漁色家とか好色家
男性のなかには一人の女から次の女へと追いかける者がいます。ある女性を自分のものにする。やがて彼は彼女に飽(あ)き、別の女性に心を移す。そうした男性をぼくたちは普通、浮気者とか、ドン・ファンとか、あるいは漁色家とか好色家とよびます。
ドン・ファンといえば、ぼくたちは色のなま白い、唇に薄ら笑いをうかべて少しキザなマフラーなどをした男を想像しがちです。おそらく大多数の女性の方はこのようなドン・ファンに決して好感を持たないに違いない。けれども心のどこかで、そのドン・ファンに恐怖と好奇心とを感ずる女性もいるかもしれません。
そこで今日はこのドン・ファンについて少し、しゃべってみようと思うのです。
ぼくは今、こうしたドン・ファンは多くの女性に嫌悪感や恐怖心やまた一種の好奇心を起こさせると書きましたが、本当のことを申し上げますと、ドン・ファンはある特定の男性に限られるとしても、ドン・ファン的心理は、ほとんど全ての男性が持っているのです。
こんなことを言いますと、貴方たち若い女性の方たちは、幻滅とも失望ともつかぬお気持を味わられるに違いない。けれども、これは事実なのであり、それが何故かという理由は次のようなものなのです。
男性は女性に比べて「動かずにいられない」存在です。女性のように一箇所にジッととどまり、そこを深く耕し、育てあげることよりも、未知なものと闘い、それを征服していくことに喜びを感ずるのが男性と言えましょう。
リルケという詩人が「女性は一つの生をしっかりと守りつづける。しかし男性は生よりも運命の方に気を取られる」というようなことを書いていますが、これは男女両性間の本能の差をハッキリと指摘した言葉とも言えましょう。
たとえば――皆さんの中には、時々、男性がなぜ執拗なほど烈しい出世欲に捉われるのか、疑問に思われる方がいられるかもしれない。実際、家やその幸福まで犠牲にしても出世しようとする男性を我々はよく見かけますし、また家庭の幸福に浸って満足気な顔をしている男性を彼の仲間たちはよく「男らしくない奴だ」と批評するものです。
だが何故、男性は出世欲にとりつかれるのでしょう。出世ということが、ある幸福の状態を示すから、その幸福を掴(つか)むためだという解釈もなりたちますが、それだけではないのです。
功成り名を遂げて、いわば世間の人から「出世した」と考えられている男が、なお様々な仕事に手を出すのをぼくたちはよく見るのですが、これは彼の出世欲の烈しさというよりは「動かずにはいられない」男性の本能に根ざしているわけです。
つまり次から次へと自分の眼の前に現れる運命なり、仕事なり、事業なり、抵抗力のあるものと闘う時の、イキイキとした充実感、生命感が男性にとって非常に大切なのであります。
さて、この「動かずにはおられない」男性の本能があなたたち女性にむかった場合はどうでしょう。皆さんは新聞や雑誌の身の上相談などで「心も体も与えてしまったとき、捨てられた」女性の訴えをよくお読みになったことがあるでしょう。
このような不倫理な男はまことに唾棄(だき)すべきでしょうが、こうした例はやはり男性の本能と女性の本能が生み出した愛の悲劇なのです。
と申しますのは、男性とって、ある女性を追い求め、その女性の愛を得るまでの烈しい心の闘いや生命感こそ、カケガエのないものなのですが、一方、女性にとっては二人が結ばれた後の、もはや静まった状態(婚約とか結婚)こそ幸福の象徴だからです。
自分が獲得しようと思い、懸命になって追いかけた女性を遂に得た瞬間――これは女性の皆さんのお叱りを受けるでしょうが――男性というものは幸福感と共に、ある淋しさとも空虚感ともつかぬものを感じるのです。
このウッロな感じや淋しさは、もはや動いたり、闘う必要のない、生命感を喪(うしな)ったような気分からもたらされるので男性はその時、言いようのない焦燥感(しょうそうかん)を覚えるわけです。
この男性の「動かずにはいられぬ」本能は前提として、ぼくは皆さんとご一緒に彼等の心理を考えていきましょう。
先ほども書きましたが女性征服欲と言いますと、貴方たちの眉をひそめさせるような何か卑しいものを感じさせます。
こういう文字からは好色的な青年や、女性を肉欲の対象としてしか見ない脂(あぶら)ぎった中年の男を連想させるものです。
けれども男性の女性征服欲はそんなに単純なものではない。同じ征服欲といっても、色々な形、複雑な陰影があるわけで、必ずしも好色な肉体的欲望だけに動かされるものではありません。
好色家もしくは漁好色には歴史上、二人の代表的な人物がいます。一人は先ほどから申し上げているドン・ファン(またはドン・ジュアンと呼びます)で、今一人はカザノバという男。この二人は一見、似ているようで実は本質的に違うのです。
ドン・ファンは、最初はスペインで、次にイタリーの芝居で描かれた架空の人物であり、後にモツアルトの歌劇やモリエールというフランスの古典劇作家の作った戯曲の主人公となった人間像ですが、一方カザノバは実在の男です。
カザノバが自分の女性遍歴をかいた日記は、岩波文庫で岸田国士氏の訳で出ていますから読んでご覧ください。
この二人を比較してみますと、カザノバの女性征服欲はドン・ファンに比べて単純であり通俗的です。まずカザノバはどんな女性であれ征服すればよいのです。
酒場の女であろうが、娼婦であろうが、とにかく、手に入れやすい女性を次から次へと征服していって、彼は自分が手に入れた女性の数を誇っているのです。
カザノバの日記をみますと、彼は「如何なる女性に愛されたか」を誇りにしているのではなく、「自分はこれだけの数の女からモテた」ということを鼻にかけているのです。
ところが、ドン・ファンはちがいます。ドン・ファンの女性征服には原則がある。彼はカサノバとちがって、たやすく男に屈服する娼婦などには決して目もくれなかった。ドン・ファンはもっとも恋のかけひきを知り、男に抵抗する貴族女性のみを誘惑の対象として選んだのです。
当時の貴族女性は恋愛心理の通でありましたから、決して安易な誘惑や甘い言葉には乗らなかったのです。ドン・ファンはこのように陥れにくい女性を相手として闘ったのであります。
ここにカサノバの如何にも楽しげな遊蕩にくらべて、ドン・ファンのそれにはなにか修業のような努力がぼくたちに感ぜられるわけです。
それだけではない。カザノバとドン・ファンにはもっと本質的な違いがある。それはカザノバと別れた女たちはこの男を憎むどころか、むしろ、そうした恋の楽しさを与えてくれたことを嬉しく思っているのに、ドン・ファンの捨てた女性は常に烈しい恨み、憎しみを心ふかく抱いているのです。
だが同じ漁色家であるこの二人に捨てられた女たちには、何故このように別々な反応をしめすのでしょうか。
それはカザノバの方は女性の中にただ肉体の快楽だけしか求めなかったからです。彼と女性との間には、ただ官能の楽しみを味わうことだけしかなかったのですから、そこには精神的なつながりはありません。
カサノバと別れた女たちが彼を憎む代わりに、過去に快楽を与えてくれたこの男をむしろ嬉しく思ったのはそのためです。このような漁色家が誇ることは自分が何十人かの女性と交渉を持ったことだけなのです。
だが、ドン・ファンの場合はこれと本質的に事情を異にしています。同じように女から女へと渡り歩いたとしても、彼はカサノバように好色な肉体的欲望だけで動かされたのではありません。
彼が求めていたのはもっと精神的なものでした。つまり彼は男性なら恐らく誰もが持っているように心の底に一人の、一人だけの理想の女性像を探している男だったのです。
彼が多くの女性を追いかけたのは、これら女性のうち一人一人に、女性の理想像が発見できるかどうか、を探したからです。不幸にしてこの男はこの女性にあの女性にもその理想像を充たしてくれるものを完全に見つけることができなかった。
そのたびに幻滅と悲しみを感じながら、彼はまた新しい別な女性に向かっていったのでした。
ドン・ファンに捨てられた女が彼に烈しい憎しみと恨みとを抱くのは、このように「不完全な女」として見捨てられたためであり、彼女たちはそのために自尊心を深く傷つけられたからでしょう。
カサノバとドン・ファンのこのような違いは、ぼく等に男性の心にある女性征服欲が単純な好色や肉体的なものだけに支えられているのでないことを教えてくれます。
勿論、男性の心の中にはカザノバ的な低い要素もあります。けれども同時にドン・ファンのように理想的な女性をこの地上に見いだせぬ淋しさと焦燥感から漁色家となるものもいるのです。
だからと言ってぼくたちはドン・ファンの淋しさ、焦燥感を無条件に肯定するのではありません。
情熱とは現在の状態
ドン・ファンが精神的であり理想的な女性の姿を地上の女の中に見出せなかったとはいえ、捨てられた女たちこそいい迷惑でありましょう。
いや、それよりも、このドン・ファンの過ちは彼が多くの女を求めたにも拘わらず(なぜなら、彼の瞬間、瞬間における態度は確かに本気であったに違いないのです)彼は実は愛というものを知らなかったことにあるのです。
なぜなら、愛とは、情熱とは違うからです。情熱にひたるということは誰でもできますが、愛するということは、そうやさしくできるものではないからです。
情熱とは現在の状態に陶酔することですが、愛とは現在から未来にむかって、忍耐と努力とで何かを創りあげていくことです。
愛とは現在から未来にむかって、忍耐と努力
ドン・ファンは自分の恋人の中に理想的女性の姿がないといって彼女から離れていった。だが、なぜ、ドン・ファンは恋人を自分の力、彼女の協力によって理想的女性を創りあげていかなかったが、愛とは現在の貧しさに絶望することではありません。
現在の貧しさや不完全さから、未来に向かって二人の異性が何かを創りあげていくことを愛と呼ぶならば、ドン・ファンはたしかにこの愛の意味、愛の力を知らなかったのであります。
理想的女性は探すものではない。創るものなのだ。このことをぼくたちはドン・ファンの寂しさや焦燥感から学ぶべきでしょう。
同時に貴方たちも理想的男性は探すものではない。貴方と貴方の夫が、貴方と貴方の婚約者とが、貴方と貴方の恋人が、忍耐、決意、努力によって、情熱のように華やかでないが、しかし、最後の悦ばしい日のために、創りあげていくものであります。
つづく
恋することと愛すること
煌きを失った性生活は性の不一致となりセックスレスになる人も多い、新たな刺激・心地よさ付与し、特許取得ソフトノーブルは避妊法としても優れ。タブー視されがちな性生活、性の不一致の悩みを改善しセックスレス夫婦になるのを防いでくれます。