技術ともうしあげるのです。
恋のかけひき、恋の技術は決して不純なものではありません。それは情熱についての知恵に支えられたものです。そして、それは二人の恋愛をいつまでも永続させるために必要な方法でもあるのです。
=遠藤周作氏著=
つづく 危険な恋