青山作品のページを開く時、とても安心している。今とはまったく異なる道義がまかり通り、女性の地位が低かったと思われがちな時代を舞台にしていても、そこにも多様な価値観や生き方があったのだと教えてくれる、と知っているからだ。この題材の選び方、照らし方を見ていると、つくづく、ああ、この著者は大人だなあと思う

つまをめとらば 目次青山 文平

本表紙

解説   瀧井朝世

「普段、時代小説はあまり読まないけれど、青山文平作品は読む」とはね周囲の本読みからちらほらと聞く言葉である。実は私も、そうした一人だ。現代と社会システムは違っても、自分にも覚えのある人の感情が鮮烈に描写され、そのうえ意外な結末へと到達する極上のストーリーテリングが味わえるのだから、読まないほうがもったいない。

 青山氏の好んだ作品の舞台に選ぶのは、十八、九世紀の中期江戸時代である。戦がなくなった平穏な世の中で武家の男たちは生き甲斐を見失い、武士としての矜持を捨てきれずに戸惑っている。その姿はなんとなく、現代のサラリーマンにも通じるように思える。昭和の頃には「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という歌詞の歌もあったが、今、そんなことを言う人間はいない。

企業のブラック化の問題は後を絶たず。リストラも敢行され、大企業でも倒産の可能性がある。終身雇用の保証なんてどこもない。時代の変化の中でこの先どう生きるかのロールモデルの見失っている現代人の姿は、江戸中期後期の武士やその家族と重なる気がする。だからこそ、著書の描く、人々が自分の生きる道を模索する姿に自然と寄り添っていくのだ。

 本作『つまをめとらば』は2012年から15年にかけて『オール讀物』に掲載された五篇と、2015年に『読楽』に掲載された一篇(「逢対」。「こいせよ、おとめ」を改題)をまとめた短篇集。15年7月に単行本が刊行され、翌年1月に第一五四回直木賞を受賞した。受賞も納得の一篇一篇の完成度が高い作品集である。他の著書にも通じる、権力を持たない無力な人々が、自分の人生を模索していく物語たち。

当時の男たちだけではなく、女たちの生き方も鮮烈に描かれているのが特徴だ。この時代の話と言えば「夫唱婦随」型の男を支える女か、あるいは、男の人生を翻弄するファムファクタール的な女が登場するのだろうと想像してしまうが、それがまったく違う。

赤バラ「ひともうらやむ」は、余所からやってきた美しい女に翻弄される男が登場、一方で主人公の妻を地味に設定にし、魔性の女と糟糠の妻を対照的に見せる‥‥と見せかけて、またちょっと違う展開が用意されている。
赤バラ「つゆかせぎ」では、すでに故人だが、夫を𠮟咤激励しつつ、実はこっそり戯作に励んでいたという妻がなんとも魅力的。その二人の関係を振り返る話ではなく、意外にも別の女が登場。主人公がその女に情けをかけてやるかと思いきや、こちらもまた違う味わいが待っている。
赤バラ「乳付」は本作で唯一の女性視点の話である。他の男性視点の短篇で女たちはしたたかな印象を残すが、実は女性たちが迷い傷つく繊細さを持っているのだ、という側面を見せる本作がこの短篇集の中にあるのはバランスがよく、著者の公正性と短篇集を編む上での巧みを感じずにはいられない。それにしてもこの短篇、新婚夫婦の話ということもあり、なんとも愛らしく、甘酸っぱい。

赤バラ「ひと夏」は、主人公が飛び地的な領地に赴任する設定がなんともユニーク。そこでの難しい人間関係をどう乗り切るかという仕事での葛藤が主軸であるが、ここにもまた、どうにも手に負えなさそうな女が登場して、男を翻弄する。
赤バラ「逢対」は、出世のために苦労する親友を思いやる話であり、サラリーマン的悲哀を感じさせる内容。しかし、前半と後半に挟まれる主人公の難儀な恋の話でもあるのだ。

赤バラ最終話であり表題作の「つまめとらば」で描かれる結婚問題は、まさに現代に増えつつある「結婚したくない」「このままのほうが楽」という、結婚願望のない人々の主張と似ているではないか。また、最終的に登場人物の一人が結婚を決意するにしても「男は結婚して一人前」「男は女を養うべき」といった旧来の価値観とは正反対の理由であるところが愉快である。

一人一人の置かれた状況や人生背景の組み方も綿密で、文字の向こうに長編と同じくらいの奥行を感じさせる。短篇ならではの切れ味のよさと、長編並の濃密さを味わいえるのだから、お得というべきだろうか。著者によると、事前にプロットは作らないそうで、書き進めていくうちに想定していなかった事案が出てきて自分でも「そうだたのか」と驚いたりするのだとか。予定調和に陥らない展開は、だからこそ生まれるのだろう。

 どの短篇も、権力を持たない人たちの話だ。そして、女性たちを類型的に、物語の小道具として描いていないところに好感が持てる。また、個人的に新鮮に感じるのは、結婚を”せねばならないもの”と捉えない人物が多く登場する点だ。離婚するケースも多く、この時代もそうだったのかと意外に感じると同時に、彼らのことがますます身近に思えてくる。

「つゆかせぎ」の中に、こんな言葉が出てくる。
〈忠臣蔵の時代である元禄には、”我々”を信じることができた。が、文化のいまは否応なく、”我”と向き合わなければならない。〉
 
 これは現代の自分たちにも言える事ではないだろうか。こうした、今に通じる物語を浮かび上がらせているからこそ、普段は時代小説を手に取らない読み手も、この著者の作品のページをめくるのだ(もちろん、他にも読者を惹きつける美点はたくさんあるのだけれども)。しかも、決して「もっと、”我”と向き合え」などと押しつけがましくに言って来るのではない。むしろ、これらの物語から伝わってくるのは、「時代の既成概念に囚われなくてよいのではないか」ということ。

 私は青山作品のページを開く時、とても安心している。今とはまったく異なる道義がまかり通り、女性の地位が低かったと思われがちな時代を舞台にしていても、そこにも多様な価値観や生き方があったのだと教えてくれる、と知っているからだ。この題材の選び方、照らし方を見ていると、つくづく、ああ、この著者は大人だなあと思う。人間というものをどこか達観した眼差しで眺めつつ、軽やかな筆致で紡ぎ出す彼らの人生模様は、時にほろ苦くあるけれども、どこか痛快で爽やかで、こちらの気持ちを軽くさせてくれる。そして生まれる時代や境遇は選べなくても、そのなかでも、自分の生き方を自分で選ぼうとしていいのだ、と励まされる。

 著者が本作で直木賞を受賞したのは六十七歳のときだった。史上二番目の高齢の受賞者だという。人生を知っている人だからこそ持てる眼差しがあるのは、やはり経験値の違いも大きいのかもしれない。本作以降も著者の活躍は目覚ましく、『このミステリーがすごい! 2017』で国内篇第四位にランクイン、日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門にもノミネートされた短篇集『半席』最下級の農民と位置づけされる名子の夫婦が人生の新たな局面を迎える『励み場』、うつろいゆく武家社会の中で人生を摑み取ろうとする男女を描く作品集『遠縁の女』と、注目作を発表し続けている。達観した大人の視点を、追い続けていきたい。
    「ライター」

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