私はインターネットに接続された無修正動画を配信するサイトに飛んだ。無修正動画の中で女性器が揺れる。背面騎乗で揺れる男性器を咥え込んだ女性器のアップを見ながら、私はベット脇に落ちている電マを手に取りスイッチを入れた。どきどきした。コカインのせいかAVのせいか、一人目が射精して、二人目が射精して、シチュエーションが変わっても私は絶頂に達しない

本表紙 金原ひとみ著

第九 ユカ

「広告 セックス最中小さなチンコ、緩いマンコだなと感じるあなたも、他人にあれこれ言えない持ち主である。生出しで雰囲気を損なわず刺激と興奮に満ちたセックスで性戯も自然に上達し上手になれ男と女の深い愛情に繋がっていく。
挿入避妊具なら小さいチンコ、ユルユル膣であっても相手に満足させ心地よくイカせられる」

 20minという表示を確認してスタートボタンを押す。バキンバキンという音と共に青白い光が点灯し、ゴーッと唸りを上げてファンが回り始め、私は手を持ってたゴーグルを瞼に乗せた。棺桶のような狭苦しいマシンの中、焼きたい欲求が満たされ、開放感に近い安堵が身に染みていく。焼きすぎだ。自分でも分かっている。涼子にはヴィクトリア・ベッカムみたいと言われたし、央太はそれ以上は絶対に焼くなと珍しく強い口調で言ったし、ここ一週間の間打ち合わせした二人の編集者は、言及はしなかったものの出会い頭に明らかに引いていた。

なぜ私は、三日にあげず日サロンに通い続けてしまうのか。ここ二週間、私は異様なペースでギャル化している。ネイルもパステルカラーベースにフルーツやケーキのデコデザインを選び、美容室では目一杯ハイライトを入れ、もう五年リピートしていたつけまつげムラキアラッシュバリューバックVP-3ミディアムロングを、読モ上がりタレントプロデュースのばさばさ度マックスのものに替えた。

そうなるともう止まらず、そうか私に足りなかったものはこれだったのかと声高に叫ぶように、109やアルタなどのギャル系ショップで服を買い漁った。原色、ミニスカ、ショーパン、もこもこ、露出、ファー、安っぽければ安っぽいほど堪らなかった。きっとずっと、私は安っぽさを求めていたのだ。夫と出会うまで、私はずっとギャルだった。

夫に助言され、取材を受ける時だけはハイブランド服で過ごすようになっていた。今の私には、そういうこれまでの自分とは全くの別人になる必要が、つまり安っぽい自分を偽らず飾らずそのまま世間に提示する必要があるのだ。肌は黒く髪は金、デコネイルにギャル服を身につけばさばさで口紅はMACのミス、今私は、居心地の悪い私から居心地の良い私へと脱皮し続けているのだ。

 肌がじりじりと火照り、噴き出した汗が背中に向かって流れていく。オイルの安っぽい匂いが充満した湿気の多いマシン内に、少しずつ私の腐った魂が蒸発していく。私はこのマシンに入るたび生まれ変わる。パソコンのソフトが定期的にバージョンアップしていくように、私もまたこうして機械の中で黒くなりバージョンアップしては新しい自分と出会うのだ。

 シャワーを浴び、軽く化粧をしてサロンを出るとタクシーに乗り込んだ。いやあ黒いねえ、と大きな声で笑う運転手に頑なに無表情を貫き行き先を告げると目を瞑る。私にとって「私が黒い」という事が非常にナーバスな問題である事に無理解な人に責められる権利はないが、ヘラヘラ笑って、「そうっすか?」とは言えなかった。マンションに到着し、エレベーターの中の鏡を見ると、そこにはいわゆる私の把握している「私」はおらず、カブトムシのような「私」がいた。

 帰宅すると、クローゼットの中からハート形の風船とポンプを取り出し、リビングで膨らませ始めた。一個、二個、三個、と白とピンクの風船を交互に膨らませている内、軽いトランス状態に陥っていくのが分かる。私は単独作業を繰り返していると、どんどん気持ち良くんなっていってどんどん止められなくなっていくのだ。百個入りと書いてある大袋を見て、私は百個膨らせてしまうのだろうかと不安になる。

明日は輪の誕生日だ。キティちゃんの浮くバルーンは明日ガスの入った状態で届く事になっている。ケーキは近くのホテルに八号のホールケーキを予約してある。明日の夜、この家に五月と弥生ちゃん、涼子と一弥がやって来て、輪の誕生日パーティをする事になっている。今日は風船は私の部屋に隠しておいて、輪が寝た後にリビングに持ってくる、そしてバースディーバナーとモールを飾り付け、私からの誕生日プレゼントである室内用ジャングルジムと滑り台を組み立て、リビングの一角にセットする。

明日は、まず朝起きてきた輪をこの飾り付けとプレゼントで喜ばせから保育園に送り、輪が保育園に行っている間に料理の仕込みをし、いつもより一時間早く夕方六時にお迎えに行き、その頃同じくお迎えに来る五月や涼子たちと皆でマンションへ帰り、料理を完成させパーティを始める。央太は明日は重要な打ち合わせがあるため、明後日土曜日にケーキとプレゼントを持って行くと言っていた。

誕生日当日に央太が来れないのは残念だけれど、どうせ輪に月日の感覚はないし、当人はパーティが二倍になったこと喜ぶだろ。土曜日は保育園はお休みにして、私が弁当を作り、三人でピクニックに行く予定だ。冷蔵庫の中には既に、明日の料理と土曜日のお弁当の材料がスタンバイしている。私は普段料理しない分、いざ作るとなるといつも張り切りすぎてしまう。

 明日のメニューはラタトゥイユ、魚介のトマトクリームパスタ、チキンの丸焼き、ローストビーフサラダ、季節野菜の冷製スープ、デザートはケーキとチーズの盛り合わせだ。三ヶ月以上空っぽになっていたマリアージュフレールのアールグレイイペリアルとマルコポーロも昨日やっと購入した。妊娠中の五月のために、ノンアルコール、ノンカフェインのドリンクを揃えた。
明後日弁当のメニューはタコさんウインナー、唐揚げ、ポテトフライ、サンドイッチ、おにぎり、フルーツの盛り合わせだ。サンドイッチはローストビーフサンド、タマゴサンド、おにぎりは梅とおかかと焼きたらこだ。明日明後日のために、冷蔵庫まで新調したくなるほど食料品を買い込んだ。

五月の胎内で育ち続けている胎児を思う。私の作った料理が、五月の不倫相手の子どもがいる。それもまた不思議だった。この間電車に乗った時、優先席の前に立っていると窓に張られたマタニティマークが目に入った。そしてそのマークに「お腹に赤ちゃんがいます」と書かれているのを見た瞬間、涙を溢れて止まらなくなった。何故か分からない。でも今、五月のお腹の中に赤ちゃんがいる、五月のお腹に赤ちゃんが育っている、五月と繋がった。もう一つの命があるのだと思うと私はあまりの嬉しさに涙がとどめなく流れ出して止まらないのだ。

きっと五月は離婚しないだろう。五月は夫に相談して、夫に付き添われて中絶にしに行く。或いは、夫に黙ったまま中絶して不倫相手とも夫とも別れず関係を続けていく。それが私の予想だった。五月には、家族とはこうでなきゃいけない、妻とは、夫とは、子どもとは、こうあるべきだという強い思い込みがある。だから彼女は先に進めない。いや、進まない事が彼女の望みなのだ。

前進より後退よりも、停滞を望む彼女が、私には理解出来ない。だから私は彼女に強い愛情と軽蔑を感じている。彼女が不倫相手の子どもを妊娠したと話した夜、私は深い感銘のようなものを感じ、五月の寝た後、そして次の日もずっと小説を書いていた。不倫をしているような雰囲気を感じ取っていたけど、私の予想よりも遥かにドラマチックでありながら現実的な展開を見せ始めた五月の人生が爽快でならなかった。

もしも私の予想に反して彼女が出産に至れば、物語は更に加速度を増すだろう。そうなったら私はどれだけ創作意欲を搔き立てられるだろう。そしてどれだけ、慈愛に満ちるだろう。

 積み上がった風船が五十を超え、ポンプをピストンさせ続ける腕ががくがくし始めた頃、携帯のバイブ音に気づいて手を止めた。液晶には小南裕也と出ている。嫌な予感がした。普段はメールで要件を入れてくる編集者が電話を掛けてくる時は、大抵嫌な知らせか嫌な仕事の依頼だ。
「もしもし」
「あ、こんにちは。海陽出版の小南です」
「お久しぶりです。お元気ですか?」
「ああ、はい。どうしたんですか?む
「いやそれが、実は今日はちょっとお伝えしたい事がありまして」
「なんでしょう?」
「実は僕、単行本の編集長に」
「え?」
「なる事に」
「小南さんが単行本の編集長に?」
「そうなんです」
 驚きと戸惑いが相まってため息が零れた次の瞬間、理性が「おめでとうございます」と私の口を動かした。
「いやあ、おめでたくないですよ」
「いや、おめでたいですよ」
「僕は何か、気楽に仕事がしたかったんですけどね」
「担当は、変わられるんですよね?」
 声が裏返ったり言い間違えたりしないように気を付けてその一言を発すると、そうなんですよという小南さんの言葉が聞こえて、私はお腹の辺りに違和感を覚えた。
「残念なんですけど、小説海陽で新しい担当を決めさせて頂くので、今度ご紹介させて頂ければと思っています」
「そうですか。どんな人か、楽しみにしてます」
「僕よりも優秀な編集者に引き継ぐんで、よろしくお願いします」
 デビューから六年、何人の編集者が担当となり、何人の編集者が担当を外れていっただろう。どんなに頻繫に食事をして朝まで飲み明かして小説について幾千幾万もの言葉を尽くして語り合ったとしても頻繫に食事をしても、移動すればさようならだ。担当を外れても親交が続く作家と編集者もいると言うが、今の所私にはそういう編集者は一人もいない。特に小南さんが自分にとって重要な編集者であるという認識はなかったけど、それでも曲がりなりにも私は小説海陽に短編を十篇以上寄稿してきたし、それらをまとめた単行本を二冊出している。

それに小南さんには、一年に一度のペースでくるくると担当が替わる小説誌もある中で、五年近く私の担当をしてたのだ。来月にでも引継ぎを兼ねてお食事をと言う小南さんに、ぜひぜひと明るい声を出して電話を切ると、私はソファに置いてあったポンプを手にとって、再びソファに放った。床に座り込み、じっと天井を見上げる。虚無感が、どっと雨のように降ってきた。小南さんと仕事をするという事は海陽社と仕事をするという事であり、私に拒否する権利はなく、出来るのは「小南さんが担当を外れるなら海陽社では書かない」という抗議だけだ。

でも私が海陽社の小説に寄稿しなくなったとしても、海陽社には何のデメリットもなく、受け入れた。それだけの事だ。悲しかった。少なくとも小説のやり取りを、それも二冊単行本化するだけの量の原稿をやり取りした編集者が、もう私の小説に直接関係しなくなる。それは本当に悲しい事だ。

もうこの人と共に小説を生み出すことは出来ない。小南さんとそれほど密にやり取りをした記憶はなかったけれど、長い年月、私たちは断続的に打ち合わせをし、食事をし、小説について話し合い、小説をやり取りし、脱稿してきたのだ。小南さんが私の担当を降りる事に葛藤があったのかどうか、私の知る由はない。彼がどんなに自然に「残念です」と言おうが、私はその言葉を信じないだろう。

 私は別に、小南さんに捨てられた訳ではない。そもそも私と彼はそれほど強い絆を持っていなかったはずだ。しかし圧倒的な虚無感が私を襲う。胸が空洞になったようだった。小南さんは象徴でしかない。段ボールの空きスペースに詰められたエアークッションのように、私の空洞を紛らわしていたものの中の一つが外れ、その他の諸々の詰め物が崩れたことで、空洞が存在感を持っただけだ。

不思議だ。幼い頃から私を苛んでいた虚無感は、輪が埋めてくれるものと思っていた。輪を出産した時、輪との関係性の中で私は圧倒的な自己肯定感を持ち、それ以上の自己肯定を求めず済むと思っていた、でもそれは空白を埋めてくれなかった。私はどこまでいっても、私の小説を未来永劫完璧に完全に完膚なきまでに認めてくれる人がいない限り満たされはしないのだと自覚した。

私は平面型テレビだ。何かを映し出すテレビでしかない。何も映らないテレビがガラクタであるように、私は完膚なきまでに無力だ。私自身と、私の流す番組は繋がっているように見えるが、実際には大きな断絶がある。私は、自分と自分の書く小説との間に、自分でも意外なほどの距離を感じているのだ。それが、私の書く小説を褒められても、私が素直には喜べない所以だ。私が居なければ書かれなかった小説。しかしそれは、私が書く前から存在していた精神の物理的な投影であって、いたことが無力感を抱くことがあるかちどうか知らないが、あるとしたらその感覚に近いのかもしれない。

テレビがアフリカの雄カバの戦いを映し出すその時、テレビが雄カバの戦いを流しているのではなく、私が小説に転写されているのだ。私は卑小で無力な存在だ。私一人では人っこ一人に振り向かせる事の出来ないテレビだ。だから誰かに、その手で触れてもらいたかっただけだ。番組ではなく番組を流すテレビに触れてもらいたかった。番組を流せなければガラクタでしかないテレビに手を触れてもらいたかった。

私は唯のテレビではないと、私は私であると、ただ存在しているだけでいいと言ってほしい。いやもしも私の存在が無くなったとしても、私という概念を愛してくれる人が欲しいのだ。私はそういう無理難題を現実に付加している。だから私は愛されない。誰からも愛されない。私の言う愛は、この世に存在しない。だから私は誰からも愛されない。そして愛されなくても私は絶望しない。これが私の天涯孤独である理由だ。

 どうしたのといきなりと言いながら向かいの席に座ったと同時に、央太は顔を顰め、また焼いた? と聞いた。そうなの焼いたのと言うと、央太は更に眉間の皺を深くし。もう止めなと呆れたように言った。
「で、どうしたいのいきなり」
店員にコーヒーを注文すると、央太はさてと、というように聞いた。
「別にどうもしないよ。いつも普通に食事とかするんじゃない」
「いつもは、もう少し前に連絡するでしょ。今会社に向かっているなんていきなり言われても、俺が打ち合わせ中とかだったらどうしたの?
「ここか、ドトールで待ってた」
 央太は、突然予定を狂わされたせいか、それとも私がまた黒くなっているせいか、分からないけれどとにかく苛立っていた。央太の苛立ちが、私の不安を煽る。私は、央太に歓迎されていないという事実が不安で仕方なかった。

「二十歳くらいならともかく、もう二十五なんだし、肌は焼かない方がいいし髪は黒い方がいいよ。少なくともその方が男にはモテるよ」
「央太ちゃんは私が他の男たちにモテてもいいの?」
「一般論の話だよ。九十%以上の日本人男性は髪が黒い方か好きなんだよ」
「ファッションも髪型もメイクも話し方も話題も、私は最も多くの男に好まれる形が分かっている。それを分かった上で、私は肌を焼いてこんなファッションをしてこんなメイクをしているの」
「そう。まあ、自己主張の強い女は、歳をとるにつれてどんどん男の好みと正反対の外見になっていくものだよ」
「央太ちゃんは私が会いに来たのに何で嬉しくないの?」
「何でって、何で突然って思うでしょ普通」
「何か、私に来て欲しくない理由でもあったの?」
「何もないよ。でも何か、抜き打ちテストみたいで感じで悪いんじゃない」

 私は、自分が突然夫に会いにいくという行為が抜き打ちテストと称される事にひどい侮辱を感じた。自分が愛情ゆえにとった行為を、抜き打ちテストと言われるなんて思ってもみなかった。

「央太だって突然来たりするじゃない。いきなり電話を掛けてきて、これから帰るわとか言うじゃない。それは抜き打ちテストなの?」
「そんなんじゃないよ。何々を取りに行くとか、次の日どこどこの打ち合わせに直行するからとか、いつも理由があっての事でしょ」
「そういう下らない理由は合法で、央太に会いたいからっていう私の理由は罪だって言うの?」
 そんな事言ってないと呟き、央太は顔を曇らせた。なにか、央太の態度がいつもと違うような気がして、不安が増長していくのが分かった。私はいつもそうだ。一度不安になると、他の更に不安になる要素を探しまくり、どん詰まりまで自分を追い込み自分も相手も地獄に突き落としてしまう。
「そう言えば、一昨日の夜私が電話を掛けた時、一回も鳴らずに電話に切り替わったんだけど、あれはどうして?」
「何それ」
「いつもは五回くらいコールが鳴ってから留守電に切り替わるのに、この間はワンコールもせずに留守電に切り替わった」
「電波が届かなかったんじゃないの?」
「電波届かない時は回線を探してるような間があってから留守電に切り替わるけど、この間は掛けてすぐに留守電に切り替わった。そんな事は今までなかった」
「そんな事言われたって分からないよ。それに一昨日は松岡さんと飲んでたって言ったじゃない。それにあの後ちゃんと電話かけ直したじゃない。何でそんな言い掛かりつけられなきゃいけないんだよ」
 隣のテーブルに座るサラリーマンが迷惑そうに私たちを見やった。
「言いがかりじゃない。私はいつもとちがう事の理由を聞いているだけ」
「何か、携帯会社の方でルールが変わったんじゃない? 信じられないなら、今松岡さんに電話かけてみればいいじゃない。それか、店に電話して一昨日閉店までいた客について聞いて見ればいいよ。松岡さんが常連のお店だから、すぐ分かるよ」
「そんな事したくない」
「じゃあもう変な言いがかりつけないでくれよ。何で俺の言う事を信じないんだよ」
「私央太の部屋に行きたい」
 立ち上がって私を見上げて、央太は信じられないといった表情を浮かべた。
「何でそんな顔をするの? 妻が夫の部屋に行くのってそんなに変な事?」
「何だよ止めてくれよ。どうしたんだよ」
「なに、女でも囲ってるの? それとも女の物があるから連れていけないの?」
「そんな事ないよ。何度も言うけど浮気なんてしていないって」
「じゃ連れて行ってよ」
「嫌だよ。そんな脅迫されて部屋見せる見たいな事できない」
 怒りで目や口から火が出そうだった。燃える動物の屍を放りだすようにして、私は声を荒げた。
「どうして見せられないのやましい事がないなら絶対に見せられるはず私を安心させてくれるはずどうしても見せられないのー」
 店中の人たちが私たちを一瞥して、すぐに向き直った。
「落ち着いてくれよ。分かったよ。部屋に行くのはいいけど、汚いからちょっとだけ片付けさせてよ」
「その間に女隠すのか!」
 央太は私の言葉を無視して伝票を持ち、カウンターに向かった。私はバッグを手に取ると先に店を出て、央太が逃げないようにガラス戸から央太の姿を見つめていた。
「会社の人にみられたらどうするんだよ。会社の裏の喫茶店だよ?」
「央太が部屋を見せるのを拒否らなければあんな声出さなかった」
 歩いて三分ほどで、央太の住むマンスリーマンションに到着した。これまでにも、デートの前や食事の後に、私は二度ほど央太の部屋に立ち寄った事があったけど、こんな風に、疑心の中で煮えくり返るはらわたをまき散らしながら央太のマンションに向かうのは初めてだった。エントランスで鍵を回しオートロックを解除すると央太の姿に、私は突然悲しくなって肩を震わせた。

央太が別の部屋の鍵を持っている。央太が私と別の家に住んでいる。央太が私と離れる事を望んでいる。ずっと知っていた事なのに突然その事実が堪えがたくなる。私はこれまで、央太が私にしている事を見て見ぬふりをしてきただけなのかもしれない。私はずっと、悲しかったのかもしれない。でも央太が私と離れる事を望んでいるという現実を直視出来なくて、自分を可哀想な女だと思いたくなくて、別居してもいいという結論を自ら出しているように、自分を演出していたのかもしれない。

「ちょっと待ってよ、ちょっと中片付けるから、ここで女が出て行かないように見張ってればいいでしょ」
央太は、部屋の前まで来るとそう言って、鍵を差し込んだ。ドアを押し開けた央太の背中にどんと体当たりする。前のめりになった央太の脇をすり抜けると、私は洗面所やキッチンのある廊下を通って部屋に入った。点けっぱなしの電気を備え付けの簡素な家具のおかげで、ワンルームの部屋はすっきり見渡せた。

布団をめくって女物の下着ないか、ゴミ箱をかき回して使用済みのコンドームが入っていないか、クローゼットを開けて女が隠れていないか確認して、更に私は床に散乱したAVのパッケージやエロ本やゲームソフトや服を蹴散らした。小さなデスクの脇のチェストを開けると、本や雑誌の隙間に写真が挟んでいるのを見つけて私は発狂しそうなほどの緊張の中で手に取った。十枚ほどの写真は、夫と数人の同僚を写しているだけだった。

「雪田さんの送別会の時の写真だよ」
「てめえふざけんなよ妻と子供を残して優雅にひとり暮らししてオナニーばっかしてんじゃねえよふざけんな惨めで汚ねえ育児とか家事とかばっかり人に押し付けてエロ本とかAVとかばっか見てんじゃねえよたまにはガキのウンコ拭き取ってみろ生ごみの処理してみろガキ風呂に入れてみろトイレトレーニングしてみろこのクソ野郎ふざけんなっ」

 央太は、怒っているのか悲しんでいるのかよく分からない表情で黙ったまま私を見つめている。体がわなわなと震え、涙が溢れた。私は本当は、央太が輪の誕生日に家に帰れないと言った事に、あまりに強烈過ぎて自分で認識出来ないほどの悲しみを感じていたのかもしれない。

「黙って見てんじゃねえよ何とか言えふざけんなコノクソエロ親父私の自由を奪うな私に何でも押し付けんなふざけんな人がどんな思いで育児してのか知ってのか毎日毎日送り迎えして毎朝毎朝六時とか七時に起こされる苦しみを知ってんのかてめえだけが優雅に午後出勤してんじゃねえよふざけんなつもう嫌だ帰って来い別居なんか絶対に許さねえ一刻も早く帰って来い明日引越し屋依頼するから帰って来い私の不幸をお前にも半分請け負うべきだお前の好き勝手になんかさせねえぞお前の精子が輪を作ったんだお前が中だししたから輪が出来たんだお前の意志で作ったんだお前だけ一抜けなんて許さねえだったら輪をどっか施設にでも捨てて来い何でもかんでもきたねえ事惨めな事やりたくない事次から次に押し付けんじゃねえ私はお前のママじゃねえんだぞお前の垂れ流したクソ始末する係じゃねえんだぞ文句があんなら住み込みのベビーシッター雇うくらいの金払えくそ野郎オナニーばっかしてんじゃねえぞゲームやって本読んで優雅な生活してんじゃねえぞこのクソ野郎っ」

 明日の誕生日会もそして明後日のピクニック、などの予定が知らず知らずのうちにプレッシャー、ストレスになっていたのだろうか。いや違う。私はずっと前から、多分輪を出産した頃から、ずっとプレッシャーやストレスに蝕まれ穴があきチーズのようにすかすかになっていたのだ、何故か分からない。でも何故か、今この瞬間チーズは潰れた。

「いやだいやだいやだっ! いやだーー!」
 叫び声が狭いワンルームに反響する。喉が焼けるように痛い。座り込んだまま足をがんがんと床に叩きつけ、央太の物ものを蹴飛ばし蹴散らかしていく。手に触れる物を次から次ベッドや壁に向かって投げた。
「いやだっ!」
 央太は何も言わず私を見ている。
「いやだ―――っ!」
 私はAVのパッケージを開けDVDを引っぺがすようにして取り出し嚙みついた。チューペットを齧るようにがしがしとDVDに歯を食い込ませる。「爆乳淫乱少女」というタイトルが目に入って私は大声でそのタイトルを音読する。「爆乳巨乳爆乳巨乳爆乳巨乳爆乳巨乳」と大声で連呼する。DVDを取り出すとディスクの上にあったハサミで読み取り面をぎたぎたに切りつけた。

「妻子を置いたって巨乳爆乳でオナニー三昧かよいい身分だな」
 私はもう、自分が自分の手に負えない事を悟った。危険を察したのか、央太が私の肩を信じられないような力で掴み、もう片方の手からハサミを奪った。ハサミなんていらねえ死ぬんだったらこっちから飛び降りてやるっ! それともころされんじゃねえかって心配してんのか? 切りつけられてから取り上げろよ女々しい奴! 私は絶唱した。

「じゃあ、俺は会社戻るから」
 帰れ帰れこの部屋はめちゃめちゃにしてお返ししてやるよこの部屋は私から電話して解約しといてやるよお前の荷物全部窓から捨ててやるからなAVは全部玄関のドアに張り付けてやるよ! 一息でそう言った私は大きな息を吸い込むと今自分出せる最大の声で絶唱し、再び服や本を壁に向かって投げつけた。壊れたロボットのように手足をばたつかせ転げるように暴れ回る。もう誰も私を止められない。私も、央太も、どんな人も止められない。

私はここで自殺するような気がした。でも、央太が出て行きバタンとドアの閉じる音がすると、私は脱力して本や服が散らばるベッドに倒れ込んだ。上がった息が落ち着いた頃、ユニットバスに行き排水口の蓋を開いた。黒髪と垢が絡まった汚物には、女の物と思われる髪はなかった。私は化粧を直すとマンションを出てタクシーに乗り込んだ、興奮と緊張が冷めやらず、体が宙に浮いているようだった。体中がびくびくしていて今にもチビりそうだった。

目を閉じて車の揺れに身を委ねていると、建物一つ見当たらない林道を走っているような気になった。どくどくと、体中が脈打つ、奥歯を嚙みしめた。今日私は、ツリーを飲んだだろうか。日サロに行く前の事がもう思い出せない。今朝どんな風にして目覚め、どんな風にして今このタクシーに至ったのか、はっきり思い出せない。何故か頭の中で、輪が好きでよく見ているNHKの教育番組のオープニングソングがエンドレスで流れている。興奮の中目を閉じ無心で爪をぱちぱち鳴らし続けていると突然信号どうしますか、と問われ、私は顔を上げ辺りを見渡した。そこを右に曲がって、次の信号をまた右に曲がって下さい。

そう言うと視線を落とし、私は左手の人差し指に乗った3Dのショートケーキに右手の親指の爪を滑らせた。では何故。一体何故その疑問が頭を反芻する。浮気をしていなのなら何故、央太は私と離れて暮らすことを望むのか。私はもうとうに、央太が別居を切り出した時からその答えを知っているような気がするのだが、その答えは何故か今一言も言葉にならない。

 ドリーズで再会した輪は、何となく私の子ではないような気がした。央太との関係が悪くなると、いつも私は輪が可愛く見えなくなり、輪に対して何かしらの断絶を感じるようになる。頭ではそうするべきと分かっていても、子供を独立した一個人として認識する事は、親にとって常に難しい問題だ。

彼女がいつか、一人で身の回りの事が出来、自身にまつわる様々な決断を自分で下せるようになれば、私は彼女を一個人として認識する事が出来るのだろうか。でもその時、私は彼女を我が子として認識出来るのだろうか。彼女が独立し日常生活を一人で送れるようになったころ、私と彼女との間に、どんな繋がりが残るだろう。かつて生活の世話をしていた、されていた、というウェットな思い出しか残らないのだろうか。

 輪との間に埋めようのない距離を感じながら、私は輪をお風呂に入れ寝かしつけた。明日のため徹底的に部屋を片付け、バナーとモールを吊し、あちこちに風船をくくりつけ、更にリビングの一角を風船の海にし、窓際に室内用ジャングルジムを設置する。飾り付けを始めて一時間半が過ぎやるべき作業を終えてしまうと、私はリビングの真ん中に立ちピンクを基調に飾り付けられた部屋を見渡し、目眩に襲われた。

遣ることが無くなった途端、考えたくない事ばかりが頭に浮かぶ。私が日サロに通ってしまう事、小南さんが私の担当を外れた事、央太の前で取り乱した事、今全てが憂鬱である事、私はツリーを二粒飲み込むと、ベッドにあぐらをかき頭から布団を被った。

 私は真っ暗な央太の部屋に立ち尽くしている。半年前央太がトランクに荷物を詰めてここを出て行ってから、クローゼットと本棚は半分ほど空いている。黒いブランド、ダークブラウンのデスク、ハーマン・ミラーの椅子。デスクの上で煌々と光を放つ僅かな隙間に指を入れ、私は央太のノートパソコンを開いた。青白い光に一瞬目を細めてから、屈んで画面を覗き込む。

大きな画像が映し出され私はそれが何なのかすぐにはわからず眉間に皺を寄せた。それは小さな無毛の女性性器だった。幼女とも言えないほどの小さな女性器で、しばらく見つめた後私はそれが輪の性器だと気づく。性器は画面から少しづつ盛り上がり、私は戸惑いながらデスクに置いてあったペーパーナイフを左手で握り、右の親指と人差し指で小陰唇を広げ丸い刃先を膣に沈めていく。鋭く光るペーパーナイフをずぶずぶと受け入れていく輪の性器を見つめながら、言いようのない恐怖に震える。輪の性器の周りが強烈に発光し始め、私はナイフを握ったまま目を瞑る。何もない真っ白な世界で、手の感覚だけが生々しく伝わってくる。子宮口に到達したのかナイフに柔らかな手応えが走った。

緊張のあまり膝ががくがくして崩れ落ちてしまいそうだった。ナイフの取っ手の先をとんと手の平で突く。ぶすりという感触と共に更に強烈な光が私を焼き尽くすように包みぎりぎりと食いしばる歯ががりっと嫌な音をたてた。ママー! と声がする。産声のような細くて高い声で、ママー! と呼ぶ声がする、その声がこの真っ白な世界で発せられているのか、分からなかった。

真っ白な世界を手探りで、輪を探す。もう二度と輪に会えないと知っている私は、必死に声を張り上げ輪の名前を呼ぶよ。この世に私をママと呼ぶ人は、あの子しかいないのだ。輪しかいないのだ。

 吐き気と頭痛で目を覚ますと、私はベッドから這い出てパソコンを開けた。朝の日課のメールチェックをするものの、央太からのメールは入っていない。当然だ。私は昨日取り乱したし、自分からメールも入れなかった。リビングから物音がして、パソコンを閉じると歓声が聞こえた。うわあ! という声に思わず顔が緩む。
「おはよう」
 既にピンクの風船を大事そうに抱えていた輪は振り返り、ふうしぇん! と声を上げた。
「誕生日おめでとう」
「りんちゃんおたんぞーび?」
「そうだよ。二歳になったんだよ。輪ちゃんお誕生日だから、ママお部屋綺麗にしたの」
「ハッピバースデー?」
「そうだよ。夜は弥生ちゃん一弥が来るから、皆でパーティするんだよ。ケーキも食べようね」
 うんっと声を上げ、輪はジャングルジムと滑り台に向かって走り出した。昨日の断絶が嘘のように、私は輪に強くシンクロした。私の予想通りに動き、予想通りの反応を見せる輪は、やはり私の子供だった。急激に愛おしく、離してはならない気がして、私は輪が滑り台を滑るのを隣で何十分も見つめいた。
「りん」
「うん」
「今日、朝ご飯お店で食べようか」
「お店? いいよっ!」
 私は手早く化粧をして白いニットワンピースに着替えた。白い服を着ると肌の黒さが目立ち、私は鏡を見つめてうんざりすると同時に恍惚とした後、輪の支度を始めた。オムツを替え上着を着せ靴下と靴を履かせる、輪が可愛い。輪が愛おしい。それが全てで、それだけが私の幸福だと思った。今日はベビーカーじゃなくて歩いて行こうか言うと輪は顔を輝かせ、手をつなぐ! と私に手を伸ばした。

 近くのホテルに向かって歩きながら、輪はマンホールやガードレールの汚れや木や草や葉っぱや石や花や駐車場の鎖や自販機やお店の店頭に出ている置物や虫や蟻や通り過ぎる犬やゴミに群がるカラスに気を取られたりちょっかいをだしたり怖がったりあれ何と聞いたり触ったりポケットに入れたり鑑賞したりして、私は輪が立ち止まるたび黙って一緒に立ち止まった。輪がアスファルトの隙間から顔を出す雑草を引き抜きせっせとポケットに詰め込んでいる間、私はドリーズに電話を掛けた。

「もしもし。大槻輪の母ですが」
「おはようございます、山崎です」
「おはようございます。今日はなんですが、お休みさせたいと思いまして」
「どこか、体調を崩されましたか?」
「うえ、誕生日なので、今日一日くらいお休みさせようかと」
「あ、そうでしたね。二歳、おめでとうございます。ではまた明日お待ちしております」
 電話を切ると、私は大きな達成感に浸り、輪を見下ろした。忙しい忙しいと、生後半年で保育園に預け始めてから、ほとんど平日の日中は一緒に過ごしてこなかった。締切が迫っているにも拘わらず半分も書けない連載の原稿が心残りだったけれど、今日は全て輪に捧げようと思った。

 ホテルのラウンジでアメリカンブレックファストを頼むと、輪は興奮したようにラウンジの中のあれこれをあれ何と指差して聞いた。かりかりのベーコンとオムレツ、サラダに三種のパン。まだ吐き気の抜けない私はほとんど食べず、ベーコンや卵を食べられる大きさに切り分け続けた。丸パンにかじりつく輪に、ジャムつける? バターは? と聞き、オレンジジュースが空になったらおかわりは? と聞いた。

輪は私の質問に概ね「うん」と答えた。輪の誕生日という輝かしき朝に、私は満足していた。輪が二歳。輪が生まれて二年が経った。そう思うと感慨深かった。輪は卵やベーコンを存分に食べるとご馳走さまと言ってフォークを置き、クロワッサンにかぶりついた、過度の偏食で、いつもアロエヨーグルトと納豆ばかり食べている輪が、しっかりと食事をしている姿を見ていて清々しい。
「ママ、ほーくえんは?」
「ほーくえんは、今日は行かないよ」
 不思議そうな顔で私を見上げる輪に、私は手を電話のように耳に当てて見せた。
「さっきお電話して、お休みしますって、マリ先生に言ったの」
「ほーくえん、行く」
 私は言葉に詰まり、輪と見つめ合った。自分の表情が、悲しげに崩れていくのが分かる。
「りんちゃんほーくえん行く!」
 一重のきりっとした目と、薄い唇から発せられる細く力強い声が、真剣に主張していた。私は口を開けたまま、何と言って良いのか分からず、一度視線を手元に落としてから「じゃあママ、やっぱり行きます、つてほーくえんにお電話するね」と言った。輪は真剣な表情のまま頷き、私は自分の卑俗さを知る。

担当編集者が担当を外れ、央太が私を拒絶した。だから私は、最も弱く最も判断力のない輪に一方的で身勝手な思いを押し付け輪の自由を奪おうとしたのだ。やっぱり行かせますとドリーズに電話すると、私は輪と手を繋ぎドリーズまで歩いた。今日の夜はパーティだからね、ケーキ食べようね。そう言うと輪はうんっと元気な返事をして私に手を振った。連絡帳忘れましたと言うと私を覗き込んで、山崎先生が大丈夫ですか? と聞く。

「え?」
「ちょっと顔色が悪いような‥‥」
 大丈夫ですちょっと寝不足でと言うと、私はもう振り返りもしない輪の背中に行ってきますと声を掛け保育園を出た。ビルの入り口に立つ警備員に「失礼します」と挨拶したが、彼は男の人に話しかけられていて私の声に気づかないようだった。「僕の気持ちを書いたので読んでください」警備員と通りすがりの男の会話にしては奇妙な台詞だなと思って振り返ると、男はノートのようなものを警備員に差し出していた。

警備員はにやつきながらも明らかに困惑しており、私は一体何が起きているのか把握出来ないまま、それでもその不審な男に顔を見られるのが嫌で目を逸らした。警備員は白髪交じりの五十代と思しきおじさんで、特に格好良くない、男の方は、恐らく三十歳前後、小太りでオタクっぽい服装とリュック。二人ともゲイやバイといった洒落た雰囲気はない。

あの警備員が、あの男が自殺しようとしている時、或いはあの男が何か困っているのを助け、男は感謝の気持ちを伝えるべくノートに謝辞を書き記し持ってきた。という線はどうだろう。私は何となく納得いかない気持ちを抱えたまま、悶々と歩いていた。私の想像は次第にあの男の変態的自慰行為に変わり、次に刃物を持ってドリーズに押し入るあの男の血走った目へと変化していた。

保育士たちは、どこまで子供を庇うだろう。あの人は真っ先に子供を置いて逃げるだろう。あの人は子供を庇って刺されるかもしれない。逃げ足の遅い小さな子供たちが次々に惨殺されていく。訳が分からないままきょとんと事態みつめている輪の細い首を鋭利な刃がえぐる。一撃で絶命せず、声にならない声を上げる輪は男の靴に踏みつけられ、顔を切られる。めためたに切り裂かれた小さな顔は、凄惨な現場を見慣れた警察官でさえ顔を背けるほどだった。

 さっきのホテルに戻ってケーキ屋で予約伝票を渡すと、店員が大きな箱を持って来て蓋を開けた。二段の薄ピンクのショートケーキは、側面にパステルの黄色や碧緑で花や葉が描かれており、芸術的な美しさだった。プレートには「Happy Birthday RIN」と書かれている。子供たちにぐちゃぐちゃにされる様子を思いつつ八千円強のお金を払うと、私は帰路を歩みながらツリーを二粒飲み込んだ。

 郵便受けに不在票が入っているのを見つけ管理人室に宅急便を取りに行くと、巨大な箱を出されああそうかバルーンかと思い出した。台車使いますかと聞かれたけれど、薄い紙で出来た巨大箱は面白いほど軽く、私はケーキの箱をその箱に載せ、ゆっくりと慎重に部屋に向かった。玄関で蓋を開けると、バルーンがふわりと飛び出した。

キティちゃんが一つ、ハートが二つ、星が一つ、ハッピーバースデーと書かれた丸い透明なバルーンの中にはちいさなハートの風船がいくつも入っている。キティを見ると軽く発狂する輪は、これを見たら失神するかもしれない。私はバルーンをリビングに置き、向きを整えた。

 さっき手早く済ませた化粧にがっつり上乗せし、髪を巻く。巻いた髪をアップにすると、私は携帯を手に取り青田さんにメールを打った。「すいません。五回目の原稿の件でご相談です。先月末から体調が悪く原稿が難航しており、更に親戚の急死と水疱瘡かかった子供の看病が重なり、締め切りに間に合うかどうか微妙な所です。もし出来れば次号を休載にさせて頂きたいのですが、ご検討いただきますでしょうか」

私の精神状態を考えれば、今休載にするのは命取りのような気もした。一度休載にしてしまったら、私はもう二度とあの小説の続きを書けないような気がした。でももう書けない。締め切りには間に合わない。絶対無理だ。私は何かを諦めるように送信ボタンを押し、送信しましたというメッセージを確認して携帯を放った。もう後戻りは出来ない、そんな気持ちになった次の瞬間、私は何故休載にしてもらおうと思ったのか、その動機すらよく分からなかった。

 しばらく返信を待っていたけれど、編集長の確認を取ってから連絡してくるだろうと思い直し、パーティの料理の下ごしらえを始めた。ラタトウイユと、チキンの丸焼きの中に入れるスタッフィング、そして冷製スープを仕込んでいく。とんとんとんと軽快な包丁の音が響く。野菜室の中には、上段に入らなかったチキンが一匹丸ごと入れてあって、私は薄肌色のそれを上からじっと見つめてから野菜室を閉じた。材料を切り分け終えた頃、リビングのコンポで流していたハッピーハードコアのコンビレーションアルバムが終わり、小休止もかねて再生ボタンを押しに行った。

再び高速の音楽が鳴り始めると私は寝室のデスクの上にあるペン立ての中から二つのビニール袋を取りだした。この間、CLOSERのパーティだから大量に仕入れたと話すオギちゃんに買わせてと言って破格の値段で買ったMDMAとコカインだった。私はコカインを持ってリビングに戻り、財布からカードを出してテーブルの上で粉を刻み、丸めかけたお札が汚れているのに気づいて、キッチンにあったストローを短く切った。

二筋を左右の穴から吸込むも鼻の入り口についた粉を摘まみ歯根に擦り込む。ストローをとんとんとテーブルにぶつけて粉を落とし、吸い損なった粉をまとめて吸おうとした時、木目テーブルの僅かな亀裂に粉が挟まっているのに気づいてそちらにストローを向ける。思い切り吸い込むものの、粉は中々吸い上がらず亀裂の中で震えるばかりで、私は躍起になって再び大きく吸い込む、鼻水の出始めていた鼻がずーっと音を立てた。その時、音楽の僅かな切れ間にガーッ、という大きな音が聞こえて、私は鼻にストローを突っ込んだままはっとして振り返った。

カーテンが全開になったガラス窓、ゴンドラから手を伸ばして掃除している二人の男の内の一人がじっと私を見ていた。ストローを手に中腰のまま、私は呆然と口を開け彼を見つめる。左右に移動するゴンドラの中からバタン、バタン、と音を立ててスクイジーを窓に滑らせ、男たちはまたガーッという音と共に下へ下がっていった。どうしよう。焦りが胸に渦巻き、次に言葉になって口から出た。

口止めの為にあの男を誘って寝る自分の姿を想像している内、私は体が勝手に動き出すような衝動に駆られ部屋中を歩き回った。どんどんコカインが溶けじわじわと私の意識を緊張させていくのが分かる。帰宅前に飲んだツリーとコカインが溶け合う。私は廊下の壁にぶつかりながら央太の部屋に行き、央太のデスクにパソコンが載っていないのを確認した後、自分部屋に戻ってベッドの上でパソコンを開いた。

強烈な光を浴び、私は昇天するだろうと思った。でもそこに映るのはつまらないメールが並んだメールボックスで、私はインターネットに接続された無修正動画を配信するサイトに飛んだ。無修正動画の中で女性器が揺れる。背面騎乗で揺れる男性器を咥え込んだ女性器のアップを見ながら、私はベット脇に落ちている電マを手に取りスイッチを入れた。どきどきした。コカインのせいかAVのせいか、一人目が射精して、二人目が射精して、シチュエーションが変わっても私は絶頂に達しない。

電マがどんどん熱くなり、私は持ち手をどんどんコードの方へ下げて行く。一本目を途中で止めレイプもののAVを再生すると、女が二人の男から何度も激しく平手打ちされて真っ赤に腫れあがっていくお尻と胸と顔をじっと撮っているシーンから始まった。内容が過激過ぎやしないだろうか。私はそのAVの内容に不信感を抱きながら音量を上げた。

腹を蹴られ嘔吐する女。乱暴に掻き混ぜられる膣口は真っ赤に爛れている。激しいイラマチオをされ再び吐く女、吐き出すたび殴られ、殴られるたび何度も謝る女。すいませんすいません私が悪いんですすみません何でもします許してください何でもしますから。女は自分で自分の顔を殴り始める。女の顔は真っ赤に腫れ上がり、瞼が切れ、口から血を流し、ボクシングでKOされた選手のようだ。

唾を吐きかけられ女は何度もありがとうございますと言う。気持ち悪いんだよっ、という言葉と共に頭を蹴られる女は、頭から垂れた血に塗れてすいませんすみませんと再び謝り始める。抜けないのは私の性器のせいではないこんなAVで抜けるはずがない。私はおかしくない。私は鬼畜じゃない。

頭の中で言い訳をしていると、バシンッ! と大きな音がしてびっくりと飛び上がると同時に電マを放り投げた。どきどきしなが上半身を起こし、布団の中で発火しそうなほど熱を帯びていた電マを見ると、取っ手部分に大きな亀裂が走っていた。まだブーブー音をたてて振動するそれのコンセントを抜くと、部屋がしんとした。いつの間にか、AVも終わっていた。

私はじっと閉じられた遮光カーテンを見つめ、次に俯いた。電マを床に投げ落とすと、マウスを壁に投げつけた。壊れたマウスの破片がいくつか私の体に跳ね返った。パソコンの画面は真っ暗だった。自分で電源を切ったのか、それとも最初から起動しなかったのか。パソコンを閉じると、デスクに戻した。濡れた性器をティシュで拭き、MDMAとコカインをバッグの内ポケットに入れて肩に掛けた。キッチンを通り過ぎる時ゴーッという換気扇の音が大きくなって、玄関に近づくにつれ小さくなっていく。

もう一度央太の部屋を覗いたけれど、デスクの上に央太のパソコンはない。私は慌てて靴を履き家を出た。エレベーターに乗り込み、鏡と監視カメラを見ないように俯いたまま1のボタンを押し、誰も乗り込んで来ない事を祈りながら一階に辿り着くと外に飛び出した。タクシーに乗りたかったけれど人に顔を見られるのが怖かった。私は行く当てもないまま隣駅まで歩き、逃げるようにして店員と話さなくていい自動受け付けと自動精算機のあるインターネットカフェに入った。

こ上がりの個室に入ると、倒れるように横になった、隣の隣か、隣の隣かわからないけれど、カップルがいちゃつく声がする。バッグのまさぐって、いつか買って使わないまま入れっぱなしになっていた耳栓を探すが、勘違いだったのか出したのか捨てたのか、耳栓はない。ふと顔を上げると青い画面に数個のアイコンを表示する備え付けのパソコンがあって、私はぞっとすると同時に右下に目をやり今が五時半である事を知る。

輪を送って帰宅したのが十一時くらい、化粧とコテに一時間、その後一時間か二時間料理をしていたとしても、私は三時間以上AVを見ていた事になる。いや、家からここまで予想以上の時間がかかったのだろうか。ついさっきの記憶が、昨日や一昨日の記憶とごっちゃなっているようだった。

もうとっくにコカインは抜けているはずなのに何故こんなに取り乱しているのか。私はもう、元の私に戻れないような気がして、そんな気がした途端更なる混乱に襲われた。でも元の私とは何だろう。あの窓の清掃員にコカインを吸っているところを見られる前の私、それとも輪を産む前の私、央太の前で取り乱す前の私、あるいは尋常ではないペースで日サロに通い詰める前の私、それとも輪を産む前の私、央太と出会う前の私。

どれも正解の気がして、耐え難い思いもする。私は、どんどん暗く狭い個室の天井を見上げ、私は自分の過去を思い出そうとするものの、何が本当の記憶で何が改竄された記憶で何が妄想で何が現実で何が私にとっての事実で何が他人にとっての事実なのか分からない。このカオスと酩酊は、明日には消えてなくなっているのだろうか。私はじっと、個室の隅で体育座りをした。

保育園には六時にお迎えに行くと言った。それは、五月と涼子が子供をお迎えに来る時間でもあって、私は涼子と五月と子供を連れて五月の車に乗り六人でマンションへ移動する予定だった。明日は午前中に央太がやって来て、輪と三人でピクニックに行く予定だった。そして明後日日曜日はもらったたくさんのプレゼントで輪をゆっくり遊ばせ、私と央太はDVDを観たりこの一週間の話をしたりする予定だった。

そして月曜になれば央太は帰り、輪は保育園に行き、私は締め切りを伸ばしてもらった原稿を書き進める予定だった。輪の誕生日というイベントは、そして過ぎて行く予定だった。私はその予定をめちゃくちゃにするために、全てここまで用意してきたような気がした。レシピ本を見ながら決めたメニューも、モールやバナーや風船などの飾り付けも、予約したケーキやバルーンも、ピクニックのために買った新しいレジャーシートやお弁当箱やバスケットも、全て私の絶望のために私がお膳立てした物のような気がした。

すべては私が仕組み、私が望んだ事だったかも知れない。パソコンの右下を見つめる。六時を迎えようとしていた。崩壊が始まった、私の全てが壊れる日が来た。この日の為に、私は生きて来たのかも知れなかった。体育座りのまま手を伸ばし、バッグの中からMDMAを二粒取り出すと唾液で飲み込んだ。目を瞑って膝を顔に押し付ける。これからどうして良いのか分からなかった。

目的は絶望か。いや絶望の先には希望がある。絶望して初めて、人は起爆出来る、私は、自分の信念を貫こうと固く目を閉じた。やがて、携帯のバイブ音が聞こえ始めた。断続的に、何度も携帯が鳴る。保育園からだろうか。五月と涼子だろうか。それとも保育園から連絡を受けた央太だろうか。

 八時過ぎた頃ネットカフェを出て、二駅分の距離を歩いて新宿に到着した時には九時半を過ぎていた。膝ががくがくして奥歯ががちりと強く噛み合って、体中がひりひりとしていた。時折、ジェットコースターに乗っているような突発的な浮遊感が襲い、そのたびしゃがみ込みそうになる。

ロータリーやゲームセンターで煙草を吸ってうろうろと歩き回り、十一時を過ぎた頃CLOSERに向かった。いつもオギちゃんと来ていた私は、初めてドア代を払って入店しバッグをロッカーに入れた。毎週金曜はオギちゃんが回す日だったけれど、オギちゃんはまだ来ていないようだった。見覚えのある人達にも声を掛けず、カウンターでコーラを買うと隅っこのソファに腰掛けた。爆音光線歓迎の中、一人黙ってコーラを飲む。

私にすっぽかされた五月と涼子。私に放棄された輪。私に迷惑をかけられた央太。皆はどうしてるだろうか。面倒見のいい五月は輪を預かると言うかもしれないが、ドリーズは保護者に確認を取らないまま他人に子供を預けたりしないはずだ。ではやはり央太が重要な打ち合わせをキャンセルして迎えにいくのだろうか。

食いしばった歯が動かない。尻ポケットでまた携帯が振動する。ソファの上に体育座りをして震えながら、我が家の冷蔵庫の中にあるはずの鶏を思う。内臓をくりぬかれた空っぽのお腹にスタッフィングを詰められ丸焼きになるはずだった鶏を思う。パーティ料理の主役になるはずだった鶏を思う。皆に食べられるはずだった鶏を思う。今も冷蔵庫で凍えるあの空っぽの鶏こそが、この世の最も不憫な生き物ように感じられた。

「ユーカ?」
 黙ったまま顔を上げ、私は自分の目の前たっているのがミカだと知る。
「久しぶり。俺最近ずっとアメリカ行っててさ。オギと一緒?」
「ミカ」
「どうしたの元気なさそうだね」
「ミカは薬剤師だったって聞いたけど」
「ああ。昔ね。でも薬剤師の資格とって薬局で少し働いてすぐ辞めちゃったんだ」
「ツリーは、何系の薬なの?」
「ユーカ、すごい顔色だよどうしたの?」
 こわいっ! 怒りに震えるような声が喉の奥から地響きのように空気へ伝わっていった。私は誰かを怒鳴りつけるように叫んでいた。「こわいっ! こわい! こわい! こわいよ!」目を見開き絶叫してミカの腕を掴む。どうしたのどうしたのユーカ僕の事見てごらん僕の目をよく見ると緑がかっているんだよ。ミカの声に僅かずつ顔を上げる。涙がぼろぼろと流れてこわいこわいこわいと、私は口だけで呟き続ける。そして依然、私は何が怖いのか分からない。

「ユーカは、自分に利益を与える人間と付き合うべきだ」
 ミカの言葉に、訳も分からずうんうんと頷き続ける。
「ユーカはもっと他人から自由になるべきだ」
 黙り込み、私は静かに激しく胸を上下させる。

「ユーカどうしてそんなに不自由を望むの? 他人から解放されなければユーカは一生自由になれないよ。いつも何かを我慢して、たまにこうして錯乱する。これを続けていくだけだよ」
 私を覗き込んで言うミカが、恐ろしくなっていく。この人は何のために、こんな事を言っているのだろう。何のために、私を説得してるのだろう。
「あれ? ユカさん?」
 オギちゃんの声が聞こえ、振り返った途端力が抜けてその場にへたり込んだ。
「ユカさんどうしたの?」
 頭を振っているとミカとオギちゃんが何か言い合っているのが聞こえた。言い争っている風でも、冷静に話している風でもなかった。いいよお前が回せよと声がして、私はオギちゃんに腕を引かれて立ち上がった。何故か掴まれた腕から言いようのない悪寒が走った。私は手を振りほどいた。お前ユカさんに何か回しただろうオギちゃんの声がする。ユーカが買うって言ったんだよユーカの意志だよとミカが答える。

でも彼らの声が、現実から聞こえてくる声なのか分からない。高熱が出ているように足元がふらつく。体中が熱かった。脱水症状を起こしているのかもしれないと慌ててコーラを手に取り一気に飲み干した。私に何のドラッグを渡したのか聞くオギちゃんと言わないミカが次第に声を荒げ始める。

オギちゃんかミカか、わからないけどどちらが置いたのであろうジントニックをテーブルから持ち上げるとそれを一気に飲み干した。一歩後ずさると、気持ち良くなって、もう一歩後ずさるともっと気持ち良くなった。私は彼らに背を向けて歩き出した。思うように手が動かず中々差さらない鍵を両手で押し込みロッカーからバッグを出すと、私はCLOSERを飛び出した。

 足を踏み出せば踏み出すほど、頭の中の靄が晴れていく。過去の記憶、過去の思い、過去の苦悩、私はこれまで封印してきた物ものが、十年ぶりに稼働したメリーゴーランドのように軋みながら回り始めるのを感じた。

 かつて央太が批判した抗鬱剤を、央太に出会う前の私は常用していた。セロトニンの再取り込みを阻害し、より多くのセロトニンをシナブスに留めておく、という新型抗鬱剤SSR1の仕組み知った時、私は身体のみでなく精神をも自分自身でコントロールが可能だと知り、一国の王となったようなコントロール感覚に酔いしれた。同じように仕組みでありながら、セロトニンを閉じこめておくだけでなくセロトニンそのものの量を増やすと言われているMDMAの効用を知った時もまた、私は全能感に酔いしれた。

SSR1とMDMAによって、私はいつでも鬱を克服できる。自分自身の意志によって脳内にセロトニンを漂わせておくことが出来る。鬱になる選択すら自分自身で下せる。私はその時初めて、自分の人生は自分のものなのだと思う事が出来。そう思う事で、私は強い自信と力を持つことが出来た。しかし、央太は抗鬱剤を「飲むべきではない」と言った。

抗鬱剤を飲むという選択は自身を「コントロールしている」のではなくより強力なものに「コントロールされている」のだと言った。央太の言葉に、私は確かにある種の救いを感じた。自分自身の中にコントロールできない部分が存在するのだと認める事で、全てをコントロールする事は不可能であると認める事で、私は楽になった。

だがそう思った瞬間私ある種のコントロール感覚を喪失した。そしてそれを喪失した事で不安定になった部分を、央太という、夫という揺らがない存在に委託した。私は、央太の言葉でコントロール感覚を剝奪された事によって外部に委託しなければならなくなった事物の七割を、央太に委託したのだ。しかし七割の内の三・五割ほどは彼が唯一無二の存在でなければ委託出来ない類のもので、恐らく別居を始める直前に夫から送り付けられた、私が永遠に知り得ないはずの夫のモノローグを読んだ瞬間、私は彼を唯一無二の存在として受け入れる事が出来なくなったのだろう。

そうして彼が唯一無二の存在ではなくなり、三・五が委託先から追い出され宙ぶらりんになっていた頃、担当編集者が私をオギちゃんのライブに誘った。私はオギちゃん出会い、彼の唯一無二性に触れ、傾倒し、その三・五を少しずつ依託していった。私は、夫に委託出来なくなった三・五をオギちゃんに委託する事で、再び足場を固めたのだ。もし今夫がオギちゃんとの関係を知り、もう二度と会うなと言ったとしたら、私は二度とオギちゃんに会わないだろう。でも委託先を失った三・五は、人であれ物であれ思想であれ、結局また私にとってある種の唯一無二性を持つ何ものかに依託しなければならないのだ。

 オギちゃんの登場によって、私は再びある種の安定を手に入れたが、恋愛関係ではない私たちを結びつける大きな要素はドラッグだった。私はオギちゃんからドラッグを貰って飲むという行為を続ける事で、オギちゃんとの関係を保つと同時に私自身の依託している部分もまた保っていたのだ。しかし私はミカからツリーを買った。

その時、オギちゃんを通さずにドラッグをやるという選択肢を持ったことで、私は図らずもオギちゃんとの関係性を一方的に変容させてしまったのだ。ぐにゃりと変化したその関係性は、次第に私を蝕んでいった。私は少しずつツリーを乱用し始め、いつしか私の三・五はオギちゃんのコントロール下を離れていった。今回、私の三・五は、私自身の魔の手によって委託先を失ったのだ。いやしかし、考えてみれば央太だって私を拒絶したわけではない。央太の文章を読み、私が一方的に委託を諦めたのだ。夫のせいと言うか、ミカのせいと言うか、オギちゃんのせいと言うか、自分のせいと言うかは、裁量一つだ。

私の三・五は、二度委託先を失った。でもそもそも、その三・五は、央太の言葉によって姿を現した魔物である。それまで自分自身を必死に統合しコントロールしていた頃に戻るべきなのかもしれない。委託先を失い魔物が弱っている今、魔物を檻に閉じ込め自分自身を統制可能な世界へと、導いていくべきかもしれない。でもそれは、私の中から小説を抹殺するという事に等しいような気がした。

 さっきいたネットカフェに戻ると、今度はワード、エクセル導入のリクラインニングソファの個室に入室した。薄い金属板のドアを閉じると、椅子に座りワードの文章ファイルを開き、勢いよくキーボードを叩き始めた。私の魔物は小躍りし、文章はどんどん行数を増やしていく。確かに私は、央太にコントロール感覚、全能感を奪われた時から、空母のような存在となった。何かを受け入れ、何かを送り出す事によってのみその存在に意味が不随する、空母のような存在に。

だからこそ私は、央太のコントロール感覚と全能感を奪われ不安定になって以来、死ぬ気で小説を書いてきた。小説を書くしかないのだと、私は過剰に自分に言い聞かせていた。疲れ切ったと思っていた。もううんざりだと思っていた。もう書きたくないと思っていた。もう空母ではなく、卑小な、一撃で墜落する戦闘機でもいいと思っていた。でも私は、央太にもオギちゃんにも輪にも託せない魔物より強大な敵と対峙する時、小説以外の手段を持っていないのだ。

 もしも央太と出会わなかったら、私はどんなふうに生きていただろう。そう考えられずにいられない。輪の成長や家庭の充足といった現実の幸福が、私の実存的な問題の解決には全く結びつかないという不幸な性質は、央太によって押し付けられた、あるいは増長させられたものであると、私はどこかでそう感じている。五月も涼子も、幸せになる事を目的に生きている。現実的な幸せを求めて生きている。

でも私の総合的な目的は総合的な幸せではない。私はマタニティマークや、マックの募金箱をみて泣くけれど、それは「これで泣く人間」に対する強烈な憧れと劣等感によって流れる涙だ。私も物語に生きたかった。五月や涼子のように、物語の中で生きたかった。幸せになりたい。

幸せになりたい。私は幸せになりたい。でも私の求める幸せは、一生手に入らない。私の求める愛も幸福も充足も、全て小説の中にしかないからだ。私が小説を描き続けるのは幸福を追い求めるからで、小説を書かなくなった時が、幸福をあきらめた時なのだ。

 お昼の十二時を過ぎていた。バッグを持つ手に力が入る。タクシーに乗り込むと、窓から暖かい日差しが差し込み私の太ももを照らす。マンションのエレベーターに乗り込んだ瞬間、私はまだ心の準備が出来ていない事に気が付いた。心の準備をしなきゃと思いながら足は勝手に動き、私は鍵を回してドアを開けた。靴のままリビングに入ると、ママー、と声を上げ輪はソファを飛び降り、走り寄って私の足にしがみついた。ふと振り返ると、キッチンにはザルやボウルやカットされた野菜や包丁がそのままの形で残っている。

たった一日なのに野菜の表面は干からびて見える。ママーと声を上げて私に手を伸ばす輪を抱き上げると、輪はぐずぐずと泣き出した。輪の涙を見るのは一週間ぶりくらいの気がして、そう思った瞬間ああこの子は成長してるんだ日に日に泣かなくなり身の回りの事を自分で出来るようになり言葉も覚え大きくなっているんだという実感が湧いて、私はえも言われぬ感動に浸った。

央太はソファの端に腰掛け、手元の本に視線を落としていたままちらりとも私を見ようともしない、怒っているのだろう。泣いてしがみつく輪を抱えたまま、私はソファの反対の端に腰掛けた。輪が私の胸に顔を埋めているせいか、央太はアンパンマンのDVDを止めてニュースチャンネルを合わせた。女性を刺殺して逃げていた殺人犯が捕まったというニュースが、生中継の映像と共に流れていた。

指名手配の写真が何度も映し出される。若いその男の顔に、私は何故か惹かれた。以前から、この人の写真を見る度に、私はこういう気持ちになっていたのだ。次の瞬間、私は初恋の人を思い出した。彼は、初恋の人に似ていた。指名手配犯人も初恋の人も、左右非対称で片側が崩れているような顔立ちだ。私はそういう男の顔が好きだった。

しかし左右非対称の顔の男は、何故か皆己の中に気持ちの悪いものを持っていて、いつも私に不利益をもたらすのだ。ふとミカの顔を思い出した。ミカは左右対称の顔だ。右側を左側に転写したように、美しく対称的な顔だ。私はふと隣を見る。じっとテレビを見つめる央太の顔は、僅かに左側が歪んでいる。オギちゃんの顔を思い出す。オギちゃんの目は右が一重、左が二重だ。私は、自分に不利益をもたらす二人の男性を、最も近くに置いているのかもしれない。輪の頭を撫でると、頼りない髪の毛が汗で湿っていた。

「じゃあ、三人でピクニックに行こうか」
 明るい声で何かを断ち切るようにそう言うと、うんっ、という輪のシャボン玉のように儚く軽快な声が響いた。私の顔には笑みが張り付いて。もう永遠に剥がれないのではないだろうかと思うほど、それは強固な笑顔だった。
つづく十章 涼子
キーワード 中耳炎、地獄逃避、セックス好きのゴム嫌い、嫉妬心、乳腺炎、乳首を嚙まれる、毎晩三度も四度も夜泣きをされる日々に疲れ、乳管洞が肥大し痛みが増す、