個性的であることに縛られて、みんなと同じ「個性的な」かっこうになったり、逆に「へん」だと言われたくないために自分を殺してみんなの意見に合わせたり、本当に自分はどうしたいのか、忘れていませんか。

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自分の魅力を知って愛される女になる

本表紙 柴門 ふみ 氏

ピンクバラ自分の魅力を知って愛される女になる

恋をする、人を好きになるということは、その人を好きな自分を認めることであると思います。
 だから「恋人ができない」=「自分らしさがあいまい」につながるという考え方はできないでしょうか。
 女と男の違いをあれこれする前に、自分という個の存在についてちゃんと分かっているのでしょうか。

 個性的であることに縛られて、みんなと同じ「個性的な」かっこうになったり、逆に「へん」だと言われたくないために自分を殺してみんなの意見に合わせたり、本当に自分はどうしたいのか、忘れていませんか。
 これは恋愛だけでなく、人生すべてのことにおいて言えることだと思います。

自分らしさを見失わないために

 恋愛関係でたとえれば、三十歳を越えたのに結婚もできない、恋人もいない、世間体が悪いわとか。
 仲間内で彼氏がいないと肩身が狭いから、とりあえず誰でもいいからつき合っちゃうとか。そうやって自分がどうありたいか、自分らしいってどういうことなのか見失っている人が多いのではないかと思います。

 そんな時、世間て何? 世間とはいったい誰のこと? と思える発想の転換ができるかどうか。
 うちの子がおねだりする時に「これ、みんなが持っているんだよ」って言い方をよくします。
 それで「みんなてって誰?」と聞くと、何々くんって二人だけだったりします。
 夫も「男はみんなそうなんだ」と言い張ることがありますが、「みんなって誰」って切り返すと「むむむむ・・・」。
 これは時々ケンカになりますけれど。

 今は、何をするにもマニュアルどおりに演じたり、マニュアルがなければ不安がったり、人がこうするから自分もこうしなくちゃ、になってしまうことが多いと思います。
 そうすると何がよくて何が悪いのか、自分にとって何が必要で何がいらないのか、だんだん分からなくなってしまう。
 コンプレックスから、無理やり何かを好きにならなくちゃいけないとか、できないことをできるといってみたり。
 これが自分を見失っていくということにつながっていくのだと思うんです。
 自分のまわりにいらないものがいっぱいまとわりついて、自分じゃない自分になっている。
 それを全部切り捨てたところに、本当の自分らしさがある。誰にも左右されない自分の姿です。
 では、それをどうやって見つければいいのでしょうか。

シンプルな考え方をしよう

 私は中学生のころ、よく自分の好きなものをノートに書いていました。
 青い空とか白い雲って、ちょっと文字にするのが恥ずかしいものから、本当にありとあらゆるものを。
 自分らしさに迷ったら、自分の好きなものと嫌いなものを書き出してみる。
 誰にも見せるわけではないのですから「こんなの好きって言ったらへんと思われる」とか「これが嫌いと言ったら遅れているって言われる」という、まわりの雑音というか、他人の評価は一切考えず、ただひたすらに列挙する。

 たとえば「尾崎豊が好き」、暗いと思われるとかそういうことは考えずに、ただ書いてみる。「書道が好き」「ゴスペルが好き」…。
 もちろん嫌いなものもきちんと文字にする。「クラブが嫌い」「夜更かしが嫌い」…。重要なのは何が嫌いで何が好きなのかをきちんと文字にして、自分の気持ちを客観的に整理すること。

 そして自分の好きなものだけを、そこからすくいあげる。
 まわりから浮かないために好きなものを嫌いと言い、不得意なものを得意と言ったり、そんなことをするから自分が分からなくなっちゃうんです。

 自分をシンプルにしましよう。そして、自分が好きなことを好きという、自分を認める。これが一番。
 これは自分の気持ちに迷った時にも応用できます。
『P.S.元気です、俊平』の中で、桃子が俊平のいいところ、悪いところを紙に書き出すところがあります。
 考えすぎて、自分の気持ちが混乱した桃子は、ただ事実を書き出すことによって、俊平が自分にとってどんな相手なのかを確認するんです。

焦りとさようならして、自分をかわいがろう

 自分らしさが分かれば、自分のいいところを伸ばしてあげようって、自分がかわいく思えてくる。
 自分を認めるということですね。
 そのゆとりのある感じの中からこそ、かわいげが出てくる。
「どうせ私なんか」って思っているうちはダメでしょう。負のオーロラを自分でわざわざ出しているようなものです。

 私、実は、かわいげの度合というものは遺伝子に組み込まれているような、先天的なものだと思っているんですけど、かわいげのない人はいない。

 だからその度合いはどうあれ、自分らしさをきちんとつかんで、自分の持っているかわいげを百パーセント、出せばいいんじゃないかと思っています。
 こればかりは人の真似をしても、かわいげが増すわけではないし、むしろ逆にせっかくの自分のかわいげを殺してしまうことにもなるかもしれません。

 これは恋愛という本題から少しそれますが、私も自分を見失ったというか、すごく人生辛い時期があったんです。
ちょうど三十八歳ぐらいから二年ほど。結婚もしているし、子供もいるし、でも、もう四十歳になっちゃう、どうしょうって、ジタバタしてもしようがないですけれど、ただ闇雲(やみくも)に気持ちだけが焦って、辛かった。

 実際、四十歳になってみたら、何だこんなものか、まだまだ人生折り返し点じゃないって、スッと楽になりましたけれどね。何事にも焦りっていうのが最悪なんです。

 ドンと構えていればいいもを焦るから、よけいまわりが見えなくなって事態を悪くしていくことってありますから。
 恋愛に限らず、焦りはあなたの人生の敵。楽しいい毎日を送るために、今日から焦りにさようならしましょう。

私は彼と「どうしたい」を考える

 恋愛の形が千差万別になってきて、これが最高の恋とか、理想の恋愛ということが難しなってきました。
 昔ながらの「俺についてこい」型の恋愛から、「君について行くよ」型の恋愛まで、それぞれの恋する二人にとって理想の恋愛はあっても、誰もがあこがれたり、認めたりする理想の恋はなくなったと言ってもいいかもしれません。

 形にとらわれず、自分らしい、あるいは自分らしさを出せる恋が、この時代の理想の恋といえると思います。

 ただ、どんな時代になっても私は、女や男という性別に関係なく、愛の基本は相手に対する感情移入だと思っています。
 感情移入だから計算も何もない。相手が辛い時にそれを自分のことのように、辛く思えるか。
 相手が悲しい時に、自分も一緒に悲しめるか。相手が辛い時に、勝手に辛がっていれば、と思うようでは、まだ愛とはいえません。

 相手がうれしい時、一緒に喜んであげることは簡単なのですけれど、辛い時、同じレベルで辛さを感じられるかどうかというのはとても大変なことだと思います。
 私だって家族と本当に愛した人にしか感じたことがありません。

愛や恋に迷ったら

 相手が悲しい時、辛い時、その気持ちに同じレベルで同調することは難しいと思いますが。
 少なくとも相手の感情を自分のものとして受け止められるような感受性の高さを持っているのが、恋愛度数の高い女だと思います。
 それと同時に、自分が相手に対してそう思えないなら、その恋、その男に対する自分の思いが本当かどうか、改めて自分自身に問い掛けることも必要だと思います。
 私はこの人とどうしたいんだろうって。

 愛や恋に迷ったら、一度自分の気持ちを冷静に見つめ直してみる。
 よく寝て、おいしいものを食べて、体調を整えて、自分の直感を信じる。
 寝不足だったり (とくに悩んだりすると、眠れないし)、ストレスが溜まっていたの、体調が悪いと、判断力が鈍ります。
 私だって寝不足が続いたりすると、感情のコントロールができなくて、つい不機嫌になりますもの。

 体の調子って大切です。

 恋愛は心だけの問題じゃないんです。心も体も充実した時に下した判断はだいたい間違っていないと思います。
 心も体もいい状態で、もう一度、相手の男と自分はこれから何をしていきたいのか、をよく考える。

 このひとと「結婚」がしたいのか、「恋」がしたいのかね「親友」になりたいのか、「セックス」したいのか…・。
 世間体とか、物理的条件を考えるのではなく、シンプルに自分の、この人とどうしたいのか、だけを考える。そうすることで見えてくる自分の気持ちが意外に本音かもしれません。

楽しく、愛し合う日々をおくるために

 平穏無事でフラットに過ごす一生と、波乱万丈のお疲れ様です、という一生があるならば、私はたとえ疲れても波乱万丈な人生を選ぶと思います。
何か常に、大波小波の事件が起こるということよりも、波乱万丈な人生は、多種多様な人との出会いのある人生だと思うからです。そんな人生との出会いを、自分の中でいろいろな形で消化していくのが感受性と呼ばれるものだと思います。

 それはもちろん磨いていくことができますが、もって生まれた部分も大きいと思います。
 いい意味でも悪い意味でも、感受性は若いころの自分のあり方をかなり左右するものです。
 鋭すぎても疲れるし、鈍くてもまた別の意味で苦労するように思えます。
 自分で言うのもなんですが私は感受性の鋭い少女であったと思います。
 だから高校生まではもう人間関係に疲れて、疲れて、ぼろぼろになることもありました。

 若さのなせる業もあったと思いますが、嫌いな人とはもうとことん嫌いで、ちょっとしたことに自分の針がグワングワン振れる。
 もう、高校までは学校に行くのが辛くって辛くって。
卒業式の日に「うわぁ、よかった。これで自分の好きな人とだけつき合えばいいんだぁ!」って、今思い出しても幸せでした。
 でも、十何年かたって、同窓会で会って、やっぱり嫌いなやつって嫌いだったから、自分でも笑ってしまいました。

恋愛度数の高い女を目指そう

 前置きが長くなりましたが、好きか嫌いか、そんなふうに気持ちが揺れない人生を送る人は恋愛度数が低いんじゃないかとつい疑ってしまいます。
 とても嫌いな人が、ある日、急に好きになるとか、実は本当は好きだったと気づくことってありますよね。

 結局、すごく嫌いな人は、何か自分に対して呼び起こすものがある、自分の感情を揺さぶる何かを持っている人だということなんだと思います。
 それが自分に対して相反するものか、あるいは自分も持っているけれど認めたくないものか。
 それが分からないから、自分の気持ちが変わる直前まで自分の気持ちに気が付かない。

 あっ、と自分の気持ちに気が付いたその瞬間に好きになるというか、好きだったことを認識する、そんなことってあると思うんです。
 相手がとても好き、とても嫌い。いずれにしても自分の感情を揺さぶる存在があるということが分かっている。
 これを認められる、ということが恋愛度数の高さに関係していると思います。

 恋愛だけではなく人間関係のすべてにおいて、男女を問わず、人間にはあらゆることを軽く流すというかサラッとやりすごしてしまう人と、何事にも深く、時には面倒なことになってもかかわっていく二つのタイプがあると思うんです。

 物事全部に深みにはまっていけ、というわけではなくて、そういうことがあると分かっているタイプの方が、人間として恋愛度数が高い、恋愛体質の人間であると思います。

 運とか時間とかは、神様が誰にも平等に与えてくれていると私は信じているんですね。だから、それを分かっているかいないか、で神様は不平等に恋愛を采配(さいはい)している気がします。

 分からないやつに二回チャンス上げるなら、面白そうだから分かっているやつには三回ぐらい恋のチャンスを上げてみようかと。

男女の差をたのしめる、柔軟な心が幸せを呼ぶ

 だから恋愛度数の高い人が必ずしも美人やハンサムとは限らないし、美系なのに縁遠い人もいる。「私、美人じゃないし」と思う前に、それならば、何で私は勝負できるのかとか、自分の強みを考える。
 マイナスじゃなくてプラスで考える。うまく好きなもの方によっていって、嫌いなものをどけていくように、自分の感情の揺れをコントロールして、自分を見つめるよう心掛ける。

 同時に女はこう感じ、こう考えるけれど、はたして男はどうなのか、自分と同じなのか違うのか、とさらに幅広く考える。そんな心の余裕をもつづける。

 そのうえで、気持ちのいいものに触れて、自分を楽しくすごさせる。
 ニコニコ気分のいい毎日にしようと思う。小さな気持ちの積み重ねによって、恋愛度数って、自然に上がっていくのではないかと思うんです。

 そうして、女の見方、男の見方の両方を、受け入れることのできる柔軟な心で、人とつき合っていく。そうなれば、女と男はより深く、楽しく愛し合え、分かり合える日々を送れるのではないかと思います。

エピローグ

■女と男、違いを愛して楽しもう

 今までの恋愛論といえば、もちろん不肖私がいろいろ述べさせてもらったものを含めて、どうしたら「彼に愛されるのか」という、いわば恋愛の技術が重視されがちでした。
 もちろん、この本だって、愛されるためにどうすればいいのか、ということに触れている点では同じだと思います。

 ただ、私の心のどこかに、今までの恋愛論は必ず誰かの立場に立った一方通行のものではないか、という疑問がずっと存在していたことは事実です。

 もしかしたら、それは女の恋愛の最終ゴールが結婚だという時代が変わりつつある、と思っていたからかもしれません。
 もし結婚がゴールなら、いち早くゴールにたどり着く技術の磨き方が取り沙汰されるのはあたりまえだからです。

 マンガを描くという仕事の上で、恋愛関係ははずせない重要な人間関係の一つです。
 まして私が描くマンガは男性誌に載ることが多いわけですから、女の考える一面的な恋愛の捉え方では、男性読者が納得しない。
 性別を問わず読者に私の描く主人公の気持ちや行動を理解し、共感してもらうには、女と男どちらにとっても、読み手が同性のこういう考えや行動は納得できると認めること。
 そして女って (あるいは男って) こう考えてこういうことをするのか、という自分との違いを発見してもらうことの二つの点につきます。

 そうすると自ずから、私の中には女の考える恋愛(あるいは男はどうとらえているのか)、そして男の考える恋愛(女はどういうものだと思っているのか) という異なった視点が生まれてくるのです。
 それらを比較してみた時、ああ、本当に同じ人間とはいいながら、こんなにまで女と男は違う生物なのかと実感させられました。

 仕事だけではなく、私生活においても、もちろんこれは恋愛に限ったことではないのですけれど、女と男の考え方の違いにはそれこそ些細なことでさえ、こんなに違うんだと思い知らされることが少なくありません。
 それはいまさら私が声を大きくして言う必要がないくらい、誰もが分かっていることだと思います。

 それなのにその違いを一言で「女はだから仕方がない」とか「男ってそういうものなのよ」と片付けてしまう人のなんて多いことなのか…・。
 恋愛は女と男、二人で初めて成り立つ人間関係です。
 だからいつか、一方的に女の立場だけから考えた、結婚というゴールにたどり着くための恋愛術ではない、恋愛論を書いてみたいと思いました。

 今回、私なりに、今までしてきた男の観察と分析をもとに、恋愛論という形で女と男の考え方、感じ方の違いをまとめてみました。
 私は女なので、完全に男の気持ちや考え方を代弁できたとは思いませんが、それでも一方的な女の意見には終始してはいないとひそかに自負しています。

 お互いの考え方の違い、感じ方の違いが分かれば、もっと相手を思いやり、もっとお互いに深く親密な関係になれる。そうして楽しい充実した日々を送れるはずです。それは恋愛論を越えていつか「人間愛」論に通じると言ったら言い過ぎでしょうか。

 だから、男の気持ちが分からないと悩んでしまっている女たちだけでなく、逆に女って分からないとため息をついてしまっているような男にも読んでもらえればいいなぁ、と思っています。
 そして少しでも女の気持ちを知って、すてきな恋愛関係を作ってくれればこんなにうれしいことはないと思います。
 最後になりましたが、私の長年の女と男の研究? をこのような形で本にまとめてくださった講談社生活文化局の岡部ひとみさん、原島なほみさんに心から感謝いたします。

女と男、違うから、深く、愛し合える
柴門(さいもん)ふみ 著