家事や子育てを立派にこなしているのに、「私は何もできないから」「今さら仕事もできないし」と常に自己評価がとても低い。才能がないどころか素晴らしい主婦の才能を持っていて、毎日何気なくしていることは本当にすごいことなのに。
本表紙 梅田みか 著

見出し

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幸せを感じたらソン?

 わたしには「主婦をちゃんとやれる人はすごい!」とリスペクトする気持ちが大きい。それは、家事を完璧にこなしているとか、人づきあいがうまいとか、きれいでファッショナブルなカリスマ主婦とか、そういうことではなくて、「主婦」という役割にきちんと幸せを感じられる人に対するもの。

 なのに、せっかく結婚して、安定した経済力のあるやさしい夫がいて、かわいい子供にも恵まれているのに、主婦の女性たちがその幸福をあまり感じていないように見えることがある。
 まず、「自分には何の才能もないから主婦をやるしかないのだ」と思っている自己否定タイプ。

 家事や子育てを立派にこなしているのに、「私は何もできないから」「今さら仕事もできないし」と常に自己評価がとても低い。才能がないどころか素晴らしい主婦の才能を持っていて、毎日何気なくしていることは本当にすごいことなのに。
 次に、「結婚したらすべてOK」と思っていた現実逃避タイプ。
 もともと、仕事や生活や自分を取り巻く環境に不満があって「結婚さえすれば万事よくなる」と盲信して結婚に飛び込んだ。けれど現実はオセロの駒を黒から白にひっくり返すようにはいかない。当然「こんなはずじゃなかった」と不満がくすぶる。

 そして、「私はもっと才能があったのに、結婚したばかりにその道が閉ざされた」と思っているプライドタイプ。
 本当の自分はこんなもんじゃない、夫や子供の犠牲になったという意識が強く、まわりの主婦たちに対してもどこかで「あなたたちとは違う」と感じている。独身時代きらびやかな経歴を持っていた女性に多い。

 どのタイプにも共通しているのは、「今を受け入れないこと」。今の自分を否定していると幸福感は得られない。家族と過ごす毎日の中で、数々の喜びも、たまらなく嬉しいこともあるはずだ。なのに、それを素直に受け入れない。
「どうせ私は何もできないからこのくらいで満足するしかないんだわ」
「私がしたかったのはこんな生活じゃない」
「こんな小さな幸せで満足するほど私は安くないのよ」
 まるで、「こんなことで幸せを感じてしまったらソン!」と身構えているよう。でも、穏やかかで平和な結婚生活のことを「ささやかな幸せ」と呼んだりするのは間違いだ。だって、こんな大きな幸せが、果たしてほかにあるだろうか?

 一方、結婚という安定を捨てて自由を選んだ女性たちは、何でもひとりで選択できる権利を手に入れるかわりに、常に不安定な崖ふちに立っている。自由には、隣りあわせに孤独もある。

 でも、自分で選んだ道だから歩いて行くしかない。ひとつの道を選んだら。もうひとつの道を歩いている自分を想像しても仕方がない。ないものねだりをしているかぎり、幸福感は訪れない。

 もっと自分を肯定して「主婦ならではの幸せ」を感じよう。ささやかではなく、深く、豊かな、大きな幸せをかみしめてみてはどうだろう。

常に人からどう見えるかを気にする日本社会

 女性たちが「幸福感」を素直に感じていくという背景には、常に自分が「人からどう見えるか」を気にする日本社会にも原因があると思う。

 フランスに留学している親友と、こんな話をしたことがある。
 ある三十代の独身女性が「女の一人暮らしには台車があると便利」と言っていたのを聞いて、私は何だかちょっと寂しい感じがした。たとえ独身でも、重いものを運びたいときには誰かしら男手があってほしいものだと思ったのだ。

 すると彼女は「私が今の話を聞いて思うことは「確かに台車があったら便利だろう」という物質的なことだけ。ひとり暮らしで台車を使う彼女に対して寂しそうとか素敵とかいう感情は湧かない」と言う。

 もともと、みんながそれぞれのファッションで自由に個性的な暮らしをしているフランスでは、女性が「ひとりである」ということは「では具体的にどうやって生きていくか」という問題であって、「それが他人からどう見えるか」という問題にはいたらない。「そんなことを気にするのはおかしい」とかそういうことではなくて、はなからそういう考えが頭にない。

 たとえば、四十代で仕事をひとりで生きている女性がいる。これがフランスなら、「彼女はひとりで生活している」というだけ。
 でも日本だと、その「四十代で仕事をしてひとりで生きている女性」が、かっこいいか、羨ましいか、可哀想か、哀れか、ああはなりたくないという姿か‥‥
「それを他人がどう見るか」という部分が大きな重みを持ってくる。

 みんなが憧れるような仕事をしていて経済的に恵まれていれば「かっこいい」、容姿が若々しくきれいで若い恋人がいれば「羨ましい」。でも生活はギリギリで身なりも簡素なら、「可哀想」、彼氏も長いことはないとなれば「あの歳でひとりぼっちなんて、ああいうふうにはなりたくない! 」などなど。

 同じ「ひとり生きていく」でも、「結婚して子供がいる」でも、「結婚しているが子供がいない」でも「独身だが子供はいる」でも「一緒に暮らしているが籍は入れていない」でも、自分の意志でそうしている本人が幸せであればいいことなのに、その状態が「人からどう見えるか」が、常に問題になってしまう。

 同一化が重要な日本の社会で、他人からどう見えるかが大事なことはわかる。シングルマザーのわたし自身も日常のそこここで、「自分がどうみられているか」を考えて立ち止まってしまうこともある。フランスにいる彼女も「日本に帰ったら、私も同じように考えると思う」と言っていた。

 ただ、そればかり気にして生きていると、”人目”がすべての軸になり、自分に軸がなくなる。自分が何をしたいかではなく、自分がどう見られているかが先に立ってしまう。これでは真の幸せからかえって遠ざかってしまう。

 あなたも「自分が幸せかどうか」よりも「幸せに見られるかどうか」を優先してしまうことはないだろうか。大切なのは、あなたが本当に幸せかどうか、ということなのである。

「主婦のブログ」は幸せに見られるためのツール

 日本人の、およそ五人に一人が自分のブログを開設しているという時代。
 主婦たちの中にも、子育てやペット、料理やお弁当作りなどをテーマに日々のブログを綴っているひとは多い。この本を読んでくださっている方の中にも、人気ブロガーがいらっしゃるのではないだろうか。

 レストランでランチが運ばれてくると、フォークを手にする前にまずデジカメや携帯電話を手にして写真を撮るのは当たり前の光景になった。

 美しく盛りつけられた前菜を半分食べてしまってから「あーっ、撮り忘れた…」なんていうときのがっかりした、本気でくやしそうな表情を見ていると、ブログにかける情熱が生半可なものでないことがうかがえる。

 私はブログの世界にはまったく疎いが、書店に行くと「ブログ発」のレシピ本や子育てエッセイ、いろいろなジャンルのハウツー本など、それはたくさんの書籍が目に入ってくる。
 社会勉強と思って「主婦の人気ブログ」を覗いてみると、たしかに出版業界が目を付けるだけのことはある。

 写真はうまいし、文章もキャッチ―だし、とにかくマメに毎日、すごい人は一日に何度も更新している。中にはブログのために写真学校へ通ったり、文章力を磨く通信講座を受けたりする人もいるらしい。

 そして何より、そのブログの内容が多彩なことに驚く。家事をして、子育てしながら、よくこんないろいろな所へ出かけたり、キャラクター弁当を作ったり、
「ママ手作りのお洋服」を着せたりできるものだと感心してしまう。

 ただ、主婦たちのブログにかける時間や情熱が増えれば増えるほど見ている側としてはなんとなく不安なきもちになる。
 主婦ブログは本来「幸せな生活」を記事にするものだと思うが、それが「幸せに見られる生活」をつくりあげしまってはいないか。

 話に聞くと、主婦同士でもブログ合戦のようになり、誰のブログがいちばんアクセントやコメントが多いか「見えない競争」のようになっていることもあるそうだ。

 そこで「ブログに書くことがないからどこかへ行かなきゃ」とあせったり、「写真うつりのいいお弁当にしなくちゃ」と思案したり、「うちの子にもお友達をたくさんつくらなくちゃ」と画策するようになったりしたら、少し肩の力を抜いたほうがいい。

 いくらブログの中で「ほら、あたしってこんなに幸せなのよ」とアピールしても、書いているあなたが満ち足りていなければそのギャップが余計せつない。
 家事はみんなが気持ちよく暮らすために、お出かけは家族が楽しむために、料理や弁当は家族がおいしい! と言ってもらうためにあるのだから。

 ブログはあなたの生活や子供の成長を綴った大切な記録。後で見たらきっと家族のいい思い出になるだろう。子供のアルバムを整理するだけで精一杯のわたしには羨望に近い気持ちもある。
 でも、ときにはカメラを持たずに思い切り子どもと遊ぶ時間も必要ではないだろうか。カメラのレンズ越しではなく、肉眼で子供の表情をとらえてあげることも大切なのではないだろうか。

みんな同じ家に住んでいる!?

 主婦の夢・ナンバーワンは、昔も今もやっぱり”マイホーム”。ご主人たちにとっても、愛する家族のために家を建てることは、人生のひとつの明確な目標に違いない。
「子供にはのびのび遊べる庭が必要」と、片道二時間の通勤と引き換えに庭付き一戸建てを手に入れた知人もいる。

 毎日往復四時間もかかっていたら肝心の子どもたちと遊ぶ時間がなくなってしまうんじゃないかと心配になるが、それだけマイホームへの思い入れには特別なものがあるのだろう。そのマイホームを預かるのはもちろん主婦の役目だ。

 キッチンをはじめ、間取りやインテリアの主導権をとるのは圧倒的に妻なのだとか。お金は出しても口は出さないなんて、ことマイホームに関してはずいぶんものわかりがいいご主人が多いんだなあと感心してしまう。

 自分の意見もじゅうぶん取り入れられたマイホームはまさに「主婦の城」。わたしも子育て中、ずいぶん多くの”城”に親子ともども遊びに行かせていただいた。

 あるとき、娘を迎えに行って、遊びが一段落するまでのあいだ上がらせていただいたお宅のリビングルームで、わたしは不思議な感覚を味わった。たしかに遊びに来たのは初めてなのに、以前もこのソファでお茶を飲んだ記憶がある。夢? それともデジャ・ビュ?

 しばらく考えて思い当たった。少し前に遊びに行った、別のお友達の家のリビングとそっくりだったのだ。似たようなことがそのあとも何度かあった。

 広々としたリビングダイニングキッチンからカウンター越しに続く対面式のシステムキッチン。白木を基調にした明るいフローリングの床。同色系の上質の大きなダイニングテーブルセット。

 ベージュかグレー系のゆったりとしたコーナーソファにやはり同色系のクッション。落ち着いた色調のラグと大理石やガラスの天板を用いたローテーブル。そしてオフホワイトかアイボリーのカーテン。

 たしかに、同じ色や素材の組み合わせのインテリアは上品で感じがよく、統一感がある。家具は一度揃えたらなかなか買い替えられるものではないから、どうしても無難な選択になるのも頷ける。

 でも、やっぱりどこか面白くないのだ。ひとことで言えば、まるで、インテリアショップのショールームのよう。
 もちろん、ショールームのインテリアはひとつの理想形に違いない。「いつかあんな部屋に住みたい」と眺めていた願いが叶うのは素晴らしいことだ。ただ、せっかくあなたの家族のための家なのだから、もう少し好き勝手にコーディネートしたっていいんじゃないかと思う。

 あなたもインテリアを選ぶとき、「幸せのお手本」忠実であろうとして自分の好みを引っ込めてしまうようなことはなかっただろうか?
 好きなものに囲まれ、家族が気持ちよくくつろげることよりも、これなら誰が見てもとりあえず「素敵なリビングルーム」と言われるだろうということを優先してしまうことはなかったか。

 リビングルームは家族の顔。プライベートな趣味が前面に押し出されているのも息苦しいが、あまりにもよそゆきの顔ではもったいない。そこに「あなたらしさ」や「あなたの家族らしさ」がにじみ出るくらいの味があってもいい。

 マイホームを建てるときは「自分がどんな家に住みたいか」を指針に家族とあれこれ思いを巡らそう。憧れのマイホームが「ステータスの象徴」や「成功と幸せの証」にすりかわらないように。

「幸せに見られるための」ブランド物は必要ない

 この歳になって、「ブランド物って、いったい何だろう‥‥」と思うことがある。
 数年前までは、ブランドショップに立ち寄ることもあったし、しょっちゅうではないけれど気に入ったものがあれば買うこともあった。でもここ数年、あまり興味がなくなってしまった。

 そもそもブランドコゴがこれでもかとプリントされたバッグって、本当にかわいかったり素敵だったりするのだろうか? ブランドのマークがでかでかとデザインされた服や靴は、本当にスタイリッシュなのだろうか。

 要は、ほかの人の名前を付けて歩いているってことじゃないか? ブランドマジックに惑わされて実は宣伝させられているだけなのかも‥‥などと考え始めると”裸の王様”みたいな気分になってくる。

 先日、偶然レストランに居合わせて紹介していただいた女性が、とても素敵な黒いワンピースを着ていた。黒は素材の良し悪しがもっともあらわれやすい色だから、ひと目で高級なものだとわかる。

 胸元のカッティングやスカート丈の形もまさに流行最先端。袖口からは白くて細かいレースが藤の花のように美しく垂れていて、わたしは思わず見とれてしまった。
 次の瞬間、そのレースの一本一本の端に、ある有名なブランドのロゴマークを形どった小さな飾りがたくさんついているのに気づいた。そのレースのロゴマークはひっそりと、でも堂々と、そのブランドを主張していた。

「ああ、あれ、なくてもいいのになあ」とわたしは思ってしまった。そのロゴがなくても、というか、ないほうが、その服は素敵なのに。
 でも、あれがなければわたし程度のモード知識では、その有名ブランドのものとわかる商品のことは見抜けなかった。ブランド物は、ひと目でそのブランドのものとわかる商品のほうが売れる。おそらくあの服も、ロゴのレースがついていることによって何倍も売れるのだ。

 本当にあのデザインを気に入ったのなら、ロゴがついてなくて買うだろう。そしてその服に手を通すとき幸せな気分になり、似合うとほめられればさらに幸せになる。
 女友だちから、「素敵。どこで買ったの?」と聞かれると、たとえノーブランドの安物でもうれしくてほほえんでしまう。女性にとっておしゃれをする楽しみとは元来そういうことだと思う。

 もちろん、ブランド物には優れた商品が多いから、女性たちの物欲をそそるのは当然だ。ただ、多くの人がブランド物を買い求める心理の中には、「幸せに見られる」ためのツールとして必要としているところもあるのではないか。

 高いお金を出して買うのだから、ひと目でそのブランドのものと気づいてもらえなくては困る。あのブランドならきっとものすごい高価だろう。ということはあの人はセレブなんだわ、と思われたい。そんな本音があなたの心の中にも隠れていないだろうか?

 一時のブランド熱が過ぎ去ったら、自慢するためのブランド物はもう卒業してもいいのでは。間違っても「ブランド物レンタルショップ」を利用して一週間二万円で借りたケリーバッグを持って同窓会に出かけたりしないこと!
 歴史ある、由緒正しいブランド物は、やはり由緒正しい気持ちで身につけたい。

旅行は「家族旅行」でなくてもいい

 娘の小学校の春休みや夏休み、ゴールデンウイークや年末年始、まとまった休暇に旅行をするのはわたしの楽しみの一つだ。

 家族旅行といっても、うちは基本ふたりなので、行くと決めたらけっこう身軽。最近はもうふたり旅もサマになってきたが、娘が小さいころは旅の先々で決まって「あらあ、パパはお留守番なの? かわいそうねえ」

 そこでパパはいません、なんて言ったらかえって面倒になりそうで笑ってごまかす。そんな母ひとりの組みあわせがめずらしいものだろうか。
 だからというわけではないが、いつもふたりきりというのにも飽きて、旅の道連れを誘うことも多い。

 そのメンバーはいろいろ、母、彼、独身の女友達、独身の男友達、結婚している女友達とご主人などなど。
 それはそれまで傍目には奇妙に映るようで、「それで? この子のママは誰? パパはどっち?」などと言われながら楽しく過ごす。子連れのわたしの旅に付き合ってくれるいい友人に恵まれて本当に感謝している。

 娘は赤ちゃんのときからいろいろな顔ぶれで旅行をするのに慣れているが、同級生たちはびっくりするらしい。娘のことを「家族旅行」ができなくてかわいそう、と言う子もいる。すると娘は逆にびっくりしたらしい。
「みんなは、家族でしか旅行したことがないんだって!」

 たしかに、わたしも子供のころは父、母、兄との家族旅行しかしたことはなかった。そちらが圧倒的多数派である。

 でも、そこでふと考えた。結婚したら、パパ、ママ、子供たち、全員そろった「家族旅行」しかできないなんて、別に決まっていないじゃないか。
 誰ひとり欠けていると「かわいそう」なんて、そんなことは決してない。まわりからはどう見えようと、その旅行をした全員が楽しく、幸せな思い出が増えればそれでいいのだ。

 旅行となったらまずパパのお休みを確認して、息子と娘の行事を確認して、という段取りに馴れている主婦たちも、ときには忙しいパパを置いて子供たちだけ連れて旅行をしてみるのもいい。

 独身時代からの親友を小旅行に誘って、久しぶりに飲み明かすのもいい。パパがお兄ちゃんだけ連れて、男同士の旅に出るのもいい。どちらかの実家に子供たちを預けて、夫婦水入らずの旅を楽しむのもいい。

 たまにはいつもの家族旅行とは違うメンバーで旅をすることは、主婦にとっても子供たちにとっても貴重な経験になるのではないだろうか。
「お父さんだけ置いてきちゃったの? お気の毒だこと」
「まあ、独身気分で旅行なんていいご身分ね」
「子供たちを預けて? 最近のご夫婦は気楽なものねえ」

 このような視線は覚悟の上だ。結局、諸事情が許さず実行には及ばなかったとしても、少なくとも、家族旅行以外の旅行を考えたこともない、というよりはいい。

 どんな休日も「こうでなければ幸せの形ではない」という枠を外せば、新しい風が吹き込んでくるのではないだろうか。

公園に見る「幸せの構図」

 わたしは娘が生まれてからずっと、たくさんのお母さんたちに助けてもらいながら子育てをしている。
 
世間でいう、”公園デビュー”をしたときは、すぐにお母さんのひとりが声をかけてくれた。便利な赤ちゃんグッズを教えてもらったり。オムツの安いお店に連れて行ってくれたり、おやつを分けてもらったり、あっととう間に小さくなってしまう子供服を出すバザーに誘ってもらったり。

 新参者のわたしにお母さんたちはみんな親切だった。もともとあまり子供と接した経験がなかったわたしは、はるかに年下であろう彼女たちのベテランぶりに感心するばかり。
 子育て仲間同士で、子供を預けてあったり交代でお互いの家で遊んだりできれば双方、ギブ・アンド・テイクなのだろう。でも子育て初心者のわたしは何の役にも立たない。

 人様の子供を預かるなんてこわくてできないし、ほんの数分「ちょっと見ててくれる?」なんて言われただけでドキドキしてしまう。恥ずかしながら、”主婦の愛車”自転車に乗れないので、足並みも揃わない。

 親切にしてもらってお礼を言うと、みんな「お互い様よ~」と言ってくれるのだが、そのお互い様がわたしにはかなりハードルが高かった。彼女たちと同じことをわたしにはとてもできない、と思うと心苦しく、いつもどこかで申し訳ない気持ちがあった。

 どうしてみんな、こんなにいい人なのだろう。それがわたしには不思議で仕方なかった。もし逆の立場だったら、わたしははじめて公園に入って来た親子連れにこちらから声を掛けただろうか?
 向こうから何か聞いてきたり話しかけてきたりするまで、ほっといてもいいんじゃないかなと思ってしまう。そう思う私は冷たいのだろうか?

 こうしてあちこちで自然発生的に子育てサークルが出来上がる。それは「地域で子供を育てる」という理想に近いのかもしれない。
 でも、誰もが自由に遊べる公園がサークル化したことによって、暗黙のルールが生まれる。どこでもリーダー的な存在になるお母さんがいて、何となく上下関係も出てくる。力のない人はある人に従わなくてはならないし、それになじめない人は出て行くしかない。

 だからこそ、その秩序を守るために必要以上に親切で、いい人であることが要求されてくるのではないだろうか。
 私はほんの一年ほどで引っ越してしまったので、私と娘の公園デビューには楽しい思いでしか残っていない。

 けれど今になって、いかにも「幸せそう」だった公園のママたちも、微妙な力関係の中でけっこう気を遣って大変だったのではないかなあ‥‥と思う。

 あなたも、そんな「幸せの構図」に疲れたときは、少し遠くの公園に子供とふたりでふらりと出かけて見てはどうだろう。いつもとまた違う景色が広がっているかもしれない。

ボランティアという名の強制にならないために

 子供が小学校に通っている間、毎年新年度が近づくたびに憂鬱になるのは”PTA役員決め”ではないだろうか。近年ではポイント制なども導入されて、ますますシビアになっている。

 低学年の間は、上に兄姉がいて勝手の分かっているお母さんがさっと立候補してすぐに決まる。中学になると、「今の内にやってしまおう」というお母さん方が多く、たくさんの手が上がり、ジャンケンで決めることになる。

 その間ぼんやりとその様子を見ていたわたしなどは、高学年になって「ポイントの少ない人」としてクジ引きにかけられ、ようやく役員を引き受けることになる。
 私も別に、絶対やらないで逃げちゃおうと思っているわけじゃない。子供がお世話になっている学校なのだから、最低限のことはしっかり努めようという気持ちもある。ただ、「本当に気が進まないことなのに名乗りを上げる」というのがどうも腑に落ちないだけなのだ。

 ボラティアとは本来、「自分の意思によって自発的に奉仕活動をすること」。でも、自由意思にまかせていたら誰もやりたがらないから、ポイント制などで「半強制」にするしかないということなのだろう。

 本当は、そんなにみんなが「できることならやりたくない」と思う制度自体に問題があると思うのだが、長年続いて来た伝統は、断ち切るより続けたほうがたやすい。
このまま少子化でさらに子供が少なくなって、PTAの仕事も行きつくところまで行けばまた、改善の余地が出て来るのだろうか。

 学校だけではなく、子ども習い事やスポーツ、さまざまな活動に対する保護者(主に母親)の行う「ボランティア」のほとんどは強制」に近づいていっている。いつの間にか「自発的」奉仕ではなくなって、一部の「やる気のある主婦」の指示に従ってまわりが動くかたになっている。

 こんなとき、ボランティア(という名の強制)の強いところは、「善意である」ということだ。善意でしていることだから、手伝って当たり前。善意だから、みんなが協力して当然、そんな空気があるからこそ、誰も断れない。

 たしかに、さまざまな行事やイベントは、主婦たちの協力がなければ成り立たない。ただ、年々仕事の内容がバージョンアップされ、気がつくと膨大なマニュアルが出来上がる。ボランティアの領域がどんどん増え、主婦の負担が増える。

 あなたもいつの間にか、ボランティアの仕事に追われて、愛する我が子のバッターボックスを見逃してしまうようなことになっていないだろうか?

「いいんです、うちの子のことは」と、ほかの子どもたちのお世話のために奔走する主婦の姿からは「滅私奉公」という言葉さえ浮かぶ、日本人の美徳である滅私奉公も、度が過ぎるとあなたの幸せを犠牲にすることになりかねない。

 ボランティアに参加することは幸福な主婦のひとつのステータスシンボルだ。でも、その基本は愛する家族のためである。肝心の子供が不在になってしまっては、何のためのボランティアかわからない。

 まわりに迷惑をかけない程度の義務はこなし、それ以上のボランティアに関しては一線を画す。あるいは、かわりに自分が出来る事を提案する。そんな主婦が少しでも増えたら子育ての現場も変わるのではないだろうか。

「いい奥さん」「いいママ」の落とし穴

「いい奥さん」「いいママ」というほめ言葉から、あなたはどんな主婦像を思い浮かべるだろう?
 上品で、いつもニコニコしていて、人当たりもよく、誰にでもやさしい。料理上手で家事もてきぱきとこなし、家の中はいつもすっきりと片付いている。

 ダナン様を立てて、自分は一歩引いているけれど、しっかり家計はやりくりしていて、冠婚葬祭のマナーや季節の贈り物もぬかりなく、美しい文字でお礼状が書ける。
 子供にもやさしく、でも𠮟るところはしっかり𠮟る。学校行事や会合にも積極的に参加し、協調性があって社交上手。だいたい、こんな感じだろうか。

 もしあなたがこんな主婦象には全然当てはまらないと思っても、嘆くことはない。「いい奥さん」像、「いいママ」像というのは、「いい女」像と同じように、しょせん虚像にすぎないのだから。

 夫や子供のために尽くしたり努力したりすることはもちろん大切なことだが、世間一般で言われている「いい奥さん」「いいママ」像になる必要はないのだ。そのために無理したら自分が自分でなくなってしまうこともある。

 わたしの周りにも、たくさんの「いい奥さん」や「いいママ」がいる。
「いい奥さん」は夫や姑さんに言いたいことは言わない。子供の前では絶対に夫婦喧嘩はしない。急いでいても、ご近所づきあいの立ち話にもつきあう。

「いいママ」でもいたいから、疲れていても子供の友達を家に呼んでもてなす。子供の受験勉強につきあって深夜まで勉強する。自分も小さい子がいて大変だけど、”お仕事ママ”のかわりによその子を塾に迎えに行く。

 それがあなたの「幸せ」の範囲であればいい。でも、ちょっと無理しているな、と感じたときは、「いい人になりすぎない」ように気をつけよう。ノーと言う勇気を持つことも、幸せな主婦になるための大切な条件なのではないだろうか。

「いい奥さん」や「いいママ」であろうとして窮屈な思いをしているのなら。もう一度原点に戻ってみよう。あなたは本当は、どんな奥さん、どんなママになりたいのだろうか?

 そして主婦だって、喜怒哀楽をあらわにしてもいいのだ。信頼する人の前なら、たまには泣いたりわめいたりしてもいいのだ。素直な感情を表に出して家族にうったえたっていいのだ。

 多少、いたらないところがあっても、自分にしかなれない「いい奥さん」「いいママ」になればいい。あなた自身が家族とともに生きる幸せを感じていれば、夫や子供にとって、あなたは間違いなく「いい奥さん」「いいママ」なのだ。
つづく 第三章 主婦が「自分を持つ」ということ