「恋すること」と「愛すること」

ぼくが今まで言いたかったのは「情熱(パシオン)」と「愛(アムール)」とのちがいです。ぼくは多くの恋人たちや、また多くの恋愛論がともすれば混同している情熱と愛とのちがいを考え、「恋すること」と「愛すること」の明確な区別を指摘したかったのです。
「恋する」という言葉をフランスでは普通Aimer(エメ)と字引に書いてあります。
けれども本当を言えばこの場合「恋する」とはetre amoureux(アムルー) euseと言う方がよいと思います。そしてAimreこそは「愛する」と訳した方が正しいでしょう。
恋すること、つまり異性に対して情熱を持つこと、これは「愛する」こととはちがいます。なぜなら、恋することは、その機会や運命さえあれば誰でもできるように、貴方だって好ましい男性が現れたら恋をすることができるように、貴方のお友だちのAさんもBさんも、それぞれ、適当な恋人さえ見つける幸運さえ持てば、恋することができるのです。
貴方たち若い女性は何時も恋人の現れるのを待っていらっしゃる。
そして、その「いつか」がやってきた時、貴方は恋をすることができる。
恋をすることはそれほど大きな努力も、忍耐も深い決意もいらないものです。彼を好ましいと思い、信頼のできる青年と考え、そして心惹かれはじめ、相手の情熱を感じさえすれば恋をすることができる。それは人間の本能的な悦びだからです。
美しい花に向かって蜜蜂たちが本能的に集まるように、貴方は彼にむかって自然に傾いていくことができます。恋をした夜、貴方は白い窓をあけて夜の匂い、大地の匂いをやさしく、かぐことができるでしょう。
そんな時、貴方は御自分におっしゃるでしょう。「私は彼を愛している…・」と。
「恋している」
だが待ってください。言葉を正確にするために言い変えましょう。貴方はまだ彼を「愛している」のではない。「恋している」のに過ぎないのです。他の女性と同じように一人の男性に情熱を感じているにちがいないのです。胸に手を当てて彼と貴方とが今日までしたことを思い出してごらんなさい。
貴方は彼と夕暮の人影のない坂道を二人きりで、ゆっくりと上がったこともあったでしょう。雪の降る夜の街をたがいのポケットに手を入れ暖ためあいながら歩いたこともあったでしょう。
彼の病気の日、朝から夜まで病床で看病をしてあげたこともあるかもしれない。彼が仕事のこと勉強のことで挫けた時、一生懸命、慰めてあげたこともあるでしょう。
ちょっとした誤解から嫉妬をして眠れぬほど苦しい夜をあかしたこともあるかもしれない。それから再び二人寄り添った時、もっと幸福な気持ちに浸かった経験も思い出されるでしょう。
だが、それらはやはり恋することの経験であって、愛することの経験ではない。愛の形に似ているけれども、やっぱり恋であって愛ではないのです。
なぜなら、そんな経験は些少(さしょう)の形のちがいこそあれ、貴方だけでなく恋をした全ての女性が、多かれ少なかれ味わったことだからです。どんな安っぽい恋愛小説にでも、ぼくたちがたった今、あげたような場面(恋人と夕暮れ、坂道をのぼり――嫉妬のため苦しい一夜をあかすような場面)は出てくるものです。
どんな歯のうくような恋愛映画にも、このような思い出やシーンは倦(あ)きるほど見受けることができるものです。勿論、ぼくはこのような思い出が詰まらないなどと言っているではありません。
たとえ、他の誰もが味わった経験にしろ、貴方にとっては、それが「彼」とやったものである以上、この上なく貴重な、この上なく大切な追憶や出来ごとであったにちがいない。
けれどもその個人的な価値を無視するならば、たしかにこのような恋愛の経験はありふれたものであり、誰でもが味わえることであり、そして容易(やさ)しいものなのです。
恋愛論
スタンダールの『恋愛論』を開いてみますと、そこには女性が恋をする心理の過程が、さながら高速撮影で運動選手の手足の動きを映した時のようにハッキリと図式化されています。皆さんの中にも恐らくお読みななった方もあると思いますが、十七世紀のフランスの小説に『クレーヴの奥方』(ラファィエット夫人作)という作品があります。
この小説にでてくるクレーヴの奥方の恋愛心理を二十世紀の作品であるラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』の主人公、伯爵夫人の恋愛心理と比較してごらんなさい。
時代こそちがえ二人の女性が男を愛するまでの恋愛心理の過程や動きはほとんど似たようなものです。
印象――好感――もう一度会いたいと思う気持ち―軽い嫉妬―彼のことが気にかかりだす―その自分の心を持て余しはじめる―自分の恋心を否定しようとする――と言った風に、ぼく達はさながらグラフ用紙にグラフの線を書き込むごとく、彼女たちの心の動きをたどることができます。
勿論、こうした心理図式が正確であるかどうかはわかりません。けれども、それは別の問題なのです。おそらく女性の心はもっと微妙なもの複雑なものですから、この心理図式で全ての女の心を割り切れるはずはありますまい。
けれども、こういう図式さえできるという事実は恋愛の心理過程や経験が昔から今日まで、それほど変わりなかったことを示しているのでしょう。貴方が彼にたいして味わった心の過程も体験も、表現の微妙な違いこそあれ、A嬢もB嬢もC嬢も、もし恋をすれば、同じように味わうにちがいないということです。
愛すること
だから貴方は彼に「恋をしている」のであって、まだ「愛している」のではないのです。恋にはそれほど烈しい努力も忍耐も克己もそして創造力もいらぬことです。
だが愛すること――それは恋のように容易(やさ)しいことではない。
「愛すること」には恋のように烈しい炎の華やかさも色どりもないのです。その代わりに長い燃え尽きない火をまもるため、
決意と忍耐と意志とが必要なのです。
人間にはそれほど強いものではないように恋人たちの情熱も、今あなたが考えていられるほど、強いものではない。
むしろ情熱は烈しく燃え上がるものである以上、やがては燃え尽きねばならぬ運命さえ持っているように思われます。情熱のもつ矛盾やその危うさについてぼくが今日まで繰り返し、繰り返し申し上げたのはそのためなのです。
貴方が今、恋していらっしゃるなら、貴方は彼と自分とがいつまでも恋しあっていくと信じて入らっしゃるでしょう。
二人の人生の上に不幸や悲しみや苦痛が訪れることも余り考えていないでしょう。いや、そうした不幸や悲しみがあっても、彼と一緒なら平気で乗り超えていけると考えていらっしゃるかもしれない。
幻滅
彼に幻滅したり、信じ切れなくなったりする日があるかもしれぬとは想像もなさらないでしょう。そして彼もまた貴方に幻滅することがあるとも考えていないでしょう。
つまり、貴方は今日、彼の強さに自信をもっていらっしゃるのです。それは当然のことです。誰だって恋をすれば恋人をすぐれた人と思いたがるものですし、そして自分たちの未来だけは幸福に結びついていると考えずにはいられないものなのです。
けれども人間はそれほど強くないように、恋人たちもそんなには強くないのです。恋というものは、相手の完全や絶対を心ひそかに願うものですが、そうした願いを恋愛は充たしてくれるものではありません。現実の不幸や悲しみは貴方と彼だけを除外してくれるほど甘いものではない。
人生の辛さ、疲労、倦怠
貴方の夢を砕くようで気の毒ですが、ぼくが今あげたような御二人の信頼が時として砕かれ、足をすくわれる日が必ずやってくるものです。生涯、その信頼や情熱を一度も失わず生きていった恋人や夫婦というものはこの地上には決してありません。
安定は情熱を殺し不安は情熱をかきたてる
恋人や夫婦の間には多かれ少なかれ、人生の辛さ、疲労、倦怠というものが必ず見舞ってくるのです。貴方と彼との場合も例外でない。
いつかは貴方たちも躓(つまづ)いたり、よろめいたり、彼のそばで孤独の淋しさを味わったりする日が来るかもしれない。彼がどのよう立派な人間でも、なぜか充たされぬ不満が貴方をくるしめるかもしれない。
愛とは矛盾に充ちたもの
なぜなら人間の愛とは矛盾に充ちたものだからです。安定は情熱を殺し不安は情熱をかきたてるということは既にぼくたちが考えた通りです。貴方と彼との結びつきが、外眼では安定すればするほど、疲労や倦怠も強くなっていくものです。
まして、その上に生活上の困難や現実のみすぼらしさが加わるでしょう。人生は映画のように甘い、優しいものでない以上、そして貴方たちも人間である以上、くたびれたり、飽きることは当然なのです。
その時――「恋をする」ことは全て消え去るかも知れません。葩(はな)が次第に色あせ、褐色になり、そして地面におちるように、今日、貴方が彼に持っている情熱は疲れていくかもしれない。
けれども、その時「恋すること」の代わりに貴方は「愛すること」をはじめねばならないのです。愛することは決意と意志と忍耐とからはじまるのです。だから、それは「恋すること」のようにやさしいものではない。
貴方もA嬢もB嬢もC嬢も、誰でもが機会と運命さえ恵まれれば、できるというものではない。
愛することは、貴方だけの決意と、貴方だけの意志と、貴方だけの努力によって少しずつ創られていくものなのです。
現実のみすぼらしさ、苦しさに耐えながら、彼と幸福を共に築こうとしていく決意――それが愛のはじまりです。生活の重荷によろめきながら時として離れ合おうとする二人の指をふたたび、シッカリと握りあおうとする意志――それが愛の歩みです。
どんなことがあっても彼の生に絶望しないで最後まで努力を重ねてみること――それが愛の忍耐です。
恋のように烈しい炎の代わりに、決して燃え尽きぬ火を大事に守ること、この地上で巡りあった二人の男女が楽しみだけでなく苦しみも悲しみも共にしながら生の路を歩いていく時、次第に生まれてくるあの深い共通の運命愛、それが愛の悦びです
。愛は長い病気に耐えながら、忍耐と努力とで最後まで絶望せず闘病するあの療養の路に似ています。
健康が与えてくれるのではなく創っていくものであるように、愛と幸福とは夢みるものでも、与えられるものでもありません。それが貴方が(彼と自分で)創らねば、決して生まれてはこないものなのです。
世間ではこのような愛の忍耐や努力による愛を軽蔑する風潮がだんだん強くなってきました。悲しいことには、それが合理的であるとか、近代的であるとかさえ言われているのです。
けれども、そうした風潮は一人の人間がもう一人の人間に恋をして、愛していく尊さ、厳粛さを放棄することです
。
人生も貴方の恋愛も、ただ貴方だけの力で深くなっていくのです。「恋すること」――それは今、貴方が経験されていることでしょう。しかし、やがて「愛すること」の長い日々がはじまります。
その日のために、貴方は御自分の恋愛を立派に育てていってください。砂浜を振り返って貴方と彼との足跡が、黄昏(たそがれ)の金色の光に包まれた波打ちぎわに、波に洗われながらも何時までも消えぬように、二人の人生の愛の歩みを残していって下さい。
つづく
恋のかけひきについて