秋元― 面倒な関係だからこそ結ばれている安心感がある。
結婚して籍がいることで、気持ちの面だけでなく、法的にも結ばれる。「家族」という。社会的にも認められた、もうあやふやでない関係になって、男は外で何をしていようが、妻の待つ家に毎日帰ってくるようになる。
恋人と妻はどう違うかと考えたときに、真っ先に思い浮かべるのは、やはり「安定感」のあるなしだと思うんです。
男にとって妻というのは「ただいま」と言って帰る場所。結婚というのは、自分の「所属」ができるということなんです。
結婚式を挙げて「家族」という立場になると、お互いの両親だとか、親戚づき合いだとか、結婚しなかったら自分には関係なかったであろう人間関係が広がっていく、妻の実家との付き合いはもちろんだけど、たとえば全然あったことのないような親戚の結婚式にも行かなくてはいけないし、お祝いだって出さなくてはならないこともある。
それはまるで、自分はちょっと挿(さ)し木したつもりが、いつのまにか「こんなところにまで根を生やしてきている!」というような、竹林の増え方に似ています。
知らないうちに、いろいろなところに根が張り始めて、そうなると男だってもう簡単には逃げられない状態になってくる。
法律だけの関係だったら、もっとドライになれるかもしれないけれども、法律の下に、妻を触媒(しょくばい)とした人間関係の根っこがぐんぐん張ってくるわけなんです。
でも男は、その根っこをいらないと思っているわけではないんです。
男性の中には一回離婚した後にも、また何回も離婚を繰り返す人がいます。そういう人は、単に「籍を抜く」という法的な手続き以外にも、相手の親や親戚という根っこを、ガサッと引き抜くことにあまり抵抗感がない。一度それをしてしまうと、「なんだ簡単じゃないか」と思えて、同じことを繰り返してしまうのかもしれません。
でも、それはごくごくまれなケースで、たいていの男たちは、そう簡単には所属を変えられない。移籍できないんです。
竹林のように根を張っていく人間関係を重たいとか面倒だと思う半面、男にとっても、そこに結ばれているという安心感が育っていくんです。
女性は結婚しても、ドキドキするようなときめきを失いたくない、緊張感を保っていたと思うのかもしれませんが、でもそれがなくなる代わりに、結婚は、法的にも結ばれた「安心感」を持ってきてくれるんです。
「安心感」と「緊張感」は正反対のものだから、共存することはあり得ない。
不倫の恋がなぜ燃えるかというと、簡単に言ってしまえば、そこに「安定感」がないからなんです。法的にも認められていないし、会うのはも人目を避けなくてはいけない、安心感からは程遠い、男と女の苦しいまでの情念というのが二人を結びつけているんです。
そんな緊張感よりも、安定感の方がずっと心にも体にもいい。恋人にはない妻のメリットは、そんなところにあるのではないでしょうか。
柴門― 女にとっての妻であることのメリットをあげるなら、やはり法的に守られているというのは大きいでしょう。
不倫している女友達がいて、以前に「もう何年も一緒に暮らしている事実婚なのだから、籍に拘らなくてもいいんじゃないのかな」という話をしたことがあるんです。
でも、「もし彼が交通事故にあって死んでしまったときに、まず真っ先に警察から連絡がいくのは、一緒に住んでいる私でなく、籍が一緒のおくさんのところなのよ」と、彼女は言っていました。
たかが紙切れ一枚のことかもしれないけれど、戸籍謄本にも住民票にも、「妻」という社会的にも認められた形で記載されている。それに妻であれば、後ろ指をさされることも泣く。堂々と子どもを生めます。籍が入っているという安心感は、やはり女性にとっては精神的に大きいと思います。
その反面、相当なことをやらない相手は出ていかないだろうという気のゆるみも出てきます。
恋人だと今日は会えても、明日は会えるとは限らない。
それっきり会えなくなるかもしれない危機感だって孕(はら)んでいるわけです。そうなりたくないから嫌われないように、相手に対して気も使うし、カッコもつける。女の部分を忘れないでいられるんです。
結婚生活が長くなるとそのあたりが希薄になってきて、恋をしていたころのドキドキする気持ちは月日とともにしだいに薄れるもの。二人の関係が安定していくというのは、同時に退屈な日常が始まっていくということでもあるわけです。
恋人のときには会えるだけあんなに嬉しかったのに、ごはんを一緒に食べるのも、お風呂上がりの姿を見るのも、その何もかもが見慣れた日常の一コマに変わっていく。
結婚することで、女として終わってしまうならば、結婚したくないと独身の女性たちは言うでしょうが、でも、それはそれで楽なところがあります。
男も女も結婚前には、どうしても異性の目を意識してしまうものです。自分がどうすれば居心地がいいかということよりも、相手の目にはどう映るかを優先するんです。
それが案外、疲れることではなかったでしょうか。
せっかく結婚して安心感を手に入れたのなら、それに浸かってみるのも悪くない。
少しぐらい太っていいし、体の線がきれいに出なくても、着心地のいい服を着ればいい。自分自身を解放して、緊張をほどいてやれるというのも、結婚したからこその賜物かもしれません。
秋元― 結婚前の女性に、ぜひ知っておいてもらいたいのは、男というものは、想像以上に、自分勝手で、ずるくてわがままな生き物だということです。
「ここまで何もしてくれないとは思わなかった…・」
憤慨(ふんがい)を通り越してあきれ返るほどに、結婚したら、まず男は家事に手を出さないものだと思ったほうがいいでしょう。
結婚する前には、「ゴミ捨てと風呂の掃除ぐらい俺がやるからさ」なんて妻に対して理解のあるところを示そうとしますが、無論、それは気持ちだけのものです。
いまどきの男としては、家事を手伝うぐらいのことは言っておく。でも、つき合っているときにはカッコよく優しかった彼も、結婚した途端、歯磨きのキャップをしめなかったり、洗面所の周りを水浸しにしたり、ほとんどの男が、だらしない、ぐうたらな亭主関白になってしまいます。
家のことを何もしない男性というのは、夫という身分になったことで、すべての抑圧から解放されるんです。もっと簡単に言えば、今まで自分の体内で抑えていたわがままの線が、プッンと切れてしまう。
家庭とは自分の中で一番楽な場所であってほしいという思いから、その中で一番楽な自分になってしまうんですね。
とくに妻が専業主婦になった場合は、「生活費は俺が稼ぐから、家事、育児のことはすべて任せたよ」という意識になって、お皿一枚洗うどころか、横のものを縦にもしない。
炊事、洗濯、掃除など家事全般はもちろん、盆暮れの挨拶、冠婚葬祭。子どもの学校のことなど、すべて「それは妻の領分」として押し付けてくることでしょう。
男女同権などと今更口にするまでもない、それが当たり前の時代にあっても、こんなもんです。
それでも共働きの夫婦なら、そんなことは言っていられないでしょう。と女性は思うかもしれません。が、男の本音は、「家事はしたくない」。「少しは手伝うことはあっても、やはりそれは妻の仕事であることは変わりがないんです。
休みの日にいう、家のことを妻に押し付けて、のんびりテレビを見ている姿は、女性の側からすれば、許せないものがあるでしょう。
そんな女性の持って行き場のない不満を解消するのは、やはり夫の、妻に対する思いやりだと思うんです。
思いやりがあれば、専業主婦であろうが、共働きであろうが、相手が大変だろうと思ったら手を差し伸べるものなんです。
ルールは破られるものだし、男は「契約」に縛られることを嫌います。かえって二人の関係が悪化するということもあるでしょう。
あえて細かい取り決めはつくらずに、不満が行ったり来たりしながらも、相手が困っていたら助ける。そんな暗黙の了解のような空気を作っていけるといいんじゃないかな。
柴門― 結婚した女性が持つ不満の多くは、家事も育児も、家のことはすべて「押し付けられている!」ということがほとんどなんです。
だから、なんでもない話をしているときは仲がいいのに、自分たちの家庭の話になると、不満や不平やらがこぼれだす。
「仕事に家庭を持ち込まない」ということがよく言われますが、夫婦は「家庭に家庭を持ち込まない」のがいいのかもしれません。
とはいっても、子育てのことなどは、どうしても二人で話し合わなければならないことも出てきます。
それでぶつかることはあるにしても、そのたびに、喧嘩にならない「暗黙のルール」と言えるようなものが一つずつできていくものです。
結婚生活は、そんなルールが一つできては破り、破っては別のルールができる。その繰り返しかもしれません。
夫婦がもめるということで言えば、世間では「嫁と姑』の問題がすぐに取り上げられますが、実際に姑との関係が悪くなって離婚してしまうケースはよくあります。
それで、夫の両親と同居するというと抵抗感を持つ女性は多いと思いますが、実際に同居してみると、心配していたほどではなかったということもあります。
たとえば口うるさい姑さんであっても、ただ一緒にいたいというだけで選んだ夫との結婚であれば、それは耐えられるのではないでしょうか。
「まあ、いいか」という程度で手を打った結婚では、夫の生活だけでも不満が溜まるうえに、「嫌な姑までついてきた」という気分になります。
「結婚するときには、絶対に同居しないって言ったのに…」という女性もいますが、事情は変わっていくものです。
それに同居でも、お付き合いの仕方というのは、いろいろあると思うんです。
我が家の場合も夫の両親と同居ですが、毎日、顔を合わせますけれども、しょっちゅうお茶を飲んで一緒に話をしたりということは余りしないんです。
舅姑との関係に限ったことではありませんが、いくらいい人でも、いつも顔を突き合わせていたら欠点も見えてきます。だから、長い時間は一緒にいないというような、ある一定の線を引いておく。そうでないと、ぶっかったり、イライラしたりすることが、人間だからあると思うんです。
たとえば自分が仕事で家を空けることがあっても、子どもたちが学校から帰った時に、おじいちゃんとおばあちゃんがいて、「お帰りなさい」と言ってくれる。私にとっては、同居する煩(わずら)わしさよりも、一緒にいてくれていることで得られる安心感の方が大切なんです。
もっとも、私がこんなふうに言えるのも、舅姑の努力と忍耐の結果かもしれません。夫と私は十歳離れているので、それぞれの親たちの年齢も同じように十歳違う。そうなると、嫁というより孫に近い存在で、怒る気にならなかったというのが、お義父さん、お義母さんの本音ではなかったかと思います。
また、お義父さんとお義母さんの夫婦仲がいいというのも、同居するチェックポイントになるかもしれません。息子よりおっとのほうが大事という姑であれば、お嫁さんにライバル心を燃やすこともありませんから。
もちろん、どんなにうまくいっているように見える嫁と姑であっても、お互いに気を遣う部分というのはあると思います。でも、それは夫婦も含めて、他人同士が一緒に暮らす上では、当たり前のことです。
それを、「どうして私が気を遣わなければいけないの?」と思うから、一緒にいることが耐えられなくなってくる。もともと他人同士。そう割り切ってしまえば、嫁姑問題き、怖くありません。
秋元― 結婚生活は、洗面所でも夫婦が一緒に歯を磨くようなものかもしれません。
洗面所で同時に歯を磨いたら、ぶつからないわけにはいかない。そこでお互いが体をずらしたり、横に向き変えたりしながら、相手のことをちょっぴり気遣ってあげる配慮が必要になってくる。
一緒に暮らしていく中で、その配慮がどれくらいできるかということが、結婚生活を成り立たせるためには不可欠なんです。
自分のやり方を押し付けるのではなく、相手の考え方を認めてあげること、これができなと夫婦関係は長続きしない。
僕は、結婚は価値観が同じ相手がいいと思いますが、たとえそういう相手と巡り合えたとしても、ものの捉え方や感じ方、時間の使い方が全く同じ二人というのはあり得ません。
そういう意味では、自分のペースを守りたくて、相手との細かな違いに対処することを面倒だと思う人は結婚に向いていないかもしれません。
独身時代は起きたいとき起きて、好きなものを食べて、眠りたいときに眠ることができます。
恋愛中というのは非日常だから、真夜中に彼が訪ねてきて夜食を作ってあげることも、それほど苦とは思わない。
明日は朝七時に起きなくてはいけないというときでも、三時四時まで一緒に起きていて、ビデオを見ているのも楽しいものです。
恋人時代はたいてい週末だけ会っているだけだから、無理ができる。週のうち一晩ぐらいは睡眠時間が削られても何とか耐えられる。自分の思うようにいかないことがあっても我慢できるんです。
でも結婚して、夫が夜遅くに、一緒に飲んでいた友達を引き連れて帰ってきたとしたらどうでしょう。突然、「夜食二人分頼む」なんて言われることもあるかもしれません。妻を起こしてでも、夜食を用意してもらいたいと思う男もいるわけです。
結婚するというのは、自分のプライベートな領域に「夫」という他人が入って来るということ、それが日常的に起こるということです。
柴門― 私は、夫婦というのは、一緒にいて嫌じゃないという大前提があるなら、少しぐらい価値観が違ってもいいと思っています。価値観の合う合わないよりも、合わないところを調節できそうな相手かどうかということのほうが、結婚相手を選ぶときには重要になってくるのではないでしょうか。
その意味での相性が、結婚生活がうまくいくかいかないかの、かなりのウエイトを占めてくると思うんです。つまり相手を自分の好みややり方に変えようとするのではなく、いかに折り合っていくか。そこを調整して妥協点を見つけることができたら、二人の価値観のズレも、そんなに大きくならずに済むと思うんです。
私の夫は冷蔵庫に賞味期限の切れたものを置いておくことが耐えられないんです。娘もその血を受け継いだようで、二人で一緒に、「お母さん! どうして賞味期限の切れたケチャップを置いておくの?」と言って怒るんです。
毎日忙しくしていると、賞味期限のことなんて、うっかり忘れてしまう。叱られた私は「じゃあ、これからは一か月に一回は冷蔵庫の点検をするね」と言うんですが、「一週間に一回は点検してね」と、また叱ラレマス。
そういうふうに約束してもつい忘れてしまう。それで、夫と娘の妥協点として、自分たちが賞味期限の過ぎたものを見つけた時には、自分たちで勝手に捨ててもいい、ということになりました。それだと事をそう荒立てないですむ。
人間、直せないところは、いつまでたっても直せないものです。
誰でもそんなところが一つや二つはあるでしょう。完璧な人間なんて、この世には存在しないと思うんです。
また、そんな“完璧でないところ”をさらけ出せるから、家族なんです。
近所の人たちは「いいわね、素敵なご主人で」と言われるような人でも、家の中では案外、普通の“だらしないお父さん”だったりします。
外から見ているのと実際の姿というのは違うんですね。結婚したら、友達のご主人と、自分の夫と比べて、どうしてウチのはこうなのか、と思うことがあるかもしれませんが、案外、その友達のほうでも、同じことを考えていたりするものです。
でも、たとえどんなに“だらしのないお父さん”でも、家族だから許せるという部分があるんです。まったくの他人が同じことをしたら腹が立つのに、家族がしていると何とも思わない。それだけ、お互いに心を許している。甘えるところは甘えて、許すところは許してあげるということかもしれません。
育った環境も性格も違う二人が、どう折り合いをつけていくかが、一緒に生活するうえの難しさであるし、楽しさであるんです。
若干の価値観の違いはあっても、それは踏み込まないようにして、相手が「それだけは絶対にやめてほしい」ということだけはしない。
結婚生活を続けていくには、それさえ守れたらなんとかなる、という気がします。
秋元― 男にとって結婚生活で大事なのは、いかに居心地よく暮らせるかということです。だから「愛している」とは言わない、家事もしないという夫でも、妻の機嫌が悪いときには無条件で機嫌を取る。夫婦が快適に暮らすための環境づくりを整えるためには、男は動くんです。
男は愛しているなんて言葉は以前に、お互いが快適だと思える環境づくりをすることがいちばん大切なことだと思っているんです。
妻の不機嫌な目線だけは取っておかないと、一緒の部屋に入るだけで疲れてしまう。だから、出来るだけ早めにケアしておきたい、と考えるんですね。
そこを逆手にとって、不機嫌な態度を取ることで、男に機嫌を取らせて愛情の確認をする女性がいますが、男が「機嫌を取っている」のは「愛しているから」ではないんです。
機嫌を取るというのは、媚びることなんです。
愛するというのは、何の見返りも保証も要求しない。媚美を売るということは、正反対のところにあるものだから、「機嫌を取る」というのと、「愛している」というのは結びつかないんです。
それなら、なぜ機嫌を取るかと言えば、一つは「面倒くさい」というのもあります。
たとえば、水道からチョロチョロと漏れていたら気になります。排水溝の部分からビーンという音がいつまでも響いていたら、それだけでイライラしてくるでしょう。機嫌を取るというのは、水道から漏れる水や排水溝から聞こえてくる音の、その根源を取り除きたいということなんです。
ときには、自分に後ろめたいことがあって、機嫌を取るということもなくはないでしょう。機嫌を取っておけば、最終的に許してくれると思っているし、とりあえず、激昂(げっこう)させてはいけないという思考が、そこで働くわけです。
男は、「妻」が爆発したときの怖さというのを知っています。
そんな気配を感じたとき、まず男は、このエネルギーを逃さなければいけないと思うんです。
たとえば、肩が凝ったときに、いきなり鍼(はり)を打つとすごく痛い。それは神経が緊張しているからなんですが、そういうときには、まずいったん凝った部分をほぐしてから、次にお灸で温めて、それから鍼を打ってあげると痛くないし、よく効くんです。
それと同じで、爆発寸前の妻は、温めなければならない。
ケーキや花を買って帰ったり、「今度の日曜日、ごはんでも食べに行こうか」なんて誘ってみたりする。
緊張をほぐして、妻の中から怒りのエネルギーを逃そうとするんです。そして機嫌を取ることが、二人の関係をよりよく保つための、男にとっての環境整備の一環なんです。
柴門― きっと、そこで男と女のすれ違ってしまうのでしょう。
「愛」が欲しい妻と、「暮らすのに快適な環境」を求める夫。
女って結婚したら幸せにしてもらえるとは思っていても、夫の機嫌を取るということはあまりないかもしれません。
そもそも機嫌を取るということ、イコール、自分がいなかった間のいろんなことを想像しながら、不機嫌の原因を探っているんじゃないかと思ってしまう。やさしいときには、きっと、やましいことがあるからだと勘ぐってしまうのです。
もしかしたら、浮気しているかもしれない…そのフォローとして、ケーキを買ってきたかもしれない…こうしておけば最終的には許してくれると思っているのかもしれない…こんなときの女性の想像力は、無限大に広がっていくものです。
機嫌を取っておけば、女はなんでも許してくれると思っている――、男って、本当にズルイ!
カッコよくて、女のコにモテて、でも私だけ愛してくれて、いつもドキドキさせてくる夫なんて、やっぱりいない。理想は理想、それが現実なのでしょう。
でも、それを補って余りある、いいことがあるのが夫婦なんです。
もうドキドキはしないけれど、恋人よりも夫婦のほうがより強く確実な、安心感がある。
だって一つ屋根の下で暮らす「家族」なんですから。
たとえ愛が冷めたとしても、結婚生活は続けられると思うんです。離婚しようと思ったとしても、役所の手続きを考えただけで面倒ですから。
でも、多くの夫婦が文句を言い合いながらも離婚しないのは、面倒だという理由だけではないと思うんです。
欲を言わなければ、寒い夜には温かい人肌がある。それだけでも、幸せな気持ちになれるものです。
ひとりぼっちの夜に淋しくなって、とにかく誰かを呼ぼうと思っても、アドレス帳をいざ開いてみると、だれ一人呼べないと気づいたときの絶望感…というのは、耐えがたいものがあると思うんですよ、あくまで想像なんですけれど。
秋元― 結婚している人で、何の不満も持っていない人というのは、たぶん、皆無に近いんじゃないかと思うんです。繰り返し続いていく日常の中で、やさしさは減り、お互いを思いやる気持ちも徐々に薄らいで、相手のよさよりも、やがて欠点ばかりに目が行くようになってくる。いつはそんな日が訪れるでしょう。
結婚して独身時代の自由を失って、そのうち少しずつ新鮮味を失っていく。
これは男にも女にも同じことが言えると思いますが、かつてはあんなに激しく愛し合っていた二人であっとしても、お互いが生活の一部になってしまうと、ときには他の異性に目移りするということはあるでしょう。これは避けられない現実なのです。
昔みたいにやさしい言葉なんてかけてもらえないし、女としても見てもらえない。新婚の頃には「妻」という座を得たことで、誇らしいような嬉しい気分を味わったことも、結婚して何年もすると忘れてしまう。
そんなときに、自分を女として見てくれる男性が現れたら、いけないとわかっていても夫以外の男性に惹かれることもあるかもしれません。
人の気持ちは縛れないものだから、そんなことはしていけないと言われても、恋をする気持ちは止められるものじゃない。
でも、そのときに自分はどこに帰るのか。
長い結婚生活のあいだには、自分が不倫の恋に落ちてしまうこともあるし、相手に浮気されることもあるかもしれない。そのことで迷ったり、傷ついたりすることもあるでしょう。
でも、その時に忘れていけないのが、外で他の男性と会っていたとしても、その晩帰って行く場所は夫や妻のいる、自分たちの家なんです。
最終的に戻るところはこの人のところだという、その公然の約束が結婚なのかもしれません。
僕はそれでいいと思うんです。それでも一緒にいたいと気持ちがあるのなら。
結婚はそれ以下でもそれ以上でもない。
人は一緒にいたくないという人間と暮らすことはできないんです。
自分は離婚したいのに、子どもがいるからとか世間体が悪いとかという理由をあげて、「だから離婚できないんです」という人がいますが、本当に一緒にいたくないなら、どんなり理由であろうと離婚しています。
結婚する前も後も、好きな人と一緒にいたい――その気持ちは変わらないのです。ただ、その中身は少し違ってきます。
恋人と一緒にいたいのは、相手のことをもっと知りたいし、近づきたいという、「深さ」を求めているからなんです。
でも結婚すると、それは、ずっと一緒に生きていきたいという、「長さ」に変わっていくんです。
もっと一緒にいたいから「恋愛」になるし、ずっと一緒にいたいから「結婚」になる。
結婚生活を長く続けていくためのエネルギーがあるとすれば、期待もせず、妥協もせず、お互いの欠点と上手につきあいながら、「ずっと一緒にいたい気持ち」を持ち続けることで蓄えられていくものかもしれません。
他の人にほんの一瞬、心が奪われることはあったとしても、結局、「帰るところはあなたのところだった」というのであればいい。
それは、結婚しても浮気をしていいんだということでなく、そうした人生の紆余曲折(うよきょくせつ)を乗り越えて、夫婦は夫婦らしくなっていくように思うんです。
そうして、お互い年を取ったときに、たとえば、ふと空を見上げて、
「ほら見てよ、あの夕焼け、きれいだね」
と言い合える。そんな相手が側にいるという幸せを感じられたら、夫婦になった甲斐があったと言えるのです。
つづく 第五章 義務と自由