主婦業と子育てを立派に務め上げることが女性にとって素晴らしい「職業」となるかどうかは、主婦の心構えひとつなのだ。本来、主婦は悪いものではない。それなのに、その幸せを感じていない女性は非常に多い。結婚したい人たちがなかなか結婚できない今、「主婦の幸せ」というものをもう一度見つめ直してみよう。
本表紙 梅田みか 著

第七章 主婦業は素晴らしい職業である

【広告1】人間のすることで、持続し続けるものを挙げることは難しい。苦しみは必ず終わる時が来るが、喜びもやがてはかき消える。だから、人は希望を持っても単純に喜ばないことだ。
 夫婦になれたことを単純に喜ぶのではなく、夫婦は苦難を背負うことだと意識し、ふたりはもともと違う種の人種であり、夫婦の有り様が親子関係に近い親密性が深まった場合、いずれ崩壊する場合が少くなくない。夫婦とは愛情とセックスという動体表現により結ばれたのであり、その動体表現は少しづつ変容していくが特にセックスそのものに飽きがこないよう新たな工夫を創造することで刺激と興奮の連鎖によって別物のに近いと感じられるようなオーガズムが得られるのが望ましい。
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主婦は悪いものではない

  知り合いの奥様が海外に出かけたときのこと。仕事について聞かれたので、専業主婦の彼女は「主人は医者をしています」と答えた。すると「それで? あなたは何をしてるの?」と尋ねられて驚いたという。

 日本では、医者や弁護士など一般に高収入で地位も名誉もあるような夫を持っている主婦に「それで、あなたの仕事は?」とは質問しない。当然、専業主婦だろうという先入観があるためだ。逆に医者や弁護士の妻が自分の仕事を持っていると「どうして? 働く必要ないじゃないの」と不思議がられる。

 そんな日本の風習があるからこそ彼女はびっくりしたのだろうが、質問した相手にしてみれば、彼女の旦那様が何をしていようが関係ない。「私はあなたのことを聞いたのに、どうして夫の職業を答えるの?」と不可解に思って聞き直しただけのことだろう。

 自分のことを聞かれているのに、夫の職業を答えるのが当然と思ってしまう主婦の心境は、果たして幸せに包まれているのだろうか。わたしにはそうは思えない。自分自身が誰かというより、医者の妻であることを自分の肩書きと勘違いしているように見える。

 彼女は誇りを持って、こう答えることもできたのだ。「私は外に働きに出てはいませんが、家庭で家事や夫の世話や子育てをしています。日本ではそれを専業主婦といいます」と。

 主婦業と子育てを立派に務め上げることが女性にとって素晴らしい「職業」となるかどうかは、主婦の心構えひとつなのだ。本来、主婦は悪いものではない。それなのに、その幸せを感じていない女性は非常に多い。結婚したい人たちがなかなか結婚できない今、「主婦の幸せ」というものをもう一度見つめ直してみよう。

 経済的にも安定し、ゆとりを持って主婦でいられることに感謝の気持ちを持とう。生活の心配をせずに安心して夫や子供の世話ができることを幸せと感じよう。
 長引く不況で共働きの家庭が増えている現状では、今後専業主婦は減っていく傾向にあるのかもしれない。でも、あなたの主婦としての立ち位置さえしっかり定まっていれば、専業であろうと兼業であろうと揺らがないはずだ。

 主婦が主婦ある事に誇りを持てば、世の中の主婦への認識は自ずと変わってくるのではないだろうか。
 あなたが変わればまわりも変わる。あなたが変われば夫も変わる。母親が変われば子供も変わる。
 主婦が変われば日本も変わるのだ。

夫の禁句、妻の禁句

 専業主婦の弱点といえばただひとつ。それは「経済力がないこと」だ。
 経済力がないせいで離婚したいのに離婚できない。経済力がないせいで暴力をふるわれても家を出られない。経済力がないせいで子供引き取れず相手にゆだねる。こういう話を聞くたびに、わたしはくやしくてたまらなくなる。

 そして何より腹が立つのは、専業主婦を持つ夫が口にする(実際にはドラマの中でしか聞いたことがないが、口にすると言われている)このセリフ。
「誰のおかげでメシを食えると思っているんだ!」
 
 いくらか親しい夫婦の間でも、絶対に言ってはいけないことがある。これは、男として「それを言っちゃあ、おしまいよ」というひと言だ。
 こんなセリフを平気で口にできる夫は無条件に下品である。ただ、実際口にするかどうかは別として、心の中でこう思っている男性はかなりの数になるのではないかと想像する。

 主婦のほうも、こんな暴言を「これを言われたら何も言い返せないわ」なんて許してはいけない。経済力のないことで卑屈になる必要はまったくないのだ。
 あなたが自分の仕事をやめて、あるいは最初から就職しないで、結婚して家にいてほしいと願ったのは当の夫なのだから。

 あなたは結婚「してあげている」だけで、彼に多大な幸せを与えているのだ。自由な独身時代がなつかしいと嘆いてみせる既婚男性も多いが、いまだに独身だったとしたら避けられないつらい現実もあることを彼らは知っているはず。

 世の夫たちには「養ってやっている」かわりに「家事をしてもらって当たり前」なんて思わないでほしい。逆に妻のほうも「養ってもらっているのは当たり前」なんて思わないこと。
 夫の「誰のおかげでメシを食えると思っているんだ!」に匹敵する妻の禁句は、
「アンタの稼ぎが悪いからね!」だ。

 これほど男性の心を深く傷つけるセリフはない。こんな言葉でご主人の自信を喪失させ、男のプライドをずたずたにする女性は主婦失格だと思う。

 このふたつの禁句をお互いにしょっちゅう言い合っているのなら、どっちもどっちということになるのだろうが。

「主婦に経済力は必要か?」という問題はなかなか答えの出ない大きなテーマだ。あなたがもし専業主婦でも、いざとなったら自活できる経済力や「手に職」、資格などを持っていれば、それは素晴らしいことだと思う。

 これから結婚する人には、できるだけ「いざというときのための自活力」を持っておくことをおすすめする。
 もし何も修復できないような事態が起きたとき、「養ってもらっている」せいで身動きがとれない、ということは避けたい。ある程度の貯金と仕事復帰のめどを常に用意しておけるならそれに越したことはない。

 そして「自活力」を持つ持たないにかかわらず、主婦にとってもっと大切なのは「精神的な自立」だ。
 たとえ結婚していても、夫は夫、私は私。子供もいつか自分の元から巣立っていく、そういう自立した考えを持っていること。
 経済的に独立はしていなくても、精神的に自立してさえいればもちょっとやそっとのことでは動じない。目の前のみ道はきっと開けていくのである。

「家庭的」であることは素晴らしい個性

 わたしはもともと、家庭的とはいいがたい人間である。料理も掃除も洗濯も、娘がいるから必要に駆られてやっているだけで、とても楽しむところまではいかない。

 独身時代はほとんど外食で、たまにボーイフレンドに手料理をふるまうことはあっても、ぜんぜん日常ではなかった。そのうえ毎日明け方まで起きていて、昼近くまで寝ているという完全な昼夜逆転の生活。

 だから子育て中、仕事関係の人たちは「大丈夫? 誰か朝早く起きてくれるの?」「送り迎えのバイトしようか?」「お弁当、誰が作っているの?などと心配されたものの。誰がって言われても、わたししかいないのだから仕方がない。

 慣れれば何とかなるもので、無事、幼稚園の三年間、毎朝お弁当を持たせて送っていくことができた。もちろん、たびたび遅刻をしても笑顔で許してくださった幼稚園の先生が方のおかげだが。

「すいません、今日はそぼろ弁当だったので時間がかかっちゃって‥‥」
 ある日、さすがにしょっちゅう寝坊とも言えず、ついそんなわけのわからない言い訳をしてしまった。

「えっ、梅田さんちのそぼろ弁当は手作りなんですか?」
 手作り以外に何があるんだろうと思ったら、今は冷凍食品でご飯の上にかけるだけのそぼろがあるらしい。わたしはもともとなじみがなく、冷凍食品事情にはめっぽう疎いのだが、そぼろに限らずお弁当のおかずはほとんど冷凍、というパターンが多いそうだ。

 それを聞いて、わたしは何だか意外な感じがした。まわりのお母さまたちはみな家庭的な、お料理も上手そうな方たちだ。きっと夕食のテーブルには何品もの手作りおかずが並んでいることだろう。

 もちろんわたしのように遅刻や忘れ物などさせない、きちんとしたお母さんたちばかり。なのに、子供のお弁当となると何となく手軽な冷凍食品ですませてしまうのだろうか。
 それとも、主婦があまり家庭的であることに照れがあるのかもしれない。またはほかのすべてを完璧にこなしているからこそ、どこかで手抜きをしないといられなくなるのかもしれない。

 ならば別の家事のあちこちで手を抜いても、子供のお弁当のために時間を割いてはどうだろう。
 子供の味覚は、実は大人よりも断然鋭いと聞いたことがある。手作りのおかずは冷凍食品のように形が揃っていないし、キャラクターの顔も描かれていない。昨日夕飯の残り物が混ざっているかもしれない。でも、お弁当は”母の味”なら子供の味覚もすくすくと育つのではないだろうか。
「へえっ、梅田さんって意外と家庭的なんですね」
 ときどきそんなふうに言われると、素直にうれしい。本当は家庭的でないわたしだからこそ、新鮮なほめ言葉としていつまでも心に残っている。

 主婦になって今さら、家庭的であることをアピールするのもどうかと思うかもしれないが、大いに胸を張ろう。女性が家庭的であることはそれだけで素晴らしい個性なのだから。

手作りプレゼントは主婦の特権

 学生時代から、編み物をするのが好きだった。それを聞いて「あら、やっぱり家庭的なんじゃない」と思ったら大間違いだ。わたしにとっての編み物は家庭的なイメージとはほど遠い。

「午後のお茶を飲みながら、優雅に編みかけのセーターを手にとって‥‥」みたいな感じは全然ないのだ。
 やるとなったらデザインからゲージから目数計算まで一気に進め、編み始めてからも根を詰める。一日の「ノルマ」が終わらなかったときは目がしょぼしょぼして、肩が鉄のように凝っている。これでは仕事をしているのと変わらないじゃないかと、われながらあきれてしまう。

 それでいて作品に対しては完璧主義で、もうすぐ見頃が一枚出来上がるというときになって、初期の数段目に間違いを見つけると、解いて最初から直さないと気がすまない。見かねた母に「もう、いいじゃないの、仕事じゃないんだから!」と止めに入られたことまである。

 おそらく「もの作り」という意味で、趣味というよりは仕事と同じようなモードになってしまうからだろうか。
 出来上がったベストやカーディガンを娘に「はいっ」と手渡すときのうれしそうな顔を見ると、疲れも肩こりもふっとんでしまう…‥というところも、仕事とよく似ている。
 編み物好きのわたしにとって、何よりうれしいかったのは娘という絶好の「贈る相手」が出来たことだ。

 それまでは、自分のものでは編む気がしないし、つきあっている彼に手編みをプレゼントするのもなかなか難しい。つきあいが浅ければドン引きされる恐れがあるし、逆に付き合いが長いと家庭的なことをアピールしているみたいで、つい二の足を踏んでしまう。

 そんなわけで抑えられていたわたしの編み物熱は、妊娠を機に堰(せき)を切ったようにあふれ出した。妊娠中からおくるみや赤ちゃん用のソックス、帽子、ベビードレスまで仕上げ、娘が生まれてからも毎年必ず一枚は手編みをプレゼントしてきた。

 ベストやカーディガン、ニットワンピース、ポンポンつきの帽子やマフラーなど、子供のものは毛糸の色も綺麗だし、着ているところを想像するとわくわくして手がどんどん進む。とにかく小さいからすぐ出来上がるのもいい。

 そして何より、無条件で喜んでくれる相手がいるというのが最高ではないか。といっても、わたしの編んだものを、いつも気に入って擦り切れるまで着てくれる娘も、最近はずいぶんおしゃれにうるさくなって、そろそろあんまり喜ばれなくなりそうな気配だが。

 恋愛中は敬遠されることもある手作りのプレゼントも、主婦になったらやりたい放題だ。編み物に限らず、洋裁やお菓子作り、刺繡やパッチワークなどの手芸やぬいぐるみ作りなど、手作り好きな人はみな「贈る相手」を得てイキイキとしているのではないだろうか。

 誰に気兼ねすることなく手作りプレゼントができるのは主婦の特権である。手作りはちょっと苦手、という人も、この特権を生かさない手はない。
 子供のものなら多少のヘタでも許されてしまうから大丈夫、同時に子供に「手作りのよさ」を伝える事もできるのも、母親としてうれしいこと。

 贈る相手は家族だけではなく、子供のお友だちやママ友、子供がお世話になった人でもいい。あなたの手作りというだけで何倍も喜んでもらえるし、独身時代のように「重い女」と思われないかどうか気にしなくてもいい。

 そして上達したら、ご主人に初の手作りプレゼントをしてみるのも新鮮だ。出来上がったのが外出するには気が引けるようなものだったとしたとしても、部屋着にしてもらうという手もあるのもまた、主婦の特権ではないか。

完璧ではなくていい、居心地のいい部屋にする

 英語で家事のことを「housekeepingハウスキーピング」というように、家事とは家の中をいい状態に「キープ」するということだ。

 そうか、考えてみればキープするだけなのだ、と思うと何だかちょっと気が楽になる。ものすごく酷い状態から「cleanupクリーンナップ」するのは大変でも、今の状態を保つだけなら、わたしにもできるんじゃないか、そんな希望が出てくる。

では家の中をいい状態でキープするには、毎日どんなことをすればいいのだろう?
 どの部屋もきちんと片付いて、すべてのものがあるべきところにおさまり、掃除機がかけられ、床はピカピカに磨かれる。洗濯物は太陽の下に干され、乾くたびに丁寧にたたまれ、その日のうちに各部屋のクローゼットに戻される。

 キッチンでは朝昼晩の食事の支度を終えるたびに食器や調理道具はさっと洗われ、シンマにとどまることはない。トイレやお風呂、洗面所は使うたびにこまめに掃除をし、窓やサッシは埃や手垢でくもる前に拭いておく。

 書いている傍から、わたしの考えがいかに甘かったことを痛感させられる。「ああ、家の中をいい状態にキープするって何て大変なんだろう」とため息が出てしまう。

 けっこう気合を入れて掃除をしたときなど、「ずっとこのままだったらいいのに」と思うが、そんな願いもむなしく数時間すると、もう何となく散らかっている部屋をみてまたため息が出る。

「何かを使ったらかならず元の場所に戻せば、部屋は散らからないんだよ」なんて娘に説教しながら、つい自分も遣ったものをそのままどこかに置いてきてしまう。
 結局「この世にほこりやカビが存在しなければ!」なんてぶつぶつ言いながら、あちこち付け焼き刃の掃除をすることになる。

 いつも家の中をいい状態にキープすることこそ、実はいちばん大変なことなのではないだろうか。それを毎日当たり前にこなしている主婦は文句なしにえらいと思う。

 そこで考えたのだが、もともと「キープ」の得意な人は別として、わたしのように気が向かないとなかなかやる気にならないという人は。もう少しその「キープ」の基準を緩くしてはどうだろうか。

 完璧に片付いたホテルのような部屋は理想かもしれないが、「家族の家」としては少々味気ない。きれいすぎる部屋はかえって居心地が悪いときもある。もちろん雑然として落ち着かないのも困るが、まるでハウスクリーニングが帰ったばかりのような部屋も魅力がない。

 少しスキがあって、遊び心があって、その家に住む人らしさがこぼれるくらいがちょうどいい。まず最低限、清潔に家族が暮らせる環境を整えれば、そこに自分らしさを加えていってかまわない。

 急に人が来ることになっても「十分で何とか見られる部屋」を目指そう。完璧でなくても、あなたとあなたの家族がくつろげる居心地のいい部屋がいちばんなのだ。

家に人をどんどん招こう

 家に人を招くとき、次のうちどれを真っ先に考えるかで、その人の優先順位がわかるという。「何を作るか」「何を着るか」「いつ掃除をするか」あなたはどれを選んだだろう?

「何を作る」を選んだあなたは、お客様にどんな料理やお菓子、お茶やお酒などを振る舞うかをいちばんに考えている。
「何を着るか」を選んだ人は、自分がどんなホステス(女主人)になり、どんなもてなしをするかをまず考える。
「いつ掃除をするか」を選んだ人は、、客をきれいな部屋に通すことが最高のもてなしだと考えている。

 ちなみにわたしは「掃除」「服」「料理」の順なのだが、ホームパーティをするときは料理上手な人に作ってもらうか、何か買ってきてもらうか、食事だけは近所に食べにいくか、がほとんどだ。

 クリスマスや娘の誕生日など、自分で料理を出すときもあるが、そんなとはは余計な力が入りすぎて、前の日から下ごしらえを始めるような感じでくたくたになってしまう。もっと気軽に洒落た料理をさっと出せたらいいなあと思うが、理想と現実はほど遠い。

 それに較べれば、来客前の掃除はけっこうがんばる。部屋に入ってきたお客様が
「わあ、ピカピカだね! いつもこんなにきれいなの?」なんて言ってくれると内心ものすごくうれしい。まあまあの掃除には気づきもしない娘は、「おーっ、きれい。誰か来るの?」とすっかりネタバレしているが。

 そのかわり、だいたい約束の時刻ギリギリまで掃除をしているハメになるので、メイクもそこそこ、服もかわり映えしないワンピースをあわてて着るような始末。

 幸いなことにわたしは料理好きな友人が多く、いつもおいしい思いをさせてもらっているが、料理好きな人にとっては、ホームパーティはレパートリーが増える絶好の場なのだとか。

 いつも家族でしか食事をしないと、知らず知らずのうちにメニューがマンネリ化してしまう。でもお客様を招くとなると、よし、新しいメニューにも挑戦しよう、今度はこれを作ってみよう、という意欲が湧いてくるそうだ。

 それなら家に人を招くって、いいことずくめじゃないかと思う。接待役を務める主婦にとっておしゃれする機会となり、社交術も洗練される。料理のレパートリーも増え、腕も上がる。おざなりだった掃除も丁寧にして家がきれいになる。

 それぞれの優先順位のどれかひとつでも大きなメリットではないか。そして何より、いつも友人が集う風通しのいい家は、主婦を幸せにしてくれるのである。

がんばりすぎないこと

 ときどき娘に「ねえ、なんで怒ってるの?」と聞かれることがある。それも、わたしがこれっぽっちも怒っていない時に限って聞かれるから不思議だ。

「怒ってないよ」と言っても「ううん、怒っている」なんて決めつけるから腹が立つ。結局「怒ってないってば!」と声を荒げてしまい、「ほら、怒っているじゃん」「それは怒っているって言われるからでしょ」などと毎回無意味なやりとりをすることになる。

 わたしは何でもないつもりでも、娘から見たらいつものわたしと違っているのだろう。ちょっと疲れていたり、体調が悪かったり、仕事のことを考えていて眉間にしわが寄っていたり、何かでイライラしているのを自分では気づいていなかったり。

 子供はみんな、お母さんのちょっとした変化に敏感だ。機嫌がいいとかうれしそうとか、ウキウキしているとかいった「いい変化」より、怒っているとか悲しそうとか、疲れてぼうっとしているとかいった「悪い変化」のほうに敏感なのだ。その点では夫よりも鋭い目を持っているかもしれない。

 それは子供が、常にお母さんの幸せを切に願っているからではないだろうか。
 特に小さい子供は、「お母さんが幸せなら自分も幸せ」というようなところがある。生まれたばかりの赤ちゃんでも、お母さんが本気で泣いていると驚いて泣き止んだり、じっとお母さんの顔を見つめたりするものだ。

 だから最近は、「怒ってないよ!」と怒るのを止めて、「娘が怒ってると言うならそうなんだろう」と思うようにしている。そういうときは大抵、怒っていなくても、何となく「がんばりすぎている」ときなのだ。

 疲れているのにひと休みせず、夕飯の支度に取りかかる。ちょっと頭が痛いのに、誰にも言わずに笑顔でいようとする。気掛かりなことがあるのに平気なフリをする。
自分でも忙しいのに。頼まれごとを引き受けてしまう。夫に言いたいことがあるのに我慢する。本当は誰かに手伝ってほしいのに無理してひとりでやってしまう。

 あなたも、そんな「がんばりすぎ」の症状はないだろうか。
 まわりを見ていても、がんばりすぎている主婦は多いと思う。自分ではそんなつもりがないのに、「いつも怒っている」「いつも機嫌が悪い」「うちのママは一日中怒っている」」などと言われたことのある人は要注意だ。

 そして最後は「私がこんなにがんばっているのに誰もわかってくれない!」とキレてしまう。そんなお母さんを見て、子供は何とも悲しい気持ちになるのだ。お母さんにはいつも幸せそうな笑顔でいてほしいから。

 そんなにがんばらなくてもいい。必要以上の我慢は禁物。がんばりすぎているな、と感じたら、とりあえずひと休みして笑顔になってみよう。ちょっとしたことでイライラしたら、一度深呼吸してリラックスしてみよう。

 一日の主婦業の中でも、適当なところで手を抜いたり、ストレスを発散したりしながら上手くやっていこう。

 たまの日曜日は目覚ましをかけずに思い切り寝坊したり、週に一度は家族で好みは気にせず、自分の食べたいものを作ったり、散らかった子供部屋を見て見ぬふりをして寝てしまったり、ときには自分を甘やかしてあげることも大切。それで文句を言う家族がいたら、言う方が悪いのだ。

 あなたは今までじゅうぶん、夫のいい妻で、子供たちのいい母親なのだから。
つづく 第八章 結婚しても恋愛体質でいる