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あなた、独身に戻してくれって言っているけど、それは、早い話、離婚したいっていうこと? 自分の声も自分が発しているのではなく、天井あたりから聞こえて来るような錯覚にとらわれた。早い話というか、まあ・・・・いや、つまりは、そういうことだなあ。離婚なんて、私、考えたこともない!

本表紙 藤堂志津子著

夫の彼女 藤堂志津子

 Ⅰ
 「おれを独身にもどしてくれないかな・・・・」

 夫の典比呂(のりひろ)が、呟くようにそう言ったのは、涼紀(すずき)が夕食後の洗いものを終えて居間にもどり、安眠効果があるというハーブ・ティーを、ふた口飲んだときだった。

 安眠効果うんぬんといっても、不眠症に悩んでいるわけでもなく、寝つきが悪いものでない。いつだってベッドに横たわって五分とたたないうちに眠っているし、いったん寝入ったなら、よほどのことがないかぎり、朝まで目覚めない。
 体はいたって健康で、その健康を、さらに増進させようとして、ここ半年ほど愛飲しているハーブ・ティーだった。
 湯気の立つカップを両手で包み込むようにして持ったまま、涼紀は夫の呟きを聞き流した。

典比呂には、いくらか、エキセントリックなところがある。
 性格的な欠点と言うには大げさすぎるけれど、しかし、彼が唐突に口走る言葉を、いちいち真に受けていたら、こちらの身が保たない、といった程度のエキセントリックさなのだ。

 彼のこうした性分は、結婚する前からわかっていた。涼紀は、それを、心の隅で面白がってもいた。ただし、「面白い」と口に出して言うことはない。むしろ、それとは正反対のどこかしら非難めいた口調で、何回となく典比呂にむけて指摘してきた。

「あなたって、ほんとうに矛盾と気まぐれのかたまりみたいな人ね。あなたが単なる思いつきで口にする言葉を本気にしていたら、そのたびに、こっちが振り回されてしまう。ばかをみちゃうのよ、聞いてるほうが」
 典比呂のエキセントリックな一面こそが自分の気持ちをつかんではなさない、と自覚しているだけに、涼紀は「面白い」とは、口が裂けても言えなかった。

「おれは矛盾と気まぐれの、そういう人間じゃないよ。頭のなかで、たくさんの言葉がぐるぐる回っているから、それを省略、整理して、要点だけを言おうとすると、どうも相手には、その意味するところが伝わらないらしい。まるで、おれが思い付きで言っているように聞こえるらしい」

「とにかく気を付けなさい。私はあなたってひとが理解しているから、ああ、また始まったな、で終わるけど、赤の他人なら、きっと誤解する。いいかげんなことを言うやつだ、とか、無責任な発言ばかりする奴だ、とか」
「おれだって、いつもこうじゃないよ。気の許せる相手でなけりゃ。会社の会議中に、こんな言い方はしないさ」
「そうだといいけど、ま、そう願うしかないわね、私としては」

 一月も下旬になったその夜、「独身にもどりたい」と言う夫のエキセントリックな呟きを無視して、涼紀は黙々とハーブ・ティーをすすりつづけた。

 目の前には、ガラスとパイン材を組み合わせた丈の低い、大ぶりなテーブルを、そのそばに敷いた畳一枚ぶんサイズの、青いふかふかのマットが、居間での涼紀の定位置だった。

 春と夏のあいだは、ふかふかのマットにかわって、やはり青系統のコットンマットを敷く。
正面の青い大判のロール・スクリーンのむこうは側は夫婦の寝室だった。以前は襖で仕切られていたのを、上げ下げのできるスクリーンにかえ、同時に、それまで使っていた重量感のあるソファや椅子、テーブルなどを、もっとカジュアルなものに買い替えのである。

結婚してからも勤めいた会社を、ようやく一年前に辞め、専業主婦となった涼紀が、真っ先に意欲を燃やしたのが、家の中の模様替えだった。
 家といっても一軒家ではなく、持ち家でもない。2LDKの賃貸マンションで、当分は引っ越しの予定はなく、かといって、一生ここに住むつもりもなく、それで、ちょっとした気分転換のつもりではじめた模様替えだった。

 基調色は青にしよう、深海を連想させるブルーだ、と色はすぐに決まったものの、いまの形に落ち着くまで、結局、半年以上も費やした。
 涼紀は大雑把なプランを立ててみるたびに、典比呂が、ああでもない、こうでもない、と煮え切らない態度を示したからである。
 最後には、涼紀が強引に押し切った。
「もう、私の好きにさせてよ。これからは、あなたより専業主婦の私のほうが家にいる時間がずっと長いんだから」

 それからは涼紀の独壇場で、毎日のように家具店やインテリア・ショップ、雑貨店をまわっては、気に入った品だけをひとつずつ根気よく買い集めていった。
 もっとも張り込んだのは、夫専用のひとり掛けの椅子である。
 それはレモン色の、背の低い、ずんぐりしたデザインで、ひと目見た瞬間から、
「これ夫の好みだ」と閃いた。

 ただし価格は予定したのよりも三倍もし、そのため涼紀は一週間、思い迷った。
 だが「夫を喜ばせたい、びっくりさせたい」の一念が日ごとにつのり、椅子の代金には自分のへそくりを使う事にして、思い切って購入した。

 レモン色の椅子が自宅に配送された日の晩、勤めから帰宅した夫は、目を見張った。
「・・・・・お、これは・・・・・」
 涼紀は、夫におしまいまで言わせず、妙な照れくささが働いて、気がつくとひとりで喋っていた。
「私からのプレゼント。ただし、むこう三年間の、あなたの誕生日プレゼントはないものと思って。いや、五年ぶんにしようかな。とにかく、安くはなかったわけ、でも以前に、何かの雑誌でこれそっくりな椅子を見て、あなた、いいなあ、おもしろいデザインだなあって言っていたじゃないの? この椅子をお店で見たとたん、それを思い出して、それで、どうしてもむりをしたくなっちゃったの」
「おれ、そんなこと、言ったかなあ」
「言ったわよ。私、ちゃんと聞いていたもの。椅子の写真も、あのとき、この目でしっかり見た」
「・・・・そうか」

 夫も照れているのか、それ以上は何も言わずに、そそくさと着替えに寝室に消えた。
ふたりが結婚して五年がすぎ、典比呂は三十五歳に、涼紀は三十三歳になった。
今夜も夫はテーブルのむこう側のレモン色の椅子に腰かけ、エキセントリックな呟きのあとは、前方のテレビの画面を注視しつづけていた。

涼紀もカップを手に、見るとはなしに画面を見る。
画面では、若い芸人が司会をするバラエティー番組が繰り広げられ、へたなギャグと、観客を巻き込んだ、わざとらしい爆笑が、ひっきりなしに飛び交っていた。
ふだんの夫なら、この手の騒々しさは苦手で、すぐにスイッチを切り替えるはずなのに、今夜は、なぜか、熱心に見入っていた。視線は画面からはなさない。
その姿勢のまま、ふたたび典比呂は言った。今度は、くぐもった呟きではなく、はっきりと涼紀の耳に届いた。

「どうかな、さっきの話」
「・・・・さっきの話って?」
「おれを独身に戻してくれないかって話」
 涼紀はハーブ・ティーのカップを持ったまま、テレビに向かって答えた。夫の言い草の半分も本気に受け止めてはいない。
「独身に戻ってどうするの?」
「・・・・うん、まあ、いろいろと、じっくり考えたいことがあってね」
「独身に戻らなくても、いろいろと、じっくり考えることぐらいできるじゃないの、いまのままでも」
「そういう訳にはいかないんだ」
「また、ややこしいことを考えるのね」
「いや、ややこしいことじゃないけども」
「ややこしく複雑にこねくり回してしては、その実、たいしたこともない内容だったりするのよね、あなたの場合は」
「・・・・・・」
「どうしても、行きつく先は同じっていう割り切り方も大事だ、と私は思うけど」
「おれは結論をだすまでのプロセスに手のかかる男だってことは、きみも知っているだろう?」
「まあね。自分のなかにかかえこんで、ひとりで、ぐちゅぐちゅ考え込むのが好きなひとだってことは」
「そうしなければ、自分自身で納得できない」
「私は、そういうのは、時間の無駄、と思っている。もちろん、この私にだって、そういった時期はあったわよ。でも、それは二十代でさようなら。三十代は、二十代の反省を踏まえて、さらに大きく、大胆に前進する年代だと思うけどな」

「・・・・・・・」
「そんなに独身に戻りたての?」
「・・・・ああ、とりあえずは・・・・・」
「・・・・・・」
「わかった。独身に戻してあげる」
「ほんとか?」
 夫の声に手放しの喜びがあふれ、涼紀は、それに、ほんの少し傷ついた。が、傷ついた様子はみじんも表さずに付け足した。
「ただし一週間だけ。一週間だけ、お義母さんの所に泊まらせてもらって、そこから通勤するといいわ。でも、いいこと? 一週間ぽっきりよ」

 すぐに夫の返事はなく、ふたりの視線は、相変わらず相手ではなく、テレビの画面に向けられていた。
「そういう事じゃないんだ」
「あら、そうなの?」
 涼紀は、わざと意外そうに大仰に聞き返す。
 いっときエキセントリックな悪い虫に取り憑かれているにすぎない夫を、こうして鷹揚(おうよう)に、それとなくあやしている余裕たっぷりな自分を演じるのも、たまにはいいことだった。

 最初は演じたつもりなのに、そのうち、じんわりと本物の母性的な愛情が気持を潤してきて、しみじみ夫婦の絆を感じさせてくれたりもする。

 恋と呼ぶほど張りつめたテンションではなく、愛というほど崇高でもなく、いくらか下世話なニュアンスのまじった情と言うしかない夫婦間のそれを。
 それに、こちらが余裕たっぷりに構えしてさえすれば、夫は自然とこっちのペースに傾いてくる。少しずつエキセントリックな感情が薄まり、悪い虫も行方をくらまして、あとに残るのは、気弱で、繊細な少年に退行してしまったかのような夫の筈なのだ。

 少年に戻った夫は、いつも、こう言って来る。
「ごめん。おれがいけなかった。涼紀、傷ついたろう?」
 その際に涼紀が口にするセリフも、すでに決まり切っている。
「平気よ。だいじょうぶ。傷ついてなんかいない。そのかわりに、何かおいしいもの、ご馳走して」
ひとつあり、こちらも夫の気持ちを逆撫ですることなく、その場の気まずさを、一挙に取り除いてくれる。

「傷ついたかって? 当たり前でしょ。あんなこと言われて、傷つかないわけないでしょうが。そ、私は、目一杯傷ついてる。全身、傷だらけ。どうしてくれるのよッ」
 喧嘩腰にこう言い返した場合も、やはり、夫はほっとした顔つきになり、次には、あっけないぐらい、速やかに謝って来る。

 全く正反対のふたつのセリフだけれども、どちらのセリフを言うときも、めりはりを利かせた堂々とした口調と態度が肝心だった。いじいじとした湿っぽさを漂わせてはならない。この点さえ押さえておけば、そのときの涼紀の気分次第で、ふたつのうちのどっちのセリフを選んでも構わなかった。

堂々として、ひるまない態度こそが、典比呂を安心させる。
それに気づいたのは、結婚する前の、三年間の交際の後半だったか、結婚直後だったか、今となっては、もう覚えていない。

しかしエキセントリックなところがある彼の扱い方のコツはこれだ、と相手のほっとした表情から手ごたえを感じ取った瞬間、涼紀のとまどいと不安は消し飛んだ。どれだけ彼が、前後の脈略のない突拍子なことを口走っても、もはや、涼紀は動じなかった。
(典比呂は、夫は、つまり、こういう人なのだ)
というフレーズが、太く、逞しい背骨のように涼紀を支えていた。

 しばらく黙りこくってテレビを観ていた夫が、またしても話を蒸し返して来た。
「おれも、きみにどう説明していいのか、困っているんだ。なぜ独身に戻りたいか、という説明なんだけれどね」
 今夜の彼は、いやにしつこい、と思いつつも、涼紀はテーブルの上のティーポットから二杯目のハーブ・ティーをカップにつぐ。
「涼紀、聞いているか?」
「はい、はい、聞いていますよ」
「つまりさ、こういうことなんだ。おれっていう男は、結婚に向いていない、とようやくわかった。きみには申し訳ないけれど、五年たって、このことがはっきりしてきたんだよ」
 涼紀は口をつぐんだまま、胸の内で吐き捨てた。
(何を今さらばかなことを)
涼紀の無言をどう解釈したのか、典比呂は、すまなそうな口ぶりで声のトーンを落した。
「こういう言い方は、きみに失礼なのは、十分に承知している。でも、こうしか言いようがないんだ。おれみたいな男は、結婚しないでいるのがいちばんだった。人並みの幸せを望んだのが、そもそもの間違いだった」

 最後の言葉には、多少のエキセントリックさがにじんでいた。
 涼紀は、わざとぶっきらぼうに尋ねた。
「会社で何かあったの?」
「会社? 会社のことは、いまは関係ない」
「あら、そう」
「きみにしてみれば、寝耳に水っていう話かもしれないけど、おれはずっと考えてきたことでね」
「ずっと、というのは、いつから?」
「何年も前から」
「だから、何年前からかって、きいているの」
「言わなきゃダメか?」
「うん、聞きたい」
「・・・・そうだな・・・・三年前ぐらいからかなあ」
「四年前?・・・・・四年・・・・」
 ふいに涼紀はカッとした。
四年前と言えば、結婚して一年目ではないか。結婚一年目にして、もう典比呂は、この結婚が間違っていた、と思い始めていたというのか。
そんな典比呂の気持ちも知らずに、もうしばらくは共働きをして金を貯め、ほどほどに先の見通しがついたところで退職し、主婦業も板についてきたなら出産を、などと計画していた自分は、なんと無邪気な、のんき者だったのだろう。
それだけではない。
一年前の、この家の模様替えにしても、はたまた自分のへそくりをはたいた、この目の前のレモン色の椅子にしても、典比呂が、そんな気持ちでいるとわかっていたなら、けっしてやらなかったし、買わなかった。
「あ、あなた」
 怒りにかられて涼紀は舌がもつれた。
「こ、この結婚が失敗だったと思いながら、よくも私にそれを隠して、今日までやってこれたものねッ」
「失敗とは言っていないよ。おれ自身の間違いだった。おれ自身のね」
「失敗も間違いも同じことよッ」
「いや、違う。だって、きみはよくやってくれたじゃないか」
「それって皮肉?」
「皮肉じゃなく本心だよ。きみには文句のつけようがないくらい、きちんとおれの女房をやってくれるもの。健康で、明るくて、まじめで、ひたむきで・・・・きみは、何ひとつ悪くはない」
 涼紀はつかのま気を取り直した。
 夫の言うとおりだった。
典比呂の妻として、他人から後ろ指刺されるようなことは、ひとつもしていない、と涼紀も胸を張って断言で来た。
 人妻なのに独身の振りをして男性の注目を集めよう、などという、よこしまな考えは、この五年間、いっぺんも持たなかった。
 浪費癖もない。むしろ、いかに倹約できるかに頭をひねるのが大好きだったし、しかも実行もしてきた。共働きをしつつ、この五年間で新調した服を両手で数えても、まだ、指が余る。
 そうやって、こつこつとへそくりをため、それで、夫にレモン色の椅子を買ってやったのだ。

 同じこの街に住む夫の母とも仲良くやってきたつもりだし、毎日の食事にしても栄養のバランスをつねに考え、さらに夫の好みの味に合わせてもきた。
 これ以上、どこに文句がつけられるというのか。
「そうよ」
 きっぱりと言って、涼紀は夫へ顔を向けた。心配そうな夫の眼差しがあった。
典比呂は深く頷いた。
「おれが悪いんだよ」
 素直にそう認める夫を、一、二秒じっと見つめ、すると涼紀は、急に夫がいじらしく、かわいそうになってきた。
 だが、そんな自分もまた、忌々しい。
(こんなときに、なんで夫に同情しなくちゃならないのか)
 結婚前に付き合っていた三年間も、よくこういった感情に襲われ、そのたびに涼紀は、自分に腹を立てつつも、典比呂をかばってやらなくては、といった義務感にかきたてられた。

独身のころの典比呂は、いわゆる女性にもてるタイプだった。どう形容すればいいのか・・・・つまり、そこはかとない色気がある。それも動物的な荒々しい色気ではなく、植物性の弱々しさを秘めたそれだった。おそらく、こういうのが、持って生まれた天性というか、資質というものだろう。

典比呂が、どの程度、女性にもてたのか、涼紀は具体的には知らない。自分から、それを口にして、ひけらかすような典比呂ではなかった。
むしろ涼紀に余計な誤解はされまいとしてか、ことあるごとに典比呂は言っていた。
「おれはまわりが思っているほど、女にはもてないよ。まるで人気がない。もてるように勘違いされやすいタイプらしくて、それで、かえって損をしていると思うな」

 しかし典比呂は何回となく、それとなく自己防衛しても、涼紀は信用しなかった。
 何かが、におうのだ。女の勘、としか言いようもないものが、しきりと「おかしい、へんだぞ?」と涼紀にうったえかけてくる。それを自分一人の胸にしまっておける涼紀の性分ではなく、異変を嗅ぎつけることが二回、三回つづくうちに、やがては嫉妬心を爆発させてしまう。

「あなた、ほかに女の人がいるのでしょ?」
 これと指摘できる根拠もないため、こういう責め方しかできない。
当然、典比呂は一笑にふす。取り合わない。
 それが涼紀をいっそういらいらさせ、自分でも支離滅裂だと思いながらも、思いつくかぎりの詰問を浴びせかけていく。
それに対して、最初は返事をしていた典比呂も、途中からうんざりした様子で口をつぐんでしまう。
 それでも涼紀は詰問をやめられない。胸のうちにたまりたまった不信感や疑惑、うっぷんを残らず吐き出してしまうまでは、自分を止めることができないのだ。

 果てしなく続きそうだったそれも、そうこうするあいだに、憑きものが落ちたように終る。言いたいだけ言って、涼紀は、ようやく気分が晴れる。何も解決はしていないのだけれど、とりあえず、その場の気はすむのである。

そんな涼紀の心中を見透かしたような絶妙のタイミングで、典比呂は言って来るものだった。心からの謝罪をこめた、しんみりした口調が、そのときの涼紀には、ひときわ身にしみる。
「おれが悪いんだよ。きみにそんなふうに思わせてしまう、このおれがね。もちろん、天に誓って、おれは潔白だ。きみが想像しているようなことは、何もない。でも、おれの言動のどこかが、きみに不信感を持たせてしまうのだろうな。つくづく、おれはいやな性分だね。女性にもてないのに、もてるような雰囲気の男に見られるなんて。しかも、こうしてつきあっているきみにまで、そう思われるなんて、自分でも情けないよ」

典比呂からしんみりとそう言われるたびに、涼紀は、ついいましがたまでの自分の激昂を失念し、ひたすら彼がいじらしく、かわいそうになって来るのだった。
(そうか。彼は、付き合っている、この私にまで誤解される、そんな損な人間なのか。だったら、せめて、私だけでも彼の味方になって、庇ってやらなくては。そう、私以外に、だれが彼をかばってやれるというのか)

 結婚後は、こういった諍(いさか)いはほとんどなくなった。
それは涼紀が、見て見ぬふりをする智恵というか妥協を覚えこともあったけれど、同時に、典比呂が以前ほど秘密のいかがわしいにおいをさせなくなっているのも事実なのだ。
それでも年に二、三回は、涼紀の嫉妬心がとがる。とがったそれを、夫にぶつける、といったことを繰り返してきた。
典比呂は、三十五歳になったいまも、ほっそりした体型の、きれいな顔立ちの男だった。
他人はどう見るかわからないけど、少なくとも涼紀からすると。きれいな男、なのである。
けれど典比呂にとって涼紀は、きれいな女、ではないらしい。
結婚前も後も、典比呂ができるだけ涼紀の容姿についてはふれまいとしているのを、涼紀自身がもっともよく知っていた。
「おれは女の外見にはこだわらない。見てくれなんて、すぐに飽きるからね」
 と彼は折に触れて言い、さらに厄介なのは、これが涼紀への最大級の褒め言葉だと信じて疑わないことだった。

だが涼紀は、嘘でもいいから、いちどだけでも夫から言ってもらいたい。
「きれい」だと。「きれい」がむりなら「可愛い」でもいい。
しかし典比呂の頭には、そうした発想はないらしく、また、涼紀の密かな願いにも気がついているようでもなかった。
思ったことは、すぐさま口にする涼紀だけれど、これだけは八年間、いまだに口にできずにいた。
「ね、私、きれい?」
 と冗談半分にせがむにしても、涼紀は、自分の外見に自信がなさ過ぎて、できなかった。この屈折した気持ちが、年に二、三回の嫉妬心の形をとって、夫にぶつかっていく。嫉妬の対象は、夫が「きれいと感じる女性全員」だった・・・・。

 これまでの、そうしたことを、つかのま思い返していた涼紀の耳に、ふたたびレモン色の椅子から夫の声が伝わってきた。
「だから、女房のきみへの不満なんか、これっぽっちもないんだ。不満があるから独身にもどりたい、という図式のほうが、一般的にわかりやすいんだろうし、きみも理解しやすいのかもしれないけれど、おれとしては、心にもないことは言いたくない」

涼紀は夫を見返した。夫も、涼紀の目をはぐらかさずに受け止める。
 互いに暫く見つめ合い続けた。
 夫が必死に。ここは先に目をそらしてはいけない、と自身に言い含めている内心が、涼紀には手に取るように読めた。
 なんだか夢を見ているようだった。現実味が感じられないのだ。目の前にいるのも、夫の顔の仮面をつけた、まったくの別人としか思えない。
「さっきから、あなた、独身に戻してくれって言っているけど、それは、早い話、離婚したいっていうこと?」
 自分の声も自分が発しているのではなく、天井あたりから聞こえて来るような錯覚にとらわれた。
「早い話というか、まあ・・・・いや、つまりは、そういうことだなあ」
「離婚なんて、私、考えたこともない・・・・」
「うん、それも、わかる。きみとしては、おそらく、そうだろうと思う」
「あなた、自分がどんなにひどいことを、私に言っているのか、わかってる?」
「わかっているつもりだ」
「そのわりには平然としている」
「平然として見えるかなあ」
「見える」
「だとしたら、やっぱり、四年前からずっと考え続けてきたから、年季が入っているというか、そういうことじゃないかな」
 涼紀は、わざと唐突にきいてみた。目は、夫のどの変化を見逃すまいとした。
「女の人がいるの?」
「いない」
 早すぎもせず、遅すぎもしない即答だった。
「きみは信用しないかも知れないけど、これには女性問題は、まったく、絡んでいない。おれの生き方というか、人生の問題というか、それだけなんだ」
「あなたの人生にとって、私は邪魔な存在なわけ?」
「きみに感謝している。おれみたいな男と結婚してくれて、こうして五年間も暮らしてくれたからね」
「そんな口先だけの感謝ならいらないわ。だって、そうじゃないの。四年も前から私と別れたかったのなら、感謝するどころか、私を恨んでいるはずよ。四年間もあなたにひっいていて、はなれて行こうとしなかった私のことは、疎ましいだけでしょうが」
「そこは微妙なところでね」
 夫は心持ち目を伏せた。
「確かに四年前から考えてはいた。しかし、きみへの愛情が消えたのではないし、おれ自身のきみへの未練もあったからね」
「未練を断ち切るために四年もかかったってこと?」
「いや。自分の思うままに生きたいのなら、何かを捨てる必要がある、ということに気づくまで四年もかかった」
「おかしいじゃないの? どうして何を捨てる必要があるのよ。このままの生活で、そして、あなたは思うままに生きればいいだけでしょう?」
「そうはうまくはやれないよ」
「なんで?」
「おれは自分で思っているほど器用な人間じゃなかった」
「・・・・・やっぱり女性がいるのね。そう考えると何もかも、すっきり説明がつく」
「だから違うって言ったろう」
「この際、誤魔化さないでよ。誤魔化されるのは、もう、まっぴら、こりごり」
 夫は深々とため息をついた。そして、呟いた。
「女は関係ないよ。おれが好きなのは、女よりも、若い男なんだから」
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます

 Ⅱ
離婚のひと言を、いったん口に出してからの夫の典比呂の顔つきは、日後と明るくなっていった。
涼紀からすると、忌々しいほどに明るい。だいいち、こっちは、まだ離婚に同意したわけではないのだ。
 離婚を切り出されたショックは、もちろんあるけれど、それよりも、もっと涼紀を動転させているのは、そのあとにつづいた夫の告白だった。

「おれが好きなのは、女より若い男なんだから」
 天と地がひっくり返ったような、とは、まさしく、このことかもしれなかった。
 結婚して五年、涼紀は夫の女性関係に、抜かりなく目を光らせてきた。夫が「きれいと感じる、世の中の女性全員」が、妻である自分の敵だ、と信じて疑わなかった。

 ところが、夫の関心の対象は女性でなく若い男たちだという。もし、それが本当なら、涼紀は、まるで的外れな焼きもちをやいていたことになる。
 しかし、夫が同性愛者だとは、どうしても涼紀は納得いかなかった。

ベッドのなかでの典比呂は、涼紀に「おや?」という不審な気持ちを抱かせたためしはいっぺんもなく、妻の体に触れるのを嫌がるそぶりもない。

 セックスの回数にしても、結婚五年目で月に二、三回というのは、まあ、妥当なところではあるまいか。多くはないかもしれないが、かといって少なすぎもしない。
 だから、これまでの夫の言動を振り返ってみても、どうしても同性愛には結びつかないし、ピンとこないのである。
「それって噓じゃないの?」
 と、夫から打ち明けられた際、涼紀は、すかさず、そう言っていた。
「そんな嘘までついて、ほんとうのところは、何をごまかそうってつもりなのよ」
 典比呂は、憐れむようなまなざしで見返し、さらに同情の口ぶりで答えた。
「きみがそう思いたいのは、当然だと思うよ。でも、残念ながら、これは嘘でも、誤魔化しでもない」
「だって、あなたは、現にこうして私と結婚してる。ちゃんと女の私と健全な夫婦生活を送っているじゃないの」
「きみには考えられないかもしれないけど、おれは、つまり、どっちでもできる人間でね・・・・・女に対しても、男に対しても」
「そんな・・・・どうして、そんなこと、できるわけ?」
「やっぱりきみには無理か・・・・・。いや、これは責めているんじゃないよ。おれが、いくら正直に話しても、多分、きみには理解しかねることだろう、という気はしていたんだ。きみは、良くも悪くも、複雑なタイプじゃないからね」
「その言い方、わたしを馬鹿にしているの?」
「違う。馬鹿になんかしていないさ。おれは、きみのそういうシンプルな性格に惹かれたのも事実だから」
「私は騙しやすいっていうこと?」
「だから違うんだって。きみと一緒になったら、もしかすると、おれもきみに感化されてシンプルになれるかもしれないいって、自分自身に期待したんだよ」
「・・・・・・」
「何回も言うようようだけれど、きみにはね、なんも悪くないんだ。おれが、どうにも手に負えない、ばか野郎なだけで」

寝耳に水の離婚話と、夫が実は同性愛者でもあったという、このふたつが、妻にどれだけのショックを与えるか、典比呂は打ち明ける前にそれなりの覚悟を決め、事後の対応策まで考えてもいたらしい。
 隠し通して来た胸の内を涼紀に告げた翌日から、典比呂の帰宅時間は、これまでより一時間も早い七時になった。
 七時より遅くなりそうなときは、電話までかけてくる。こんなまめさは、新婚三ヶ月をすぎてからは、なかったことだった。
 やがて夕飯のテーブルに向かい合って着いてからも、典比呂の気遣いはつづく。
 料理の味付けやメニューの組み合わせを、それとなく褒め、二日に一回は帰宅途中のスーパーマーケットで買ってきたワインを紙袋から取り出し、尋ねもしないのに、会社でのその日の出来事を、こまごまと楽し気に聞かせる。

 エキセントリックなところは、ぱたりと鳴りをひそめ、ひたすら涼紀を思いやり、いたわろうとする。そんな夫を目の当たりにしていると、涼紀はつかのまの怒りを忘れて胸がしめつけられた。
 離婚話も同性愛者の件も、あれは、一瞬の悪夢だったと思いたい。あれは、夫の悪ふざけに過ぎない、とだれかに言ってもらいたい。

 いま目の前にいる彼は、結婚前と変わらない、ハンサムで、優しく、心配りも細やかな最高の夫だった。彼にかわるパートナーなど、これから先、いくら探しても、いるはずがない・・・・・。
涼紀に対する気遣いを惜しみなくふりまきつつも、しかし、典比呂は、離婚話を白紙にもどすのではなく、女性より若い男が好きという性癖を否定するのでもなかった。

涼紀のプライドを傷つけまい、いたずらに逆上させまい、と最新の注意を払って対応する一方では、典比呂は、少しでも自分を解かってもらおうとする努力を根気よくつづけた。
「おれはね、いわゆるバイセクシュアルという、つまり、男と女のどっちも出来るってやつでね」
 じっくりと解き明かそうとする典比呂の気真面目な表情を目の当たりにしていると、涼紀も、しぶしぶながら調子をあわせるしかなかった。
「・・・・そんなふうにへんになったのは、いつからよ?」
「中学のときも、高校時代も、そこそこに好きな女の子はいたんだ。でも、自分にその傾向がある、と自覚したのは、大学一年になってまもなくだったな」
「はじめて目覚めたこと?」
「相手は酒場のバーテンダー。おれと同じ十九歳の、ものすごくきれいな子だったよ。ほんとかどうかは知らないけど、四分の一だけ、スウェーデン人の血が混ざっているとか」
「スウェーデン人って、あのバイキングの? じゃあ、筋肉隆々の大男・・・・・」
「いや、ぜんぜんそうじゃない。ガラスみたいに繊細な顔立ちで」
「ふうん、あなたって、もともとは、そういうのが好みなんだ」
 三十三年間のこれまでの人生で、涼紀は性格的にも、繊細という言われ方をしたことは、一度もない。
「おれだって、その子に会うまでは、自分の好みのタイプが、こういうものだったなんて、わからなかったよ。それまで好きだった女の子たちは、肥った者も、痩せた者もいたし、丸顔から面長まで、とにかく、てんでばらばらだったしね。この身が一定していないのは、どんなタイプもオーケーだから、かえってトクだな、はぐらにしか思っていなかったぐらいで」
「・・・・・・」
「ところが、バーテンダーのその子は、おれの美意識のツボに、ぴたっとはまってしまった。こんなきれいな男の子がいたのか、と。おれは、のぼせあがって、その店に通い詰めたよ。その子を見たいという一念だけで」
「その子は、あなたをどう思ってたの?」
「なんにも。まるで相手にしてくれなかった。その子が相手にするのは、羽振りのいい、金持ちの中年男やジイさんたち。その子を目当てに、その店に通っていた男たちはいっぱいいたからね、学生のおれなんかには、目もくれなかった・・・・・」
「じゃあ、その子とは、なんにもなかったんだ」
「ああ。なんにも・・・・ただ、それからだよ、おれが、きれいな男の子に目が行くようになったのは。年下の男の子たちにね」
「年上の男は?」
「関心ない」
「へえ、そうなの? 男なら、誰でもっていうことじゃないんだ」
「それはそうだろう。好みがある」
「じゃあ、あなたの男の好はどういうのなの?」
「理想は十八、九ぐらいかな。で、顔立ちも気性も、ガラスみたいに、もろくて繊細で、ひりひりしていて、それに加えて、ストイックな性格だと、最高だな」
「ストイック?」
「そう。だらしのない、甘やかされて育っただけの子はだめだ。自分で自分を厳しく律しているような子」
「条件が難しいのね」

 言いつつ、涼紀は、いまの典比呂があげた好みの男の子の条件を、ざっと頭のなかで反芻(はんすう)してみた。女にと男の違いはあるにしろ、どれも自分には当てはまりそうもない。
「むずかしいかもしれないけれど、でも、それに近いタイプの子であればいい、と間口と許容範囲はひろげてあるから」
「じゃあ、たまには、いるんだ、あなたの好みに適った子が」
「たまにはね。でも、めったにいない」
「そういう子に対して、あなたは、どういう立場であるわけ?」
「保護者というか、父性的というか」

 それを聞いた瞬間、涼紀は夫に向かって憎まれ口を叩きそうになった。
(いい気なものね。自分のエキセントリックな面でのお守り役は私にさせといて、あなたはそとで、男の子たちの父親役をやっているなんて)
 だが口にはしなかった。
 典比呂がつとめて、穏やかに、冷静に話しているというのに、それを、こちらからぶち壊すような真似は、自分のプライドにかけても、したくない。
 涼紀は大きく息を吸い込んで気持ちを鎮めてから、ふたたび自制心をたっぷり働かせた声音でたずねた。
「あなたの男の子の好はわかったけれど、じゃあ、あなたにとっての女というのは、何なのかしら?」
 典比呂の目もとが曇った。返事もすぐにはもどってこない。
「・・・・・それが、よく、わからなくてね・・・・・」
 五年も連れ添った妻の前で言うセリフか、またしても涼紀はカッとしたけれど、とりあえず我慢した。はぐらかしているのではなく、茶化しているのでもなく、典比呂は、大真面目な表情と口ぶりだったからだ。
「おれにとっての女のひとりというのはね、美の対象ではないんだ。これは、はっきりしている。きれい、美しい、とおれが感じるのは、つねに男の子に限られているから・・・・・あ、でも、これだけは言っておくよ。おれがきみと結婚したのは、男の子が好きという本心を、世間からカモフラージュするためではないからね」
「でも、私に隠していた」
「いや、そうじゃない。これも、はっきり言えるよ。あのころのおれは、それまで自堕落な生活に、もう、自分でうんざりしていた。ピリオドを打ちたかったんだ。きみとなら、きちんと、まっとうな暮しを築いていけそうだし、そうしたいと願った。ほんとにきみと結婚したかったんだよ」
「自堕落な生活って?」
「・・・・・・」
「どんな生活だったのよッ?」
「頼む、ふつうの声でしゃべってくれないか」
「じゃあ、あなたも、ふつうに答えなさいよ」
「・・・・・きっと、きみは軽蔑すると思う・・・・たとえば・・・・夜の九時に、お気に入りの男の子と会って、数時間、一緒にすごして、それからまた、夜更けに、つきあっている女の子のアパートを訪ねて、明け方、家に帰ってきて、ひと眠りして出勤する、といったような・・・・たとえばの話だよ」
「・・・・・あきれた・・・・」
「だろう? だから、おれだって、うんざりさ」
「よくもそんな生活していて疲れなかったわね」
「いや、疲れてたよ。どうにかして、その生活を変えたかった・・・」
「あなた」
「ん?」
「そういう生活、いつまでやってたの?」
「いつまでって、きみと知りあうまで」
「いえ、そうじゃない。そうじゃないはずよ。私たち三年つきあって、結婚した」
「うん、ひとりのひとと三年もつきあうなんて、おれにとっては画期的だったものなあ」
「私、いま思い出したのよ。三年間のうちの最初の二年というもの、いつも会うたびに、あなたは疲れていた。疲れた、というのが、あなたの口癖だった。仕事の忙しさを理由にして。でも、違うわね。違ってたって、たった、いま、気づいたわ。あなたは、私とつきあっていた三年間のうちの二年間は、相変わらず、その自堕落な生活を送っていたのよ。だから、いっつも疲れてた。そうでしょ?」

「勘ぐりすぎだよ。それに、もう七、八年も前のことじゃないか」
「どうして私とつきあいながら、そんな裏切り行為ができるのよ?」
「裏切ってないさ」
「離婚を考え始めたのは四年前からって、あなた、言ったわよね。いい? そうするとね、あなたが私だけ満足して、よそ見をしなかったのは、結婚前のつきあいの後半の一年間と、結婚してからの一年間、つまり、たった二年。それ以外は、私と言う相手がいながら、あなたはずっとよそ見をつづけてたって事よね?」
「どこから、そういう発想がでてくるかなあ」
「とぼけたってむだよ。私は事実を言っているだけ。子供にもできる計算でしょうが」
「君の計算はまちがっている。それだけは言っておくからね・・・・・とにかく過去を蒸し返すのは、このくらいにして、おれたちの現在のことに話をもどさないか」

 腹立たしい興奮は、すぐにはおさまらなかったけど、涼紀も、これ以上言い募っても、らちがあかないと、やむをえず口をつぐんだ。
 典比呂は淡々とつづけた。熱くなり過ぎず、かといって冷たくもなく、淡々とした言動こそが、彼の美意識のいちばんのペースだった。
「確かに、きみには黙っていたけど、おれはバイセクシュアルなことを、後ろめたくも、恥じてもいない。きみが理解しないだろうと思ったから、言わなかったなんだ。きみが、もっとすっとぼけた、風変わりな人間なら、打ち明けていたかも知れないけれどもね。これは、おれなりの思いやり、というか、いたわりのつもりであったんだ」

「余計な思いやりってもんよ、それは。いえ、思い上がり」
「うん、そうかもしれないな。うん、思い上がりってもんだな、おれの。その点は謝るよ」
「遅いのよ、謝るタイミングが。もっと早くに、どうして何もかも言ってくれなかったのか・・・・・」
「そうだね。反省する・・・・で、おれとしては、このままバイセクシュアルでも、人生をうまくやっていけると思っていた。だれも傷つけることなく」
「・・・・・・」
「ところがそこが甘かったんだなあ。年ととも、女よりも若い男のほうにばかり目が行くようになってきて、そっちの世界で自由気ままに生きたいという欲求が抑えきれなくなってしまったね」
「そうしてもいいって、私が公認というか、許可したら?」
「いや、そういうことじゃないんだ。きみの公認のうえで、ということは、その反面、縛られていることでもあるからね」
「・・・・・・」
「勝手な言い分は百も承知している。しかし、おれは、もう、だれにも遠慮気兼ねのない、のびのびとしたセクシャリティーでいたいんだ」
「・・・・・・」
「涼紀、ほんとうに申し訳ない・・・・悪いけど、おれと離婚してくれないか。頼む」
 ほとんど毎晩のように、こうしたやりとりが繰り返された。
 夫の、あまりにも虫のいい言い分に、涼紀が喧嘩腰になった夜も、ままあったけれど、いつの場合も、典比呂の驚くような忍耐力とかんでふくめる説明、さらに、一貫してくずれない冷静さが、その場を救った。

 涼紀が逆上しかけるたびに、すみやかに下手にでる典比呂は、見方を変えると、巧妙で、したたかだった。
「悪いのは、おれなんだよ。けっして、きみは悪くない。おれが、どうしようもないばか野郎なんだ」
 しかし、夫の狡さを見抜きつつも、下手にそう出られると、一瞬、拍子抜けして、口ごもってしまう自分の性分も、忌々しかった。口ごもるのは、その一瞬、夫を許してしまっているからなのだ。

 また、毎晩の話し合いは、離婚を睨んでものなのに、そこに険悪な空気が張り詰めることはなく、むしろ、新婚当初を思い出させる濃密なコミニケションが、少なくとも涼紀の気持ちを高揚させていた。
 これまでも会話にとぼしい夫婦ではなかった。

 けれど、今回は、以前とは段違いに、夫婦が互いに歩み寄っている感じなのだ。歩み寄って距離をちぢめると言うだけではなく、相手の心まで踏み込んでいる手応えがある。
 その喜びが、涼紀の気分を高揚させる。
 新鮮さもあった。
 夫の秘密であったバイセクシュアルが、はじめて夫婦の会話に登場してきた目新たらしさに、涼紀の心は、いっとき、まるごと奪われてしまった。それについて語り合っているあいだは、離婚を求められている現実を、つい、うっかり失念してしまうほどだった。

 しかし、目新しさにも、やがて馴れる。
 実際、密度の濃い毎晩のやりとりも、びっしりと二週間もつづけていると、新鮮さは、次第に薄れていった。
 そして、そのときになって、ようやく涼紀は、自分が夫から離婚を迫られている立場にいることが、じんわりと自覚されてきた。まるで低温火傷みたいな痛手だった。
 自覚と同時に、これまでの口先だけの怒りとは違う、体の奥底からマグマのように噴き出してくるそれに、思わず身震いがするほど心を高ぶらせた。

(なんで、私が、こんな目にあわなくちゃならないのよ。なんで、この私が)
 離婚話が生じてから二週間半たったその夜、やはり七時に帰宅した典比呂が、夕飯のテーブルにつきワインのコルクを抜いているさなか、ガスレンジの前に立ってシチューを温めていた涼紀は、木べらを手にしたまま肩越しに夫を振り返り、怒気をこめて言い放った。

「あなたの話は、私、もう、なんも聞きたくないの。だから、しゃべらないでよねッ」
「おれ、まだ何も言ってやしないよ」
「だからよ、だから、そうやって、その口をつぐんで、男の子たちのことも、バイセクシュアについても、過去の自堕落な生活のことも、もう、何にも言わないでって言っているの」
「どうしたんだ?」
「疲れた、私、くたくた。あなたの話を聞いているだけで疲れるから」
「しかし、昨日までのきみは・・・」
「私の限界は昨日までおしまい」
「何があったのか?」
「何もないッ。ただ、私、やめたの。あなたのすべてを理解しよう、わかろうなんてすることは、どたい、むり。あなたの言うところの、私の、このシンプルな頭と性格ではね」
「・・・・そうか・・・・」
「それでも喋りたいならどっか、ほかへ行って、喋ってきて」
「いい。わかったよ」
 翌日から、典比呂の帰宅は、手の平を返すように遅くなり始めた。
 私への当てつけだろう、と涼紀も居直って、夫の帰宅を待たずに夕食や入浴をすませ、いつもどおりに十一時半にはベッドに潜り込んだ。
 そうした冷戦状態は十日ばかりつづき、やがて、典比呂のほうから話しかけてきた。
「涼紀、離婚の事だけど、考えてくれたかな?」
「きみとしても、いろいろあるだろうけれど、こうなったからには、おれとしては、早く片づけたいと思うんだ・・・・四年前、迷ったうえでの結論だから、どうあっても、おれは気持は変わらないよ」

 涼紀が本格的に落ち込んだのは、それからだった。
 離婚などしたくもない。
 典比呂への怒りや腹立たしさは、特に離婚話をきりだしてからの彼には山ほどあるけれど、しかし、それでも、なお、典比呂のことは好きなのだ。バイセクシュアルの件にしても、涼紀は、しばらくは黙認するしかないだろうと、それなりに覚悟を決めている。

 だから、こちらから離婚しなくてはならない理由は、ひとつもない。あるとしたら、むこうが別れたがっている、ということだけだ。
 こんな理不尽な話があるだろうか。
 それでも涼紀は、主婦としてのつとめは黙々とはたしていった。つとめて夫の顔を見ないよう、目を合わせないようにして、朝食をこしらえ、洗濯機を回し、部屋中を掃除し、スーパーマーケットへ買い物にいき、夕食のテーブルをととのえた。
 神経の図太さでは、けっして夫に負けないだけの自信はあった。負けてなるものか、と毎日のように自分に言い聞かせもした。

 自分の性癖や心中を洗いざらい妻に語ってから、ほぼ一ヶ月、典比呂のエキセントリックな側面は、見事なくらい封じられ、現れなかった。
 そう、かれは必死に封じているのだ、と涼紀は思いたかった。
 しかし、もともとエキセントリックなところのある典比呂が、長期間にわたって、完璧にそれを自制し、封じきれるはずもない。きっと、必ず、ボロをだす。自分で自分の神経のおののきに耐えきれず、矛盾だらけの言葉を脈略もなく吐くときが、いずれやって来る。

 離婚のことは四年かけての結論、などと、ごたいそうな言いぐさだったけれど、涼紀は、はなから信用していなかった。
 四年ではなく十年かけての結論であっても、後になって「十年じゃあ早すぎたろうか」とくよく思い悩むのが、典比呂の性分なのだ。十年ではなく二十年を要しても、おそらく、自分のだした結論は間違っていたかもしれない、と余計な反省に取り憑かれるのが、典比呂という人間のはずだった。

 根気比べのような日々がつづき、カレンダーは二月から三月に移行した。
 三月の雨もようの夜、ふたたび典比呂のほうから話しかけてきた。
「どうかな、少しはきみの気持ちが落ち着いてきたかな」
 小憎らしいほどに淡々とした口調だった。
「そろそろ桜の季節でもあるし、ひと区切りつけて、お互い再出発するには、ちょうどいい時期と思うけどね、春というのは」
 涼紀は邪険に答えた。
「季節なんて関係ないわ、いまの私には」
「まあ、そうかもしれないけれど、しかし、今年のこの春は一回きり、二度ともどらない春、という見方もあると思うよ。一期一会(いちごいちえ)というか、現在ただいまを大切にするというか・・・・」
「そうね、こんな最悪の春は、もう二度とごめんだわ。まっぴらよ」
「だからさ、この際、すっきりしてしまおうじゃないか。そのほうが、お互いにいいと思う、長い目で見れば」

 妙に余裕たっぷりの典比呂の口ぶりが、涼紀の癇にさわった。思わずたまりにたまった感情を爆発させていた。
「自分の都合のいいことばっか言わないでッ。まったく、なんなの? こっちが黙っていることをいいことに、好き放題なことばかり言って。私は離婚なんて、しないから。いい? これが私の結論よ」

 典比呂がため息をひとつついた。
「おれが怖れていたのは、じつは、それなんだよ。きみが依怙地になること、意地になって離婚しないって言いだすこと・・・・」
「あら、そう。だから、いつも下手にでて、私の機嫌を取ろうとしたわけね」
「いや違う。わざと下手にでたつもりはない。本心から、きみにすまないと思い、おれ自身は、救いようのない大馬鹿野郎と思っているから、だから、ごく自然に下手になってしまうだけだ」
「・・・・・・」
「わかってくれないか、涼紀。おれは、穏やかに、この話を進めたいんだ。おたがいに憎しみあったり恨んだりはしたくない。それから、バイセクシュアなことも、思い切って打ち明けたんだ。こんなこと、隠そうと思えば、いくらだってできる。もっとほかの、月並みだけど、月並みだからこそ説得力のある理由を言い立てればいいんだから。そうだろう? でも、きみには、俺が想像していたとおり、どうにかして、おれを解かろうとしてくれた。バイセクシュアであることへの不快感も嫌悪感も示さなかったばかりか、これまで黙っていたことに対する非難涼紀ひとつするでもなかった。おれは、嬉しかったよ。ほんとに、しみじみ、嬉しかったんだ」

涼紀は涙ぐみかけた。
典比呂の、しんみりと情のこもった話しぶりが、弱り切っていた心を直撃したのも事実だったけれど、夫の性癖をひたすら理解し許容しようとしたのは、それだけ夫が好きだから、という自分の想いを、あらためて痛感したからだった。
 涙ぐみはしたものの、涼紀は泣かなかった。泣く一歩手前で、踏みとどまるのに成功した。そのとき、漠然とながらに、閃いたのだ。
(これは夫の作戦ではないのか。私が夫に惚れ切っているのを逆手に取って、ひたすら情に訴えかけ、惚れた弱みにつけこむやり方で、離婚に持っていこうとしているのではあるまいか。つねに下手にでた言い方も、その作戦のひとつではないのか。私が夫に同情かるあまり、いや、同情のはずみで離婚に同意するチャンスを狙っているのではなかろうか・・・・)

 しかし涼紀は、このひらめきを口にはしなかった。もし典比呂が、この想像どおりのことをたくらんでいたとしるなら、ひらめく寸前まで涼紀は、まんまと夫の狙いどおりの道を歩いていたからだ。
 離婚するものか、と奥歯をかみしめて、そう猛々しく意地になっていたのも事実だった。
 しかし、その反面、
(夫の幸せを願ってこそ、私の幸せがあるかもしれない)
 と、出口のない堂々巡りの思考のはて、疲労しきった弱気のなかから、そんなふうな気持も、ときたま、生まれてきてもいた。
 離婚話がでた一月の下旬から二月にかけては、まったくの強気でいられたとはいえ、二月も半ばをすぎるあたりから、その自信は揺らぎはじめ、二月の末には、はっきりと弱気がその顔を覗かせてきた。さらに三月に入ってからは、強気と弱気が、半日きざみに入れ替わる。このままでいったなら、弱気が優勢となり、自分の負けを認める代わりに「夫の幸せの為になら」と、弱気を美化していくのは、間違いなかった。
 あやうく、そうなる直前に、涼紀は、夫の企みを直感した。
 とはいっても、果たして典比呂には「作戦」という意識があったのかどうかは疑わしいところだった。愛されている者は、動物的な本能のようなもので、自分を愛している者に対して、居丈高に傲慢になるものだから。

 ふっつりと黙りこくり、下唇をかんでいる涼紀に、典比呂がさとすような口調で言った。
「おたがいに、へんな意地を張って、依怙地になるのだけは、よそうよ、な? 依怙地ってのは、愚かで無力なやつのすることだ。自分を言葉で表現できないやつが」
 ふいに涼紀はヒステリックに叫んでいた。
「そうよッ。私は愚かで無力な、言葉を持たないばかタレよッ。ずっとそうなのよッ。結婚する前から、私はそうだった。なのに、あなたは、何にも気付かなかったなんて、結局、どっちがばかタレなのかって思うわよッ。じゃあ、あなたは依怙地じゃないわけ? 私だけが、そうだって言いたいのッ?」
 エキセントリックなのは夫のほうのはずだった。しかし、いまは涼紀がエキセントリックになっていた。


 Ⅲ
 ベランダのガラス戸を背に、義母の晴子は茶色い革張りのソファに腰かけ、薄いピンク色のマニキュアをした手で、ゆっくりとティーカップを持ちあげた。

 典比呂の母である晴子は、いつ見ても、きれいな身なりをととのえている六二歳だった。
「髪の三分の一は白髪だらけよ」
 というその髪は、根元まできっちりと栗毛に染められ、額の生え際から右の耳へと大きくウェイブつけて、つねに肩につくかつかないかの長さに保たれている。その髪の微妙な長さにしろ、艶やかな栗色のカラーリングにしろ、おそらく週に一度は美容院へいき、こまめに手入れをしていなければ、こうはいかない。

 太りすぎてもいなければ、痩せすぎてもいない晴子の、きょうのいでたちは、半透明の黒とベージュ柄のシンプルなオーバー・ブラウスに、それと揃いになったロングスカートだった。ブラウスの下には黒のTシャツを着ているけど、多分、綿素材ではなくシルクだろう。
(いい色あいだこと・・・・)
 涼紀は晴子のブラウスに力ない視線を這わせつつ、頬にたれてくる髪をうしろにかきあげる。もう何か月も美容院に足を向けていないため、髪は伸び放題だった。
 それから涼紀は、晴子の背後にひろがる庭に漫然と目をやった。

 ベランダの白いレースのカーテンの隙間から、初夏のまばゆい午後の陽射しを浴びた庭木の緑が、光り輝いて見えた。陽を反射しているのではなく、緑の内側から発散されてくるような輝きだった。
 季節は六月の下旬にさしかかっていた。
 典比呂が離婚を言いだしてから、かれこれ五カ月になる。

 晴子が手にしていたティーカップをテーブルの受け皿に戻しつつ、いつもながらの凛とした歯切れのよい口調で口をきった。
「まったく、どうしようもないわね、あの子は。ようやく、昨日の晩、典比呂をここに呼びつけて、話を聞き出しました」
 涼紀は軽い会釈でその言葉を受け止めた。
「ご心配をおかけしてすいません、お義母さん」
「あなたが謝ることなんてないのよ。典比呂も自分で言っていたし、私もそう思うけれど、涼紀さんに落ち度はないの。すべて。あの子が原因ですからね」
「でも・・・・典比呂さん、怒ってませんでしたか? 私のこと。夫婦で話しあいがつかないうちに、私がお義母さんに泣きつくようなことをして」
「泣きついたわけではないでしよう?」
 晴子の口調は、さらに冴えわたる。こうしたとき、涼紀は、うんと年上の女上司の意見を拝聴している気分におちいる。
 実際、晴子は従業員三十名をかかえる、仕出し料理と仕出し弁当屋の女社長だった。もとは大きな料亭だったという創業時から数えて、晴子は四代目にあたる。五代目は、典比呂とは二つ違いの兄が継ぐことになっていて、すでに兄の高比呂は、大学卒業と同時に家業を手伝ってもいた。結婚して三人の子持ちでもある。

「涼紀さんが姑の私に相談を持ち掛けるのは当然のこと。それについて、あの子が、つべつべ言うのは許しませんよ。それよりも、涼紀さん、よく五カ月ものあいだ、自分一人で我慢していたわねえ。その気持ちを思うと、私は、あなたが不憫で・・・・」
 晴子にみつめられ、涼紀はうつむくしかなかった。
 義母の晴子に、結局、こうして助けを求めてしまったものの、涼紀は、そうしてしまった自分を、心のどこかで、まだ責めていた。

 涼紀もっとやりようがあったのではないか。もうしばらく様子を見てからも遅くはなかったのではなかろうか。
 だが現実は、毎日とは言わないまでも、週に二回は、典比呂から、やんわりと、しかし、したたかに、離婚をせっつかれつづけていたのだ。
「頼むよ。お願いだから、おれと別れてくれ。な、涼紀」
「いや。いやだってば」
 拒否しても、拒否しても、典比呂は食い下がり、そうこうしているうちに、心労が原因なのか、涼紀は、食欲がなくなり、夜も眠れなくなった。
 すると典比呂は、すかさず言って来た。
「この際、きみの田舎の実家に帰って、少し骨休めしてきたらどうだ?」
典比呂としては、労わっているつもりかもしれない。けれど、涼紀は、
(その手に乗るものかッ)
 と、夫を睨み返した。
「私が留守をしている隙に、あなた、何か、やらかそうってんじゃないの? いい、答えなくてもいい。とにかく、私は田舎には帰りませんからね、ぜったいに」

 だが口先の強気とは裏腹に、涼紀の気持ちは日ごとに弱り、沈み込んでいった。
 相手かまわずに相談できる内容ではなかった。しかも、明日になれば忘れてしまうような夫に対する愚痴や不満のレベルではなく、夫から離婚を迫られているこの状態を、いったいだれに言えるだろう。

 それも、バイセクシュアルなことを夫が告白し、だから自由になるために別れてくれ、と頼まれたいきさつを話しても、適切なアドバイスのできる人物は、はたして、いるだろうか。
 だいいち、涼紀は離婚したくないのだ。バイセクシュアルでも仕方ない、そう思っていて、その気持ちを夫にわからせようとしても、夫は「それは嫌だ」と言い返してくるのだから手の施しようがない。
「バイセクシュアルなことを隠していた夫が悪い」
 と典比呂を一方的に非難されたくはなかったし、かといって、
「告白されるまで気付かないのは、妻としてどうかしている」
 と涼紀自身が冷笑されるのは、もっと我慢がならない。
 そんなこんなで、相談相手もなく、涼紀ひとりの胸に抱え込んでいたことが、いっそう涼紀の心と体を蝕んでいったに違いない。
 数日前の平日の日中、義母の晴子から、久しぶりに電話がかかってきた。
「別に用はないのだけど、元気にしているかなと思ったの」
 最初は当たり障りなく対応していた涼紀だったけれど、途中から、義母に何もかも打ち明けたて、聞いてもらいたいとう衝動が抑えきれなく湧いてきた。
 切羽詰まった口調で涼紀は言っていた。
「・・・・お義母さん・・・・・」
「あら、どうかしたの」
「私、典比呂さんから離婚してくれって、ずっと言われつづけているんです」
「なんだってー!」
 そして昨夜、典比呂は、勤め帰りに寄るように、と実家に呼びつけられ、帰宅したのは十一時半過ぎだった。
 例によって、その表情からは何も読み取れず、典比呂は、冷たくもなく、優しくもない口ぶりで、晴子からの伝言を涼紀に伝えた。
「おふくろが、明日の午後三時に家のほうに来てくれってさ」
 そして、今日、涼紀は、晴子の事務所兼仕事場のほうではなく、郊外に建つ一軒家の自宅を訪ねたのである。
 玄関で涼紀を迎え、晴子の待つ客間に案内してくれたのは、お手伝いの五十がらみの女性だったけれど、紅茶を運んできたのは、義理の兄嫁で、いつもながらにふっくらと愛想がよかった。
「涼紀さん、ゆっくりしていってね」
 午後三時という時間帯、ふだんの晴子なら事務所にいるはずで、おそらく涼紀のために、こうして、わざわざ、いったん自宅に戻ったに違いなかった。
 晴子は、ふたたびティーカップを口に運びつつ、典比呂とよく似た涼しげな切れ長の目を、かすかに細めた。といっても、そこに表情を込めたわけではない。典比呂の得意とする無表情は、母親ゆずりだった。
「典比呂は洗いざらい私に話してくれたわ。多分、洗いざらい、だと思うけど」
「そうですか‥‥」
「涼紀さんが離婚を突っぱねる気持、私は、もっともだと思うの。典比呂にそう言ってやったわ。あの子の思慮が浅すぎたのよ。結婚する前に、そういう問題は、あの子自身できっちりと片づけるか、片づけられないのなら、当分は結婚すべきじゃなかったのよ・・・・バイセクシュアルねえ・・・・こういうことは、まわりがとやく言って、なおるものじゃないし・・・・」
「典比呂さんは、私と一緒になったら自分も変わるのじゃないか、と期待したそうです」
「そういうところが、あの子は、甘いのよ。自分の力ではなく、他人からどうかしてもらおうとする考え方が。赤ちゃんのときから、そういう性格はあったけれど」
「赤ちゃんのときから?」
「そう。自分が手を伸ばせば取れるおもちゃでも、わざと泣いて大人の誰かに取ってきてもらおうとする。それも涙など、ひとつもでていない嘘泣きが得意なの」
 そんな場合ではないのに、一瞬、涼紀は頬を緩ませていた。こうして義母などの口から、典比呂の幼い時分の話を聞くのが大好きだった。いつも胸に温かなものがひろがっていく。
 ティーカップをテーブルにもどし、心待ち姿勢をただすようにして、晴子は涼紀とむきあった。

「結論から言うと、私も離婚には反対です。ただし、それは世間体が悪いとか、家名にキズがつくといった理由からではなく、性急に白黒つけることはない、という気持からなのね」
「・・・・・はい」
「あなたたち、おたがいに顔を見るのもいやなぐらいになったわけじゃない」
「そうです」
「典比呂はあなたと別れて、だれかほかのひとと結婚したがっているのではなく、ただ、自由気ままな独身にもどりたいだけ」
「そう言っていました」
「で、涼紀さんとしては別れたくない」
「ええ」
「だったらね、ここは、とりあえず別居してはどうかしら? いえ、きのうも、私、あの子に同じことを言ったの。しばらく別居してみて、それから、もういちど離婚について話し合ったらどうか、と」
「・・・・・」
「最近の法律では五年間、別居していると、離婚が成立するそうね」
「・・・・・そうなんですか」
「五年たつと、人間って変わるものよ、涼紀さん。もしかすると、いまは離婚を嫌がっているあなたが、典比呂に愛想づかしをしているかもしれない。その反対に、あの子が、あなたというひとの、有難味を見直すようになっている可能性もなきにあらず、よ」
「なるでしょうか・・・・」
「まあ、それは、なんともいえないにしても、一方がその気にならない強引な離婚は、あとあと、しこりを残すと思うのよ、私は。うちの従業員にも三、四人、離婚した者がいるのだけれど、離婚に強いタイプと弱いタイプがいるみたい。ただ、これは一回離婚してみなければ、どっちのタイプかわからないという、厄介な識別法なんだけれどもね」
「要は、人生をやり直すまでに時間がかかるのが弱いタイプ。時間もかからず、気力もすぐに回復する
別れた相手を恨んでいるかと思うと、次は、自分をとことん責めたり呪ったり」
「・・・・・」
「まあ、私たち夫婦だって、これまでの約四十年、いろいろとあったのよ。でも、私は家付き跡取り娘だから、離婚は、はなから考えなかった。でも、うちのおとうさんは入り婿で、私にはわからない苦労も、たくさんあったし、離婚を考えたこともあったらしいのよね。でも、おとうさんは、自分は離婚には弱いタイプだという自覚があって、それで、踏みとどまっていたみたい。そこが、おとうさんのよさであり、賢さでもあるのだけれど」

 話を聞きつつ涼紀は、さっき、この家の玄関前で、水の出るホースを手に愛車のベンツを洗っていた義父の姿を思い浮かべていた。晴子を車にのせて事務所からもどり、晴子が涼紀との話し合いをおえたなら、また、妻をのせて事務所に引き返すのだろう。
 
涼紀を見て、「いらっしゃい」と笑顔で声をかけてきた、白いワイシャツを袖まくりした義父のたたずまいは、相変わらず温厚で控えめだった。
一見したところ、この父と典比呂は親子とは思えないぐらい似ていない。
「典比呂は、いま私が涼紀さんに言ったようなこと、頭からばかにしていたけど、それが、どうしようもない若さというものなんでしょうねえ」

「離婚に強いタイプか弱いタイプかっていうことですか?」
「そう。離婚を言いだしたおれが弱いタイプであるはずがないって。私が言いたいのは、そういうことじゃないのに・・・・若さだけでは理解できないことが、いっぱいあるのにねえ・・・」
 やや愚痴めいてしまった自分の口調を恥じるように、そこで晴子は、ふたたび背筋を伸ばした。
「別居するにしても、涼紀さんに毎月きちんと生活費を渡すように、きつくあの子には言っておきましたからね。そのぐらいして当たり前、男のけじめじゃないか、と」
「典比呂さんはなんて?」
「これはあくまでも私の勘だけど、あの子もこの線で妥協するんじゃないかしら。ただし、あの子の肚づもりは、離婚を言い前提にした別居でしょうけれど、今も言ったようにね、涼紀さん、五年もたつと、大概の人間は変化していくものよ」
「・・・・・」
「親としての私の意見はこんなところね。あとは、ふたりで、もういちど、じっくりと話し合ってちょうだい」
 とてきぱきとしめくくり、話し終えたときは、すでに晴子は革張りのソファから腰を浮かせていた。

 義母と会った帰り、涼紀は自宅マンションに向かう方向とは逆方向の電車にゆられ、独身のころに住んでたアパートのある町へいってみた。
 ただ無性になつかしく、ひと目見てみたかったのだ。
 電車をおり、左右に肉屋や惣菜店、パン屋、八百屋などが五軒ずつ並ぶ小さな商店街を通り抜けて左にまがり、砂場とブランコだけがある児童公園ぞいに進んでいくと、アパートの南に面した裏側が見えてくる。
 濃いグレーの二階建ての建物で、上下に三つずつの窓がうがたれ、涼紀が住んでいたのは、二階のまんなかの部屋だった。
 五年前からすると外壁の汚れが目立つけど、アパートは、やはり、そこにあった。
 涼紀は路上に立ち尽くし、かつて自分の住まいであり、現在は白地にオレンジ色の模様のカーテンのかかっているその窓は、離れた場所から眺めやる。
 専門学校をでて、就職すると同時に引っ越してきたここで、結婚するまでの八年間をすごしたのだった。
 フローリングの床の八畳間に、小さなキッチンとユニット・バスがついている間取りは、おそらく当時のままだろう。
 十三年前は、アパートも新築されたばかりで、社会人になりたての涼紀は、その真新しさに自分を重ねあわせ、自分にピッタリだと喜び勇んだものだった。

 この部屋に暮らしていた八年のあいだに、学生時代からつきあっていた同じ年の男性と、なんとなく疎遠になり、「彼氏のひとりもいなければ」と焦るような気持でかかわった三つ上のサラリーマンとの出会いと、うやむやの別れがあり、そして典比呂とも知り合った。

 結構前の三年間、典比呂がここにやってきたのは、どのくらいの回数だったろうか。
「くるときは前もって電話してよね」
 と、いくら念を押しても、典比呂は無精を決め込んで、いつも、時間にはお構いなく、ふらりとあらわれた。
「どうして電話してくれないのよッ」
「だって、急に会いたくなったから」
「私だって都合ってものがあるでしょ」
「突然来られたら、困るようなことでもあるの?」
「・・・・いや、ないけど・・・・でも、私だって、ひとりに見られたくない格好をしていることもあるのよ。それに、あなたがくるって、わかっていたら、多少は、めかしこんでいたいのが女心というものじゃないの」
「おれ、女の人がきっちり化粧した顔と、スッピンでいる顔の、その差を見るのって、わりと好きなんだ」
「まったく、いやな男ね」
「きみ、化粧したときと、していないとき、あんまり変わらないね。自分でも化粧してて、これはむだ、とは思わないの?」

 典比呂の、前触れなしの訪問に、振り回されつづけた三年間だったけれど、結局は、それが楽しくスリリングで、彼に惚れこむ速度を加速させていた。といまになって涼紀は、そう思う。
 自分勝手で、エキセントリックな側面を持つ典比呂だからこそ、好きになったのだ、と。
 そして、結婚するまで、涼紀は、たえまなく、そのエキセントリックさに対する不安を抱えていたことも思い出されてきた。
(いつか彼に逃げられるのじゃないか、気まぐれを起こして、よそにいってしまうのではないか)
 いや、結婚してからも、それはつづいた。
 夫が「きれいと感じる女性全員」が、この五年間というもの、涼紀の敵だった・・・・。
 考えてみれば、典比呂とかかわってからの、計八年間、気の休まるひまなくすごしてきた。

 こちらが勘ぐりすぎているかもしれない、と反省するときも多々あったけれど、いまとなっては、そうとばかりもかぎらない。
 相手は他の女性、という涼紀の決めつけが盲点になっていただけで、彼が相手にしていたのは若い男、とわかってみれば、やはり夫の挙動不審な部分は、いくつもあった。
 これと指摘できないまでも、夫の心がつかみどころなく感じられる日、涼紀をみていながら、その視線が涼紀を通り抜けて、どこか遠くを眺めてやっているような眼差しのとき、いたく機嫌がいいのだけれど用心深く耳を傾けてみると、どれもこれも上の空の返事でその場をやり過ごしているしか思えない場合など、いつも涼紀は自分だけ置き去りにされたような心細さを味わったものである。

 漠然とした夫への不信感と、自分の心細さをストレートには口にだせず、そんなとき、きまって涼紀はいちゃもんをつけたりもした。そうしなければ、胸のもやもやが晴れなかった。
「あなたは何を考えているのよ」
「別に、何も」
「また、そうやって、ごまかして」
「ごまかしてなんかいないさ」
「あなたがいくらごまかしたって、私には、全部お見通しなんだからね」

 しかし、実際は、少しも見通してはいなかった。不安を、そんなふうに高飛車な言葉や言い方にすり替えて、涼紀自身が安心したかったのだ。
 気の休まるひまのなかった八年間のうちでも、典比呂が、離婚のひと言を切り出してからの、この五カ月間は最悪だった。

 離婚を考えてから、すでに四年になるという夫は、確かに、それだけの月日をかけただけあって、一貫して態度を崩さない。
 図太く、根気強く、自分の望む方向に持って行こうとするだけで、ちらりとも弱音を示さないし、それらしき隙も見せないでいる。

 こんなにも意志的な夫を目の当たりにするのは初めてだった。
 あるいは、涼紀ががんとして離婚に応じないため、典比呂もそれに比例するように、ますます意地になっているのであろうか。意地の張り合いの、膠着状態に陥ってしまっているのだろか。
 もしそうだとしたら、ここで、涼紀が一歩引きさがったなら、典比呂の気持にもゆるみや余裕が生じ、何かを嬢歩する心境になってくるかもしれない。

 義母に言われた別居の件が、あらためて涼紀の念頭にのぼってきた。
 義母の話からすると、典比呂も「別居なんて」と取り合わなかったわけではないらしい。
 涼紀にしても、いきなり離婚になるよりも、別居のワン・クッションを置くとなると、いくらか救われたような、慰められたような心地にもなってくる、もちろん、その場合は、別居の冷却期間をはさんで、いずれ、元のサヤにおさまる、という、密かな期待をこめた前向きの別居しか涼紀には思い描けなかったけれど。

 五カ月間、夫から離婚をせがまれつづけてきた疲れもたまっていた。そのたびに「いや。いやだってば」と、繰り返し拒否するのも、想像していた以上にエネルギーがいる。
 ここらへんでひと息つきたい、というのも、涼紀の偽らざる本心だった。

 独身時代に住んでいたアパートの部屋の窓を眺めながら、三十三にもなって、また二十歳の頃のような、ふりだしにもどるのだろうか、と涼紀は多少の淋しさと虚しさのなかで思った。それでも三歩進んで二歩下がる、そういう歩み方をしているのだろうか。

 あのアパートに暮し、典比呂と知り合うまでは、怖いもの知らずくらいに、のびのびと毎日を謳歌していたのが、今になっては信じられないくらいだった。
 結婚には自由と不自由が半々につきまとうけれど、心底からひとを好きになるのが、こんなにも心を不自由にさせることだとは、夢にも思わなかった。

 その夜、夕食のテーブルに向かい合ってつき、涼紀が買い置きのパスタと缶詰め類でこしらえた料理をフォークでつつきながら、典比呂は、さりげなくきいてきた。
 昔住んでいたアパートを見た帰り、涼紀の頭の中は別居のことで占められ、夕食の食材など、とても買う気になれなかったのだ。それでパスタを茹で。あり合わせの缶詰めで、シーフードのトマト味ソースをこしらえて間に合わせた。冷蔵庫のなかに白菜が残っていたので、それにレーズンを加え、甘酢であえてみた。紙パック入りのコーンポタージュも、温めて一品とした。

「きょう、おふくろの所にいってきたの?」
「うん」
「どうだった?」
「どうって・・・・お義母さんも、お義父さんも元気そうだったけど」
「おやじにも会ったんだ」
「会うといっても、お義父さん、玄関先で車を洗っていたので、あいさつしただけ」
「そうか・・・・いや、きのうの晩、おれがうちにいったとき、おやじに泣かれたもんなだから、ちょっと気になってね。そうか、元気ならいいんだ」
「お義父さんに泣かれた?」
「うん、おふくろは、あのとおり冷静沈着そのものだったけど、おやじがね、おれにむかって、どうして離婚するんだって、怒っているのじゃなくて、嘆き哀しんで泣いたんだよ。きっと入り婿として、何十年と我慢してきた自分のこれまでのこととかが、いろいろ複雑によみがえってきたんだろうなあ。おやじの涙を、はじめて見た」
「そうだったの・・・・」
「まあ、それはいいとして、おふくろに別居のこと、言われたろう?」
「うん」
「で、どうする?」
「あなたの気持はどうなのよ?」
「正直言って、おれは、そういうまどろっこしいことは抜きにして、早くけりをつけたい思いはある。でも、きみの気持ちを無視できないからね・・・・あれ? この白菜、やけにうまいな」
「五年別居していると、離婚も成立するって、お義母さんが言っていた」
「うん、おれも、きのう、おふくろに聞かされたよ。あせるなって言われた。まあ、そう言われてみると、あせる必要もないんだよな。おれは、もう二度と結婚するつもりはないから、籍がどうなっていようと、あまり関係ないし・・・・五年かあ・・・・・五年たつと、おれは四十のおやじだよ」
「私だって三十八よ」
「まだいいじゃないか、三十代だもの」
「男の四十なんて、もっといいでしょうに。男盛りで、バリバリの現役で。女の三十八といったら、すっかり先が見えているわ」
「本人の心がけて次第だよ、それは」
「どう心がければいいわけよッ?」

 喧嘩腰に言い返している自分の声を耳が捉え、涼紀は、いそいで口をつぐむ。
 典比呂は、いまの言葉が聞こえなかったような風を装い、涼紀の無言が、はたして本当に口をつぐんだのか、単に息継ぎのためのそれなのかを見とどけてから、ふたたび本題にもどった。
「きみは別居ならいいのか?」
「いいわけじゃないけど・・・・」
「でも、それも、やむをえない、と」
「・・・・・・」
 涼紀は夫と目を合わせるのを避け、パスタをフォークでつつきつづけた。今夜も、やはり食欲がなかった。
 典比呂は、にわかに明るい口調になった。
「さしあたっては、おれがここをでていくよ。一年前に張り切ってこの部屋を模様替えしたのは、きみだから、ここは、きみに明け渡す。きみはここに住むのも善し、引っ越すのもよし、もちろん、きみのしたいようにするのが、いちばんだからね」
「あなた専用のレモン色の椅子はどうするのよ?」
 夫の明るく、弾んだ口ぶりに、水を差すような、わざと難題をふっかけるような意地の悪さをにじませつつ言ってみた。
「問題は、そう、あれだよな。おれが使っている椅子ではあるけれど・・・・」
「へそくりをはたいて買ったのは私」
「うん、そこなんだ」
「それとも、私にいくらか払って、あなたが下取りする?」
「そこまでして新しい住まいに持っていくもなあ。それに、あれはきみからのプレゼントで、金を払って下取りするというのは、なんか抵抗があるしなあ」
「あれ、高かったのよ」
「知っている」
「こうなると分かっていたなら、ぜったいに買わなかった」
「だろうな」
「あなたが喜ぶと思って、それで、私、思い切ってへそくりで買ったんだから。それも一週間も迷って迷って」
「きみの気持ちは嬉しかったよ、確かに」
「だったら、いくらかのお金を払って下取りしても、いいじゃないの」
「下取りってとこが、引っかかるんだ」
「何が?」
「きみのプレゼントだった、という、きれいな思い出のまま、貰うのならいいけど、そこに下取りの金があいだに入ると、おれとしては、なんか、こう、せっかくの思い出が台無しにされるような、しらけた気分になるんだよなあ」
「要はタダで貰いたいってことね? お金は払いたくない・・・・せこい男ね」
「せこい? せこいのは、そっちだろうが。いったんプレゼントしてくれたものを、下取りしろと言っているのは、きみじゃないか。まったく、どっちがせこいんだか」
「あなたね、たかが椅子ひとつのことで、出し惜しみする男ってのは、最低だと思わない?」
「そういう女も最低だろう」
「あなた、どこまで図にのれば気がすむのよッ。こっちが別居してもいいって、そっちに妥協してやったのよッ。あなただって、そのくらいの妥協の姿勢を見せなさいよッ。そうよ、そういう姿勢を見せるのが大事だって、私は言いたいのよッ」

 涼紀は腹わたが煮えくり返る思いだった。腕力に自信があったなら、いますぐレモン色の椅子の所にかけより、両手でそれを持ちあげ、夫に向かって投げつけてやりたかった。

 Ⅳ
 義母の晴子から、とりあえず別居期間をもうけることを勧められたのは六月の下旬だった。
 その日から二週間もたたない七月の最初の日曜日、典比呂の引っ越しは手際よくおこなわれた。一時間とかからなかった。
 家財道具のほとんどを涼紀のもとに残し、新しい住まいに持っていくものといえば、お気に入りのCDのコレックションと衣類ぐらいしかなかったからである。
 涼紀が、
「置いていけッ」
 と、いやがらせ半分に、そう言ったからではない。典比呂は、はなから欲張ろうとはしなかった。
「きみがこれまでどおりの生活を不便なくやっていけるのが、おれとしても、いちばん安心できるからね」
 だから洗濯機も、冷蔵庫も、食器棚も、大中二個のフライパンも、ことごとく涼紀にゆずり渡された。

 涼紀も、この期に及んで良妻ぶろうとはしなかった。
「あなたも大変だろうから」
 などと心にもない遠慮をして、家財道具を折半したとして、いったい、なんになるだろう。家を出て行きたがる夫に、そんな思いやりや、いたわりを示したからといって、夫の決意が変わるわけでもない。
「ありがとう。すまないな」
 と、典比呂は殊勝に礼を述べるに違いないけれど、そんな口先だけの感謝など、いまさら聞きたくもなかった。

 だいたい、本心から「すまない」と思っているなら、別居に踏み切るはずもないのだ。
 引っ越しの日は、七月にふさわしい夏めいた青空が広がっていた。
 陽射しもキラキラとまぶしく、戸外に目をやっているだけで、反射光に目をやられてしまいそうなぐらいの晴天だった。

 まるで、これからはじまる典比呂の新生活を、そうやって、だれかれもが祝っているようで、それもまた涼紀には、面白くもなく、意地でも笑顔は見せまいとした。
(土砂降りならよかったのに、引っ越しの荷物の上げ下ろしにも困るほどの暴風雨とか大嵐なら、もっとよかったのに)

 典比呂の転居先は、ここよりも町に近い地区の、新築の賃貸マンションの五階だという。
「細っこい、のっぽの、独身用のワンルーム・マンションなんだ。そのうち遊びにおいでよ」
 上機嫌の浮きうきした口ぶりで、典比呂は賃貸借契約を結んできた一週間前にそう言ったものである。
(誰がそんなところに遊びにいくものか)
 涼紀は胸の内で毒づいたものの、知らんぷりをして返事もしなかった。
 別居が決まってからというもの、涼紀は、夫と目を合わせることも、ろくな会話をすることも避けていた。
 避けなければ、何かの拍子に、抑えにおさえている怒りを、一挙に爆発させてしまいそうだった。
 それはしたくない。別居が決まる前ならともかく、別居すると、いったん決めてからには、もう四の五の言いたくはなかった。そこまで来たからには、もはや言っても無駄だというもので、むしろ、あとで自己嫌悪におちいらないよう自分自身の感情をうまくセーブしつづけて、この事態を乗り切るしかない。

 七月最初の日曜日の午後、レンタ・カーのバンに荷物を積み込み終えた典比呂は、そのあいだずっとテレビの前に陣取って観たくもない番組を観ていた涼紀に向かって言った。
「それじゃあ、いくよ。何かあったら、ここに電話して」
 数秒後にそちらを見ると、テーブルに置かれた電話番号は、携帯電話のそれだった。
 引っ越しする際に新規に申し込んだのか、それとも以前から涼紀に内緒で携帯していたのか、それを問い詰めようと顔をあげたとき、すでに典比呂の姿は消えていた。
 そんなふうにして別居生活は始まった。
 涼紀が夫にプレゼントとしたレモン色の椅子は、いつもの場所に、ぽっんと置き去りにされていた。

 別居後はじめて典比呂から電話がかかってきたのは、引っ越しから、まる一ヶ月たった八月初旬の晩だった。
 暑さで食欲もわかない涼紀のその日の夕食はソーメンで、ソーメン一品のみの夕食は、かれこれ十日ほどつづいていた。
 ひとりっきりの食事は味気なく、支度をするのさえ億劫で、ネギや海苔といった薬味もなく、水を張ったガラスの丼のなかのソーメンを、市販のめんつゆにつけて、だらだらとすすっている最中にかかってきた電話だった。
「あ、おれ、典比呂だけど」
「・・・・はい」
「元気かなと思ってさ」
「まあね」
「ふうん。その調子じゃ、元気みたいだな」
 元気なのは典比呂のほうだった。声は明るく張りがあり、いかにも、ひとり暮らしを満喫しているのびやかさに満ちていた。
「先月の二十六日に、そっちの口座に今月分の生活費を振り込んどいたけど、ちゃんと入っているかな?十八万円」
「多分ね」
「多分って、まだ確かめてないのか」
「銀行が途中でネコババすることもないんじゃない?」
「それはそうだけど」
「なんかほかに用は?」
 正直なところ、別居生活の気ままさを満喫しているような典比呂の声など聴きたくなかった。それが、嬉しそうであればあるほど、涼紀には癇にさわる。
「いや、別に用ってこともないけれど・・・・あのさ、涼紀、きみもこの辺でがらりと生活を変えたらどうかと思うんだ。おふくろに聞いたけど、ずっと家にこもりっきりなんだって?」
「こもっているわけじゃなくて、熱いのが嫌だから、エアコンの効いている家にいるだけの話」

 義母の晴子から、様子伺いの電話があったのは四日前だった。
「でも、きみは暑さには強かったじゃないか。夏になると、やれ海だ、山だ、キャンプだって、おれを引っ張りまわしていたくせに」
「体質が変わったのよ。眩しい陽射しはごめんなの」
「アトピーか?」
「そう、心因性のアトピーってとこ」
 典比呂はうんざりした、まるで涼紀を非難するような口ぶりで言った。
「皮肉や当て擦りはやめてくれよ、涼紀。きみも納得ずくで別居したんじゃないか。もう、これ以上、おれを困らせないでくれないか」
「あら、私が何をしたっていうのよ」
「とにかくく、きみも生きがいというか、打ち込めるものを見つけるべきだと思うな。とりあえずは、また仕事に復帰したらどうなんだ? さしあたってはパートとかでも」
「いちいち指図しないでくれない?」
「それが余計なの」
「おれたち戸籍上はまだ夫婦だぞ。夫が妻の身の振り方を心配して、それの、どこが余計なんだ?」
「へえ、都合のいいときだけ、戸籍うんぬんを言い出すんだ。忘れたの? 離婚したがっていたのは、あなたでしょう? 籍を抜きたがったのは、そっちじゃないの」
「籍にこだわって、離婚したがらなかったのは、きみだろうが。なのに、戸籍上は夫婦、と俺が言うのに対して、どうして怒るんだ? おかしいのはきみのほうじゃないか」
「だから都合のいいときだけ亭主面をしないでほしいってこと」
「亭主面なんてしないさ。心配しているだけじゃないか」
「それが白々しいって言うの。いい? 私を思い切り海に突き落としておきながら、だいじょうぶか、これに摑まれと浮き輪を投げてよこすようなことを、あなたは現にこうしてやっているの。あなたが心配するってことは、そういうことよ」

 典比呂がわざとらしく大きなため息をついた。
「涼紀、頼むから、もう少し素直になってくれないか。いや、きみの気持ちは、わからないでもない。しかし、おれは喧嘩したくて電話したんじゃない。こういう結果になったけど、おれとしては、きみとは仲のいい友だちでいたいんだよ」
「私は、わからない」
「何が?」
「あなたと仲のいい友だちでいたいのかどうかも、はたして仲のいい友だちになれるのかどうかも」
「うん、そうかもしれないね。きみがそう思えるようになるには、まだ時間が必要だろうな」
「・・・・・」
「きみも誰かと出会うといいんだけどなあ。新しい出会い、新しい恋愛、そうすれば、おれとも、ごく自然に友だちづきあいが出来るようになるかもしれない」
 典比呂との電話を終えたあと、涼紀はふたたび箸を手にしたが、食欲はなくなっていた。丼のなかに浮いているソーメンも、倍の太さに膨れてしまったようだった。
 丼をキッチンにさげ、流しの三角コーナーにソーメンを捨てた。
 先刻の典比呂の言葉が突き刺し、まだうずきつづけていた。
「新しい出会い、新しい恋愛・・・・」
 典比呂は自分がどれだけ残酷なことを言ったか気づいていないだけに、涼紀が受けた傷は、いっそう深かった。
 そういうセリフを平気で口にできるぐらい、それは典比呂の関心や興味が、涼紀からはなれてしまっている事実を、暗に語っていた。
 しかし、別居したとはいえ、涼紀は夫に、万が一の期待を捨てきれなかった。
 もしかすると典比呂は、いすせれ、若い男たちにも、ひとり暮らしにも飽きあきするときがきて、もういちど涼紀のもとに戻ってくるかもしれないではないか・・・・。

典比呂からの音沙汰は、それからしばらく途絶えた。
 八月も末になり、カレンダーが九月に移り、さらに十月の声を聞いても、うんともすんとも言ってこない。
 家にこもりがちな涼紀の生活は、近郊の山々が紅葉の時期を迎えるころになっても、まだ、つづいていた。
 積極的に何かをする気にはなれず、秋風とともに食欲がでてきたのにまかせて、食べたいだけ食べることが、唯一の生きがい愉しみになっているような毎日だった。
 といって、ヤケ食い、とまではいかない。
(この際、見せる相手はいないのだから、どれだけ太ったって、かまうものか)
 と食欲という欲望に忠実になってみただけのことである。
 振り返ってみれば、失敗の繰り返しだったとはいえ、思春期から典比呂と別居するまでの約二十年間、ダイエットのひと言が、頭の隅から消えたためしがなかった。
「よーし、今夜は食うぞ、目いっぱい元を取るぞ」
 の掛け声をあげながら、九十分食べ放題の店に会社の同僚たちとくりだす日があっても、翌日は減量を心がけ、カロリー計算に躍起になる。

 維持するに値する持って生まれた、すばらしいプロポーションの持ち主というのでは、決してなく、だれかに、そのスタイルのよさを一回でも褒められた記憶があるわけでもないのに、涼紀も、世の多くの女性たちと同様に、ひたすら太ることを怖れつづけてきた。自分の体重の増減に注目する者など、ただのひとりもいなくても、やせたい一心の十代、二十代だった。
「自分の美の対象は女性ではなく若い男」
 と結婚五年目にして打ち明けた典比呂は、いまになっては、なるほどと思うけど、結婚前にも、結婚後も、涼紀の外見へのコメントや注文は、まったく口にしたことがなかった。
 付き合い始めた当初、彼の好みのタイプに少しでも近づきたい、という、いじらしいほどの一途さで、涼紀は聞いたことがある。
「やせた女性と、ふくよかなタイプと、どっちが好き?」
「そんなこと、考えたことないなあ。要はどっちだっていいんだ、問題は中身だろう?」
 思いやり溢れる返答に、あらためて典比呂に惚れ直したものだが、何のことはない、あの当時から彼は、間接的にしろ、自分の関心は女性より若い男たちであることを、それとなくほのめかしていたのかもしれない。
 しかし、涼紀は勝手に思い込んだ。
(太ったら嫌われる)
 だから結婚してからも、こまかい努力を重ねてきた。
 食べたくても我慢する、なるべく甘いものは手を出さない、就寝時間の三時間はいっさい食べない、など、何カ条にもわたる鉄則を自分に課し、その成功と失敗の確率は、三歩前進しては二歩後退ではあったけれども、辛うじて結婚前と同じ体重を保ちつづけた。
 それなに・・・・。
 それなのに典比呂にしてみれば、そんなことは、まったく、どうでもいい、関心外にほかならなかったのだ。
 なんというアホらしい五年間。
 そもそも、痩せようと努力すること自体、しなくてもいいことだったのだ。
 五年間の虚しさをかみしめつつ、涼紀は気の向くままに菓子パン、アイスクリーム、どら焼き、ケーキといった、かつては、できるだけ自分に禁じてきた高カロリー食品を、手当たり次第に食べた。
 そのうち、
(太っても、構わない・・・・)
 という気持は、あてどない怒りにそそのかされて、
(太ってやるッ)
 といった意地にすり替わったりもしたけれど、よく考えてみれば、だれにむかって張っている意地なのか、それも、また、虚しくなり、気がつくと、いっとき旺盛になった食欲も、いつのまにか以前の食事の量に落ち着いていた。
 さらに涼紀が虚しさを感じたのは、体重計にのったときだった。
 ふれだけ高カロリー食品の毎日をすごしてきたのだから、五キロぐらい太っても当然だろう、と覚悟していたのに、体重計の針は、涼紀の平均体重より一キロ増を示したにすぎなかった。
(食べても、それほど太らない体質があるとは聞いていたけれど、もしかすると、私もそうだったのか? そうすること・・・・)
 と涼紀は、やはり、結婚五年目の、たゆまぬ努力を振り返らずにはいられなかった。
(あんなに努力、することはなかった。あんなに我慢、あんなに辛抱など、なんの役にも立たなかったじゃないか。我慢したり努力しただけ、損だった)
 
 それは、ごく自然に典比呂との結婚生活に重ねられてもいた。
 もともと太りにくい体質とわかっていたなら食事制限しなかったと同じく、典比呂の好きなのは女性ではなく若い男たちと分かっていたならば、かれとは結婚しなかったのだろうか。
 おそらく深刻に悩み、迷ったに違いない。
 さんざん思い迷った末に、しかし、多分、彼と結婚しちまっただろう。
 典比呂が若い男が好きでもいい、しかし、女性の中では私が一番なのだ、という、ひとひねりした優位性に支えられて。
 さらに、いまの彼の好みはそうであっても、そのうち、きっと私の方だけを向かせて見せる。若い男への興味を失わせて見せる、という、向こう見ずな自信と、困難さに挑戦する気負いに心を震わせながら。
 そして、その場合も、結局、五年後には、典比呂の嗜好を変えることもできないまま、別居か、離婚をする結末を迎えていたに相違ない。
 自分は太りにくい体質かもしれない、と疑いつつも、大食をつづけて、その結果を知るまで納得しきれないと同じく、とことんやってみなければ、気持ちはおさまらない涼紀だった。

 十月も残すところ数日となり、典比呂からの電話が途絶えてから、かれこれ三ヶ月を数えようとしていた。
 どうしているのか、と涼紀は二日に一回は思い出しはするものの、こちらからは連絡しようとはしなかった。
 典比呂の携帯電の番号は引っ越しの日に、メモ書きを貰っている。何かあったら電話するように、と彼が渡してくれた。
 けれど、涼紀は、気がかりではありながらも、なかなか電話をすることができなかった。
 電話に出た典比呂が、その瞬間、どう反応するか、それを身をもって知るのが怖ろしくてならないのだ。
 いかにも、煩わしそうな声だったら、どうしようか。一秒でも早く電話をきりたがっている様子を示されたら、その場合は、なんと言い繕えばいいのか。
 とことんやってみなければ気が済まない性分の涼紀のはずなのに、しかし、その最初の一歩が、電話をかけてみるという、たったそれだけのことが実行に移せなかった。
 典比呂の望む「仲のいい友だち」の口調で喋られるかどうかの自信がなく、また何かの拍子に、かみつくような口ぶりで喧嘩を売るような真似をしてしまいそうな不安もある。やらない、と断言できそうにもない。
 そうこうしているうちに、次第に涼紀は自分に腹が立ってきた。
(これじゃあ、まるで片想いの相手の顔色を伺っている子娘のようではないか)
 典比呂は、別居中とはいえ、れっきとした自分の夫だった。その夫に、電話一本かけるのに、なぜ、これほどまでに、怖気づき、逡巡しなくてはならないのか。しかも、三十三歳になる、結婚歴五年の妻である、この私が。

 しかし涼紀は、自分の及び腰の理由がわかってもいた。
 典比呂がバイセクシュアルだと告げた日から、涼紀は自分の「女としての自信」を少しずつなくしていった。いまも、それはつづいている。
 もとより女っぷりのよさなど自慢したくてもできない涼紀であり、典比呂が自分と結婚したのも色香のせいではないことは、十分にわきまえていたけど、それでも夫が「若い男が好き」と公言してからは、もう自分には勝ち目がないことを、涼紀は痛感しつづけてきた。
 世にはびこる、いわゆる「きれいな女」「いい女」とは、うまれてこのかた勝負をしようなどという野心は持ったことがない。
「はい、私は負けています」
 の表明を、堂々と、屈託なく言ってのけているも同然の涼紀の言動と態度だからこそ、かえって、愛敬を見出してくれたり、慕ってくれる者がいたのだ。
 しかし「はい、私は負けています」は、同性と比較してのものであり、まさか、そこに「若い男」が加わってこようとは思いもよらなかった。
 これでは仕切り直すしかない。

 仕切り直すために、あらためて「若い男」たちを眺めてやってみると、また「女でも男でもどっちでも」という典比呂の観点に懸命に歩み寄った視線を心がけてみると、単に若いというだけで、それだけきれいな男の子たちは、なるほど、うんざりするぐらいいるものだった。
 それは、三十代の涼紀からすると、若さにもたれかかった、あと二、三年で腐りだしたりくずれだしたりするに違いない、あやういきれいさだったけれど、問題は、そういうことではなかった。

「若い男」という存在は、途切れないのだ。
 いまが盛りを誇っている若者たちが、いずれ、ある時期に総崩れして、ごくありきたりな青年や中年の群れに紛れ込んでいったとしても、あとから、あとから、後発隊の「若い男」は生まれてくる。
 それは、すなわち、典比呂がいくつになっても「若い男」に不足はしない、ということだった。

「はい、私は負けています」
 の表明は、ある意味で、どこかで逆転というか、ドンデン返しを狙っていそうな、わざとらしい無邪気さを装うってもいるのだけれど、それは同じ女性という土俵に立ってこそできるポーズと言えなくもない。

 だが、「若い男」が相手なら、そもそも土俵が違う。
 おそらく典比呂が「若い男」に求めているものは、どの年代の女性でも、女性であるという一点で、補いきれないものだろう。
 あるいは典比呂は、涼紀なら補ってくれるかもしれないと思い、それで結婚したのかもしれない。それが何なのかは、皆目、見当がつかないけれど、多分、そういう気持は、幾らかあったはずだ。

 しかし、結局、典比呂は、結果的に考えると結婚という寄り道をして、ふたたび、彼本来の嗜好にもどっていった。
 その典比呂に対して、涼紀は、もはや、なすすべもない。
 典比呂の言うように、あとは「友だちづきあい」をするしかないのかもしれなかった。
 しかし頭では理解できても、涼紀の感情は、いまは、それを受け入れるのは無理だった。だから、こちらから電話ができない。

 冷静なつもりでも、典比呂のちょっとした言葉で、すぐにカッとなって言い返し、言った後で後悔するのは目に見えている。
 しかも自分から電話しておきながら、となると、やりきれない自己嫌悪に身を縮めたくなってしまうだろう。だから涼紀は、いつまでたっても、自分から典比呂に連絡することができず、典比呂から何も言ってこないことに、ひたすら心をざわめかせつづけることしかないのだ。

 カレンダーが十一月に入った最初の金曜日の夜十一時すぎ、涼紀がパジャマ姿でハーブティーをすすっていると電話が鳴った。
 湯気の立つカップを片手に持ったまま、コードレスの子機を取りあげる。
 相手は典比呂だった。
「あ、おれなんだけどさあ」
 発声ひと言めにして、涼紀は彼が酔っているのを察知した。しまりのない、語尾がだらしなくのびている喋り方は、それ以外に考えようがない。
「悪いな、こんな時間に・もう寝てた?」
「まだ」
「そうか、よかった。あの、ちょっと、いま少し話してもいいかな ?」
「どうぞ」
 この三ヶ月というもの、電話がかかってくるのを待ちわびていた、という内情など気取られたくもなかった。だから、わざとそっけなく対応する。
「いや、なんだか落ち込んじゃってね」
「ふうん」
 しかし涼紀の心は期待でうずいた。ようやく典比呂らしからぬ躁状態が下降線を描きだし、彼の持ち味のひとつであるエキセントリックな側面が頭をもたげてきたらしい。
「人生って、そうそう、うまくいかないものなんだなあ」
「そんなこと、いまごろ気づいたの?」
「前々から気づいてはいたけど、人間は愚かだから、また新しい局面に出くわすと、あらためて人生の不条理を、しみじみ実感するんだよなあ」
「人間は愚か、なんじゃなくて、あなたが愚か、なんでしょ」
「正しくは、そうだな」
「どうしたの? ずいぶん弱気になっているじゃない」
「いろんなことがあってね・・・・」
「会社で?」
「それもある」
「例の上司とまたやりあったわけ?」
「いや、彼はこの秋の人事異動で子会社に出向になったんだ」
「あら、よかったじゃないの。目の上のたん瘤がなくなって」
「ほら、ヤマダ部長って、覚えているか? おれたちの結婚披露宴で、チャイナドレスの女装をして、テレサ・テンの歌をうたった五十代の太った男」
「あなたのお母さんが、烈火のごとく怒ったひとでしょう? 場をわきまえろって」
「うん。あのヤマダ部長が亡くなってさ、おととい、きのうと葬儀に、俺も駆り出されてさ」

「・・・・そう・・・・亡くなったの」
「朝、布団の中でこと切れたのを奥さんが発見したらしい。心臓が弱っていたんだって。まだ五十六だよ。いい人だったのになあ。おれには、よくしてくれたんだ」
「そんなことがあったの・・・・落ち込むわけよね」
「それだけじゃないんだ」
「ほかにも?」
「そのヤマダ部長の葬儀のときに、どうも、財布を落としたらしくてね、いくら探しても見つからない」
「なんぼ入っていたの、その財布に?」
「・・・・・・」
「覚えていないの?」
「いや、覚えている。でも、言いたくない」
「どうして」
「きっと、きみ、怒るから」
「とにかく言って見なさいよ」
「・・・・・ええと、十二、三万ぐらい・・・・」
「なんですってッ。どうして、そんなに入れてたのよッ。ちゃんと探したのッ。みんなに言って、手分けして探してもらったのッ」
「だから、でてこなかったんだって」
「ばかじゃないのッ。なんで十二、三万もお財布に入れて持って歩くのよッ。カードがあるのに、どうして、また――」
「きみが怒ると思ったから、言いたくなかったんだ。いや、心配しなくていい、きみへの月々の生活費には影響させないから。今月も家賃とは別に、きちんと十八万円振り込むから」
「当たり前でしょッ。あなたがチョンボしたのを、私に巻き添えになる必要なんて、これっぽっちもない。身から出た錆。あなたの不用心が原因なんだから」
「わかっているよ・・・・これに追い打ちをかけるようなことが、きょうあってね」
「まだあるの?」
「うん」
 電話の向こうで、ごくり、と飲み込む音と、グラスに氷が当たる小さな音がした。
「誰にもいうまいと思っていたけど、どこうも、つらくてさ、こんな話ができるのは、やっぱり、きみしかいないんだよなあ、いや、ほんとは、きみに喋るのもお門違いなんだけど」
「ぐずぐずと前置きはもういいわよ」
「あ、ごめん。おれ、くどかった?」
「それがあなたっていう人よ、気にすることはない」
「そうか。いや、じつは、この一ヶ月ほど、おれの好みにぴったりな子がいてね。ブティックの店員なんだけど、まじめで、すれてなくて、ひたむきで・・・・」
「ぴったりな子って、男の子?」
「ああ、いい子なんだ。で一日一回は、用もないのにその店に立ち寄ったりして、それとなく接近して、きょう思い切って食事に誘ってみたんだ」
「・・・・」
「ところが、むこうは、おれを見破っていたらしくてね、ぼくはそのけがありませんって、はっきり断られちゃって、ショックだったなあ。きっと、あの子は、これまでも男から声をかけられた経験があるんだと思うよ。だから、食事にって言っただけなのに、そのけがない、なんて返事をしたんだろうな」
「・・・・」
「でも、そのきっぱりとしたところが、また、惚れ惚れするくらいチャーミングでね。いや、久しぶりに、あんな凛々しい子に出会って、それで、あせって、食事に誘ったのが早まったことだったかもしれないし」
「・・・・・」
「涼紀、きいている?」
「・・・・・・ええ」
「ね、きみがその子の立場なら、やはり、たった一ヶ月で誘うのは早すぎて、警戒してしまうかな? でも、少なくとも、おれは、いやらしい顔つきはしていなかったはずなんだよ」
 もう聞きたくない、と涼紀は言い返したかった。
 夫の失恋話に、にこにこと耳を傾ける妻など、いったいどこにいるのだろうか。
 しかし胸の痛みに耐えつつ、涼紀は意地になって、典比呂の話につきあいつづけた。
 ほかでもなく自分で自分を試してみたい気持ちからだった。


 Ⅴ
「ふうん。なるほどねえ。しかし、まあ、世の中には、いろいろなひとがいるから、ダンナさんだけが特別ってこともないんじゃないかなあ」
 涼紀の話を聞いたあと、春田ヒトミは、ほどよい重々しさと誠実味を言葉のそこかしこちりばめながら、そうコメントした。
 夫の典比呂との別居生活、そうなるにいたった典比呂のバイセクシュアルの性向など、涼紀が、まったくの他人相手に、ここまで打ち明けたのははじめてだった。
 多分、春田ヒトミなら、バイセクシュアルというものに対して先入観なしに聞いてくれるに違いない、と思ったからこそ打ち明けたのである。

 ヒトミの反応は予想通りだった。いゃね予想以上に、ヒトミは動じず、たじろがず、涼紀の話を途中で、目障り、耳障りなリアクションを起こすこともなかった。
「こればかりはしょうがないよ」
 とヒトミは、さらに親身な口調でつづけた。
「ダンナさんがそうなったのは、なにも涼紀さんのせいじゃないし、涼紀さんの努力が足りなかったためではない、と私は思うよ。ダンナさんだって、涼紀さんと結婚することで、自分のその好みが変われば、と期待したのも本当だと思う。それぞれに、がんばってみた。でも、だめだった。でもさ、世の中の大半は、たいがい、そんなもんじゃないかなあ。私なんか、昔から、そう思っているけどもね」

 ヒトミの慰めが涼紀の胸にしみた。押しつけがましくなく、高みに立った言い方でもなく、ヒトミは、涼紀が何かを求めているのかを、きちんとわきまえているらしかった。
 年が明けた一月中旬の午後、ふたりはオフィス街の裏の路地にある、うらぶれた喫茶店で、テーブルをあいだにむかいあっていた。

 時刻は三時をまわり、ほかに客はいない。ふたりが連れ立ってここにきたときは、くたびれたスーツ姿の営業マンらしき男がふたり、別々のテーブル席について新聞を拡げていたのだけれど、どちらも、とっくに帰ってしまっていた。

 ヒトミは、涼紀が十二月から時間給で働き出した職場のパート仲間である。
「洋食・ひかりや」というのが、その職場で、昨年の十一月に三十四歳になった涼紀にあてがわれたのは、洗い場専門のパートだった。

 最初、涼紀は、自分の見通しが甘いなどとは思わずに、求人情報誌を頼りに、せっせと面接にでかけていた。しかし、行く先々で、あっけなく落とされる。しかも、どの面接会場も職を求める人々で溢れていた。なかには、この春に大学を卒業したのに、いまだに仕事にありつけない、というという
若い女性も多々交じり、そのときになって涼紀はようやく不景気による就職難の現実に直面させられた。

 こういう厳しい状況では小当たりに面接にあたってもむだ、と涼紀はすばやく発想を切り替えた。幸い、月々の生活は、典比呂からの銀行振込が保障してくれてもいる。
 涼紀が早速訪ねたのが人材派遣会社だった。これといった特技も資格もなく、希望する勤務時間は午前から夕方まで、さらに三十四歳という年齢からして、そうすぐには仕事は見つからないだろう、とはなからあきらめ半分で、それでも登録はしてきたのだ。長期戦の構えだった。

 だが運よく一ヶ月とたたずに仕事がまわってきた。「洋食・ひかりや」の洗い場だという。
「洗い場、ですか・・・・」
 ととっさに歯切れも悪く聞き返したとき、人材派遣会社の男性は、こういう相手側の反応になれているのだろう、ごく事務的に説明した。
「ウェイトレスとかレジとかの接客仕事ですと、二十代前半というのが、先方の望む年齢でしてね、とはいえ、三十前でも、まあ、いいことはいいんですよ、若々しく見える方ならば」
「・・・・・・」
「洗い場ではご不満ですか?」
「あ、はい。いえ、やります。三十四ですから、私、年相応に」
 勤務時間は午前十時から午後二時半、時給は六百七十円だから、日給は三千十五円になる。交通費は別途、実費支給となる。
 涼紀が採用されたのは、遠距離に住む者と違って、交通費のかかりが少ないからだ、とのちになって喝破したのはヒトミである。
「だって涼紀さんは電車やバスの乗り換えなしで店まで来れるじゃない。電車一本、それも駅は三つ先、私も同じ。涼紀さんとは反対方向で、駅は四つ先だけど」

 ヒトミは、涼紀が「洋食・ひかりや」で働きだした五日後、やはり人材派遣会社を通して洗い場係に送り込まれてきた。
 涼紀にとっては先輩格になるパートの主婦が、前夜、車で子供を塾に迎えにいく途中、追突事故に遭い。鞭打ち症になってしまったため、いそぎ派遣されたのだ。
「洋食・ひかりや」の六十がらみの店主から紹介された春田ヒトミの、涼紀が受けた第一印象は、
(なんだか、コワそうなひと・・・・)
 というものだった。
 しかし、三十七歳の独身と称するヒトミの外見は、ざっとみたところでは、いかにも「おばちゃん」にすぎない。
 太く短い首と、どこまでが贅肉で、どこからが乳房なのか区別のつかないぶ厚い胸、幅広のどっしりした腰、といったパーツが、「あくまでも、ずんぐりむっくりをめざして」というコンセプトで組み合わされたような体型だった。
 見る者に、縦よりも横に存在感があると印象づけるヒトミは、ラフな服装が好みらしく、勤め始めた日も、そして、それからもずっとトレーナーとジーンズで通しつづけた。
 背丈は、その年代では中背である涼紀より五センチほど低い。

 初対面の涼紀が「コワそうなひと」と感じたのは、ヒトミのその目だった。
 貪欲に、抜け目なく光る目つきは、まるで、その場の優劣関係や上下関係を、瞬時にして見抜こうとするかのような、したたかさをたぎらせていた。
 これまで涼紀の身近には、こういう眼光の持ち主は、ひとりと見当たらなかった。さらに言うなら、この手のタイプは、なんとなく下品で、はしたなく、できるだけ関わりたくない人物であったのだ。

 しかし外見上の雰囲気は、堂々と野卑(やひ)さを撒き散らしている春田ヒトミだったけれど、いったん口をひらくと、その語調は、意外と知的なものが見え隠れした。
「春田ヒトミです。きょうから、ご一緒に働かせてもらうことになりました。よろしくお願いいたします」
 そして涼紀を見つめると同時に、にこりと笑いかけてた表情は、そうでないときが無言の圧力めいたオーラを発散しているだけに、こちらがほっと胸をなでおろしたくなるぐらいの効力を発揮した。

 もっと意外だったのは、いかにも強面のヒトミが、こまめに体を動かすのをいとわない働き者だったことである。
 さらに作業は手早く、失敗はない。
 その日から、洗い場は涼紀とヒトミのふたりに任された。ヒトミの出勤の初日、涼紀は作業の手順をざっとヒトミに教えたものの、内心では、この手順でよかったろうか、と不安だった。働きだしてからたった五日であり、まだきっちりと仕事を覚え込むのには至っていなかったからである。
 しかし白の作業着と頭巾を身につけたヒトミは、ためらいがちなところは、みじんもなく、素早く洗い物に取り掛かった。
 速い。
 一瞬たりとも手を休めずに、またたくまに、こなしていく。
 次から次へと、汚れた皿やカップを、ピカピカに光らせ、その動きには無駄がない。
 思わず涼紀は感嘆した。
「すごい・・・・・すごいですねえ、ヒトミさんは。まるで洗い場のプロのわざ・・・・・」
 ヒトミはそのあいだも作業のスピードを落さず、あっさりと答え返してきた。
「こういうのって、私、初めてじゃないからさ」
「はじめてじゃない? じゃあ、前にも洗い場で働いていたんですか?」
「うん、まあね」
 そして、やはりヒトミは自慢するふうでもなく付け足した。
「前に喫茶店やうどん屋をやったことあるんだ。どっちも儲からなくてやめたけど」
「まあ、喫茶店だけじゃなくて、うどん屋さんも・・・・」
「うん。時期は別々だけどもね」
「それって、でも、すごいじゃないですか」
 涼紀の手放しの称賛に、はじめてヒトミは、まんざらでもない笑顔になった。
「ほら、涼紀さん、ぼうっと立っていて、手がおろそかになっているよ」
「あ、すいません」
「謝ることないけどさ・・・・・あ、まだ、そんなに溜まってる・・・・さ、それ、こっちに移して、私がやるから。いいって、どっちがやったって同じこと。ここは、ふたりだけで、見ている者なんていない」

 うまがあう、というのか、ふたりは短時間で打ち解けた。涼紀のヒトミへの敬意と、ヒトミの涼紀への姉貴ぶん的ふるまいの、その相性がよかったのだろう。
 ヒトミが勤めたその日のうちに、涼紀は勤め帰りにヒトミを近くの喫茶店に誘っていた。帰りといっても、まだ陽も高い午後の二時半すぎだった。
 「ヒトミさん、ちょっとお茶でもどうですか?」
 さらに涼紀は申し訳なさをこめて言った。
「初日からヒトミさんに、私の何倍も働かせてしまったお礼もしたいんですけど。いえ、私も、目一杯やったつもりなんですよ。でも、とてもヒトミさんの早業には、敵わない。それなのに時給は同じなんて、不公平すぎますから」
 ヒトミはニッと唇を横にひろげて笑った。そうすると、上の奥歯に被せてある金冠が、かいま見えた。
「涼紀さん、あんたって正直もんだねえ。根性が曲がってないんだ、きっと。気に入った。わかった、つきあうよ」
 それからも、ふたりは勤め帰りに四、五回、喫茶店に立ち寄り、雑談にふけった。
 いつの場合も、どっちも立ち入ったことは尋ねず、表面的なお喋りに終始した。

 通り一遍なお喋りとはいえ、涼紀は、こうした会話の中から、ヒトミが他人の言動に左右されない、自分なりの考えで行動していく人間なのを知た。涼紀が抱いた初対面の第一印象が、これほど大幅にはずれた相手はいなかった。
「他人なんて無責任に面白がるだけだよ。自分の直感を信じた方が、たとえ、結果的に間違っても、納得できる」

 貪欲に、抜け目なく光るヒトミの目つきは相変わらずだったけれど、それは、涼紀にむかっては二度と向けられなかった。暫くすると「洋食・ひかりや」の他のパート仲間を見る目にも、いくらか、穏やかさが混じってきた。
 けれど、勤め帰りに喫茶店に向かう道すがら、あたりを見まわすヒトミのまなざしは、やはり、猛々しい貪欲さをむき出しにするのだ。いつも喫茶店に入ってからも、それは薄まらない。

 涼紀は、ヒトミの、まるでたれかに喧嘩を売っているようなその目つきを、はらはらして見守っていたけれど、いつとなく、彼女はこういうひとなのだ、となれはじめていった。
 そしてヒトミが「洋食・ひかりや」で働きだして数週間がすぎたころ、喫茶店の片隅で、涼紀は夫の典比呂と別居していること、そうなった理由も含めて、ヒトミに打ち明けたのである。

「もしヒトミさんが私の立場ならどうする?」
 ヒトミが、典比呂の話を聞いて、嫌悪も大げさなリアクションも起こさなかったのに勇気づけられ、涼紀は、あらためて、尋ねてみた。
 この話題を心置きなく持ち出せる相手を得た嬉しさは、涼紀が思っていた以上のものであったのだ。
「私に聞いても参考にならないと思うよ」
 正月気分の抜けきれない一月のなかば、ヒトミのいでたちは、相も変らず、ありふれた紺のトレーナーにジーンズだった。トレーナーの胸の部分には、日本語を訳すと、
「くたばっちまえッ」
 とでもなるような「F」ではじまる品の悪い英語、それにつづく「You」の文字が赤くプリントされている。
「なんせ、私は、男は、おとなしくて、手がかからないのがいちばん、と思っているからね、あっちむいていろ、と言えば、何時間でもそうしているような男がさ」
「まじめに話してよ、ヒトミさん」
「マジだよ。だから、ほんとに、そういう男が私の好み。そのうえ金持ちならもっといいけど」
「手がかからないという点じゃ、典比呂さんは、ひと一倍かかるかもしれない」
「みたいだね。それも、ひと一倍どころか、二倍も三倍もかかる。そういう男って、面倒くさいんだよねえ。私はヤだな」
「お金持ちでも?」
「どの程度の金持ちかによるけどね。年収七、八百万円程度で、大きな顔されたくないね、私としては」
「・・・・・・」
「でもさ、考え方次第っていう気持には、涼紀さん、なれないかなあ」
「何を?」
「しち面倒くさいダンナが、わざわざむこうから別れて暮らしてくれて、しかも月々きっちり生活費が貰える。それも、じっとしてれば、離婚成立までの、むこう五年間もだよ。私なら、こういう結婚、大歓迎だけどなあ」
「そんな結婚してる意味がない」
「どうして?」
「愛情はどうなっちゃうのよ、ふたりの愛は」
「あ、そう。愛が欲しいわけね?」
 ヒトミは、小ばかにしたような目つきで涼紀を見返した。
「愛が欲しいのかって、当たり前でしょうが。だから結婚したんだもの・・・・・そういえば、ヒトミさん、結婚の経験は?」
「ないね。結婚願望は、どうも私にはないみたい」
「したいと思ったことは?」
「そういえば、昔、うすらばかの小金持ちの男がいたな。そいつとなら、まあいいかと、私のほうがじゃないよ。そいっが犬コロみたいになって、うるさくってさ、この際、一緒になってやるか、と」
「そのひとのこと、結局、好きだったんだ、ヒトミさんは」
「もっと正確にいうと、そいつの持っている金がね」
「また、そんなふうに言って」
「その金で定食屋みたいな店を持てたらいいなって夢見たときも、それなりにあったわけ」
「いつ頃のこと?」
「かれこれ十二、三年前になるかな」
「じゃあ、ヒトミさんは当時二十四、五・・・・」
「うん。そんなもんだったね、多分」
「二十四、五の若さで、定食屋っていうのは、ずいぶんと渋いのね。地味という言い方も、あるけど。ふつうなら、ブティックだの、しゃれたバーだのって考えるじゃない、その年ごろなら」
「で、そういうのって、たいがいチャラチャラして、店を潰すんだよね。店を自分のアクセサリーみたいに思っているから」
「そうなの?」
「私の友だちも何人かいたもの、そういうのが。商売を遊び半分に考えて、それで、そのうち、男に騙されたり、男の金づるにされて、どれもこれも、みんな、おかしくなっちゃうってのが、まあ、お決まりのパターン」
「・・・・・ヒトミさんって、これまで、どんな人生を過ごしてきたの?」
「そんなたいした人生じゃなないよ。たかだか三十七年間だし・・・・定食屋がいいな、と思った理由は、ごく簡単。自分のキャラクターにあわせただけさ。ほら、私って、どう見たって、しゃれたブティックやらバーやらのオーナーの雰囲気じゃないからね。食堂のおばちゃんがぴったり」

 そうね、と言いそうになったのを、涼紀は慌てて呑み込んだ。
「ただ二十四、五で食堂のおばちゃんっていうのも、年齢的にちょっとユニークだから、その点で客の関心を引きつけたり、客受けがするかな、という計算もあることはあった」
「・・・・・すごいねえ・・・・」
 涼紀は心底から感心した。
「私の二十四、五といえば、とても、そこまで考えられなかったもの。当時の最大の関心事は、彼氏がいるかいないか。クリスマスは誰と過ごすか、それともひとりぼっちか・・・・せいぜい、そんなことぐらい」
「それでいいんじゃない」
ヒトミは、別に皮肉ではなくそう言った。
「私は昔から風変りで通ってきたからね。それでいいんだって自分を正当化するつもりもないけど、かといって、ふつうの女の子の生き方を、軽蔑もしていない。それぞれに違いがあるところで、世の中、うまくまわってるんだと思うな」

 自分が、いっぷう変わっていることを、肩ひじ張らずに認め、押しつけがましさのないヒトミの、その体温の感触は、どこかしら夫の典比呂に似てなくもなかった。
「風変りって、ヒトミさんはそういうことなの?」
「そう思わない?」
「私もよくわからないけど」
「しょっちゅう、そんなふうに言われてきたよ。私自身、どこが風変わりか、首をひねるんだけどもね・・・・ああ、そうか。涼紀さんは、風変りなダンナさんと、とことん、じっくりつきあってきたから、おそらく私程度の風変りは、風変りとは感じないんだ」
「そうかなあ」
「トクな経験をしたと思えばいいんじゃない。少なくともバイセクシュアルを身近に知らないで先入観や偏見を持つひとより、涼紀さんは、他人を受け入れる許容量(キャパシティ)が深くて大きいはずだよ」
「・・・・・・」
「だって、そういうダンナさんでも、まだ好きなんでしょ?」
「もはや片想いよ」
「どうして?」
「むこうは、私とはいい友だちになりたいんだって」
「あ、それは脈があるね。友だち? きれいごとをぬかすなって言いたいね。ダンナさんはね、あわよくばって思ってるのさ。要は涼紀さんをキープしときたいんだよ、ダンナさんは」
「友だちとして? それとも妻として?」
「いいや。微妙なニュアンスを多分に含んだ女友だちとしてさ。女房というには、わずらわしい。でも、単なる友だちと称して、ほかの男に取られるのは我慢がならないって事だろうね」
「でも彼は、私に新しい恋愛をすすめたりもする・・・・」
「それは社交辞令ってやつだよ。自分の方から、とっとと別居しといて、そのうえ別居中の女房に、恋愛するな、なんていう言い草は、ちょっと考えのある男なら、口が裂けても言わないさ。その反対に、うんと物分かりがよさそうに言うのが、男の見栄」
「・・・・・・」
「だいたいダンナさんはバイセクシュアルだろう? 男も女のOKなんだろ? だったら、あっちの男も、こっちの女も、できるだけ手放したくないんじゃないかな。自分のまわりに、ぐるっとおもちゃを積み上げて、得意げに喜んでいるような子供みたいなもんさ」
「ヒトミさんって、バイのひとの心理に詳しいんだ」
「詳しくはないよ、以前に、そのけのある友だちがいただけの話だ。ああ、そいつは、おたくのダンナ以上にエキセントリックで、酔っぱらうと、ものすごくイイやつになるか、ものすごくヤなやつになるか、極端だったよ」

 春田ヒトミに夫のことを打ち明けた数日後の夜、涼紀は、はじめて自分の方から典比呂の携帯電話の番号に連絡してみた。
 典比呂と電話で話すのは十一月の最初の金曜日以来である。
 あの晩の電話で彼は、自分の方想いとその失恋談を、涼紀に臆面もなく語ったものだった。
 涼紀はそれに懲りた。
 別居中とはいえ、自分の恋物語を語ってはばからない典比呂の無神経と身勝手、自己中心的な言動に、ほとほと愛想がつきた。

 それでクリスマスも正月もいっさい連絡せず、声も聴きたくなかったから、電話は留守番用にずっと切り替えておいたのだ。
 不快な気分が晴れないあいだは、どういう形ででも、典比呂と接触したくなかった。
 彼が涼紀の気持ちを推し量って、口にする話題にも気を配ってくれるのならまだしも、涼紀の感情を逆なでするようなことを平気で喋り散らす状況には、もう耐えられない。
 それに対し、怒鳴り返し、わめき立て、いらいらする自分にもうんざりなのだ。
 しかし春田ヒトミの存在は、涼紀の気分を大きく変えた。
 ヒトミにかかると、とんな悩みや心配事も、そうたいしたことじゃない、という気持にさせてくれる。
 仕事面でもプライベートでも、いつのまにか彼女を頼りにしていた、ここ一ヶ月間の涼紀だった。

 また涼紀の見たところ。ヒトミも涼紀に頼りにされて、悪くない顔つきや態度なのだ。ときおり、ぞんざいな言葉遣いの裏から、びっくりするような、細やかな情の濃さがにじみ出てくることもあった。
 連絡が途絶えていたため、「洋食・ひかりや」のパートで働き出したことを、典比呂は知らない。一応、その報告もしておきたかった。
 時間は夜九時過ぎていた。
 呼び出し音が八回を数えても繋がらず、また日を改めて、かけ直そうか、と涼紀がコードレス電話の子機をやや耳から離しかけたとき、ようやく電話が繋がった。
「・・・・はい」
 苗字を言うでもなく、かったるげで、力のない、けれど、間違いなく典比呂の声である。
「私、涼紀」
「ああ」
「いま話まずいかしらね」
「・・・・いや、かまわない」
「元気ないみたいね」
「そうかな。元気だよ、おれは」
「眠ってたの?」
「いいや、泣いていた」
 冗談なのか事実なのか、この際、涼紀は強引に無視した。「どうして泣いたのよ?」などと訊き返したなら、どうせ、ろくな話の展開にならないに決まっている。この前みたいに失恋して泣こうが、財布を無くして泣きべそをかこうが、こっちの知ったことではなかった。
「じつは報告が遅れたけど、昨年の十二月のなかばから、私、パートで働きはじめたの」
「ふうん、よかったじゃないか」
「サラリーマンやOL相手の、ランチタイム専門のような、定食屋といったほうがぴったりするような、とりあえずは洋食屋なんたけどもね」
「その店、だいじょうぶなのか?」
「なんで?」
「はっきりしない店だからさ」
「はっきりした店名はあるわよ。”洋食・ひかりや”」
「じゃあ、つまり洋食屋なんだ」
「だから、最初にそう言ったじゃない」
「きみの言い方がまどろっこしいんだよ」
 露骨に非難めいた典比呂の口ぶりに、涼紀はむっとしたけれど、ここでも一歩上手に出て無視することにした。
「時間は午前十時から午後の二時半迄。洗い場担当なの」
「ふうん。レジとか、お運び係じゃないんだ」
「それって嫌味?」
「どうして嫌味になるんだ?」
「あなたね、私の口からこんなことを言いたくないけれど、自分の妻が、一般的にどの程度のレベルの女か、ちゃんとわきまえてるの? それとも、そっぽばかり見ているから、そういう基本的な事さえも見落としていたのかしらね。いい? 三十四にもなる、この私が、どうしてお客さんともろに顔を合わせるレジとか、お運びに採用されると思うのよ。うんと若い子が、わんさか余っている、この不況の就職難のご時世に」
「そうだな」
「でしょう?・・・・わかればいいのよ。だからね、パートの勤め口があっただけでも、私はラッキーだったの」
「じゃあ、おれも素直に、おめでとう、と言っていいんだな・・・・
「ありがとう。それとね、同じ洗い場担当で春田ヒトミさんとパートナーを組んだのも私にとっては、とってもよかったの。ヒトミさんは三十七の独身なんだけど、人生経験がいろいろと豊富みたいで、教わることが多くてね」
「・・・・ヒトミさん、か。可愛い名前だな」
「名前だけはね。実物は迫力ある女性よ。いえ、大柄とか、そういうじゃなくて、ほら、存在感のある迫力という・・・・」
「すごい美人とか」
「それもぜんぜん違う」
 そう言ってから、涼紀はちょっと口ごもり、なぜか小声になった。
「あのね、こんなこと、あなたにしか言えないんだけど、彼女と並んだら、もしかすると、私だって、そこそこきれいに見えるかも知れない。たったいま気づいたんだけど」
 それから補足した。
「いえ、そんなこと、どうでもいいの。どうだっていいと思わすぐらい、ヒトミさんのひととなりはチャーミングなわけよね。そう、そう言う事なのよ、私が言いたいのは」
「ずいぶんヒトミさんに惚れこんでいるみたいだな」
「あなたも、きっと惚れこむわ。だってねヒトミさんはバイセクシュアルのことを聞いても、眉ひとつ動かさなかった。以前にそういう友だちがいたんだって」
「おれのこと、彼女に話したのか?」
「ヒトミさんなら驚かないっていう確信があったから。それに話すか話さないかは、私の自由でしょ」
「ああ、きみの判断でそうしたいと思えば」
「誰にでも言いまわっているわけじゃないわよ。ヒトミさんにだけ打ち明けたの。私だって、わかっているって。こんなことを打ち明けても、誤解されたり同情されたり見下されることのほうが多いことは。いえ、ばかにされるのがオチよね。自分の夫がバイセクシュアルなのを、どうして、いままで気付かなかったのかって」
「でも、それは、きみの責任じゃない。おれが必死に隠していただけのことで」
「そう。あなたが噓つきだったのよね」
 いったん、そう言ってから、涼紀は、さらに厭味たっぷりに、繰り返してやった。
「天才的な噓つきで詐欺師なんだから、あなたって人は」
典比呂は無言だった。
 まさか泣いているのではあるまい、と涼紀は受話器の気配を聴き耳立てた。その想像は、しかし良心の呵責ではなく、ぞくぞくするような快感と勝利感をもたらした。
(・・・・・ざまあみろ・・・・・)

 半月後の二月の上旬、勤め帰りの、いつもの喫茶店で、涼紀はヒトミから思いがけない誘いを受けた。
 近々、小さな酒場をオープンする予定だけれど、その店を手伝ってくれる気はないか、というのが、誘いの内容だった。

 Ⅳ
 春田ヒトミが経営する酒場「デイジー」は、五月の中旬にオープンした。
 涼紀が、その件をヒトミから打ち明けられてから三ヶ月がすぎていた。
 最初、ヒトミから、その店を手伝ってくれないか、と言われたとき、涼紀はまるで乗り気ではなかった。
 夜の水商売についての偏見はないつもりではあったけれど、接客業というものには、からきし自信がなく、むしろ、ヒトミの足手まといになりそうな危惧ばかり働いた。
 だいいち、愛想のいい性分ではなかった。
 話のうまさで座を和ませたり、楽しませる、といった特技があるわけでもない。
 気配り、目配りなどの気働きの点にしても、万事怠りなく、とはいかないのは涼紀自身が、いちばんよく知っている。
 そういったことを理由にしり込みする涼紀を、しかし、ヒトミは、あらためて涼紀を値踏みするように、心持ち目を細めて見つめ、力強く言い下した。
「心配ないって。私に言わせるとね、涼紀さんの、その謙虚さが、何よりのチャーム・ポイントなんだから。それに、いざというときは、この私が控えているから、どうにでもなる。まかせなさい」
「でも、お客さんは、私のようなのじゃなくて、若くてきれいな女性のほうを喜ぶんじゃない?」
「そういうのを求めて来るお客さんは、うちの店にはきゃしないよ」
「・・・・・・・」
「男たちをちやほやして、飲ませて、酔わせて、金を踏んだくろうっていう、そういう店にはしたくないんだよ、私は。そうされたい男は、そっちの方面にいけばいい。うちの店は、女がひとりでこれる店、ひとり暮らしのOLが、ちょっと淋しくなったときに、ふらりと立ち寄れるような、そこにいけば、だれか話し相手がいるというような、そんな店にしたいんだ」
「ひとり暮らしの女性が、気後れせずにこれる店・・・・」
「そのためにも、中途半端な美人がカウンターにいる必要なんてない」
「中途半端な美人って?」
「別に目鼻立ちがととのっているわけでもないのに、自分を美人らしく見せたがる女ってことさ。化粧やらヘア・スタイルやら服装やら仕草なんかで誤魔かして、美人面している気取った女」
「ああ、いるわよね、そういうひと」
「うちの店に必要なのは、あくまでも親しみやすい人柄で、明るく、誠実味のあるタイプ。目立ちたがり屋は困るんだ」
「ふうん、そうなの・・・・」
「涼紀さんに、カクテルのレシピを暗記しとけ、なんて私は言わないよ。酒屋さんへのオーダーも、私がやる。涼紀さんは、お客さんの話し相手になっていればよいだけ。その場合のポイントは、できるだけ聞き役にまわること、みんな淋しいもんでね。みんな、だれかに自分のことを聞いてもらいたがっている。そのために酒場はあるのかもしれないって、私は最近しみじみそう思うな」

「・・・・酒場はカウンセリング・ルーム・・・・」
「うん。だから、もし、それが許されるのなら、店の名前を”バー・カウンセリング”ってつけたいよ。そんな名前にしたら、客はひとりもこないに決まっているけどさ」

 ヒトミの説明で酒場にもいろいろあり、彼女が目指しているそれは、未経験の自分にも、どうにか勤まるかもしれない、という気がしてきたものの、涼紀は、返事はもうしばらく待ってくれるようにヒトミに頼んだ。
「いいよ。いろいろと考えてみるといい」
 ヒトミは気を悪くしたふうでもなく、あっさりと、そう答えた。
「でもさ、私の予感では、涼紀さん、やるって返事してくれると思うな」
 ヒトミは返事を待ってもらったとはいえ、涼紀は、この件を、別居中の夫の典比呂にも、今でも月に一、二回は様子伺いの電話をかけて来る、見かけよりも情の細やかな義母の晴子にも、相談するつもりは、まるでなかった。
 ふたりの反応は、漠然とながら予測はついた。
 諸手を挙げて賛成とはいかないだろう。かといって、面と向かって、反対もしないに違いない。
 典比呂も晴子も、対人関係は、できるだけスマートにふるまい、大きな衝突は避けたいという、そういう美意識の持ち主だった。

 だから、賛成も反対もせずに、涼紀の一存にまかせる、と、まずは言うだろう。言った後に、遠まわしに、夜の務めの大変さや酔客相手の商売の苦労やストレスなどを、涼紀の健康を案じるふうを装いつつ、小刻みに、しつこく、繰り返してくるに相違ない。涼紀が、しぜんとこの仕事口をあきらめるように。自然と、自分にとうてい無理、という気持になるように。典比呂との別居が、そうであったように。

 また、まんまとふたりの口車にのせられてしまう、これまでの涼紀でもあったのだ。
 しかし、今回の件は、相談しようか、どうしようか、とは、ちらりとも迷わなかった。
 涼紀の決意は、八割がたヒトミに傾いていた。ヒトミなら、彼女が仕事のパートナーであるなら、思い切ってやってみても損はない・・・・。

 店の経営がうまくいって収支上の損にはならない、の意味での「損」ではなく、たとえ、万が一、店をオープンして半年たたずに潰れても、ヒトミと力を合わせてやった挙句のそれならば、自分の人生にとっての損にはならない、という意味あいである。

 涼紀にそう思わせる何かが、ヒトミにはあった。
 残り二割の逡巡は、やはり、ヒトミが指摘した涼紀の謙虚さ、というか用心深さから発するためらいだった。
(ずぶの素人の自分が酒場勤めして、ヒトミさんの足手まといどころか、足を引っ張る結果になりはしまいか。ヒトミさんは、涼紀さんでもだいじょうぶ、と言ってくれるけれど、それは買い被りというものではないのか・・・・)
 店をオープンするための資金ぐりについては、ヒトミは、ほとんど話したがらなかった。
「そういうあぶらこくて、下世話なことは、私に任せておけばいいんだって」
 けれど小坪ながら、テナント・ビルの一隅に店を構えるにあたっては、そこそこの資金を用意しなければならず、ヒトミにそうしたリスクを背負わせておいて、片や涼紀は、気楽な気分で遊び半分で働く、というのは、何よりも涼紀自身が許せない。
 許せないから、だから、ためらってしまうまのだ。
 気楽な遊び気分ではなく、本気に真剣に働いたにしても、結果的に、お遊びの域をでない涼紀の仕事ぶりに終わってしまうかもしれないではないか。

 それに、三十七歳のヒトミにとっては、年齢的に考えても、今回の店は、これまでやって来たという喫茶店やうどん屋とは違い、残りの人生を賭けたものかもしれなかった。
 しかし、残りの人生を賭けたものであるとしたなら、どうして、もっと、しっかりしと頼りになる。少なくとも自分みたいな素人でなく、その道のベテランに声をかけないのだろう、と涼紀は首をひねってしまう。

 店を手伝うかどうかの返事は、しばらく待ってほしい、と答えた二日後、涼紀は、あらたに胸にわいてきた疑問を、再度、ヒトミに問いたださずにはいられなかった。
「洋食・ひかりや」の洗い場のパートの帰り、いつもの路地裏の喫茶店に、涼紀は、あらたに誘った。
「あのね、例のお店のことなんだけど、いくつか質問してもいい?」
 テーブル席につき、飲み物を注文したあと、涼紀は、すぐさま本題に取り掛かった。
「どうぞ。なんなりと。ただし、答えたくないことは言わないよ」
「うん、わかった・・・・・あのね、こんどのお店ってのは、ヒトミさんの最後のビジネス・チャンスなのかと思って」
「最後のビジネス・チャンス?」
「そう。これが最後のお店だっていう意気込みというか、残りの人生のすべてを、このお店に賭けているというか」
 ヒトミはそっけなく言った。
「それを聞いて、どうするのさ」
「生意気なようだけど、ヒトミさんの決意がどの程度かによって、私の返事のしようもあると思うのよね」
「いちいち面倒くさいひとだねえ、まったく」
 けれどヒトミは口ほど、うんざりした表情ではなく、どこかで涼紀のそうした慎重さを楽しんでいる眼差しだった。
「これが私の最後のラスト・チャンスだなんて、考えてもいないよ。ここだけにとどまっているつもりもないし、そのうち、いつか、必ず、いまに見ていろという野心は、たっぷりあるさ。といっても、たいがいの人間は、そう言いつつ、パッとしないまま四十代、五十代になってしまうんだけどもね」

 はったり半分、自分自身への皮肉半分のヒトミの返答は、どれが本心なのか、涼紀にはつかみどころがなかった。
「はっきり言って、涼紀さんが、そんなことまで気にすることはないってこと。私は、いつだって出たとこ勝負の性格で、先々のことまで考えてはいないんだ」
「・・・・・そう・・・・それからね、資金面なんだけど、ヒトミさん、やっぱり銀行とかから借りるわけなんでしょう?」
「いまどき銀行で水商売に融資してくれるとこなんて、ほとんどないよ。特に、私がやろうとしている、ちっぽけな酒場なんかにはね」
「じゃあ、どうするの?」
「だから、それは私がどうにかするって言っていたじゃないか。信用していないの?」
「信用するしないの問題じゃなくて、ヒトミさんが大変だろうと思って」
「そんなの覚悟の上だよ。おおよそ見通しがついているからこそ、涼紀さんに声をかけたんでね、涼紀
さんに何か負担してくれっていう話だとしたら、はじめからそう言っているよ」
「ええ・・・そう、そうよね」
「ほかに質問は?」
「・・・・ない・・・・いまのとこは」
「まあ、また何か聞きたいことが出来たら、遠慮なく言ってくれればいいよ」
「・・・・ヒトミさん」
「ん?」
「あのう、もしかしたら、ヒトミさんって、お金持ちなわけ?」
「あのね、金持ちなら、定食屋に毛が生えたような洋食屋でさ、洗いのパートのおばさんをやると思う?」
 一週間後、涼紀はヒトミに、
「お店の件、よろしくお願いします」
 と返事をした。
 ヒトミは、うれしさと得意さの入り混じった表情で、その言葉を受け止めた。
「ほらね、私の勘は当たったろ。だいたい私の直感は、めったに外れない」
 店の名前は「デイジー」は、ヒトミがあらかじめ決めてあったもので、これといった由来も理由もないらしかった。
 ヒトミと自分のキャラクターからすると、「デイジー」という店名は、可愛らしすぎるのではないか、店の名前だけに惹かれてやってきた客の期待を裏切るのではあるまいか、と涼紀は思ったけど、口には出さなかった。

 五月中旬の「デイジー」のオープンにむけて、ヒトミが「洋食・ひかりや」のパートを辞めたのは三月の末日、涼紀は、さらに、それより一ヶ月あとの四月末日で退職した。
 ヒトミが三月いっぱいで辞めると聞いた際、涼紀もそうするつもりだったのだが、ヒトミに反対されたのである。
「”デイジー”のほうの準備は、当分は私一人でやれるから、涼紀さんは、ぎりぎりまで”ひかりや”のパートをやってきなよ。そのぶんだけパート料をもらえるし、私にくっついて動き回っても。まだ”デイジー”から給料は支払えないからね」

 「デイジー」は、涼紀の住むマンションから電車で十五分ほどの、「洋食・ひかりや」とは反対方向に位置する歓楽街のビルの二階に、その小さな看板を掲げた。

 六階建てのビルの全フロアが飲食店でしめられている、そう古くはない建物だった。
 五月の中旬の平日にオープンした「デイジー」は、当日と翌日の二日間を無料飲み放題とし、案内状をもらった客が、開店の六時と同時にぞくぞくと押しかけて来た。
 その大半がヒトミの友人知人、そして、喫茶店やうどん屋をやっていたころからの客だった。
 涼紀が想像していた以上に女性客が多く、「ひとり暮らしの女性が気軽に立ち寄れるような店」
 というヒトミの狙いも、あながち夢ではない幸先のよさを感じさせた。

涼紀は、結局、誰にもオープン案内状は送らなかった。
 二年前まで勤めていた会社の同僚や上司、学生時代の仲間、加えて典比呂の交友関係、義母の晴子の商売取り引き業者など、そうしようと思えば案内状の郵送先は、いくらでもあるのだけれど、涼紀の踏ん切りがつかなかったのだ。

 典比呂との別居は、まだ、身内以外には知らせていない。
「デイジー」のこれからのを考えると、ひとりでも多くの客にきてほしいのだけれど、そうなると、自分たち夫婦の仲を詮索されるのは目に見えていた。
「どうして夜の商売に?」
「典比呂さんは賛成したの?」
 こういう質問をされるのは、当然のことながら予測がつく。
 別居の事情を知っているヒトミは無理強いはしなかった。
「涼紀さんの判断にまかせるよ。涼紀さんが、店に来てもらいたい、心から歓迎したい、というひとだけでいいんだから」
「ごめんなさい、わがまま言って」
「いいってこと。涼紀さんが、あまりまわりに声をかけたくないだろうなってことは、私、わかっていたから」
「私も、もっと居直って、別居のことを平気で言えるようになるといいんだけど」
「ま、そうだね。そのうち、少しずつ居直っていくのも必要だろうね。隠しきれることじゃないだし」
「ふつうの別居なら、ここは迷わずに言えたのかもしれない。でも、夫がバイセクシュアルとなると、そのへんを、どう説明すればいいのか・・・・」
「私ならポーンと言っちゃうよ。夫はバイセクシュアルでした、ところが私はうかつにも五年間まるで気が付きませんでした、笑いたいひとは、どうぞ、笑ってくださいってね。でも、まあ、しかし、涼紀さんには、まだ、そこまではできないだろうねえ」
「・・・・・努力してみます」
「デイジー」のオープン案内状は友人知人のだれにも送れなかったとはいえ、夫の典比呂にだけは郵送していた。
 型通りの店の挨拶文が印刷された便箋の余白に、涼紀は直筆で書きとめた。
「このようなことになりました。店の主は、前に話ししてあった春田ヒトミさん。私は共同経営者ではなく、あくまでも手伝いです。一円も出資してません」
 そして末尾の署名のところで、やはり、悪態や皮肉のひとつで言いたくなって、こう書きそえた。
「むりやりの別居の痛手と悲しみから、どうにか立ち直りつつある、あなたの厄介なお荷物である戸籍上だけの妻・涼紀より」
 無料飲み放題の二日間は、二十人すわれるカウンター席も、ぎゅうぎゅう詰めにすれば二十人はどうにか腰かけられるコの字型も満杯で、店内のせまい通路やカウンターの内側で立ち飲みする者もあらわれるありさまだった。
 そのあいだにも次々と新しい顔ぶれがやってきたり、帰っていく者がいたりと、客の入れ替わりは激しく、涼紀は息つく暇もなく仕事に追われた。
 客の相手はヒトミにまかせ、グラスを洗ったり、大皿につまみを類を盛ったり、水差しには水を、アイス・ペールには氷を補給したりが、その仕事である。
 そうした立ち仕事のあいまに、ヒトミから客を紹介され、そのつど、
「はじめまして涼紀です。よろしくお願いします」
 と満面の笑みを心がけなければならないのだから、脇見をしている余裕もない。
 二日間とも、もっとも忙しかったのは八時半から十時半の時間帯だった。
 カウンターの内側まで入り込んできた立ち飲み客が十人をこえ、そこで立ち働く涼紀の行く手さえふさがれ、涼紀は、あやうくヒステリックなパニック状態に陥りそうになったものである。
「どいてよッ、そこ。じゃまだってばッ」
 喉まででかかった、この言葉を、どれだけ呑み込んだかもしれない。
 多忙を極めた時間帯の、いったい何時ごろだったろうか、入り乱れる客たちの頭越しに、ちらりと典比呂の顔が見えた。
(あっ?)
と、つま先立って背伸びしたときは、その顔は他の客の背中に隠れて見えなくなった。
 気のせい、他人の空似だったのか、とふたたび洗い物にもどり、しばらくして、目をあげると、開けっ放しにしてあった店の出入口のドア近くに、典比呂の姿が確かに認められた。

 グラスを手に、にこやかに談笑している典比呂、しかし、ひとりではなく、傍らにたたずむ青年、というか、少年と呼びたいような若者に、しきりと喋りかけていた。
 タヌキを連想させる丸顔で、まんまるい目の、まるで表情のない若者だった。
 彼は典比呂の連れなのか、それとも、この店でたまたま典比呂の横にいただけなのか、涼紀は一部始終を見ていたわけではないからわからない。
 だが若者に話しかけている典比呂の顔つきは、涼紀が知っているうちでも、上機嫌このうえないそれだった。
(ああいうタヌキ顔の若者が典比呂の好みなのか。あの手の顔を、夫は、きれいだ、すばらしい、と称賛するわけか?)
涼紀はがっかりした。
 夫の同性好みを、もはや、どうあってもとめられないとするなら、せめて、もう少し一般受けするというか、わかりやすいハンサムというか、誰でもが「なるほど」頷くような、つまり、そういう相手を選んでほしかった。
 落胆をかみしめる、そのときの涼紀の心中は大事な自分の息子が連れて来た相手の女性に対する失望、といった感情に似ていた。三十四歳にして味わう姑の気分だった。
 カウンターの内側で立ち働きつつ、客たちの肩ごしに見え隠れする典比呂と若者に、ちらちら目を走らせていた涼紀は、ほどなく、若者の大きな笑顔を目撃した。
 声は店内の喧騒にかき消されて聞こえない。
 だからこそ、その笑顔は、余計に間抜けに見えたのかもしれないけれど、一瞬、涼紀は愕然とした。手の動きをとめた。
(知性も品性のかけらもないアホ面ではないか。タヌキを連想させるどころか、タヌキそのものではないか。それも野性を生き抜く賢く、利発なタヌキではなく、仔タヌキのころから人間の手で撫で廻され、好きなだけ餌をもらい、ちやほやされ、すっかりダメになったタヌキ・・・・)

 涼紀はいそいで目を伏せた。
 だれともなく恥ずかしくて仕方なかった。
 典比呂に対する、わけのわからない怒りのようなものも、胸の内でくすぶった。
(とびっきりのハンサムでもなくても知性と品があればいいのに。あるいは知性と品に欠けても、せめて、どうにか、清潔感もあって、一見ハンサムな部類に見える、そういう青年であればいいのに)

 しかし、若者はどちらでもなかった。
 お盆に山積みされてカウンターに戻されてきたグラスを洗うのに忙殺され、しばらくして、ふたたび顔をあげてみると、出入口のそばにいた典比呂と若者の姿は、もう、どこにも見当たらなかった。
 涼紀はほっとし、思わず肩で大きなため息をついた。
 いつも身だしなみに気を付けている典比呂ひとりならまだしも、あんな鈍くさいタヌキ顔の若者を嬉々として連れ歩いている典比呂は、とてもじゃないが、ヒトミには紹介したくない。
 バイセクシュアルで別居中の夫とはいえ、典比呂は、やはり、いまでも涼紀にとっては、自慢の夫だった。
 そのへんに、ざらにいる「並の夫たち」とは比べものにならないぐらい洗練され、垢抜けている。バイセクシュアルということでさえ、ふっと気がつくと「並の夫」ではない典比呂の自慢の理由のひとつにしている涼紀がいるのだ。

「デイジー」のオープン二日目は、無事に終わった。
 あまりの盛況さに、一時はどうなることかと空怖ろしくなったものの、二日間が終了すると、気が抜けるような静寂が店内に漂い、こんどは、それもまた涼紀を不安がらせた。
 あの二日間のお祭り騒ぎは、なんだったのか。あんなに大挙してやってきた客たちは、どこへ行ってしまったのか。
 オープン後の一週間が過ぎた、そのあいだ一日の来店客数は平均して十二、三人程度だった。
 一応、営業時間は六時から十一時までとなっているけれど、看板の明かりを消してからも、一、二時間の延長は珍しくない。涼紀を先に帰してからも、ヒトミが長居する客の相手をするからである。

 もちろん、だれかれなしに、そうするわけでないけれど、ヒトミは、頼られることに、めっぽう弱く、「長居する客につきあうのも商売の内」と言う。しかし、涼紀はそうは思えなかった。要するに、ヒトミは妙にひとのいいところがあるのだ。
 オープンから一週間がたち、まる十日間を迎えた晩、涼紀は、ついに不安を口にしていた。
 まだ客の来ない六時をまわったばかりの時刻だった。
「このままで、このお店、だいじょうぶなの? ヒトミさん」
「何が?」
「オープンの二日間は、ものすごくお客さんがきたのに、それ以降は、わりとひま・・・・」
「こんなもんさ。タダ酒には、ひとが群がるけどね。ま、そのうち私もぼつぼつ営業してまわるつもりではいるんだ。あっちこっちに顔を出したり電話したり。でも基本的には、私は、どうも営業って好きじゃなくてね」
「カラオケを置いたら?」
「前にも言ったけど、それはしない。カラオケがあると、やかましくて、話もろくにできなくなるし、店の雰囲気が違ってくるからね」
「でも、儲かるんでしょう?」
「目先の小銭に飛びつくと、どんどん店の営業方針が変わっていっちゃうんだ。この店では、それはしないって決めてる。ここで大儲けするつもりはないし。じゃあ、どこでするんだって聞かれても、残念ながら、あてはないとしか言いようがないんだけども」
 カウンターわきの小さな厨房では、ガス台にかけた鍋がぐっぐっ煮え立ち、ヒトミは鍋の様子を見に奥へ引っ込んだ。

店で出すお通しは、ヒトミの手作りだった。材料の買い出しから調理まで、涼紀を煩わすことなく、ヒトミが一手に引き受けている。
 ヒトミが厨房から満足そうな顔で戻ってきた。
「きょうのお通しは鶏の手羽先の煮込み。いい味に仕上がってる。涼紀さん、よかったら、あとで食べるといいよ」
「うん、ありがとう」
 やがて七時少し前、その日、最初の客があらわれた。
 ヒトミがうどん屋をやっていた当時からの知り合いだという六十がらみの、つねに、ひとりきりでやってくる白髪の男性だった。
 いくらか偏屈なところがあるようで、この十日間で四回も「デイジー」に通ってきてくれてはいるものの、涼紀とは口を利かないだけでなく、視線をあわせるのすら避けていた。
「気にするんじゃないよ」
 とヒトミからも言われていた。
「あのひとは、どこにいても、ああいう態度なんだから。うどんを食ってるときもそうだった。うどんを食いながら、孤高のひと、のポーズを崩さなかった」
 八時過ぎには女性ばかり五人のグループが、にぎやかに入って来て、テーブル席に陣取った。
 二十代から三十代の五人は、いずれもG銀行の行員で、その昔、ヒトミが喫茶店をやっていた頃からの付き合いだという。G銀行の支店の隣のビルに、喫茶店があったのだ。
「涼紀さんもこっちきて私たちと一緒に飲もうよ」
 と女性たちは口々に言い、ことさらに涼紀を引き立てようとしてくれるのが、有難くも、うれしい。
 しかし「デイジー」では、涼紀はアルコールは一滴も飲めない、ということになっていて、それを率先して言いふらしたのはヒトミである。かわりにヒトミが底なしのようにして飲む。
 銀行員の女性たちの席にボトルやグラスを運び、お通しを取りにカウンターにもどったとき、ふたたび出入口のドアが開いた。
 ヒトミが白髪の男性の話し相手を中断して、明るい声で迎える。
「いらっしゃいませ」
 涼紀も一拍遅れて声をかけた。
「いらっしゃいませ」
 客が数歩進み、天井からのスポットライトの下に立った。
「・・・・・どうも・・・・」
 典比呂だった。
「あら?」
 涼紀は困惑もあらわに、とっさにつぶやき、その気配を敏感に察したヒトミは、のみこみも早く、にこやかに典比呂に営業用の猫撫で声の応対をした。
「どうぞ、カウンターのほうに・・・・涼紀さん、お願いね。テーブル席のお通しは、私が運ぶわ」
 典比呂はカウンターを挟んで涼紀とむかいあって腰をおろした。カウンターのもっと奥まった席だった。
「いい店だね」
「そう? ありがとう」
「元気そうでよかった」
「元気に見える?」
「元気じゃないのかい?」
「元気よ、このとおり」
 それから涼紀は、ボトルのメニューを突き出した。
「ご祝儀に一本キープして」
「ああ、そうするよ」
 いったん会社から帰宅して、出直してきたのだろう。典比呂は茶のポロシャツにベージュのストレート・パンツのいでたちだった。さらりとした洗い立ての髪からは、ほのかに植物性の香りがした。
「ボトルは、この店でいちばん高いのでいいわよね」
 有無を言わせない気迫で、にらみつけるようにして涼紀は言った。
「いちばん高いって・・・・まあ、この際、そうするか、ご祝儀ってことで」
「当たり前でしょう。いちいち悩むことなんてないじゃない、まったくケチなんだから」
 典比呂がカッと頭にきたのが見て取れた。一瞬うつむいて顔を隠したけれど、おしぼりを握る片手に、きつく力がこめられていた。
「でも、まあ、あのことは、もういいわよ。ボトル代で帳消しにしてあげる」
「・・・・・・・」
「ほら、そんなに怒らないで。ケチって言ったのは、からかっただけ・・・・まだ怒ってるの?・・・・じゃあ、謝る・・・・・ほら、ヒトミさんの手前もあるんだから、あなた、しゃきっとしてよ、しゃきっと」

 白髪の男性の相手をしつつ、ヒトミが好奇心むきだしの目で、さっきから、こちらを盗み見ているのを、涼紀は目の端にとめていた。
 こういう場合、前もって何も言わずとも、ちゃんとシャワーを浴び、身だしなみをととのえてくる典比呂の、礼儀正しいそつのなさが、涼紀は大好きだった。


 Ⅶ
 酒場「デイジー」がオープンしてから三ヶ月半がたち、カレンダーは九月に入った。
 店の経営状態は、ヒトミに言わせると、
「ま、どうにか、こうにか、ぼちぼち」
 といったところで、ひと月の売り上げ金から店の家賃と涼紀のアルバイト料を支払うと、ヒトミが食べていくには困らないにしても貯蓄にまわすほどの余裕はない、というあんばいらしい。
「ヒトミさん、このお店、だいじょうぶなの?」
 そう涼紀が不安げに、遠慮がちにたずねるたびに、ヒトミは、つねにこう答えてくれたのである。
 しかし、実際はどうなのか、共同経営者ではなく、単なるアルバイトにすぎない涼紀には、くわしいことはまではわからない。
 ヒトミにしても、こまごました内情は、涼紀に打ち明けようとはしなかった。
 それにしても七月と八月の客の入りの悪さは、この道のド素人の涼紀の目にも最悪にうつった。
(こんな状況なら、この店は、あと三ヶ月も保つまい)
 と涼紀が、ひそかに覚悟したほど、夏の二ヶ月間は閑散としていた。
 といって涼紀は「デイジー」を自分から辞めようとは、ついぞ考えなかった。
 ヒトミには恩義がある。いつまでたっても「洋食・ひかりや」の洗い場のパートのおばさんでいたかもしれない自分に声をかけ、夜の接客業のいろはすら知らない自分を、あえて雇ってくれたヒトミなのだ。「デイジー」の経営が思っていたほど順調にいっていない、というだけで、ヒトミひとり残して、さっさと辞めるなどということが、どうして、できるだろう。仮に「デイジー」が潰れてしまうとしたなら、潰れる、その日までヒトミのそばにいるのが、せめてもの恩返しではないか。あるいは、ヒトミから「辞めてくれないか」と言われるまで、ここで働き続けることが、ヒトミの好意へのお返しだった。

 こういった自分の気持を、しかし、涼紀はヒトミのまえでは、けっして口にしなかった。
 多分、ヒトミにしても、七、八月の売り上げの少なさは、相当にこたえていたに違いない。
 だが泣きごとや愚痴は見事に洩らさないヒトミだった。どこまでも意地っ張りで、やせ我慢をする女らしい。
 もしかすると、涼紀が想像する以上に小銭を貯めこんでいて、それで売り上げの少なさをカバーしつづけていたのかもしれないけれど、そうあっても、いっさい愚痴をこぼさずにいるというのは、なかなかできることではない。
 ヒトミも意地を張っているけれど、涼紀も同じように意地を張り、だから、ふたりのあいだで「デイジー」の先々については禁句のように、ひと言も話題に持ち上がらなかった。
 客の現れない夜、ふたりは、カウンターのそっちこっちで雑誌に読みふけり。ようやっと客ひとりでもやってくると、ふたり束になって大歓待し、やがて、しこたま酔った客が帰ると、ふたりで大きく肩でため息をついて顔を見合わせる、といった日々がくりかえされた。

 雑誌をめくるのに飽きた日は、とりとめのないお喋りで時間をつぶした。
 ヒトミは、自分自身については、あまり語りたがらず、その話の大半は、喫茶店やうどん屋をやっていた頃の、当たり障りのない思い出話がほとんどだった。そうした話の端々から察するに、ヒトミは、どうも、商売で大儲けする、というか、できるタイプではないらしかった。ただ体を動かして働くのが好きで、それで会社勤めよりも、自分で商売をする道を選んできたらしい。

「喫茶店をやっていたときなんてさ、家賃とか食材の仕入れ代とか、雇っていた女の子のバイト料とかの必要経費を差っ引くと、私の手元に残るのは、なんと、たったの一万円」
「一万円って・・・・ヒトミさんの取り分は一万円だけってこと?」
「そ、笑っちゃうよね」
「ほんとに一万円だけだったの?」
「ほんとにも何も、ここで嘘ついたってはじまらないよ」
「でも、どうして、そんなに儲からなかったわけ?」
「早い話、私がドジだったのさ。ランチをだしてたんだけど、ほら、よく採算ベースを無視した大サービスとかいうけど、私の場合は文字通りそれ。採算を無視するつもりなんかなくって、ちゃんと儲けているつもりだったのに、ランチの内容が良すぎて、というか、材料をかけすぎたんだ」
「でも、だって、そんな」
―自分がおいしいと思うのを、お客さんに食べさせたいっていう私の良心が、そもそもの失敗のもとだったんだね」
「・・・・志はすばらしい・・・・」
「そう、志はね。でも、志だけじゃあ、儲からない。ま、結局、私が若かったのさ。若さは、すなわち、ばかさ、と言いうけれど、その見本どおりにね」
 その話を聞いたあと、涼紀は、いっそう、
(デイジーは、もう、だめかもしれない)
 という気持ちを強めた。
(ヒトミさんは商売の意欲はあっても、残念ながら商才はないのかもしれない・・・・)
 客のない、ふたりきりのお喋りには、典比呂のことも、頻繫に登場した。
 彼は「デイジー」がオープンした十日後にやってきて、ボトルを一本入れたのを皮切りに、十日か二週間に一度は顔を見せていた。いつも、ひとりでやってきて、一時間ほどで帰っていく。

 典比呂に対する涼紀の想いが、いまだに未練たっぷりなのを知っているヒトミは、内心では、どう思っているにせよ、涼紀の前では、けっして悪くは言わなかった。
「確かに典比呂さんってさ、ちょっと目には、かなりいい男ではあるよね。センスがいいし、おしゃれだし、私にも、かなり気を遣ってくれるし、あれは、もてるね。多分、女にも男にも」

「ヒトミさんも、そう思う?」
「うちの店にきても、うだうだ長居もしない、いいお客さんだしね」
「私がいるんじゃあ、居心地が悪くて長居できないのよ」
「でも、とにかく、きてくれるだけでもありがたいと思わなきゃあ」
「私への後ろめたさから、ああして、ちょこちょこ、やってくるんでしょ。少しでも売り上げに協力しなくてはという義務感から」
「単なる義務感からだけにしても、別居中の女房にそこまでしてくれる男ってのは、そう、いないと思うよ」
「あのひと、気が弱いところがあるから」
「気が弱いじゃなくて、それは、やさしさってもんだろうが」
「ヒトミさんって、ずいぶんと彼に味方するのね」
「へえ、それじゃあ、なにかい、私も涼紀さんと一緒になって、典比呂さんをこき下ろしてほしいのかい?」
「・・・・・・・」
「そんなことをすれば、涼紀さんはきっと腹が立つさ。涼紀さんとしては、ほかの人間が、典比呂さんの悪口を言うのは我慢できないはずだよ。だって、まだ、どっぷり彼に惚れてるもんね」

「どっぷりなんて、何も、私はそこまで・・・・」
「私がかれをかばうのは、涼紀さんの、もうひとつの本心を代弁しているだけ。違う?」
「デイジー」はこの先どうなるのだろうと涼紀を不安がらせていた七月、八月がすぎ、九月に入ると、状況は少しずつ好転の兆しを見せ始めた。

 最悪の二ヶ月間は、六時に店を開けても、九時をすぎるまで、ひとりの客も来ない日が珍しくはなかったのに、最近では、九時前には二十席あるカウンターの半分は客でうまるようになってきた。
 九時台と十時台は、二次会や三次会で流れてきたグループが押しかけ、そうなると、にわかに張り切るヒトミだった。
「それじゃあ、みなさん、前もって千円ずつ頂きます。ボックス席、二時間の貸し切り飲み放題ということになっていますので」
 そんなふうに団体客を仕切るヒトミの姿を何回となく目にするうちに、ようやく涼紀は呑み込めてきた。
 日中、ヒトミは自宅アパートの部屋から、知人やなじみ客に電話をかけまくり、密かに「営業」に精を出していたのだろう。店に来てくれるよう、根気よく、あちこちに声をかけたり、あるいは職場まで訪ねていったに違いない。「二時間飲み放題、ひとり千円でOK」といった条件は、そのときに交渉してきたのだろう。
(私にも黙っているなんて水臭い。言ってくれれば、私だって協力したのに・・・・・)

 恨みがましさと感謝の入り混じった思いをかみしめつつも、やはりヒトミには敵わない、と敬意の念を深める涼紀だった。
 ヒトミの「営業」に協力するといっても、いまはまだ涼紀のつては典比呂ひとりに限られていた。
 酒場勤めのことを、義母の晴子にも、かつての会社の同僚たちにも内緒にしてくれるように典比呂
に頼んだのは、ほかならぬ涼紀自身であり、その口どもは、いまだにつづいている。いやというほど味わった心細さと不安、胸の奥にかくしていた苛立ちのかずかず、そして、ヒトミの、めいっぱいの虚勢の影に隠されていた気苦労のほどを思うと、自分の見栄や体裁などは、この際、愚かしくも、ちっぽけなことに感じられてきた。
 といって、いまさら典比呂に、
「内緒にするのは、もう、やめ。とにかく、ひとりでも多くのお客さんを連れてきてくれないかしら」
 と頭を下げたくない。
 せいぜいできることは、典比呂が店に現れるたびに、
「ここで働いていること、だれにも言わないで」
 と必ず一回は念を押していたそれを、もう二度と口にしないことぐらいだった。

 九月もなかばをすぎ、毎日がまずまずの売り上げを反映するかのようなヒトミの上機嫌な表情につきあううちに、涼紀は「デイジー」がオープンしてからのこの四ヶ月間、自分がどれほど無我夢中で日々をすごしてきたかを、あらためて振り返られるようになってきた。
 思っていた以上に緊張し、神経を張りつめ、気の休まる暇がなかったらしい。だいいち、毎日顔を合わせているヒトミが、上機嫌か、そうでないかの区別すらついていなかったのだ。
 ヒトミの上機嫌な顔つきを、当たり前のように思っている最近の自分に気づき、ようやく、このことに思い至ったのである。考えてみれば、ヒトミの上機嫌さが、こんなにも長くつづいているのは、オープン以来、初めてのことだった。
 同時に涼紀は、三十四年の人生で、これまで経験したためしのない快い状況に、投げ込まれてもいた。
 カウンターに居並ぶ男客からの熱い視線である。
 何か言いたげな、そして、問いたげな、賛美と称賛と憧れとせつなさが、たっぷりこめられた男たちのまなざし。
 最初のころ、涼紀は、カウンターの内側にたたずむ自分にそそがれている、そういう男客たちのまなざしの意味するところに、皆目、見当がつかなかった。
 なんせ、男性から熱い視線、いわくありげな熱っぽい目つきで見られた記憶がないままに、きょうまできた涼紀なのだ。

 夫となった典比呂からも、そんなまなざしを向けられたことがない。忘れたのではなく、本当に、いっぺんたりともなかった、と断言できる。
 だから男客たちのそれが、自分に対するあからさまな、もしくは、密やかな恋心の表れだ、とようやく悟ったとき、涼紀は、まず、心底から驚いた。
(この私が?・・・・・まさかァ、そんなこと)
 次には半信半疑で自問した。
(どうして急にもてだしたのだろう? 十代のころも二十代も、まるでもてなかったこの私が。しかも三十四になって突然に。いったい、なんなんだ? これは)
 しかし涼紀の内心の狼狽をよそに、男たちのまなざしにこめられたそれは、ますます深まっていく気配なのだ。
 やがて涼紀は、居心地の悪さを覚える段階を過ぎ、男客たちから熱っぽく見られることに次第に快感を覚え始めた。
 すると、おのずから男客たちの目を十分に意識した表情や仕草、身のこなしなど、だれに教わったわけでもなく、すんなりとこなしていく自分がいて、それも、また新鮮で目新しい発見となる。
 悪くはなかった。
 いや、なかなかいいものだった。
 もてるとは、こういうものなのか、とようやく納得できた。
 まるで女王様気分ではないか。
 しかも、たったひとりに見つめられているのではない。
 涼紀の一挙手一投足を食い入るように追いつづける視線が、ここにも、あそこにも、あっちにも、そっちにもある。ハエみたいにしつこく、あきらめない、いくつもの視線。
 どんなにむりや、わがまま言っても許されそうだった。いくら高飛車になったっていい。
 男に不自由しないもてる女が、どうして、あんなにも生意気で、傲慢で、エラそうなのか、涼紀は、三十四歳にして、はじめて理解できた。
 もてるということは、こんなにも気持ちが浮き立つことだったのか。
 理由なく男たちを見下し、ばかにできることだったのか。
 そしてもてるという、ただ、その一点だけで、わけのわからない自信が、これほどまでに湧いてくるものだったのか。
 そうか、こういうことだったんだ・・・・。
 涼紀の気持は、その瞬間、ゆらりとまいあがった。
 その瞬間とは、いつだったか、はっきりとは覚えていないけれど、自分を狂おしく見つめる複数の男客をカウンターごしに、ゆったり、たっぷりと時間をかけて、相手をじらすように眺めまわす余裕が持てた日だったことは、なぜか、はっきりと記憶に刻まれた。

「デイジー」の売り上げは、月がかわって十月に入ってからも、ヒトミの上機嫌さをそこねることなく好調につづいた。
 夕方から細かい雨が降りだした十月も中旬の平日のその夜は、六時の開店から二時間がすぎても、いつになく客はひとりも現れなかった。
「久しぶりだねえ、この時間にこんなに暇なのは」
 ヒトミのその口ぶりに焦りはなく、むしろ、たまの骨休みのひとときを楽しんでいるふうにも聞こえた。
「朝は晴れても夕方から雨っていう日は、どうしても客足が遠のくね。一日の勤めが終ると、ひどい雨にならないうちに、さっさと家に帰ろうって気持になるからって説もあるけど、それと朝晴れてると傘を持たずに出て来る人が多い多いから、寄り道する気にならないんだと、か」
「そうなの?」
「という話だってこと」
 そしてヒトミは、やはり機嫌よく言った。
「涼紀さん、コーヒーでも飲もうか・・・・あ、いい、私がいれる」
 ほどなく湯気の立つマグカップが二個、カウンターの上に並んだ。
「涼紀さんも、どうやら、この仕事のこつをのみこんできたみたいだね」
 ヒトミは満足そうな笑みを浮かべて、コーヒーを一口すすった。
「のみこんだなんて、そんなふうに見える?」
「ああ、リッパなもんだよ」
「そう言ってもらえるとほっとするけど、でも、私としては、毎日がまだまだ必死。何か失敗をしでかすんじゃないかって、そればっかり気になってね」
「こういう店に来てお客さんとしてカウンターの外側にいるのと、カウンターの内側でお客さんの相手をするのとは、ずいぶんと世界が違って見えるだろう? ま、世界というほど大げさなもんじゃないけどもさ」
「・・・・・そうね」
「カウンターの内側に入る立場になると、急に世の中や人間をナメてかかっていいもんだって錯覚するひとも少なくないんだ」
「・・・・ふうん」
「あれって、一種のへんてこりんな優位性かもしれないね。カウンターの内側に立つと、それまで見えなかった、いろいろな人間のことが見えて来るからね」
「いじってみたくなる・・・・」
「また男たちも、そうされるのを期待しているようなところもあってさ、どっちもどっちなんだけど」

 ヒトミには見抜かれているのだろうか、と涼紀はつかのまの腋の下が汗ばんできた。
 男客たちにもてている、もてまくっているという、密かな有頂天の気分は、いまのところ自分の胸にしまって、だれにも口外はしていない。
 それに男客からの内緒の誘いは、いくつかあるけれど、まだ、だれとも店以外で会うまでには至っていないのだ。

 それでもヒトミは何か勘づいているらしい。そうとしか思えないヒトミの言葉のかずかずだった。
「まあね、私の知っているとある酒場のママは、そういうカウンターの内と外の心理をうまく利用して、客の心をつかみ、そうやって客にお金を使わせるのに成功してる。でも私は、そういう、いわば心理的な色仕掛けの商売は、あんまりやりたくないね。とはいっても、この商売、そうそう、きれいごとばかりも言ってられないんだけど」
「・・・・・・・」
「お客さんと個人的につきあうな、と言っているわけじゃないんだ」
「・・・・・・・」
「私が言いたいのはつきあう相手を選べってこと」
「誤解よ」
「何が?」
「私、まだお客さんのだれとも個人的につきあったりしていない」
「そうなの?」
「そうよ、ほんとに、付き合ってなんかいない」
「じゃあ、私の早とちりか」
「どうして、そんなふうに思ったのよ」
「見てればわかる。涼紀さんがお目当てできてる客かどうかぐらいはね。それに涼紀さん自身もまんざらじゃない顔をするし。ほら、たとえばK建材のAさん、N商事のYさん、Tさんもそうだし・・・・」
 とヒトミがあげていった男客は、ざっと十人をかぞえた。
 的外れな人物はひとりもいなかった。名前がもれた人物もいない。
 涼紀は、あらためてヒトミの観察眼のするどさにたじろぎ、舌を巻く思いだった。
 涼紀はため息をついた。
「だめね。ヒトミさんにはごまかしようがないってこと、よくわかった・・・・じつはね、ヒトミさん、ここで働きだしてから、私、怖ろしいほどにもてる自分にびっくりしたのよ・・・・」
 そして涼紀は、ヒトミが語ったカウンターの内と外のからくりに、自分もまた足元をすくわれそうになりかけていた心中を、正直打ち明けた。

「最初は信じられなかった。だって、三十四年の人生で、いっぺんももてたことのない私が、どうして急にって面食らうちゃった。空恐ろしいぐらいにいい気分・・・・でも、いまのヒトミさんの話を聞いて、納得できたわ。私がもてるのじゃない。酒場のカウンターというものの魔術なのよね。早い話、だれでもカウンターの内側に立てば、お客さんたちからちやほやされるってこと」

「うん。涼紀さんには残酷かもしれないけど、私は、そういうことだと思っている。で、そうやって大きな勘違いをして、人生をおかしくしていった女たちも、私は何人か知っているしね。おかしくなった原因は、すべて男がらみ。私からすれば、みみっちい男がらみなんだこれが」
「みみっちい?」
「うん。その女の人生をおかしくしたにしては、相手の男は、どいつもこいつも、たいしたことのない男。器のちっちゃい、小粒野郎。地位とか肩書きとかに関係ない品性の卑しい男っていう意味の小粒。わかるだろう?」
 
 そこで、ようやく涼紀は、ヒトミのいれてくれたコーヒーを口にした。コーヒーはぬるくなっていた。
 ヒトミが口調を変えて切り出した。
「商売がらみの訓示はこれでおしまいにするとして、で、どうなのさ、涼紀さんのほんとの気持は」
「ほんとの気持?」
「さっきあげた十人のうちで、涼紀さんが個人的につきあってみたい相手はいるかってこと」
「つきあうって・・・・」
 涼紀はまじまじとヒトミを見返した。
「へんなことをきかないでよ。私には別居中とはいえ、れっきとした夫がいるのよ」
「れっきとした夫?」
 ヒトミは大仰に目を剝いた。信じられない言葉を聞いた、という顔つきだった。
「ばか言うんじゃないよ。確かに典比呂さんそのひとは、私はきらいじゃない。でも、彼が夫として涼紀さんにしたことを考えてごらんよ。どこが、れっきとした夫、なんて言えるのさ。夫としては、ひどい夫だと思うよ、夫としてはね」
「彼だって、こうなるまでには、ずいぶんと悩んだのよ」
「当たり前だよ。別居にふみきるのに、それなりに悩まない男なんて、ろくでなしだろう」
「基本的に悪い人じゃないし」
「私だってわかるよ、そのぐらい。でもね、典比呂さんばっかりにしがみついてるのも、どうかと思うんだ。いい男はいっぱいいる。もどってくるかどうか、わからない男を待ってるよりも、ここらへんで、ちょっと発想を変えてもいいんじゃないか、と」
「私だって、そうできれば、と思うわ。思うけど・・・なかなか、そういうふうにできなくてね」
 涼紀の口ぶりには、隠しようもない弱音がこめられていた。
 カウンターの内側に立つ者ならではの錯覚とはいえ、私はもてるんだ、と自信をみなぎらせていた涼紀も本当なら、別居中の夫に手も足もだせずに、ぐずついている涼紀もまた本当だった。

「でもさ、とりあえず、やってみれば」
「だれと?」
「だれとでもいいし、色恋に発展しなくてもいいから、ほかの男たちと仕事抜きの食事をしたり、お喋りをすることが、涼紀さんには必要だよ」
「・・・・まあねえ」
「で、そのうち意気投合する相手がでてくれば、典比呂さんなんか、どうだっていいってことにならないとも限らない」
「なるかなあ」
「だから、やってみるのさ」
 そしてヒトミは、わざとらしい素っ気なさで言った。
「藤浪さんなんかは、私はぜったいのおすすめだけどもね」
「・・・・藤浪さんって、K金属に勤めている、あの藤浪さん?」
 四十代前半の藤浪修平は、ヒトミがうどん屋をやっているころからの客で、「デイジー」にやってきても、いつも話し相手になるのはヒトミだった。カウンターごしに涼紀に熱っぽい視線を注いでくる客ではない。
「私もいろいろな男を見て来たつもりだけど、藤浪さんは、そのなかでも信用できるひとり。それに彼もいま奥さんと別居中だし、きっと何かと涼紀さんと話があうんじゃないかな」
「別居中なの?」
「うん。かれこれ六年ぐらいになるはずだよ」
「長いのね」
「藤浪さんの場合も、奥さんのほうが家を出ていっちゃったんだ。ま、くわしい事情はいろいろあるらしいけど、私は、そこまでは知らない」

涼紀は、すらりとした典比呂とは違って、肩幅も広く胸板も厚い、外見上は、いかにも頼りがいのある、というのは一般的な表現で、藤浪の体格は、しかし、涼紀の好みではなかった。堂々と押し出しが強すぎて、威圧感がありすぎる。
「涼紀さんがもし藤浪さんとふたりきりで会ってみようかな、と思うんなら、私、お膳立てしてあげてもいいよ。彼の人柄は私が保証する」
「ヒトミさんがそこまで言うなら、きっといいひとなんでしょうね・・・・でも・・・・」
「でもって、なんなのさ」
「がっしりした体格の人って、私はちょっと苦手で・・・・」
 ヒトミは横目でじろりと涼紀を見た。
「あきれた。まだ、そのトシで、男の外見にとやかく注文をつけるわけ? 外見より中身でしょうが、人間なんて」
「もちろん、それは、そうよ。そうではあるけどもね・・・・・」
 言いつつ、涼紀は、エレガントにも、すらりとした典比呂の体型を、いまだに、うっとりと甦らせていた。
 そのとき店のドアが開き、その日初めての客があらわれた。
「いらっしゃいませッ」
 とヒトミがカウンターの内側から快活に声をかけ、腰かけていた椅子から立ち上がる。
 藤浪の件は、そのまま立ち消えとなり、雨の夜はすぎていった。

 数日後の日曜日の午後、涼紀は典比呂の携帯電話に連絡を入れた。
「・・・・はい」
「私、涼紀です」
「ああ、何かあったのか?」
「何かなければ電話しちゃいけないの?」
「いや、そうじゃないけどさ」
「いま、ちょっと話してもいい? マンションにいるんでしょ?」
「きのうから実家にきてるんだ」
「お義母さんの所?」
「うん。最近は土、日はたいがいこっちにいる」
「どうしたのよ。ひとり暮らしを満喫してるんじゃないの?」
「平日はたっぷり満喫しているからね。きみのほうはどうなんだい。勤めは順調にいっているのか」
「ええ、おかげさまで、バンバン順調になってるわ。といっても七月と八月は、お客さんの入りが悪くて、一時は、どうなることかと気をもんだんだけど。九月になってからは盛り返してきて、ヒトミさんと私はほっとしている」
「おれもかげながら心配していたよ。七月、八月は、いついっても、ガランとしてたから。よかったじゃないか」
「ありがとう。それとね。ツキはお店だけじゃなく、私にもまわってきたみたい」
「ほう」
「こんなこと言っても、たぶんあなたは信じないでしょうけれど、私ね、このところ、もてまくってるの。すごいのよ、ほんとに」
「なるほど」
「こんなことってあるのねえ。ほら、私って、どう見てももてるタイプじゃないし、だから、あなたが昔私にプロポーズしてくれたときなんか、プロポーズしてくれただけでも一生この恩を忘れちゃならない、と殊勝(しゆしょう)におもっていたくらいなのに、この私が、へんにもてるのよ」
 ひと呼吸の間を挟んで、典比呂が、やけにしみじみと言った。
「きみがもてて当然だと、おれは思うけどね。世の中の男どもは、見る目がなさすぎる」
 涼紀は虚を突かれて黙りこくった。遠まわしの嫌がらせのつもりで、もてることを吹聴してみたにすぎない。それなのに、典比呂の反応は、考えもしていなかったものだった。
「男がある程度の経験を積んで、男女間のかけひきにもうんざりしてくると、きみみたいな女性のよさに心惹かれて当然だと思うな。きみは刺激的ではないけど、何か、こう、おおらかな、やすらぎを与えてくれるひとだから」
「・・・・へえ・・・・そうなの・・・・」
「自信を持ってよ。きみにぴったりの、よさそうな男があらわれたら、おれにも会わせてくれ。おれがきっちりとその男の品定めしてやるよ。きみの幸せにできる男かどうかをね」
 またしても話は、涼紀が期待した方向からずれはじめていた。典比呂をやきもきさせたくて持ち出した、もてるという自慢話のはずだったのに、夫は物分かりのよい、じれったいほどの寛大さを示すだけだった。


 Ⅷ
 夫の典比呂と別居してから、きょうで一年と四カ月になる、と涼紀は、自宅マンションのベランダのガラス戸に当たる雨を眺めつつ、ぼんやりと思った。
 カレンダーが十一月にかわって最初の日曜日、朝八時すぎにベッドから起き出したときには、すでにそとは雨になっていた。風はなく、あともう少しでみぞれに変わりそうな、やけに重量感のある雨だった。季節は秋と冬の中間にさしかかってきたようだ。

 チーズ・トーストとコーヒーの、いつもながらの簡単な朝食をすませ、二杯目のコーヒーの入ったマグカップを手に、レモン色の椅子に腰かける。涼紀が、へそくりをはたいて夫の為に購入し、別居する際に夫に下取りしろ、と迫ったにもかかわらず、下取りなんていやだ、と典比呂がここに置いていった椅子である。
(別居してから一年と四ヶ月か・・・・夫が出て行ったのは昨年の七月の日曜日・・・そうか、もう、そのくらいになるのかあ・・・・そして、今月の末で私も三十五歳・・・)

 涼紀はベランダに当たる雨を眺めながら、あらためて、けれど漠然と今日までの日々を反芻した。
 長くもあり、同時に短くもあるような、不思議な時間の感覚だった。
 典比呂との関係だけでいうなら、この一年四ヶ月のあいだ、これといった歩み寄りも進展も、そして意外な出来事もなく、あっというまにすぎてきた月日という感がある。

 けれど涼紀自身が、この一年と四ヶ月間に味わった数限りないさまざまな感情や、「洋食・ひかりや」のパートをきっかけにヒトミと知り合ったこと、「デイジー」で働くに至ったいきさつを振り返ると、あんなにあれこれあったのに、まだたった一年四ヶ月しかたっていないのか、と拍子抜けするような気分にもなる。

 別居生活五年がたったなら離婚が成立する、そう義母の晴子は言っていた。ただし、五年もたてば人間の心は確実に変わっていくのだ、とも。だから、いまは離婚したがっている典比呂も、五年後には、どういう心境の変化が訪れているかわからないし、涼紀にしても、五年がたったときは、あるいは、あっさりと離婚をOKする気持ちになっているかもしれない、と。

 晴子の言葉を思い返しつつ、
(もしかすると、そういう可能性だってある)
 と、涼紀は思う。というより、そんなふうに五年後に、正確には三年と八ヶ月後に、自分と夫の立場が見事に逆転していたなら、どんなに痛快だろう。
 離婚は取りやめだ、おれを捨てないでくれ、と涼紀の足元に取りすがる典比呂。その典比呂を冷ややかに見下ろし、そのとき涼紀は、こう言ってやるのだ。
「あら、何言ってるの。別れたがっていたのは、そっちのほうでしょ。ようやく、あなたの望みどおりになったじゃないの。ほら、そこ、どいて。じゃまよ。歩けないでしょう」
 想像しただけで胸がスカッとする。

 しかし、現実はそうではない。
 典比呂は五年ぶりにもどった気楽なひとり暮らしに、涼紀からすれば子憎たらしいくらいに、なんの不便も不自由も、淋しさすら感じていないらしい。
 片や涼紀は、ヒトミという心強くも頼もしい友だちを得たとはいえ、いまだに典比呂の行動が気がかりだし、何かにつけて他の男たちと比較しては、典比呂を惚れ惚れと見直すといった未練の塊のままだった。

 この一年と四ヶ月、典比呂がそういったそぶりや言葉をちらつかせたわけではないけれど、涼紀は心のすみでは、ずっと夫が自分のもとに戻ってくることを期待し、待ちつづけていた。

 とにかく、元のさやにおさまってくれることだけを願ってきた。バイセクシュアルしいう夫の性癖については目をつむる。夫の関心が女性ではなく若い男の子にある、というのは、考えようによっては、涼紀のせめてもの救いであるのだ。自分より若い同性に性的な興奮をおぼえるのは、はたして、どういう心理であり欲望なのか、涼紀の想像力では、とんと理解しかねる。だから、はっきりとした嫉妬心や対抗意識がわいてこない。

 多分、これで夫の相手が女性なら、まるで話は別だろう。涼紀の感情は、いまのそれよりより二倍も三倍も、かき乱されたのは、間違いない。典比呂への未練と恨みがましさに、相手の女性への憎しみと悔しさなどが、しつこく、うねるように襲ってきて、涼紀を苦しませただろう。元のさやにおさまってくれるだけでいい、といったような妥協と寛大さがいりまじった気持ちには、とうてい、なれなかったに相違ない。少なくとも一年四ヶ月ぐらいの冷却期間を置いた程度では。

 昼前、マグカップを手に涼紀は、そうしようという自覚もなく、素直に正直に、自分の心と向き合っていた。
(・・・・やっぱり、夫とは、よりを戻したい。バイセクシャルを認めたうえで、それをふまえた夫との新しい生活をやり直してみたい・・・・)
 そのためには典比呂と正面切って、ふたりきりで話しあってみることだった。皮肉も当てこすりも強がりも言わずに、あるがままの気持を伝えるのが、いちばんだろう。
 脈はないこともない、という気もするのだ。

 この前、自分が「デイジー」の男客にもてまくっているのを吹聴するためだけに典比呂の携帯電話に連絡したとき、彼は実家にいた。最近は週末となると実家にきているようなことを言い、しかし、それは義母の晴子の体調がおもわしくなくないというよう理由からではなく、単に典比呂に里心がついているためらしかった。

 要するに、その意味するところは、念願のひとり暮らしにもぼつぼつ飽きが来た、ということではないのか。本当は実家の親もとではなく、涼紀のもとに立ち寄りたいのを、ぐっと我慢して実家でまにあわせた、ということではあるまいか。

 夫が離婚を口にし始めてから、その、あまりにも一方的で勝手な言い分に腹を立て、つねに攻撃的な態度を取りつづけてきた自分への反省も涼紀にはあった。
 こちらが攻撃的だったから、典比呂も意地になって構えたり、かたくなな対応をしたりしたことも少なくなかったのではなかろうか。
 もちろん、事の発端は夫である。
 ではあるけれど、別居して一年四ヶ月たったいま、涼紀は、すべては夫が悪いのだ、というふうに決めつけられなくなってもいた。

 典比呂は、もともとエキセントリックな側面の持ち主だった。結婚する前から、
(このひとは結婚しても、そうあっさりおとなしくおさまってはいないだろう)
 と思わせる危うさがあり、それが、じんわりと涼紀をからめとってはなさない典比呂の色気でもあったのだ。当時は色気とは思わなかったけれど、涼紀が気づかなかっただけで、いまは、まぎれもなく色気だと言い切れた。

 典比呂のエキセントリックな性格と、そこから放たれる色気が、結局のところ、涼紀は大好きで、それで、文句ひとつ言わずに、ほったらかしにして置いたのが、こういう結果を招いたとも言えないでもない・・・・。

 そんなふうに涼紀が、いくらかの思いやりと、いたわりを持って典比呂を見られるようになったのは、一年と四ヶ月という月日のたまものだった。
 だが、時間さえ経てばそうなるものではない、涼紀の気持を安定させた、その大きなきっかけは、ヒトミの存在と酒場「デイジー」だった。

 信頼して打ち明け話のできる相手であるヒトミ、そして「デイジー」は、いまのところ、これ以上は望めないくらい居心地のよい仕事口だった。
 マグカップのコーヒーをすすりつつ、内省的な気分で雨を眺めていた小一時間がすぎたあと、涼紀はヒトミの自宅アパートに電話をかけた。

 同じ日の午後二時すぎ、涼紀はヒトミの部屋のアパートの部屋で、手作りのチャーハンのおひるをご馳走になっていた。
 涼紀としては、そとでおひるを一緒に食べるつもりで電話したのだけれど、ヒトミはにべもなく断ってきた。
「こんな雨降ふりにでかけるのは、ヤだよ」
「私が驕るから」
「ヤだってば。それに、きょうは前々からうちと店の冷蔵庫のなかの残り物を一掃するつもりでいたからね。予定は変えたくない」
「いろいろ聞いてもらいたいことがあるの」
「じゃあさ、よかったら、うちにおいでよ。私がこの雨のなかを出かけるのはヤだけど、そっちが遊びに来るのは大歓迎。チャーハンこしらえるんだ゜けど、食べる?」
「・・・・うん。私、好き嫌いはないから」
 冷蔵庫のなかの残り物一掃をかねたチャーハンには、あまり気の進まなかった涼紀だけれど、テーブルに出されたそれを、スブーンですくって一口食べたとたん、思わずうなっていた。
「うまい・・・・」
 ヒトミは誇らしげに、もつたえぶった口調で言った。複雑そうでいて単純な部分のある、また単純そうで複雑な面を隠し持つ性格のヒトミなのだ。
「具がたっぷり入っているからね。ほんの少しずつだけど、ハムにチャーシューにベーコン、豚ひき肉。野菜はもっとすごいよ。ピーマン、ナス、タマネギ、モヤシ、ハクサイ、ニンジン、ネギ、ええと、それから、タケノコにシイタケも入れたし。でも、一見したところ、そんなに入っているようには見えないのは、ゴマ油で具をじっくり、しんなりするまで炒めてから、ごはんをまぜるからなんだ」

「これ、何風のチャーハン?」
「そんな何風だなんて、しゃれた名前はないよ。ま、無理につけるとしたら、ヒトミ風、冷蔵庫一掃チャーハンてとこかな」
 チャーハンとともに中華味のトマト・スープも並べられ、それも、またおいしかった。涼紀がヒトミの部屋を訪ねたのは、これで三回目である。

 一回目は「デイジー」が開店する直前に打合せのために、二回目は、店では大酒飲みを自称し、自慢にもしているヒトミが、珍しく悪酔いした晩に、見かねた涼紀が、大丈夫だと言い張るヒトミをかつぐようにタクシーにのせ、送ってあげたのだ。

 六畳二間に小さなキッチンと浴室、トイレがついた簡素な造りのアパートの部屋だった。
 家具類も必要最小限度なものだけが置かれているせいか、何時きても、きちんと片付いている。
 奥の六畳にはシングル・ベッドと小ぶりの洋服ダンス。キッチンにつづく六畳には、二人用のテーブルに椅子が二脚、テレビ、食器棚ほどの大きさと高さに積み重ねられたカラー・ボックスの物入れ、といったところで、壁にかかっているのは白地に黒い数字が並んだカレンダーぐらいである。

 ヒトミの話によると、以前は、もっと、ものにあふれたごちゃごちゃした住まいだったらしいけれど、引っ越しを繰り返すたびに不用品を処分してきたため、自然とシンプルな部屋になったのだという。
「それに、トシとともに買い物の、欲しいものが、私の場合、どんどんなくなって、だから、ものが増えることもなくてね」

 いま涼紀とヒトミが向かい合ってチャーハンを食べているのは、二人用のテーブルだった。きょうは食卓になっているテーブルだが、一回目にきた際は、ここで開店の打合せをしたし、悪酔いしたヒトミを送ってきた晩は、このテーブルの椅子に腰かけて、ヒトミの気分の落ち着くのを見守ったのだった。

 皿に盛られたチャーハンを半分ほど平らげたころ、涼紀は、ヒトミの料理の腕前を誉めるのはそこまでにして、話題を自分のことに引きつけた。
「さっき電話で、聞いてもらいたいことがあるとって言ったでしょ」
「うん、そのために、うちにきたんだろう?」

 答えつつヒトミは小鉢にてんこ盛りにした自家製のキュウリの浅漬けを、つづけざまに、ふた切れ、み切れと箸で口に運び、パリパリと音を立ててかんだ。そして自画自賛した。
「ふーん、うまいじゃないか。塩加減がちょうどいいね。食べてごらんよ、涼紀さんも。もうちょっと工夫したら、これ、店にも出せそうだよ」
 涼紀はトマト・スープに浮かんだレタスの切れはしを見つめながら切り出した。
「・・・・・じつは、夫のことだけど」
「はい、典比呂さんね」
「私、考えたのよ」
「何も、いまさら、そんなあらたまって、あなたは、いつだって、彼のこと、考えてんだから」
「きょうのは違うのよ、これまでとは」
「へえ、どう違う?」
「夫の悪口は言いたくない気持なの」
「あら、ま。そりゃあ成長だ」
「だって、別居して一年と四ヶ月になるのもの」
「時間はいちばんの治療薬ともいうしね」
「このへんで、もういちど夫と冷静に、おだやかに話し合うべきじゃないかと思うのよね」
ヒトミは黙って、ふたたびキューリの浅漬けに箸をのばした。
 つかのまの沈黙のなか、ポリポリという子気味よい音だけがひびいた。
「一年と四ヶ月を振り返ってみると、電話したり会ったりするたびに、私、夫に厭味みを言ってイジメてきたのよ。ほんとはイジメたくはないのに・・・・ううん、半分はイジメてやろうとしたんだけど、それよりも、きちんと話し合うのが怖いというか、もう、これ以上、決定的な言葉を聞きたくないっていうか」
「その気持ちは私にもわかる」
「そうやってはぐかしてたのよね。私の対応がそんなだから、それで夫もまじめな話は切り出せなかったんじゃないかって、私、いまになって、ようやく反省してるの」
「反省ねえ・・・・」
「こういうことって、どっちがいい悪いは、ひとまず置いといて、どちらかが折れて下手にでないと、まず話し合いは無理だと思うのよ。お互いに肩ひじ張ったままだと、話が前に進まないでしょう?」
「言わせてもらうとね、涼紀さん夫婦の場合は、もう、その時期を通りすぎている、と私はおもうのよ。夫婦喧嘩の段階はとっくに終わって、こうして別居してるんだからさ」
「別居はとりあえずのことで、そう重要なことじゃないのよ」
「涼紀さんにとってはね」
「夫の気持ちはまた別だってこと?」
「あのさあ、涼紀さんとこに限った話じゃないけど、男女の関係って、特に別れ話になると、当事者同士のその事態の受け止め方って、どうしてもズレがあるみたいなんだよね。ま、惚れてる側が、別れを認めたくないというか。でも、さっさと醒めてるほうは、もうとっくにきれいに片付いていると思い込んでいる」
「・・・・・・」
「私の言わんとすること、わかる?」
「つまり私は大きな間違いをしているってこと?」
「じゃないかと」
「夫はもう私とよりを戻す気持ちなんかなくて、別居の次は離婚だって、本気でそう考えているんだって、ヒトミさんは言いたいわけ?」
「典比呂さんはあきらめたほうがいいって。涼紀さんが望みを託す気持ちも理解できないではないけれどもね、万が一に、よりを戻したって、彼は、また同じことをやらかして涼紀さんを苦しめる。悪いけど、典比呂さんはそういう男だと私は見てる。悪い人じゃないけど、心の放浪癖があって、彼自身でもどうにもならないんじゃないかなあ」
「バイセクシュアルだからなの?」
「いや、それとは関係なく、そういう人間のたちなんだろうさ」
「・ろう・・・・たち?・・・・・」
「そう。持って生まれたもの。いつだったか、店で典比呂さんとお喋りしたとき、それをびんびんと感じたね。すごくチャーミングで、すごくデリカシーで、すごく人当たりがやわらかくて、でも、彼って、ものすごく孤独なものを抱えてる。私や涼紀さんが束になってかかっても、まるで歯が立たないような孤独をね」

「・・・・・そんなこと、私は感じたことはなかったけど」
「涼紀さんと彼とじゃあ、人間の質がまるきり違うから、感じなくて当然さ。でね、私からすると、自分と正反対の涼紀さんだからこそ、彼なりにやすらぎを見出して結婚したんだろうなって気がする」
「でも結婚は五年で破綻した・・・・」
「涼紀さんのせいじゃないよ。きっと典比呂さんがうまれてから抱えてる孤独に、彼自身がふたたび気がついたんだろうさ」
「孤独が原因じゃなく、若い男の子を好きなだけ追いかけまわしたからよ」
「まあ、それもあるだろうけど、若い男の子だけじゃないって、私は、なんとなく、そう見ているけど」
「・・・・・・」
「だからさ、前々から言っているけど、典比呂さんという男は、とても涼紀さんの手に負えるような人ではないだって」
「ヒトミさんなら?」
「私? これも前に言ったと思うけど、ああいう手のかかる面倒なタイプはごめんだね。かかわったら最後、どうなっていくか、先が読めるもの。はなから私の手に負えないのもわかるしね・・・・でもね、ああいうタイプに女たちが弱いのも、また、よくわかるんだ」

 かわされている話の内容は、けっして心が弾むものではなく、先々の期待に胸を明るくさせるものでもなかったにもかかわらず、涼紀は食欲をおとすこともなく、それまでと同様のペースでチャーハンをたいらげ、トマト・スープを一滴残らず飲み干し、キュウリの浅漬けり小鉢にも何回となく箸をのばして、やがて食事を終えた。

 われながら、逞しくなったな、と胸のうちで感心する。
 離婚話で典比呂ともめていたころは、ちょっとした会話の行き違いや、典比呂が口にした言葉にたわいなく傷ついて、すぐに食欲をなくしていたものだった。

 それが別居して一年と四ヶ月になったいまでは、平気でご飯を食べながら、平気で深刻な話をしても、びくともとない。
 人間はどんなことでも、どのような状況にも、そのうち馴れていく、と何かで聞いたか読んだかした記憶があるけれど、こういうことなのか、と涼紀は身をもって納得した。
 ヒトミが言った言葉のかずかずにしても、以前の自分なら、もっとショックを受けたり、顔色が変わる思いを味わっていただろうに、いまでは、
(ああ、そういう見方もあるのか、なるほどな)
 それとも相手がヒトミだから、何を言われても素直に耳を傾けたり、適当に聞き流すといった余裕がある態度が取れるのだろう。
 食後、ヒトミがいれてくれたコーヒーをすすりながら、しばらく「デイジー」の客の噂話などをしてすごし、それも一段落ついたころ、涼紀はなにげなく言ってみた。持参したケーキ四個はとうに食べ尽くされていた。
 雨も小降りになった午後三時すぎだった。
「ヒトミさん、ちょっと私につきあってくれない?」
「どこへ?」
「夫ひとりで暮らしているマンション」
 ヒトミは露骨に目を剥いて、あきれたという表情を示してみせた。
「なんで?」
「何でって聞かれても・・・・どういう所に住んでいるか、いちど見てみたいだけ」
「まだいっぺんもいったことがないの?」
「うん」
「うんって、もう一年と四ヶ月も経っているのに」
「だからね、一年と四ヶ月になって、ようやっと見てみる気持ちになってきたのよ」
「いって、どうするわけ?」
「何も。ただ見るだけ」
「ひとりでいったら? 私は遠慮するわ。それも、こんな雨の日にわざわざそんなところにいきたかないね」
「雨がやんできたじゃない」
「まだ降っているよ」
「ねえ、ヒトミさん、つきあってよ、お願いだから」
「まっぴらだね」
「私ひとりでいって、で、もしかして、その近くで夫とばったり出くわしたら、なんか、こう、ごまかしようがないじゃない。むこうだって、きっとうろたえると思うんだ」
「それは、あなたたち夫婦の問題でしょ」
「ヒトミさん、冷たいこと言わないで、頼むから一緒にいって」
「ヤだよ」
「こんなくだらないこと頼めるのはヒトミさんしかいないのよ」
「くだらない? くだらないことだっていう自覚は、一応あるんだ」
「そりゃあ、あるわよ。くだらないと思いつつも、でも、そうしたい自分を抑えきれない自分も、またいるわけで」
「ふうん、そこまでわかっているなら、ま、許せるか」
 そうつぶやくと同時にヒトミは腰かけていた椅子から立ち上がり、ベッドの置かれた隣室へむかった。
 数秒後、ヒトミは着ていたグレーのトレーナーとジーンズの上に茶色いパーカーをはおってあらわれた。手には「デイジー」に出勤する際にいつも持っている、使い込んだなめし革の茶色い巾着袋をさげていた。
「じゃあ、ほら、いくよ。マンションの住所はわかってんだろうね」
 街の中心部に近い地区にある、そのマンション「ドエル・ドーリー」は「細っこい、のっぽの」と典比呂が言っていたとおりの外見の、チャコール・グレーの独身者用のマンションだった。彼の住まいは五階で、マンションの高さの、ちょうどまんなかに位置する。

 電車を乗り継いで、そこにやってきたときは夕方の四時過ぎ、雨は小降りになったとはいえ、止んでいなかった。
 涼紀とヒトミはそれぞれさしている傘をななめにずらして目の前のマンションを見上げた。
「まあ、どこでもありそうなマンションだね。珍しくもない」
 と涼紀の内心の感想を代弁するみたいにコメントしたのち、ヒトミは建物の共同玄関へと近づいていく。涼紀は慌ててその背後から声をかけた。

「ちょっと、ヒトミさん、何をするのよ?」
 ヒトミは傘をさしたまま、くるりと振り返った。
「ここまできたんだから、典比呂さんの住んでいる部屋の前までいってみようよ」
「いってどうするの?」
「別に。この目で確かめるだけさ」
「それは止めよう」
「なんで?」
「彼と会うつもりはないし、だいいち、私、きょうはそこまで考えてもいなかったし・・・・・」
「心の準備ってやつかい。そんなものいらないよ。自分の亭主じゃないか」
「でも、だって・・・・」
「四の五の言ってないで、さ、行くよ」
 ヒトミは涼紀が止めるのも聞かずに、マンション玄関の自動ドアへ進み、さらに玄関ロビーへ足を踏み込ませた。涼紀も仕方なく、その後を追う。
 ヒトミはエレベーターのなかで待っていた。
「五階だったね」
「ほんとに、ヒトミさん、もう止めようよ」
「ふん、いくじなし」
 五階でエレベーターを降りて見ると、その階のせまいフロアをコの字型に囲んでいるのは三枚のドアだけだった。二枚のドアの前には表札がでているけど、残る一枚には表札がない。涼紀は表札がないのが典比呂の住まいだ、と直感したけれど、その傍らでヒトミは、どちらもローマ字で記された二枚の表札を小声で読み上げていた。「シ・ゲ・タ、違うね。ええっと、こちらは、タ・マ・ム・ラ、これも違う。となると、このドアか」
「ヒトミさん、もう帰ろうよ」
 涼紀はヒトミのパーカーの袖を引っ張った。気が気ではなかった。
 いましも典比呂がドアから出て来るか、さもなければ外出から帰ってきて、ここで鉢合わせしないとも限らない。
「あれ? どうしたの? 何やってるの?」
 と典比呂にきかれたとき、
「あなたがどんなマンションに暮らしているのかを見にきた」
 などとは、けっして言いたくなかった。こそこそと、しかもヒトミまで誘って、こんなことをしている自分を、涼紀は、典比呂にだけは知られたくないのだ。自分のやっていることが幼稚で卑屈なのは、だれに指摘されるまでもなくわかっている。
 焦っている涼紀にはお構いなく、ヒトミは、のんびりとした口調で、こげ茶色のドアを見つめて言った。
「典比呂さん、いるかなあ」
「ヒトミさん、帰ろう」
 ヒトミのパーカーの袖を引っ張りつつ、もう一方の手を伸ばして涼紀はエレベーターの壁のボタンを押した。
「最近の彼は土、日は実家のお母さんの所ですごしていると言っていたから、きっと留守、いないはずよ」
「でもさ、さっき道に立って見上げたとき、ベランダのレースのカーテン越しに人影がチラッと見えたような」
「ここの部屋じゃないわよ」
「いや、多分、ここだよ。だってエレベーターがあそこで、一階の玄関の向きが南側で、となると、そっちのドアは北向きの部屋だからさ、ほら、やっぱり道路側の部屋はここってことになる」
「止めようってば、ヒトミさん人影なんて、気のせいよ」
「いや、ちょっとためしにチャイム押してみる」
 ドアの横のチャイムに手を伸ばしかけたヒトミを、涼紀は小声で必死に止めようとした。その手はヒトミのパーカーの袖を、ちぎれんばかりに引っ張っていた。
「こんなことまでしてくれなんて、私、頼んでないでしょッ」
「しないとも言ってないよ、私は」
 ヒトミも押し殺した小声で言い返す
「あれ? そういう言い方するんだ。一緒に来てくれて頭を下げたのは、涼紀さん、あんたじゃないか」
 ドアの前でもみあっている拍子に、ヒトミの手を押しとどめようとした涼紀の手の甲が玄関のチャイムが鳴る音が涼紀とヒトミの耳に伝わってきて、ふたりは一瞬、動きを止めた。そして、たがいに顔を見合わせる。
 やっぱり典比呂はいない、留守だった、そう思わせる数十秒ののち、いきなり、ドア横のインターコムから声がした。
「はい」
 とっさにふたりは、ふたたび見つめ合う。
 声は典比呂ではなく、女性のそれだったからだ。
「どちら様でしょうか?」
 義母の晴子の声でなく、兄嫁の、あのふっくらとした声でもない。しかし、十代、二十代の女性の、甘ったるくも、キンキンした声質でもなかった。
 ヒトミが涼紀にかわって答えた。
「あのう、典比呂さんはいらっしゃいます? 私、春田ヒトミと言いますが」
「・・・・ああ」
 インターコムから聞こえてきたのは、妙に親し気なニュアンスだった。
「ヒトミさんとおっしゃると”デイジー”の・・・・」
「はい。そのヒトミですけれど」
「お待ちくださいな。いまドアを開けますので」
「あのう、典比呂さんは?」
「近くまで買い物にいっています。すぐもどりますから」
 室内から操作しているのだろう、ドアの内側にひとが近づく気配もなく、カチャリという小さな音とともに解錠された。


 Ⅸ
 部屋の内側からの操作で解錠された玄関ドアをあけて、せまい靴脱場に、ヒトミ、涼紀の順で入り込む。ふたりで立つと、それだけで肩がぶつかりそうな小さなスペースなのは、いかにも独身用マンションの造りだった。
「どうぞ、お入りになって」
 ふたたび声だけが聞こえてきた。やはり、そう若いとは思えない声質が、ことさら愛想よくはなく、かといって迷惑がっている様子でもなく、構えている気配も、さらさらない。
「いま、ちょっと手が離せなくて」
 玉ねぎを炒めている特有のにおいが玄関先まで流れてきていた。
「あのう」
 とヒトミが奥に向かって声をかけた。
「私だけじゃなく連れがいるんですけど」
「あら、お連れさんが?」
「ええ」
 ヒトミは答えつつ、涼紀を肩越しに振り返った。目が合ったとたん、ヒトミはしっかりと涼紀に頷いてみせた。それは、
(覚悟はいいね? いくよッ)
 といった合図と確認の頷きである。
「連れというのは、典比呂さんの奥さんの涼紀さんなんですよ」
「・・・・・涼紀さん?」
 部屋のなかからの声に、はじめて驚きの調子が加わった。といっても、ごく淡い口調の乱れで、こういう微妙な状況でなければ、涼紀は聞き逃したていたろう。
「ええ。典比呂さんから涼紀さんのことは聞いていません? 戸籍上のれっきとした妻です」
 ヒトミのその言い草には、すでに声の主に対する対抗心のようなものが込められていて、涼紀は、にわかに体が緊張してきた。

「お待ちください。いま、ガスの火を止めますので」
 けれどタマネギを炒めていたガスの火を止めるだけにしては、やけに時間がかかり、待たされた。
 かれこれ三分後、短い廊下の右手のドアが開き、ようやく相手があらわれた。
 一見したところ、三十代なかばの、小柄な華奢な女性だった。色白の丸顔に、丸い黒目がちの瞳、顔をつつみこむようにカットされたショート・ヘアは、鈍い銅色に染められている。伸縮のきく、やわらかな布地の黒のワンピースは足首までのロング丈で、襟ぐりが大きくあき、白くて細い首筋の線を、さらに繊細に見せていた。両の耳には、プラチナ色の小さなピアスがとめられ、はたして本物のプラチナかどうかの判断はつかないものの、本物に違いないと思わせる雰囲気の持ち主だった。

「ごめんなさい。すっかりお待たせして」
 女性は涼紀とヒトミに交互に視線をむけつつ、親しげな笑みで迎えた。
「はじめまして、私、典比呂さんの友だちの山田真沙子と申します」
 涼紀はどんな見落としもするまいと、抜かりなく、けれど、それとなく山田真沙子に観察の目をそそいだ。
 しかし相手は、初対面の涼紀とヒトミに臆することなく、屈託なげな表情でつづけた。
「きょう、ひさしぶりにこちらに遊びに来て、カレーをこしらえようという話になって、それで、いったん買い出しにいったんですけど、うっかりチャッネを買い忘れて、つい、いましがた典比呂さんに行ってもらったんです。そのへんで、彼とお会いになりませんでした?・・・・・とにかく、おあがりなっては?  典比呂さんも、すぐにもどると思いますから」
 
 真沙子のあとにつづいて、ふたりはためらうことなく部屋に上がり込んだ。
 別居中の夫・典比呂の住まいは十二畳ほどのフローリングのワンルームだった。インテリアは濃いブルーを中心にまとめられ、ベランダのカーテンから二畳敷きのカーペット、くず箱、ふたり掛けソファなど、その色が使われていた。ひとくちに濃いブルーだった。おそらく、こんきよく探しまわったり、ひとつずつ買い集めたのだろう。
 濃いブルーで統一された部屋、というなら、いかにも典比呂らしいと涼紀もすんなり納得できた。彼の選びそうな、彼の好みそのままだからだ。
 しかし、涼紀が、
(おや?)
 と内心穏やかでないものを感じ取ったのは、濃いブルーを基調としながらも、部屋のところどころに、アクセントとしてレモン色と赤がまじっていることだった。
 レモン色は、まだ、わかる。涼紀が典比呂にプレゼントした、例のずんぐりしたひとり掛けの椅子もこの色で、アクセント的に使うレモン色は、典比呂も、
「明るくて、わりといいものだね」
 と、けっして嫌いではない。
 が、問題は赤だった。これは、ぜったいに典比呂が自分の部屋に取り入れる色ではない。ぜったいにそうなのだ。

 それなのに小さなキッチンわきの小テーブルの上に、赤一色の曇りガラス製のスタンドが置かれている。窓際に寄せられた低いベッドの真上に飾られた三十センチ四方のリトグラフのフレームも、水を含んだみたいなてらてらとした赤。その横に置かれた、背の高いパイプ製の折り畳み式の椅子にも、銀と赤の二色が使われている。

 涼紀は直感的に、ここには典比呂以外の手が加えられている、確信した。五年間の結婚生活のなかで、理屈ではなく、目や耳や肌で、しぜんと吸い取っていた夫の好みと、そうでないものの識別にだけは自信があるのだ。
 とっさに涼紀は山田真沙子の姿を目で追っていた。
 いま彼女は、涼紀とヒトミに、ブルーのふたり掛けソファをすすめ、自分は銀と赤のパイプ製の椅子さえ、重たげな大荷物のようにうつる。黒いワンピースの袖につつまれた腕は、まるで小枝みたいに細い。
 しかし、典比呂の性的な関心は、若い男の子であって女性でないはずだった。彼自身がそう告白し、そのために、ふたりは別居したではないか。
(それとも・・・・)
 と涼紀は、さらにうがった想像に走った。
(山田真沙子の外見は、いかにも女性だけど、あの黒いワンピースに隠された体は男性のそれなのだろうか・・・・男性だとしたら、夫の好みにしては、年齢がいきすぎている。私と同年輩のようだから、どうむりしても、若い男の子、と呼べるトシではない・・・・それとも、彼女は、いや、彼は、見かけよりも、もっと、ずっと若いだろうか・・・・わざと老けたように、たとえば化粧などで、誤魔化しているのだろうか・・・・なんのために?・・・でも彼女の、いや、彼の声は、紛れもなく女性の声に聞こえるけれど・・・)

 考えるうちに涼紀は、なんだか頭が混乱してきた。すすめられるままに腰かけたソファの、隣にいるヒトミのほうを見る。
 ヒトミは首も動かさずに目だけで涼紀を見返して来た。そのまなざしには、日頃のヒトミらしからぬ弱弱しい動揺がもろに現れていて、涼紀は、それにも、たじろいだ。頼みの綱であるヒトミに、そんな意気地のない表情をされたら、それじゃあ、いったい、どうしたらいいんだ、この私は。

 ソファの正面に運んできた銀と赤のパイプ製の椅子に浅く腰かけ、山田真沙子は、ふたたび、にっこりと涼紀とヒトミに笑顔をむけた。後ろめたさを胸にかかえていたなら、とても、こんな顔つきはできないはずだ、と涼紀を一瞬ほっとさせるような、すばらしく魅力的な微笑みだった。
「余計なことかもしれませんけれどもね」
 と山田真沙子は、女性にしては低すぎる声で、しかし、男性にしては張りのない、肺活量の乏しい声で切り出した。
「典比呂さんと私は、ほんとうに友だちにすぎないんですよ。男性のひとり住まいの部屋に訪ねてくるような間柄なら、きっと何かある、と勘繰る方も多いようですけれど、私たちはぜんぜん。だって、ほら、彼のいちばんのそういう関心は女性ではありませんでしょう?」

 その点はおたがいわかっていますよね、と暗に同意を求めているような口ぶりで、山田真沙子は涼紀のほうに視線を向け、心持ち首をかしげてみせた。
「・・・・ええ、はい・・・まあ・・・」
 涼紀は反射的にそうあいまいに返答したあと、こんどは自分から尋ねた。
「山田さんとうちの夫はいつ頃からお付き合いを?」
「ええと、三、四年・・・いえ、二、三年といったところかしら、はっきり覚えていないけれど、多分、そのくらい」
「私、これまで、いちども夫から山田さんのお名前を伺ったことがありませんけれど」
「あら? そうなの?」
 山田真沙子は意外そうな顔つきをした。
「へんねえ。別に隠す必要もないのに・・・・でも、典比呂さんって、妙に気をまわし過ぎて、どうでもいいことまで秘密にしたがる傾向があるみたい。それが、かえって誤解を招くってことが、彼、わかっていないようで・・・」
 それから山田真沙子は、ふいに真顔になり、神妙な口調となった。
「じゃあ、私がこの部屋にいたのを見て、涼紀さん、すごくショックだったでしょう? ごめんなさいね。私、そんなつもりじゃなかったのに。でも、もう誤解は解いて下さったでしょう? ほら、このとおり、私と典比呂さんは清廉潔白です」
「・・・・そうなんですか?」
「そうなんですかって、その言い方じゃあ、まだ信じてくれないみたいね。困ったわねえ、どうしたらいいのかしら」
 山田真沙子は困惑の表情のうえに苦笑をかさねた。その瞬間、色白の肌の内側から疲労感がにじみだし、一挙に顔色をくすませた。とたんに、山田真沙子の三十代なかばと思える容貌と、全身から発散させている空気というか体温のようなものが、にわかに、その華やかさをしぼませていく。
 目の前の相手の、あまりにも急激な変容に、涼紀はびっくりし、目を見張った。
(もしかしたら、このひとは、私よりずっと年上なんじゃないのか)
 疑問は、そのまま涼紀の口をついてでていた。一刻も早く事実を確かめたいと気持ちがせいてもいた。
「あのう、とても失礼な質問なんですけど」
「何かしら?」
「お尋ねしてもいいですか?」
「とりあえず言って見てくださいな」
「あのですね、山田さんは、ほんとは、おいくつなんですか?」
「ま、ほんとに失礼な質問ね」
 しかし山田真沙子の目は笑っていた。涼紀のぶしつけなほどのストレートさを面白がっているみたいだった。
「涼紀さんには、私、いくつに見えます?」
「最初は私と同じくらいかなって」
「まあ、うれしいこと。お世辞でもそう言ってもらうと、きょうは寝るまで楽しい気分でいられそう・・・・そう、涼紀さんと同じくらいに見えたの・・・・涼紀さんは三十三でしたっけ?」
「いえ、三十四になりました。といっても、じきに三十五になりますけど」
 別居から一年と四ヶ月になり、夫の典比呂も先月で三十七歳になった。

「三十四、お若いわね。その年齢のころは、私も気力体力ともに充実していたわ。仕事も怖いもの知らずで、バンバンやって」
「お仕事といいますと?」
「ええ。グラフィックデザインをね。ずっとフリーでやってきて、いまだにフリー。フリーというと、若い方などは、いいですね、なんて言うけれど、ちっともよくないの。大変なだけ。どこかの会社にでも引き取ってもらえたらと最近は本気でそう考えているけれど、この不景気じゃあ、どこも引き取ってはくれないし、だいいち、トシがトシですしね」
 涼紀はふたたび畳みかけた。
「ですから、山田さんはおいくつなのですかという質問に話をもどしたい、と」
「ああ、そうでしたね」
 山田真沙子はにっこり微笑んだ。
 先刻の、顔つきを変容させたほどの疲労感は、いつのまに見事に払い落とされていた。
「私は四十七.正確には四十七歳と三ヶ月ってところです」
 涼紀があっけにとられるより早く、それまで黙りこくっていたヒトミが感にたえたように言い放った。
 節度や礼儀などひとかけらもない、あからさまな驚嘆ぶりだった。
「若っけえ。それじゃまるで詐欺だよ。このひとは。あきれたね、まったく」
 山田真沙子は、それでも怒るふうもなく、あっさりとヒトミに答えた。
「ありがとう。でも、整形はしてませんよ」
「みたいだね。だから、なおさら驚きなのさ。すごいね。まったくもって、もう、バケモノじゃなかろうか、女のバケモノ」
 涼紀はあわててヒトミを制した。
「ヒトミさんッ」
「え?」
 ヒトミはきょとんとした表情で涼紀を振り向き、それから、ようやく自分の不作法な発言に気づいたらしく、顔を真っ赤にさせた。
「・・・・・すいません」
 ヒトミは、ずんぐりむっくりの体をちぢめるようにして山田真沙子に詫びた。
「あんまりびっくりして、つい、遠慮のない言い方になってしまって。すいません。どうか、気を悪くされませんよう、お願いします」
「いいんですよ」
 山田真沙子は鷹揚に頷いた。
「でもね、このトシになると、若く見られることを手放しで喜んでばかりもいられないんです。若く見られるってことは、同時に相手からなめられることであって、どう見ても私より年下であるはずの相手からけんもほろろの扱いを受けたりもする。あ、このひと、私を自分より年下だと思っているなって、すぐにわかるようなひどい対応をされる。そんなときは、さすがにむっとしますけどね」
「そういうものですか」
 涼紀は相槌を打ちつつ、自分が突然に素直な気持ちになって山田真沙子と向かい合っているのを感じた。安堵感から生まれた素直さであり余裕だった。

 若い男の子が好きな典比呂が、どう間違っても、十歳も上の四十七の女性と男女関係になるはずもない。
 これが十歳下の女性となると、また話は別だけど、四十七なら四捨五入すると五十になる、そういう女性を、まだ三十七で四十歳にもなっていない典比呂が相手にするとは、とうてい想像できない事だった。
 自分たちは単なる友だち関係と山田真沙子が繰り返し強調していたのは嘘ではなかったようだ。
「それにしても典比呂さん、遅いわね」
 呟きながら山田真沙子は椅子から立ち上がった。
「何か飲み物でもいただきましょうか。この季節なら、やっぱり冷たいのより温かなのがいいわね。ええと、コーヒーか紅茶か、緑茶もあったはずだけど・・・・涼紀さんは何がよろしいかしら? ヒトミさんは?」

 真沙子がふたりに背を向けてキッチンに近づきかけたとき、玄関のチャイムが鳴らされた。
「きっと典比呂さんよ」
 真沙子がキッチン横の壁のインターコムに応答する。
「はい」
 典比呂らしい声が、涼紀とヒトミが座っているソファにまで届いてきた。
「あ、おれ」
「ようやっとお帰りね。あのね、思いがけないお客様がいらしているの」
「・・・・・へえ、お客さんが?」
「涼紀さんとヒトミさん」
「・・・・・あ」
「この近くに用事できたついでに寄ってみたそうよ」
「・・・・・・・・」
「もしもし、聞こえている?」
「・・・・・うん」
「じゃいま、いまドアを開けますからね」
 ヒトミが涼紀の耳元でささやいた。
「さすが年上だね、すぐにドアを開けずに、ああやって典比呂さんに心の準備をさせてやってる。わざと時間稼ぎをしてるのさ」
「そうなの?」
 涼紀もこそこそ声を聞き返す。
「きまっているじゃないか。そうでなきゃ、ドアもあけずに、いちいち、あんなことを言わないよ。年上女ならではの、やさしさってとこか」
「年上女だなんて、ふたりはそういう関係と山田真沙子じゃないって、彼女は言ってたじゃないの」
「まあ、そうだけど」
 真沙子が、心の準備をととのえるには十分ではないにしても、うわっつらの自制心を装うには不足のない時間稼ぎをしてやったにもかかわらず、スーパーマーケットの小さなビニール袋ひとつをさげて帰ってきた典比呂は、涼紀の目にもそれとわかるほど狼狽しきっていた。

 めったに物事に動じない、もしくは動じないふりのできる典比呂なのに、その動転ぶりは見ていても痛々しいぐらいだった。
 とにかく涼紀とまともに目を合わせるのすら、必死で避けている。避けているな、と見破れるぐらいに落ち着きのない目つきであり態度なのだ。
 涼紀とヒトミのふいの訪問は、よほど予想外の出来事だったらしい。あるいは別居生活も一年と四ヶ月がたち、典比呂の念頭からは、こういう事態はありえないこととして、とっくに追い払われていたのだろう。
 女たち三人が見守るなか、典比呂は、まるで捕獲されて檻に入れられた野生のキツネかオオカミみたいに、十二畳のワンルームをうろつき、しかし、沈黙を怖れるようにしゃべりつづけた。
「いや、偶然って、実際にあるもんなんだな。だって、そうだろう? 珍しく真沙子さんがここに遊びに来たかと思うと、これまでいっぺんもきたためしもない涼紀までやってくる。しかも、しかもだよ、涼紀は事前に連絡も無しに、ひとの家に押しかけてくる、そんなタイプじゃないはずなのに、今日に限って、それをやってしまうし、いや、ほんと、偶然ってものは怖いね。さらに意外なのは、めったに料理なんてしない真沙子さんが、これまた、今日に限ってカレーをこしらえるって言いだすし、もしカレーをつくるなんて彼女が言わなきゃあ、いまごろは、おれたち、晩飯を食べに外出していたよ。

 そうなりゃあ、涼紀とヒトミさんがここに訪ねてきても留守ってことで、こうして、今みたいに四人が顔をそろえることもなかったわけだ、すごいね、すごい偶然だよ。しかも、おれがチャツネ一個を買いにでた、わずか二十分たらずのあいだに状況ががらっと変わってしまったなんて、信じられるかい? こんなのって、マジに、ありかよ?」

 女三人は、なんということもなく交互に顔を見合わせ、だれかが、どうにかしてくれるのを期待するような視線を投げ合った。三人が三人とも、典比呂の、彼らしからぬ平静さを欠いた態度と饒舌ぶりに戸惑っていた。

 そのときヒトミがソファから立ち上がった。さっきまでは、なぜか山田真沙子を前に借りてきた猫のようだった態勢を立て直し、酒場の「デイジー」で酔客たちを、なだめ、あやすのとそっくりな手際のよさを発揮した。

「まあま、とにかく、その椅子にすわんなさいよ、典比呂さん」
「ん? 椅子? どの椅子?」
 虚を突かれ、うろたえつつ典比呂はあたりを見まわした。
「ほら、そこの赤と銀の椅子、その派手なやつにさ」
「派手なって・・・・そうかなァ、これ、派手かなあ」
 しかしヒトミの断固とした命令口調が、典比呂の取りのぼせていた気持を、いくらか鎮めたのは確からしい。典比呂は、おとなしく椅子に腰をおろした。
 そして、ひと呼吸のあと、彼は、あらためて涼紀とヒトミを正面切ってみつめ、あいまいに横目で真沙子の姿を確認する。
「あのさ、涼紀、まずはおれに説明させてくれないか」
 その口調は、いつもの典比呂にもどっていた。
「彼女・・・・山田真沙子さんというんだけど、彼女とおれは、つまり、おかしな関係じゃないんだ」
 すばやく横合いから真沙子が口を挟んだ。
「私もそのことは説明してあるのよ、あなたが留守の間に。私たちは単なる友だちだって」
「そうか・・・・涼紀、そういうことなんだよ。おれが慌てふためいたのは、きみを、またもや傷つけたんじゃないかと思って、それで、ひどい自己嫌悪というか、自分を呪いたくなるというか・・・・わかってくれるかい?」
 涼紀にかわってヒトミが応じた。
「うん。わかるような気がするな。典比呂さんは、デリケートな神経の持ち主だからね。自分自身で訳もなく勝手にパニックに陥っちゃったってことだろう?」
「ああ。みっともない話だけど、おれは、こういうところが、いくつになってもだめでね」
 誰が求めたわけでもないのに、真沙子もコメントを述べた。
「自分自身で勝手になんでもかんでも思い決めてしまう面が、彼にはあるから」
 この口調にこめられた皮肉とも厭味ともつかないひびきを感じ取ったのは涼紀だけだったらしい。典比呂とヒトミは真沙子のほうを振り返りもしなかった。

「典比呂さん、心配はいらないって」
 ヒトミが、ふたたび親身な声で典比呂をなだめた。
「涼紀さんは誤解なんてしていないよ」
 そう言ってから、
「ね?」
 と遅ればせながら同意を求めて来たから、涼紀も仕方なく「うん」と頷く。ここはヒトミの顔を立てておいても悪くはないだろう、といった程度の同意だった。
 ヒトミがつつけた。
「いま真沙子さんも言ったけど、典比呂さんが留守のあいだに、ふたりがどういう間柄かは、真沙子さんがちゃんと話してくれたんだ。だから私も涼紀さんも、その点は納得してる。だって万が一、仮に万が一だよ。典比呂さんが真沙子さんが深い仲だとしたら、典比呂さんの妻の涼紀さんを前にして、真沙子さんが、こんなにも穏やかでいられるわけがないじゃないか。

いくら取り繕っても、目つきが険しくなるとか、言葉のはしばしに敵愾心が出てくるとか。でも、ぜんぜん、そうじゃないもの、真沙子さんは。だから、私はちっともふたりの仲を疑ってないって」
 典比呂はほっとしたように呟いた。
「そう・・・・それならいいけど」
 さらにヒトミはでしゃばった。
「ほら、涼紀さん言ってあげなよ」
「何を?」
「何をって誤解なんてしていないってことさ」
「うん、していない」
「ほら、ね。考えてみれば、私らがいけなかったよね。事前に電話もしないで、いきなり訪ねてきたんだから。典比呂さんの都合もきかないで。これからは気を付けるよ。約束する」
 それから十分もしないうちに、涼紀とヒトミは典比呂の部屋を辞去した。
 意外だったのは、ふたりと一緒に真沙子もバッグを手に典比呂にいとまを告げたことだった。
「悪いけど、きょうは。もう、カレーをつくる気分じゃなくなったの。また、そのうちね」

 典比呂はだれも引き止めようとはしなかった。ただぼんやりと玄関口まででてきて、無言で三人を見送った。
 エレベーターが五階にやってくるあいだ、そして、エレベーターが三人をのせて五階から一階に降りるあいだ、ヒトミは如才なく真沙子に話かけつづけた。自分より九歳上と知ったためか、その口調は、ヒトミにしては、ていねいだった。

「こちらからのお帰りは?」
「車きているの。このマンションの地下にとめてあって」
「失礼ですけど、お独りですか?」
「独身かどうかってこと?・・・・ええ、かれこれ二十年近く独り。夫がいた短い時期もあったけど」
「こんど、うちの店にも、ぜひ、いらしてくださいな」
「”デイジー”ね。いちどいきたいと思っているのだけれど」
「あら、じゃあ、ぜひとも。私と涼紀さんとふたりでやっている店ですし、女性のお客さんも多いんですよ」
 ヒトミの背後に立ち、考え事にふけっていた涼紀は、ふいに真沙子に声をかけられた。
「別居してから涼紀さんも職探しにご苦労なさったそうね」
 おざなりではない、労りの口ぶりだった。
「典比呂さんから聞きました。で、バイト先で、こちらのヒトミさんと知り合って、”デイジー”を始められたとか。いろいろ大変でしたね」

 実年齢は四十七歳とはいえ、外見上は自分の同年代としか見えない真沙子に、しみじみといたわられると、妙な心地がした。相手から高みに立って、こちらを見下しているみたいな、面白くもない気分になる。
「大変だなんて、すべてヒトミさんがやってくれて、私は、ほんの手伝いぐらいのことしかやれなくて」
 真沙子はさらりと言った。
「悪いのは典比呂さんですよ。涼紀さんは、何も悪くない。典比呂さんから話を聞くかぎりでは、私はそう思いますね」
 エレベーターが一階につき、地階の駐車場降りる真沙子を残して、涼紀とヒトミはエレベーターを降りる。
「それではここで」
「”デイジー”でお待ちしています」
「失礼します」
 マンションの共同玄関口へ並んで歩きながら、ヒトミは大きく肩でため息をついた。
「いい女だねえ。まったく見とれちゃうよ。私のタイプなんだ。あの手はね」
「・・・・へえ、ヒトミさんにとっては、彼女のような女性が美人に見えるんだ」
「美人とは言っていないさ、好みなんだ」
「そうか。だから、はじめのうち彼女の前でヒトミさんは緊張してたってわけ?」
 冗談で言ったのに返って来たのは軽口ではなかった。
「うん。久しぶりに好みのタイプに出会ったもんでね」
「珍しいわね。好みの同性に会って、それだけで緊張するのも。ヒトミさんって、そういうところがあるんだ、うぶなところが」
「こればっかりは不思議だね。男なんか、こっちの言いなりになるぐらいおとなしくて、小金持ちでありさえすれば、姿形なんて、まるで気にならないのに、女は、そうはいかない。はっきり好みのパターンがあるんだよね」
「誰の?」
「だから私のさ」
「女友だちの姿形が重要なの?」
「だれが友だちだなんて言った?」
「・・・・・・」
 玄関口まできて涼紀は思わず立ち止まった。
「ヒトミさん、もしかして・・・・・」
「ヤだねえ。このひとったら、きょうのきょうまで気付かなかったんだね。そうだよ。あんまり大っぴらにはしてないけど、私も典比呂さんと同じで、男も女もOK。本気で惚れるのは、どっちかというと女だけど」
「・・・・・ヒトミさん」
「心配ないって。涼紀さんには、まるで、そういう対象としては見てないから。ちょっかいだそって気持ちも、さらさらないよ」
 とっさに涼紀は叫んでいた。
「ひどいッ」
 ひと言では収まらなかった。くりかえしした。
「ひどいッ ひどいッ、酷いじゃないのッ」
 きょうまでヒトミが黙っていたのが酷いのか、はたまた、典比呂のみならずヒトミにまで「性的関心外だ」と言われたことに対する「ひどいッ」なのか、涼紀にも自分の口にしている「ひどいッ」の意味は、まるでつかめなかった。


 Ⅹ
 ヒトミと一緒に典比呂の住まいを訪ねた翌日の月曜日、涼紀はいつものどおりに夕方の五時に「デイジー」に出勤した。営業は六時からである。
 すでにヒトミは店に来ていて、カウンターの奥の厨房で、今夜のお通しの仕込みに精出しているのも、いつものことだった。
 香ばしい匂いがすると、小エビの揚げ物もをこしらえているらしい。この前、客たちに好評だった一品だ。
 カウンターと厨房を仕切る長い紺色ののれんの奥に向かって、涼紀は声をかけた。つとめて、ふだんと同じ調子を心がける。
「おはようございます」
 ひとみは明るく答えが返してきた。
「あ、おはよう」
 いったん声だけ聞こえ、それから、ほどなくヒトミの顔がのれんの隙間からのぞいて涼紀の姿を確かめた。
「元気そうだね。よかった。きのう、あのあと気になってたんだ。電話しようかと思ったけど、こういう場合はそっとしておいた方がいいかなって考えてさ」
「それはどうも」
 涼紀はそっけない返事に、何かピンときたらしいヒトミは、おもむねる口ぶりと、いやらしい作り笑いを送ってよこした。
「こっちはじきに終わるから、そのあとコーヒーでも入れようね」
 その言葉通り揚げ物は五分とかからずに終了し、厨房からカウンターの内側に移ったヒトミは、ひと息つく間もなく、やかんをガス台にかけ、マグカップ二個とコーヒー・メーカ―を棚から取り出した。

 涼紀は、そうしたヒトミの動きを逐一、目で追い、にらみつづけた。
 やがてヒトミがうんざりした表情で言った。
「ちょっと涼紀さん、いま自分がどんな酷い顔をしているか、わかってるかい? その顔つきじゃ、客も逃げちゃうよ」
「仕方ないでしょう」
 涼紀は負けじと言い返した。
「きのうから一睡もしてないだから」
「一睡も?」
「ええ、一睡も。ショックなことばかりで、とても寝てられやしない。あれこれ考えていると」
 厭味たっぷりに言ってやったのに、ヒトミは軽く受け流した。
「そんなに考え込むほどのことじゃないと思うけどね、人生ってやつは」
 自分には関係ないこと、と言わんばかりの突き放したヒトミの言い草に、この二十四時間、たまりたまって捌け口のなかった涼紀の怒りは爆発した。

「ヒトミさん、どうして黙っていたのよッ。どうして私が夫のことを打ち明けた”洋食・ひかりや”のパートのときに、自分もバイセクシュアルだって言ってくれなかったのよッ」
「バイセクシュアだなんて、そんな・・・・」
「もしかしたら、私もそういった仲間に引き込めると思ったわけ?」
「まったく何を言ってんだか。もう」
「ヒトミさんがこれまで私に親切にしてくれたのは、ヒトミさんの男版みたいな夫を持つ私に対する同情とか、いえ、罪滅ぼしのようなものなの?」
「あのね、ちょっと待つてくんないかなあ」
 それには耳も貸さず、さらに涼紀は声を張り上げた。
「私は、いったい、なんという星の下にうまれたのかって、きのう、つくづく嫌になっちゃったわよッ。夫もバイセクシュアルなら、いちばんの友だちと思っていたヒトミさんもそう。なぜなのッ。どうして、よりによって、私のまわりに、そういうひとたちが集まるのよッ。私自身がそうならまだしも、バイセクシュアルの人たちの気持ちがまるで理解できないこの私のまわりにッ」

 叫びおえたとたん、ヒトミをにらみつけていた涼紀の目から大粒の涙がこぼれ出た。これには涼紀自身がびっくりした。悲しい、とか、つらいとかいう思いはなく、ただ感情を煮えたぎっているだけなのに、それでも涙というものはでてくるらしい。涼紀はいそいで手の甲で涙をぬぐった。自分の気持とはお構いなしに溢れた涙が、ひたすら、いまいましい。

 一方、ヒトミは、涼紀の涙を目にして、たじろぎ、あたふたするどころか、けがらわしいものを見たかのように、その表情にはっきりとわかる嫌悪感をにじませてそっぽをむいた。

 ほどなくコーヒー・メーカーにセットしてあったコーヒーがはいり、湯気の立つマグカップが涼紀の前に、無言で、手荒く置かれた。そしてヒトミは自分のそれを持ってカウンターの内側からでてくると、一脚の椅子をあいだにはさんで涼紀をあいだにはさんで涼紀と並んでカウンターの椅子に腰かけた。
「・・・・・ヒトミさん、ごめん。私、言い過ぎた・・・・」
 殊勝な面持ちでそう言いはしたものの、涼紀は自分の言葉のどれがヒトミを怒らせたのか、まるで見当がつかなかった。だが、ここは謝っておくほうがいい、という、とりあえずの計算が働いたのだ。
 だがヒトミは答えない。いつになく頑固に無視を決め込んでいる。
 やがて涼紀は胸のうちでため息をつき、「デイジー」をクビになったあとの身の振り方を漠然と思いめぐらせた。
 義母の晴子には泣きつきたくはなかった。
 電車を乗り継いて三時間ほどの町にある実家には、別居の事実さえ、いまだに隠しているし、どだい頼りになる親たちではない。生活の半分は世間体を気にすることで成り立っているような田舎町で、涼紀の両親もその例外ではなかった。別居を聞いただけで、家中の雨戸をあわてて閉めきり、声を潜めてだすだろう。

 当面の最低限の生活費の心配はない。典比呂が月々、銀行口座に振り込んでくれるし、その約束が果たされているかどうか、義母が目を光らせてくれてもいる。
 だが、典比呂のそうした誠意がこの先もつづくかどうか確証はなく、義母の晴子にしても、結局は息子の肩を持つに違いなかった。
(また、いちから職探しをはじめるか・・・・)
 そう思いつつ、涼紀は横目でヒトミの様子をうかがった。そんな自分が惨めで、卑屈で、涼紀は、あらためて典比呂への憤りが喉もとにこみあげてきた。
(何もかも、あいつのせいなんだッ。あいつのおかげで、私はこんな目にあっている。もとはといえば。すべてが、すべてがあいつの身勝手さが発端であり原因なんだッ)

 ヒトミの顔色をうかがっている自分も惨めで、それがまた典比呂への、あらたな怒りをあおってくる。
 言い過ぎた、とヒトミに口先では詫びたけど、涼紀の本心は少しもそう思ってはいなかった。こっちは最初から典比呂のことを初めとして何もかも手の内をさらしていたのに、ヒトミはそうではなかった、裏切られていた、という気持は、いっこうに薄まっていかない。

 これ以上、惨めさを味わいたくなかった。ヒトミの顔色をうかがい、ヒトミの出方を待つ、ということ自体が、いまの涼紀には耐えられない屈辱に感じられた。
 いったんはカウンターの上に置いてあったバッグを、涼紀は手を伸ばして引き寄せた。
それを目の端にとめていたのか、あるいは単にタイミングが重なっただけなのか、それまで黙りこくってコーヒーをすすっていたヒトミが、ようやく口を開いた。

「涼紀さんには理解できないかもしれないけど、男でも女でも恋人にできる自分を、ほんとのところは、トクだって、私は思っているんだ。だって考えてごらんよ。男しかダメって言うのより、男も女もOKなら、それだけ生き方の幅が広くなる。ただ、こういう考え方は、世間一般に通用しない、というか、許さない人たちがいるから、そんで私は黙っていただけの話。内心では、私の方がよっぽどトクって、そう思ってきたね」
「・・・・・・・・」
「いろんなパターンがあるから、一概には言えないけど、私なんかの場合は、ごく自然にこうなってた。服飾専門学校にいたころに、すてきだなあって思っていた同級の女の子がいて、そのうち親しくなって、で、その子が男にフラれて、慰めるためにその子をアパートに泊っているうちに、デキちゃった。十代のころに私みたいな経験をしたやつって、けっこういると思うよ。セックスにものすごく関心がある年頃で、いたずら半分に同性でそういうことしてみて、やってみると、これが、そう、いやじゃなかった」

「私にはないわ」
「いや、だから全部が全部とは言っていないよ。たださ、同性が同性に憧れるってのは、わかるだろう?
宝塚のスターみたいに」
「まあね、中、高生ぐらいのときはあったような気がする」
「あのひと、かっこいいとかさ」
「うん、そのくらいは」
「その思いが高じて、一緒にお泊まりするようなシチュエーションになって、なんとなくふざけあっているうちに、あらら、ということになっちまう」
「・・・・・・」
「いったんそうなって、それで、やっぱり異性がいい、と思う人間と、異性でも同性でも、それぞれいいもんだ、と目覚める人間と二通りがあるんじゃないかなって、私は思うよ」
「それって、目覚めるものなの? もともと、その素地があるとかじゃなくて」
「さあ、そのへんは、私は詳しくことはわからないけど・・・・つまり、私が言いたいのは、私にとっちゃあ、男も女もOKというのは、とってもトクだってこと。男しか好きにならない男、女にばかり惹かれる女、というのは大変だろうけど、男も女もどっちでもいいんだから幅はひろがる。しめたってもんだね」
「ほんとに?」
「ほかのやつらは知らないけど、少なくとも私はね。だから、おかしなコンプレックスなんてないよ。むしろ、それよりも、周りには内緒にしている自分のひそかな愉しみがあるっていう、何と言うかなあ、ちょっと他人を出し抜いているような優越感みたいなものも、ないことはない」

「内緒の愉しみ?」
「そう。だあれも知らない私のとっておきの秘密って感じかな」
「じゃあ、ヒトミさんがこれまで付き合って来たのは女のひとばかりなの?」
「いや、付き合いの浅い深いは別にして、男女半々ってところだよ。いちばん好きだったのは、今言った専門学校生のころの彼女だけど。いい女でねえ・・・ほら、きのう会った山田真沙子さん似たタイプでさ」
「そのひと、どうしてるの?」
「十年ほど前にファッションの勉強をするとかいってローマだかミラノにいったきり。ま、元気でいてくれればいいんだ」
「そう・・・・・」
「ほかに聞きたいことは?」
「・・・・・いえ・・・・というより、何を、どう聞けばいいのか・・・・」
「昨日言ったけれど、涼紀さんことは、私、よこしまな気持はなしに、友だちであり、この店のパートナーだと思っているからね。涼紀さんとは色恋の道に進みたいという野心はや願望は、これぽっちもない、断言できる」
 そう言いきってから、ヒトミは一拍置いてたずねてきた。
「信じてくれるかな、わたしのこと」
 まごつきながらも涼紀は口の中でつぶやいた。
「・・・・ええ、まあ・・・いえ、ありがとう、そう言ってくれて・・・・」
 それ以上の適当な返事がおもいつかなくて、涼紀はマグカップのコーヒーをすする。
 すでにひとみに対するもやもやした感情は晴かけていた。それはヒトミが、ほんのわずかな、ためらいや屈託も見せずに自分のセクシャリティーを語った、その、あっけらかんとした口ぶりのせいも知れなかった。あるいは、夫・典比呂についで、これで二度目ということで、バイセクシュアルなるものについて免疫力がついてきたのかもしれない。要は、どんなことにも、ひとは馴れていく。ということなのか。

 ただ、ヒトミの説明を聞きつつ、後ろめたさなど一片もにじませないその口調を耳にしている途中、涼紀の脳裏には、およそ二年前の典比呂のそれがちらつきつづけていた。
 振り返ってみれば、典比呂が打ち明けたときも、こんなふうだったのだ。涼紀の驚きやショックをよそに、典比呂は妙に明るく、しかも、得意げにも感じられる様子に見えなくもなかった。

 同性異性へのこだわりを持たないセクシャリティーを「内緒の愉しみ」とも「ちょっと他人を出し抜いているような優越感」とも「トク」ともヒトミは言ったけれど、典比呂も、それに似た気持ちがあったのかもしれない。
 ふつう一般の人間と自分は違うのだ、といった特殊さを誇る感覚と、男だけ、もしくは女だけにこだわらずにいられる余裕みたいなものが、典比呂にもヒトミにも共通してあるようなのだ。いわゆる世間的には「まとも」ではないことが、かえって典比呂やヒトミには自分たちの「特権」であるかのような。

 つかのまヒトミを忘れて考えごとにふけてしまった涼紀の横あいから、じれったげにヒトミが声をかけてきた。
「まだ、あれこれ迷うことがあるのかい?」
「え?・・・・ああ、そうじゃなくて、夫を思い出したもので」
「まあね、涼紀さんが、なんで自分がこういうめぐりあわせって、叫びたくなるのも、わからなくはないよ。私も、はじめて典比呂さんの話をきかされたときは、しみじみ涼紀さん同情したものね。バイセクシュアルの夫に手こずりつつ、このひとは、私がバイセクシュアルなのを知らずに、こんなことを打ち明けてって。それで、つい、こっちも本当のことを言えなくなっちゃってさ」
「・・・・・だけど、どうして、そのけのひとたちが、よりによって、私のまわりに集まってくるんだろう? この広い世の中、どうして私ばっかりに」

「確かに、ほんとそうだよね」
「なぜだか、ヒトミさん、教えてよ」
「単なる偶然が重なることって、人生にはあるからね」
「もしかしたら何かのお告げの前兆なのかな」
「なんの?」
「わかんないけど、たとえば、もっと大きなトラブルの前兆うとか」
「じゃあ、何かい、私や典比呂さんは、いずれ訪れる大きなトラブルを告げるために、涼紀さんのそばでバタバタと騒がしくとびまわるコウモリか何かかい?」
 涼紀は、ずんぐりむっくりのヒトミの体つきを、あらためて横目で盗み見た。
「コウモリほど可愛くないでしょうに・・・・」
 いつつ涼紀の頭の隅に、きのうの光景がよみがえって来た。典比呂の部屋にいた山田真沙子、四十七歳。結局、彼女は典比呂のなんなのか。
 ヒトミも同じことを考えていたらしい。

 涼紀がそれに触れる前に、ヒトミはひとりで頷きながら、涼紀の心中を代弁するように言っていた。
「それにしても、きのうの山田真沙子さんはひっかかるよね。いや、彼女本人は別に問題ない。ただ典比呂さんとは、どういうつきあいなのか。だって、あんなに、しどろもどろになった典比呂さん、私、はじめて見たよ。ありゃ、へんだよ、おかしいよ」

「デイジー」の営業開始前に話題になっていた山田真沙子そのひとが、ふらりとひとりで店にやって来たのは、同じ日の夜十一時少し前だった。
 きのう典比呂の部屋で着ていたのと似たような、しかし、よく見ると材質の違う黒のロング丈のワンピースに、黒のロング・コートを前ボタンを外しており、首には赤、黄、紫のどぎつい三色に染められた、やはり、たっぷりと長いストールを巻きつけていた。その片方の端は床をなめるほど垂れさがったままだった。
「あらま、山田さん、さっそくきてくださって」
 と、ヒトミは如才なく歓迎の言葉で迎えつつも、その顔は意外さと驚きを正直にあらわしていた。
カウンターのなかに入って洗い物をしていた涼紀も、あやうく手を滑らせてグラスを割るところだった。

「あ・・・・山田さん・・・・」
 客が立て込んでいた時間帯はすぎ、店には若いカップルと女性二人連れのふた組がいるだけで、どちらもボックス席でそれぞれに話が盛り上がり、ヒトミはカウンターの席でひと息ついていたところだった。
「こんにちはッ」
 山田真沙子は、まず出入口のドアの前で陽気そうに言ってにっこり笑い、長いストールの先をずるずる引きずりながらカウンターに近づいてきた。
 きのう典比呂の部屋で会った印象よりも、はるかにくだけて、人懐っこい雰囲気だった。
「あーあ、もう少しで迷子になるところだった」
 言いつつ真沙子はコートもぬがず、ストールも首に巻いたまま、ヒトミが腰を下ろしていた隣の椅子にすわり、大きな布製のバッグを膝にのせた。
「ここのビルがなかなか見つからなくて。いつも、こうなのよね、私って。探しものがいっぺんで見つかったことなかないんだから」
 ヒトミは、涼紀が手渡した熱いおしぼりのビニール袋を破って真沙子に差し出しながら、親身さあふれる営業用の口ぶりで応じた。
「そんときこそ電話下さいな、すぐにお迎いにいきますから」
「あら、そうだったわね。でも、そこまで気が廻らなくて。もう、ほとんどパニック状態。だって三十分も、このへんをうろうろしてたんだもの。このビルの前の通りなんか、四、五回いったりきたりして・・・・」

 前半はヒトミに、後半は涼紀にむかって真沙子うったえ、
「もう、ほとほと自分がいやっ」
 と言って真沙子は膝の上のバッグを両腕で抱え込み、子どもじみた仕草で大きく首を振った。
 真沙子はすでに酔っているらしい、と涼紀は、そのときになって、ようやく、きのうとの印象の違いに気づいた。昨日の真沙子はまったくの素面だった。
「お飲み物は何に?」
 にこやかさを崩さずにヒトミがたずねた。
「ん?・・・・ああ、そうね、ウイスキーのボトルを一本入れてもらおうかしら。このお店でいちばんポピュラーなのを」
「ありがとうございます。涼紀さん、お願いね、氷とグラスも」
 そのあいまに真沙子の関心はバッグのなかに移り、一心不乱に大きなバッグのなかをかき回していた。
「・・・・ないわ・・・・・どこにいっちゃったのかしら・・・・・忘れてきた?・・・・いえ、まさか・・・・・ちゃんと入れたはず・・・・」
「どうしたんですか?」
「のど飴。喉が弱いから、いつも持ち歩いているのど飴が見つからなくって」
「いまウイスキー、おつくりしますけど」
「ええ、そうして。のど飴なめながら飲むので」
 涼紀とヒトミは思わず顔を見合わせた。
「のど飴とウイスキーを一緒にすると、効き目がなくなりません?」
 遠慮がちにヒトミが言ったにもかかわらず、真沙子はバッグのなかをまさぐる手を休めず、覗き込んでいる顔もあげなかった。
「効き目って、何が?」
「ですから、のど飴が」
「あらそんなことはないわ。私、いつもウイスキー飲みながら、のど飴なめているの・・・・やだ、ないわ。ほんとにないみたい・・・・」
 言い終えると同時に、真沙子は、両手でバッグの口を引き裂くように持ち上げ、ガバッと中身をカウンターの上にぶちまけた。
 大判の手帳、手鏡、化粧ポーチ、折りたたみ傘、数本のボールペン、ポケット・ティッシュ、ハンカチ二枚、パンティストッキングの替え、何かの入場券が五、六枚、コンビニエンスストアのおむすび一個、同じくチョコバー、印鑑と朱肉の入ったプラスチックのケース、ビタミンEの小瓶、携帯電話といった品々が、カウンターの上に散らばった。

「ないのよッ、どこにいったのよッ」
 と椅子から降りて仁王立ちしたまま叫ぶ真沙子を、ふたりは、しばらく呆然と見つめた。
「のど飴がなかったら、ウイスキーは飲めないのよッ。なめながら、飲まなくちゃならないのにッ」
 真沙子の剣幕にたじろぎつつも、こうした場数をふんでいるヒトミは、冷静に、おだやかに対処した。
「のど飴じゃなく、ほかのキャンディーならありますけど・・・」
「絶対、のど飴なのよッ・・・・ああ、ヒトミさん、どうしよう、私ののど飴がない・・・・」
「なんというのど飴ですか?」
「レモンとハーブのミックス味で、レモンの絵のついた円い缶に入っているやつ。のりちゃんからもらったのよ」
「のりちゃん?」
「そうだッ。のりちゃんならわかるわ」
 そして真沙子は、にわかに表情を明るくして、涼紀へと向き直った。
「お願い、涼紀さん、すぐにのりちゃんに電話して、私ののど飴がどこにふるか聞いて。彼なら知っているはずよ」
 涼紀は、よもや、と思いつつも念を押してみた。
「あのう、のりちゃんて、典比呂さんのことではないでしょう?」
「そ、その、のりちゃん。だから早く彼の携帯に電話してみて、早くッ」
 真沙子の勢いにつられ、とやかくの質問は後回しにして、涼紀は、典比呂の電話番号に連絡した。涼紀は名前を告げ、「デイジー」に電話してほしいとだけ言った。電話は留守電話サービスにセットしてあった。
「典比呂さん、出ないようです」
「でない?」
 真沙子の表情が凍り付き、次の瞬間、その手はカウンターごしに涼紀が手にしていたコードレス電話を引ったくっていた。
「私、かけてみる。ええと・・・・何番だったけ・・・・涼紀さん、番号行ってみて」
「・・・・・・・」
「さっと言ってッ」
 真沙子にどやされ、ヒトミの目くばせにもせかされ、涼紀は、何んだか、わからぬまま番号を言っていく。その目はカウンターの上にころがる真沙子の携帯電話に注がれた。どうやら真沙子は自分所有のそれさえも失念しているらしい。

 典比呂の電話は、真沙子がかけても、やはり、本人に繋がらなかったようだ。
「・・・・・でない・・・・」
 真沙子は虚脱した顔つきで呟き、握りしめていたコードレス電話を力なくカウンターに置いた。
「・・・・でないの・・・・どこなの・・・・私ののど飴が、ないのに・・・」
 うわ言のように繰り返し、よろよろと椅子に腰かけ直した真沙子は、数秒間、口をつぐんでいたかと思うと、カウンターに両腕をのせ、そこに顔を伏せてわっと泣き出した。その拍子にカウンターに散らばっていたバッグの中身が、あっちこっちに転げ落ちたけれど、そんなことは眼中にない真沙子の嘆き哀しみぶりだった。
 またもや涼紀とヒトミは度胆を抜かれて、無言で見合わせた。
(いったい、どうなっているんだ?)
 と涼紀は目でヒトミに問いかけ、
(困ったひとだねえ)
 とヒトミは眉根を寄せた。
 最初は号泣、ほどなく嗚咽になったけど、それでも真沙子は泣き止まない。
 たっぷり三分間、ふたりは見守り、やがてヒトミが声をかけた。
「山田さん、少しは落ち着いた?」
 嗚咽がやんだ。
「のど飴のこと、みんなで知恵をだして考えれば、きっと、何とかなりますよ」
「・・・・・・・」
「大丈夫ですってば。さ、ほら、気分を変えて楽しく飲みましょ」
「・・・・・・・」
「山田さん・・・・」
 真沙子へと顔を近づけたヒトミは、しばらくその姿勢のまま様子をうかがっていたかと思うと、やれやれというふうに、ふたたび自分の椅子のなかで上体を立て直した。
「まいっちゃったね、このひと、寝ているよ」
「寝てるの?」
「うん、ぐっすり」
「さっきのあれってなに?」
「多分、見かけよりも、かなり酔っていたんじゃないかな。こんな言い方はなんだけどさ、このひと、一種の酒乱・・・・酒乱気味というか、その傾向があるみたいだね」
「なんだか、子供がごねてるみたいだったけど、ああいうのも酒乱なの?」
「暴れ方はいろいろあるさ。彼女の場合は幼児性丸出しってことかな」
 ひそひそ声のやりとりのあと、ふたりはカウンターの内と外で、真沙子の散らかしたバッグの中身を拾いはじめた。
 カウンターに突っ伏して眠っている真沙子は、そのうち小さないびきをかき、いかにも心地よさそうに熟睡をむさぼっている。
「ヒトミさん、このまま寝かせておいていいの?」
「三十分ぐらいたったら起こしてみるよ」
 時刻は十一時半になり、ボックス席にいたふたり組は申し合わせたかのように帰って行った。
 十二時十分前、ふたりがカウンターのなかで片づけや洗い物をしていると、店のドアがおずおずと開かれた。それをいち早く察知したヒトミが声を張り上げた。
「いらっしゃいませ」
 とっさに涼紀は典比呂がきたと早合点し、なぜか身構えてしまったりもしたけれど、あらわれた客は、藤浪だった。
 藤浪はがっしりした体をちぢめるようにして申し訳なさそうにドアの前で言った。
「まだいいかな」
ヒトミは親しい友達口調で言い返す。
「何遠慮してんの、入んなさいよ」
 ヒトミは彼をカウンターでなくボックス席に案内した。カウンター席では真沙子が寝入っている。
「涼紀さんもこっちにきて、三人でお喋りしましょうよ」
 盆にのせたボトルやアイス・ペール、水差し、グラスなどを涼紀がボックス席に運んでいくと、すかさずヒトミが言った。
「藤浪さん、ようやく正式に離婚したんだって」
「まあ、それは・・・・」
 おめでとうございます、と言いかけて、涼紀はあわてて飲み込む。離婚をめでたいというのも、おかしな話だった。
 藤浪はばっの悪そうな表情で、ヒトミと涼紀にどちらともなく付け足した。
「離婚って言っても、もうとっくに事実上は離婚しているのも同然だったからね。別居して五年半だし」
 昔からのよしみのせいか、ヒトミはずけずけと聞いた。
「慰謝料とかは?」
「金銭上のやりとりは一円もない」
「五年半も、どっちが離婚をしぶってたのさ?」
「渋っていたわけじゃないよ。保留にしていただけのこと」
「あのさあ、いまさらなんだけど、結局、何が原因だったわけ?」
「彼女の方の恋愛。おれと彼女は友達の紹介されたといっても、ほとんどお見合いと同じようなものでね。結婚後、彼女は職場の同僚とそういうことになって。彼女、結婚してからも以前どおりに勤めをつづけていたんだ」
「奥さんの恋愛ってことは不倫でしょうが」
「お遊び程度の不倫じゃなく、本気の恋愛だったみたいだな。だから彼女はおれに打ち明けた次の日に家を出て行った。それが五年半前」
「ふうん。随分あっさりと・・・・・」
「まあ口で言うのはたやすいけれど、そう、あっさりと気持の整理がつかないから、ぐずぐずと時間がかかった。むこうもこっちもね」
「で、いま奥さんは?」
「うん、相手の男とは別れたみたいだ。だからといって、おれのもとに帰る気もない。それで、この際、きれいに片をつけようということになった」
「それで離婚?」
「ああ」
「元のさやにはおさまらなかったんだ」
「気持のふんぎりって、どこで、どういうふうにつくか、わからないもんだね。今回でそう思ったよ。おれも、彼女が相手の男と別れたと聞いて、なんだか、すんなり離婚する気持ちになったもの。不思議だね。ほんとに」


 Ⅺ
 藤浪の離婚を聞きながら、涼紀は、彼が言った、
「気持ちのふんぎりって、どこで、どうつくか、わからないものだ」
 というセリフを、なぜか胸のうちで繰り返し反唱していた。
座っているボックス席の数メートル前方には、山田真沙子がカウンターにもたれて寝入っている姿が見える。コートも、どぎつい色合いのストールも身につけたまま、椅子からころげ落ちもせずにいることからすると、真沙子は酔った挙句に、たびたび、こうしたことをやらかしているのかも知れなかった。

 ヒトミに質問されたから答えたものの、自分の離婚の件は、そう長々と話題にしたくないらしい藤浪は、まだ何かききたそうなヒトミを遮って涼紀にたずねた。
「あのカウンターの女性、どうしたの?」
「ごらんのように眠ってるんです」
「眠っている? 具合でも悪いのかと思ったよ。涼紀さんの知り合い?」
「ええ、まあ・・・・」
「ええ、まあうって、その返事と顔つきからすると、きみたち、困っているみたいだな」
「いろいろありまして・・・・」
「なんだったら相談に乗るよ。それにしても、まずは彼女を起こした方がよさそうだな」
 立ち上がりかけた藤浪のスーツの上着の裾を、ヒトミと涼紀は左右から引き止めた。
「どうして、止めるんだ?」
 ヒトミが涼紀に言った。
「藤浪さんには事情を説明してもいいだろう? 口は堅いひとだし」
 藤浪の前でそう言われて、だめだ、とも言えず、また気持の半分は、なぜか、やけっぱちにもなっていて、涼紀は頷いた。
 ヒトミはにわかに目を輝かせ、得意げに口を切った。
「じつはね、藤浪さん、あの女性は――」
 これはヒトミの欠点なのか長所なのか、涼紀は、いまだに判断に苦しむのだけれど、他人の噂話を口にするときのヒトミは、やたらと張り切った。楽しくてたまらない、というふうに目を輝かせる。それは広い意味で、人間好き、というか、人間への好奇心が旺盛、という証拠かもしれないし、だから酒場を切り盛りできるのだろうけど、ときたま涼紀はへきえきすることもある。他人の幸も不幸もごちゃまぜにして、目を輝かせるからだ。不謹慎じゃないか、そう胸のうちではらはらすることも少なくない。

 しかし今夜のヒトミは、当事者の涼紀が目の前にいるせいか、藤浪への説明は、憶測や揶揄を交えない簡素な事実を並べていくものにとどまった。説明の途中で涼紀の了承と合意を求めるまなざしも投げかけてくるといった配慮も示した。

 ヒトミの説明は五分ほどで終わった。涼紀かまったく口を挟まなかったし、藤浪も最後までじっと耳を傾けていたために。
 話を聞き終えた藤浪は、しばし自分の足下に視線を落とし、やがて、大きなため息とともにつぶやいた。
「かわいそうなあ、涼紀さん、そんな目にあっていたのか・・・・」
 あまりにもストレートに同情され、どぎまぎして言い返す言葉がすぐには見つからない涼紀にむかって、ヒトミが藤浪の背中越しに笑いかけてきた。ニヤーッとした、いやらしい、下心のある笑いだった。

 涼紀は前にヒトミが言っていたことを思い出さずにいられなかった。典比呂ばかりにしがみつかずに、他の男と付き合ってはどうか、とヒトミはすすめたのである。「藤浪さんなんかは、私のぜったいのおすすめだけどもね」
 藤浪がうつむきながらの姿勢のままつづけた。
「この際、おれがあの女性にじかに話をきいてみようか? そのほうが涼紀さんもスッキリするなら、だけど」
「なんて?」
 とヒトミは、またもや目を輝かせてきく。
「いや、だから、もう、まどろっこしいのは抜きにして、どんどんぶつかってみるよ。あなたは涼紀さんのご主人と本当のところは、どういう関係ですか、と」
「友だちって答えるに決まってるよ」
「聞き方によっては、もっと手の内を明かしてくれるかもしれないし、あるいは、まったくの友だちってことが、もっとはっきりするかもしれないよ。涼紀さん、どうする?」
「どうするって言われても・・・・」
 そのとき涼紀はまったく別のことを考えていた。「かわいそう」という藤浪のコメントだった。涼紀はこれまで一度も自分をそういうふうに思っていなかったのだ。
 「涼紀さん、あんまりお人好しなのも考えものだと思うな」
 藤浪は、彼にしては珍しく強い口調で言った。
「涼紀さんがご亭主との関係を、できるだけこじらせたくないのもわかるけど、でも、むこうの言うまま、するがままになっているのもよくない」
「・・・・よくない・・・・」
「だってそうじゃないか。涼紀さんのぎりぎりのプライドはどうなるんだ? ここまでプライドを踏みにじられることなんてない。御亭主となにやら因縁のある女性が、こうして涼紀さんのまわりをうろちょろするにしても、ばかな話しだと、おれは思うけどね」
 ヒトミが肩をすくめて言った。
「ごめん、藤浪さん、山田真沙子さんにうちの店にきてくれと誘ったのは私なんだ」
「いや、ヒトミさんが誘ったにしても、だ。それとこれとは話が別だよ」
「だからね、藤浪さん、私が言いたいのは、涼紀さんだって自分から好き好んでお人好しになっているわけじゃないってこと」
「おれだって、涼紀さんを責めているつもりはぜんぜんないよ」
「責めているように聞こえたね、私の耳には」
 藤浪はあわてて涼紀を見返した。
「悪かった、謝るよ。ちょっと感情的になって。涼紀さんにおれ自身を重ねて見てたようなところがあった」
 すかさずヒトミが憎まれ口をたたいた。
「へえ、別れた奥さんに対しても藤浪さんはお人好しでありつづけたいんだ」
「・・・・・くやしいけど、じつは、そうですね」
「だからって涼紀さん藤浪さんと一緒くたにしないでほしいね」

 そのとき涼紀は一瞬、夢から醒めたような、ひと皮むけたような感覚に捕らわれた。藤浪に言われたいろいろが、血管をくぐり、数分後のいまになってようやく胸に届いた、そんな感覚だった」

「藤浪に言われる通り、私は、お人好しだったと思う。でも、ひと組のカップルがいるとすると、かならずどちらかは、お人好しの役にまわるんですよね。より相手に惚れこんでいる者の方が、その役になる。惚れている弱みというか。だから相手からどんなことをされても、真っ先に思ってしまう。何かを言い返したり、やり返したりしたら、相手に嫌われるんじゃないかって。嫌われることが、ただそれだけが、怖くてたまらない」

 涼紀は言いつつ、ずっと真沙子の寝姿を前方に見つめていた。
「でも、たったいま、私、決めました、きらわれてもいいから、やりたいようにやるぞって」
 涼紀はソファから立ち上がった。
 まっしぐらに真沙子に近づく。
「山田さん、山田真沙子さん、起きてください、ちょっと、お話があるんです」
「うーん…・うるさいッ」
「山田さん」
「眠らせてよォ、やかましいのは」
 しかし、どうにか真沙子はめをさましてくれた。上体をカウンターにだらしなくはりつかせつつも、首だけあげて涼紀のほうを見る。
「・・・・・あらら、涼紀さんじゃないの?・・・・・ってことは・・・・ここはどこよ?」
「”デイジー”です」
「”デイジー”・・・・」
 と間の抜けた声で聞き返したものの、真沙子のうつろだった目に、にわかに人格がもどってきた。
「寝ちゃったのね、私」
「気分はどうです? かなり酔っていたみたいでしたけど」
「私、どのくらい寝てた?」
「三十分ぐらい」
「どうりで、なんか、すっきりしたわ」
 そう言ってから真沙子はカウンターの上に投げだしてあった両手をそろえて伸びをし、寝起きのあくびをした。「ふにゃあ」という声とその姿は、生後三歳はすでにすぎている猫を連想させた。
 仔猫の時分の愛らしい面影は、もはや、探そうとしても探せない、とうに三歳はすぎている猫だ。

 それから真沙子は腰をかけている椅子の上で体をひねり、後ろのボックス席にヒトミの姿を認めるころには、さらに正気にもどってきたらしく、殊勝な口ぶりで言った。
「ごめんなさい、すっかりご迷惑をおかけしまって」
 ヒトミもすかさず笑顔で答えた。いかにもとってつけたような笑いだった。
「いいんですよ、気になさらないでくださいな」
 涼紀のみるところ、「自分の好のタイプ」である真沙子に対しては、ヒトミはことごとく寛大で甘かった。ついいましがた藤浪が言っていた「お人好し」そのものに成り下がっている。
真沙子はふたたび涼紀に視線を戻しそこでも、あらためて詫びた。
「すいません、涼紀さん。酔うと、あたりかまわず寝るようになったのは最近のことで、自分でも注意していたつもりなのに、またやっちゃった」
「何か飲みます?」
「いえ、これでいいの」
 真沙子が手にしたのは、先刻、ヒトミがこしらえたウイスキーの水割りが、ほとんど手つかずのまま残っていた。氷はすっかり解け見えない。
 寝込む前の、のど飴を巡っての大騒動を覚えているのだろうか、と涼紀は、ためしに言って見た。
「ウイスキーを飲むときには、のど飴がいるんじゃないんですか?」
「のど飴?」
と訊き返す真沙子の表情には、わざとらしさは微塵もなかった。
「のど飴って、何のことかしら」
「いえ、いいんです、それなら」
「そういえば、さっき、涼紀さん、お話があるとか何とか言ってなかった? それも夢だったかしら」
「夢じゃありません。わたしそう言って起こしました」
「そう、やっぱり。よかった、記憶がまちがってなくて。お酒を呑むと記憶があやふやになったり、抜け落ちたり、ほんと、あとで思い返すと、ぞっとするようなことが、けっこう多いのよね、私」
 
四十七という真沙子の年齢を思い浮かべながら、涼紀は訊き返す。
「それも最近からですか」
「いえ、うんと若いころから。それで悩んだりした時期もあったけど、いまは、もう反省はしないことにしているの。だって、きりなく反省しなくちゃならないし、私の場合は前の反省が終わらないうちに次の反省がかぶさってくる。そうなると休みもなく次々と反省ばっかりすることになって、私の人生は反省だらけで、ほかのことをする暇もなくなるのよ。だからね、やめたの、反省するのは、それじゃあ、そもそも反省する原因となることをやめれば、という考え方も、もちろんあるわよね。
でも、それは、私から言うと、人間のできている人の言うこと。賢くて立派な人間の言い草。私には、とうてい、できっこないこと。この、自分にはできっこない、という見極めができたこと自体、私としてはおおきな進歩なの。だから悩まなくなったわ」

 ふざけているのではなく、いたってまじめな顔つきでそう語る真沙子に、涼紀はつかのま引き込まれていた。
 実年齢は四十七歳、けれど、一見したところは三十代後半にしか見えない真沙子には、奇妙な魅力がそなわれていることを、涼紀は、たったいま気づかされていたのだった。
 アンバランスな魅力とでもいったらいいのだろうか、外見は三十代の後半と称しても通用するのに、その言動は人生を捨てばちにあきらめきった老女のようでもあったり、その反対に先刻のように六、七歳のわがままな子供にもどって「のど飴」をせがみつづけてやまなかったりもする。

 ただ、それを魅力と感じるのは涼紀の側の受け止め方で、ひとによっては、単に「情緒不安定な、扱いの厄介なおばさん」と見なすむきもあるだろう。

 しかし涼紀は、真沙子の持つ、どこか未成熟でヒリヒリした雰囲気が、やはり、嫌いではなかった。
一歩一歩、着実に年齢を積み重ねてきた者なら、こういった、危うい雰囲気はない。どこかで大きくコケたり、はみだしたり、大暴れしたり、キレたりといったことを何回となく繰り返し、それでも、なお痛い目に懲りないというか、そこから学習できないというか、そういう性分の人間ならではの雰囲気が真沙子にはあるのだ。十代とか二十代の前半の女性ならともかく、四十歳をすぎて、いや、五十歳を目前にひかえて、こういうタイプの女性がいるとは、ちょっとした驚きでもあった。

「それで涼紀さん、私に話っていうのはなに?」
 氷の解けてしまったウイスキーの水割り、というより、生温そうなウーロン茶にしか見えないそれで軽く唇を湿らせたあと、真沙子は、まるで身構える様子もなく、促してきた。三十分の仮眠で酔いが抜けきったとは思えないけれど、その表情口調には酔っぱらい特有のルーズさはなかった。

「はい?・・・・あ、そうでした。ええ、お話があるんです」
 背後のボックス席でヒトミと藤浪は耳を澄ませて、こちらに注目しているのを目の端にとめつつ、涼紀は、まず大きく息を吸った。
「立ち入った質問なんですけど」
「そう、立ち入った話なのね」
「あのですね、うちの夫のことなんですけれど・・・・いいですか?」
「そのままつづけて」
「昨日の話では、うちの夫と山田さんはお友だちとか」
「ええ」
「ただ近頃は、お友だちといっても、いろいろなバリエーションがあるし、ですから、どういうつきあいのお友だちなのか、もう少し詳しく説明してもえたらって」
「いいわよ」
 やはり真沙子はあっさりと頷いた。
「涼紀さんがいちばん知りたいポイントは?」
「単刀直入にお聞きしていいですか」
「じゃあ言ってみて」
「山田さんとは夫は体の関係はあるんでしょうか」
「・・・・うん・・・あるのよ、これが」
 一瞬、行き詰る沈黙が流れた。
 涼紀は呆然と言葉もなく真沙子を見返した。あるいは、と思いながらも、それは自分の考えすぎだろう、と内心ではタカをくくっているところが多分にあったのだ。「そうなのよ」
 と真沙子は涼紀にむかって申し訳なさそうに繰り返した。
「信じられないかもしれないけど、いまさら、ごまかしても仕方ないし・・・・でも、これだけは信じて、彼と最後にそういう関係を持ったのは、あなたたちご夫婦が別居にふみきった直後で、そのあとは、ぱたっとなし。この一年ぐらいは、まったくやましさのない友だちづきあいになってるの」
 それから真沙子は正面切って涼紀を見つめ、きまり悪そうに目をしばたきつつ、
「ごめんなさい」
 のひと言とともに、ひょっこりと頭を下げた。
「きのう典比呂さんのマンションで鉢合わせしたときは、どうやってこの場をごまかそうかってことばかりに頭がいっちゃって・許してよね」
 ショックが少しずつおさまってくるにつれて、涼紀は体がふるえるような怒りにとらわれてきた。
「それじゃあ、夫と私が離婚したがったのは、つまり、要するにあなたが原因ですかッ」
「おそらくそうなんじゃないかって・・・・」
「おそらく? いまさら白を切る必要なんてないでしょッ」
「でも本当にそうなのよ、私にもはっきりしたことはわからなくて」
「いいですか、夫は私にこう言ったんですよッ。おれは女性より若い男の子のほうが好きだ、それをごまかして生きたくない、だから、この際、離婚してくれって」

「彼が涼紀さんにそんなふうに言ったことは、私も聞いています。涼紀さんをいたずらに傷つけないためには、若い男の子が好きを理由にするのが妥当だろうという判断から。実際、それは、あながち間違いじゃないし」
「間違いじゃないし? どういうことですかッ、それは」
「彼はバイセクシュアルだもの」
「今となっては、それだって眉唾ものですよ。あなたの存在を隠すために、バイセクシュアルって言ったにすぎないのかも知れませんからね」
「いえ、彼はそうなの。彼が、きれいな子だなあって、見とれたり、感心するのは、みんな男の子。女のひとの外見を褒める言葉なんて、私、いちども聞いたためしがないわ。涼紀さんはある?」
「・・・・・・」
 言われてみると、なるほど、そのとおりだった。けれど、それは、容姿に自信のない涼紀への思いやりとばかり受けとめていた。

「女性の外見にまでこだわらない、というか、美しさの対象は若い男の子にかぎられているから、だから彼は平気で十も年上の私とかかわったりするし、きのう、はじめて涼紀さんにお会いして、そのことを、私、もっと納得したわ。彼は、ほんとに外見で女性を選んでないんだなって。涼紀さんと私、その点じゃあ似た者同士よね」

 皮肉ではなく単に正直に言っているつもりの真沙子らしかった。そのニュアンスが感じられるため、涼紀もむかっ腹を立ててかみつく気勢をそがれた。
「・・・・・真沙子さん、夫とはいつからなんですか?」
 そこではじめて真沙子は言いよどんだ。
「ええっと、きのうも言ったように、ここ二、三年になるかしら」
 真沙子の目は落ち着きもなく宙を泳いだ。五十に近い年齢にしては、とっさの噓がつけない性分なのだろう。
「噓でしょ」
「えっ?」
「だから二、三年のつきあいなんて言うのは嘘」
「知ってるの?」
「知っているわけがないでしょうが。でも、真沙子さんの顔に嘘だって書いてある」
 真沙子は助けを求めるように、背後のボックス席で藤浪と一緒に聞き耳を立てているヒトミに声をかけた。
「ヒトミさん、悪いけど、私に一杯お酒をくださらない? 水割りじゃなくて、ウイスキーのオンザロックか何か」
 ヒトミは待ってたばかりに張り切って腰を上げ、足早にカウンターにやってきた。その顔は、ふたりの仲間入りができる嬉しさからなのか、真沙子に助け舟を求められる喜びのせいなのか、いきいき輝いている。
「お酒はいくらでも差し上げますよ。でも、真沙子さん、せっかく酔いがさめてきているようなのに、また飲んでもいいんですか」
 言いつつ、すでにヒトミはカウンターのなかに入り、片手でオンザロック用のグラスを棚から取り出し、もう片手でウイスキー壜を握りしめ、そのあいだもサービス精神まるだしのにこやかさだった。真沙子に気に入られようと、歓心を得ようとする下心がみえみえで、つかのま、涼紀はヒトミを憎んだ。どっちの味方か、わからなかった。

「だって、こういう話は、とても素面じゃできないわ、ねえ、涼紀さん」
 ねえ、涼紀さん、の言い方が、いかにも親し気で、思わず涼紀も「はい」と答えそうになったけれど、辛うじて踏みとどまった。
 ヒトミは涼紀にも愛想をふりまいた。接客用の笑顔だ。
「涼紀さんも何か飲む?」
 涼紀は、わざと当て擦りめいた力強さで返答した。
「水ッ。水でいいのよ、私は」
 ボックス席にひとり取り残された藤浪は、帰る様子もなく状況を見守っていた。好奇心から居残っているのか、万が一にも物騒な事態に陥った場合の用心棒のつもりなのか、いずれにしろ、見たところ酔ってはいない。

 真沙子の前にオンザロックのグラスが、涼紀の手元には氷と水の入ったグラスが置かれた。そのままヒトミはカウンターの内側に佇んで、離れようとはしない。
 涼紀はもう破れかぶれの心境だった。
「真沙子さん、先ほどの話のつづきですけれど」
「ええ、なんだったけ?」
 ウイスキーのグラスを前にして、真沙子は、にわかに余裕を取り戻したようだった。いくらかアルコール依存症気味なのかもしれない、と侮辱まじりにちらりとそう思った一瞬後、典比呂がかかわっているのが、このひとなのだ、という事実に思い至って涼紀は愕然とした。
(よりにもよって、十も年上の、酒乱気味で、アルコール依存症気味の女性と、どうして夫はこういうことになったのか、物好きにもほどがあるッ)

「夫とはいつからの関係なんですか」
「・・・・・・・」
「真沙子さんッ、答えてくださいッ」
「わかった、わかりました」
 と言ってから真沙子は、おもむろにグラスを口に運ぶ。ほどなくカウンターに戻されたグラスは空になっていた。そのグラスに、ヒトミがいそいそと、あらたな一杯をつぐ。
「涼紀さん、怒らないって約束してくれない?」
「そんな約束できません」
「ま、冷たい」
「真沙子さんに、冷たいなんて言われる筋合いはありません」
「そりゃそうだわね」
「早く答えてください。へたな時間稼ぎはやめて」
「バレてるか、時間稼ぎは」
「当たり前でしょう、さ、早く、さっさと言ってみてください」
「ええとね・・・・ええと・・・・あなたたちが結婚して半年後からだから約五年半前、いえ、約六年半前ってことになるかなあ」
 またもや涼紀は絶句した。
 自分たちが結婚して、たった半年後に始まったというのか、夫と真沙子の関係は。そんなに早くから。
「ごめんね、涼紀さん」
 真沙子は口先だけではない感情のこもった詫びをもう一度口にした。
「私と典比呂さんは知り会ったときから、ひどく気があっちゃって、いえ、気があいすぎて、おたがいに、こりゃまずい、という危機感はあったのよ。典比呂さんはすでにあなたと結婚していたしね、でも男女の仲って困ったもので、頭ではいけないとわかっていても、近づいてしまう・・・・いっぺんは別れたの、知り合ってから数か月後に。で、また、くっついて、また別れてを、何回も繰り返して・・・・私はね、そういう間柄でもいいと思った。ところが彼は、けじめをつけたいと、一方的に言いだして、で、涼紀さんに離婚を言い出したわけ。そのときも、私は反対したの。私はこのままでいいのだから、何も離婚することはないって・・・・・」
 ヒトミがそこで口を挟んだ。
「ちょっと考える男っていうのは、このままでいいって女が言えば言うほど、このままじゃいけないって、へんに男気をだして、けじめを付けたがるんだよね。そういう男の一本気さ、私は、嫌いじゃないけどもさ」
「涼紀さん、もう少し私に言わせて」
 真沙子の片手が伸びてきて、カウンターに乗せていた涼紀の腕に軽く触れた。
「典比呂さんの言うけじめは、正直言って、私には重荷だったの。だって、私は、すでに四十代で、人生の面倒くさいことは、もう、できるだけやりたくない気分だったの。しかも、他人のダンナさんを奪い取るなんて、考えただけで手に余る。ところが、私が正直にそう言っても、彼は、それさえも私の奥ゆかしい心根と解釈してしまうみたいなのね。全然違うのに・・・・」
 ヒトミがふたたび寸評をはさむ。
「男って勝手に女を美化したがるロマンチストだからねえ」
 その手はウイスキー壜をわしづかみにし、いつのまにか、空になっていた真沙子のグラスに傾けた。
 真沙子がため息まじりにつづけた。
「彼が涼紀さんに離婚を切り出すって言ったとき、私はとめたの。私の心の準備はできてなかったし、やっぱり、そんなことまでしてもらったら、こっちが困るっていう気持ちから。でも、彼は、あなたに言っちゃった。その話をあとで聞かされて、私もびっくり。頭をかかえたわ」

 ヒトミが小意地の悪いまなざしで真沙子を一瞥して言った。
「でもさ、真沙子さん、嬉しかったんじゃないの? そのときは」
 ヒトミはだれの味方でもないらしかった。
 真沙子はむっとしたように言い返した。
「あるいは二十代のころならね。でも私は四十代半ばで、しかも相手は十も年下。嬉しいよりも、怖ろしくなったわよ、先々の厄介なこととか大変さを考えると。それで、あなたたちが別居してからの、この一年と数か月、私の酒量はどんどん増え続けて、どうしようもないの。あれこれ思ったり考えたりすると、お酒を飲んで紛らわせるしかなくってね」

ヒトミが再度コメントする。
「嬉しいより重荷か・・・・・その憂さを晴らすためにアルコールに逃げる・・・・」
「そう、飲まずにはいられない」
 言いつつ、真沙子は、またしても一気にグラスを空にした。
「そして案の定、私の危惧は的中したのよ」
真沙子は涼紀に頷いてみせた。
「あんなに強引に別居にふみきったのに、いえ、強引だったからこそ、典比呂さんは、いまになって、精神的なリバウンドに襲われている」
「リバウンド?」
ようやく涼紀は聞き返した。それまでの真沙子の話は、涼紀の想像をこえていて、訊き返す言葉も見つからなかったのだ。まるで赤の他人のことを聞いているようだった。

「そう、今頃になって、涼紀さんを哀しませたり、傷つけたことに対する罪悪感に苦しめられているわ、彼は。別居するまでの意気込みとか興奮とかが、ようやく醒めて、平常心にもどってみると、しみじみ涼紀さんに悪いことをしたって気づいたんでしょうね。そうなるのが予測できたから、そう簡単に離婚だの別居だのと言い出すなって、私はあれだけ言ったのに」

 ヒトミが勢い込んで尋ねた。
「その罪悪感っていうのは、早い話、涼紀さんとよりを戻したいというか、別居をやめて元の鞘に戻りたいってこと?」
「さあ、どうなんだろ」
 真沙子は投げやりに、かったるく答えた。
「罪悪感だけじゃなく、涼紀さんへの未練もあるんだと思うけど、彼自身、自分がどうしたいのか、きっとわけがわからなくなっている状態じゃないかしら。私だって、そういう彼につきあっているのに、くたびれちゃった。涼紀さんのところに戻りたいのなら、そうすればいいって気持ち。私と涼紀さんのふたまたかけて、そこそこに苦悩してた時の彼の方が、よっぽどセクシーでチャーミングだったのに。私だって彼に、ふざけんじゃないッ、って言ってやりたいのは山々なわけ・・・・私も疲れたわ・・・・ヒトミさん、おかわり。たっぷりついで」
「はい、はい」
 冗談じゃないッ、涼紀は胸のうちで吐き捨てた。
(そんな勝手にやられてたまるものかッ。別居するのも、よりをもどすのも、典比呂の一存でどうにでもなるなんて、そんな勝手は許さないッ)
 離婚話が突然持ち出されてから約二年、別居してからも一年四ヶ月がたち、きょうまでの自分の心の浮き沈みを振り返ったとき、それは、とても、たった二年とか一年と四ヶ月の短い月日には思えなかった。ありとあらゆる感情を味わい尽くした日々は、現実のそれよりも数倍の年月の重みを涼紀の心に投げかけていた。もはや涼紀は別居する前の涼紀ではなく、いまだに典比呂に未練はあるといえ、以前と同じような気持ちで彼と接する自信も信頼感もない。真沙子の出現で、急に自信が失せたのではなく、離婚のひと言を突きつけられてから、少しずつ涼紀の心から欠けていったものだった。歳月が日ごとに欠けていき、やがて細い三日月にやせ細っていくように。

 店のドアが開閉された。
 典比呂だった。
 青ざめ、強張った顔つきのまま、大股でカウンターに近づいてくる。涼紀の姿が目に入っていないはずはないのに、ちらりとも見ようとはしなかった。
「真沙子さん、帰ろう」
 のど飴の騒ぎの際に、涼紀と真沙子が彼の留守番電話サービスに伝言したのを聞いて、やって来たのだろう。
 真沙子はつづけざまに飲んだオンザロックの酔いがまわってきたまなざしで彼を見上げた。
「・・・・あら?・・・・のりちゃん、どうしてここに・・・・」
「伝言に、あなたの喚き声が入っていた」
「えっ、私そんなことした?」
「とにかく帰ろう」
 椅子から立ち上がった真沙子は、そのまま足元をふらつかせ、床にへたりこんだ。
 典比呂は顔をしかめるのでもなく、すかさず屈みこむと真沙子へと背中をむけた。
「ほら、背中にのって」
「・・・・ごめんね、酔っちゃった・・・」
 あうんのその呼吸、それは今夜がはじめてでないことを物語っていた。
そして真沙子は典比呂におぶさり、典比呂もそこにいる他の三人を徹底して無視し、そうやって、ふたりは店を出ていった。
「ちょっと、なんなのよ、あれッ」
 店のドアが閉まると同時に、ヒトミが怒鳴るようにして言った。
「彼が、つまり、涼紀さんのご亭主なのか? のりちゃんとか言っていたけど・・・・・・おいおい、それりゃあ、ないだろう」
 藤浪も興奮気味に声をうわずらせた。
 涼紀は夫と真沙子が消えたドアを見つめ、身じろぎもしなかった。まばたきすら忘れて見開きつづけた目の表面が、乾いて痛痒い。涙は一滴も出なかった。


 Ⅻ
 夫の彼女である山田真沙子がふらり「デイジー」にやってきて、あとから現れた典比呂に背負われて帰っていったのは十一月はじめの月曜日だった。
 典比呂が真沙子をおぶった姿は、涼紀の目に一生忘れることのない強さで焼き付いた。
 これまで涼紀は、ふざけてでも典比呂に背負われたためしは一度もなく、なのに山田真沙子には、やすやすとそしてやった、という事実も涼紀の気持をえぐった。

 心の傷は深く、だから涼紀はその一件にふれるのは避けた。
 ヒトミがそれとなくあの晩のことを蒸し返そうとしても、涼紀は、ひと言のもとに、はねつけた。
「ほんとにいやなことは、ひたすら忘れるしかないのよ」
 忘れるためにも涼紀は「デイジー」の仕事にうちこんだ。
 これまでオーナーのヒトミの影にかくれ、補佐的な役どころに逃げ込んでいたけれど、あの日を境に、涼紀は、いちいちヒトミの指図を待つまでもない気働きぶりをはっきりしたことはわからなくて」しはじめた。

 相変わらず、どうやって客に愛想をふりまけばいいのかはわからなかったけれど、客の話にじっくり耳を傾けたり、ときおり神妙に感心して見せるタイミングのこつは、その気になってみれば、そう難しいことでもなかった。
 一日ごとにヒトミの手づくりで出していたお通しも、涼紀のほうから言いだして、週に二日は涼紀が担当するように取り決めた。
「できるかい? 大丈夫かな。無理をしなくていいんだよ」
 とヒトミは、急激な涼紀の積極性にとまどいをかくさなかったけれど、出来上がった料理の味に満足したらしく、それからは、二度と止めようとはしなかった。お通しづくりのために、週に二日は、これまでより一時間は早い四時出勤になったものの、それも、涼紀には少しも苦にならなかった。

 義母の晴子に店から電話して、酒場勤めをしている、と打ち明けたのも、十一月も中旬に差し掛かる前である。
 予想通り晴子は、反対したい本心を巧妙に伏せて、とりあえず涼紀に同情して見せると言ったポーズを前面に押し出して来た。

「典比呂ったら、そんな苦労を涼紀さんにさせてるの? 月々の生活費はちゃんと振り込むように、あれだけきつく私が言ったのに」
「いえ、お義母さん、生活費はきちんといただいています」
「あら、そうなの? ほんとに? 相手が私だからって、あの子をかばう必要はないのよ」
「ですから、さっきも言ったように、私が働きたくて、パート先で知り合ったヒトミさんに誘われたんです。それが、たまたま酒場だっただけのことで」

「でも夜の仕事は何かと大変でしょう? 生活も不規則になるだろうし」
「色気を商売にしている店じゃないので、店が終わってからお客さんとつきあうこともなくて、だから、きっと、お義母さんが想像しているのよりも規則正しい毎日だと思いますけれど」
「典比呂は、もちろん、知っているのよね」
「はい、ときどきはお店に顔を出してくれます」
「あの子ったら私には黙っていたわ」
「お義母さんに心配させたくなかったんじゃないでしょうか」
「涼紀さん、つらい目にあっているんじゃないの? こういう言い方はなんだけれど、あなたは、けっして客商売に向いている性格ではないから」
「ええ、私も自分でそう思いますけれど、オーナーのヒトミさんは、そこが面白がってくれているみたいで」
「ねえ、涼紀さん、あなた、何か商売をやりたいのなら、私、相談に乗りますよ。夜の接客業じゃなく、女性相手の昼間のお店のほうが、あなたにはあっているはずだから、そういうプラン、いまから立てても遅くはないわ」
「ありがとうございます。でも、しばらくは、ヒトミさんと一緒に”デイジー”をやっていきたいと」
「デイジー? “デイジー”っていうの、そのお店?」
「はい。じつは、こうしてお電話したのも、そのうち、お義母さんにお店にいらっしてもらえたらと思いまして」
「そうねえ、いっぺんは、この目で見てみたいわね。涼紀さんの顔も、しばらく見ていないし」

「そちらのお店の従業員の方々とか取引先の業者さんたちにも、ぜひ紹介していただくと、有難いのですけれど」
 晴子は仕出し料理と仕出し弁当屋の女社長で、三十名の従業員を抱えている。
「うちのスタッフや取引先に?」
「ええ、もうじき忘年会シーズンにもなる事だし、二十名は座れるボックス席もありますので。いえ、カウンター席もあるんですよ。そちらのご予算に応じて、いくらでも用意いたします。この前などは、ひとり千円、二時間飲み放題という団体さんもありました」
「・・・・・・・」
「もしもし、お義母さん?」
「・・・・・・聞いていますよ・・・・・しかし、たまげたわね、涼紀さん、あなた、わかっている? あなた、たったいま、私相手にお店の営業やったのよ」
「そのために、お義母さんに、こうしてお電話しました」
「いつから、そんなに逞しくなったの?」
「典比呂さんに一方的に離婚を突きつけられてからというもの、いろいろと人生勉強させてもらっています」
「ほらほら、その言い方よ。以前のあなたなら考えられなかった言葉じゃないの、そういうのは」
「ほめていただいているのでしょうか?」
「そ、褒めてるの。ね、涼紀さん、いっそのこと、うちの仕出しの仕事を手伝ってみない? あなた、きっと伸びるわ」
「でも、もしかすると典比呂さんといずれ離婚するかもしれませんし、そうなると、お義母さんと私の関係もややこしくなりますし」
「そのときはそのときよ。そうなってから考えればいいじゃない。典比呂はうちの仕事には、まるで関心も興味もないんだから、そういう子より、あなたのほうが、なんだか、よっぽど強い気がしてきたわ」
「でも、お兄さんご夫婦がいらっしゃいますから」
「お兄ちゃん夫婦にあなたが加わっていれば、もっと心強い・・・涼紀さん、私も、もう六四よ」
「わかりました。でしたら、そういうご相談を含めて、ぜひ、”デイジー”におこしいただければと」
 電話を切ったあと、カウンターの内側でグラスを磨いていたヒトミが、
「ふうん」
 と、いかにも感心したように言った。
「五月にここをオープンしたときの涼紀さんとは、まるで別人だね、まったく。あのときは水商売を恥じて、誰にも内緒なしたがっていたのに」
 いくらか皮肉交じりのそれに、涼紀は、ひるまずに言い返した。
「この半年、私は鍛えられたもの、変わって当然でしょ。もう、だれに。どう思われようとも、構やしないって気持ち」

 居直るきっかけは、やはり典比呂だった。
 彼に悪く思われたくない、嫌われたくないという一念が、かつての涼紀には、つきまとって、離れなかった。目の前に典比呂がいない場合でも、涼紀のなかに涼紀自身が勝手に植えつけていた彼の目が、たえまなく涼紀の言動をチェックしつづけていた。

 けれど、山田真沙子を背負ったあとの姿を見た瞬間、涼紀のなかにあった彼の目は、またたくまに消えた。あってもなくても、どうでもいいチェックだった、とようやく悟ったのだ。いくらチェックして彼に合わせようとしても、典比呂は、もはや涼紀をみていない、という現実を、いやというほど思い知らされた。山田真沙子を背負いつつも、あるいは典比呂が、ちらりとでも詫びの眼差しを涼紀に走らせたらなら、チェックはつづいていたかも知れない。しかし、典比呂は見事に無視した。まるで眼中にないという態度をとった。それは多分、典比呂が思っていた以上に涼紀の心をずたずたにしたのだ。
「それで、典比呂のおかあさんは、近々この店に来てくれるって?」
「さあ、どうかしらね、家業の仕出し屋を手伝ってみないか、なんて、いきなり言いだしてびっくりしちゃった」
「家業を手伝えって?」
「お義母さん、体調を崩して弱気になってるのかもしれない」
「涼紀さんはどうなの? その気はあるの?」
「まさか。夫とこの先どうなるか分からないのに、夫の実家の商売を手伝うほど、私はまぬけでもなく、お人好しでもないつもり」
「へえ、そうなんだ」
 こころなしかヒトミがほっとしたように見えた。
 しかし涼紀は、このまま長く酒場勤めをつづけていこうとは考えていなかった、酔っぱらい相手の仕事は、楽しいよりもくたびれるし、くたびれるということは、やはり、自分には向いていないのだろう。「洋食・ひかりや」の洗い場のパートだった時の方が、給料はうんと安かったけど、疲れるといっても、それは体力的なことにかぎられていた。その反対に「デイジー」での疲れは、もっぱら気疲れで、へんにストレスがたまっていく。

 といっても「デイジー」を辞めたあとの仕事はなく、ヒトミと仲たがいしたわけでもないのだから、当分は、このまま酒場勤めをつづけるつもりだった。
 そしても当分は、というのが、いつまでか予測はつかないけれど、働くからには、目一杯努力しよう、と涼紀は、あらためて気持ちを立て直したのだ。そんなふうに仕事に打ち込んでいなければ、余計なことばかり考え込んでしまいそうで、涼紀は、そんな自分が嫌だった。

 典比呂からの連絡はなかった。
 彼にしても、自分たちの関係を涼紀に打ち明けたと真沙子から聞かされ、涼紀にどう申し開きしたらいいのか、おそらく困惑し、途方に暮れているのだろう。
 あるいは、典比呂としては、涼紀が何も言ってこないのをいいことに、成り行きを見守り、涼紀が連絡してきたそのときに、相手の出方次第の対処の仕方をするつもりかもしれなかった。

 しかし涼紀は、このままずっと典比呂から電話がかかってこないことを願っていた。もちろん、自分からは決してかけない。
 典比呂を許せなかった。
 許せないまま話をしたら、冷静さを心掛けているつもりでも、途中でそんなことは忘れきって怒りをぶちまけ、夫を罵り、騙されていた恨みつらみを延々とまくし立てるのは目に見えている。
 だが、その一方で、
(そうやって夫を責め立てて、いまさら、どうなるのか・・・・どうもなりはしない・・・・)
 と醒めている自分もいる。
 半分は醒めながらも、しかし、典比呂の声を受話器のむこうに聞いた瞬間、怒りがこみあげてくるに違いない自分も確実に予測がつく。

 気持が定まらないうちは、電話もせず、会いもしないでいるのがいちばんだ、というのが、涼紀の辿り着いた結論だった
 離婚をするしかないかについては、まだ何も考えられなかった。
 ごまかし、噓をついていた夫が許せない、という段階で感情がストップし、そこの怒りが堂々巡りをしている状態なのだ。

 ただ、山田真沙子に対する気持は、不思議と、典比呂にたいするよりも、穏やかだった。
 アルコール依存症気味の、酒乱気味の、もう決して若いとはいえない四十七歳の女性・・・・しかも、その行状、醜態を目の当たりにし、よりもよってこんな女と、と夫の悪趣味を笑い、彼女よりも私の方がよほどましじゃないか、と優位性をくすぐられたせいかもしれなかった。また、真沙子が敵愾心もあらわに涼紀に対応してきたのではなく、いたって友好的で親しげだったのも、涼紀の出鼻をくじき、それがそのまま尾を引いてもいた。

 夫の典比呂と、妻の自分と、夫の彼女である山田真沙子。
 この三角関係でライバル同士となるのは、妻の自分と夫の彼女の真沙子のはずなのに、涼紀は、なぜか、どうしても山田真沙子をライバル視することはできなかった。
 妻である涼紀の敵は夫の彼女ではなく、夫そのひとという気がしてならない。
 自分はバイセクシュアルだと打ち明け、真沙子もそれを認めていたように、それは事実らしいのに、離婚してまで真沙子に誠意をつくそうとした典比呂の、わけのわからない、矛盾した行動そのものが、涼紀の敵だった。
 山田真沙子のほうも、十一月のあの夜以来、音沙汰は途絶えていた。

 やり場のない気持ちを辛うじて仕事で紛らわすうちに十一月は終わり、涼紀は三十五歳を迎えた。
 忘年会シーズンたけなわの十二月は、二次会、三次会で流れてくる団体客をもてなしたり、さばいたりで追われ、あるいは、一年のしめくくりとばかりに深酒をして、ぐだをまく酔客を、なだめすかしているあいだに、毎日が過ぎて行った。
「デイジー」の正月休みは大晦日と元旦だけで、二日から営業をはじめた。この件に関してヒトミと涼紀の意見は一致した。
「涼紀さん、正月はどうすんのさ?」
「うちはぶらぶらしてる」
「田舎の実家でかい?」
「まさか。別居のことは実家にはまだ内緒だもの。ヒトミさんは?」
「大晦日だの元旦のどっちは親んとこ顔だししようと思っている。予定はそれだけ」
「あら、ご両親はまだ健在なの?」
「八十すぎのおふくろだけだけど、この街のはずれのほうで兄夫婦と暮らしている。一日ぐらいは我慢できても、二日もいるところじゃなくてね、そこは」
「じゃあ、おたがいに、そんなに長く正月休みを取ることもないじゃない」
「私は別として、涼紀さんはゆっくり休んでもいいだよ」
「ゆっくりすると、ろくなことは考えないから、私の場合は」
「なるほどね」
「お店を開ければ、それだけでお客さんも来てくれるかもしれないし、売上増にもなるわ」
「頼もしい言葉だ。うれしいね」
「じゃあ、二日から新年スタートということに」
「そういえば、典比呂さんのおかあさん、店にこなかったね」
「社長という立場をわきまえているせいか、何かを行動するにも、すごく慎重なひとなのよ。臆病というのじゃなくて」
「ふうん。きっと賢いひとなんだろうね」
「私もそう思う」
 十二月三十日の店じまいの日に最後まで残っていた客は藤浪で、正月二日の仕事始めの一番乗りの客も藤浪だった。

 典比呂が山田真沙子を背負った場にも居合わせていた彼は、涼紀への同情心を、ヒトミと涼紀の前ではかくさなかった。
「涼紀さん、かわいそうになあ、かわいそうすぎるよ、まったく。だって、あれはないよ、あれはね」
 最近では酔って来ると必ずこうつぶやきだす。言わないときがない。だからヒトミと涼紀は、藤浪がこのセリフを口にし始めると、彼の前のウイスキー壜取り上げる。
「これ以上呑むと体によくない」
 藤浪は素直に頷き、おとなしく帰っていく。手のかからない酔っ払いだった。それでいて、他の誰よりも、もっと足しげく「デイジー」に通いつめてくれる、ありがたい客にも、いつのまにかなっていた。

「もう何も弁解はしないよ。真沙子さんがきみに話したとおりだ」
 典比呂は視線を落として、物静かにそう言った。頬の肉がこそげ落ち、それが線の細い印象を強めて、かえって若々しくなったように見える。
 年があらたまった二月三週目の日曜日の午後だった。
 ふたりは街中のホテル一階のコーヒー・ラウンジの奥まったボックス席で、テーブルをあいだに向かい合って座っていた。
 二日前に典比呂が電話をかけてきて、場所と午後三時の時間を言って来たのだ。
「とにかく、一度会わなくちゃいけないと思うんだ。いや、状況が変わったとか、そういうことじゃなくて、いまのおれの気持ちを、きちんと話すべきじゃないか、と」
 涼紀の怒りは消えていなかったけれど、しかし、それを、もろに典比呂に叩きつけるほどの勢いは、この三ヶ月の間になくなっていた。
「頼むよ、涼紀、会ってくれないか」
 真に迫った懇願口調でそう言われると、やはり、むげには拒否できなかった。
 そして、三日目のきょう、しばらくぶりで会った典比呂を前にして、涼紀は、思いがけずにわきあがってきた夫への未練に、心中ひそかにうろたえていた。それを夫にちらりと気取られたくはない、と知らず知らずに肩に力が入っていく。

「真沙子さんと知り合ったのは結婚して半年後だった。だから、きみと別れることなど考えられなかったし、おれも、どちらも両立できる自信があったんだ、当時はね。でも、結局、四年半、悩みつづけることになってしまった」
 気持ちと裏腹に涼紀は挑戦的な語調になっていた。
「真沙子さんのどこがいいわけ?」
「ひと言では言えない」
「でも、あなたは最終的に私じゃなく彼女を選んだじゃないの」
「・・・・・こういう言い方は卑怯かもしれないけれど、選んだじゃなくて、彼女にハマってしまっただけだ」
「この際、言葉遊びはやめてよ、ハマっただなんて」
「しかし、そうとしか言いようがないんだ」
「私もこういう言い方はしたくないけど、でも彼女は、あなたより十も年上の、しかも、アル中気味の、酒乱気味のひとよ。ふつうなら、かかわる前に逃げ出すんじゃないの、たいがいのひとなら」
「きみは理解できないだろうが、おれは、そこに惹かれてね、彼女の破綻したところに」
「破綻のどこがいいの?」
「わからない。理屈じゃないんだ。ただ、彼女はおれに似ている・・・・・」
「あなたに? まさか。ぜんぜん似てやしないわよ」
「おれが心の底に押しやり閉じ込めているものを、彼女は、ああして、呆気からんと、だれの前でもやってしまう。破綻している自分をさらけだして恥じない」
「あなたはバイセクシュアルじゃなかったの?」
「いまもそうだよ」
「じゃあ、真沙子さんとはどういうことよ」
「彼女は特別なんだ」
「ごまかさないでよ。いい? 私から言わせると、あなたは結局のところ、マザコンだった。その証拠が、うんと年上の真沙子さんってことでしょ」
「あのな、きみの、そういう単純な発想が、おれには物足りないんだ」
「悪かったわね、頭が悪くて」
「でも、そこがよくて、きみと結婚したのも事実なんだ・・・・・これは本当だよ」
「じゃあ、聞くけど、真沙子さんは頭がいいの?」
「うん」
「アル中で、酒乱なのに?」
「素面のときは頭のいいひとなんだ」
「へえ、そんなひとがいるの」
「ただ、頭が良すぎて、おれが疲れることもある。おれの全てを見透かされているようで」
「贅沢ってものよ。それは」
「わかってる。わかてるけど、これが男の勝手というもので、ときどき休みたくなる」
「ばかな女の傍で?」
「涼紀はばか女じゃないよ」
「だれが私がばか女だって言った?」
「そうだな、ばかなのは、このおれだ」
「当然でしょ」
「もっとばかなことを言ってもいいかな」
「まだあるの?」
「・・・・・・あのなあ、ときどきでもいいんだけど、そう、ときどきでいいんだ。つまり、そっちのマンションに帰ってもいいかなってこと」
 涼紀はとっさに典比呂を見返した。
「そんな顔をしないでくれよ・・・・・・いや、別居してよく分かったんだ、おれには、きみも必要だってことが」
「きみも?」
「虫のいい話だってことは十分に承知してるよ。でも別居してから一年と七か月、おれは彼女と別れることはできなかったし、きみを失うことにも耐えられないって、しみじみ痛感した。身勝手このうえない自分についてもね」

 いったんは薄まっていた怒りが、ふたたび涼紀をつつみこんだ。ひと呼吸置いて、怒りを押し殺してたずねた。
「彼女は、真沙子さんは、そういうあなたの気持ちを知っているの?」
「ああ、いや、むしろ彼女の方からそれを指摘してきたんだ。いそいでどちらかを選ぶようなことをしたら、あなたはきっと後悔するだろうって」
「ときどき私のマンションにくることを許してくれたの?」
「許すというか・・・・まあ、そういう言い方じゃなくて、あなたの好きにしたら、とは言ってくれたよ」

 一瞬、涼紀はその光景を想像した。真沙子が十一月に「デイジー」にきたときにかわした会話を下敷きにして思い浮かんだそれは、真沙子がうんざりとした表情で、投げやりな調子で典比呂に言っている姿だった。
(もう私はどっちでもいいの、あなたの好きにしたら)
 涼紀は典比呂と目をあわさないように、ラウンジの出入口へと視線を泳がせつつも、きっぱりと言った。
「悪いけど、私の所には来てもらいたくないの」
「やっぱり、だめか・・・・」
「いろんな思いを味わって、ようやく最近になって、私の気持ちも落ち着いてきたの。あなたと別居した現実を受け入れられるようになった。それなのに、ここで、また振り出しに戻るなんて、とても私には考えられないわ」
「でも、こうやって、たまに会うく゛らはいいいだろう?」
「約束はできない。そのときの私の気分次第で会うか会わないか決めるとしか」
「おれはそれでもいい。ぜったいに会わない、と言われるのは辛いからね」
 涼紀は視線を典比呂にもどし、あきれ果てたように言った。
「結局、あなたは、だれと、どんなふうに、どうしたいのよ? あなたの心の支えとなるのは真沙子さんなの? 私なの? それとも若い男の子なの?」
 典比呂は困惑の表情でしばらく黙り込み、やがて答えた。

「欲望に忠実に言うなら、どれもこれも欲しいよ、全部ひっくるめて。しかし、そんなわがままは、だれも許してくれない。だから、おれがどうしたらいいのか混乱してしまう。きみと別居したときは、もう混乱しないはずだった。なのに、やっぱり気持ちは揺れ始めてね。おれはどうしようもないばか野郎さ」

 最後のセリフさえいわなければ、涼紀もとことん彼を軽蔑し、未練も起きないですむのに、典比呂の内省癖とそのコメントは、最後のところで彼を憎めないやつに仕立てあげてしまうのだ。
「そうね、ほんとに、あなたはばかよ。私の手には負えないわ」

 厭味たっぷりにそう言い返しながらも、涼紀は、いまだに夫が好きだという事実を、心のうちで認めていた。好きだけれども、しかし、許せなかった。
 会ってから一時間後、ふたりはラウンジ前で別れた。

 翌日の月曜日、「デイジー」の最初の客は山田真沙子だった。十一月に来た時と同じロング丈のコートとワンピースではあるけれど、色は黒ではなく深みのあるグリーン、ストールは赤、黄、紫三色がよほど気に入っているらしく。前回と同じものを首に巻きつけていた。

 開口一番、真沙子は涼紀にじゃれかかるように目を輝かせてたずねた。
「ね、ね、きのう、のりちゃんに会ったでしょ? 彼、どんなことを言っていた」
 ヒトミは目を剥いた。詰問口調になった。
「典比呂さんに会ったって? 私、聞いていないよ」
 ふたりにせがまれて、涼紀は仕方なく昨日のことを話して聞かせた。話し終ったあと、しばしの沈黙となり、それを破ったのは真沙子だった。

「ざんねんねえ。そう、涼紀さん、マンションにきちゃだめって言ったの・・・じゃあ、のりちゃん、またしばらく、そのことを、ああでもない、こうでもないって考え込むわねえ、ぐずぐずと。あれには、私も疲れるのよ」

 涼紀は、きのう典比呂にもそうしたように真沙子にもきっぱりと釘を刺した。
「真沙子さん、彼の扱いに手を焼くからって、彼を私に押し付けないでください。彼をそそのかすのも」
「ま、心外だわ。そそのかしてなんかいないわよ。彼の頭の中で、ぐちゃぐちゃになっているものを、整理して方向性を示しているだけよ、わたしがしたことっていうのは」
「それがそそのかしなんです。彼はあなたは頭のいい人だと、一目置いてますから」
「あら、のりちゃん、そんなふうに私を? うれしいわ。ヒトミさんも、いまの言葉、聞いた?」

ヒトミは下心みえみえの下卑た笑顔を真沙子にむけた。
「頭がいいだけじゃなく、真沙子さんはチャーミングでもありますしね」
「みんな、お世辞がうまいのね。でも、ああ、いい気分。こういうときこそお酒よね。ヒトミさん、私、今夜はオンザロックでスタートするわ」
 それから真沙子はふたたび涼紀に話しかけた。

「でも、涼紀さん、のりちゃんに会ってくれて、ありがとう。これで、しばらく彼の心も穏やかになると思うわ」
「正直言って、私は、あまり会いたくないんですけれど」
「まあ、そう言わないで。戸籍上は、まだ、のりちゃんの奥さんなのだから、少しは、いたわってあげて。私ひとりじゃ、むりなのよ」
「なんで私が労わらなくちゃならないんですか?」
「もちろん、そうよね。でも、ここは、ひとつ涼紀さんが上手になって、迷える仔羊ののりちゃんを、私と一緒に見守っていきましょうよ。ただ、これだけは言っておくわね。涼紀さんがのりちゃんを引き取りたくなったら、いつでも、そう言って。私、お返ししますから」
「私はいりませんッ」
「でも、この先どうなるか・・・・」
「彼のことは真沙子さんにおまかせします」
「だから、私は、もういいの。ぐずぐず男につきあっていられる時間は、私にはそんなにないの、トシがトシだから」
「私にもそんなひまはありませんッ」
「そう・・・・・困ったわねえ。ヒトミさん、あなたならどうする?」
 ヒトミは待っていたとばかりに答えた。
「ほっとくのがいちばんですよ、あのタイプの男性は。ほっといて、彼自身が納得いく結論をだすまで、遠巻きに眺めているしかない」
「私もそれしかないという気はするの。ね、涼紀さんはどう思う?」
「もう、おふたりが答えを言ってくれています」
「みんな、考えることは同じなのねえ。私だって、のりちゃんを嫌いになったわけじゃないんだけど」
 すかさずヒトミも賛同した。
「ええ、私だって、典比呂さん好きですよ」
 次にヒトミと真沙子が同時に涼紀のほうを見た。
「私?・・・・いまさら、そんなこと・・・・別居したがったのは私じゃなく夫ですからからね」
「そうなのよね」
 と、真沙子は深々と頷いた。
「涼紀さんに別居を認めさせるまでが、いま思うと、のりちゃんがなんの迷いもなく一心不乱に突っ走っていた時期なのよね、涼紀さんを説き伏せるまでが、それが実現したあと、少しずつ迷いが出てきた」
 ほどなく一日の勤めをおえた藤浪が店にあらわれた。
 いつもどおりの「デイジー」の夜がはじまった。
 その夜の真沙子は、十一月のときのような暴れ方もせず、ヒトミを相手に陽気な酔っ払いに終始した。
 九時過ぎたころ、藤浪の例の口癖がとびだしてきた。
「涼紀さん、かわいそうになあ、かわいそうすぎるよ、まったく」
 それに答えて涼紀も藤浪をあやしつけるように言う。
「さ、藤浪さん、そろそろお帰りの時間ですよ。その一杯でおしまいにしましょうね」
「うん、わかった、そうするよ」
 やがて藤浪を見送って一緒にそとにでた涼紀は、二月の夜空にかかっている月の、冴え冴えとした光に、つかのま、見とれた。
 典比呂のことを思った。
 なぜかわからないけれど、いまでも彼は好きだった。

 さらに一年すぎた。
 典比呂と涼紀、真沙子の三人の関係は何も変わってはいなかった。
 典比呂ひとりが勝手に悩み、ふたりの女たちのあいだを右往左往し、そういう自分を嫌悪したり呪ったりしながらも、まだ結論は出せないでいた。それでいて、ときどき若い男の子とこっそり遊んでいるらしい。
 しかし、涼紀と真沙子は、典比呂の結論を待つことは、とうに辞めていた。もはや、どうでもよかった。
 真沙子は「デイジー」に入り浸り、ヒトミを相手に、汲めどつくせぬ打ち明け話や、身の上話を語り続けていた。
 そんなふうに真沙子の信頼をかちえてヒトミは幸せそうだった。
 涼紀は藤浪と、ときたま、店を離れて食事をしたりしたけれど、それは、おたがい友だちづきあい以上のものではないことを知っていた。
 別居して五年がたてば離婚が成立いるという、その五年まで、あと二年数ヶ月、そのころには典比呂は四十歳、涼紀は三十八歳になる。
 今後の自分たち夫婦はどうするかを、あらためて真剣に考えるのは、そのときでもいいじゃないか、という涼紀の気持だった。

 もっと別居をつづけるか、離婚という形で一応の区切りをつけるか、元の鞘に収まるか、いずれにしても、典比呂とは長くかかわっていくだろうことだけは、涼紀は確信していた。たとえ、どちらなに新しい相手ができても、つかずはなれずの関係は、おそらく、だらだらとつづいていくだろう。
 そして涼紀は、もっとわかってきていた。
 典比呂は、どっちつかずの、こうした、だらだらした関係が嫌いではないのだ、と。
 涼紀にしても、そうした、ふんぎりの悪い、思いまどってばかりいる典比呂のような男が、けっして嫌ではなかった。

〈初出〉「星星峡」一九九九年一月号
藤堂志津子 北海道生まれ。1987年「マドンナのごとく」で北海道新聞文学賞受賞。88年「熟れてゆく夏」で第100回直木賞受賞。『海の時計』『風の部屋』『淋しがり』『別ればなし』『ひとりぐらし』『昔の恋人』など著書多数。