Analytics -->

あなたは今あまり幸せでないかもしれない。なぜなら生活を向上させていくことには上限がないからだ。欲望にはキリがないのだ。「もっと上の生活」「もっといい暮らし」を追い求めているうちは決して幸せになれないのだから。

 本表紙 梅田みか 著

第四章 「もっと上の生活」を追い求めては幸せになれない

【広告】ソフトノーブル通販は様々な避妊方法によってストレスを負う、男・女の感じるストレスを軽減する避妊具(軟質シリコーン製)を発明。さらに避妊方法の一つ膣内温水洗浄器(軟質シリコーン製)を併用することで既存の避妊方法にも劣らない商品を販売する会社です。

人生の目標は「安定した生活」ではない

 仮にあなたの息子が成績優秀で、小学校から塾に通い、中学・高校と有名校のエリートコースを進み、見事第一志望の一流大学に合格したとしよう。

 息子は大学でもまじめに勉強し、常にトップクラスの成績。そして進路を決める段になって、息子がこう言い出した。
「僕は就職するつもりはない。お金にはならないけれど、人々の未来のために大学院に進んでこの研究に一生を捧げたい」こんなとき、あなたならどうするだろうか?

「あなたの大学と成績ならどんな大企業にだって就職できるのに」
「どうしてそんな不安定な道を選ぶ必要があるの!? もう一度考え直して」
「先の見えない研究で一生を棒に振るつもり? そんな貧乏をさせるためにあなたを育てたんじゃないわ」

 頭に血が上ってこんなことを口走ってしまいそうになるだろうか。
 あなたがもし彼らの親ならば、自慢の息子がこのような高い志を持つ人物に育ったことを心から喜んでほしい。

 そして、何でもお金で判断する現代の風潮にまどわされず、しっかりと自分の意志を貫く男に育て上げた自分たちの誇りを持つべきだ。
 ちなみにうちの娘も成績は優秀でもエリートでもないからこんな心配は無用だが、似たようなことは子供を持つ私たちには容易に起こりうる。

 近い将来そんな局面を迎えたら「反対する親であってはならない」というのが、親になったわたしが覚悟したことのひとつである。なぜなら純粋にわが道を進もうとする子供に対して、「生活の安定を保障された将来」を望んでしまいがちだからだ。

 人生の目標は「安定した生活」ではない。こんな当たり前のことを、多くの人が忘れてしいまっているように思う。
「衣食住」はたしかに人生の基盤であり、そのグレードが幸福の目安になる側面もあるだろう。けれど、「生活」レベルのことが人生の最終目的であってはならないと思う。
 大切なのは、自分の人生の中で「生活」レベルのことではなく、その一段上の価値を見出すこと。自分が何をするために生まれてきたのか、その意味を知ることだ。

 自分の好きなことをとことん追求するのもいい。私利私欲でなく社会貢献ら通じる仕事に情熱をかけるのもいい。人類に立ちはだかる難題を解決すべく勉強、研究に没頭するのもいい。クリエイティブな才能を生かして表現するのもいい。

 もちろん「あたたかい家庭を築く」ことだって、立派な人生の目標になる。
 夫が安心して自分の使命に打ち込むことができるようにし、子供を日本の未来をしっかり支えていける人間に育てること。それはあなたにしかできない、人生をかけるに値する崇高な目標なのだ。

 あなたが今思い描く「理想の自分」はどんな自分だろうか?

 ブランド物の服や高価な宝石を身に着けるとか、広くて快適な邸宅に住むとか、高級な家具や便利な家電に囲まれて暮らすとか、いい車に乗るとか、一流レストランでしょっちゅう食事をするとか、エステやネイルサロンの上客になるとか‥‥これらはどこまでいっても所詮「生活」レベルのこと。

 あなたが思い描いた理想の未来がすべて「生活」レベルのことであるとしたら、あなたは今あまり幸せでないかもしれない。
 なぜなら生活を向上させていくことには上限がないからだ。欲望にはキリがないのだ。「もっと上の生活」「もっといい暮らし」を追い求めているうちは決して幸せになれないのだから。

人とくらべているうちは幸せはやってこない

 人の目を気にして生きることに慣れている日本人は、何から何まで人とくらべてしまう悪い癖がある。たとえば、夏休みの計画を立てるとき。

「○○ちゃんのうちは夏休みにハワイに行くらしい」と聞いたら、うちも行きたい、となる。何とか費用を捻出し、多忙な夫に数日の休暇をとらせ念願のハワイ旅行をすることになった。

 けれど、三泊四日の強行軍ではフライト時間ばかり長く感じられ、ツインルームに家族四人のギュウギュウ詰めで、ゆったり眠ることもできない。それでも家族でハワイ旅行をしたという満足感は手に入れた。

 ところが帰ってきてから、○○ちゃんのうちはゆったり二週間も夏休みをとり、広いコンドミニアムに泊まり、ハワイの島めぐりして優雅な休暇を過ごしたと聞いたとたん‥‥自分たちのハワイ旅行が急に惨めに感じられ、もう幸福ではなくなってしまう。

 人とくらべたことでなぜ幸福が消えてしまったのか? それは彼女が「本当のハワイに行きたかったわけではなかったからだ」
 彼女がほしかったのは「夏休みに家族でそろってハワイに行く」という幸せの構図。
 本当は自分(と家族)が行きたいところへ旅行をしたのなら、無理な日程だろうと、少々窮屈な部屋だろうと、幸せは揺らがないはずなのだ。

 旅行だけでなく、このようなことが、生活の全てにおいてないだろうか?
 家、車、服、持ち物、年収、学歴、容姿、ライフスタイル、交友関係‥‥どんなものもどんなことも、他者とくらべたらかならず上には上がいる。

 私たちはそろそろ、人とくらべているうちはいつまでたっても幸せになれないということに気づく時期に来ているのではないだろうか。
 政治、経済、社会が常に変化している今、人とくらべなくてもすむ、自分だけの幸福の指針を持つことが大切になってくるだろう。

「幸せな結婚」の基準はお金?

“婚活”という言葉が生まれて暫くたつが、その成果はいかがなものだろうか。
 ふつうの「恋愛活動」ではなかなか自分の条件に見合う男性に出会えないから、「結婚活動」として結婚相談所やネットの紹介ビジネスに頼るのが”婚活”。でもこの婚活によって幸せな結婚が増えているとはどうも思えない。

 女性たちが男性に好条件を求める理由は、年収、学歴、身長が高い”三高”という言葉が流行ったバブル期とは違う。
 あのころの女性たちは、「もっといい女になりたい」「もっといい仕事がしたい」「もっと大人になりたい」という向上心があったように思う。自分がもっといい女になったその横には三高の彼がいてほしいという女の夢だったのだ。

 一方、婚活する女性たちの動機はもっと現実的だ。男性社会の中、いくらがんばっても女がひとりで仕事をしていくのはなかなか厳しい。だったらこのあたりでいい条件の男性を見つけて結婚してしまおうという「ぶら下がり型」。

 それならビジネスにしやすいと結婚相談所やマスコミが飛びついたのはわかるが、そう簡単にはいかない。なぜなら実際、婚活している女性たちは「条件さえよければいい」なんてぜんぜん思っていないからだ。

 結婚のための婚活をしながら、本心から「条件さえクリアしていれば顔や人間性は目をつぶる」「『結婚するのにいい男』なら好みのタイプでなくていい」「安定した生活さえできれば相手は誰でもいい」と考えている人は非常に少ない。

 せっぱつまった婚活ならある程度相手に妥協するかと思いきや、かえって「ここまできたら妥協できない」とさらに理想を求める。条件がいい上に恋愛対象としてもある程度のラインをクリアしている男性を追い求める。

 これでは”白馬の王子様”を待っている思春期の少女と変わらない。いちばん現実的であるはずの女性たちの意識を夢見る乙女では、婚活がスムーズにいくはずがないではないか。
 実際、婚活中のほとんどの女性は、条件のふるいにかけられた男性の中から「本当の恋をして結婚したい」と願っているのだ。

“セレブ婚”や”玉の輿”が女性たちの憧れになり、幸せな結婚の基準が「お金」や「生活水準」になって久しい。けれど、条件だけで幸せになれるほど私たち女性が単純ではないことに、みんな気づきはじめているのではないだろうか。

 現に、豪邸に住み、プレゼントはケリーバッグ、毎日パーティドレスのような格好をして大勢の取り巻きからちやほやされているような女性が、あっという間に離婚するのを何度も目にしているはずだ。
 それでまた、「お金とセレブな生活さえあれば幸せ」だなんて思えるのだろうか?その答えがわかっているからこそ、女性たちも本当は「条件」ではなく「愛」を求めているのかもしれない。

 もともと他人同士のふたりが夫婦となり家族としてともに生きていく結婚は、ただ多少、目をつぶっても「いちばん好きな人」と苦労してみてはどうだろう。
 それが本当の「女の幸せ」といえるのではないか。

ネットの向こう側とのつきあい方

 最近のパソコンの普及率は、「一家に一台」ならぬ「主婦にも一台」の時代。
 昔は”テレビ・冷蔵庫・洗濯機”が主婦の三種の神器といわれたが、今は”ノートパソコン・食器洗い機・乾燥機つき洗濯機”というところだろうか。

 家事をてきぱきとすませ、キッチンのテーブルに自分専用のノートパソコンを開いてコーヒー片手に様々なネットサーフィン‥‥これが現代の主婦たちの優雅な生活なのだろう。
 わたしはもともと機械オンチなので、いまだにパソコンを使いこなしているとはいいがたい。ふだん原稿を書く作業とメールのやりとりのみで、必要とあればインターネットで調べものをしたり、本やCDを買ったりする程度だ。

 ただ、一度読み始めると、つい何日も遡ったり、そこに紹介された何かが気になって貼り付けてあったリンクからホームページにとんでみたり、その友人の友人のブログを覗いてみたり‥‥そんなことをしているうちにあっという間に三十分くらいたってしまう。

 はっと気づいた瞬間「ああ、もったいない!」と思ってしまうわたしはネット社会の住人失格、ということだろう。
 わたしの知り合いの奥様は”芸能人ブログ”にはまり、毎日チェックするうちにどんどん見るブログの数が増えていき、今や「お気に入り」を全部チェックする「日課」をこなすだけで有に一時間はかかるという。

 それをもったいないと感じるか、有意義だと感じるかは人それぞれだが、もしあなたがネットサーフィンをしているうちに何時間も過ぎていたり、気づいたらけっこうな額のネットショッピングをしてしまっていたりするのなら、一度その時間を見直してみてはどうだろう。

 まったく見ず知らずの人なのにブログを読んだだけで親近感を感じるコメントを送ったり、返事をもらったりすることで会ったこともない人ともコミュニケーションが図れる。ブログというパーソナルメディアの利点はそこにあるのだろう。

それをうまく利用したのが芸能人ブログだ。これまでは一般の人から見て芸能人は「手の届かない」存在だった。ちゃんとお金を払ってファンクラブなどに入会した特別な人だけがささやかな交流を持つことができた。

 けれど芸能人ブログの登場で、芸能人の日常や毎日の私服や私物、食事の内容や交友関係、ときによっては家の中まで覗けるようになった。ブログは芸能人が一般の人に自分を「身近に感じさせる」目的において最高のツールだ。

 その狙いどおり芸能人ブログの注目度は高く、ライフリーダーやファッションリーダーといわれる芸能人のブログを渡り歩く女性たちは多い。

 華麗なライフスタイルを垣間見てため息をついたり、レアなブランド物や高価な食器を何気なく使う様子に「うらやましい!」と思ったり、センスのいい私服を見て「私も同じものがほしい!」と必死で探したり、「あの人とお友達なんてステキ〜」と憧れたり‥‥そんな感想をコメントで書き入れたり。

 けれど、その芸能人がブログの中でどんなに幸せそうに見えたとしても、そこはテレビや雑誌と同じメディアを通して「見ず知らずの人」に向けて発信された「虚構の世界」だ。
 そこに書かれているけれど、それが起こったことのすべてではない。ブログの中に書かれている以外のことが重要だからこそ”おしどり夫婦”が離婚したり、”売れっ子アイドル”が問題行動に走ったりするのだ。

 ネットの向こう側は、あるフィルターがかかって見えている世界、そこがどんな身近に感じられたとしても、一定の距離を保つ意識がこちら側の私たちには必要なのではないだろうか。

「人の不幸は蜜の味」ではダメ

 芸能人ブログが「幸せの自己申告」なら、テレビのワイドショーは「人の不幸は蜜の味」。
 ワイドショーの視聴者のほとんどは主婦層だ。仕事人間の男たちからすると「昼間っからのんびりテレビを見られていい身分だ」ということになるのだろうが、それはそれで主婦の幸せな生活の一面である事には間違いはない。

 今どき、おせんべいをかじりながらソファに寝転がってワイドショーを見ている、いかにも風刺漫画に出て来そうな主婦もずいぶん少なくなったと思う。でもワイドショーは執拗に主婦の興味をそそるように作られているから、ちょっと油断すると引き込まれてしまう。

 カップルの破局や離婚、トップスターの転落、闘病や死、殺人と自殺、借金や詐欺、麻薬汚染の恐怖、悲惨な出来事の数々‥‥ワイドショーに「幸せの情報」は少ない。
 たとえ幸せいっぱいの結婚のニュースでも、どこかちらりと不幸のニュアンスをちりばめる。ニュース番組も総ワイドショー化している今、朝から深夜までひっきりなしに誰かの不幸の情報が続く。

 主婦たちはなぜ人の不幸に引き寄せられてしまうのか? それはやはり人の不幸を目の当たりにすることによって、「あれよりはうちのほうがマシ」という優越感を得られるからだろう。または「あんなに上だと思っていた」人の引きずり降ろされた姿に溜飲が下がるのだ。

 でも、ワイドショーで人の不幸を踏み台にしないと自分の幸福を確認できないいのでは困る。「下には下がいる」というような考え方では、本物の幸福感は得られない。
 ワイドショーやゴシップ誌でこれでもかと人の不幸を覗き見した後、せいぜいするようでどこかいやな気持ちが残るのはそのせいだ。

 誰かの不幸を見て、「かわいそう!」と思えるのは、相手より自分のほうが優位に立っていると思っているから。違う世界のことと思わず「今、自分にもまったく同じことが起きてもおかしくないのだ」と気を引き締めると、軽々しく「かわいそう」なんて言っていられなくなる。
 ワイドショーを見るのが悪いというのではない。あなたの視点を変えればいいのだ。

 たとえば、なぜ「あんなまじめそうな人がそんな犯罪を‥‥」という事件から逆から見れば、「十人に聞いたら十人がまじめな人、と答えるような人は、かえって裏の顔があったり、信じられないような行動をするのだな」ということになる。

「あの有名な弁護士さんが言っていたからきっと正しいんだ」ではなく、「たしかに彼は知識人だけど、今の見解は本当に正しいのだろうか? 別の見方もあるのではないか?」と立ち止まる。

 赤に見えて、よく見ると実は黒。そんなことが世の中にはよくある。どんな事実にも独自の視点を持つことで、まわりを見る目にも奥行きが出る。
 テレビや雑誌だけではなく、あなたの身近でよく耳にする他人の悪口や興味本位の噂話にも、ワンランク上の付き合い方をして見てはどうだろう。

習いごとは本当に好きなことを

 主婦たちは習いごとが好きだというイメージがある。わたしは今、細々とヨガと英会話を習っているのだが、どちらも周りはほとんどが主婦の方々だ。それもみなさん一様にまじめな生徒で、わたしなど常についていくのがやっとという状態である。

 習いごとといえば、もう十五年ほど前、忘れられない印象的なことがあった。わたしのまわりで唯一、二十代で結婚した女友達の新居に遊びにいったときのこと。彼女はエレガントに紅茶を飲みながらこう言ったのだ。
「私、グラスリッツェンを習っているの」

 グラスリッツェン‥‥? 当時のわたしにはそれが「ドイツの古典的な手工芸で、透明なガラスの面にダイヤモンドの粉末のついた特殊なペンで描く手作業による技法」だなんてことは全く知らなかった。

 彼女がワイングラスにブドウの絵柄を彫った作品を見せてくれたので、ああ、このことがわかったが、なじみのない「グラスリッツェン」という言葉がなかなか覚えられず、そのあと彼女に何度「ぐらす‥‥何だっけ?」ときいたかわからない。

 グラスリッツェンというとどこか貴族的な響きがそのまま裕福なマダムのイメージと重なり、「幸せな家庭の主婦というのは、優雅にグラス‥‥何かを習ったりするものなんだなあ」と思ったのを覚えている。

 グラスリッツェンにかぎらず、デコパージュとかエッグアートとか、かつてヨーロッパ貴族の間で流行したといわれる手工芸で主婦に人気の習いごとになっているものは多い。主婦と花嫁修業中の人以外はその存在をほとんど知らなくても「お教室」はいつも満員の盛況ぶりだそう。

 料理やお菓子作り、フラワーアレンジメントなども、今は個人講師が教えるサロンタイプの教室が人気を集めている。「サロネーゼ」と呼ばれる自宅で教室(サロン)を主催しているカリスマ主婦はプチマダムたちの憧れだ。

 もちろんみんながみんなサロネーゼを目指しているわけではないだろうが、主婦の場合、習いごとひとつするにしても、それ自体がステータスになるということがある。あの有名サロンであのマダムについてあの習いごとをする、という形のほうが大切になってしまう。

 そこにさまざまなつきあいが絡んだり、友達に誘われて何となくはじめてしまったり、誰かの紹介があるからやめにくかったり、いつの間にか「本当にしたくないのにする」習いごとが増えていく。そんな主婦は以外とおおいのではないだろうか。

 サロネーゼまで行かなくても、学校や幼稚園など、子供が所属するところの中心人物となっている主婦が、自宅で何かを教えているからどうしても断れないという話もよく耳にする。同じマンションやご近所など地域住民同士のつきあいが影響するケースもある。

 また、実際のお稽古は一時間か二時間なのに「みんなと待ち合わせて」早めに出かけ、「帰りにはみなでお茶とおしゃべり」などがついてくる。それではほとんど半日つぶれてしまう、ということになりかねない。
 せっかく好きな習いごとできる環境にあるのなら、本当に自分のやりたいことをやろう。

 美容や健康を維持したりスキルアップしたりして自分を高めるための大切な時間なのだから、あなた自身が心から習得したいと思うことを。そしてその習いごとを続けるもやめるも完全にあなた個人の自由になるということを条件に。

 昔好きだった楽器をまた始めるのもいい。海外旅行を目標に語学を勉強するのもてて。エクササイズで汗を流すのもいい。習いごとが苦手なら、好きな本を読むだけでもいい。
「おつきあい」も「ステータス」も取り払ったあなた自身のための時間は、きっとあなたの幸せにしてくれるはず。

「うらやましい」と言われる人になる

 今、あなたには誰か羨ましい人がいるだろうか?
 家事も子育てにも協力的なやさしいご主人を持つママ友だろうか。
 大理石の廊下とゲストルームのある豪邸を建ててもらった知人だろうか。
 理解あるご主人に趣味のお店を持たせてもらったマダムだろうか。

 いつも新作のヴィトンのバッグをさり気なく持っているセレブ奥様だろうか。
 友人の息子が有名進学塾でいつもトップの成績であることだろうか。
 友人の娘がスカウトされてキッズモデルになったことだろうか。
 結婚してずいぶんたっても恋人同士のようにラブラブな夫婦だろうか。

 子供を生んでも独身時代と同じスリムな体型を保っているアイドルママだろうか。
 バツイチで莫大な慰謝料をもらって今は若い恋人と楽しそうな有名女優だろうか。
 独身で自由に好きな仕事をしてイキイキしている女友達だろうか。
 結婚後も仕事を続け、そのうえ子育ても立派にこなしているお仕事ママだろうか。

 自分の諦めた道を貫いて夢を叶えた仲間だろうか。
 望み通り子宝に恵まれた女性たちの幸せそうにベビーカーを押す姿だろうか。
 学校が休みになるたびに海外旅行に出かける裕福な家族だろうか。
 ウェディングドレスを着てほほえむ幸福な結婚を手に入れた女性たちだろうか。

あなたの羨ましい人は、どうしてそんなに幸せそうに見えるのだろう。あなたの持っていないものをすべて持っているから? あなたはどうやっても手の届かない場所に立っているから?
 でも、本当にそうだろうか、彼女たちはあなたの持っていないものをすべて手に入れて、本当に幸せなのだろうか? あなたからは光り輝いて見える場所は、本当に居心地のよい場所なのだろうか。

「この世でいちばんみにくいことは、他人の生活を羨むことです」という言葉がある。子供のときこの言葉を読んだわたしは、「誰かのことをいいなあ、と思うことがそんなに醜いことなのだろうか」と疑問をおぼえた。

 幼いころ、若いころは羨ましい人がたくさんいた。誰を見ても自分より恵まれているように見えて、自分もそうだったらいいのにと願った。朝、目が覚めた違う人になっていたらいいと思ったこともあった。

 大人になって、この言葉の意味が少しわかってきたような気がする。誰かの生活を羨やましいと思うこと自体が悪いことなのではない。本当に醜いのは、それがすがすがしい憧れの気持ちではなく、僻みや妬み、嫉(そね)み、「どうせ私なんか」といじける気持ちなどに変化していくことではないだろうか。

 あなたから見ると今すぐとってかわりたいような人生にも、計り知れない苦悩があることに考えが及べば、むやみに羨ましがることもなくなる。
 すると不思議なことが起こる。誰かを羨むのをやめたとたんに、今度はあなた自身が羨やましがられる人になるのだ。

 あなたが自分自身で選択・決定したすべてのことが、まわりからは「あなたらしく、気持ちよく、好きなように生きている」ように見えるだろう。自分の人生を生きていきながら「好きなように生きる」というのは、誰にとってもいちばん難しいことなのだから。
つづく 第五章 子供の未来は主婦の品格で決まる