不幸と快楽

快楽と幸福という二つの言葉をならべてみますと、そこには何か違った印象を受けるものです。
快楽という言葉から、私たちは何か官能的な悦びを、感覚的な快楽、そして炎のように烈しく燃え上がるが、やがて燃え尽きるものを感じます。
だが幸福と申しますと、河のようにひろびろとしたもの、感覚だけではなく、ふかい経験や理性に支えられてゆっくりとしたもの、烈しくないが、決して燃え尽きない暖い火のようなものを心に浮かべます。
だがそれだけではやはり二つの区別は曖昧です。この点をもう少し深く考えてみましょう。
まず快楽ということが考えられるためには当然、不快ということが予想されねばなりません。そしてそれと同時に私たちが幸福をねがうのは片方に不幸ということがあるからです。
ところが私たちは実生活で非常にしばしば、この不快と不幸とを混同させて考えている。幸福と快楽ということになると、よほどの馬鹿でないかぎり、いっしょにはしないものですが、不快なことが連続したり、集積して身に迫ってくると自分は幸福じゃないんだ、不幸な状態にあるんだと誰でも考えがちです。
皆さんも手を胸に当ててちょっと、お考えになってごらんなさい。
たとえば、春の花ざかり、友だちと四、五人集って、酒を飲む。酔いもまわり、心おきなく話もでき大いに愉快である。この時、ちょっと自分は幸福かと考えてみる。
すると心のどこかで、この空々しいものになり、愉快な気分も酒の酔いがさめてしまえば、消えてしまうのだなとチクリと呟くものがある。
今、肩をたたきあい、無二の親友のように歌を歌ったり、話し合っている友人も、明日になれば同じ会社での競争相手、と思うと、また、チクリと心をさすものがある。
すると、もう駄目です。酒の酔いも何か空々しものとなり、愉快な気分も一時にさめてしまいます。快感と幸福とは同じでないことは、このように酒飲みにでもわかるものです。
不快
だが不快と不幸との区別は実生活ではなかなかわからない。不快ということはいろいろな定義がありますが、要するにわれわれのさまざまな欲望が充たされぬ時、起こる感情なのであります。
私たちは醜いものを見た時、不快感を感ずる。自尊心という具体的な自己充足の欲望が傷つけられたからです。
このように一応、不快を精神分析者のように定義しておきます。貴方の色々な欲望を例にとりましょう。
アルバイトをせずに学校に行けたら、どんなにいいだろうという気持ちがあるとします。だが現実はそうはいかない事情がある。
これだけでは自分は不幸だとは思わぬかもしれない。なぜなら、自分の周囲にやはり同じようにアルバイトをして学校に行っている友人たちがたくさんいるからです。
この共通感や連帯感は多くの場合、私たちを自分は不幸だと錯覚させる感情から救ってくれるものです。
だが、もし、この連帯感から離れた所であなたが独りで悩まねばならぬような事態が起きたとします。
たとえば、下宿代を払えなくて追い出されてしまったというようなことです。すると急に貴方は下宿を追い出された不快感と共に、自分がアルバイトをせねばならぬこと――その他もろもろの不快感を同時に、連続させて思いだして、自分を不幸だと思うのであります。
幸福論
貴方たちだけではない。多くの幸福論の中には、この不快感と不幸感とを混同して考えているものがある。
快楽論
早い話が、哲学史をひもとく時、すぐ眼につくエピキュロス派の快楽論がそうです。ギリシャの末期にエピキュロスという哲人がとなえた人生快楽説なのですが、これは単にしたい放題の快楽を行えという考えではありません。
われわれの快楽は限界すぎると飽満感や不快感を伴うものであることをエピキュロスはちゃんと知っていた。
孤独感や寂漠感を伴う快楽なら、それは制御しなければならない。この制御する知恵を持てというのが、平たく言うと、エピキュロス派の快楽論なのです。
だが、これだけなら彼は間違ってはいない。彼が間違っているのは、この快楽にブレーキを与え、不快感をさけることを幸福に至る知恵と混同した点にあります。出発点はつまり人間の不快感と不幸感とを同じ面の上で眺めているのです。
もし不快感を不幸といっしょにするならば、人生はもともと不快感を消すことができぬように出来あがっているものです。
アルバイトをせねばならぬ。この不快感はやがて消されるかもしれません。下宿代をキチン、キチンと払えず、毎日、下宿の主人に嫌な顔をされる辛さ、こけも何時かは消されるかもしれない。
だが、それが消された後も、貴方には絶えず不快なことは数限りなく起こって来るに違いない。
こんなことは今更、申し上げなくとも、わかりきったことです。
要するに人間にはどうにも逃れられぬ不快感が三種類あることを高橋義孝氏がのべていられます。
高橋氏はその説をご自分でも書いていられるようにフロイドの「文化の不安」から引用されているので、私もそのフロイドの文章を便宣上、紹介してみます。
「このようにわれわれの幸福の可能性というものは、人間の素質によってすでに制限されている。だから不幸を知ることの方が、はるかに困難ではないわけである。
人間の苦悩は三方からおびやかされてくる。
まず自分自身の肉体から来る苦悩がある。肉体とは崩壊し解体する運命をおびて、おまけに苦痛や不安さえも危険信号として加わらなければすまないものもある。
次に外界からくる苦痛があり、それは強烈な破壊力によってわれわれに対して襲いかかる。
他の人間との関係から生ずる苦悩
最後に他の人間との関係から生ずる苦悩がある。この最後の源泉から生ずる苦痛はおそらく他のすべての不幸よりもはなはだしい苦痛と感じられるであろう。
ところがわれわれはこれをとかく余計なおまけと見なしたがる傾きがあるのだ。実はこの最後の苦悩は別の原因で生じた苦悩と同様にほとんど宿命的に避けがたいものである」(土井正徳訳)
このフロイドは不快と不幸とを混同して考えているのも前に述べたエピキュロスと同じなのですが、それはともかく、人生には肉体や外界や他人から来る不快感、苦痛感は現在の状態でも未来でも避けられぬものです。
社会の革命は部分的にはこれを除去することができるとしても、本質的には変えることはできますまい。たとえば肉体の苦痛、死の恐怖というものは永遠に人間を脅かすでしょう。
苦痛感
こうした避けられぬ苦痛感、不快感を不幸とするならば、われわれの人生は本質的に不幸なものだということになるけれども、考えてみればこの苦痛感、不快感が避けられぬものである以上、誰もが味わうものです。
つまり人生にとってさけられぬ、受け身的なものなのです。
だが幸福とは言うまでもないことですが、受け身のある状態をいうではなく、わたしたちが創りだすもの、私たちが創造するものである以上、だれにも共通した不快感を自分だけが味わっているように思い込み、そして自分だけが不幸だと思い込むことは理屈からいうとばかばかしいはずです。
快楽は陶酔である
そこで私たちは、平生こういうふうに考える訓練を自分にやってみておく必要がある。人間である以上、人生に生きる以上、避けえられぬ苦痛(病気、他人など)を自分だけが背負いこんだ不幸とおもわぬこと。
こうした苦痛や不快感は万人とって量の多少こそあれ、共通したものである以上、それは人生の前提であるのですから不幸ではないと思うことにしたい。
不幸というものは人生のどうにもならぬ前提に負けてしまうこと、そこから、なおも幸福を創る決意や意志のないことだと考えることなのであります。
言い換えれば人生や人間にたいし信頼を失い、絶望することを不幸と見なしたい。
不快とは状態です。けれども不幸とは幸福を創り出す行為や意志を全く喪ったことです。
これを逆に考えると、私たちは、快楽と幸福との区別がややハッキリわかってくると思います。快楽は状態であり、幸福とは行為です。
この「状態」と「行為」の差別をもっとやさしく理解するには、情熱と愛とのちがいを比較するのがよろしい。
貴方がある女性と親しくなる。そしてある日からだんだん、その女性のことを気にかけはじめる。
その女性のやさしい微笑みや言葉が、ほかの女友だちのそれとは違っていつまでも忘れられなくなる。彼女に毎日,会いたいと思う。
これは情熱であります。だが愛ではない。なぜなら――よく考えてごらんなさい。
このような情熱にひたれるのは何もあなただけではない。
貴方の他の友だちA君もB君も好ましい女性があらわれれば必ず、かかる状態だからです。つまり、そこには貴方の努力も決意もはいらない。
貴方にも他の人間にも――人間である限り誰にでも持てる状態だからです。
だが、愛はこれと違います。愛するとは状態でなく創る行為です。貴方がその女性を幸福に創りあげるためになしていかねばならぬ努力や決意は個人の自由に委(ゆだね)せられています。
その努力は決してやさしいものではない。情熱のように華やかなものでもない。
困難を忍んでしかもなおその努力を行うということは貴方の決意と自由とに関(かかわ)っているものです。A君もB君も同じようにひたれる状態ではない。創る行為です。
快楽が「状態」であり、幸福が「行為」であると私が区別したのもこのような意味です。
快楽はある程度の方法さえつかめば誰でもひたれるものです。
そして不快は人生において、誰でも量的な差こそあれ味わねばならぬ「状態」です。だが幸福であることは誰でもが出来るものではない。
それは私たち個人の意思や自由や心がまえによるものであるということができるのです。
もちろん、私が先ほど「理屈で言うならば」と書いたように実生活ではこの不快と不幸を区別することは、なかなかむずかしい。
そして私たちがともすると不快や苦痛を逃れるために同じ「状態」という本質をもっている快楽にすがるも、そのためなのでしょう。
快楽は幸福のように遠いもの、抽象的なもの、意志や努力によって少しづつ築き上げていく忍耐のいるものではなく、ナマの感覚である以上、私たちには手近かに掴(つか)むことができるからです。
かつて私は療養所にいたことがありました。その時、病気という苦痛感、不快感を逃れるため患者たちがさまざまの快楽に逃れるのをよく見たものです。
自分だけが最も不幸なのだ
療養所の患者たちの中には病気にかかった自分を不幸と思っている人が多い。
中には――特にこれは女性患者に多いのだが――このような不幸を背負い込んだのは自分だけだ、自分だけが最も不幸なのだと考える者さえいるのです。
もちろん、病気を癒(いや)すためには、患者は肉体と共に精神的な安静を守らねばならぬことはいうまでもない。
だがこの安静をまもるということは健康な人が考えつかぬほど苦しいものなのです。たとえば女性患者たちは皆、入院費や治療費のことを考える。家庭に残した夫や子供のことも気にかかる。
あるいは自分が骨を六本切ったため、将来、結婚できないのだと苦しむ娘もいる。そうした不安や心配が精神的な安静をどうしても妨げるのは無理からぬことなのです。
その時、彼女たちは余りに自分の病気やそれらから受けた被害を思いつめるために、他の患者たちの境遇まで考えてみようとはしなくなるものなのです。
私は不幸だ、いや、私は一番不幸なのだと思い込むのは、そのためです。
安静をまもり、眼にはハッキリ見えぬが、少しずつ、回復にむかって努力していくこと――これは案外、むずかしい。
患者たちはその時、この努力や忍耐よりも、手近かな快楽にすがって病苦を忘れようとする場合があります。
たとえば酒、酒を飲むことはもちろん、病気に悪いことは分かっている。にもかかわらず、ひそかに酒を飲む患者たちは一時の酔いによって病気の苦痛を鈍くし、心の不安をかりそめにも消したいのです。
たとえば、病院をエスケープして街に遊びに行くこと。健康な人々が歩いている街を歩くことは患者たちに、自分も健康者の一人のような錯覚をほのかに与えてくれるからでする
それから異性。療養所に生まれる恋愛にはもちろん、建設的なものも多いのですが、中には病気と死に対する不安感と焦燥とから眼をつむるために相寄っていく男女患者もいるのです。
彼等の恋愛になにか悲しい暗い、影の落ちるのもそのためです。そして彼等自身もそれを知りながら、やはり、この逃避を選んでしまうのであります。
こうした不快や苦痛を逃避するための快楽を私たちは早急に非難するわけにはいかない。
なぜなら、先にも書いたように不快や苦痛が感覚的なものである以上、快楽もまた本質的に感覚的であり、幸福という努力や忍耐を必要とする道より、手っ取り早く選び苦痛を一時的にせよハッキリと軽減させてくれるのは誰の眼にも明らかだからです。
快楽とは何
問題はここからむしろ始まるようです。つまり、これは第一に現実の苦痛や不快に対して快楽はどの程度の救いを与えてくれるかということであります。
まず、快楽とは何かという点から考えてみましょう。快楽とは幸福と違ってナマの感覚でひたれる「状態」だと私は先ほど書きました。
言い換えれば、それは感覚的な陶酔です。スポーツを考えてごらんなさい。
肉体を存分に動かせるあの陶酔感こそ、スポーツの与える快楽です。音楽という快楽は、美しいメロディに自分を忘れさせてくれる快楽であります。
ある一枚の絵を見た時の悦びも、美しい女性から受ける悦びも一致した共通点を持っています。それは陶酔ということです。
快楽とは陶酔です。陶酔とは平たく言えば「我を忘れて」悦びに浸れる状態です。
「あまり楽しかったので我を忘れてしまった」という言葉があるでしょう。
あれなのです。すると、快楽とは、我を忘れさす状態だといえます。
我――つまり現実を不在にしてしまうものであります。現実のもつ不快や苦痛を一時的にしろ不在にし、別の幻の世界に生きるのが快楽です。
だが、この状態はなぜ、何時までも続かないのでしょうか。私たちは誰でも、快楽には限界があり、そして、それが終わった時、味わねばならぬあの寂しさを知っています。
その寂しさや限界の理由は二つある。第一は繰り返しであり、第二は死の意識です。
第一の場合――普通、感覚的な快楽はそれが絶頂に達すると、それ以上、昴揚しないものです。ふしぎなことですが、その時、今まで陶酔していた自我はふたたび現実に引き戻されようとする。
それを忘れるためには、私たちは第二のもっと強い快楽、もっと烈しい刺激を求めねばなりません。そして更に
第二の快楽や刺激に狎(な)れると、ふたたび、現実に滑り落ちようとする。
更に第三の快楽が必要になってくる。第二番目の快楽よりも更に強い快楽を、です。
このことは誰でもごぞんじのはずです。早い話が恋愛の場合を考えてごらんなさい。もし恋愛が先ほど申し上げたように「情熱」だけに頼っていて、努力と忍耐とを要する愛を無視するならば、いかに美しい女性に対しても私たちは狎れてしまいます。
どんな美人とでも百日間、朝から晩まで顔をつき合わせていたら馬鹿でない限り食傷してしまうものでしょう。
十八世紀のフランスにサド侯爵とよぶ男がありました。普通サド侯爵はあのサディズムの元祖としてしか知られていませんが、彼はまた、おそろしくたくさんの作品を書いた文学者でもありました。
サドのことをここで詳しく述べるわけにはいきませんが、彼はその作品の中で人間の考えられるあらゆる倒錯した肉欲の世界を築き上げようとしたのです。
だが、もし彼の作品の中で私たちを心うたしめるものがあるとすれば、その一つは、人間の究極が最後に陥らねばならぬ底知れない虚無なのです。
サドの悲劇はまさしく、現実をわすれるため、あらゆる性的な感覚を追い求めた末、結局は黒々とした、風の音を耳にしながら、深淵の前にたたずんでしまったことなのです。
快楽は本質的に狎(な)れと繰り返しとを含んでいます。私たちが快楽の世界に溺れる時、必然的に感ぜねばならぬあの悲哀と寂莫感はこの繰り返しのためなのです。
すべて繰り返すというは人間に無限の単調さと意味のなさを感じさせます。誰もいない午後、ひとり、時計の音だけを聞きつづけてごらんない。
秒針の刻むチク、タクという音は私たちが何故か、人生の空しさを予想させます。
刺激から次の刺激へ、快楽から次の快楽へ――そして、しかも尽きることのないこの繰り返しは私たち人間に時計の音などとは比較にならぬ絶望感を与えるものなのです。
快楽と人生はこの「終わり」
快楽をさまたげる第二のものに死の意識があります。
繰り返しの空しさ、その虚無感だけでも私たちは何か死の臭いを連想するのですが、更にあの肉体的な死、人間はいつか死なねばならぬという意識が快楽の最中に突然、甦(よみがえ)ったならばどうでしょうか。
いや、そういう想像だけでなく、本当に快楽に浸った者なら誰でも経験があるものなのですが、死の意識は人間が快楽にある時、ふしぎに襲ってくるものなのです。
それは快楽というやがては燃え尽きねばならぬものが、やがては終らねばならぬ我々の人生を連想させるからです。快楽と人生はこの「終わり」という本質的な共通点を持っているからです。
快楽の悲しさはそれが死の意識と結びつくからでしょう。
貴女は秋の夕暮れ、草叢(くさむら)で交尾している二匹のカマキリをご覧になったことがありますか。
奇妙な例ですが、このカマキリの姿ほど快楽のもつ究極的な悲哀を映し出すものはありません。
カマキリの雄は性の営みを終えた後、死んでいくのです。
彼の妻は生き残って卵をうむ力を蓄えるため、夫を食い殺すからです。人間の場合はこのように直接的な死は訪れなくても、ある死の予感がそこに含まれることも否(いな)めません。
もちろん、貴方たちの中にはこのような快楽のもつ下降性に反対される方もあるでしょう。文学者でも快楽を生の意識の一番、ハッキリした感覚と見なした人も少なくありません。
たとえばローレンスがそうです。それから若い頃のジイドがそうです。けれどもジイドにしろ、ローレンスにしろ快楽のもつ「繰り返し」の面にはほとんど触れていません。
私は近ごろ、若い人たちの間に流行している「肉体的な感覚こそ最も本物であり確実」という言葉に全面的に反対をしませんが、しかし、それは快楽をまだ少ししか味わなかった言葉です。快楽はいつかは、この繰り返しという壁にぶつかるでしょう。
快楽にもし罪の臭いが吹き込んでくるとしたら、それはその時なのです。快楽のもつ悲哀感が私たちに、何か人生を裏切った感情を呼び起こすからです。
差し込み文書
「性生活において75%の女性は長さも太さも重要であると考えており、サイズが小さいかっこいい男よりも、サイズが大きいけど平均的見た目の男の方が好ましいと81%が回答しています。
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と言われております。
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これが究極のオーガズムと呼ばれるものであるWikipedia提供文献からから推測される」
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オーガズムの定義から引用
つづく
快楽のもつ悲しさ